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星草物語  作者: 東陣正則
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壺中村


     壺中村


 朝になった。

 村の徴用役だという痩せぎすの男が、格子の入った小窓から中を覗き、戸口を棒でガンとひと叩きすると、「七の刻から仕事だ」と声を張り上げていった。

 奥の寝室で寝ていた春香は、疲れでボーッとした顔を手の甲で擦ると、むりやり重い体を引き起こした。そして寝台から下りようとしてつんのめった。足首に付けている金属の輪が、寝台の端に引っ掛かったのだ。ほんの小さな金属の輪さえ重く感じる。

 春香が寝ぼけまなこで表の竃部屋に顔を出すと、トゥカチが湯気の立つ鍋を柄の長い匙でかき回していた。トゥカチが意外そうに振り向いた。

「あら、もう半刻は寝ていられたのに、まだ疲れは取れてないでしょ」

 トゥカチが彫りの深い大きな目に笑みを浮かべて言った。

「起きるのなら、瓶に水が汲んであるから、それで顔を洗ってちょうだい。手ぬぐいは壁に吊るしてある乾いたのを選んで、歯磨き用の塩は右の壺の中……」

 トゥカチに言われるままに春香が瓶の水をたらいに汲んで顔を洗っていると、外の広場から人の話し声が聞こえてきた。エグリの岩の壁面に声が反響するのか、すぐ近くで喋っているように聞こえる。茶ガラで煮出したような色の手ぬぐいで顔を拭きながら、扉横の格子の窓から外を覗く。

 壁面に一定の間隔で窓と扉が並んでいる。昨夜は気がつかなかったが、扉の上の段にも廂のついた小窓がある。二階があるのだ。翻って穴ぼこの底、広場の中央には、昨夜三人が尋問を受けた集会所と、石の塔が一本立っている。あのユカギルの正面玄関、培陽門の二本の柱のように、表面に経が彫りこまれた経柱だ。集会所の横には井戸と水場が設けられ、自分と同じ海老茶色の服を着た女性が数人、洗い物をしている。昨夜ウロジイの世話を担当したジンバの女性たちのようだ。あちこちで村人が朝の挨拶を交わし、煙突から立ち昇る煙に、ほのかに餅粥の甘緩やかな匂いが混じる。

 隣の家の扉が開き、ウロジイと大あくびのウィルタが出てきた。

 こざっぱりとした服に着替えたウロジイは、四十年近くにおよぶ暗闇での暮らしのせいか、漂白されたように白い肌で、とても石炭の黒い粉に塗れてだぼだぼのウロコ服を着ていた人物には見えない。それに髪を短く切り揃えた頭は、半分以上禿げ上がっている。しきりに目を瞬いているのは、まだ外の世界の眩しさに目が慣れていないからだろう。

 窓の内側に春香の姿を認めたウロジイが、「おはよう」と朝の挨拶を口にし、慌てて口を押さえた。そして辺りを憚るように声を落して言った。

「ジンバは、公の場では私語を禁じられとるんだったな。だが、挨拶くらいは許してもらえるだろう。なんせ、三十七年ぶりの朝の光なんじゃから」

「目の具合はどうです」

 春香が気遣うように聞くと、

「細かい物はだめだが、光を感じるには十分。それよりも温ったかいのう、日の光は」

 心底嬉しそうに言って、ウロジイが目を細めた。

 穴の底に差し込む朝日が、広くなったウロジイの額に当たって眩しく跳ねた。


 屑餅の入った餅粥を、トゥカチを含めた四人で食べる。

 その朝餉の席で、ウロジイが春香とウィルタに謝罪した。

「すまなかったな、春香さんにウィルタくん。せっかく地の底から出られたというのに、こんなことになって。わしがもう少し気をつけていれば、近くに村があるということは想像できたはずなんじゃが……」

 箸で器の中の実を追いかけていたウィルタが、あっけらかんとした顔で答える。

「仕方ないよ、火炎樹の樹液を燃さなければ、ぼくたち凍え死んじゃってたかもしれないんだから」

「ほんと感謝してるの。だって、氷の底でウロジイに会わなかったらと思うと、ぞっとするもん。ウロジイは、わたしたちにとって、救いの神様みたいなものよ」

 神様とまで言われて、照れ臭そうに禿げた頭を撫で上げると、それでもとウロジイが続けた。

「実は、わしもジンバのおる町で暮らしたことがある。制度が変わっていなければ、それほど酷い扱いは受けんのじゃないかと思う。ジンバは、それを所有しておる家や村にとっては、火炎樹と同じで大切な財産だ。いい財産であればあるほど大事に扱われる。もちろん仕事はきついし、自由があるわけではないがな」

