パルリ氷湖
パルリ氷湖
夜が明けると、すぐに二人は、パルリ氷湖の北東岸にあるという、シクンの交易所目指して出発した。誰かに案内を請うにせよ、自分たちだけで峠を越えるにせよ、とにかく食料を補給しなければならない。交易所に行くには氷原を横断する方が早いが、クレバスがあることを考えれば、氷原の岸伝いを北上した方が安全で確実だろうと、ブゴは助言してくれた。
もし交易所を見つけることができなかったらと、ウィルタが慎重を期して聞くと、こちらが見付けなくても向こうが見付けてくれるさと、ブゴは口を開けて笑った。おそらくそれは本当だろうし、今の状況を考えれば、そうあって欲しいと思う。
とにかく早くオオカミの危険のない場所に行きたかった。
緩やかな尾根筋を下っていくと、ほどなく広大なパルリ氷湖の氷原が、行く手を圧倒するように拡がってきた。氷湖の岸を目指す。
天候が回復、青空の下、進むべき目標がしっかり見えているということは、心を落ち着かせてくれる。それでもウィルタは用心のためにと、布を巻きつけた棒を手にしていた。もちろん、ポケットには油瓶とマッチを忍ばせてある。
氷湖が近づいてきた。近くで見ると、これは氷の湖などではなく、まさに氷床。対岸が見えない。あるのはただひたすら氷の平原だ。
氷床とは降り積もった雪がゆっくりと大地の勾配に沿って流れ集まり、広大な氷の平原を成したものだ。大陸の北部は、広くそうした氷床で覆われている。その最大の物は大陸の中北部にあって、ダイバル氷床と呼ばれ、氷の厚さも場所によっては千メートルを超えるという。それに比べれば、パルリ氷湖はささやかな氷床かもしれないが、今の二人にとっては氷の大海原に思えた。
半刻ほどで、パルリ氷湖の岸に取りつく。
氷湖の岸に沿って、人の背丈よりも遥かに高い氷の塊が列をなしていた。
氷湖の氷も、極ゆっくりとではあるが、氷湖の底の地形に合わせて流れている。目の前の氷の塊の列は、氷湖になだれ落ちた氷河の氷が、氷床の流れ乗って移動する姿だった。音はしなくとも、氷と氷がぶつかり、ひしめき合う音が聞こえてきそうだ。静寂さがよけいにその激しさを募らせる。
氷塊のなかには、まるで塔や何かのオブジェのように見えるものもある。二人が、その荒々しい氷の造形に見惚れていると、右の岩まじりの荒野で何かが動いた。
「オオカミ!」
二人が同時に叫んだ。
「昨日のやつだ、頭に黒い頭巾を被ったやつ!」
群れの先頭にいるオオカミを指差したウィルタに、春香が「早く、隠れ……」と言いかけて絶句した。自分の言おうとしたことが、意味のないことに気づいたのだ。雪の原野に隠れる場所などない。それにシクンの交易所へは、まだ歩いて半日はかかる。
ウィルタは頭をブルブルと振ると、春香の手首を掴んで引っ張った。
「どこへ」という春香に、「とにかく、あの氷の塊へ!」と叫ぶ。
そこしか逃げ込める場所はない。
二人は乱立する氷塊に向かって走りだした。しかし荷物を背負い、足元は滑りやすい雪と氷だ。バランスを崩して転んでしまう。それでも立ち上がり、必死に走る。
その子供たちを、雪原に姿を現したオオカミの群れが追いかける。
昨夜は三頭だったが、今日は九頭もいる。
息を切らせながら、二人は重なり合った氷塊の間に走り込んだ。
砕けた氷の岩によじ登り、乗り越し、滑り降りる。最初は氷の間に隠れてと思ったが、オオカミたちの吠える声が後ろから迫ってくるので、奥へ奥へと氷の隙間を縫って進むことに。と突然二人の前に氷原が広がった。氷塊を抜けたのだ。
