貨物船
貨物船
厚さ二百メートルを超える氷の底に、お椀を幾つか並べて伏せたような空間が空いている。圧倒的な容量を持つ氷湖にしてみれば、ほんの気泡の一つにしか過ぎない間隙だろうが、それでもその気泡の内側に立つと、音楽ホールの内側に身を置くほどの広がりが感じられる。ホールの半分は、剥き出しの岩盤と砂利の河原で、残り半分が氷の底を流れる川になる。その川に向かってホールの左手奥に、鐘乳石のような氷が天井から垂れ下がり、うち数本かは天地を繋ぐ氷の柱となっている。
ひときわ大きい氷柱の横に、人の背丈ほどの氷洞が口を開けていた。
ウロジイについて、その氷洞の中へ。
足元の氷が階段状に削られている。人工の穴だ。
何度も繰り返すようだが、カンテラに照らされた場所以外は、どこもかしこも漆黒の闇。振り向くと、いま自分が歩いてきた穴さえ、墨を流したような闇に戻っている。明かりのない世界では、光のある場所だけが存在する世界で、後は無だ。
ひとしきり階段を上ると、左側に赤茶けた壁が現れた。習慣なのだろうウロジイは手にしたグングールの古杖で、壁を叩きながら階段を上がっていく。ガンという金属質の硬い音が狭い氷の穴に反響。不規則にたわんだ壁には、赤黒い錆が吹出物のように吹き出し、その錆に埋もれるようにして小さな貝殻がへばりついている。海辺に育った春香にとっては懐かしい貝、フジツボだ。
「この金属の壁、もしかして船なんじゃないかしら」
春香がそう呟いた時、ウロジイが足を止めた。
壁に裂け目があった。分厚い金属の板がねじれるように裂けて中が覗いている。狭い通路に、天井や壁を走る鉄の配管、やはり船だ。
「表札は掛けとらんが、ここがわしの住まい。入りなされ」
ウロジイが二人を手招きすると、後ろでシロタテガミが唸った。
「おれは辺りを散歩してくる」
「散歩といったって、どこも真っ暗でしょ」
「人には暗いかもしれんが、オオカミには十分明るい」
首を振ってシロタテガミが体を反転した時、春香がシロタテガミの首の付け根をガシッと掴んだ。
「だめよ、黒頭巾に噛まれた肩から血が滲んでるじゃない。手当てをしないと」
子供を叱るように言うと、春香はシロタテガミを強引に鉄の裂け目に引き込んだ。
船室の通路に立っていたウロジイが目を丸くした。
なにせ相手は野生のオオカミ、それを目の前の少女は、子犬のように扱っている。
今にも怒ってオオカミが牙を剥くのではないかとヒヤヒヤするが、逆にシロタテガミは尾を垂れ、しもべのように春香に付き従って通路に入ってきた。
ウロジイがウィルタの耳元に口を寄せて聞いた。
「何者じゃ、あの娘?」
ウロジイの驚いた様子に、ウィルタがいたずらっぽい顔で耳打ち。
「二千年も昔から生き永らえている魔女なんだ」
聞こえたのだろう、春香がキッとウィルタを睨んだ。
「誰が、魔女ですって!」
通路に反響する春香の声が静まるのを待って、ウロジイが宥めるように言った。
「魔女でも歓迎するよ、我が家の初めてのお客さんだからな。さあ奥へ、足元に気をつけて、外よりここの方が滑りやすい」
ウロジイの言葉が終わらないうちに、ウィルタが派手な音をたてて、すっ転んだ。
氷の間から露出した鉄板で足を滑らせたのだ。
「人のことを魔女呼ばわりするからよ」
春香がウィルタに向かって舌を突き出した。
とにかく船の中を進む。内陸育ちのウィルタが知っている船といえば、氷河の上で見た捕鯨船だけ。ところがこの船は、サイズだけでもその数十倍はありそうだ。ただ図体は大きくとも、内部は隙間なく氷に充たされ、人が動けるのは氷を刳り貫いた場所に限られる。元々の船内の通路に、人一人がやっと通れる狭い穴が掘られ、そこを前後に並んで歩く。通路だからだろう、張り付いた氷を通して船室の扉や配管などが見え隠れしている。
氷を取り除いた鉄の扉があった。
足を止めたウロジイが、その扉を引く。すると内側に氷の壁、船室が完全に氷で満たされている。以前、内装に使っている材を取り出すために氷を取り除いた部屋だが、数年もしないうちにまた氷で塞がってしまったという。もっとも下手に船室の氷を取り除くと、氷の圧力で鉄の壁が湾曲してくる。なにしろ船の上には、数百メートルの厚さの氷が乗っているのだ。その圧力は半端ではない。
通路が氷の壁に突き当たる手前に、半開きの扉があった。
ボサボサの海藻頭を揺すりながらウロジイが扉を押し開いた。
「きっちり閉めると、ドアが凍りついて動かなくなってしまう。もっとも、ちゃんと閉めようにも、蝶番がボロボロになっておって、閉まらんのじゃが……」
ウロジイに続いて、春香とウィルタも、錆びた鉄の入り口を跨ぐ。そのとたん春香は口を押さえた。強烈な臭いが鼻の奥を突き抜けたのだ。鼻だけではない、臭いが目に滲みて痛い。反射的に顔を背けた春香の後ろで、シロタテガミは狂ったように首を振ると、あっという間に通路を元来た方向に駆け出していった。
メクラナマズを抱えていたウィルタも、魚を落として扉の外に後ずさる。
「すごい臭いだ、目がチカチカして涙が出てくる」
体を丸め激しく咳き込む二人と比べ、ウロジイは何も臭わないらしく、キョトンとした顔で部屋の入り口に立っている。ウロジイが不思議そうに尋ねた。
「もしかして、この部屋の中が臭うのか?」
「臭うなんてもんじゃないわ。目がチクチクして涙が出てきちゃった。こんな腐った魚のエキスのような臭い、わたし初めてよ」
口元に手を当て涙目で話す春香に、ウロジイが首を傾げた。
「わしには何も臭わんが、しかし……、そうかもしれんな。部屋の中で魚の皮を乾すようになって四十年近い。臭いが部屋に、こびりついとるのかもしれん」
改めてカンテラの明かりを部屋の中に差し向けると、至るところにヒラヒラしたものが、ぶら下げられている。干物の加工場か、雨の日にありったけの洗濯物を取り込んだような光景だ。そのヒラヒラ、つまりウロコ服のウロコが、カンテラの明かりを受けて七夕飾りのように輝く。ウロコの合間には普通の魚の干物も吊るしてある。