 二人を安心させるべく話を持ち出すと、ウロジイは、黙って粥を口に運んでいるトゥカチに向き直り、「どうだろう、ジンバのお嬢さん、おまえさんの扱いは」と、同意を求めるように話を振った。

 匙を持つ手を止めたトゥカチが「それは……」と、口ごもる。

 ちょうどその時、表の扉が乱暴に叩かれた。

 扉を開ける音に続いて、下顎の張った黒ひげの男が、ずかずかと部屋の中に入ってきた。四肢が鉄でできていそうなガッチリとした体格の男、昨夜ウロジイに水を浴びせかけた、ジンバの作業監督のダコンバだ。

 ダコンバは、手にした金属製の鎖を机の上に置くと、「新入りに鎖を付けろ」と、有無を言わさずトゥカチに命令した。

「今ですか、食事をしているのに」と反抗的に答えたトゥカチに、ダコンバが早くしろとばかり、手にした家畜用のムチを机に打ち付ける。

 仕方なくトゥカチは鎖を手に取り、申し訳なさそうにウロジイの足元にしゃがみこんだ。

「気になさるな、お嬢さん。これでわしも、お嬢さんのお仲間ということじゃ」

 ウロジイの足首で、鎖の輪が足輪の突起にガチッと差し込まれる。

 鎖は肩幅よりもやや長く、先端の括れた突起が足輪の穴に入ると、中の金具に挟まれて抜けなくなるようにできている。

 三人の足がそれぞれ鎖で結ばれたのを確かめると、ダコンバは後ろにいた痩せぎすの若者の腕を掴んで前に引き出した。骨太のダコンバとは対照的に、体の中から骨を抜いたような、しなっとした体つきの青年である。ダコンバが重しの効いた声で言い置く。

「今日の作業は、七の刻からジンバ全員で行う。担当はこのグッジョだ」

 助手のグッジョを紹介すると、ダコンバは足音をたてて部屋から出ていった。追いかけるように部屋から出ていこうとしたグッジョが、扉の手前で振り返ると甲高い声をあげた。

「七の刻、集会所横、洗い場前に集合だ、分かったな」

 食器が飛び上がりそうな音をたてて、グッジョが扉を閉めた。

 トゥカチが、きつい視線で扉を睨むや、激しい言葉を戸口に叩きつけた。

「グッジョのやつ、あのダコンバさんの腰ぎんちゃくで、時々、私たちの作業の監視役をやるの。ダコンバさんは喋り方は厳しいけど、根は優しい人よ。でもあの腰ぎんちゃくは最低、私、大嫌い」

 言い捨てるなり、トゥカチはプイと横に向いた。

 食後、三人は部屋のなかで、実際に鎖で繋がった足を動かしてみた。足を交互に動かすと、カチャカチャと鎖の擦れる音がする。鎖は足首に填めた輪よりも、ずっと軽い感じだ。

 トゥカチの説明では、足輪と鎖、どちらも金属石でできているのだが、足首に填めた輪は特別製で、鉄よりもずっと固く、監督役のダコンバが保管している鍵がなければ、絶対に外すことはできないという。

 この拘束輪を付けると、慣れるまでは足輪に足首が擦れて、靴擦れのようになりやすい。ひと月もすればタコができて気にならなくなるが、それまではなるべくゆったりと同じテンポで歩くようにするのが、足を痛めないコツなのだそうだ。