所々ささくれ立った氷が連なるほかは、まったく平らな氷の原。しかしここから先は、どこにも隠れる場所はない。慌てて後ろを振り向き耳を澄ます。
幸いオオカミの気配は消えていた。
上手くまくことができたのだろうか。しばらく様子をうかがうが、オオカミたちが追いかけてくる様子はない。目標を見失い平原に戻ったのかもしれない。
相談の上、二人は平原には戻らず、氷塊の帯を右に見ながら氷原を北に進むことにした。
そう決めて歩き始めたのも束の間、今度は目の前に氷の割れ目が現れた。
ばっくりと口を開けたクレバスが、行く手を遮るように左右に伸びている。飛び越えて渡るなど鼻から考えもしないような、深くて広い割れ目だ。
どうすると、左右に首を振る。
右方向、オオカミのいる陸側に戻るには、いくらなんでも早すぎる。
仕方なく二人は、クレバスを渡れる場所を探して、左側、氷原の只中へと歩きだした。ところが思った以上に大きなクレバスで、なかなか割れ目の閉じた場所が現れない。クレバスは途切れなく続き、やがて氷湖の岸から大きく離れてしまう。
このまま割れ目に沿って歩いてもと二人が顔を見合わせた時、岸辺の氷塊から黒い影が躍り出た。オオカミだ。見覚えのある黒頭巾を先頭に、十頭近いオオカミが一団となってこちらに向かってくる。
「早くクレバスを渡れる場所を見つけなきゃ!」
ウィルタは春香の手を取って走り出した。ところが事態は最悪、なんと行く手に更なるクレバスが現れたのだ。最初のクレバス、つまり右手に伸びるクレバスと、左から伸びてきた別のクレバスが前方で合流、V字の袋小路を作っている。
振り向くと、後方にはオオカミの群れ。
目を血走らせたウィルタに、春香が「あそこ!」と腕を振った。
右手前方に、クレバスを一跨ぎにした氷の橋がある。アーチ状の橋だ。
救われた、そう思って一目散にその氷の橋に駆け寄り、二人は声を失った。
クレバスにかかった橋が肩幅よりも狭い糸のような橋なのだ。辛うじて対岸に繋がっているだけといっていい。春香が悲鳴のような声を上げた。
「駄目よ、これじゃ上に乗ったら割れてしまう」
「でも、渡るしかない」
歯を剥き出しにしてオオカミたちは迫ってくる。
「行こう、オオカミのウンコになるより益しだ」
そう呼びかけ春香の手を引くウィルタの足が止まった。
「なに……」
尋ねかけて春香もそれに気づいた。
クレバスの対岸、氷の橋のたもとで、灰色の塊が首をもたげた。灰色と思ったのは光線の加減で、毛は白いが、紛れもなくあれもオオカミだ。
「なんてこと、あっちにもオオカミがいる、もうダメだ!」
頭を掻きむしるウィルタの横、春香の頭の中に、この間何度か聞こえた声が届いた。
「渡りなさい、ただし最後は勢いをつけて、腹ばいになって滑るように」
頭の中の声をかき消すように春香の耳元で、「ええい、九頭より一頭だ、とにかく渡ろう。春香ちゃん行けーっ!」
ウィルタが悲壮な声を張り上げた。
後ろには九頭のオオカミたちが、もうそこまで迫っている。ウィルタは、手持ちの松明に火をつけると、もう一度春香に向かって「行けーっ!」と叫んだ。
そして片手で春香の背を押すや、オオカミたちに向かって松明を振りかざした。
橋の上に最初の一歩を踏み出すと、春香は一気に足を滑らせた。
頭の中に「慌てなくていい、氷は大丈夫」と声が聞こえる。
糸を引くように対岸に向かって滑る春香の後ろで、ギャンと悲鳴が上がった。
ウィルタの投げつけた松明が、オオカミの鼻面を打ったのだ。
ウィルタも春香に続いて氷の橋の上に飛び出すと、頭から飛び込むように滑る。
