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星草物語  作者: 東陣正則
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火炎樹


     火炎樹


 骨の髄まで凍えそうな冷気と、頬に触れるザラッとした感触で、春香は目を覚ました。暗闇のなか、頭の上に何かがへばりつくように覆い被さっている。救命いかだの天井のシートだ。それに頬にザラッとしたものが……、

 頭のなかに、シロタテガミの声がした。

「外が見たい。いかだが揺れていないということは、どこか岸にでも流れ着いたのだろう。オオカミの足では、出入口のファスナーを動かすことはできん、開けてくれ」

 春香は体を少し捻ってみた。

 いかだの底、マット越しに、石が転がっているようなデコボコを感じる。ファスナーを探ると、顔のすぐ横にそれはあった。濡れて手に貼りついた手袋を脱ぐのももどかしく、ファスナーの内側のフックを引き下ろす。さらに外側のフック……。

 と思わず春香は息を呑んだ。左右にパックリと開いたシートの間に、星が瞬いていたのだ。それは昼と錯覚しそうな程の明るい煌きだ。

 地の底から出られた。

 春香は身じろぎもせずに、その星の瞬きを見つめた。

「クシュン」

 体の内側から込み上げてきた震えで、堪らずくしゃみをつく。

 ファスナーが二重になっていたとはいえ、猛烈な渦の圧力で救命いかだの中に水が浸み込んでいる。その水を吸った服が冷気で凍り始めていた。

 体がとめどなく震え、歯がガチガチと音を立てて鳴る。

春香の右と左で続けざまにくしゃみが炸裂。流れ込んできた冷気で、ウィルタとウロジイが意識を取り戻したのだ。体を起こした二人が、いかだの外に顔を突き出す。

「星って、こんなに明るいものだったんだ」

 ウィルタが泣きそうな顔で星空を見上げた。

「そうか、星か……、星が見えておるのか、なんとなく分かるぞ、頭の上が明るい」

 寒さなのか喜びなのか、声が震えて、言葉が切れ切れになってしまう。良く見ようと、ウロジイはしきりに手で目を擦るが、長年の薄闇の暮らしで低下した視力では、星の瞬きの一つ一つまでは見分けられないようだ。しかしそんなことはお構いなく、ウロジイは満足そうに顔を頭上に向けたまま、外の冷気を精一杯胸の内に吸いこんだ。

「この空気の匂い、それにこの風……、風がわしの顔を撫でておる。感じるぞ、大地の匂いだ、三十七年ぶりの大地の匂いだ」

 春香とウィルタも目を閉じ、外の空気を胸の中に送り込んだ。地の底の湿気を孕んだ重い空気ではない。乾いた新鮮な風が肺の中に染み渡る。

 と三人、そしてシロタテガミまでが、同時に派手なくしゃみをついた。

「いかん、いかん」と、ウロジイが自分の頬を両手で擦った。

「このままでは、せっかく地の底から出られたというのに、凍えてしまう」

 ウロジイは救命いかだから身を乗り出すと、辺りを見まわした。

 子どもの頭ほどの石がゴロゴロと転がる河岸の一角に、フーチン号は流れ着いていた。川は緩やかに蛇行している。石を投げてなんとか対岸に届くほどの川幅で、対岸には砂洲が広がり、こちら側には石の転がる河岸と水に抉られた小さな崖が続いている。

 三人はフーチン号を岸辺の砂利の上に引き上げると、河岸の崖をよじ上った。

 それこそ何もないゴツゴツとした岩肌の丘陵が、どこまでも続いている。振り返ると、川は岩の原野を削り取るようにして流れている。地底の湖から流れ出て、そのままかなりの距離を下ったらしく、はるか先にオーギュギア山脈の白い稜線が連なっていた。