「もっとも、その歩き方は『ジンバ歩き』と言って、みんなバカにするんだけど……」

 言って立ち上がったトゥカチが、歩き方の手本を見せる。そしてそのまま部屋の入口まで行くと、扉を開けて外に出た。トゥカチに続いて三人も外に出る。

 壺中村の底から見上げる円形の空は、村人の服のように真っ青だ。トゥカチは腰に手を当てて深々と息を吸うと、三人に呼びかけた。

「力仕事をするには天気過ぎるわね。でもここの天気って、ほとんど一年中これなの。これも足輪と同じで慣れるしかないこと。さっ、食事を済ませたら仕事よ」


 七の刻。

 集会所の前にジンバの一同が集まっていた。新顔の春香たちを除く村のジンバは七名。みな働き盛りの大人で、トゥカチ以外は、個人所有のジンバになる。

 ジンバは元々村の共有財産で、村で功労のあった者に報奨として与えられる。ただそれでも、ジンバの使用権の半分は村に残り、月の半分は今日のように村の共同作業に駆り出される。それにもしジンバの所有者が村の法を破った場合などは、ジンバの所有権は取り消され、ジンバはまた村共有の財産に戻される。

 ジンバは、村人の村への忠誠心を引き出す道具のような物だった。

 新入りのジンバ三名を入れた十名に、監視役のダコンバと助手のグッジョを加えた一行は、昨日エグリの底に下りてきた隧道とは逆の、集会所の裏手にある一回り大きな隧道に入った。隧道の先、闇の中にポツリと小さく格子の窓が見える。出口の扉だ。

 その突き当りの扉を開けると、そこも竪穴で、円形の穴の底に、毛長牛の厩舎と作業小屋が数棟、並んでいた。ヨシや苔の少ないこの地方では、たくさんの家畜を飼うことはできない。それでも荷役と乳を搾るために、数頭の毛長牛が穴の底で飼われる。この人の住まいのないエグリを、バグリというそうだ。

 男性のジンバが、壁の窪みに並べた手押し車に鍬などの道具を積み込む。

 白灯を灯して、また出発。

 バグリの壁には、外につながる通路らしき蒲鉾型の穴が幾つか開いている。その一つに、一行は荷車を押して入った。

 歩きながらトゥカチが小声で説明をしてくれる。

 それによると、柔らかい砂岩質のこの土地では簡単に穴が掘れる。ここのエグリでも、主要なものだけで、五本の隧道が様々な方向に掘られており、使われなくなった細い穴や、天井が地上に抜けていない小型のエグリなんかもあるという。それは昔、この辺りがもう少し豊かで、その豊かさを目当てに盗賊が跋扈していた時代に、村人が身を隠すために使ったもので、そういうエグリを特別にモグリと呼ぶそうだ。

 いま通っている天井の高い隧道は、荷馬車の通れる一番大きな穴である。

 緩やかな上り坂を歩き、目が白灯の明かりに慣れてきた頃、出口の明かりが見えてきた。扉を抜けると、そこは集落のあるエグリから川沿いにしばらく下ったところにある、岩山の縁だった。出口の祠に刻まれたタクタンペックと文字で、あの壺中村の名が、エグリ・タクタンペック村ということを知る。祠から坂を一つ越えたところに、隣村のエグリ・ヤントゥック村に続く田舎道が延びていた。


 田舎道を一列に並んで歩く。

 昨日まで闇の中にいたのが嘘のように光は眩しく輝き、風もなく日差しが暖かい。足に鎖さえついていなければ、スキップしたくなるような陽気だ。

 川からは何本もの細い溝が河岸の内側に切れ込んでいる。火炎樹の植栽された溝で、窪地からはみ出すほどに生長した成樹もあれば、まだ小さくて膝の高さしかない幼木もある。この水路のような溝が、エグリ・タクタンペック村の畑なのだ。

 穴の出口からさらに五分下流方向に進むと、川は大きく弧を描いて左に曲がる。その弧の外側に当たる部分が、石ころ一つない、だだっ広いグラウンドのように整地されていた。

 土手の斜面を下ってグランドに下りる。

 そこは本当に均したように平らな地面で、表面に薄く土が堆積し、その土の薄い膜が乾燥してひび割れ、複雑で美しい割れ目の模様を描いていた。半ば捲れ上がった薄い泥の皮は、山脈から吹き下ろしてくる風でカラカラに乾き、歩くとシャリシャリと心地よい音をたてて砕ける。この広場の底の土を掻き取り、集めるのが、今日の仕事だ。週の前半は土をかき集め、週の後半に集めた土を火炎樹の植えられた水路に運ぶのだという。

