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星草物語  作者: 東陣正則
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馬将譜大会


      馬将譜大会


 翌日は、ひたすら新しい火炎樹を植えるための溝掘りが待っていた。岩を砕き石を掻き出す作業で、作業を始めてほんの半刻で、ウロジイは息が上がり、振り上げたツルハシを途中で落としてしまった。見張っていたグッジョが、ウロジイの腰を棒鞭でバシンと打つ。リウの枝に皮を巻いて作った固い鞭だ。

「何を怠けてる。お前は死ぬまでにしっかり働いて、科を償わないと駄目なんだぞ」

「なんてことをするんだ」

 血相を変えて駆け寄ってきたウィルタの鼻先に、グッジョが鞭を突きつける。

「科者のジンバが、おれに口答えをしようってのか」

 言ってグッジョが棒鞭を振り上げた時、トゥカチが間に割って入った。

「グッジョ、このお年寄りに構ってる暇があるの。明日なんだよ、村の馬将譜大会は。あんた、優勝すれば町に留学させてもらえるって、約束を取り付けてあるんでしょ。溝は私たちがおじいさんの分まで掘るから、あんたはさっさと馬将譜の勉強でもしてな」

 トゥカチに意見されて顔全体に不快な表情を浮かべたグッジョだが、痛いところを突かれたのは確からしく、舌うちしながらも、ウィルタに向けた鞭を下ろした。

「フン、ジンバのくせに偉そうな口をききやがって。いいか、しっかり働けよ。予定通り進んでいなかったら、夜も働かすからな」

 グッジョはウロジイが持っていたツルハシを邪魔だとばかり足で蹴飛ばすと、掘りかけの溝から上がって馬将譜の盤を拡げた。

 穴のなかで、ウィルタと春香がウロジイを助け起こした。

「すまん、もう大丈夫だ。ちょっと目眩がしただけじゃから……」

 気丈にそう言ったものの、ウロジイは歩こうとするとガクッと膝を折ってしまう。

 少し離れたところで成り行きを見ていた大人のジンバたちが声をかけてきた。みな長年の力仕事で、細身ながら芯の強い鋼のような体をしている。

「あんたは杖代わりにショベルを持って立っているだけでいい。あなたの分くらい私たちでやってあげますから」

 その申し出に、ウロジイはしゃがみこんだまま頭を垂れた。

「どうやらお言葉に甘えさせてもらった方が良いみたいじゃ、宜しくお願いします」

「誰でも、けがや病気の時は、お互い様さ」

 そう言って大人のジンバたちは、何事もなかったように、もっこを担いで作業を再開した。


 午後の休憩のあと、二の刻を回ると、山脈から吹き下ろす風が強くなってきた。

「もう少し風が強くなったら、グッジョは外にいるのが我慢できなくなって、帰ろうって言い出すから」と、トゥカチが春香に耳打ちする。これがダコンバさんなら、転んでしまいそうな風でも作業を続けさせるから、軟弱なグッジョが監視をやっていて、数少ない利点なのだという。

 トゥカチの言うように、風で石飛礫が転がり始めると、グッジョが腰を浮かせて帰り支度を始めた。それを見てトゥカチが「ねっ」と、春香に目配せ。

 ほどなく作業は中止。吹きつける風を避けて、毛長牛の厩舎のあるバグリに移動する。午後の後半は、火炎樹の樹液を固めて板を作る作業になった。

 樽に貯蔵してある火炎樹の樹液を大鍋に入れ、凝固剤として特殊な苔の粉末を入れて、下から熱しながら掻き混ぜる。そのドロッとした液体を、石の台に彫られた細長い溝に流し込めば、これが二日ほどで固まって板や角材が出来あがる。これが、この世界でウォトと呼ばれる固形樹脂である。

 理屈でいえば、型さえあればどんな形のものでもできるが、ウォトは高温に弱く、また木より少し硬い程度なので、鉄やアルミなどの金属の代用にはならない。今のところ、主に建材や生活雑貨などが、この火炎樹の樹液を固めて作り出される。以前、春香がズーリィの崩れた家の中で見つけた家具もそう。材料としての天然の木がリウやグングールの細い枝しかないこの時代、かつて木で作られていた物のほとんどは、ウォトの樹脂製品に置き換わっていた。

 ウォトは大変便利な物だが、唯一の欠点は、樹液を煮固める際と、固まったウォトを燃やす際に、異臭が発生することだ。そのせいか、バグリの底にいた毛長牛は、作業の準備が始まるや、すぐに鍋と反対側の壁面に逃げてしまった。

 バグリの上空では風が唸りをあげて吹き荒び、その風の巻き返しが穴に中にも吹き込んでくる。しかし風が作業の際に出る猛烈な臭いを吹き払ってくれるので、こういう天気の日は、実はウォト日和ともいうらしい。

 それでも、初めてこの作業をする春香とウィルタは、一度臭いを吸い込んだだけで、気分が悪くなって、臭いの薄い地面にしゃがみこんでしまった。息をすると、異臭に反発するように胃液が込み上げてくる。毛長牛のさらに後ろの壁にへばりついていたグッジョが、二人の姿を見てけたたましい笑い声をあげた。

 ところがである。意外にも、ウロジイが全くこの臭いを気にしなかった。魚の皮の黴びた臭いを長年嗅ぎ続け、嗅覚が麻痺してしまったのだろうか。ウロジイは、さっき仕事を代ってもらったお礼とばかりに、一人で鍋をかき回し続けた。