 その稜線にかかる星を見て、ウィルタが素っ頓狂な声を上げた。

「星座の形が変だと思ってたら、位置が逆になってる。北東にあるはずの臼座が南西にあって、南西にあるはずの角牛座が北東に……」

 ウロジイがくつくつと笑いながら、ウィルタに説明した。

「あれでいいんじゃ、なんせわしらは山脈を潜り抜けて、反対側に出てきたんだからな」

 もう一度驚きの声を上げるウィルタの前で、ウロジイが身を縮めた。

「こりゃまずい。何か燃やすものを見つけて暖を取らねば、本当に体が凍りつく」

 山脈から吹き下ろしてくる風に煽られると、立っていられないほど寒さが身に染みる。濡れた衣服が凍り付き、頭の奥がジンジンと痛んで、顔から血の気が引いていく。

 それが体を暖めなければと辺りを見回しても、あるのは武骨な岩ばかりで、燃やせそうなものは何もない。岩の隙間に小さな苔が申し訳ていどに生えているだけだ。焚火をしようと思えば、苔を集める間にこちらが凍えてしまうだろう。川の対岸に目を凝らしてみても、向こうもこちら側と同じで、砂洲の後ろに広がるのは、何もない岩の原野だ。

 ドゥルー海の北岸を西から東に向かって流れる湿った冷気は、オーギュギア山脈の西斜面に雪を降らせたあと、乾いた風となって東の平原に吹き下ろす。その結果、山脈の西側には湿潤な苔の原野が、東側にはほとんど雨や雪の降らない乾燥した原野が発達する。乾いた原野では、苔も窪地や川沿いの湿気のある場所にしか生えない。

 堪らずウィルタが足踏みを始めた。

「だめだよウロジイ、とにかく何か燃やそう」

「わたし、二度と冷凍人間になんてなりたくない!」

 春香が両腕で体をきつく抱きかかえて叫んだ。

 とにかく歯がガチガチと鳴って、震えが止まらない。しかし自分たちの持ちもので燃やせる物といえば、衣類を除けば、ウロジイの持っているカンテラ用の魚油が瓶に半分と、木彫りの像が一体、それっきりだ。

 身を寄せ合うようにして足踏みを始めた春香とウィルタを横目に、ウロジイは脇に転がる踏み台のような岩に上がった。そして背を伸ばし、視力の落ちた目を細めて探るように辺りを見まわす。ところが、やはり良く見えないのだろう、困ったように首を振ると、子供たちを手招きした。

「聞いてくれ、残念じゃが、わしのぼんくらな目玉では、大地の起伏ぐらいしか分からん。じゃが、お前さんらの目なら分かるはず。荒地のどこかに、細い溝のような窪地が見えんか。あるとすれば、川から繋がった水路のように見えるはずだ、探してみてくれ」

 ウロジイの横に立つと、二人は足踏みをしながら川沿いの平原に目を凝らした。

 すぐにウィルタが声を上げた。確かにウロジイの言うように、荒地に向かって川から溝のようなものが切れ込んでいる。

「あった、たぶんあのことかな」

 ウィルタが手で示した方向に春香も顔を向けた。

「ほんとうだ、溝かどうか分かんないけど、窪みが同じくらいの間隔で並んでる」

それを聞いて「よし、そこに行くぞ」と、ウロジイが掛け声も勇ましく荷物を取り上げた。しかし気持ちはあっても足がついていかないのか、前のめりによろけて踏み台代わりの石から転げ落ちる。それを慌てて春香が引き起こす。

 春香の肩に半身を預けるようにして歩くウロジイのあとを、ウィルタが三人分の荷物を担いで続く。溝から食み出た箒の先のようなものが見えてきた。

 数分後、三人はその窪みの縁に立っていた。

 それは明らかに人工的に掘られた溝だった。川に繋がっているため水路のようにも見えるが、水はない。深さは大人の背丈の倍、幅が更にその倍ほどの溝が、川筋から荒地に向かって何本も伸びている。その溝の中に、大人が二人で抱えても手が届きそうもない、太い丸太のようなものが並んでいた。

 ウィルタが「そうか、火炎樹だ!」と、足踏みをしながら手を打った。

 ウロジイが、よしよしと頷く。

 ウロジイに促されて、三人は溝の斜面をズルズルと滑り下りた。

 溝の下に立ち、寸胴の木のようなものを見上げると、その異様さがよく分かる。ドラム缶の倍はありそうな太い幹が地面から直立、三メートルほどの高さで葉のない短い枝を密生させている。溝の上にはみ出して見えていたのは、細かい樹冠の枝だった。それは木というよりも巨大な多肉植物のようなもので、春香は子供の頃に図鑑で見たバオバブの木を思い出した。その寸胴の木が、水路の奥に向かって点々と並んでいる。