 監督役のダコンバは、一通り仕事の内容を説明すると、助手のグッジョを残してエグリに戻っていった。

 各自に鍬が渡され作業が始まる。まずは幅広の鍬で土を帯状に掻き集める。鍬を動かしながら、春香はなぜこんなことをするのかと、トゥカチに聞いた。

 話をしている所を見られないように監視役のグッジョに背を向けると、トゥカチが鍬を引きながら教えてくれた。つまりこの広場は遊水池なのだ。

 年に一度、夏の二カ月の間、タクタンペック村の横を流れる川は、オーギュギア山脈の雪融け水を集めて水量を増す。その増水時に川の水はこの広場に流れこみ、九月になって水位が下がるまでの間、山から運んできた微細な土を遊水池の底に沈殿させる。川の水かさが減り、池が干上がって乾燥すると、池の表面に積もった土を掻き集め、風避けの溝まで運ぶ。そして土を盛った溝に、家の中で育てていた火炎樹の苗を植える。

 つまり川が山から運んだ土で火炎樹を育て樹液を採取する。それがこの剥出しの岩肌が続く山脈の東側、乾燥した荒地の川沿いでの暮らし方だった。

「こらーっ、トゥカチ、何をベチャベチャ、くっちゃべってんだ!」

 グッジョが、土手の上で棒を振り上げた。

 トゥカチが鍬を止めて言い返す。

「この娘が鍬の使い方を知らないから、教えているのよ。それともあなたが鍬の振り方を教えるっていうの」

 一瞬口を閉ざしたグッジョは、ふんぞり返るように背を反らすと、「ふん、誰が。新入りに作業のやり方を教えるのは、お前の仕事だ。とにかくさっさと仕事をやれっ!」

 不機嫌な声でわめき散らすと、グッジョは土手の上にドカッと腰を落とした。

 下を向いて鍬で土を掻きながら、トゥカチがフフンと鼻で笑った。

「あいつ体を使う仕事をバカにしてるから、絶対に鍬なんか握らないわよ」

 そう話すトゥカチが、春香の鍬の動きを見て首を傾げた。

「春香ちゃん、あなた、本当に鍬を使ったことがないのね。この鍬はそんなふうに、土を耕すように振っちゃだめ。土を削ぐための鍬なんだから、前後に引いて、土の表面を均すようにしなきゃ」

 指摘され鍬を引くように動かして、春香はなるほどと思った。テニスコートの土均しのようなものだ。使い方に慣れてくると、なかなか面白い。またたく間に土の山ができてくる。それでもまだ、グランドを針の先で引っ掻いたようなもの。このグランドの土を全部掻いて、さらにそれを運ぶとなると、いったい何回ここと川沿いの溝を往復しなければならないのか。考えただけでも気が遠くなる。

 せっせと鍬を動かし始めた春香に、またトゥカチが声をかけた。

「あんまり力を入れてやると、後が続かないわよ。グランドはここだけじゃないんだから」

 トゥカチの話だと、こういう遊水池がまだ他に五つもあるという。春香は思わず手の力が抜けて、鍬を落としそうになった。

 呆然としている春香に、トゥカチが仕事の手本を見せるように、ゆったりとしたリズムで鍬を引く。

「こういうふうに、ちょっと力を抜いてやるのがコツなの。なんたって、あと半年は延々これをやらなきゃ駄目なんだから」

 春香は本当に鍬を持つ力が抜けるような気がした。


 昼食の時間になった。

 それぞれが土手の適当な場所に座りこんで弁当を広げる。大人のジンバは、それぞれ男女がカップルになって座った。三組とも夫婦だそうだ。渡された弁当箱の中身は、屑餅を蒸して固めた握り団子が二つに、小魚の佃煮が添えられたシンプルなものだ。

 それでも朝の粥もそうだったが、ウロジイにとっては、餅の団子を口にするのも三十七年ぶり。ウロジイは目を細め、噛みしめるように口を動かしている。

 土手の離れたところから、監視役のグッジョのぼやく声が風に乗って伝わってきた。

「なんで俺まで、こいつらに付きあって、毎度毎度こんな弁当を食わなきゃならねえんだ」

 その不貞腐れた声にダコンバさんが応じた。作業の進捗状況を確認しに来たらしい。

 ダコンバさんの怒鳴り声が、グッジョの膨れっ面を打つ。

「何を言っている、飯が食えるだけでも感謝しないと駄目なんだぞ。おまえは、ずーっとこの村にいるから分からんだろうが、川沿いにあるタクタンペック村は恵まれた方なんだ。曲がりなりにも山から流れてくる土のおかげで、火炎樹は育つし、川では小魚が獲れる。それに季節になれば、川沿いの湿地に渡り鳥だってやってくる。