「まさか、ここに客人が来るとは思わなんだでな」
ウロジイが、申し訳なさそうに、吊るしてあるヒラヒラを外し始めた。
慌てて二人が「気遣いなく」と、止めさせようとするが、「客人を招くんじゃ、少しは片さんとな」と、ウロジイは意に介さずヒラヒラを外していく。
結局、脇で見ていることもできず、二人はウロジイの手伝いをする羽目になった。
干してある魚の皮と干物を外して束ね、入口横の台に積み上げていく。
手前の吊るしものを片すと、船室の奥が露わになる。
そこにあったのは小さな三角屋根の小屋だった。船内の内装に使われていた木を集めて作った小屋で、長さも太さもバラバラの板が、組木細工のように組み合わされている。
片づけを終えると、ウロジイは組木の小屋の潜り戸を開けて、子供たちを中に招き入れた。広さは二畳ほど、膝の高さで板敷きの床になっている。
二人が驚かされたのは、部屋のなかに飾られた人形だ。天井にカンテラを灯すと、小屋の壁という壁の棚に並べられた小さな人形たちが目に飛び込んできた。
あっけに取られて戸口に立ち尽くす二人に、ウロジイが声をかけた。
「男の子、その……」
春香が素早く名乗った。
「彼はウィルタ、わたしは春香と言います」
「そうそう、そのウィルタくんかな、すまんが外に置いてある箱から、焚石を取って来てくれんか、桶はそこにある」
ウロジイが上がり口に置いてある取っ手のついた桶を指した。
桶を手に小屋を飛び出していったウィルタから、「これだね」という声がする。
ウィルタが小屋の外、木箱の蓋を持ち上げると、中に石炭が入っていた。桶に石炭を放り込むガラガラという音が、狭い船室の中で逃げ場を失ったように反響する。その音を耳にしながら、春香はウロジイに勧められて板敷きの間に上がった。
部屋の真ん中にリンゴ箱ほどの大きさの箱型の竈が設えてある。隣には木の小さな座り机。ウロコ服が吊るしてある場所以外は、部屋の壁という壁は人形を並べた棚である。ほかに目につく物と言えば、箱竈の上に被さるように口を開けた、煙を集めるための四角いフードと、それにつながる排気用の筒、つまりエントツだ。
ウロジイが飾り棚のない壁の一角を押すと、跳ね戸の窓が外に開いた。小窓を通して、三角屋根の小屋から出た排気用のエントツが、船室の丸窓に繋がっているのが確認できる。
跳ね戸を掛け金で固定すると、ウロジイが説明を入れた。
「船室のなかにわざわざ小屋を作っておるのを不思議に思うだろう。理由は船室全体を暖めると、天井の氷が融けて、水が雨垂れのように落ちてくるからじゃ。それを避けるには、船室の一部を暖めるしかないでな」
ウロジイが話しているところに、ウィルタが石炭の入った桶を上がり口から差し入れる。春香が受け取ってウロジイにリレー。
と唐突に、春香が「すごーい」と声をあげた。春香は深呼吸でもするように大きく肩で息を吸うと、訝しげな目で板敷きの部屋に上がってきたウィルタに指摘した。
「ねっ、ウィルタ、魚のかび臭い匂いが、気にならなくなってる」
つい先ほどまでは鼻で息をするのが辛くて、酸欠の金魚のように口をパクパクさせていたのが、今では思い切り鼻から息を吸い込んでもなんともない。それがよほど感動的なことでもあるかのように、春香が鼻の穴を広げて息を吸う。つられてウィルタも息を吸い込むが、こちらは少し咳き込み、「んーっ、まだ結構臭うな」と、小鼻にしわを寄せた。
ウロジイが「ハッ…‥、ハッ…‥」と、口を開けて笑った。
一声一声、短くはっきりと区切って声を出す、変わった笑い方である。
「人の鼻は意外と鈍感な器官だから、麻痺してしまったんじゃろう」
ウロジイは桶の石炭を箱竈に足すと、また音を区切ったような笑い声をあげた。
三人が船室の片づけを終えて組木の小屋に上がり込んだ頃、シロタテガミは船の外、舷側沿い氷洞の一つを歩いていた。異臭を鼻先から振り払うために、いったん地底の川に下り、再度、舷側沿いの氷洞を上がってきたところだ。
足の裏の肉球に、轍の跡と、角ばった砂のようなものを感じる。
氷洞は別の船腹の裂け目に続いていた。ウロジイの船室がある裂け目よりも小さい、亀裂のような裂け目だ。内側に足を踏み入れると、角ばった砂と同様の匂いが全身を包む。時々曠野で出くわす、人の掘った穴の周辺に落ちている石の匂いだ。
燃える黒石か……、そう呟くと、シロタテガミが納得したようにかぶりを振った。
三人は箱竈を囲んで座っていた。
ウロジイが、燃える焚石、つまり石炭の上に、鉄の棒を曲げて作った五徳を据え、そこにヘルメットをひっくり返したような鍋を置く。
良く見ると、それは本当にヘルメットだった。
火を見ていると不思議と人は心が落ち着く。とくに温もりがじわっと服を通して体に伝わってくる感覚は、それを幸福という言葉と置き換えてもいいほどだ。視線を逸らすと幸福がどこかに逃げてしまうかのように、つい人は火に見入ってしまう。
クレバスに落ちてからの緊張感で、二人は寒さを忘れていた。それが船室に入ってからでも、もう二時間が過ぎている。氷点下の世界で、二人の体はガチガチに冷えていた。春香もウィルタも、とにかく今は体が温まってくれるのを願うように、箱竈に体を寄せ、黒い焚石が赤くなっていく様子を見守った。
子供たちの表情が緩むのを見て、ウロジイがごわごわのウロコ服を脱いだ。するとウロコ服の下に、またウロコの服が現れる。そのウロコ服の下にもウロコ服。ウロコ服を三枚脱いだところで、ウロジイが手を止め、ニッと笑った。
「このまま脱いでいってズヴェルの根っ子みたいに、最後に何も無くなったらびっくりもんじゃろうが、そうはいかん。一応あと二枚でわしの萎びた老体に行き着く」
「そのウロコ服のウロコ、魚の皮なんですね」
春香の目が、座り机の上のものに向けられていた。そこに船室に干してあった魚の皮が束にして置いてある。一枚が大人の足の甲ほどの大きさだ。
