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星草物語  作者: 東陣正則
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氷の底


       氷の底


 耳に忍び込むサラサラという音で、春香は意識を取り戻した。

 水の流れる音のようだ。

 まぶたを開くが、目を開けているのかどうかも疑わしくなる闇が広がっている。

 体が固まったように動かない。今度こそ完全に氷に埋もれてしまったのかと思ったが、靴の先はモゾモゾと動くし、首も少しは回せる。しかし暗い、何も見えない。

 暗闇のなかにポツリと赤い灯が現れた。ユラユラと揺れながら近づいてくる。

 ウィルタ……、と思ったが、カンテラがウィルタの使っている円筒形のものとは違う。

 角ばったカンテラだ。

 その四角いカンテラを手にした者が赤い灯と共に見えてきた。

 雪の曠野で出会ったブゴは毛の塊に見えたが、あれは……、

 大きなウロコでびっしりと覆われている。そのウロコがカンテラの明かりを反射して、キラッ、キラッと輝く。

 ウロコの生きものが立ち止まってカンテラをかざした。こちらをうかがっている。

 ただそのカンテラの明かりのおかげで自分の置かれた状況が分かった。目のすぐ下、鼻の辺りに氷が見える。氷の破片に埋まっているのだ。

 頭の上半分が氷の上に出た状態である。

 ウロコの生き物が動きだした。こちらに向かってくる。

 ウロコ膨れの丸々とした体の下に突き出た、鳥の脚のように細い二本の足。それが交互に動く。ウロコが擦れて落ち葉を掻くような音が鳴り、頭から垂れた海藻がユサユサと揺れる。何だろう、魚が立って歩いているのだろうか。

 あれこれ考えている間に、ウロコの怪物が氷の欠けらを踏みしめ、体を折るようにして春香の上に覆い被さってきた。

「きゃーっ!」

 悲鳴がくぐもる。それはそう自分の口は氷の下にある。氷に埋もれているのだ。

 春香の悲鳴に、掲げられたカンテラが踊るように跳ねた。

「人……、人じゃな、その声は!」

 毛むくじゃらな海藻のなかに、目玉が二つ見え隠れする。

「すまん、驚かすつもりはなかった、わしゃ目を悪くしておっての、近寄らんと良く見えんのじゃ」

 目の前の怪物は、ウロコのようなのヒラヒラを身にまとった人間だった。声からすると年配の男性、海藻に見えたのは伸びて絡み合った髪だ。

 ようやく事態を把握したのか、ウロコ服を身に纏った老人が嗄れた声を上げた。

「どうやら、人間の娘さんが、氷に埋れておるようだの。わしゃてっきり、頭だけの妖怪が、氷の底に落ちてきたのかと思った」

 話しながらも顔を近づけ、首を左右に振っては、春香の顔をためつすがめつ眺める。どうやら目の前に埋まっているのが本当に人間かどうか、確かめている。

 数分後、ようやく確信が持てたのだろう、ホーッと感動したような長い息を吐いた。そしてウロコ服のヒラヒラの間から細い腕を突き出すと、人間の娘を埋めている氷を、一つ二つと取り除き始めた。

 氷がどかされるのを待っていたように、春香が口を開いた。

「おじいさん、ほんとうに人間なんですか、ウロコの人間じゃないんですか、わたしは、魚が立って歩いているのかと思ったわ」

 ウロコ服の老人が体を小刻みに揺すった。

 笑っているらしく、ウロコの服が、シャラッ、シャラッと小気味の良い音をたてる。

「ハハ、ウロコ人間か。人魚の話は聞いたことがあるがの。どれ、この大きい氷を動かすのは、ちと事じゃな。どうやるかな」

 ウロコ服の老人は手を止め、しばし考える仕草をしていたが、やおらウロコの間に手を引っ込めると、中から杖を引き出した。一メートルほどのグングールの古杖である。氷の隙間に突っ込んで、てこの要領で氷を動かそうというのだ。