 ウロジイは拳の背でコツコツと幹を叩くと、安心したように振り向いた。

「よし、この木は生きておる。所有者はおるじゃろうが、今は緊急時、持ち主には後で断るとして使わせてもらおう。ウィルタ君や、すまんがもう一度上に上がって、岩の間に生えている苔を集めてきてくれ、焚き付けに使う」

「グシュン!」と、くしゃみで返事をすると、ウィルタは一目散に溝を駆け上がった。

 体を震わせている春香の前で、ウロジイは胸に吊したケースから先のすり減ったナイフを取り出すと、ウィルタが火炎樹と呼んだ木の幹に、その刃先を押しつけた。そして全身の力をナイフに込める。。

 堅い幹らしく、ナイフを引くウロジイの口元から、歯と歯が擦れるギリギリという音がこぼれる。人の肩幅ほどの傷を斜めに入れる。上から等間隔に十本ほど。すぐに傷口から、ねっとりとした黒い樹液が滲み出してきた。

 ウロジイは一番下の傷にナイフを寝かせ気味に突き立てると、「何でもいい、容器を出してくれ」と、春香に指示。受け取った鍋を、ナイフの真下に置いた。

 それぞれの傷から滲み出た黒い樹液は、傷口に沿って垂れながら集まり、最後ナイフを伝って鍋の中に滴り落ちる。十分ほどすると、鍋の底が見えないくらいに、黒いドロドロとした樹液が溜まってきた。

 そこに苔を両手に握り締めたウィルタが戻ってきた。

 ウィルタに手順を示しながら、ウロジイ自身も素早く手を動かす。

 地面に浅い穴を掘って半量の苔を置き、カンテラ用の魚油をかけて火をつける。乾いた苔が赤い糸を引いて燃え始める。炎が拳ほどの大きさに膨らむのを待って、黒い樹液を吸わせた残りの苔を上に乗せる。慎重に息を吹きかけていくと、やがて樹液を含んだ苔の表面を淡い炎の膜が包み、赤い炎が立ち上がってくる。染み込ませた火炎樹の樹液に火が回ったのだ。あとは鍋に溜まった樹液を、適宜、焚火の穴に注ぎ入れればいい。

 火炎樹の樹液は発火点が高く、直ぐには火がつかない。けれど一度着火すれば、火力が強いために、放っておいても樹液が無くなるまで燃え続ける。

「魚油なんかとは較べ物にならんくらい強い火じゃ」

 ウロジイが、これでオーケーとばかりに吹き掛けていた息を止めた。

 煤けた黒い煙が徐々に減り、ほどなく火柱が立ち上がって、焚き火を囲む三人を赤々と照らしだした。溝の中なので炎が風で揺らぐこともない。三人は火に炙られるぎりぎりの所まで体を寄せた。シロタテガミも暖を求めるように三人の間に割り込んできた。

 火力が強いため、炎に炙られる側は、凍っていた服が融けて体にまとわりつく。対して背中側は凍えたままだ。ウロジイが春香に勧めた。

「お譲さん、わしゃ背を向けとくで、気にせずに服を脱ぎなされ。服の表面だけを温めても何にもならん。火力のあるうちに、先に体を乾かすことじゃ」

「そうだよ、ぼくも後ろを向いてるからさ」

 強引に勧めると、ウィルタは服を脱いで、裸の背を火に向けた。

 服を絞ると、融けた氷が水になって滴り落ちる。

 さすがに裸にはならなかったが、春香は上着を脱ぐと、下着姿のまま火に体を寄せた。

 ほどなく濡れた体と下着から湯気が昇り始める。しかし火に炙られる側と反対側では、真夏と真冬ほども違いがある。体全体を温めようとすると、小まめに体の向きを変えなければならない。それはウィルタもウロジイも同じで、そのうち春香に気を遣うことも忘れて、体の向きをせっせと入れ替え始めた。

 交代で鍋に溜まった樹液を火に注ぐ。

 その頃には、シロタテガミは後ろに下がって、人間たちの様子を不思議なものでも見るように眺めていた。濡れそぼった毛がフワッと膨らんでいるのを見ると、もう十分温まったのだろう、毛ずくろいを始めた。