「魚の皮もな、動物の皮と同じように、裏の肉を削いでなめせば布の代わりになる。それを縫い合わせて服を作るんじゃよ」
説明を加えながら、ウロジイが机の下から作りかけの靴を取り出した。
「こっちは魚の皮でできた靴。重ねて縫い合わせてあるから、案外丈夫でな。まあ毛糸のようにフカフカとはいかんが、それでも寒さを凌ぐには、結構このウロコ服で事足りる」
ウィルタが、部屋の中を見まわしながら聞いた。
「着ていた服はどうされたんですか」
ウロジイが口を開けて、ハッ、ハッ、と区切り笑いをついた。
「そんなもの、とうの昔に擦り切れてぼろぼろじゃ。布の代わりになる物といえば、ここでは魚の皮だけ。まあウキブクロも乾せば同じように使えるが、いかんせん小さいでな。ウキブクロだけで一着作ろうとすれば、何年も掛かってしまう」
見れば箱竈の横に敷いてある敷物も、魚の皮を縫い合わせたものだ。魚が何種類か獲れるのだろう、白い皮と灰色の皮、所々にアクセントのように黒い皮も使われている。壁に目を向けると、作りかけの服の横に、着古されたぼろぼろのウロコ服が掛けてあった。
ウロジイが、自分の作品を愛でるような手つきで、ウロコ服を一撫でした。
「新品はなかなか綺麗じゃろう。それが使っているうちに黒ずんでくる。新しい皮を次々と古い皮の内側に着込んで重ね着していくと、この着膨れ姿になるという訳だ」
何十年も溜めていたものを吐き出すようにハッ、ハッと高らかに区切り笑いをつくと、ウロジイは鉄のヘラの上に、箱竈の赤い石炭を半分ほど取り分け、立ち上がって、上がり口の端にある小さな鉄枠の内側に、それを差し入れた。
ウロジイの動作を目で追っていた春香が、「そうか」と指を鳴らした。
「床暖房、温突だ。石炭の熱気がこの床下を通って、えーっと出ていくのは……」
上がり口の反対側を目で探ると、床敷の奥に柱のように突き出た金属のパイプが目に留まった。パイプは途中で箱竈のエントツと繋がっている。
「こんな穴蔵で火を焚いていたら、あっという間に酸欠で中毒死じゃ。排気用の管を氷の中に通し、川のホールに抜けるようにするのが大変じゃったよ」
ウロジイが、昔の苦労を呼び起こすように、錆の浮き出たパイプをカツンと叩いた。
ヘルメットの鍋で沸かしたお湯でメチトトのお茶を入れる。
ウロジイにとっては、三十七年ぶりのお茶だった。
五徳の上のヘルメットを鉄板に替え、そこにメクラナマズの切り身を並べる。
切り身を返しながら、ウロジイがここで暮らすようになった経緯を語り始めた。
ウロジイは三十七年と十四日前にクレバスに落ちた。ウロジイが二十歳の時である。ということは、ウロジイは、今、五十七歳ということになる。春香の時代は人の平均寿命が飛躍的に延びた時代で、五十代はまだ現役と呼ばれる時代だったが、限られた食と寒さに耐えながら生きるこの世界では、人の寿命は五十を超えれば長命とされる。
なお日の射さない暗闇の暮らしで過ぎ去った月日をはっきり特定できるのは、ほんのかすかな違いだが、光の具合で昼と夜が分かるからで、カレンダーのように一日一日刻み目を入れた棒が、座り机の横に立てかけてあった。
その三十七年前のこと。
ウロジイは、旅の道中、氷湖を横断しようとして足を滑らせ、クレバスに落ちた。二百メートル近いクレバスの奥底に落下した衝撃で、右腕と左足を骨折。幸い出血するような怪我はなかったが、それでも氷の底から這い上がらなければ、食料と燃料が尽きた後には、間違いなく死が待っている。だから痛む手足を引きずり必死になって出口を探した。
割れ目という割れ目に頭を突っ込み、登れそうなところは片手でも腕の力が尽きるまで登った。それが悲しいかな、一向にクレバスに繋がる出口は見つからない。
カンテラの燃料が尽きてしまえば、そこにあるのは絶望と同義の暗黒の世界だ。光がなければ、出口を探して歩き回ることもできない。不安と闘いながら、残り少なくなった燃料を横目に、必死に迷路のような氷の穴を迷い歩く。傷の痛みも寒さも感じなかった。それよりも光を失うことの恐怖の方が強かった。燃料ビンは、もう底が見えかけている。後は闇のなかを手探りで這い回るしかないのだろうか、そう覚悟を決めた時、この氷の底のホールに辿り着いた。そして、その片隅で氷に埋もれた古代の船を見つけたのだ。
もちろん船を見つけただけでは、その後三十七年の長きに渡って、氷に閉ざされた空間で生き延びることは出来ない。幸運な出来事が重なった。
一つは、見つけた船が貨物船であり、『ある物』を積んでいたということだ。
「この船の積み荷が何だったか分かるかな」
ウロジイの問いかけに、ウィルタが箱竈の中で燃えている石炭に目を落とし、「黒火石だったの」と聞く。
「そうだ、この船の荷は黒火石、わしらの一族で言うところの焚石じゃった」
それが第一の幸運。
そしてもう一つの幸運、それが氷の底を流れる川に魚がいたということだ。
氷点下の世界で生きていくための最低の条件、食料と、暖を取るための燃料。これが手に入らなければ、人は数日も生き永らえない。それが不幸中の幸いにも目処がついた。なら後はゆっくり怪我の回復を待って、氷の底を脱出する道を探すなり、作ればいいと、そう考えた。
そうして氷の底での生活が始まった。
実際に暮らしてみれば、氷の底は思ったほど寒くない。地上がマイナス二十度や三十度になっている時でも、ここはいつもマイナス三度。ほとんど一年中同じ気温なのだ。慣れてしまえば、これが意外と暮らしやすいということに気づく。
ウロジイは焚石を燃して暖を取り、魚を獲って腹を満たしながら、傷の回復を待った。残念なことに右腕は肩にぶら下がったままだし、左足も引きずらなければ歩けない程にしか回復しなかったが、治らないものは仕方ない。幸い体力は、それなりの状態に戻った。次は、どうやれば地上に戻れるか、どうやって戻るかだ。まずは地上に繋がる氷の割れ目を探すことから始めた。