 今の時代、自分たちの暮らしている土地のあがりだけで食えるってことは、天に感謝すべきことだ。よそじゃ、食っていくために身売りをしたり、家を捨てたりすることが、当たり前なんだからな」

 諭すように言い聞かせるが、そんな話は聞き飽きたとばかりに、グッジョは食べかけの餅団子をペッと地面に吐き出すと、噛みつくような目をダコンバに向けた。

「だって、南の塁京じゃ、肉はたらふく食えるし、市場には、この世界から消えた果物まで飾ってあるって言うじゃないか。おまけに酒は蒸留酒のいいのが……」

 それ以上言うと許さないぞとばかりに、ダコンバが腰帯に挿してあった鞭を抜いて、グッジョの首筋に当てた。

「あれは特例中の特例。この村から出たこともない若造が、聞きかじったことで偉そうな口を利くんじゃない」

 強い口調で怒鳴りつけると、ダコンバは、グッジョの色白の首を鞭の柄でバシリと叩いた。手加減なしの鋭い音が、離れた場所にいる春香たちまで竦ませる。

「隣のヤントゥック村に用ができた。午後の監督はお前に任せる。不手際がないようにちゃんとやれ」

 きつい口調で命じると、ダコンバはスボンの裾を払うように踵を返した。、

 赤くなった首筋を手で押さえたグッジョが、歪んだ目でダコンバを見送っていた。


 午後の読経の音が、どこからともなく流れてくる。

 上役のダコンバがいないことをこれ幸いと、グッジョは昼の休憩時間が終わる前に作業の開始を告げた。荷車の牽き棒を鍬の柄でガンガン叩く。

「さあ仕事だ仕事。集めた土を道路脇に運んだら、火炎樹を植える穴掘りもやるからな」

「えーっ、今日は、土掻きだけの予定でしょ」

 驚いてトゥカチが抗議すると、グッジョは意地の悪い視線をトゥカチに投げた。

「ダコンバさんがいない時は、俺が責任者だ。仕事の内容は監督役の管轄、お前らは言われたことを黙ってやっていればいいんだ」

 気が立ったように喚くと、グッジョは手にした鞭を威嚇するように振り上げた。とその振りかざした手を宙で止め、空いた逆の手を春香の胸元に伸ばす。とっさに春香が身を引こうとした時には、グッジョは春香の襟元から金属製の鎖を引き出していた。その先には、ウィルタとタタンが氷河の中で見つけた、古代の時計が結んである。

「おまえ、ジンバのくせに……」

 憎々しげな声で春香を威嚇すると、グッジョは鎖から時計を引きちぎった。

「何をするんだ、それは春香ちゃんの……」

 駆け寄ったウィルタの喉に鞭の先端が突きつけられる。

「逆らって殴られたいのか」

 言うなりグッジョは、ウィルタの首の付け根を鞭の柄で打ちすえた。問答無用の一撃に思わずウィルタの腰が砕ける。そのウィルタの首筋で、春香同様、細い金属製の鎖が光る。

 まだ大人になったばかりのグッジョは、柳腰のひょろりとした体格だが、それでもウィルタより頭二つ背が高い。春香の時計に続いて、目敏くウィルタの首に目を留めたグッジョは、ウィルタが身構えた時には、鎖の先に繋がれていた物を強引に掴み出していた。

 旅への激励を込めてタタンがウィルタに贈った紡光メダルである。

「何をする、それは……」

「うるさい、黙ってろ!」

 怒鳴りつけて嘗めるような視線をメダルに寄せる。ところがグッジョには、それがただのくすんだ樹脂製のメダルにしか見えなかったのだろう、汚い物にでも触れたように直ぐに手を離した。そしてウィルタの体を突き飛ばすと、あとは春香から毟り取った時計を手の平に乗せ、しげしげと眺めだした。この時代、時計といえば置時計で、腕時計のような小型のものは、地方ではまず手に入らない貴重なものだ。