二人の子供が、ほとんど同時に対岸に到達。入れ違いに後ろでは、黒頭巾を初めとするオオカミの一団が橋の上に踊り出た。氷の橋の上にオオカミたちが列をなす。
とその時、対岸にいた銀白色のオオカミが、天に向かって高く長い声を投じた。
直後、ピシッと耳を切るような音が氷上の大気を突き抜ける。
ハッとして振り向く二人の目に、砕けた氷と混じり合うようにして、クレバスの闇の中に落ちていくオオカミたちが見えた。
「橋は迷わず渡る者を通す、一度でも歩みを止めるとああなる。覚えておくことだな」
先ほどの声が、春香の頭の中で響いた。
橋の袂にいた銀白色のオオカミは、春香の方に首を振ると、「ちょいと、匂いを嗅がせてもらうよ」と言って、腹這い状態の春香に鼻面を寄せた。そして鼻先をヒクヒクとうごめかせたと思うと、今度は黒い鼻面を後ろにいるウィルタに向けた。
ナイフを握り締めたウィルタを、春香が慌てて押し止める。
「何もしないで、そのオオカミは大丈夫」
ウィルタが体を硬直させたままにオオカミの動きを見つめる。寝転がった姿勢のウィルタにとって、四つ足のオオカミは見上げるほどの大きさに見える。それに野生の獣特有の臭いがプンと鼻につく。銀白色のオオカミは、ウィルタの周りを回りながら、体のあちこちに鼻面を押しつけ、探し物でもするかのように匂いを嗅いでいる。最後、ズボンの裾にしばらく鼻面を擦りつけていたかと思うと、ようやく満足したように鼻を鳴らし、ウィルタの目に視線を合わせた。
ウィルタが引きつった顔で春香に聞く。
「春香ちゃん、どうすればいいんだよ、こいつ、ぼくのことを睨んでる」
悲壮な顔のウィルタになんと言えばいいか、口ごもった春香にオオカミの声が届いた。
「付いて来なさい、案内する」
「案内するって、どこに」とそう口に出してから、春香はオオカミの声が、直接声として耳に聞こえていたのではなかったことに気づいた。
銀白色のオオカミが、立つことを促すように頭をしゃくった。
オオカミの白いタテガミが風になびく。その白いタテガミのオオカミは、子供たちが立ち上がると、先導するようにクレバスの縁を歩きだした。
「オオカミが付いて来いって言ってる」
ウィルタが戸惑うように聞く。
「付いて来いって、オオカミが、あいつがそう言ったのか」
「割れ目のない、安全な道を案内するって」
驚いて立ち止まってしまったウィルタを手招きしながら、春香はオオカミの後を追って歩きだした。
「ちょっと春香ちゃん、春香ちゃんは、オオカミの言ってることが分かるのか」
「だってそういう風に、聞こえるんだもん」
春香が早くとばかりに、もう一度腕をしゃくった。
銀白色のオオカミは、明らかに安全に歩ける場所を探しながら、二人を誘導していた。そしてクレバスを離れて二時間、氷上を北に向かって進むと、オオカミは歩みを止め、子供たちの方を振り返った。
「私が案内できるのはここまでだ」
オオカミが銀白色の毛に包まれた顔を春香に向けた。
「一つだけ娘さんに忠告しておく。服の中に入れてある私の毛は捨てることだ。お前があの黒頭巾に襲われたのは、私の匂いがお前の体からしたためだ。あの黒頭巾と私は、つい先日まで、群れのリーダー役を巡って争っていた関係なのでね」
オオカミの口が動いていないのに声が聞こえることから、春香は、これは音のない声、心の声なのだと思った。だから春香も、自分の思っていることを心の中で念じてみた。
「白いタテガミのオオカミさん、毛は捨てます。それから私たちを助けてくれてありがとう。でも一つだけ教えて。ずーっと夢の中で私に語りかけてくれてたでしょ、あれはどうしてなの」