 体の震えが止まり、体が芯から温まってくるに連れて、三人の表情が和んできた。凍りついた心までが、柔らかく融かされていくような気がする。

 肌に赤みの差してきた春香が、頬にえくぼを浮かべた。

「わたしたち、まるで焼き魚みたいね」

「それなら、ぼくは薫製だな」

 風下にいたウィルタが、自分の方に流れてくる煙を手で払いながら、別にそれが嫌じゃないとばかりに明るく言い添えた。

 一通り体が温まると、三人は周辺に転がる石を火の周りに積み上げ、その上に濡れた服を広げた。しばらくすると、その服からも湯気が昇り始める。

 生乾きだったが、春香はセーターの袖に手を通した。毛糸の温もりに肌が包まれると、それだけで目を細めたくなる。三人はこれまでの緊張と疲れがどっと吹き出してきたように、火に当たりながら、うつらうつらと首を揺らせ始めた。

 ところが、その居眠りを始めた三人の傍らで、樹液を受ける鍋から溢れた樹液が、触手を伸ばすようにじわじわと焚火に向かって伸びていたのだ。

 そして、ウィルタがシロタテガミの唸り声で顔を上げた時には、赤い炎が火炎樹の樹幹を包むように走り上っていた。

「いかん、火炎樹に火が移った!」

 ウロジイが跳ね起きる。と同時に、溝の上、三人の背後で甲高い声が上がった。

「大変だ、火炎樹が燃えているぞ!」

「人がいる。よそ者が火をつけた!」

 炎に包まれた樹幹が辺りを赤く染めるなか、罵声と共に、手に手に棒を持った男たちが窪地の斜面を駆け下りてきた。


 男たちに前後を挟まれる形で、春香とウィルタ、それにウロジイの三人が、川沿いの道を連行される。一行が着いたのは、岩の窪みに設けられた祠だ。扉を開けると、中に人が二人並んで通れるくらいのトンネルが口を開けていた。

 背を押され、三人はトンネルに入った。

 その様子を近くの岩陰から見ている者がいた。シロタテガミである。

 先ほど、男たちが土手の上に現れた時、それを敏感に察知したシロタテガミは、素早く溝の奥に姿を隠した。そして引き立てられる三人の後ろを、気づかれないように付けてきたのだ。

 一行の姿が祠の中に消え、扉が閉まるのを見届けると、シロタテガミは耳をピンと立てた。音の方向に耳介を向ける必要もないほどに、人が動き回る雑然とした気配が伝わってくる。それに濃厚な人の匂いも……。

 シロタテガミが、その音と匂いの方向に足を向けた。

 数分後、シロタテガミの前に、地面に開いた大きな穴が現れた。

 円筒形に掘り下げられた穴の壁面に、窓や扉が並んでいる。山脈からの吹き下ろしの風の通り道にあたるこの地方では、強風を避けるために、半地下式の集合住宅が作られる。原野を見渡して、どこにも家の明かりが見えなかったのは、人の住まいが地面の下にあったからで、この半地下式の集落を、この地方では壺中村エグリと呼んでいる。オーギュギア山脈東麓の乾燥した原野に見られる集落である。

 シロタテガミは、風向きに注意しながらエグリの大穴に近づくと、その縁にしゃがみこんだ。タイミングを合わせたように、穴底の扉が開いて、囚われの三人を連れた一行が姿を見せた。穴底の壁面に開いた窓や扉から村人が顔を覗かせ、好奇心丸出しの熱い視線を注ぐ。その村人たちの周りで、犬たちが一斉に怯えた声で吠え始めた。エグリの住人は、犬たちの反応を連行したよそ者のせいと受け取ったようだが、シロタテガミは、三人が穴底の中央、円形の建物に入るのを見届けると、用心深くその場を離れた


 直径五十メートル、深さ二十メートルほどのエグリの穴の底は、全くの平板ではない。貴石を求めて掘られた穴を拡充して作られたエグリの竪穴は、中央が一段高く削り残され、そこに集会所として使われる丸屋根の建物が建っている。