 トゥカチが心底驚いたように、大きな目をさらに丸くした。

「今まで、これをやって、ウォトの臭いにあんなに平気でいられる人を初めて見たわ」

 聞こえたのか「お役に立てて何よりです」と、ウロジイが手を振る。

「あまり嬉しそうにやってると、この作業ばっかりやらされるようになるわよ」

「それはそれで結構。少なくともわしには、重いツルハシを振るうよりは快適な仕事じゃ。なにしろ片腕でも何とかやれるでな」

 ニコニコと笑いながら、ウロジイは大釜のドロッとした液体を掻き混ぜ続けた。

 もっともウロジイにして、相当に臭かったのは確かだ。

 夕刻までウォト造りを行い、その後、毛長牛の世話と湯屋の掃除をやって部屋に戻ると、すでに日はとっぷりと暮れていた。

 さすがに一日中作業を続けて、春香もウィルタも足元がふらついていた。

 その二人を、隣村から帰ってきたダコンバが待っていた。手に人相書きが握られている。絵と照らし合わせるように、ダコンバが鋭い目つきで二人を睨んだ。

「お前たち、やはりユカギルの町から逃げてきた二人連れの子供、ウィルタと春香に相違ないな。一週間後にユルツ国の関係者が、お前たちを引き取りにくる。それまでお前たちは、このジンバの小屋から一歩も出てはならん。代わりに作業は免除する」

 ダコンバは、戸口で事の成り行きを見ていたグッジョに、「しっかりこの二人を見張るんだぞ」ときつく言い渡すと、大股で部屋を出ていった。

 グッジョが「逃げるなよ」と、捨てゼリフを吐いて扉を閉めた。

 春香とウィルタがユルツ国のお尋ね者と分かったことで、二人はトゥカチの小屋に閉じ込められた。それに合わせて、ウロジイもトゥカチの部屋に移動。ウロジイの体の状態では、誰か身のまわりの世話をする者が必要だということらしい。

 グッジョが格子の窓から小屋の中を覗いて「逃げるなよ」と、しつこく念を押す。

 肩を怒らせ集会所に向かったグッジョの背中を、トゥカチが厳しい表情で睨んでいた。


 ウィルタと春香はくたくたに疲れて椅子に座りこんだ。ウロジイに至っては、ベッドに倒れ込んで虫の息である。その立ち上がる元気もないウィルタと春香の前で、トゥカチが鼻歌を歌いなが夕餉の支度を始めた。料理は朝と同じ屑餅の粥と川魚の佃煮、それに小指ほどの揚げ餅を一本添えただけの簡素なものだ。

「ご免ね、お手伝いをしなくて、でもトゥカチちゃんて本当にタフね」

 申し訳なさそうに腰を押さえる春香に、トゥカチがツンと伸びた鼻先を更に伸ばす。

「そうでしょ、自慢できるものといったら、この丈夫な体だけだもん」

 配膳だけでもと立ち上がろうとする春香とウィルタを、トゥカチが目で抑え、気遣うように声をかけた。

「いいの座ってて、今日は作業の人数が多かったから、仕事が楽だったの。このくらいで疲れてちゃ、ジンバなんかやってられないもん」

 鼻歌を歌いながら、トゥカチは机の上に夕餉の椀を並び終えた。

 そして夕食。体を使い過ぎて食欲のない春香やウィルタと比べて、トゥカチは普通に食べ、ほとんど一人で喋っていた。

「でも残念だなあ、やっぱり春香ちゃんたち連れて行かれちゃうんだ。いい友達ができたと思ったのに」

 ベッドから起き上がってきたウロジイが、慰めるように言った。

「まあそう言いなさんな、ウィルタくんの話では、ユルツ国の連中の目的は、ウィルタ君の父親であって、ウィルタ君本人じゃない。それに春香ちゃんは、古代人ということで技術復興院が研究のために捜しているらしいが、もしかしたら昔の情報を提供すれば、それで後は、お役御免ということになるかもしれん。もちろん楽観的すぎる考えかもしれんが、わしは氷の底で暮らして、一番大切なことは希望を捨てないことだと思い知ったよ。

 人生はいつ何が起きるやもしれん。春香さんが、直ぐに解放されて、ひょっこりここに戻ってくることだって、あながち夢物語ではなかろう。わしが氷の底から救われたことに較べればな」

 トゥカチが机の上に身を乗り出すようにして聞いた。

「ねっねっ、春香ちゃん、そうなったら会いに来てくれる」

「もちろんよ」

「ぼくだってそうさ、ユルツ国の目的は、ぼくじゃなくて、ぼくの父さんだから。ぼくもすぐに釈放されて、トゥカチさんに会えるようになるさ」

「そうかぁ、でも二人が会いに来てくれても、わたしはジンバだから、自由に会うわけにはいかないし……」

 匙を口元で止め嘆息したトゥカチに、「一つだけ方法があるじゃないか」と、ウロジイが人差し指をスッと上に立てた。

「えーっ、私、グッジョと結婚するなんて死んでも嫌よ」

 とんでもないとばかりに口をへの字に曲げたトゥカチに、ウロジイがその立てた指を左右に振った。

「違う違う、もしこの村の掟が、昔わしが住んでいた町と同じなら、『村の定める競技で秀でたる者はジンバに有らず、村人の尊敬に値する身分を保証されるなり』という条文が、村規に盛り込まれていると思うが」