春香の声が届いたのだろう、白いタテガミのオオカミは、軽く鼻先にしわを寄せると、春香に声を返した。
「普通なら、私の声は人に届かない。先に私に話しかけてきたのは、お嬢さん、あなたの方だ。それで私も話しかける気になった。オオカミは匂いで物事を考える。お嬢さんの体からは、氷河の奥底のような匂いがしている。それにお嬢さんが普通の人間でないことは、おまえさんの頭から、血や肉でない匂いが、ほんの少しだけ漏れていることからも分かる。おそらく頭の中に何か埋め込んであるのだろう。お嬢さんが私と意志の疎通ができるのは、そのせいのような気がするな」
白銀色のオオカミが、軽くウィルタの方に首を振った。
「男の子に伝えてくれ。お前さんが親しくしてくれていた犬には、オオカミの血が流れておらんかと。その犬は私の兄弟なのだ。最初曠野の縁でお前さんたちの足跡の匂いを嗅いだ時、とても懐かしい想いがした。それが何であるか分からなくて、確かめようと後を付け、さっき間近でその匂いを吸いこんで、やっと思い出した」
ウィルタは、春香とオオカミがじっと見つめ合っている様子に、何か得体の知れない物でも見るように腰を引いていた。そのウィルタに、春香が嬉しそうな顔で、いまオオカミから聞いたことを説明した。ウィルタが目を丸くした。
「えーっ、じゃあ、ブッダと、このオオカミが兄弟だっていうの」
「そういうことみたいね」
とても信じられないという顔のウィルタに、シロタテガミのオオカミが呼びかける。
「さっ、人間の子供たちよ、行きなさい。そして、もし私の兄弟に会うことがあれば、よろしくと伝えてくれ」
それだけを言うと、シロタテガミのオオカミは曠野に向かって尾を返した。
ところがその行く手を阻むように、ささくれ立った氷の陰から、黒っぽいオオカミが踊り出た。
「あっ、黒頭巾だ!」
春香とウィルタが叫ぶその前で、シロタテガミが軽く唸った。春香にはそれが「お前さんたちには関係のないことだ、さっさと行きなさい」と聞こえた。
二頭のオオカミが、唸り声を上げながら睨み合う。本来の体格はシロタテガミの方が勝っているのだろうが、筋肉の付き方では黒頭巾が優勢。四肢の筋肉が毛の下からでも盛り上がって見える黒頭巾に対して、シロタテガミは明らかに老齢の痩せた体だ。
黒頭巾が鼻先にしわを寄せた。
「ふん、シロタテガミともあろうお方が、人間に味方するとは落ちたものよ」
「個人的な用があっただけのこと。それより子分たちはどうした。リーダーという者は、危険であればあるほど先陣を切って走るものだ。さっきのざまはなんだ。橋が崩れるのが恐くて、子分たちを先に渡らせたか。情けないリーダーがあったもんだ。一人で俺のところに来たということは、大方そのことで、子分たちに三行半を突き付けられたのだろう、違うか新米リーダーさんよ」
「煩せえ、この老いぼれめ、体力では、とうに勝負がついてるんだ」
言うや黒頭巾がシロタテガミに踊りかかった。
二頭のオオカミが、氷の上で転げながら互いの体に喰らいつく。血と毛がしぶくように氷上に飛び散る。
「さっ、今のうちに、ここから逃げるんだ」
ウィルタが春香の手を引っ張る。その手を引き戻すように春香が叫んだ。
「だめよ、あの白いオオカミは、わたしたちを助けてくれたのよ、放っておけないわ」
春香がウィルタの手を振り払って、二匹のオオカミの方に駆け出そうとする。
その春香をウィルタはとっさに背後から抱きすくめると、声を抑えて言い聞かせた。
