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星草物語  作者: 東陣正則
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マトゥーム盆地


     マトゥーム盆地


 オーギュギア山脈の峰々から流れ出る氷河の西方、セヌフォ高原の丘陵地帯に、大地が陥没してできたような盆地がある。名をマトゥーム盆地という。

 その勾玉形の盆地を囲む尾根沿いの道を、黒髪褐土肌の少年、ウィルタが駆けていた。赤地に黒の派手な編み帽とともに、つぎはぎのポンチョがバサバサと背中で揺れる。

 尾根筋に並んだ風車の列が近づいてきた。午後の微風を受けて回る風車の脇を抜ける。一つ、二つ……、五つめの風車を過ぎたところで足を止めると、ウィルタは盆地の底に目を向けた。

 夏の盛り、水を吸った苔が盆地の底を緑に染めている。そのノッペリとした緑の上を、ちぎれ雲の落とす黒い影が、大地の起伏をなぞりながらユルユルと流れる。今、そのいびつな雲の影を、駄馬に牽かれた軽便鉄道の車両が横切り、さらにその玩具のような車両を、荷馬車が数台、砂ほこりを上げて追い越していく。鉄の軌道に平行して街道が走っているのだ。

 疾走する荷馬車の一台が、街道を手前に折れ、こちら側の斜面に入った。

 緩やかな斜面を少し上がったところに、石垣を廻らせた町、ユカギルはある。

 高石垣で囲まれた町を、ここでは囲郷と呼ぶ。その石垣で束ねられた町と尾根の間、斜面の中ほどにあるのが、町の炭鉱である。ウィルタは、尾根筋の牧人道から、町に降りる急な坂道に足を踏み出した。

 ガレ場の砂利道を下ると、炭鉱の手前で柵囲いに行き当たる。柵のなかで飼葉用の苔を食んでいるのは、炭坑で使役される駄馬たち。その短い足の駄馬たちに軽く手を振ると、ウィルタは炭鉱の要、竪坑の櫓の前を駆け抜けた。あとは町まで敷石の道が一直線。

 錆色の屋根のひしめく町が近づいてきた。

 町を取り巻く石垣は、場所によっては、内側の家が隠れるほどの高さになる。その居丈高な石垣に空いた門、町の裏門にあたる半夏門を抜ける。

 門を入って直ぐ、左側にあるのが、炭坑の作業員ご用達の百尺屋である。

 店先に机と椅子を持ち出し馬将譜に興じているのは、町の年寄り連中で、継ぎも露わなウィルタの服装と較べて、みな艶のある上品な生地の上着とズボンを着こんでいる。織目が古代の麦の穂のように見えることから、麦穂織り、海岸地帯で魚骨織りと呼ばれるセヌフォ高原伝統の布で仕立てられて服だ。ちなみに百尺屋とは、様々な単位のものを扱う店という意味である。

 軒下にいた百尺屋のオヤジが、ウィルタを呼び止めた。

「おい、シクンの坊主、このお方が酔騏楼を探してるそうだ。お前、タタンのところに行くんだろう、案内してあげてくれ」

 手を挙げて応じると、ウィルタはオヤジさんの後ろに目を向けた。突き出た看板の陰に、長身の男が立っていた。ユカギルの町ではついぞ見ることのない、石炭のような真っ黒の肌、おまけに異様に背が高い。百尺屋のオヤジよりも頭四つ抜け出ている。

 その黒炭肌の男が、筒型の革帽を脱ぐと「宿に行くつもりが迷ってな」と頭をかいた。

 頭皮に張りついた丸い縮れ毛、螺髪である。厚い唇に横に広がった鼻、何より二重まぶたの下の白目が、漆黒の肌に良く目立つ。それに身長に劣らず丈の長い外套は、まるでカーテンだ。セヌフォ高原の南、ドゥルー海の港町には、船の帆柱のように長身痩躯の人たちがいると聞く。

