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星草物語  作者: 東陣正則
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巻き揚げ機


     巻き上げ機


 翌日、船から川原に巻き上げ機を運ぶ。

 これだけで、午前中いっぱい掛かってしまう。巻き上げ機に巻いてあるワイヤを筏に繋ぎ、さらに筏を補強。筏の四方から角材をピラミッドのように四角垂に組み、その角材の頂点から、ヘルメットの鍋で作った鐘を吊り下げる。鐘の下の紐をシロタテガミがくわえて引けば、澄んだ音色とまではいかないが、けっこう大きな音が鳴る。何かあった時は、これで知らせようというのだ。

 筏を流す準備が完了した時には、もう午後を大きく回っていた。

 浅瀬に筏を浮かべてシロタテガミが乗り込む。

 ウロジイの配慮で筏の中央に四角い木枠が取り付けられた。シロタテガミは檻のようだと顔をしかめたが、体を安定させて川に落ちないようにするには、枠の中にいる方がいいと説明されて、シロタテガミは渋々木枠の中に座りこんだ。

 シロタテガミが角材からぶら下がっているヘルメットの鐘を鳴らす。それを合図に、ウィルタが巻き上げ機のハンドルを回し始めた。ワイヤが少しずつ送り出される。動き始めた筏を、春香が膝まで水に浸かりながら押していくと、やがて筏は流れに乗り、川の水が流れ込む氷のトンネルの方向に、ゆっくりと向きを変えた。後ろからワイヤで引っ張っているので、筏は真っ直ぐに安定した向きで進んでいく。

 氷の洞窟の手前で、ウロジイがシロタテガミに呼びかけた。

「危険そうなら、すぐに鐘を鳴らせよ。すぐにワイヤを巻き取るからな」

 シロタテガミが、了解とばかりに遠吠えをあげた。

 シロタテガミを乗せた筏は、吸い込まれるように氷の底のトンネルに姿を消した。

 水から上がった春香が、トンネルに近い川原でシロタテガミの鳴らす鐘の音が聞こえないか耳を澄ませる。その様子を見ながら、ウィルタが一定のリズムでレバーを回し続ける。とにかく鐘の音が聞こえる聞こえないに関わらず、初回はトンネルの入り口から四十メートルだけ流してみようと決めていた。

 ワイヤを送り出す作業を始めて十分、予定の長さに到達、巻き取りを始める。これはウィルタとウロジイ、二人の作業だ。ほどなく氷のトンネルから、筏とその上にしゃがみこんだシロタテガミが現れた。

 川原で待機していた春香が、シロタテガミに様子を尋ねる。シロタテガミの話では、同じような氷のトンネルが続いているとのことだ。

 直ぐに流す距離を倍の八十メートルにして、筏を流す。そして八十メートル地点まで到達すると、巻き上げ。トンネルの状態を確認して、また流す。

 レバーを回しながら、ウロジイが声を弾ませた。

「いやあ、こりゃあ、もしかしたらもしかするな」

「そうなるといいですね、昨日実際に氷を掘ってみて、あの大変さは良く分かりました。氷があんなに固い物だなんて、思ってもいなかったですから」

「うむ、わしもできれば、これで脱出口が見つかってくれることを望むよ」

 二人が話を交わしながら巻き上げ機を回していると、突然レバーの感触が変わった。

 ワイヤの張りが弛んだような変な感触だ。ウィルタが春香に向かって叫んだ。

「合図の鐘が聞こえるーっ?」

「まだよ、どうしたの」

「ワイヤの張りが無くなったんだ。途中で何かに引っ掛かったのかもしれない」

 その時、穴の奥からヘルメットの鐘を打ち鳴らす音が聞こえてきた。

「それっ!」と、ウィルタとウロジイがレバーを逆回転で回す。

 ワイヤを繰り出す時は、レバーを回さなくともワイヤは自動的に筏に引っ張られて出ていく。しかし巻き取りは流れに逆らうために、かなり力を込めなければならない。

 ウィルタとウロジイの息が切れてきた頃、ようやくトンネルの入り口に筏が戻ってきた。

 春香が待ちかねたようにシロタテガミに事情を聞く。どうやら、百二十メートルの地点で、水面から顔を覗かせた岩に筏が引っ掛かってしまうらしい。ただ注目すべきは、岩よりも、その少し先に、ほんのりと氷の割れ目が明るくなっている場所があるというのだ。