「オオカミ同士の争いに、どうやって助太刀するんだよ。ナイフだって、突き刺そうとする前に、こっちが手首を喰いちぎられてしまう。とにかくその杖代わりの棒を貸して」
言うなり、ウィルタは春香の持っていたリウの枝を引ったくると、ポケットからロープを引っ張り出した。三角テントに固定するのに使っている、短いロープだ。
「早くして、シロタテガミさんが劣勢なの」
「分かってる!」
枝先にロープを結ぶと、ウィルタは「いくぞっ」と、春香の背を押した。
シロタテガミは黒頭巾に組み伏せられていた。黒頭巾の牙がシロタテガミの肩に喰い込んでいる。
「ふふ、本当に老いぼれたもんだ、その程度の力しか出ないのか」
「四の五の言ってないで、さっさとわしの喉笛に噛みついたらどうだ」
「ふん、それがあんたの狙いだろう。喉笛を喰いちぎろうとして頭を近づける。その時を狙って、あんたも俺の喉笛に食らいつく。最後の力を振り絞ってな。急所を外さず牙を突き立てる技では、あんたの方が一枚上だ。俺はあんたが血を流して、弱って反撃できなくなってから、ゆっくり息の根を止めてやるさ」
「まったく、それでも貴様はオオカミの端くれか。そんな勝負しかできなかったから、いつまで経ってもリーダーになれなかったのだ」
「何とでも言え」
せせら笑い、黒頭巾が相手の肩に突き立てた牙に力を込めようとした時、氷のつぶてが黒頭巾の鼻面を撃った。
前方で人間の子供が氷の欠けらを投げつけようとしている。
「くそっ、人間のガキどもが」
黒頭巾がシロタテガミを組み伏せたまま顔を上げ、怒りの目を春香に向けた。そして「思い知らせてやる」と一声唸りざま、シロタテガミから春香の方に方向転換。その黒頭巾の後ろ足に、忍び寄ったウィルタが、杖の先につけたロープの輪を引っ掛けたのだ。
跳躍と同時にロープが締まり、黒頭巾は足を引っ張られて氷の上につんのめる。
タイミングを逃さず、シロタテガミが黒頭巾の喉笛に牙を突き立てた。
動脈に突き刺さった牙の脇から、鮮血が吹き出す。
口に溢れてきた血をゴボゴボといわせながら、黒頭巾がシロタテガミを憎々しげに睨む。しかし怒りで燃えるような赤い目も、直ぐにランプの灯を絞るようにくすみ落ちる。
様子をうかがっていた春香とウィルタが、絡みあった二匹のオオカミに近寄る。
「やったね」
「うん、シロタテガミさんの勝ちだ」
二人が安堵の握手を交わす。
その時だ。氷の割れるピシッという音が、氷上の冷気を突き抜けた。
黒頭巾の濁った目が笑うような光を発し、子供たちの悲鳴が氷原に響き渡る。
その音も何もかもを呑み込むように、クレバスの上を覆っていた氷の板が、一気に暗闇の世界に向かって崩れ落ちていく。しばらくの後、深々とした闇を湛えたクレバスの上を、午後の微風が素知らぬ顔で通り抜けていった。
幾ばくの時が流れたであろう。
春香の頭の中に、遠い記憶が浮かんでいた。
上背のある白衣の人と、中背の背広姿の人が、なにやら話し込んでいる。どちらも男性、白衣の男性は若い医師のようで、ネズミ色の背広を着た男性は真っ白な髪からして老人、いや見えている横顔や姿勢は、まだ老齢を感じさせるものではない。外国人だろうか。
背広の男性が、若い医師の手元を覗き込んだ。医師の手に小さな機械……。
医師の声が聞き取れた。
それは新しく開発された人工臓器の一種で、バイオチップを内蔵した人体埋め込み式の自動翻訳機だと。人を冷凍睡眠で未来に送る場合、それも覚醒がかなり先の未来になる場合には、目覚めた世界の言語が今の時代と変化している可能性がある。そのことを考慮して、この自動翻訳機を脳内に埋め込むと良いのではと、医師が背広の男性に提案しているのだ。