このパルリ氷湖の氷は、深い所では厚さが三百メートルにもなる。おそらくは、この場所でも二百メートルはあるだろう。ただそれでも、地上に繋がる割れ目さえ見つかれば、登るのはそれほど難しくない。直登が無理なら、氷を削りジグザグに登ればいいからだ。
ところが、探しても探しても、地上につながる割れ目や穴が見つからない。自分が落ちたクレバスは、上から崩れ落ちてきた氷で埋まってしまったか、もしくは傷が治るのを待っているうちに、氷が動いて割れ目が閉じてしまったのだろう。
だが出口がないなら自分で作ればいい。そう考えて、今度は地上に向かって穴を掘ることにした。利き腕の右腕が駄目になっているので、掘るのは大変だが、それでも目の前にあるのは石ではない、氷だ。時間さえかければ左腕一本でも何とかなるはずと、鉄の棒を使って氷に穴を穿ち始めた。しかしこれが思ったよりも大変な作業となった。
人は氷の元の姿が水であることを知っている。だから氷を一見柔らかい物と考えてしまうが、氷床の底の氷というのは、上から途方もない重しを乗せて押し固められた氷だ。
ウロジイは左手のマメの痕跡を擦り、感慨深げに「氷という名の石」と言った。
その氷の石を、ろくな道具もなく、おまけに片手一本で鉄の棒を使って掘る。それは想像以上に大変で困難を伴う作業だった。
斜め上に向かって、それもジグザグに掘るため、一日に人の背丈ほども掘れない。それでも何とか掘り進め、高さにして十メートルほど掘り進んだ辺りから、問題が出てきた。掘った穴が長くなるに連れて、穴の中の空気が入れ替わらなくなってきたのだ。当たり前だが、袋小路のような穴では空気の出入りが滞り淀んでしまう。穴の奥で力仕事をしているのだし、小さな灯だが魚油のカンテラも灯している。換気が必要だった。結局、いろいろ試した結果、換気用の穴をもう一本掘り、地下の川の流れで羽根車を回して、片方の穴から中の空気を吸い出すことにした。
その仕掛けを作って、また穴を堀り進める。
ウロジイが、壁に立て掛けてあった人の腕ほどの長さの鉄の棒を、二人に見せた。片手で操作しやすいように、鉄の棒の端に木の取っ手が付けられ、先端がノミのように平べったく打ち延ばしてある。長く使っていないせいか、浮き出た錆がポロポロと剥がれ落ちる。
ウロジイは、手の脂を吸って黒ずんだ把手を懐かしげに握り締めた。
それ以外にも、あれこれ工夫をして、穴を掘り進めたという。
そして総延長で百八十メートル、高さでいえばその半分くらいの地点まで掘り進んだ時に決定的な事が起きた。いつものように穴の先端で鉄の棒を振るい、氷の壁を打ち砕いていた時のこと、穴の中にミシッと心臓を毛羽立たせる音が鳴り響いた。ハッとして、後退りしようとしたが、少し下った所で穴が塞がっていた。なにが起きたのか、とっさには分からなかった。
あとで考えれば、なるほどと思えるのだが、氷湖とはいえ氷は動いている。氷河は速いものでは年に百メートルも流れるし、側面と中央では流れる速さが変わってくる。氷の上と下でもだ。逆に地形その他の関係で、ほとんど動かずに滞留している氷もある。問題は、いま自分が閉じ込められている場所の氷が、上と下で流れる速さが違っているらしいということだ。ある程度その可能性も考えてはいたが、氷が一気にずれ動くことまでは予想していなかった。掘り進んでいた上層部の氷が、自分を入れたまま下層の氷の上で横滑りしたのだ。
自分は狭い氷の穴に閉じこめられた。
困ったのは、氷がどちらの方向にどれだけ動いたか分からないことだ。時間さえかければ、いずれは下の穴に通じることはできる。だが閉じこめられた穴の中の空気が、それまで保つかどうか。恐慌がきた。闇雲に足元の氷を砕く。ひたすら砕き続けた。
そうして息が苦しくなり意識が朦朧としてきた時、ポカッと下に通じる穴が空いた。
「あの時の恐怖と、転げるように下の川原に下りてきた時の脱力感は、今でも忘れることができん。半月は掘り棒を持つ気になれなんだ……」
その時のことを思い出したのだろう、ウロジイがブルッと肩を震わせた。
そのあと何度か、脱出のための穴掘りに挑戦した。都合五回、穴を大きくしたり、いざという時のためにワイヤを張ってみたりと。しかしいつも氷がずれ動くことで上手くいかなかった。一度など、氷の中の水脈を掘り当て、水が怒涛のように流れ込んできて、溺れかけたこともある。
そして穴を掘っての脱出を諦めた。
残ったのは、言いようのない徒労感と、今に残る左手のマメだ。
これは神様が、お前はもうしばらくそこに居ろと仰っているのだと考えて、自分はここで暮らすことにした。神様がその気になりさえすれば、この氷のホールの真上にばっくりとクレバスの口を開けて青空を覗かせる、そういうことだってあるかもしれない。氷が動いている以上可能性はある。その時を粘り強く待とうと、そう考えた。
今に至る顛末を話し終えると、ウロジイは鉄板の上の魚に目を落として声を上げた。
「いかんいかん、話すのに夢中になって、魚を食べるのを忘れておった。とにかくこれを食べよう。それから、後でお前さん方が落ちて来た氷の割れ目を見に行こう。もしかしたら神様が気紛れを起こしとるかもしれんでな。おまえさん方が、ここに落ちて来たというのが、いい証拠だ。地上に繋がる氷の割れ目さえ見つかれば、たとえ登るのが無理でも、その下で火を焚いて狼煙を上げ、地上の連中に、ここに人がいることを知らせることができる」
目を輝かせてそう話すと、ウロジイは魚を三つに切り分けた。
食後、春香とウィルタは、ウロジイと一緒に船の外、川の流れる氷のホールに足を運んだ。暗闇のなか、シロタテガミが、せっせと黒頭巾に噛まれた傷口をなめていた。春香が出口を探しに行こうと誘ったが、シロタテガミは、自分は無駄な事はしないと言って、傷口から顔を上げようともしなかった。