 ウィルタは体を反らすようにして男を見上げると、「ぼくも酔騏楼に行くところ、案内するよ」と言って、先導するように石畳の道を歩きだした。

 ユカギルの町は道が錯綜、よそ者は方角を失いやすい。軒先の櫛比する薄暗い隘路が、右かと思えば左に折れ曲がる。ウィルタが後にチラッと視線を流した。

 ウィルタの頭の横に男の腰がある。子供のウィルタに歩調を合わせているのだろうが、ゆったりとしたキリンのような足の運びだ。

「坊主、町の人間じゃないな」

 頭の上から声が降ってきた。

 ウィルタの服装が町の連中と違っているのを見て取ったらしい。

「ボクはシクン。それより、おじさんは、どうしてこの町に?」

 問い返されて、男の声がはにかんだ。

 男の話では、旅の途中で有り金を盗まれ、身動きが取れなくなった。そこで当座の生活費を稼ぐために炭鉱の事務所に駆け込み、首尾よく採用されたのはいいが、手続きを済ませ、紹介された宿に行こうとして、道に迷ってしまったのだという。ぼやき半分に説明すると、黒炭肌の男は、担いだ革袋を左肩に持ち直した。

 半夏門の東側に間口のせまい二階屋が並んでいる。渡りの坑夫のための宿泊所だが、掘り出す石炭が減った今では、開店休業状態。その閑古鳥の鳴く宿の並びの先、手織りの機が騒々しい音をまき散らす家の横を抜けると、馬車が二台交差して通れるほどの道に出た。高石垣の内側をまわる外周路である。

「この道にさえ出ちゃえば、迷うことはないけどね」

 ウィルタが腕で示す方向に、馬車置き場と倉庫を備えた三階建ての家が数軒、軒を連ねていた。街道を行き来する商人向けの安宿である。

「ここだよ」と、ウィルタが一軒の宿の前で足を止めた。

 寝台を模った浮き彫りの看板が扉の上に掲げてある。名を酔騏楼。名前は楼がついて立派だが、安普請の作りで言えば、酔馬亭と名乗った方がふさわしい。

 坑夫たちの野太い声がもれる宿の扉を、ウィルタが押した。

 入って正面、二階に上る階段を囲うように、千里を駆ける碧い毛並みの駿馬、『翠騏』のつづれ織りが飾られている。本来の宿の名は、この壁掛けから取った翠騏楼だが、創業者が稀代の飲み助で、宿の駄馬までが酒を鯨飲するにいたって、酔っ払い馬のいる宿として酔騏楼と改名されてしまった。

 それはともかく、つづれ織りの掛かった階段の左に、帳場と宿の客に売る雑貨を並べた棚がある。ただ六段ある棚は隙間だらけで、並べられた箱や缶にも埃が目立つ。

 いつもならこの時間、その棚の前に椅子と机を持ち出し、帳簿を捲っては一人芝居のように悪態をついている宿の女将がいるのだが、生憎と今日はその姿がない。女将が留守の時は、その弟、片腕のガフィが店番をしているはずと、店の左手奥、一段低くなった穴蔵に目を向けると、お目当てのガフィが、作業服姿の男たちに混じって酒を呷っていた。

 寂れた宿屋が、非番の坑夫たち、それも飲み助たちの溜まり場になっているのだ。

 日々掘削と発破の音に曝される坑夫の声は、総じて耳障りなほどに大きい。

 ウィルタが坑夫たちに負けじと、大声でガフィに呼びかけるが反応がない。肘までしかない右腕で酒瓶を囲って、杯にご執心である。

 代わりに、手前の坑夫が顔を上げた。

 と、その坑夫が顔色を変えてガフィの脇腹を突いた。

 なんだろうとウィルタが首を傾げた直後、「ガフィーッ!」と、酒瓶を吹き倒すような大声が店の中に轟いた。振り向くと、店の戸口に、牛の骨を体に埋め込んだようなゴツイ体格の女が立っていた。宿の女主人、女将のパーヴァだ。濃い息を吐きながら、店の奥、ガフィを睨みつけている。