医師が性能の説明を始めた。
装置を埋めた人物が冷凍睡眠から目覚めた場合、翻訳機は自動的に装着者の耳が捉えた音声の分析を始め、外部で交わされている言葉が冷凍睡眠に付される前の言語と違っていると判断すると、直ちに新しい言語の翻訳を始める。ただし、装着者が新しい言語を話せるようになるのは、機械がある程度新しい言語を解析し終えてからで、耳に入ってくる情報量などその時の条件にもよるが、新しい言語が話せるようになるのは、おそらく通常の生活をして二週間。その間、装着者の言語活動は自動的に抑制されて、多少の不便が生じることになりますが……、
背広の男性が腰を折るようにして言った。
「娘のためになることなら、何でもお願いします」
娘……、確かに、背広姿の男性はそう言った。それって、わたしのことだろうか。ということは、あれは、わたしの父さん……、でも……、
父さんはあんな白髪ではなかった、わたしの父さんは、もっと若くて……、
でも、もしかしたら……、
そのまま意識は遠ざかり、次に気がついた時には、その白髪の男性が耳元にいた。
目は霞んで何も見えないが、耳が男性の声を捉えていた。
喉に詰まりがちな少し擦れた声……、でもそれは懐かしい響きを含んだ声だ。
「春香や、明日こそ、明日こそは目覚めるかもしれないと、そう思ってお前のことを見守ってきた。そうやって、早や二十年が経ってしまった。訳あって、父さんの人生も残り少なくなった。父さんが元気なうちに、お前にしてやれるだけのことはしてやりたい、そう思って、お前を冷凍睡眠に付すことにしたよ。おまえを未来に送る。未来の医学なら、きっとお前を目覚めさせてくれるだろう、きっと……」
男性の声が途切れ、咽るような咳が耳を打つ。喉にできた腫瘍の手術をして以降、父さんは声質が変わった。頻繁に咳をつくことを除けば、ソウル歌手のような渋い声を私は気に入っていた。
ひとしきり間を置いて、また父さんの、その渋い声が耳に届く。
「一度でいいから、目覚めたお前と、母さんの思い出を語り合いたいと思っておった。だが、それももう必要なくなってしまった。父さん自身が、じき母さんの所へ行くことになりそうなんでな。長い眠りになるかもしれんが、お前が再び目覚めて素敵な人生を送れるよう、天国で母さんと祈っているから。じゃあ、おやすみ……、春香」
「父さん、待って、父さん、わたしは……」
声を出したくても、自分の意識とは別の所に体が転がっているようで、筋肉の繊維の一本さえ動いてくれない。そうこうするうちに、何か蓋の閉まるような音が聞こえ、やがて体を包み込む冷気の中で、わたしの意識は遠のいていった。
……、
また意識の底で、誰かが、わたしに話しかけている。
この声はだれだろう。父さん、いや違うこれは……。
……、
次にわたしが目覚めたのは、ガラスの容器の中でだった。浅黒い肌の自分と同じ歳くらいの男の子が、透明なガラス越しにわたしを覗き込んでいる。
それがウィルタという少年だった。
……あれっ、でも、いま聞こえているこの声……、これは、ウィルタの声じゃない。
いったい誰が、あっ、それより、頬が痛い、
どうしたの、この痛さは、……、違う、痛いんじゃない、これは冷たいんだ。
頬に氷が当たっている。どうして氷が……、
そうだ、わたし、クレバスに落ちて……、
……、
「気がついたかな、娘さん」
頭の中で声がした。