そして数時間後、シロタテガミの言う通り、三人はすごすごとホールに引き返してきた。外に繋がりそうな穴や割れ目を見つけることができなかったのだ。
川原に戻り、ウロジイが岬と呼んでいる岩場にカンテラを置いて腰掛ける。水面にカンテラの灯が揺れる。三人が三人とも、黙して流れる川面を見つめた。
分厚い氷の底のお椀を伏せたような空洞、その閉ざされた空洞のなかで、川は左の穴から流れ出て、賽の河原のような石の川原を横切り、右の穴に吸い込まれていく。お椀型のホールと氷漬けの貨物船、そして幾つかの行き止まりの穴、それが、自分たちが動くことのできる世界の全てだ。
ウィルタが川原の後ろ、氷の壁面に残る小さな窪みに目を向けた。昔ウロジイが地上に出ようと掘った穴の跡だ。
閉じこめられたという思いが、春香とウィルタに重く伸しかかってきた。
ウロジイが、ため息をついた。諦めたと口では言っていても、子供たちが来たことで、地上に繋がる割れ目ができたのではと、胸の奥に期待の灯を灯していたのだ。
ウロジイの落ち込んだ気持ちを察してか、ウィルタが慰めるように話しかけた。
「出口が無いのは残念だったけど、なら出口を作ったらいいじゃないか。前にウロジイが穴を掘った時は、左手一本で、半分近くまで掘れたんだろう。だったら三人でやれば、きっと地上まで掘れるよ」
「そうね、三人なら、案外簡単にできるかもしれないわ。食料と石炭はあるんだし、それに氷が動いたって、三人なら、誰か下にいれば、助けることができるもの」
「そうだそうだ、早く取りかかろうよ、ねっ、ウロジイ」
ところが、はしゃぐような二人の呼びかけにも、ウロジイは水面をぼんやりと眺めたまま動こうとしない。訝しげに自分を見つめる子供たちに、
「もう焚石がほとんど無いんじゃ」と、ウロジイがそのことを口にした。
良く分からないとばかり、春香がウロジイの顔を覗き込む。
ウロジイが捨て鉢な声で「残っているのは、部屋にあったあの箱に入っているだけだ」と繰り返した。貨物船の中にあった石炭を、この三十七年で使い切ってしまったというのだ。春香やウィルタのような客人が来るのが分かっていれば、もっと節約して使ったかもしれない。しかし氷の底から一生出られない、どうせここで死ぬのなら、せめて暖房だけでもけちらずに毎日を暖かく暮らしたい。そう考えて、あの船室の木の小屋がポカポカになるくらい、途切れることなく毎日石炭を燃したのだという。
残りの石炭は、船の石炭槽に残された粉のような屑炭が少し。それを掻き集めて燃やしたとしても、数日持つかどうか。石炭を燃やし尽くせば、その後ここにあるのはマイナス三度の氷の世界だ。保存用の魚の干物がいくらか貯えてはあるが……。
話しながら、ウロジイは絶望したように膝の間に顔を埋めてしまった。
「まことに済まんことじゃった。お前さんらが来ることが分かっておれば、節約して使ったんだが……」
消え入るような声でそう言うと、ウロジイは口を閉ざしてしまった。川の流れだけが、切れたテープのように繰り返し繰り返し左から右へと流れていく。
三人を包んだ重苦しい空気に耐えられず、ウィルタがガバッと立ち上がった。
そして何か言おうとした時、ウロジイが突然動く方の左腕をぐるぐると回しだした。
あっけに取られる子供たちに、ウロジイが「ハッ、ハッ」と区切り笑いをつく。
「悪かった、歳を経ると悲観的になるもんでな」
邪気を吹き飛ばすように大きな声で謝ると、ウロジイが気合いを込めた動作で左拳を顔の前に突き上げた。
「うん、たぶん、まだまだ何かできるはず。せっかく助っ人が二人と一頭来てくれたんだからな。まずは手始めに、引き上げてなかった釣りの仕掛けを上げてみよう。今度のは針をいっぱい付けてある。別の魚が掛かっとると思うぞ」
ウロジイは悪い左足を庇うように腰を上げると、岩に縛りつけてあった紐を手に取った。ウィルタも手を添え、ウロジイと並んで引っ張る。
さっき獲れたメクラナマズの親指サイズのものが二匹と、平べったい菱形の小魚が一匹、それに最後、黒っぽい魚が上がってきた。コイのような寸胴の魚である。
「おお、これは珍しい。エラアライだ」
「敷物の黒いアクセントに使っていた魚ですね。あら、この魚はちゃんと目があるんだ」
魚の頭に黒い目が二つ付いていた。ごく普通の目だ。
「年に何度か、このエラアライが釣れる。おそらくは、氷の底の流れが、どこかで外の川に繋がっていて、そこから入ってくるんじゃろう」
その説明に、春香が迷路の出口を見つけたように顔を上げた。
「そうか、そうよね。水は流れて、どこかで氷の底から外に流れ出る。なら船があれば、この川を下って外の世界に出られるかもしれない」
春香が目を輝かせて川の水が流れ込んでいく氷の底の洞窟を見やった。
氷の壁に空いた洞窟の上半分が、空洞のまま奥に続いている。
しかし黒々とした水の流れを見るや、ウィルタはブルブルと全身を震わせた。
「ムチャだよ。たとえ船があったとして、流れが水没したり地面の下に潜ってしまったらどうするの、溺れちゃうじゃないか」
「でもあそこが、この地下の空洞で一番確実に外の世界に繋がっている場所なのよ。流れが氷の中や地面の下に入り込むのだって、百パーセントじゃない。もしかしたら、あの穴のすぐ先で、クレバスが口を開けて、青い空が見えてるかもしれないもの」
「穴に入ったとたんに、渦があって、水に呑み込まれてしまう事だってね」
春香が両手を腰に当ててウィルタを睨んだ。
「どうしてウィルタは、そういう暗い発想をするのよ」
むっとした顔で、ウィルタが春香を見返した。
「春香はどうしてそこまで楽天的になれるんだよ。地下の川を下るなんて危険すぎる。そんな無謀な事をするより、三人で力を合わせて穴を掘った方が、絶対に地上に出られる可能性は高いさ」
「二百メートルもある氷を掘るのに、何日掛かると思ってるのよ」
「危険すぎる川下りをするより、ましだろ!」
けんか腰の二人の間を割るように、ウロジイが口を挟んだ。