 春香が顔を上気させた。

「人が乗って行けばいいんだわ。人なら岩や浅瀬があったって、棒を使って筏の向きを変えたり、押して進むことができるもの。わたしが、今度はわたしが乗るわ」

 気負い込んで話す春香を押えて、ウィルタが「ぼくが乗るよ」と胸を張った。

「だめよ、巻き上げ機を回すには、力のある男性が残っていた方がいいもの」

「それは分かってる、でももし氷の割れ目があったとして、それが地上まで繋がってる割れ目かどうかは、春香じゃ判断できない」

 ウロジイが春香の肩に手を置いた。

「春香さん、ここは彼の言うことが正しい。彼か私が乗るのが正解だろう」

「ウロジイはここにいて下さい、もし少し登ってみた方がいいようなら、両手の使えるぼくでないと駄目でしょうから」

「そうか分かった。それなら用意しておいた登攀用のロープと金具があるから、それを持って行きなさい。でもくれぐれも用心してくれ。駄目なら、もう一度ちゃんと準備をして出直せばいいんだから」

「ええ分かっています」

 ウィルタが口元をグッと引き締めた。


 ウィルタの乗った筏を流す。

 筏に取り付けたカンテラの明かりがトンネルに消え、ウィルタが一定の間合いで鍋を打ち鳴らす、即席の鐘の音が徐々に小さくなっていく。シロタテガミの報告に合わせて、水面から石が顔を覗かせているという百二十メートルの手前で、一旦、ワイヤの送り出しを停止。そこからは巻き上げ機の回転を緩め、ゆっくりとワイヤを繰り出す。

 ワイヤはピンと張ったまま、じりじりと探りを入れるように出ていく。

 百十八、十九、二十……。

 数秒おきに聞こえてくる鈍い金属音も、小さくなったが、なんとか聞こえる。百二十五メートル、どうやら問題の場所は通り過ぎたようだ。さらに、そのまま一定のリズムでワイヤを繰り出していく。止めてほしい時は、鍋を二回ずつ。すぐに引き戻して欲しい時には連続して鳴らす。そして二百メートルまでワイヤを出した段階で、巻き戻すというふうに決めていた。

 春香は耳を澄ませていた。相変わらず鍋の音は一定の間隔で鳴っている。

「順調に流れているみたい」

「ああ、ウィルタ君に乗ってもらって、正解だったようだな」

 問題の百二十メートルを過ぎて、百五十メートル。

 少し緊張が取れたのか、二人ともホッとして肩の力を抜いた。その時だ。突然、連続して打ち鳴らされる鍋の音が聞こえてきた。慌てて巻き上げ機のレバーに力を込める。ところが、二〜三回回すと、レバーが石のように固く動かなくなった。ワイヤが途中で引っかかったのだろうか。

 ウンウンと唸りながら力を込めてレバーを回そうとする春香の耳に、音は小さいが、早鐘のように打ち鳴らされる鍋の音が届く。

 ウロジイが「レバーから手を離して」と注文をつけた。

 春香が反射的に手を離すと、「こういう時は、一度ワイヤを緩めてみるのも手だ」と、ウロジイがレバーを逆方向に回した。そうしておいて、もう一度レバーを元の方向に。

 五回、六回、うまく回り始めた。

 このまま巻き取れてくれればと、願うように二人が顔を見合わせた時、今度はカクンとレバーから力が抜けた。慌ててレバーを回すが、もうワイヤは何の抵抗もなく巻き取られてくる。それに反して鍋の鐘の音はどんどん小さく……。

 嫌な予感が二人を包んだ。

 鍋の音に混じって、ウィルタが春香の名を呼ぶ声が聞こえたように思う。だがその声らしき音を最後に、鍋の音も何も聞こえなくなってしまった。無言でレバーを回し続ける。

 回しながら、春香の目から涙が溢れて止まらなくなった。

 最後、切れたワイヤが、巻き上げ機の中でカラカラと無慈悲な音をたてて回る。

 ウィルタの流れていった氷のトンネルに向かって、春香が叫んだ。

「ウィルターっ!」

 何度叫んでも、返事は返ってこない。ヘルメットの鍋を叩く音も、ウィルタの声も何も聞こえず、水が岸辺の石を打つ微かな音しか耳に入ってこない。

 唇を震わせながら、春顔が声を絞った。

「どうすればいいの、どうすれば?」

 ウロジイが厳しい顔つきで膝に拳を打ちつけた。

「しまったな、いざという時のために、もう一艘、筏を作っておけば良かった。材料はあったんだから……」

「今さら、そんな事言ったって」

「分かっとる、とにかくウィルタ君を助けなければ。もし急な流れでもあって、水に巻き込れでもしたら……」

「そんなことないわよ」

「とにかく、何か手を考えよう」

「考える間にも、どんどん流されてるかもしれないのよ」

 泣きそうな声で叫ぶと、春香は凍えるような流れに水を蹴立てて走り込んだ。

 トンネルの闇に向かってウィルタの名を呼ぶ。一度、二度、三度。しかしいくら呼んでも、ウィルタの声は返ってこない。それでも、呼び続ける。そうするうちに、腰まで水に浸かっていたために、体が凍えて声が出なくなった。