「その時計は、春香ちゃんの……」

 言いかけたウィルタを、グッジョが小ばかにしたように鼻先で笑った。

「この時計は俺が預かっておく。返して欲しければ、しっかり仕事をやれ、分かったな」

 有無を言わさず言い捨てると、グッジョは春香の時計を腰のポケットにねじ込んだ。もうこれは自分の物だと言わんばかりの態度、そのグッジョの振る舞いを、ジンバの大人たちが作業の手を止めてじっと見ていた。

 自分に向けられた冷ややかな視線に気づいたグッジョが、形相を変えて鞭を振った。

「何をしてる、さっさと午後の作業に入らないか!」

 癇に触れたようなグッジョの甲高いわめき声が、乾いた遊水地に響き渡る。

 さり気なくウィルタと春香に近づいたウロジイが、「今は何も言わずに作業をした方がいい」と小声で促す。トゥカチも二人に鍬を渡しながら袖を引いた。

 仕方ないとばかりに二人は鍬を受け取ると、グッジョのうるさい声に耳を塞ぎながら、土手を下って遊水地のグラウンドに下りた。

 午後の作業が始まる。

 グッジョは、ジンバたちが作業を始めると、土手に居座るように腰を落とした。

 そして、ジンバの仕事ぶりなどどうでもいいとばかりに、鞄から馬将譜の盤を取り出し駒を並べ始めた。

 その日の作業は、西の地平線に日が傾くまで続いた。


 夜、春香は体中が痛んだ。筋肉痛である。

 体を動かす度に顔をしかめる春香に、トゥカチが寝台に横になるよう勧める。春香が寝台に上がると、トゥカチがそばに来て春香の体を解し始めた。柔らかな手つきだ。かつて学校の課外活動で疲れた春香の手足を、母が揉んでくれたことがあった。その母の手つきに似ている。

 揉み方を誉めると「ジンバは主人の命令で体を揉まされることが多いから、自然と上手くなるの」と、トゥカチが薄く笑った。

 トゥカチは自分のことよりも春香のことが気になるのか、「時計を取られてしまったわね、大事な物じゃなかったの」と、優しい声で聞いてきた。

 トゥカチの話し方に、春香は一つ歳上の従姉妹とお喋りをしていた時のことを思い出した。この世界に目覚めて、同世代の女性と話をするのは初めてだ。

 春香が甘えたような声で言った。

「ううん、いいの。別に失くなったからといって困るもんじゃないから。でも、あのグッジョってやつに取られたのが、しゃくだな」

「あいつね、わたしを自分の嫁にしようとしてるの」

 突然の告白に、春香は思わず「エーッ」と驚きの声を上げる。そして寝台から体を起こしかけた春香の胸を、トゥカチが何でもないことよと押し戻した。

 肩でため息をつくとトゥカチが、「普通、ジンバはジンバ同士で夫婦になるんだけど」と、唐突に話し始めた。どうやら誰かに話を聞いて貰いたかったらしい。

 春香の体を揉み解しながら、トゥカチが話を続ける。

「ジンバは、村人全員の了解があれば、ジンバ以外の人と結婚することもできるの。あいつったら、お前は同じ歳頃のジンバがこの村にいないから、オレが嫁に貰ってやるって、偉そうに言うの。グッジョのやつは村の鼻摘み者で、ここや周辺の村の娘は誰も相手にしないから、それで私なんかに言い寄ってくるのよ。あいつと結婚すれば、私は身分が変わってジンバじゃなくなるけど、でも一生、奴隷以下の人生を送らなければならなくなるわ」

 憤慨した口振りのトゥカチに、春香が真顔で聞いた。

「ジンバの方からそれを、断ることはできるの」

「それができれば、苦労はないんだけど……」

 春香の肩を揉む指先から力を抜くと、トゥカチが投げやりにそう答えた。

 集会所の銅鑼が鳴り響き、その豪快な音の余韻と入れ替わるように読経が始まる。地を這う低い声が、寝台と机以外何もないトゥカチの小屋の中にも入りこんでくる。

「ごめんなさい、嫌なことを聞いちゃったかな。わたし、この世界のこと何も知らないから」

「いいのよ、知りたいことは何でも聞いて、別に隠すようなことないから」

 寝台から立ち上がったトゥカチが、壁の棚に突っ込んである箱を取り出した。箱の中身は端切れの布だ。擦り切れてほつれかけた端布の束が、いくつも押し込んである。トゥカチはそれを引き出すと、机の上に広げて針仕事を始めた。