 指摘を思い起こすように、トゥカチは上目遣いで宙を見つめると、

「ええ、それはあります。この村では、村祭りの時に行われる馬将譜大会で優勝すれば、その者はジンバから解放されるんです」

 痛む腰に顔をしかめつつ目だけは輝かせて、春香がトゥカチに聞いた。

「ねっ、ねっ、その馬将譜の大会には、トゥカチちゃんも参加できるの」

「ええ、身分年令性別一切関係ない大会だから、でもその大会で優勝するのは不可能だわ。私、子供の時に母さんから馬将譜もみっちり仕込まれたの。だから実力的には、この村でも十位以内にいると思う。でもまぐれでも優勝は絶対に無理。長老のオレンガ翁が、この東の荒れ野でも有数の棋士で、あの方には絶対に勝てっこないからよ。去年三回戦で当たって、全然歯が立たなかったもの」

 諦め切ったように話すトゥカチに、ウロジイが入り口脇の戸棚の上に目を向けた。

「あの壁に貼っている棋譜だね」

「ええ、去年私が対戦した時の棋譜です。長老様が得意にしている五方櫓という形なんだけど、私にはどこから攻めていいのか全く分からないの。長老様はある程度実力のある者にしかあの戦法を使わないから、そういう意味では、長老様は私の実力を認めて下さっていると思うんだけど……」

 壁の棋譜から目を逸らし、トゥカチは大きなため息をついた。


 食後も、トゥカチとウロジイは何やら馬将譜の話を続けていた。

 春香とウィルタは、戸口の横に椅子を移動させると、格子の窓から外を見た。竪穴の壁には窓の明かりが並ぶ。下水の水路から湯気が昇り、家々から人のざわめきが零れる。集会所の窓のなかに、うつむき加減に向かい合った人が何組かいる。きっとトゥカチのいう馬将譜を差しているのだろう。遅い時間なのに、水場で洗い物をしている人影も一人二人。小さな子供が歌の練習をしているのか、何度も同じメロディーが繰り返される。旋律のある語りの歌で、朗詩と呼ばれる歌だという。

 穏やかで平凡な村の暮らしが、エグリの竪穴には詰まっている。

 春香とウィルタの二人は、昼間の仕事の脱力感で、ぼんやりと外を眺めていた。

 その二人に気づいたのか、集会所のドアが開いて、ひょろりと痩せた男がトゥカチの小屋に向かって走り出た。グッジョだ。

 戸口まで来ると、グッジョが苛々した顔で怒鳴った。

「外を覗いて何をやってんだ。逃げようなんて思うなよ。まあこの扉の鍵は、外からでないと開かないからな。全く大会前だというのに、おまえたちの監視なんか言いつけられて、こっちはいい迷惑なんだ、部屋の奥にすっ込んでろ」

 言うだけ言うと、グッジョは肩を怒らせ集会所に戻っていった。

 トゥカチが岩を刳り貫いて作った戸棚からお茶の道具を取り出し、「グッジョのやつ、何て」と、窓辺の春香に聞く。

「奥に引っ込んでろって」

 茶葉を取り分けながら、トゥカチが憤慨したように茶筒の蓋をキュッと締めた。

「まったく、生意気なんだから、あいつ。いいわよ、今年は大会の一回戦でグッジョに当たるの、こてんぱんに伸してやるんだから」

「そんなに弱いのあいつ」

「ンーッ、実力は私よりちょい上というところかな。でも気が短いから、長期戦に持ち込めば、まず八割方私の勝ちね」

「フーン、いいライバルなんだ」

 トゥカチは保温用のポットに入ったお湯を、苔茶を入れた足付きの腰高椀に、円を描くように注ぎ入れる。その手並みを、春香が椅子に股がるようにして眺める。

「でもいいなあ、わたし最初ジンバって聞いて、大変な世界だと思っちゃったけど、何もかも人の命令に従うんじゃなくて、普通の人と対等の立場になれることもあるのね。なんだか安心しちゃった」

 腰高椀から立ち昇る湯気に乗って、部屋の中に香苔の香りが漂う。

 トゥカチが、先端に小さな穴の開いた吸い口を腰高椀に差し入れる。金属製のストローのような道具だ。ウロジイは、その腰の高い椀をトゥカチから受け取ると、目を閉じ、吸い口からゆっくりと茶を吸い込んだ。そして自分に言い聞かせるように話し始めた。

「人が人として生きていけば、時として過ちを犯すこともある。故意でなくともな。それはある種、人生の巡り合わせみたいなものだ。そして罪を償う手段を持たない者は、自らを売ることによってジンバとなる。もちろん、飢えを凌ぐためにジンバとなる者もいる。ジンバになれば飯が保障されるからだ。誰もがジンバになる可能性がある。だからこそ救済の道を作っておく。ジンバから元の身分に戻れる道を。それはジンバのためというよりも、ジンバに身を落とすかもしれん自分のためじゃ」

 夕食時に止んでいた風が、また唸り始めた。風が吹くと外の荒地を転がる砂礫の粒が、エグリの穴の中に落ちてくる。雨垂れではなく石垂れである。風の音に、パラパラ、コツコツという音が混じる。その賑やかな音の鳴る壺中村の上空では、そんなことは我知らずとばかりに、下弦の月が安穏と浮んでいた。