 ガチガチと歯を震わせる春香の体に、ウロジイが腕をまわした。

「春香さんや岸に上がろう。これ以上、水に浸かっていたら凍えてしまう」

 震え蒼ざめた少女を、ウロジイは抱きかかえるようにして岸に連れ戻した。

 岸に上がった春香は、しゃがみこむと、ガクガクと胴震いを始めた。

「いかんな、体を温めんと」

 春香の激しい震え方に、ウロジイは筏用に運んだ板の残りを春香の前に積み上げた。そしてカンテラの油を振り掛け、火を放つ。乾いた木はすぐさま炎を立ち昇らせる。

 しかしウロジイは厳しい目で火を睨むと、「これでは足りん」と言い捨て、足を引きずりながら船に戻っていった。

 火の側で膝を抱えて震えている春香に、ロタテガミが体を寄せてきた。春香はシロタテガミの首に手を回すと、思い切り抱きしめた。

「ウィルタとは、ずっと、ずっと、一緒に旅をしてきたのよ。こんな形で別れるなんて、わたしが筏で川を下ろうと提案したばかりに……」

 シロタテガミが低く唸った。

「お嬢さんや、こんなことを言っても気休めにもならんかもしれんが、あの少年は大丈夫。わしの野性の勘がそう言っておる。おまえさんも普通の人とは違った匂いを持っておるし、あの少年もそうだ。大丈夫だよ」

 足の間に顔を埋めたまま、春香が鼻をズルズルと鳴らせた。

「ありがとう、わたし意地っぱりだけど泣き上戸なの。泣くけど誰にも言わないでね」

 涙声で言うと、春香はシロタテガミの首の毛を掴んで、ワァーッと声を張り上げた。

 春香が顔をつっぷし泣きじゃくっている所に、ウロジイが石炭箱をズルズルと引きずりながら戻ってきた。炎の尽きかけた焚き火に、ウロジイが箱の中の短い薪のようなものを投げ込む。よほど乾いた薪なのだろう、扇いだように火勢が増す。心地良く飛び散る薪のはぜる音に、泣き伏していた春香が顔を上げ、ギョッとしたように声を詰まらせた。

「それ人形じゃない。苦労して彫った人形を、どうして……」

 火にくべられている短い薪は、小屋の中に並んでいた人形だった。

「なあに、いずれ焚石が無くなったら、燃してしまおうと思っとった。これから小屋の板をひっぺがすんじゃ、間に合わんからな」

「でも……」

「何も言わんでくれ、それから服を着替えなさい。濡れたままの服を着ていたんでは、いつまでたっても体が暖まらん」

 ウロジイが肩に掛けていた服を春香に差し出した。丁寧に畳まれた服、ウロコ服ではない、普通の布地の服だ。

「これは?」

「わしが氷の底に落ちた時に着ていた服だ。お嬢さんには、ちと大きいかもしれんが、ウロコ服以外はそれしかないでな。ハッ、ハッ、地上に戻るのは諦めたと言ったが、それは嘘。いつの日か地上に出られる日が来るかもしれない思って、取っておいた一着だ」

「ウロジイは、濡れたままじゃない」

「わしゃもう、着替えたよ。下に出来上がったばかりのウロコ服を着込んできた。それより早く着替えて温まって、どうやってウィルタくんの後を追いかけるか考えよう」

 渡された服を手に、春香は「はい」と答えかけて、大きなくしゃみを付いた。そしてもう一度くしゃみを付こうとして、体を仰け反らせ「あ〜っ!」と奇声を上げた。

 口を開けたまま、春香が頭上の氷の天井を睨みつける。

 何事かと、ウロジイも氷の天井を見上げる。

 目を悪くしているウロジイにも、篝火に明々と照らし出された氷の中に、何かが埋もれているのが見えた。人の背丈くらいの白い楕円型の物だ。

「何じゃろう、船の部品かな」

 春香が紫色になった唇を震わせながら、声に期待を滲ませた。

「わたしの記憶が正しければ、あれは船に備え付けてある救命用具のカプセルよ。わたしの生きてた時代には、船の両側に、ああいうブイのようなカプセルが付いていたの」

「救命ボートではないのか」

「違うわ、でも、もし中の物が使えるなら、ボートより役に立つかもしれない」

「そうか、あれがなあ……」

 氷の天井を見上げて、ウロジイが今一つ実感の湧かない声で答えた。残念ながら視力の落ちたウロジイの目では、それは氷の中の白い影にしか見えなかった。

 三十七年の間、ウロジイは毎日この川原を行き来してきた。しかしカンテラの乏しい明かりでは、頭上の氷の表面を照らすのが限度、中の物までは見えない。それが火を焚いたことで初めて目に止まったのだ。