 正面の大扉が開いて男たちが頭を突き出した。

 目を擦り、口をパクパクと開け閉めしている。

 男たちは、鮮やかな藍色の筒袖襟なしの村着を着込み、額に額帯と呼ばれる刺繍の入った髪留めの帯を巻いている。新たに集会所から飛び出してきた男が、その額帯をむしり取ると、ゼエゼエと荒い息をついた。

「たまらねえ、何だあの臭いは!」

 息を継いでいる男たちの右手、集会所の格子の入った窓際では、村の子供たちが中を覗きこんでは、笑い転げ、たしなめに来た女たちに頭を小突かれている。しかしその女たちも、窓の中の光景を見やって、思わず笑いを漏らした。

 集会所の中では、よそ者の三人が、縄で逆手小手に縛られ床に座らされていた。その三人、ウロジイと春香とウィルタを取り囲むように、村の男たちが丸茣蓙の上にあぐらをかいて座っているのだが、みな一様に口を手で塞ぎ、苦悶の表情を浮かべている。まるで我慢大会でもしているような光景だ。

 男たちがしきりに目をしばたく。涙が出て止まらないのか、手拭いや袖口で目頭を押さえる。一人が咽るように咳をつくと、連鎖反応のように咳の渦が起きた。

 全ては目の前のウロジイの体から発散される、異様な臭気のせいだった。

 氷の底を流されている間に、ウロジイは伸び放題になっていた髪とひげを、ばっさりと切り落とした。それに衣類も昔着ていた官服に着替えたため、見た目はこざっぱりとしたなりである。しかし三十七年もの間、生乾きの魚や干物と一緒に寝起きし、魚の皮で作ったウロコ服を着ていたのだ。ウロジイの体には、魚の臭いが分厚い垢となって、こびりついている。その臭気が、暖かい部屋に入って解れるように臭い立っているのだ。

 それは鼻の奥を針で刺す饐えたカビのような臭いで、思わず息を止めてしまうほどの異臭だった。馴れたつもりでいた春香とウィルタでさえ、ウロジイの体から発散される臭いを吸い込み、激しく咳き込んでしまう。何より当のウロジイ本人が、自分の体から立ち昇る臭気に顔を歪め、新鮮な空気を求めるように口を開け閉めしている。

 ウロジイの様子を見て、取り囲んでいる男の一人が思わず吹きだした。

 つられるように周りの連中が笑いかけたところに、外から息を切らせて若い男が入ってきた。若者も部屋の中に漂う異臭に顔をしかめると、部屋の壁際、椅子に腰かけた仙人ひげの老人に歩み寄り、一礼の後、片膝立ちの姿勢で報告を始めた。

「長老様、川岸をざっと当たってみましたが、老人の話すいかだは、どこにも見当りませんでした。ただそれらしきものを乗り着けた跡は残っていました。もしかすると他にも仲間がいて、この者らを下船させたあと、川を下って行ったのかもしれません。念のために足跡を調べましたが、こやつらは、上陸した地点の幼木の溝ではなく、一直線に熟成した火炎樹の溝を目指しています。最初から火炎樹を燃やすつもりだったのは、明らかではないでしょうか」

 長老と呼ばれた仙人ひげの老人は、若者の話を腕組みをして聞いていたが、「推測の必要ない、今は事実が分かればよい、ご苦労だった」とそれだけ言うと、若者を後ろに下がらせた。そして椅子に腰掛けたまま、目の前の三人に言い聞かせるように話しかけた。抑えた重い声である。

「お前さん方の様子からみて、暖を取るために已む無く樹を燃やしたというのは嘘ではなかろう。だが肝心のオレンジ色の浮き船とやらは見つからなかった。それよりも、お前たちが村の貴重な財産である火炎樹を燃やしたことは、言い逃れのできない事実。いかなる理由があろうとも、罰せられるべき科である。責任を取って貰わねばならん。

 この地は、どこまでも岩場の続く、苔も満足に生えることのない荒蕪地だ。山脈から吹き下ろす凍風に曝されれば、火炎樹も凍りついてしまう。川が増水する時期に水を水路に引き込み、山脈から流れ出た粉土を堆積させ、掻き集め、風避けの溝で辛うじて育てているのが、あの火炎樹だ。手厚く世話をしても、やっとあの程度。普通の火炎樹の一割の大きさにも育たぬ。火炎樹五本で、ヒト一人を養うのがやっとという有り様だ。その大切な火炎樹を、そこもとたちは燃やしてくれた。われらの生活を支える、命の樹を……」