 ところが老人がどう力を込めても、杖がしなるだけで氷は動かない。仕方なく体を乗せるようにして体重をかける。と鈍い音がして氷の隙間が逆に詰まってしまった。

 前よりも固く氷に挟み込まれた春香が、泣きそうな声をあげる。

「だめよ、どんどんきつく締まってくる、なんとかしてーっ!」

 請われて老人が足元の氷を掴み持ち上げようとする。ところが人の体ほどもあろうかという氷はびくともしない。ボサボサの海藻頭が、しなしなと揺れるだけだ。

 結局ウロコ服の老人は、荒い息をついてその場に座りこんでしまった。そしてウロコの間から突き出た枯れ木のような右腕を、恨めしそうに眺めた。

「すまんなお譲さん、わしの力では無理だ。まあ人生は諦めが肝心、どうせ氷の底では長くは生きられん。凍えながら死んでいくよりも、氷に押し潰されて、さっさとあの世にいった方が幸せというもんじゃ」

「ちょっと、そんなこと言わないで、何か方法を考えてよ」

「そうは言ってもなあ……」

 紐の結び目が緩んだような情けない声を上げると、老人はカンテラの灯に照らされた氷の天井を見上げてしまった。

「うわあ、また氷が締まってきた。押しつぶされる、やだ、助けてーっ!」

 春香の縋るような悲鳴が、氷の空洞に反響しながら遠ざかっていく。

 その悲鳴と入れ替わるように、「春香ーっ!」と呼ぶ声が聞こえた。ウィルタだ。

 ほっとしたように春香がもう一度悲鳴を上げて、ウィルタの声に答える。

 ほどなく、ウィルタとシロタテガミのオオカミが、筒型のカンテラを掲げてやってきた。

「なんとまあ、男の子とそれに犬ではないか。人の姿を見るのは四十六年振りなのに、一度に二人、おまけに犬までもじゃ」

 たまげたように言って、老人が海藻頭をシロタテガミにすり寄せる。とたんシロタテガミが鼻面にしわを寄せて、ブシュッとくしゃみをついた。

 ウィルタは目の前の奇妙な老人に一瞬たじろいだが、「犬じゃない、こいつはオオカミだよ」と、シロタテガミを庇うように言い返した。

「ハハ、オオカミか、それはそれは、オオカミなら会うのは五十年振りじゃな」

 老人の嗄れた笑い声が氷の洞窟に反響、その笑い声の下で、「何でもいいから、早く救けてーっ!」と、春香が催促の叫び声をあげた。


 氷湖の奥底にできた地下道のような氷の穴を、ウロコ服をまとった老人がユラユラと体を揺らせながら歩く。後ろに子供が二人と、シロタテガミのオオカミが付き従う。

 自己紹介をする間もなく、なんとなく春香とウィルタは、自分たちの前を行くウロコ服の老人を、ウロジイと呼んでいた。ウロジイは、その呼び方でなんの問題もないとばかりに、ハイハイと愛想良く返事をしてくれる。

 ウロジイの話では、ここはパルリ氷湖の底で、数メートルほど下で岩盤に行き着く。

 いま歩いている氷の洞窟、氷洞は、夏場の雨が降った際に氷の割れ目に水が流れ込んできる穴だそうだ。

 三人とシロタテガミは、足元をチョロチョロと流れる水を辿りながら、氷洞を進む。

 以前、ウィルタとタタンが春香を連れて入った氷洞は、氷河の表面に近かったために氷が青く見えた。ところが光の届かないこの深さでは、色が消え、氷の表面がカンテラの明かりを鈍く反射して、融けた金属のように見える。まるで大蛇の食道の中を歩いているような気分になる。

「なんだか薄気味が悪いわ」

 歩きながら腕を抱え込んだ春香に、「ここに立ってごらん」とウロジイが二人の足を止めると、一人で枝分かれをした横穴の一つに入った。

 ウロジイの持つカンテラの灯が、横穴の中を進む。すると今まで重苦しい岩のように見えていた氷の壁が、一瞬にして表情を変えた。氷の壁の向こう側を、滲んだように赤い灯がユラユラと揺れながら移動していく。透明なガラスに封じ込められた光のお姫様が、出口を探して彷徨っているようだ。