 船室の小屋を解体し、その材で足場を組んで氷の天井から楕円形のカプセルを掘り出すのは、容易な作業ではない。しかし春香とウロジイは、五時間ほどでそれを終えた。

 川原に置かれたカプセルは繭のような形をしている。

「なんだか丸い棺桶のようにもみえるが……」と、ウロジイが率直な感想を口にした。

 二人でカプセルに付いた氷を削り、錆ついたフックを一つ一つビスごと外していく。

「スプリングか何かで、ポーンと二つに割れて、中の物が飛び出すようになっていると思うんだけど」

 春香はそう説明したが、繭のような容器の継ぎ目は、錆や腐蝕したゴムらしきものが接着剤となって、溶接でもしたように固まっている。結局、氷の穴を掘るための鉄の掘り棒を継ぎ目に押し当て、二人で力任せにこじ開けることに。

 継ぎ目が剥がれ、楕円型の容器が二つに割れて、中から折り畳まれた色鮮やかなオレンジ色の布のようなものが出てきた。シロタテガミは体を後ろに引いたが、春香は前のめりにその布に手を伸ばした。

「使える状態だといいんだけど」

 祈るように言うと、春香は、そのごわごわの帆布とも、ゴムとも、プラスチックともつかない塊を、容器から引きずり出した。広げて傷み具合を確かめる。ざっと見た感じでは、風化してボロボロになっているようには見えない。穴も空いていないようだ。

「悪くない、これなら使える」

 春香は、上がオレンジで下が黒い布の塊に潜り込むと、中の物を引っ張り出した。ウロジイにも分かるオールなどと一緒に、一抱えもある袋が出てきた。

「あった、きっとこれだ!」

 春香が嬉しそうに声をあげた。

 筒形のピストンのような道具が春香の手に握られていた。

 レバーを押したり引いたりしながら、春香が心配気にその道具に耳を寄せた。

「元々は、ガスで一瞬にして膨らむようにできてたはずだけど、ボンベのガスは抜けてしまったんだと思う。空気が漏れないといいんだけど……」

 春香の動かすレバーの動きに合わせて、筒に付いた短い管の先、金属製の金具の穴から、空気の噴き出す音が聞こえる。

 ウロジイが左手をポンと額に当てた。

「そうか分かった、この布は風船ボートだな、それは空気入れだ」

「大当たり」

 春香がほっとしたように笑顔を作った。そして再度布の塊に潜り込み、天井を押し上げながらウロジイに説明した。

「これはライフラフト、つまり救命いかだ。空気を入れて膨らませば水に浮くはず。天井もあるし、出入口はファスナーで開け閉めできるから、閉めてしまえば水の浸入も防げる。ゴムボートの上にテントを張ったようなものね。この空気入れが使えれば、それに生地に穴さえ空いてなければ、みんな一緒に地底の川を下ることができるわ」

 救命いかだの内側に潜り込んでいたので春香は気がつかなかったが、そう話しかけた時、外にいたウロジイは困惑した表情を浮かべていた。

 顔を俯かせたウロジイが、「一緒に……」と、呟くように繰り返す。

 布の塊の中から顔を覗かせた春香は、気が急いていることもあるのだろう、ウロジイの反応を気に留めることなく、空気を入れるための安全弁を確認、直ぐに空気入れの先端を弁に繋いで、ピストンを動かし始めた。

 急くように動かす。

 やがて側面のチューブが膨らみ、続いて上のテント部分が立ち上がってくる。テントの一部がチューブ状のアーチとなって、柱代わりに天井を支える仕組みになっているのだ。

 救命いかだを五分通り膨らませ、一息休憩を入れながら、空気漏れがないかをチェック。どうやら大丈夫そうだ。

 形を見せた救命いかだは、六角形の黒いゴムボートの上に、三角形のオレンジ色のテントを張ったような構造をしている。長い年月を経ているからか、カプセルの外側の金具などは触れるとボロボロと砕け落ちてしまう。比べて、いかだの本体に目立った傷みは見られない。おそらく密閉されたカプセルの中に収められていたからだろう。