「掘削機でもあれば話は別だが、鉄の棒で上に向かって掘るのは、相当に体力を消耗することでな、三人でやっても一カ月は掛かるじゃろう。蓄えてある魚は三人だと一週間分くらいしかない。だから最後は、寒さや飢えに耐えながらの作業になる」
「じゃあ、ウロジイは、船で下る方に賛成してくれるのね」
同意を求めて手を取ろうとする春香に、ウロジイが体を引いた。
「地下の川下りで助かる確率は、穴を掘るよりも遙かに低い。地下の水路に吸い込まれて溺れ死ぬのが落ちだ。それにもし運良くクレバスの下に出られたとして、そこから今度は二百メートルの壁を登らねばならん。それに何より、これから三人、まああのオオカミも入れて、四人の乗れる船を作る必要がある。それが上手く作れるかどうか……」
「貨物船なら、救命ボートがあったでしょ」
尋問でもするような春香の口調に、ウロジイが困惑した顔で頭を掻いた。
「氷の底の川を下ることは、わしも考えたよ。だから貨物船の中を探した。必死でな。だがどこにもボートやその手の物はなかった。これは想像だが、船の横腹の裂けた穴を見たじゃろう。おそらくあの船は、事故か何かで沈んだんだ。そして船員たちが脱出するためにボートを使ってしまった。大方、そんなところじゃないかと思う」
ウロジイの他人事のような口振りに、春香が苛立ったように足を踏み鳴らした。
「でもボートがないなら、作ればいいじゃない。あの船室の小屋に立てかけてあった板、あれ、使ってもいいんでしょ。あの板や角材を使えば、船は無理でも筏くらいできるわ。余分な木を燃やせば、暖房だってまだ数日は大丈夫。きっと、なんとかなるわ」
春香の気迫に押されて「そうかもしれんが……」と、ウロジイが半ば賛同するような声を吐く。それに反発して、今度はウィルタが語気を強めた。
「船は嫌だよ、ぼくは穴を掘るからね。溺れて死ぬのなんて真っ平御免だ!」
内陸育ちのウィルタには、本能的に水に対する恐怖感がある。それを読み取った春香が、冷やかすように手の平をヒラヒラと振った。
「この弱虫、もしかしたらパーッと太陽の見える青空が、穴のすぐ先に広がっているかもしれないのよ」
「真っ暗な水地獄もだろ」
ウロジイが「まあまあ」と間に入ろうとすると、春香とウィルタが「おじいさんは、どっちの考えに賛成なの」と、先を競うように詰め寄る。
ウロジイがフーッと長いため息をついた。
「どっちと言われてもなあ。わしは魚でも釣るかな。穴掘りには時間が掛かるじゃろうて、もう少し食料を確保しなきゃならん。飢え死にしちまったら、元も子もないでな」
「そんなあ、おじいさん、ずるい。ウィルタの応援をするの」
「いや、それにな、もし川を下って氷の割れ目が見つかったら、ロープや登攀のための金具が必要になる。その準備もしなきゃならん」
どちらを応援してくれるのかと自分を見つめる子どもたちに、ウロジイは困ったように海藻頭を掻きまわすと、自分の考えを誤魔化すように大きな区切り笑いをついた。
「ハッ、ハッ、まあ若いもんは、自分の思ったことを思ったようにやるのが一番じゃ。わしは、そのお手伝いを平等にやらせて貰うよ」
「もう、ウロジイったら、ずるいんだから」
叫ぶように言って春香とウィルタが背中を見せ合った所に、暗がりの中からシロタテガミが顔を見せた。口をヘの字に曲げ恐い顔をしている春香に、シロタテガミが何事が起きたのだと尋ねる。事の次第を話し、春香がシロタテガミに「あなたはどっちの手伝いをしてくれるの」と、暗に自分の手伝いをしてくれるように迫る。
シロタテガミがどうでもいいことを聞くもんだと、鼻先を鳴らした。
「オオカミに氷の穴が掘れるはずがないだろう」
春香はやったといわんばかりにシロタテガミの首に抱きつくと、ウィルタに舌を出した。
「シロタテガミは、わたしの味方だからね」
思わずウィルタが肩をすぼめてウロジイを見た。
先程までの困惑した表情など、どこかに吹き飛んでしまったかのように、にこやかな笑顔を見せたウロジイが、ウィルタの肩を楽しげに揺すった。
脱出のための作業が開始された。
ウロジイが昔掘った穴の跡をウィルタが掘り始める。一度でも掘ったことのある場所の方が氷が柔らかいのではという、ウロジイの助言に従ったのだ。小一時間、ウロジイの指導の元に、氷の壁に向かって鉄の掘り棒を振るう。
一方の春香は、小屋の補修用に取り置いてあった板を、せっせと川原に運び出していた。ロープで板を繋いで筏を作るのだ。
ウロジイは材料の在処や道具の使い方を二人に教えると、川原から突き出た岬と呼ぶ岩に腰かけ、釣りの仕掛けを川の流れに放り込んだ。
ウロジイと並ぶように、シロタテガミも腰を落とす。
氷の底のホールに時ならぬ氷を砕く音と、板を引きずる音が賑やかに反響する。
ウロジイが自分の横に腰を落としたオオカミに話しかけた。
「お前さんも、察するにかなりの歳のようじゃが、いいもんだな、あの子たち、あの若さというもんは。こんなに音がしていては、魚が餌に喰い付いてくれんかもしれん。しかしそれはそれで、また良いことかもしれんて」
人の言葉が伝わったのか、シロタテガミが軽く唸り返した。
「それにしても、氷の底で、こんなに賑やかな音が聞けるとは夢にも思わなんだ、諦めずに長生きをしてみるもんだ」
感慨深げにウロジイが呟いた。
そして四時間。重い鉄の掘り棒を振り続けて手のマメを潰したウィルタが、一息入れようと穴から這い出すと、川原でウロジイと春香が何やら話しこんでいた。
近寄り二人の間にある筏らしき物を見たとたん、ウィルタはプッと吹き出した。
その瞬間、「どうせわたしは不器用よ!」と、春香が金切り声でウィルタを牽制した。
長さも厚みもばらばらの板がロープで縛られ結びつけられている。ところが使っているロープが子供の手首ほどもあるために、板と板の間が隙間だらけ。長いロープをあちらに引っ張り、こちらに引っ掛けして括りつけているため、筏というよりも板切れにロープが絡みついたような代物になっていた。