 息を整えるような間を取ると、仙人ひげの老人は「命の樹をないがしろにした科、本来なら死罪に値する」と、厳しい口調で言い放った。

 三人から視線を逸らすことなく椅子から立ち上がると、長老が手にしていた杖を石の床に打ちつけた。判決を言い渡すというのだ。

 縛られた三人だけでなく、取り囲んでいる村の男たちまでが背筋を伸ばす。

 ところが、長老は判決を口にしようと胸を張った際に異臭を吸い込んでしまったらしく、大きく咳き込んでしまう。顔を歪めながらも何とか呼吸を整え、もう一度判決を口にしようとして、また咳き込む。さらにもう一度……。激しく咽る長老につられて、村の男たちも、我慢の糸が切れたように咳を連発する。

 ひとしきり咳の音が鳴り止むのを待つと、長老は溜め息まじりに杖を軽く床に打ちつけ、先とは打って変わった穏やかな口調で話しだした。

「ご老体は、体の状態も十分ではないようにお見受けする。しかしこれは与えられた使命と思い、受け入れてほしい。そなたには明日から十年の間、この村でジンバ、つまり奴隷として働いてもらう。それから、そちらの童人二人も、代わりの火炎樹が元の大きさに育つまで、この村でジンバとして働いてもらおう。

 ただしこれは、最近風の便りに聞いた話だが、オーギュギア山脈西方のユルツ国が、二人連れの子供に懸賞金を懸けて探していると聞く。ユカギルの熱井戸を接収した際に逃げ出した子供たちだそうだ。もしそなたたちが、その当人であるなら、ユルツ国に引き渡した報奨金で今回の科の穴埋めとする……、以上だ」

 ウィルタと春香は、下された判決を実感のないものとして聞いていた。

 その二人と較べて、ウロジイは長老の語る一節一句にしっかり耳を傾けていた。そして判決が言い渡されると静かに面を上げ、壺中村の長である仙人ひげの長老に向かって、科を受け入れることを示すように、床に手を着き平伏した。

 長老が威厳をこめて言葉を続ける。

「ジンバとしての労働で償うことに納めた判、有り難く思うがよい。今宵は冷えた体を温め、骨を休めよ。一晩は客人として扱おう、それがこの村の流儀だ。ただし明日からは村のジンバ、心してもらいたい」

 粛然と申し渡すと、長老のオレンガ翁は、杖を三度床に打ちつけた。解散の合図である。

 待っていたかのように男たちが我先にと外に飛び出していく。みな部屋に充満している耐え難い臭いを、必死に我慢していたのだ。

 最後の男が扉の所で鼻を摘みながら喚いた。

「ジジイ、よく体を洗っておけよ。そう臭くては、肥え溜めが歩いているようでかなわん」

 外で男たちが嘲りの声を上げているのが聞こえてくる。

 男たちと入れ替わりに、海老茶色の服を着た女たちが入ってきた。奴隷のジンバで、歩く際にカチャカチャと音が鳴る。見ると左右の足首に金属の輪を填めている。輪と輪を結ぶ鎖が、歩く際に擦れ合って音をたてているのだ。