 空気の注入は春香に任せて、ウロジイは貨物船の小屋に戻った。

 出発の準備をしなければならなかった。保存してある乾し魚や魚の内臓から取った油、その他もろもろの品を、昔使っていたザックに詰める。

 荷を作りながら、ウロジイは春香から先ほど言われた事を考えていた。春香は何の疑いもなく、救命いかだで川を下り、ウィルタを追いかけるつもりになっている。そして自分も当然それに参加するものとして、「みんな一緒に」と声をかけてきた。

 子供たちがここから脱出する方法を話し合っていた時、自分はそれが現実には不可能な事だと思っていた。氷のトンネルの川下りにしても、それで助かる可能性は万に一つもないだろう。最後にあるのは、水に溺れて苦しみながらの死だ。自分はこの氷の下で、焚石が尽きると同時に凍えて死ぬことを覚悟していた。暖房用の焚石を全て燃やし尽くすまで、あと二日。自分は馴れ親しんだ貨物船の小屋のなかで、思い出の人形たちに囲まれて最後を迎えよう、そう心に決めていたのだ。

 子供たちが川下りに挑戦することを決めた時も、できることは最大限手伝うが、自分自身がいかだに乗ってトンネルの流れに乗り出して行くことは考えもしなかった。

 それが、あの春香という少女に誘われ、つい頷いてしまった。

 果たして万に一つの可能性があるだろうか。

 薪代わりに燃やしたために減ってしまったが、まだ半分以上の人形が小屋の棚に並んでいる。三十個近くある妻の人形もだ。その木彫りの妻に問いかける。あの選択で良かったのだろうかと。幾つになっても、人は想い悩むものなのだろうか。もう悩むことなど何もない、そう思っていたのに……。

 ウロジイは昨夜彫り上げたばかりの木彫りの妻を手に取った。

 そして「一緒に行くかい」と声をかけた。


 膨らませた救命いかだを見て春香は気づいた。いかだの側面に、春香の時代の言葉でフーチン号と書かれていたのだ。あの貨物船の名前かもしれない。

 救命いかだの底、六角形のボート部分は、しわもなくパンと膨らんでいる。心配していた空気の漏れも今のところない。それを確かめ荷物を積み込む。

 最後にウロジイが貨物船の自分の部屋に別れを告げて川原に戻ってくると、春香がウロジイから借りた服を捧げ持つようにして立っていた。

「これ、ありがとうございます」

「そのまま着ていれば良いのに、まだ自分の服は乾いておらんじゃろう」

「大丈夫、服は着ているうちに乾きます。それより、ウロジイこそ、魚の皮の服を着替えてください。だって外の世界に戻る時は、この服を着るつもりだったのでしょう」

 ボサボサの海藻頭を、ウロジイが恥ずかしそうに掻き上げた。

 たとえ川を下っても、外に出られる可能性などないと考えていたウロジイは、ウロコ服を着替えなかった。三十七年の間この格好をしていたのだ。もうウロコ服自体が自分の体の一部になっている。ウロジイはしわの寄った目尻と口で苦笑いをすると、少女の手から服を受け取った。

「そうだな、可能性はゼロではなかった、そのことを信じなければな」

 北方の小国の官服である。重ね着をした十二単のようなウロコ服を脱いで、淡茶色のこざっぱりとした官服に着替えると、急にウロジイが痩せてしまったように見える。それに頭が伸ばし放題の乱れ髪なので、ウロコ服を着ていた時とはまた別の意味で、奇妙な出で立ちになってしまった。ただウロジイ自身は、服よりも久しぶりに履いた革の靴が気になるのか、しきりと足元に目を落とし、かかとを石に当てて感触を確かめている。