ウィルタが、笑い出しそうになるのを堪えて言った。
「これに乗ったら、ゴミにしがみついてるように見えるだろうね。もう少し板を揃えて箱型にするとか、先端を三角にするとか、工夫すればいいのに」
「だってノコギリも釘も針金も金槌も、何もないのよ。小っちゃなナイフ一つで、どうやったら普通の筏が作れるっていうの」
ウィルタ同様、笑いを堪えながら筏を見ていたウロジイが、
「この筏に乗って川を下るのは、ちと難しいな。浮くのは浮くだろうが、流れの緩やかな所ならいざしらず、流れが急になれば、ばらばらに分解してしまう恐れがある。わしが手を貸すから、もう少し板を揃えてしっかりと縛ってみるか」
しかし縛り直したところで、いま目の前にある筏もどきが、劇的に変わるとは思えない。それはウロジイも分かっているのか、縛ったロープを解きながら、考えていたことを口にした。
「さっき、このオオカミと川面を眺めていて思い付いたんだが、あの貨物船には、ワイヤと、その巻き上げ機がある。一度試しに筏にワイヤを結んで、川下に向かって流してみるというのはどうだろう。その白いタテガミのオオカミさんを乗せてだが……」
「シロタテガミを乗せて?」
予想外の提案に、春香が口に手を当てる。
「四つ足の動物は重心が低いし、それにバランス感覚が人より優れとる」
ウロジイがシロタテガミにチラッと視線を流すと、話の先を続けた。
「筏を流し、しばらく流したところで、ワイヤを巻き上げ機で巻き戻す。春香さんはオオカミと意志を通じることができるみたいだから、筏が戻ってきたところで、穴の先がどうなっているかをオオカミに尋ねる。もし地上に繋がる氷の割れ目があるようなら、それからちゃんとした筏を作ればいい。ワイヤは五百メートルあるから、かなり先まで穴の先がどうなっているか分かるはずだ。まあ問題は、そのオオカミが、この提案を受けて斥候役を買ってくれるかどうかじゃが」
「わたし、お願いしてみる」
即座に頷き、春香がシロタテガミの耳元でささやく。
シロタテガミが軽く唸り声を返し、春香が指でVサインを作った。
「オーケーだって、ただし何かあった時は、どうやってそれを伝えればいいかって」
「もちろん筏を引き戻す際の合図は考える。遠吠えが聞こえない時のことを考えてな」
「それから、今日はもう遅いから明日にすればってシロタテガミが言ってるんだけど」
シロタテガミの通訳をしながら、春香が首に吊るしてある時計を取り出した。
あっと言う間に時間が過ぎて、午前の二時になっていた。
「さすがは曠野の生きもの、いい勘をしておるのう」
感心したように言って、ウロジイがカンテラの灯を吹き消した。
明かりが消えると、墨を流したような闇がホールを支配する。自分の手も見えない真っ暗闇だ。しかし目が慣れてくると、何となく物の輪郭は分かるようになる。
春香とウィルタのちょうど真ん中で、ウロジイの声がした。
「不思議なもので、昼間の闇よりも夜の闇の方が明るく感じられる。おそらく人間に本能的に備わっている能力なんじゃろう。それに……」
ウロジイは水音のする方向に体を寄せると、腰を屈めて川の水を掬い、軽く手を揺すった。手の平に乗った水の中で、針のような光がチラチラと瞬く。
「水の中にいるプランクトンの一種だ。聞いたところによると、海にはこれのもっと大きなやつが集団で漂っていて、水面がぼんやりと明るくなるほどに輝くという。こいつが不思議なもんで、夜しか光らんのじゃよ」
春香とウィルタも、ウロジイの真似をして、川の水を手に掬ってみる。
手の平の小さな水溜りで青白い光がチラチラと輝く。そこに命があるのだ。二人は二度三度と、水を掬っては、その遠い星のような輝きを見つめた。
ウロジイが説明する。
「今は夜、ということは、筏を流して氷の割れ目を見つけたとして、割れ目が地上に繋がっているかどうかの判断ができん。雲に覆われた闇夜は当然として、たとえ晴れて星空が広がっていたとしても、直接、割れ目から星空が見えない限りは、クレバスが地上に繋がっているかどうか分からんからな。筏を流すのは夜が明けてからということにして、しばし休憩としよう。ウィルタくんも、何時間も氷の穴を堀って疲れたじゃろう」
ウィルタが指の関節をパキポキと鳴らした。
「うん、筋肉もバリバリ。やってみて分かったけど、あの固い氷を地上まで掘るのは、二日や三日じゃとても無理。シロタテガミの足が四本とも手だったとしても無理だろうね」
ウロジイがカンテラに明かりを灯し直すと、一瞬にして手の平の星が消えた。
少し物足りない気はするが、春香とウィルタは岸辺から立ち上がると、濡れた手をパンパンとはたいた。
そして三人は、明日に備えて貨物船の船室へ。
闇に戻った川面の凍てつく水の中で、青白い光が瞬いては消え、消えては瞬く。岸辺の岩の上にしゃがみこんだシロタテガミが、その様子を飽きもせずに覗き込んでいた。
船室の小屋に戻り、魚の干物とスープで遅い夕食を取ると、三人は直ぐに横になった。床暖房のおかげか、脱出作業の疲れのせいか、あっという間に眠りの底に落ちる。
そして夜半……、春香は、物を削るような音で目を覚ました。
壁際の机の上に明かりを絞ったカンテラが置いてある。その揺れる赤い灯を遮るようにウロジイの背中が見えた。体を丸めたまま机に向かって手を動かしている。
春香は体を起こすと、後ろからそっとウロジイの手元を覗きこんだ。
ウロジイの手の中に小さな木彫りの人形があった。女性の人形である。
「やっと出来上がったかな」
ナイフを置いたウロジイが、春香に気づいて「いかん、起こしてしまったかな」と、すまなさそうに声をかけた。
春香が「ううん」と首を振る。
「音じゃなくて、温ったかだったから目が覚めたの。この一週間、凍えそうになりながら寝てたから、体の方が驚いちゃったみたい」
「はは、そうか」