 その夜は、奥の部屋にウロジイ、真ん中の部屋に春香とウィルタ、そして入り口脇の小部屋にトゥカチが寝ることになった。

 深夜、ウィルタが水を飲みに部屋を出ると、トゥカチが馬棋譜の盤を前にしたまま机につっぷしていた。脇には明かりを絞った白灯が置かれている。

 起こさないように足音を忍ばせて近づき、ずり落ちていた毛布をトゥカチの肩に掛ける。そのまま摺り足で戸口に向かう。水瓶は入り口脇の竈の横にある。ところが蓋を開けると氷が張っていた。仕方なくウィルタはトゥカチの側に戻ると、机の上の綿入れで包んだ薬缶に手を伸ばした。冷たくなった湯で一口喉を潤す。

 そしてウィルタが棚にコップを戻そうとした時、寝ていると思ったトゥカチが抑えた声で話しかけてきた。

「ウィルタくんは、お父さんの顔を覚えてる?」

 振り向いたウィルタに、顔を起こしたトゥカチの思案げな表情が見えた。

 ウィルタが首を振った。

「二才半の時だから、覚えているような気がするというくらいなんだ。たぶん会っても分からないと思う」

「会いたいと思う?」

「どうだろう、時々それが分からなくなる。ぼくを育ててくれた養母の女性は、父さんに会いに行きなさいって言ってくれた。父さんを救えるのは息子のあなたしかいないからって。どんな父さんか知らないけど、ぼくによって父さんが救われるのなら、ぼくは会うべきだと思ってる。父さんが、ユルツ国にとって、とても重要な立場の人だってことは別にしてさ。それより、これがぼくの本当の気持ちだけど、ぼくは父さんに会って、亡くなった母さんのことを聞きたいんだ」

「そう……」

 うつむいたトゥカチに、ウィルタが遠慮がちに言った。

「明日は大会だろ、体を休めておいた方がいいんじゃないかな」

「ありがとう」

 トゥカチにおやすみを言って部屋の扉に手をかける。そのウィルタに、後ろからトゥカチがポソッと声をかけた。

「ここから、逃げ出す方法があるわよ」


 タクタンペック村に馬将譜大会の日がやって来た。前日の風が嘘のような、静かで穏やかな日和りである。エグリの中は人で溢れていた。年に一度の大会で、近郊の村からも、将棋好きが好勝負を期待して足を運んでいる。

 朝八時の銅鑼の音を合図に試合が始まる。村人全員、それに特別枠で隣村の人たちも何人か参加しての勝ち残り戦、トーナメントである。集会所の内、外、かしこに盤が並べられ、熱戦の火蓋が切って落とされた。

 一回戦、トゥカチとグッジョも盤を挟んで向かい合う。

 昨夜、トゥカチはウィルタに言った。グッジョに正式に求婚されたのだと。大会の一回戦で、グッジョとトゥカチは盤を合わせる。グッジョとしては、トゥカチに敗れれば求婚し難くなるから、それで先に求婚したのだろうと、トゥカチは説明した。

 実は、もしグッジョに正式に求婚されれば、トゥカチはこの村を逃げだすつもりにしていた。この村にはいくつか秘密の抜け穴がある。それをトゥカチは、ジンバの作業であちこち出入りするうちに見つけた。もちろん抜け穴を使って村の外に出たとしても、足に鎖を付けたままでは、逃げおおせる可能性はないに等しい。それに行く当てのないトゥカチは、いずれ捕まり、連れ戻されてグッジョと結婚させられてしまうだろう。

 そこでだ……、

 ウィルタと春香が村から脱走すれば、監視役のグッジョは責任を取らされ、とても結婚どころではなくなるというのだ。もちろん二人を利用するつもりはないのだけれど、と前置きの上で、トゥカチは、逃げるならできるだけの協力はすると言った。その絶好の機会が、馬将譜の大会が一番盛り上がる準決勝、時間でいうと夜の七の刻あたり。

 一回戦、トゥカチは苦戦の末にグッジョを負かした。グッジョのトゥカチを見る目が怒りに満ちていた。そんなことは構わず、トゥカチは満面の笑みを浮かべて小屋に戻ってきた。

「おめでとう、トゥカチちゃん」

「うん、グッジョのやつ、やっぱり必死で勉強してるだけはある。けっこう強かったな。午前中の二回戦までは、お客も少ないからいいけど、午後はお客も増えて、接待で私はこの部屋に戻れないだろうから、うまくやって頂戴」

「ありがとう、ねっ、トゥカチちゃん、次の試合も頑張ってね」

「うん、何とか六回戦の長老様との試合まで、負けないように努力するわ」

 仇敵を打ち負かし、意気揚々と冷えた苔茶で喉を潤すトゥカチの目に、机の上の馬将譜の盤が目に入った。いつものと駒の並びが違っている。

「この駒の配置は……」

 盤面を見つめるトゥカチに、グッジョが乱暴に扉を開けて怒鳴った。

「トゥカチ、隣村の客人だ。さっさと接待に行け」

「分かってる、聞こえてるから、そんなに怒鳴らないでよ」

 トゥカチはわざとゆっくり腰帯を絞め直すと、春香とウィルタに目配せをした。

 グッジョは、トゥカチが外に出ると、部屋のなかに春香とウィルタがいるのを確認して鍵を掛けた。そしてドアの前に椅子を置いて、歴戦の武将のようにドカッと腰を下ろした。もっともそれは見かけ倒しで、グッジョは直ぐに姿勢を崩して居眠りを始めるのだが……。