 気づいたガフィが、慌てて立ち上がろうとするが、酔いが回っているのか足元がおぼつかない。歩く以前に体が傾いている。

 その足をふらつかせたガフィに足音荒く詰め寄ると、パーヴァが頬の張ったいかつい顔で圧し掛かった。

「あんた、また店の酒に手を出したね!」

 唾を飛ばして怒鳴りつけるや、パーヴァがガフィの薄い胸倉を太い腕で掴み上げた。選炭作業で鍛えた男勝りの豪腕に、ガフィの足が宙に浮く。

「お、女将さん、暴力はいけねえ」

 慌てて坑夫たちが取り為そうとするが、男どもを突き飛ばし、パーヴァがガフィの首を絞め上げる。たまらずガフィが足をばたつかせる。息が詰まって苦しいのか、もがきながら店の外に向かって棒のような短い腕を振る。

 パーヴァがせせら笑った。

「フン、家から叩き出して欲しいってかい。よくわかっているじゃないかえ」

 ガフィの顔面にツバを叩きつけると、まだまだとばかりに今度は首を捩じった。

 殺気立ったパーヴァに首を竦めて様子を窺っていた坑夫たちだが、失神寸前、口から泡を噴きかけたガフィを見兼ねて、一人が助け舟を出した。

「女将、客だよ、客が来てるんだ」

 言われてクッと首を曲げたパーヴァに、裏への通路口に立つ長身の男が目に入った。

 とたん、スイッチが切り替わったように、パーヴァが顔に満面の笑みを浮かべた。そして邪魔だとばかりにガフィを床に投げ捨てると、揉み手をしながら客の男に歩み寄る。その際、パーヴァは、背中から落ちてエビ反りに呻き小声を上げるガフィを、蹴飛ばすように踏みつけた。断末魔のような声が狭い天井に反響、それを一顧だにせず、パーヴァは客の手から荷物を取り上げると帳場に誘った。

 男の前に宿帳が広げられるのを見届けると、ウィルタは、自分の役目は終ったとばかりに、階段に足を向ける。タタンがいるのは三階だ。その際、横目で穴蔵を見やると、坑夫たちが顔を突き合わせて、今のうちにガフィを店の外へ運び出そうと相談している。ヒソヒソ声のつもりが、みな地声が大きいので筒抜けに聞こえる。

 思わず足を止め、噴出しそうになったウィルタに、「経堂に、お行きよ!」と、パーヴァの濁声が飛ぶ。

 逃げるようにウィルタは階段を駆け上がった。


 洞窟のような階段を上がると、二階と三階は通路を挟んで左右に部屋が並んでいる。町が布地の買い付け業者で賑わっていた当時は、客に相部屋を頼むほどに混雑していたというが、今では二階の数室で充分。三階はほとんど物置と化している。その三階へ。

 通路の突き当たりがタタンの部屋だ。

 半開きのドアに向かって声をかけるが、返事がない。覗くとタタンの姿はなく、窓枠にぶら下げられた石黄色のマフラーが隙間風に揺れていた。手洗い、そう見て取ったウィルタは、中に入ると、持参した湿布薬の包みを机の上に置き、タタンの戻りを待つように椅子に腰かけた。手前の壁一面に作りつけの棚が並んでいる。棚の中身は、半分が布地の見本で、残りの半分が本。この部屋は亡くなったタタンの祖父の部屋で、タタンの荷物は棚一段分もないという。

 タタンがいない時、ウィルタはいつも棚の本を捲って時間をつぶす。

 今日はどの本をと、ウィルタが本の背表紙に目を向けた時、キヒキヒという物を噛み合わせるような音が隣の部屋から聞こえてきた。微かにだが確かに聞こえる。

 ウィルタは立ち上がって、壁の穴を塞ぐように吊るしてある羅紗の布をめくった。

 隣は天井際に明り取りの窓があるだけの物置で、奥の一角に雑多な物が積み上げてある。割れた鋳型にコンロ、電子基盤の破片に陶製の馬、脈絡のない雑多な物ばかりだ。タタンの祖父は、布地の行商人として各地を巡り歩き、旅先で古い時代のガラクタを手に入れては家に持ち帰った。その祖父が六十で他界した時、四十年近い歳月をかけて集めたものが、この部屋を天井まで埋めていたという。それが今や、ほんのわずか。

