竜の胃袋
竜の胃袋
丸一日が過ぎた。
ウィルタの熱は下がらず、フーチン号は相変わらず進んでいるのかいないのか分からないほどの速さで、氷の底の水路を流れている。
「水路が続いておるのは有り難いが、いい加減クレバスにでも出くわさんもんかのう。カンテラの油が残り少ないで、明かりのあるうちに出口が見つからんと、闇のなかで何も見えんようになってしまうわい」
襟元をかき寄せながらぼやくと、ウロジイはテントの口から出していた顔を引っ込めた。
ウロジイと春香が交代で救命いかだの外を見張る。今度は春香の番だ。しかしどう目を凝らしても、カンテラを消しているので何も見えない。
あるのは闇、闇だけだ。
油の節約のために、カンテラは一時間おきにほんの数分灯すだけ。それも外を照らすのではなく、ウィルタの体調を確かめるためにだ。
また一時間が過ぎた。ウロジイがカンテラに明かりを灯す。灯心を絞った小さな明かりが、救命いかだの出入口から外に零れて、氷の底の遂道を照らす。トンネルの濡れた壁が、テカテカと艶光りを放つ。
なんとなくその濡れた壁面を見ていた春香が、「そろそろ消すよ」と言うウロジイの言葉に、「待って!」と叫んだ。そして「カンテラを貸して」とウロジイの手からカンテラを引ったくると、いかだの外にそれを突き出した。
「どうした」
何事かと春香の横から頭を覗かせたウロジイの目に、黒々と濡れたトンネルの壁が見えた。とたんウロジイの顔が曇った。ウロジイはオールを手にすると、無言でフーチン号をトンネルの壁に漕ぎ寄せた。手を伸ばすと、氷とは違うゴツゴツとした感触が指先に触れる。岩だった。カンテラの灯を大きくして、トンネルの全体を照らし出す。
「なんてことだ……」
ウロジイが声を詰まらせた。
「氷ではなく、岩の壁、氷のトンネルが岩の洞窟になっておる」
話すウロジイの声が、固い響きとなって聞こえる。
「どういうことなの」
「分からん、川が単に岩のアーチの下を流れているのか、それとも氷の底から、地の底の穴にでも入り込んでしまったのか」
「でも地下に潜ったのなら、地下水になるんでしょ。こんな空気のある隙間は、無くなってしまうんじゃないの」
「それはそうだが……」
先細りの声をウロジイが呑み込み、フーチン号の中を言いようのない沈黙が包む。
氷のトンネルを流れていると思っていたのが、黒々とした岩の洞窟の中にいるのだ。
考え込むように顔を引いてしまったウロジイを背に、春香はテントの口からじっと救命いかだの流れて行く先に目を凝らした。しかし、緩やかに流れ続けるフーチン号の前方にあるのは、ただひたすら岩の洞窟と暗闇だけだった。
熱が下がらずに荒い息をつくウィルタの横で、気落ちしたのかウロジイも膝を抱えてしまった。時々外に顔を出して洞窟の様子を探っていた春香も、丸一日を過ぎて外を覗かなくなった。ウィルタの額に当てた手拭いを取り替える以外は、いかだの底に座って、ぼんやりと目の前の闇を見つめ続ける。
どのくらいの時間が過ぎたろう。
眠っていると見えたシロタテガミが、鼻先をヒクッと動かし、「変わった」と言って、換気用に開けてある出入口の隙間から鼻先を突き出した。シロタテガミは外の匂いをひと嗅ぎすると、そのまま捻じ込むようにして首を外に突き出し、一声吠えた。
突然の遠吠えに、「急に吠えないでよ、びっくりするじゃない」と、春香がシロタテガミの背中を叩く。
が春香自身も何か様子が違うことに気づいて、辺りの気配に耳を澄ませた。
シロタテガミがまた一声。遠吠えの低く長い音が、消え入るように小さくなっていく。岩の洞窟の中で反響する硬い音とは違う、伸びやかな音の響きだ。
跳ね起きたウロジイが、後ろのファスナーを引きちぎるような勢いで引き下げる。
続いて春香も、前の出入口を全開にして、シロタテガミと並んで体を乗り出す。
外には相変わらずの漆黒の闇……。
「洞窟を抜けたんじゃないの」
春香の呟きにウロジイは答えず、難しい顔をして闇を見透かした。
「違うな」と、シロタテガミが唸った。
「だって、音が……」
「よく聞けばわかる。小さいが、跳ね返りの音が四方から聞こえる。頭上からもだ。ここはとても広いが、閉ざされた空間だ」
シロタテガミが、もう一度確認するように遠吠えをした。その音が闇の彼方に吸い込まれるようにして消えていく。とその数秒後、上と後ろから音が返ってきた。さらに時間をずらして、右からも左からも、そして消え入るような音で前方からも……。
聞き耳を立てていたウロジイが、呻くように声を震わせた。
「竜の胃袋だ。子供の頃に聞いたことがある。オーギュギア山脈の山深い地中に、巨大な地底湖があると。竜の胃袋と呼ばれる伝説の湖だ」