 久しぶりの官服に体を馴染ませるように手足を動かすと、ウロジイは氷の底のホールに目を向けた。人生の大半を暮らした氷の洞窟である。

 先に救命いかだに乗り込んだ春香とシロタテガミが、テントの口から顔を出して、ウロジイの様子を見守る。ウロジイが振り向き、春香に呼びかけた。

「さあて、行くかな、外の世界に」

「はい!」

 巻き上げ機の横に皿灯を置いて、ウロジイが乗船。

 角材で川底を押してフーチン号を岸から押し出していく。

 流れに乗ったフーチン号が、ゆっくりと氷の底の川を下り始めた。

 ウロジイはカンテラを掲げて、進行方向のトンネルの闇を一心に睨みつけている。

 やがて天井がカーブを描いて壁となって迫ってきたかと思うと、フーチン号は音もなく、氷の壁に空いたトンネルの中へと滑り込んでいった。

 後方の闇のなかに、取り残されたようにポツンと皿灯の赤い炎が揺らいでいる。しかしそれもトンネルのカーブを曲がると、すぐに見えなくなった。

 救命いかだの中にワイヤを三百メートル分、丸い束にして取り込んである。それをいかだの縁の金具を通して繰り出しながら、フーチン号を流す。金具に差し込んだ楔代わりの金属棒を動かして、ワイヤの出ていく量を調節するのは、ウロジイの仕事だ。

 ワイヤが氷の壁に擦れて、キュリキュリと奇妙な音をたてる。

 もし何か問題が起きれば、ワイヤを手繰って、もう一度氷のホールに戻ることもできる。しかしワイヤは、慎重にいかだを進めるのと、ウィルタを見つけたらその場所でいかだを固定するためのものだ。

 六角形のフーチン号には、対角線上に二カ所、ファスナーで開け閉めのできる出入口がついている。その前の口に春香、後ろの口にウロジイが張り付き、春香の指示に従ってウロジイが少しずつワイヤを繰り出していく。

 楔とワイヤの擦れる音が緊張を高めるなか、前方にトンネルが現れ、同時に後方のトンネルが闇に埋もれていく。カンテラの照らす場所以外は、全くの闇。

 春香の時計は午前六時を指している。晴れているなら氷の上は日の出の時刻だ。

「光はいつも、我らと共にある」

 興奮を抑えるようにウロジイがブルンと体を震わせた。

 いかだの前と後で気を張ったように外を睨みつける春香とウロジイをよそに、シロタテガミだけはシートの上に寝転がり、しきりと大きな欠伸をついていた。

 平均すれば幅十メートル、高さ三メートルほどの氷の隧道が先へ先へと続いている。角材を水面に突き立てると、水深は思ったよりも深く、二メートルの角材が水底に届かないことがある。川底は、おおむね砂利か岩盤のようだ。

 ウロジイの話では、地底の川にも季節によって水の増減がある。最も水量の多いのが八月で、十月から翌年の六月までは、四割近く水量が減る。それでも、いつもほぼ安定した量の水が流れている。水量の多い季節にトンネルが満杯になるとすれば、すでに九月も半ばに入って水量のやや減ったこの時期、トンネルの上の隙間は途切れずに続いていると考えていいはずだ。

 百メートル地点を過ぎてから、春香が前方の闇に向かってウィルタの名を呼び始めた。

 声は反響を繰り返しながら、濡れた氷の壁を伝わり、なんの反応もないまま虚しく消えていく。百二十メートル地点。黒々とした岩が川面すれすれに顔を覗かせていた。頭上の氷がやや淡く感じる。シロタテガミが明るい氷があると言ったのは、このことだ。

 しかし割れ目は見当たらない。そのまま先へ。

 百五十メートル地点が近づいてきた。ウィルタの乗った筏がワイヤから外れた地点だ。神経を研ぎ澄ませて様子をうかがう。春香がウィルタの名を叫び、ウロジイが、いつでもワイヤを金具に固定できるように身構える。

 前方の氷の色が明らかに薄い。カンテラの灯を布で覆って隠すと、深い藍色の氷が頭上の闇に浮かび上がった。おそらくは、かなりの深さまでクレバスの割れ目が伸びているのだろう。と頭上を見上げる二人の後ろで、シロタテガミが吠えた。

「岩だ!」と、ウロジイが鋭く叫ぶ。

 前方の一角で水面が波立っている。春香が角材を突き立てると、水面のすぐ下で、角材の先端が固いものにぶつかった。そのまま角材を押し立て、ゆっくりと岩を迂回する。

 ウロジイが胸を撫で下ろした。

「あのまま頭上に気を取られていたら危なかった、彼に感謝だ」

 振り向くと、すでにシロタテガミはシートに座り込んで毛づくろいをしていた。

 シロタテガミが春香に鼻先を向けて唸った。

「闇の世界で光に頼り過ぎるのは危険だな」

 それをウロジイに通訳しようと春香が口を開きかけた時、フーチン号が小さく揺れた。

 ウロジイが金具に楔を目一杯差し込んだのだ。ワイヤの繰り出しが止まり、フーチン号が水の流れを受けて小刻みに揺れる。右手、水面から顔を覗かせた岩に、何か引っ掛かっている。角材を使って引き寄せると、それは木切れだった。水を吸って黒く濡れなずんでいるが、裂けた部分が新しい。ウィルタが乗った筏の一部。おそらくウィルタの乗った筏は、水面下の岩にぶつかった、もしくは引っ掛かった。そしてそこから離れようとしているうちに、ワイヤが金具から外れ、筏だけが流されてしまったのだろう。