春香がウロジイの手の平にある人形に顔を寄せた。
「それ、おじいさんの大切な人なんでしょ」
聞かれて、思わずウロジイが春香を見た。
春香が目配せをするように、棚に並んだ人形に視線を移した。
「だって、棚の一番いいところに、同じような顔の人形が、いっぱい並んでるんだもん」
「そうか」と言って人形を軽く手の上で転がすと、ウロジイが遠い昔を懐かしむように話し始めた。
「これは、わしの妻だよ。三十七年前に氷の底に落ちて生き別れになってしまった妻だ。氷の底に落ちて以来、思い出すのはいつも妻の顔だった。氷の底の暮らしで何が辛いといって、話し相手が誰もいないということだ。朝のおはようも、夜のおやすみも言う相手がいない。食事を食べて、おいしかったのその一言を言える相手のいることが、どれほど大切なことか。ここに来て、それが良く分かった。
わしはな、篆刻の仕事、つまり判子作りの職人をやっておった。普段は仕事にかまけて、妻とはろくすっぽ話をしなかった。妻となんざ、いつでも話ができると考えておったんだ。それに当時は、判子作りの方が大事じゃったからな。ばかなことをしたもんだと思う。身重の妻に、優しい言葉の一つもかけずに、別れることになってしもうたんじゃから」
ウロジイが人形の姿をした妻を優しく撫でる。
「誰もいない氷の底の毎日だ。時間はたっぷりある。そこでわしは、今までに自分が会った人の顔を思い出しながら、人形を彫ることにした。自分の記憶のなかの人を忘れないようにという想いを込めてな。
篆刻は石を彫るが、木を彫るというのも楽しいものだ。次々と人形を彫る。そうして彫った人形を小屋の棚に並べる。すると自分がたくさんの人に囲まれて生活しているような気分に浸れる。もちろん話しかけて返事が返ってくることもない。それでも自分はこの人形たちに見守られて生きていると、思えるんじゃよ」
話に耳を傾けながら、春香はカンテラの明かりに照らされた人形たちを見まわした。
様々な顔の人形が並んでいる。
子供からお年寄り、女性に男性、仕事も服装も様々だ。ウロジイが氷の底に落ちるまでに出会った人たちが、一堂に会しているように思える。一度きりの人生で、人はそれほどたくさんの人に会うのではない。ほんの一握りの人と、偶然に出会い、偶然に去っていく。また会いましょうと言って、ほとんどの場合は二度と会わないで終わってしまう。
そういう人たちに至るまで、記憶の中の出会いを丹念に掘り起こし、もう一度会うことができれば、こんなことを話したい、あんな話を聞きたい、そんな想いを込めながら彫り上げた人形なのだろう。ウロジイが声をかけながら彫ったせいか、どれも何かに耳を澄ませ、話に耳を傾けているような表情をしている。
ウロジイが一人語りのように話を続ける。
「一番たくさん彫ったのが妻かな。記憶のなかの妻……。笑っている妻、怒っている妻、疲れてぼんやりしている妻、どれもが、わしの心に残る宝物だ……」
彫り上げたばかりの人形を見つめるウロジイに、春香が聞く。
「その手の中の奥さんは、どういう奥さんなんですか」
「これか、これはな、お腹の子どもに話しかけている妻だ。わしはついにその子を見ることなく、こんなところに落ちてしもうた。でもこれは、わしが知っている、一番幸せそうな顔の妻だよ」
人形を机の上に置くと、ウロジイは体を反らせ、目を細めてじっと木彫りの妻を見やった。その時だけ、今まで優しかったウロジイの目つきが、物作りの厳しい目に変わった。
ウロジイが唇を噛み締めながら言う。
「これがなかなか難しくてな、不思議な表情なんじゃ。何度彫っても、自分の記憶のなかの妻の表情にならん。子供を身籠ったおなごの気持ちというのだけは、男には分からん。しかしあの時、妻は実に幸せそうな顔をしておった。人形を彫るのに一番難しいのは目じゃが、何度も彫っているうちに気づいた。妻のあの時の目は、お腹の中の子を見ている目なんだと。もうこの表情だけで八体は彫った。妻の幸せな表情を彫ることが、何もしてやれなかった妻への罪滅ぼしになるような気がしてな……」
お腹の上に手を添えるようにして微笑む妻の姿がそこにある。
当時のことを思い出しているのだろう、ウロジイの木彫りの妻を見つめる姿は、妻に詫びているようにも見えるし、談笑しているようでもある。しばし春香のことを忘れたかのように木彫りの妻を眺めると、ウロジイは頭を掻いた。
「悪かったな、年寄りの繰り言を聞かせてしまったかな」
「ううん、そんなことないです。きっと、地上に残してきた奥さん、幸せな人生を送っていると思います」
「ああ、生きていれば、わしと同じでいい歳だろうが、そうあって欲しい」
ウロジイは、机の上に散らばる小さな刀や手作りのノミを木箱に戻しながら、春香に声をかけた。
「さあ寝よう。明日は大仕事が待っておる」
明かりの消えた小屋の中で、春香は寝袋に入ったまま眠れずにいた。
ウロジイの話を思い出したのだ。
三十七年前に突然夫がいなくなってしまった奥さん、それもお腹に赤ちゃんのいる奥さんの、その後を考えてしまったのだ。何年も何年も夫の帰りを待ち続ける妻、それはとてもウロジイの願うような、幸せな顔をしてはいなかったろう。生き別れなのだ。どうしてそんな理不尽なことが、人の人生の上に起きてしまうのだろう。
それでも春香には、奥さんの不幸な打ち拉がれた顔を思い浮かべることはできなかった。木彫りの優しい幸せな顔しか見ていないからだ。
そうして、いつしかウロジイの奥さんの顔が、自分を見守り続けた父の顔に代わる。
突然妻を事故でなくし、目を開けることなく昏々と眠り続ける娘を見守りながら、父さんは幸せな顔をしていただろうか。それを想うと、自然と涙が滲んでくる。
春香は思った。こんなことを考えるのは、床……背中が温かいせいに違いないと。
もう寝なくちゃと、春香は心のまぶたに命令して、目を閉じた。
第二十八話「巻き揚げ機」・・・・