まさか……とばかりに、春香が「ヤッホーッ」と声を出して、耳に手を当てがう。
やはり時間をずらして音が返ってきた。反響した声が、さらに反響を繰り返し、重層的な響きとなって、闇のなかに吸い込まれていく。
春香が苛立つように救命いかだのオレンジの壁を手で叩いた。
「湖なら、岸があるんでしょ、とにかく岸に漕ぎ着ければ……」
発言を遮るように、ウロジイが首を振った。
「上がれるような岸はない。地底湖の周辺は、どこも断崖のようにそそり立っている。だからこそ竜の胃袋なのだ。一度そこに入った者は、湖のなかを彷徨い続け、やがて朽ちて水面の底に呑み込まれる。湖を胃袋と呼ぶことの意味がそこにある」
「でも、川が流れ込んでいるのなら、水が流れ出す場所もあるはずよ。でなきゃ胃袋は一杯になって張ち切れるもん」
「ああ、ある。一か所だけ外に繋がる出口が。だがそれは水中にあって、竜の胃袋で消化されたものだけが排出されるんだそうだ」
投げやりに話すウロジイが、灯芯を伸ばし炎を大きくしたカンテラを頭上に掲げた。フーチン号の遙か後方で、垂直に聳え立つ岩肌がおぼろに浮かび上がった。岩肌からさらに上に繋がる天井は、全く闇に同化している。
救命いかだのフーチン号は、氷の底の洞窟から巨大な地下の湖へと迷い込んでいた。
春香が手で顔を覆って泣き崩れた。
その春香の肩に手が触れた。ウィルタの手だ。
「竜の胃袋だって、どこにも出口がないの」
泣きながら春香が訴える。
鼻をズルズルいわせ、喉をしゃくり上げる春香の頬を、ウィルタが指で突いた。
「泣きたい時こそ、えくぼを見せようよ」
励ますように言って、ウィルタが深呼吸をした。
「できるかどうか分からないけど、出口を探してみる。黙ってて、集中力が鈍るから」
体を起こしたウィルタは、いかだの出入口に体を寄せると、暗い闇の向こうに目を向けた。そして闇を凝視。熱のために顔がむくみ息も荒い。しかし歯を食いしばって闇を睨みつける気迫に、春香とウロジイは口を噤んだ。そのウィルタを見守る二人の後ろで、シロタテガミが警戒するように目の奥を輝かせる。
息を止めたような静けさのなか、ウィルタの左目が赤い光を帯びてきた。それを待っていたように、ウィルタが右から左、左から右へと首を動かす。
目が光を放つという突拍子もない出来事に、春香とウロジイは、声を無くしてウィルタを見つめる。その体を硬直させた二人に構わず、ウィルタは同じ動作を数回繰り返すと、肩を上下させ、手でこめかみを押さえた。頭の中に刺すような痛みの波が押し寄せていた。その頭痛の波を、小刻みに息をつきながらやり過ごし、再び首を右から左へ。
綻びかけた顔が、直ぐに元の厳しい顔つきに戻る。
「だめだ、あれはただの岩の割れ目だ。出口じゃない」
自身を叱咤しつつ、また首を左右に動かすウィルタの目が、今度はある一点を見つめて停止。ウィルタが真っ直ぐその方向に腕を伸ばした。
「この方向に出口が……」
言いかけ、ウィルタが前のめりに倒れる。
とっさに春香が手を差し伸べるが、その腕のなかで、ウィルタは気力を使い果たしたように首を垂れてしまった。
「ウィルタ、ちょっと待って。もう一度教えて、どっち」
体を揺さぶる春香に、後ろからシロタテガミが吠えた。
「そのまま寝かせてやれ、後は私がやる。一瞬だが私にもその出口が見えた。私の鼻先の示す方向に向かって船を進めるがいい」
言うやシロタテガミが闇に向かって、一声長い遠吠えを投じた。
天井を支えるアーチ部分の空気を抜いて、テントを潰し、救命いかだを六角形のゴムボートにする。そのゴムボートの上に、シロタテガミを中心として、左右にそれぞれ春香とウロジイがオールを持って陣取り、シロタテガミが鼻面を向けた方向目差してオールを漕ぐ。カンテラの明かりも届かずただ闇の広がる空間だが、この方向に対岸が、そして地底の湖と外の世界を繋ぐ穴があるという。
春香とウロジイは、闇を切り開くように、ひたすら短いオールを動かした。
休憩を挟みながら一昼夜、延々とオールを漕いで、ようやく声の反響の具合から湖の対岸が近づいてきたのが分かる。やがて、おぼろに対岸らしき影が見えてきた。それは、まさに絶壁だった。湖面から垂直にそそり立ち、ゆったりとアーチを描いて頭上の闇に溶けている。近づくにつれて、複雑に入り組んだ岩肌が威容となって現れてきた。
春香が「出口はどこ」と、シロタテガミに聞く。
ところが前方の岩肌を睨みつけるシロタテガミの目に、困惑の色が浮かんでいた。
シロタテガミは、集中力を高めるように前のめりに体を倒すと、