暗闇のなか、自分の顔のすぐ近くで、蒸れたような獣の臭いが漂っている。
春香はゆっくりと目を開いた。闇のなかに自分を見下ろしている二つの赤い目があった。
「あなたは……」
口に出すとも出さないともいえる声で問いかける。
直ぐに頭の中に、「私は、お前さんたちが、オオカミと呼んでいる生きものだ」という声が返ってきた。オオカミという言葉に一瞬体が強ばるが、声に相手を威嚇する凄味は感じられない。それに聞こえてくる声が、あの氷の橋を渡る時に聞こえてきた声、白銀色のオオカミの声と同じだということに気づいた。
闇のなかに、ぼんやりと白っぽい影が浮いている。あの白いタテガミを持ったオオカミだ。その白タテガミのオオカミが、首を上に向けた。
春香もつられて首を持ち上げる。
闇の一歩手前の世界で、辛うじて氷の壁が頭上に向かって伸びているのが見て取れる。
「クレバスに落ちた、ここは氷の割れ目の底だ」
白いタテガミのオオカミが、同じ言葉を繰り返した。
氷の壁が湾曲しているからか、頭上のどこにもクレバスの口は見えない。届く光の弱さからして、自分たちはパルリ氷湖の奥底に落ちこんでしまったのだろう。
闇のなかの赤い目に向かって、春香は心の中で聞いてみた。
「シロタテガミのオオカミさん、わたしと一緒にいた男の子が、どうなったか分かる」
「おまえさんの足元に埋もれておるよ」と、すぐに返事が返ってきた。
「ウィルタ!」と呼びかけると、靴先で何かが動いた。
確かめようと体を起こしかけて春香は顔をしかめた。体中に痛みが走った。クレバスに落ちた際に、どこか打ちつけたようだ。そろそろと手足を曲げ、腰をひねりながら四つんばいになる。痛みはあるが骨は折れていない。
けれど、とにかく暗くて周りが見えない。手に触れるもの、すべて砕けた氷だ。
そのまま手探りで闇を探ると、指先に柔らかいものが触れた。
手の下から「春香ちゃん、指、指が鼻の穴に引っ掛かってる」と、ウィルタの声。
慌てて手を引っ込めた。どうやら氷の間に、ウィルタの顔が覗いていたらしい。
数分後、自力で氷の中から這い出したウィルタが、マッチを取り出し火をつける。とたん春香が叫び声をあげた。春香のすぐ後ろに、舌を垂らした血まみれのオオカミが横たわっていたのだ。ゆれる赤い炎に照らし出されたのは、黒頭巾のオオカミだった。
「死んでるみたいだね」
ウィルタがそう言った時、軽い振動があって、足元の氷がズリッと動いた。
マッチが消えて辺りが闇に戻る。明かりに目が慣れていた分、闇は深い。その全き暗闇のなか、地鳴りのような音がクレバスの下から這い上がってきた。闇の中で物が軋み、擦れ合い、砕け、押しつぶされる音が、鼓膜を圧するように鳴り響く。
そして足元の氷が下に向かって沈み始めた。砂時計の砂が吸い込まれるように、砕けた氷が下の空洞に落ち込んでいる。
「逃げなきゃ、吸い込まれる」
「だめ、足が氷に挟まれて抜けない、どんどん下に引っぱられる」
膝から下が氷に填り込んで身動きが取れない。そうするうちにも、どんどん氷の欠けらの中に体が沈み込んでいく。
「吸い込まれる!」
「だめーっ!」
にぶい音がして、クレバスの底全体が震えた。直後、春香やウィルタを虜にしていた氷の欠けらが、釜の底が抜けたように一気に下に向かって崩れ落ちた。
叫び声も何も聞き取れない、ただ地滑りのような不気味な鳴動と共に、春香たちは氷の底の本当の闇のなかへと吸い込まれていった。
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