 祖父に続いてタタンの父親までが亡くなった後、タタンの母親、つまり先ほど濁声を張り上げていた女将のパーヴァが、宿を改修する資金を工面するために売り払ってしまったのだ。結局それは客足が減って、無駄な投資になってしまうのだが……、

 宿の上がりだけでは食えない今、パーヴァは週に三回、炭鉱の選炭場に働きに出ている。

 ユカギルの町を支えていた織物業が廃れ、頼みの綱の炭鉱も出炭量が先細りで、廃鉱も間近と噂されている。住人の誰もが、町の行く末を案じていた。タタンは言う。お袋が怒りっぽいのは、町の将来に展望が見えないことへの苛立ちが原因なのだと。

 ガラクタから顔を上げたウィルタに、壁に掛けられた額が目に入る。

 中の絵、古代の風景である。

 穏やかな谷合いを見下ろす構図のなかに、等高線状に曲がりくねった石垣と、浅い水盤のような池が、幾重にも重なり合って並んでいる。石垣と水盤の諧調にアクセントを付けるように、こんもりとした林が緑の真珠のごとく散り置かれ、無数の水盤が水鏡となって、空の青さと白い雲を映して清清しい。

 折しも天井際の嵌め殺しの窓から、絵に生命を吹き込むように日が射し込む。

 そのスポットライトのおかげで、絵の中に雲形の虫食いのような穴のあることが分かる。

 以前のこと。ウィルタが壁の絵に顔を寄せていると、タタンが教えてくれた。

「パズルだよ、この絵はジグソーパズルといって、古代人の娯楽だったんだ。無数の絵の欠けらをバラバラにしては組み立てる、そういう使い方をするために作られたものさ。昔の連中は、このパズルに限らず、物を作っては壊し、壊しては作ることに生きがいを持っていたらしいぜ」

 組み立てては崩し、崩しては組み立てる、いったい何のために。

 ウィルタが遠い昔の世界に想いを馳せていると、また先のキヒキヒという音が鳴った。

 音は頭の上からだ。

「下にいるの、ウィルタだろう、暖炉の中に梯子があるんだ、上がってこいよ」

 天井から吊り下げられたラッパから、キヒキヒという音とともに、タタンの声が降ってきた。天井裏に隠し部屋があるというのは前から聞いていた。ただ覗いたことはない。ウィルタは目を輝かせると、奥の壁面、暖炉の中に首を突っ込んだ。

 長く使っていない暖炉らしく、タールや煤の臭いは消えている。大人が二人並んで立てるほどの四角い煙突の穴に、上に向かって手すりが取り付けられていた。煙突の中ほどに、横から明かりの漏れている場所がある。あそこが隠し部屋の入口だろう。

 ウィルタは暖炉に体を押し入れると、一息に手すりをよじのぼった。

 隠し部屋は石炭置き場ほどの小部屋だった。ただ天井は低い。

 待っていたように、タタンが壁のハンドルを回し始めた。

 ちょうど手が届くほどの高さを、屋根板の金属石の薄板が斜めに塞いでいる。その薄板が、ハンドルを回すキヒキヒという音に合わせて横にずれ動いていく。やがて暗い隠し部屋のなかに、正午過ぎの垂直の日差しがなだれ込んできた。眩しさに思わず目が盲てしまう。瞬きを数回、目が慣れてくるにつれて、隠し部屋のなかの物が見えてきた。

 下の祖父の部屋同様、壁面の棚に様々な物が詰め込まれている。一見して古い時代の物と分かるものばかりで、機械の部品や、標本のようなものが多い。卓の上にあるのは天球儀。分厚い革表紙の本も塔のように積み上がっている。