 ウロジイから渡された木切れを握り締め、春香が闇の底をたゆたう水面に向かって、ウィルタの名を呼ぶ。一度、二度……、

「急拵えの筏に乗ったまま流されたんだ、どれ、こちらも行くとするか」

 泣きそうな顔の春香に、敢えてのんびりとした口調でウロジイが話しかけた。

 楔を緩めると、フーチン号は再び流れ出した。

 ウィルタの名を呼び続ける春香の背を、ウロジイは厳しい顔をして見ていた。

 春香が気づいたかどうかは分からない。しかし先ほど拾い上げた板は、筏の中心に使っていたものだ。ということは、筏は分解してしまった可能性が高い。ロープで絡めるように縛っただけの造り。ロープが解れてしまえば繋げた板はばらけてしまう。

 ただウロジイは、そのことを考えないようにした。考えても意味のないことだった。今は小さな木切れでもいい、ウィルタが何かに掴まって流され、氷の遂道に突き出た岩か、運が良ければ氷の割れ目にでも這い上がって、自分たちが来るのを待っていてくれることを願うしかない。

 フーチン号は順調に流れ、そして三百メートル地点に到達。

 用心のために積み込んだワイヤもここまでだ。ワイヤを離してしまえば後戻りはできない。もちろん二人とも、後戻りをする気はなかった。

 ウロジイが同意を求めるように春香に目配せをすると、金具から楔を抜き去った。

 ワイヤの端が金具の輪をスルリと抜けて、水中に消える。

 そうして六角形のゴムボートに三角のテントを張ったフーチン号は、本来の救命いかだの姿に戻って、水面をユラユラと浮かびながら流れだした。もう先に進むしかない。その気持ちが、前方を見据える春香の顔を今までにも増して引き締める。

 氷のトンネルは、時にホールほどの広がりを見せるが、時にいかだの天井が当たりそうなほどの隘路に狭まる。それでも、ゆったりとした嘗めるような流れは続いているし、水路の上の空間が完全に塞がることもなかった。ウロジイの言う増水期から減水期に入ったという話は、当たっているようだ。

 ところがそう思ったのも束の間、流れの様子が一変。ほかの川が合流して来た。

 水量が増え、さらには流れの勾配が変わったのか、水面が波打ち始める。流れが複雑に変化するので、両側の氷の壁に衝突しないよう、水底を角材で突いてフーチン号の位置を調整しなければならない、ところが水の勢いで角材が折れてしまう。