 接待の合間にトゥカチは試合もこなし、順当に勝ち上がって日も傾き始めた六回戦、長老とトゥカチの試合となった。ちょうどその時、グッジョが背をもたれさせている小屋の扉を、内側から叩く音がした。

「なんだ」

「世話になっているトゥカチさんと長老殿の試合、ぜひ一目拝見したいのだが」

 グッジョが格子窓から部屋のなかを覗くと、戸口に杖をついたウロジイがいた。後ろには春香とウィルタの姿もある。

「おまえはいいが、あの二人は駄目だぞ」

 不機嫌に怒鳴ると、グッジョは面倒そうに扉を開けた。

「すまんな、手数をかけて」

 グッジョは奥の二人を威嚇するように睨み付けると、音をたてて扉を閉めた。

 長老のオレンガ翁とトゥカチの試合は、棋会所の前に作られた特設の舞台で行われる。

 盤上に灯された燭光灯が、向かい合った棋士と馬将譜の盤面を明るく照らし出している。

 ウロジイの視力では駒の動きまでは見えないが、盤に向かい合った二人の様子は伝わってくる。それに盤面に動きがあると同時に、係の者がその手を呼び上げるので、慣れた者は、その声だけで勝負の展開が頭に思い描ける。

 試合は互いが駒の大まかな配置を整え、これから攻撃の手を打ち始めるというところにきていた。長老が得意の五方櫓を組んでいた。もし先攻のトゥカチが一手攻撃の手を遅らせば、逆になだれを打ったように長老の攻撃が開始されるはずだ。

 ウロジイが口の中で呟いた。

「五方櫓を崩すのは難しい。相手の防御の堅さに、こちらも陣営を固めて緻密な攻撃をしようとすると、相手の思う壺にはまる。あの型は、櫓の足を払い、相手がバランスを崩した間合いを見切って、すべての戦力を投入しなければ勝機はない。だがたいていは、足を払うだけでこちらが力を使い果たす。もしくは払った勢いで、こちらもバランスを崩し、相手の弱点を突くだけの余裕が持てない。五方櫓を崩そうとするなら、自分の陣営の崩れる勢いを利用して相手の懐に飛び込む、その一瞬の見切りが必要となる。勝負師としての天性が問われる戦法だ」

 そして毎夜トゥカチが盤の駒を見続け、考えてきた一手もそこにあった。その一手に見上げるほどの乗り越えなければならない壁があった。

 トゥカチは手を握りしめながら、必死で考えていた。その頭のなかに、さっき自室の机の盤上に並べられていた駒の配列が浮かんだ。自分が今まで考えたことのない一手。ただその手を打つのが今なのか、その次なのかが読めなかった。

 トゥカチ自身は手が読めないと思っていた……、

 しかし実は、トゥカチにとっての本当の問題は、別のところにあった。トゥカチがジンバであるということ、そのことに問題の根が潜んでいた。長くジンバを続けていくと、人に命令されることに馴れてしまう。それは自身で判断をすることの必要のない、考える必要のない生活に馴れるということだ。その日々のジンバとしての暮らしが、トゥカチ自身の勝負の判断力、決断力を削いでいた。

 苛立ちながらも、トゥカチは必死で考えていた。

 待つのに飽きたのか、オレンガ翁が盤面から視線を外した。

 数を競うように刻まれた額のしわと、皮膚を破って骨が突き出てきそうなほどに高い鼻梁、そして膝下まで届く長い仙人ひげが、優しい目つきと拮抗するように褐色の面長の顔に威厳を醸し出している。長老の視線が、見物人の最後列にいる老人に届いた。

 答えるように、ウロジイが口元に笑みを浮かべる。

 盤面でパチリと音がした。トゥカチが意を決して駒を打った。

 その手に目を落とし、オレンガ翁は顎の仙人ひげを軽く右手でしごくと「ふむ」と頷いた。そして愉快そうに手の中で駒を転がすや、すぐに次の一手を返した。乾燥した空気の下、盤面で駒が小気味の良い音をはぜる。それは長老が久しく打っていなかった守りの一手だった。取り囲んでいた観衆からどよめきが起きる。

 しかし長老の守りの手は、その一手だけだった。後は怒涛の攻めでトゥカチの城はあっという間に陥落させられた。緊張が取れて気が抜けたように顎を出したトゥカチに、長老が、「来年の対局を楽しみにしておるぞ」と、労いの声をかけた。

 満足げに頬を緩めた長老が、顔を上げて観客席に目を向けると、すでに火炎樹を燃やした老人の姿はそこにはなかった。


 椅子に腰掛けていたグッジョが、戻ってきたウロジイを斜めに見やる。

「どうだ、トゥカチのやつ、あっさり負けただろう」

 意地の悪そうなグッジョの言い草を、ウロジイが軽く受け流した。

「ああ負けた、だが負けて彼女は、大切なものを手に入れたんじゃないかな」

 ウロジイはドアの前で大きなあくびを一つくと、「いや久しぶりに馬将譜の試合を見て楽しかった、今夜はいい夢が見られそうだよ」と、満足そうに言って目を細めた。

 そんな話はどうでもいいとばかりに、グッジョがウロジイを部屋に押し込む。その時、特設会場で歓声が湧き上がる。今大会の上位四人の紹介が始まったのだ。

 乱暴に扉を閉めると、グッジョはふんぞり返るように椅子に腰掛けた。

 そのグッジョが椅子にドカッと腰掛けた時、実は春香とウィルタは、隣の家のドアから外に出て、素早くもう一軒隣の空き家の中に飛び込んでいた。

 トゥカチの暮らしている小屋と隣の家は、床下の物入れで繋がっている。ただ隣の家に移動できても、トゥカチの家の前にグッジョがいるのでは、外に出れば見つかってしまう。そこで、ウロジイがトゥカチの馬将譜を見に行くという口実で外に出る。そして戻ってきてグッジョに話しかけた時、グッジョの視線がウロジイの体で隠れるその瞬間を狙って、隣の家の扉を開けて、抜け穴のあるもう一軒隣の家に移ったのだ。