 カンテラの灯は少し先の氷の穴から出てきた。その瞬間、目の前の氷は堅い氷の岩に戻り、お伽話の世界は現実に戻る。

 穴の先でウロジイが手招きをした。

「どうじゃな」

「すごーい、嘘みたいに綺麗だった」

 ウロジイがカンテラを掲げ、自慢話でもするように口元をほころばせた。

「氷というやつは光が好きなんだ。光を自分の中に取り込んで戯れる。氷は光を通して見るもんだが、それが地上にいると分からん。地上は光に満ちておるでな。光の無い闇の世界に来て、初めて、どんなに氷が光を求めているかが分かる」

 人と話すのが本当に久しぶりなのだろう、ウロジイは喋るのが嬉しくて仕方ない様子で、つっかえながらも休まず話し続ける。

 濡れた足元に気をつけながら歩く春香の耳に、水を垂らすような音が聞こえてきた。

 顔を上げると、洞窟の先闇の底に、黒々とたゆたう川の流れらしきものが見えた。

 氷洞から石の川原へ。

 掲げたカンテラに、氷河の底の空間が照らし出された。

 そこは、お椀を伏せたような半球状の空間で、砂利の川原を挟んで流れる川は、幅にして三十メートル。水面は黒々とした闇を映して不気味だが、水辺に寄ると、水底に転がる荒い砂利がくっきりと見える。

「こちら側が瀬で、向こう側が淵。測ったことはないが、深いところで大人の背丈くらいかな」

 杖をかざして説明すると、ウロジイは川原の一角のゴツゴツとした岩場に足を向けた。歩き慣れた場所だからだろう、氷洞での不安定な歩き方と違い、ヒョイヒョイと石の上を跳ねるように進んでいく。水の打ち寄せる岸辺に着くと、ウロジイは岩のでっぱりに巻きつけてあった紐を、腕を畳むようにして引っ張った。

「男の子、この紐を引っ張ってみろ」

 渡された紐を手にしたとたん、ウィルタが前のめりに二、三歩足を走らせる。

「ちょっと、ウロジイ、これは……」

「大物だ、しっかり引き上げろ」

 腰を落としたウロジイが、慌てるウィルタにはっぱをかける。紐の先に魚が掛かっているのだ。

 戸惑いながらも、ウィルタは川岸を右に左に走りながら紐を手繰り寄せる。魚が岸に近づいてきたのか、波紋の中心で、魚の尾らしきものが水を跳ねた。

「春香ちゃん、凄い引きだ。紐がビクビク動いてる」

「紐を緩めると、逃げられるぞ」

 引きずられるようにして、ウィルタがパシャパシャと水に入りかける。

 手助けに行こうと走りかけた春香を、ウロジイが手を挙げて止めた。

「もう大丈夫、あれがメクラナマズの最後の一引き、あとは、すんなり寄せられる」

 言葉の通り、あとは針が外れたのかと思うほど簡単に紐が手繰り寄せられ、子供の腕ほどの長さの白いナマズが姿を見せた。

 ウロジイはウロコ服の間から鉄鉤を取り出すと、ナマズの口に引っ掛け、一息に岸に引き上げた。メクラナマズというように、目が退化して針で突いたような窪みに変わっている。

 先ほどから見ていると、ウロジイは右手が不自由らしく、左手一本でなんでもこなす。

 ただ右手を補って余りあるほどの器用さで、あっという間にナマズの腹を裂いて肝を切り取り、「これが一番のご馳走」と言って、プリプリとした肝を口に放りこんだ。

「一年に一度の大物だ。客人が来たので、川の神様がプレゼントしてくれたんじゃろう」

 嬉しそうに言った直後、腰を上げようとしてウロジイがムッと唇を引き絞った。

「歳だな。腰にグキッときた。少年、後はお前がそいつを運んでくれ、これから我が家に案内する」

 ウロジイがウロコ服をシャラシャラと言わせながら、先に立って川原を歩きだした。

「わっ、ちょっと待って、ヌルヌルしてるし、こんな大っきいの、ぼく一人じゃ持てない」

 ウィルタは慣れない手つきで白ナマズの口を掴むと、長い尾を引きずるようにしてウロジイと春香の後を追った。



第二十七話「貨物船」・・・・

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