「じっちゃんのコレクションで貴重なものは、この隠し部屋に押し込んであるんだ。そうしないと、みんなお袋に売り払われちまうからな」

 一週間ぶりに会うタタンは、肌に血の色が戻っていた。

「腕の調子、良さそうだね」

 天球儀を撫でるタタンの左腕を見て、ウィルタが安堵の息をもらした。

「クレバスに落ちて十日だろ、やっと肘の痛みが取れてきた。でも問題は、ひねった腕よりも、司経様の怒りがいつ治まるかだな。祖霊様に矢を打ち込んだのがバレてからというもの、二日に一度は、経堂の説教部屋で小言を聞かされているんだぜ」

 半ば自慢でもするようなタタンの口ぶりに、ウィルタが相槌を打った。

「ぼくだってそうさ、昨日もすれ違った助経司さんに、鷹のような目で睨まれたもん」

 ウィルタは助経司の吊り上がった目の真似をすると、棚の中の物に視線を戻した。

 初めて目にするものばかりだ。

 下の部屋の書棚に職業毎の仕事部屋を絵解きした本があった。その中の図でいえば、この隠し部屋は、錬金術師と、丹薬師と、物類師の部屋を足して割ったようなものだ。混然とした怪しさに満ちている。

 タタンと知り合って丸二年、ウィルタが酔騏楼を覗くと、タタンは決まって本を読むか、実験らしきことをしていた。以前など、タタンが天井から吊るした革袋をバコバコと叩いているので、運動をしているのかと聞いたら、震動で電気が起きる道具を試しているところだと教えられた。革袋は古代の道具で、ストレス発散と節電を兼ねた健康グッズだという。ちなみに電気という言葉を、ウィルタはその時、初めて知った。

 ちょうど隠し部屋でも実験をしていたらしく、小卓の上に、半球状の鏡面と、アーム付きのスタンドが引き出されていた。頭上から差し込む日の光が鏡面で反射、アームの腕の先に集まり、取り付けた鏡で反射して、目映い光を卓上の石盤に投げかけている。鋭い光彩を放っているのは、石盤の上に転がる牛骨賽の珠だ。