 その家は、固乳作りや火炎樹の苗作りに使われている小屋で、昼間以外に人が出入りすることはない。その作業小屋の物置に、隠された通路がある。昔この周辺で紛争が絶えなかった頃に作られたもので、敵に襲われた時に外の荒地に脱出するための穴だ。

 二人は素早く小屋の中に体を滑り込ませると、扉を閉めた。

 そしてトゥカチに教えられた戸口横の小部屋に入ろうとして足を止めた。目の前に、人の腕のようなものが、ニョキニョキと突き出ている。思わずその異形の物に見入ってしまう。それは火炎樹の苗だった。

 火炎樹の種は、色、形、サイズともに、ラグビーボールにそっくりである。

 巨大な赤茶色の種は、発芽すると太い茎を真っ直ぐ上に立ち上げ、先端に五本の短い枝を広げる。それがまるで赤ん坊が手の平を広げたように見えることから、火炎樹の苗は掌芽と呼ばれる。二人が目にしたのは、薄暗がりにズラリと並ぶ火炎樹の幼苗、掌芽だった。

 小屋の外で拍手の音が鳴り響く。準決勝が始まったようだ。

 二人は我に返ると、慌てて固乳の貯蔵部屋の扉を開けた。

 かび付けをしている固乳の匂いが鼻につく、細長い部屋だ。床板をめくって、下の穴蔵へ。外に明かりが漏れないよう蓋を戻し、カンテラに火を灯す。

 六畳ほどの空間に、埃の積もった空箱が山積みになっている。油灯を置く壁の窪みの後ろに秘密の通路があるとトゥカチは言った。果たして、埃の積った油皿を除け、背後の壁を押すと、壁が後ろに倒れて四角い通風口のような穴が口を開けた。穴の入り口は、ヒト一人が潜り抜けることのできる程の大きさだが、入ってしまえば中は意外に広く、荒削りのトンネルが奥に続いている。

 入り口の壁を元に戻すと、二人はその穴を出口に向かって歩き出した。


 夜も九の刻をまわり、最後の試合が無事に終了。

 今年も優勝は長老のオレンガ翁だった。

 集会所前の特設会場を中心に、村人と客人たち全員が集まり、その前で祭りの幹事が長老に祝いの言葉を述べようと壇上に歩み出る。するとオレンガ翁が手でそれを遮り、「今宵は、もうひと試合、試合を行いたい」と、声高に申したてた。

「しかし長老様、もう村人は全員試合に参加済み。来客の中で特別に手合せでもしたい方が、いらっしゃるので」

 怪訝な顔で聞き直す幹事の村役に、オレンガ翁が首を横に振った。

「いや、相手は、この村の住人で、まだ試合をしておらん者じゃ」

 見当がつかないのか「はて、そのような者が?」と首を捻る幹事を横目に、オレンガ翁が、祝杯を乗せた盆を運ぶトゥカチを呼び止めた。

「トゥカチや、あの火炎樹を燃やした老人はどこかな。お前の小屋にいるのなら、ここに呼んできてもらおう、手合せを願いたいとな」

 トゥカチは戸惑い気味に盆を共食用の祭卓に置くと、自分の小屋に走った。長老の声を聞いていたのか、グッジョが小屋の鍵を開けようとしていた。

「どういうことだ?」

 首を傾げるグッジョに、トゥカチは何も答えず部屋の中に入った。外の喧騒とは無縁に、ウロジイは、奥の部屋で、ひっそりと腰高椀に吸い口を傾けていた。

「おじいさん、長老様がお呼びです」

 ウロジイは、ふっと顔を上げると、「そうか」と椀を置く。

 足腰が痛むというウロジイにトウカチが肩を貸す。

 支えられるようにして戸口に向かいながら、「二人は無事出発したよ」と、ウロジイがトゥカチにささやいた。

 

 広場では村人がざわついていた。長老のオレンガ翁が特別試合をするという話が、集まった人々の間に伝わったのだ。帰りかけた客も引き返して来る。

 ウロジイが長老の前に足の鎖を引きながら歩み出た。オレンガ翁は、長年着古した藍色の村着をまとっている。それは村の衆のなかでも一番の擦り切れ具合なのだが、背筋の立ったオレンガ翁が着ると、着古した村着が逆に威厳に感じられる。

 オレンガ翁は自慢の仙人ひげを大きく撫で下ろすと、村の衆や他村の客人に呼びかけた。

「皆の衆、このエグリ・タクタンペック村のしきたりでは、年に一度の馬将譜大会には、村の者全員が参加することになっておる。この競技の元では、何人も平等という訳じゃ。しかし今宵、まだこの催しに参加しておらん者がおった。そこでわしがその者の相手をいたそうと思う」