 四人いるジンバの一人、背丈もほとんど春香と変わらない少女のジンバが、春香の後ろに回って縄を解くと、手招きをした。

「こちらへ来てください。湯屋へ案内します」

 三人は集会所の裏に連れて行かれた。

 ウロジイは壺中村へ引き立てられた時に、丈夫な方の足まで挫いてしまったらしく、大人のジンバに両側から支えられるようにして歩いている。

 腰を屈めて集会所裏の狭い入口を潜ると、下に降りる階段が続いていた。ジンバの少女に促されて春香が階段を下りる。その背後で男たちの罵声が上がった。

「ジジイ、お前は外だ。そんな体で湯に入られた日にゃ、湯屋が牛小屋になっちまわぁ」

 立ち止まった春香に、水を打つ音が聞こえた。ウロジイに水を浴びせかけている。

「まだまだ、そのくせえ臭いは、水を百杯ぶっかけても取れねえ」

「そうだ、火炎樹を燃やしてたっぷり温ったまったんだ、少しくらい水を掛けられても死にゃあしねえだろう」

「やめろーっ!」というウィルタの声が、水を掛ける音と男たちの笑い声に交錯する。

 拳を握り締めて引き返そうとした春香の腕を、ジンバの少女が押さえた。そして厳しい口調でたしなめた。

「今はだめ、ジンバに逆らう権利はありません」

「でも……」

「大丈夫、村の者は口は悪いけど加減は知っているから」

 心配そうに階段の上を見やる春香の背を、ジンバの少女が押した。

 階段下の扉の隙間から、湯気が一筋糸を引くように漏れている。

「左が男性で右が女性。蒸気で体が暖まったら、桶の湯で体を洗って。服は扉の前のカゴに出しておくから。ジンバや科人が湯屋を使える機会は滅多にないの。これは長老様の特別な計らいよ。長老様は、あなたたちが止むに止まれず樹に手を付けてしまったことを分かっています。だから長老様の配慮を無駄にしないで」

 そう言い置くと、ジンバの少女は身を翻して階段を上がっていった。

 春香がサウナのような浴室で体を洗い外に出ると、戸口のカゴの中に、脱いだ自分の服と交換するように、ジンバの女たちが着ていたものと同じ海老茶色の服が置いてあった。

 麻のようなゴワゴワとした感触の下着に、幅広の袖のついた綿入れのような上着。生地の間に毛屑が縫い込まれているので、思ったよりも暖かい。

 丈の短い薄手の下穿きに、たっぷりとした幅広のズボンを重ね、足首の上に通した紐で裾を縛る。春香は先のジンバの少女の服装を思い起こしながら、腰の回りを帯紐で絞め、紐の余りを横に垂らした。

 春香が着替えを済ませて湯屋の外に出ると、入口で先ほどの少女が待っていた。少女は春香の姿を身を反らすようにして眺めると、近寄って帯紐から出ている上着のたるみを調整。春香の前に屈むと、規則ですからと言って、手にしていた金属の輪を、春香の足首に填めた。鎖で繋ぐのは明日からだという。

 すでに湯浴みを済ませたのだろう、足輪を填められたウィルタが、戸口の椅子に座っていた。視線が合うとウィルタが肩を竦めてみせた。

 春香がウィルタに話しかけようとしたのを見て、ジンバの少女が春香の唇に指を当てた。

「ジンバに私語は許されていません。ただし、自分たちに与えられた部屋の中と、村人のいない所を除いてだけど……」

 小声で言って、ジンバの少女は春香に目くばせをした。

 

 その夜、春香はジンバの少女の部屋で寝た。ジンバの少女は、名をトゥカチといい、春香より五つ歳上だった。淡い赤土肌に黒眼、縮れた黒髪を布のバンドを使って頭の後ろでまとめている。太い眉に長い睫、くっきりとした目と鼻と唇、それにきりりとした顎は、リズムを取って踊り出しそうな情熱的な顔立ちだが、日々のジンバとしての労働が、荒れてシミの浮き出た肌に透けている。歳上なのに体格が春香と同じなのは、十分な食事を取っていないせいかもしれない。

 この村の住人は百名余り、そのうちジンバは七名。トゥカチは村全体の所有物としてのジンバで、残りの六名のジンバは、個人が所有するジンバだという。ジンバには最低限の食事と寝床が与えられる。ただし食事と寝る時間以外は、ひたすら主人か村のために働くことが要求される。ジンバの着る服は村人の鮮やかな藍色の服とは異なり、くすんだ海老茶色。ジンバの仕事は、ジンバの食事は……。

 乾いた服に着替え、久しぶりに薄いマットではあっても、平らな寝台に身を横たえることのできた春香は、これまでの疲れがどっと噴き出てきたのか、トゥカチの説明を聞いているうちに、崩れるように眠ってしまった。

 昏々と眠る春香に毛布を掛けると、トゥカチは戸棚から枡目のなかに駒を並べた四角い盤を取りだした。この地でよく行われる卓上ゲーム、馬将譜である。トゥカチはその馬将譜の駒の配列を見ながら、小さくため息をついた。

 春香とウィルタが板碑谷を出てから、二週間目の夜が過ぎようとしていた。



第三十一話「壺中村」

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