 慌てる二人の前で水面が沸騰したように泡立ち始めた。水しぶきが、いかだの中に飛び込み、吊してあったカンテラが外れて消える。

 その闇に落ちる寸前、前方に水の柱のようなものが見えた。水路に水がなだれ込んでいるのだ。水面を叩く激しい音が闇を揺さぶる。

 カンテラに明かりを灯し直す春香の後ろで、ウロジイが声を張り上げた。

「入り口を閉めよう。上からの水に叩かれたら、いかだごと水の中に引き込まれてしまう」

 すでにウロジイは、後ろの出入口のフックを引き上げていた。

「だめよ、もし、ウィルタがいたら、入口は開けておかないと、見逃してしまうわ」

 前方から、ドラムを連打するような激しい音が近づいてきた。

「いかん、いったん閉める!」

 言ってウロジイが春香の側のフックを掴む。とウロジイがフックを引き上げるよりも一瞬早く、寝ていたとおもったシロタテガミが、テントの外に頭を突き出した。

 その瞬間、水面に覗く岩の上に人影が見えた。

 闇の中から「春香ーっ!」と、擦れた声が届く。

 その声の余韻が、あっと言う間に後ろに流される。

 春香を押し退け、ウロジイが錨代わりの鉄の固まり、ウインチのハンドルを、外に放り投げた。L字型のハンドルにはロープが結び付けてある。

 それが水底の石に引っかかり、金具に結んであったロープがピーンと張る。

 と同時に、いかだが流れのなかで停止、水しぶきに叩かれ始める。

 ガクガクと揺れるいかだから、春香が懸命にカンテラを外に突き出した。

 ウロジイが叫ぶ。

「来たーっ、手を掴んで引き上げろ!」

 言われる間でもなく、激しく泡立つ流れの中を、申し訳程度の板切れにしがみついて流れるウィルタが見えた。

「掴めーっ、足は押さえておく!」

 板切れにしがみついた白い手が目の前にきた。とっさに春香はカンテラを後ろに投げると、全身をその手に向かって伸ばした。体半分が水の上にあったように思う。

 自分の手が、もう一つの自分と似た大きさの手を捕えたのが分かった。その手が手を掴んだ瞬間、春香は無我夢中で「引っぱってーっ!」と、声を振り絞っていた。

 後の事は覚えていない。

 気がつくと、ずぶ濡れになりながら、ウィルタともども、いかだの中に倒れ込んでいた。

 錨を繋いだロープが切れたのだろう、フーチン号が右に左に踊るように流れる。その激しい揺れに抗い、ウロジイが手探りで出入口のフックを引き上げた瞬間、フーチン号の上にバケツをひっくり返したように水が落ちてきた。

 数秒後、水しぶきの音が消えると同時に、揺れは嘘のように納まり、辺りに静けさが戻ってきた。カンテラは消えたままだ。

 暗闇の中で、春香はウィルタの手を握っていた。氷のように冷たい手だが、それでもウィルタの手に違いない。春香はその手を、強くもなく弱くもなく、ただ握っていた。

 そのままの状態で、もう少しウィルタが助かった余韻を感じていたいと思っていた。

 と、突然「グゥェシュン!」と、大きなくしゃみが一つ、いかだの中に轟いた。

 ウィルタのくしゃみだ。続いてウロジイの気の抜けたような声……。

「どうやら、難所は通り抜けたようじゃな。ウィルタくんや、大丈夫だったかね」

 闇のなかで、「は……ぃ……」と、途切れた小さな声が返ってきた。

「カンテラを」

 ウロジイの声に、我に返った春香がウィルタの手を放し、手探りでカンテラに明かりを灯す。蘇った赤い灯に、ずぶ濡れのウィルタが照らし出される。一日ぶりに見る姿だったが、春香には何年ぶりかの邂逅のように思えた。

 春香はウィルタの手を両手で包むように握り締めると、「良かった、良かった」と、声にならない声を繰り返す。

「ぼくも、だよ…、いかだが、流されて…、ばらばらに、なって…、仕方なく、急流の中の、岩に…、取りついて…、でも、どうすることも、できなくて…、食べ物は、ないし…、ランプの、油は、少ないし…、それに、寒いし、でも…、きっと、助けに来て、くれると…、思ってた。ほんと…、寒くて……」

 口元が震えて仕方ないのか、声が吃って上手くしゃべれない。その喉を突いて出る声が途切れたと思うと、ウィルタは春香の膝の上に頭から突っ伏していた。

 春香が顔色を変えてウィルタの体を揺さぶる。

「ウィルタ、ちょっと、ウィルタ」

 握っていたウィルタの手が、先ほどまでの氷のような冷たさから、火のように熱くなっている。ウロジイが脇からウィルタの額に手を伸ばすと、眉間にしわを寄せた。

「まずいな」

 案じるように言うと、ウロジイは、ガチガチと歯を鳴らすウィルタから濡れた服を脱がせた。そして春香にいかだの中に入り込んだ水を汲み出すよう促すと、自分の上着でごしごしとウィルタの体を擦り始めた。

 悪いけどと断りつつ、春香はウィルタの濡れた服を使って入った水を拭き取る。あらかた水が無くなると、備品の防水袋に押し込んでいた荷物を引き出した。

 嬉しいことに、なかの物は全く濡れていなかった。

 乾いたシャツに着替えさせ寝袋に押し込んだ時には、ウィルタは高熱を発し、うわ言を口走っていた。

「光の目……」

 ウィルタはその言葉を何度も繰り返していた。

 ウィルタの荷物を調べていたウロジイが、小物入れの中に薬袋を見つけた。油紙に包んだ丸薬を舌に乗せて成分を確かめる。散熱剤だ。直ぐにウィルタに飲ませる。

 春香が、ウィルタの顔色を見て心配そうに唇を震わせた。

「どうなの、苦しそうだけど」

「丸一日も水しぶきのかかる場所にいたんだ。気持ちだけで頑張っていたんだろう」

 ウロジイがテントの出入口を少しだけ開けた。カンテラの明かりに、心持ち幅を広めた水路と、流れとはいえないような流れが覗く。

 三人と一頭を乗せたフーチン号は、氷の底の水路を音もなく流れていた。



第二十九話「竜の胃袋」・・・・

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