 そう宣言すると空咳を一つつき「どうも今宵は、まだ駒を持ち足りんでの」と、一言つけ加えた。

 ざわめく村人をよそに、オレンガ翁がウロジイの方に向き直る。

「よろしいかな、ご老人」

 トゥカチに付き添われたウロジイは、自分に向けられた村人の好奇の目に腰を引くと、頭を垂れて許しを申し出た。

「私はこの村に来たばかりの科人、それに目を悪くしておって、盤上の駒の動きも良く見えん有様。お手合わせをせよとの申しつけは有り難いが、できれば辞退申し上げたい」

 ところがオレンガ翁は、遠慮がちなウロジイの言葉など意に介さぬ様で、

「先程も言ったように、今日は身分その他一切を問わぬ。目の問題は、誰か補佐役を置いて、駒の動きを口頭で伝えれば良かろう。ご老体にはそれで十分のはず、頭の中に盤が見えておろうからな」

 長老が半ば強引にそう申しつけた。

 頭を垂れたウロジイの視線が、脇の台に置かれた黒塗りの盤に向く。決勝戦の時のみに使われる盤、古代の本物の木で作られた馬将譜の盤である。

 ウロジイは一寸思案げに目を閉じたが、すぐに目を開け「分かりました、それでは一局お相手をさせていただきます」と畏まって返答、面を上げた。

 その時、オレンガ翁とウロジイの視線が一点でぶつかる。

 オレンガ翁が言い渡す。

「トゥカチ、ご老人の側へ、後見を命じる」


 舞台が整い、幹事の村役が口上を述べる。

「それでは本日の特別試合、本年度優勝のオレンガ翁と、えーっ、村の火炎樹を燃やした魚臭い老人との試合を行います」

 紹介の言葉に、周り中からどっと笑いが起きる。ところがその笑いも、試合が始まるや、あっという間に掻き消え、集会所の周りは水を打ったような静けさに変わった。時おり年配の者が漏らすしわぶきと、駒が盤面を叩くパシッという乾いた音が、息を詰めたように見守る無数の瞳を打つ。

 とにかく二人の打つ手が異様に速かった。二人が相手の力量を計るような小手調べを省いているのが良く分かった。二人とも一気に相手を沈めることを考えている。また勝つためにはそれ以外に方法がないと悟ったような駒の運びだった。ウロジイの手を聞いて盤面の駒を動かすトゥカチの動作が、まどろっこしくなるほどの速さだった。

 あっという間に二人は、それぞれ陣地を構築していた。長老は五方櫓、ただしトゥカチとの対戦の時とは少し異なる、前がかりの攻撃的な五方櫓だ。対する老人は、槍本隊とよばれる攻撃のみを目的とした櫓。守りに長けた五方櫓を崩すのではなく、そのまま串刺しのように一息に貫いて、相手を倒そうという布陣である。横でウロジイの指示を聞き、駒を動かしながら、トゥカチは体が震えてくるのを感じていた。

 あっという間に二つの陣形は複雑に交差し合った。ウロジイの槍の先端が長老の櫓の中心にいる王を貫けば、ウロジイの勝ち、外せばウロジイの槍は空中分解してしまう。

 どんな試合でも勝敗の分岐点というものがある。いい勝負師とは、そこを逃さない者のことをいう。誰の目にも、次の一手が、勝負を分けるだろうということが見えていた。

 そして、その次の一手は長老の手の中にあった。

 オレンガ翁が打つべき駒を手にしたまま盤を睨んでいた。トゥカチには長老様が迷っているとは思えなかった。いやむしろこの瞬間を一時でも楽しんでいたい、そう思って駒を打つ手を動かさずにいるように見えた。

 長老が自身に語りかけるように言う。

「思えば長かった、まさか生きている間に、この盤の続きを打つことができるとは……」

「私もだ」と、ウロジイが頷く。

 オレンガ翁が懐かしむように続けた。

「もうあれから、幾年月日が流れたろう。あの時、私は旅先の宿郷で時間を潰すために、馬将譜を指そうと相手を探した。何人かと指したが、その場にいる者はみな取るに足らぬ相手だった。ところが、わしが打つ馬将譜をよそに、一人宿郷の隅で無関心に本を読んでおる者がいた。戦う相手の力量が違い過ぎてばかばかしくなった私は、最後、その男に矛先を向けた。嫌がる相手に一番だけと言って対戦を承諾させたが、打ち始めて驚愕した。強い、べらぼうに強かった。しかし面白かった。馬将譜を指して、あれほどの興奮は初めてだった」

 ウロジイが話を受ける。

「昔、私も似たような経験をした。盤を前にすると時間を忘れるので、休憩に寄った宿で、ほかの客が駒を並べ始めたのを見て、私は、われ関せずと興味のない振りをしていた。それがつい請われて手を出し、あまりの面白さに、あっという間に半日を棒に振る。その半日の遅れを取り戻そうと、街道を外れ、氷原を横断しようとしてクレバスに落ち、人生そのものを棒に振ってしまった」

 顔を上げることなくオレンガ翁は、目の前の髪の薄くなった老人に向かって語りかけた。

「そうであったか、御仁。わしもあの日、結局、馬将譜に熱中したおかげで、都の官吏の試験に遅れ、そのおかげで故郷の寒村で生涯を暮らすことになった。もちろんそのことは少しも後悔しておらんが、あの時、最後の十一番の勝負。これで決着と、勝負の分れ目の一手を指そうとした時、宿屋の女将にいい加減にしろと怒鳴られ店を追い出された。そして寒空の下、結局その対局の相手とは再戦の約束もせずに別れてしまった。それっきりになってしまった一局であったが、あの時、あの迷った一手で果たして自分が勝てたかどうか、それが今生、気に掛かっておった」