 タタンが脇に広げた手書きのノートを参考に、半透明のメダルのようなものを、レンズと石盤の間に差し込んだ。

 メダルの位置と角度を調整するタタンに、ウィルタが「何?」と尋ねる。

「じっちゃんのノートによると、これでいいはずなんだ、メダルの下を見てみな」

 言われるままにウィルタがメダルの下、机の上の石盤に目を落とす。

「違うよ、メダルの直ぐ下を見るんだ」

 タタンがメダルの裏を指した。なるほどメダルの下に、ロート状の光が見える。そしてロートの先端から、絹のように細い光が下に向かって……。

「これって?」

 首を傾げてウィルタが光の糸に顔を寄せる前に、タタンはアームからメダルを引き抜いた。そして石盤の上に置いた牛骨賽の珠を取り上げると、興奮した顔でそれを眺める。

 横から覗き込んだウィルタに、丸い珠に空いた小さな穴が見えた。

「すげえな、骨の珠に、あっという間に穴が開いたぜ」

 タタンが誇らしげに牛骨賽の珠を日の光に翳した時、窓の外からタタンを呼ぶ声がした。

「おーい、酔騏楼のドラ息子、そこにシクンの坊主が来てるだろう」

 百尺屋のオヤジだ。換気用の小窓を押し開けると、外の路地で百尺屋のオヤジが仁王立ちにタタンの部屋を見上げていた。タタンと並んでウィルタも首を突き出す。

 二人を見つけたオヤジが手を振った。

「シクンの坊主、炭坑でけが人が出たんだ。いまレイ先生がシクンの谷に行ってる。呼びに行ってくれないか、駄賃にミルク飴を二個やるぞ」

「一個でいいよ」

 ウィルタが指を一本立てると、すかさずタタンが「お使いの相場は三個だろ」と、横槍を入れた。

「バチ当たりの極道息子!」と、オヤジさんの罵声が返ってきた。

 ただその時には、タタンはウィルタの袖を引っ張り、壁の窪みに体を寄せていた。

 目の前にぶら下がった紐をタタンが引くと、掛け金が外れる音に続いて、足元が沈み始める。二人を乗せた床板が、壁に開いた四角い穴に潜り込んでいく。三階から汚れ物のシーツや毛布を下ろすシューターが、手製の昇降機に改造してあるのだ。ガクガクと揺れながら床が落ちていく。暗闇の中でタタンが聞いた。

「カウントダウンは、どうなってる?」

「順調すぎるくらい順調、このままいけば、四日目の夜にはゼロだよ」

 タタンが鋭く指を鳴らした。

「おれの謹慎の解ける日だ。なら蘇生の瞬間に立ち会える」

 足元の板から、固い物に当たる感触が伝わってきた。タタンが取っ手を押すと、家の東側、馬車置き場に張り出す壁の蓋が開いた。

 通りに出ると、宿の入り口で百尺屋のオヤジが待っていた。二人が表からではなく、脇の馬車置き場から出てきたので驚いている。それでも直ぐにウィルタに向かって、「先生に直接診療所の分室に来てくれるように伝えてくれ」と言うと、小さな油紙の包みを投げて寄こした。ウィルタが掬うように、それを片手で受け取る。

 薄茶色の油紙で包んだ飴で、二個ではなく四個入っている。

 表情を緩めたウィルタに、百尺屋のオヤジが「行け」と手を振る。

「了解!」と空元気に声を返すと、思い出したようにウィルタがポケットの中をまさぐり、取り出した端布の包みをタタンに押しつける。訝るタタンに、「アヴィルジーンの羽の欠けら!」と、ウィルタが大声を路地中に響かせる。

「バカ、でかい声で!」と慌てるタタンを背に、ウィルタは路地を走りだした。

 

 半夏門の手前に石炭の搬入口がある。ウィルタはそこを潜って高石垣の外に出た。

 炭車の軌道をまたぐ形で、急な上り道が尾根に向かって伸びている。緊急の呼び出しを受けた非番の男たちが数人、軌道に併走する石段を駆け上がっていくところだ。

 ウィルタも息を切らせて坂を上がる。

 巻き上げ機のある建物で、重い連続音が鳴り響く。排水用の蒸気ポンプが動き出したようだ。尾根沿いに並んだ風車は、坑内の換気と排水を行うためのものだが、それで間に合わなくなると、蒸気ポンプの釜に火が入る。ユカギルの炭坑は水坑と呼ばれるほど水が多く、この数年、ほとんど月に一度は、出水騒ぎが起きていた。

 急な坂を上り切ると、ウィルタは風車の下で、荒い息を整えるように立ち止まった。

 眼下に錆色の屋根が広がっている。その錆色を押し退け、町の広場の西側を、のっぺりとした四角い建物が占めている。千年以上前に建てられた地中の熱を汲み上げる施設、熱井戸である。その屋上に突き出た排熱塔から煙が立ち昇っていた。

 熱井戸の穴は、地下で炭鉱の坑道と繋がっているという。

 ウィルタが目を曇らせた。

 と表情を固くしたウィルタが、ハッと頭に手を当てる。

 熱井戸の煙に気を取られて、風車の動きを見ていなかった。顔を上げると、羽の先端がウィルタの派手な編み帽を引っ掛け、上に上がっていく。慌てて飛び上がって帽子を取り戻す。急ぎの時ほど慎重にという養母の口癖が、頭の中を掠める。確かに一理。

 ウィルタは気合いを入れ直すように帽子を押し被ると、盆地を見下ろす尾根沿いの道を風を切って走りだした。



第一話「序」・第二話「氷河」・第三話「マトゥーム盆地」・第四話「板碑谷」・・・・・

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