 机の上の小さな白灯の明かりが逆光となって、トゥカチの縮れた細い黒髪をふわっと浮きたたせる。背中を丸め、うつむき加減に指先を動かすトゥカチの姿は、とても子供には見えず、丸めた背中が背負ってきた人生の風雪を感じさせる。

 寝台の上に横になったまま、春香が遠慮がちに尋ねた。

「ねっ、トゥカチは、どうしてジンバになったの」

 手を止めることなく「売られたの」と、トゥカチが答えた。

 今度こそまずいことを聞いてしまったと思い、春香は慌てて口に手を当てたが、トゥカチは別に気にする風もなく、端切れの布を縫い合わせながら、自分の身の上を語りだした。

 トゥカチは、オーギュギア山脈北端に位置する、仰都アルン・ミラ近郊の囲郷で生まれた。五人兄弟の長女だったが、働き手の父が早くに亡くなり、暮らしに困った母が泣く泣くトゥカチを人買いに売ったのだ。それが八才の時。

「でも……」と、トゥカチは明るく頬に笑みを浮かべた。

「母さんのことは恨んでないわ。母さんがしっかり布の織り方や、料理の作り方を仕込んでくれたおかげで、私、どこに行っても重宝されてるもん。それに、このタクタンペック村は寒村といったって、まだ益しな方なの。最初に連れて行かれた村なんか、ほんとうに貧しい土地だったから、ごはんは三度三度、薄い粥ばかり。二年前にこの村に来てから、ようやく魚や固乳を口にすることが出来るようになったの。おかげで体力が付いたもん。ここに来たばかりの頃なんか、あんまり痩せてたんで、お前は鳥のガラだって、皆にばかにされてたんだから」

 トゥカチは針を動かす手を止めると、白灯の影の映った荒削りの壁を見つめた。

「わたしのおばあちゃんも、若いころに亭主が行方不明になって、そのあと苦労して子供を育てたっていうから、わたしの家系はそういう巡り合わせになってるのかもね」

「でも、自分の子供を売るなんて」

 憤慨している春香を見て、トゥカチは話題を移した。

「ダコンバさんが、昼から隣村に行くって言ってたでしょ。あれ、隣村にユルツ国の手配書が届いているからなの。たぶんあなたたちの素性を確かめに行ったんだと思う。私、あなたがユルツ国の捜している子供じゃなかったらと思うんだけど、でもそういう訳にはいかないんでしょ」

 三つ編みを解して手櫛で梳き流す春香に、トゥカチが眩しげな視線を向けた。

「私、歳の近い友だちがいなかったから、春香ちゃんがここに来てくれたことが嬉しいの」

 そのしみじみとした口ぶりに、春香は寝台から身を乗り出した。

「わたしもよ。ずーっと、ウィルタと一緒だったから……、あっ、でも別にウィルタと一緒にいるのが嫌だってことじゃないんだけど。ウィルタはね、私を氷の中から目覚めさせてくれた人だから、特別なの」

「えーっ、やっぱりあなたなの。噂で聞いた、氷の中から蘇った古代のお姫様って」

 トゥカチのお姫様という言葉に、春香は顔を赤らめた。

 二人の会話に割り込むように、夜の八の刻を告げる鐘の音が鳴った。

「大変、こんな時間だ、明日は溝堀りで大変だから、もう寝なくちゃ」

 急いた調子で言うと、トゥカチは白灯を消して、壁際に置いてある皿灯に火をつけた。赤い小さな炎が、壁のざらざらとした質感を陰影深く浮かび上がらせる。

 机に肘をつき頭を垂れて、トゥカチが眠りにつく前の夜の読経を始める。壁の窪みに立てかけたリウの枝には念珠が下げてある。その念珠の先に結びつけられた石彫りの聖母像に向かって、トゥカチは経を詠唱。岩肌が剥出しの暗い室内で、小さな皿灯の明かりに照らされて一心に祈りを捧げるトゥカチの姿を、なぜだか分からないが春香は羨ましいものに感じていた。



第三十二話「馬将譜大会」

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