「わしも、相手の男が果たしてどのような手で来たであろうかと、そればかりをこの三十七年の間考えてきた」

 長老は顔を上げると、目の前の老人を真っ直ぐに見た。そして言った。

「よいかな御仁、三十七年前の一手、打ちまするぞ」

「存分に」

 盤面にパシリと冴えた音が鳴り響いた。


 結局、試合はウロジイの勝利で終わった。大会の勝者はジンバから平民に戻ることができる。そうオレンガ翁は宣言したが、ウロジイは「今宵の勝負は昔の試合の結果、私はジンバとして自分の犯した罪の償いをしたい」と、オレンガ翁の申し出を辞退した。しかしそれではということで、ウロジイは、身分はジンバのままに、オレンガ翁に直接仕えることになった。なんのことはない、オレンガ翁の馬将譜の相手をするのである。

 ジンバには村全体の仕事への奉仕もあるので、身分としては半身ジンバといったところだろう。そして身分の評価は、来年の大会で決着しようということになった。

 もう明け方近く、大会の片づけを終えてトゥカチが小屋に戻ってくると、奥の小部屋に明かりがついていた。

 扉を叩いて、トゥカチはウロジイの部屋に入った。寝台の端に腰かけウロジイは、小机の上に置いた馬将譜の駒を見ながら、静かに腰高椀に吸口を傾けていた。

「お入り」

 奥の部屋に入ると、トゥカチは老人の脇に腰かけた。

 ウロジイの方から話しかけてきた。

「今頃、あの子たちはどうしておるかな」

「抜け穴は川岸に繋っているはずですから、川沿いを下っていると思うんだけど」

「明日、二人がいなくなったと分かったら、騒ぎになるな」

「ええ、でも……」

 何か言いかけてトゥカチは、茶器の横に置かれた木彫りの彫刻に気づいた。女性の胸像である。

 トゥカチの視線に気づいたのか、ウロジイが木彫りの女性像を手に取った。

「これは私が氷の下に閉じ込められていた時に彫ったもの。子供を宿したまま別れることになった、私の妻じゃ」

 ウロジイの手のなかの像を見ていたトゥカチが、その視線を棚の上に飾ってある念珠に向けた。念珠の中ほどに石彫りの聖母像が付いている。それはこの時代に聖母と呼ばれている細面の女性で、ウロジイの木彫り女性像とは全く別の顔立ちをしている。しかし顔は違うが、石彫りの人物を取り囲むようにして彫られた飾りの葉刻紋様が、木彫りの女性像の台に彫られた紋と同じだった。

 ウロジイが懐かしそうに石彫りの聖母を見やった。

「あれは、昔、私が妻、つまりおまえのおばあちゃんにプレゼントしたものだよ」

「分かってたの」

「ああ、初めて会った時、お前が幼なじみだった妻の若い頃にそっくりだったので驚いた。他人の空似ということもあるが、あの念珠を見て間違いないと思った」

「おじいちゃん……」

 自分を見つめる孫娘の視線に、ウロジイは照れ、茶を口にしようと吸口に手を伸ばした。

 細長い吸口が濡れた目に滲む。ウロジイが独言のように言った。

「わしはもう一生を氷の下で終えるものだとばかり思っていた。それが再び地上に出られて、孫のお前にまで会えるとは。ウィルタくんたちを逃がしたことで、また責められるかもしれん。だがなあに、あのオレンガ翁なら、悪いようにはせんじゃろう。馬将譜というのは、対戦した相手のことは良く分かるからな」

「ええ、きっと……、わたしも長老様と対戦したからそう思います」

 ウロジイは手にした吸口を盆に戻すと、孫娘の肩にそっと手を置いた。


 その頃ウィルタと春香は、トゥカチの言うように川岸の穴から這い出し、川下に向かって歩いていた。足が鎖で繋がれているので歩き難い。それを転ばないように、しかしできるだけ急ぎ足で歩く。

 二人に近づいてくる影があった。四つ足の動物、シロタテガミだ。

「どうやら逃げ出してきたようだな」

「筋肉を使いすぎて節々が痛いけどね」

 春香の答えに、シロタテガミが鼻を鳴らした。

「良いことを教えよう。ここから半刻ほど下った川の砂洲に、あのオレンジ色のいかだが流れ着いている」

「えーっ、それは凄いや。実は、救命いかだが元の場所から消えてたんで、どうしようと思ってたんだ。このままじゃ、明日になって追手が来たら、直ぐに捕まってしまうからさ」

「では行こう、案内する」

「あのう、わたしたちはいいんだけど、シロタテガミさんは山脈の向こうの仲間のところへ戻らなくていいの」

「わしは群れを追われた老いぼれの、はぐれオオカミ。今さら群れに戻ることもできん。それに残り少ない人生、曠野以外の世界を覗いてみるのもいいと思うようになった。しばらくは、おまえたちに付いていく気だ、いいかな」

「えっ、わたしはいいけど」

「ぼくもいいよ、でも腹が空いたからといって、食べないでくれよな」

 春香の通訳に、シロタテガミが歯を剥き出して唸った。

 ウィルタにも、なんとなくそれが狼の笑った顔らしいということが理解できた。

 月明かりに照らされて、二人と一頭が岸辺を歩き、やがて数刻後、川の水面を滑るように救命いかだのフーチン号が流れていった。



第三十三話「ミルコ川」

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