「彼が指摘した時には、私にも見えたのだが。それが、こうやって岩壁が近づくと、逆に見えなくなってしまった。これはいったい……」
唸るシロタテガミの毛が、心なしか逆立っている。
ウロジイが悩ましげに首を振りながら話す。
「もし外に通じる水道があるとすれば、どこかに水の流れが生まれているはずだ。しかし、こうやって見渡しても、どこにも水が動いている気配はない。その証拠に、救命いかだは一点に止まったままだ。ということは、水の流れ出す道などないか、それとも水の流れが止まっているかのどちらかだ……」
「湖の水の出口は水面の下にあるって、言ったわよね」
「ああ、そういう言い伝えだからな」
そう春香に言った直後、自分の口にした言葉にウロジイが表情を変えた。
「もしそうだとしたら、いや、可能性としては考えられる。そうか……」
「どうしたの、ウロジイ」
カンテラを水面に向けるや、ウロジイが真剣な眼差しで水面を探り始めた。
皿のような目で水面を見つめるウロジイが、声を昂らせた。
「探してくれ、巻き込まれたら大変だ」
「探すって、なにを」
「渦だ、水面に渦ができていないか探すんだ。水面の下に水の流れ口があるということは、湖に流れ込む水がある水準まで溜まると、自動的に流れ出す仕組みになっているということだ。つまりサイフォン……、だから」
「だから、なに」
ウロジイの大声につられて、春香も声を張り上げる。
「水が外に流れ始めたら、その場所には周りから水が押し寄せ、渦ができる」
その言葉が終わらないうちに、春香が前方を指さした。
「あそこを見て、あそこの水面」
シロタテガミも何かを感じたのだろう、首を振り向け、威嚇するように唸る。
小さな渦が姿を見せていた。周りを巻き込むように、その渦が広がっていく。
シロタテガミが今度は歯を剥き出しにして唸った。
気がつくと、救命いかだのフーチン号は、その渦に向かう流れに乗って水面を動き出していた。春香が口に手を当て叫んだ。
「このままじゃ、渦に巻き込まれてしまうわ、どうするのウロジイ」
気を呑まれたように渦の回転を見ていたウロジイが、慌ててオールを手にした。
その手を、半身を起こしたウィルタが押さえる。
「渦に乗り入れよう」
「乗り入れるって、ばかな!」
ウィルタがこめかみを押さえて言った。
「今からじゃ、渦の外に出るのは無理だよ。それに湖の出口が水の中にしかないのなら、渦のなかに入って、水中にあるという水の吐き出し口を抜けるしかない。行こう」
「そうよウロジイ、この船は救命いかだで、出入口を閉めることができる。きっと水中に引き込まれても、溺れずに水の吐き出し口から外に出られるわ」
話す間にも、フーチン号は大きく円を描く水の流れに乗って、ゆっくりと水面を回りだした。その速さが増すに連れて、フーチン号が横揺れを始める。
ウロジイがオールを握り締め、武者震いのように腕を震わせた。
「分かった、行こう、そうだきっと行ける。ここまで来たんだからな。あとは運を天に任せてやってみよう」
その言葉を合図に、三人は潰していた救命いかだの天井を持ち上げ、中に潜り込んだ。
渦に巻き込まれたら、猛烈な圧力が掛かるはず。押し潰されないために、少しでもテントを膨らませておかなければ。そう考え、チューブの安全弁に手押しのポンプを繋いで必死に空気を入れる。しかし焦る春香やウロジイのことなど与り知らぬように、フーチン号は大きな渦のなかを滑るように回り始めていた。
すでに渦の中心は泡が消え、ロートの中の水のように円錐形に窪んでいる。
それに合わせて、いかだの周りが斜面のように迫り上がっていく。
やっとテントが半分ほど持ち上がった時には、フーチン号は、巨大な渦のなかをジェットコースターのように回転していた。激しい揺れで、もう空気を入れるのもここまで。
外が見えなくなるのは不安だが、僅かに開けていたテントの口も完全に閉じる。あとは二重のファスナーが水の侵入を防いでくれるのを祈るだけだ。
ウロジイがカンテラを吹き消した。
闇のなか、遠心力がどんどん強まり、回転の半径が見る間に狭まってくる。
いかだの側面と天井に手足を踏ん張る。
こめかみを締め付けるような緊張と急速な回転に、春香は気分が悪くなってきた。
その顔を歪める春香の手を、ウィルタが握りしめてきた。
春香も握り返す。
その刹那、ゴーッという凄まじい耳鳴りのような音と振動がフーチン号を包んだ。
渦の中心に引き込まれたのだ。その体が引きちぎられそうな猛烈な振動と回転に、春香の意識はプッツリと途切れてしまった。
第三十話「火炎樹」




