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星草物語  作者: 東陣正則
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山シクン


     山シクン


 歩きながら時々雪を払って岩についた苔を確かめるという作業は、思ったよりも楽しいものとなった。苔に混じって生えている草の一つに、小さな赤い実を見つけたのだ。曠野に出かけたミトの面々が口元を赤く染めていたのは、この実を食べたからで、紅珊瑚と呼ばれるその実は、口の中で潰すと爽やかな甘酸っぱさが口に拡がる。

 歩いては苔を確認し、ついでに紅珊瑚の実を探して食べては、また歩く。そんな雪中の行軍になった。

 そして四時間後、やっと氷河の端にたどり着いた。見覚えのある岩があった。双六の振り出しに戻ったようなもので、しかも状況は昨日と同じ。雪で対岸が良く見えない。氷河のどこを通ればクレバスを避けることができるのか、それが皆目分からない。

 仕方なく今度は昨日とは逆に、氷河を下流に向けて下ってみることにした。

 そうして一時間、残念ながら状況は変わらない。

 二人は岩に腰を下ろすと、恨めしそうに氷河を眺めた。時刻はとうに昼を回っている。このまま雪が止まずに足止めを食らえば、いずれ食料が尽きてしまう。

 顔を見合わせた二人は、どちらともなく「とにかく渡ってみよう」と頷き合った。

 お昼を済ませたら氷河に降りて、乾坤一擲、一か八かで横断してみることに。そうと決めたとたん、お腹が空いてきた。紅珊瑚の小さな実以外、朝から何も食べていないし、なにより温かいものが飲みたかった。

 うまい具合に、足止めを食った辺りには、燃料になりそうな苔がたくさん生えている。これは裏を返せば、苔を食べる毛長牛が辺りをうろつき、それを狙ってオオカミが集まってくるということだが、とにかく今はそのことを考えないようにして、二人は岩棚の途中から垂れ下った苔を盛大に剥がすと、雪を除けた地面に積み上げ、火をつけた。

 ウィルタが顔を寄せて息を吹きかけると、湿気を吸った苔が白い煙を上げる。

 なかなか火が大きくならないのを見て、春香がもっと乾いた苔をと、岩棚に手を伸ばす。

 と目の前の雪を被った岩が動いた。

「もう苔は十分取ったろう」

 岩が喋った。

 何が起きたのか分からず呆気に取られた春香の目の前で、

「変わった匂いだ、人にオオカミの匂いが混じっとる」と、また岩が喋った。

 その言葉を話す岩がせり上がるようにして立ち上がると、雪の中から全身が毛で覆われた人とも獣ともいえないものが現れた。雪の上にペタリと尻餅をついた春香の前で、毛の塊の間から白い息が吐き出される。

「別に驚かすつもりは、なかったが……」

 春香は剥がした苔を手にしたまま、ウィルタはウィルタで火を吹く姿勢のまま、体が固まってしまった。ある意味それはオオカミが出てくるより驚きであったかもしれない。

 二人の様子を見て、毛の塊のような者が、「なにもあんたらが、岩みたいにカチコチになるこたあねえ」と、赤黒い歯茎を丸出しにして笑った。ひとしきり笑うと、倒れるようにして四つんばいになり、体をブルッと震わせた。体についた雪が四方に飛び散る。まるで雨に濡れた犬だ。

 化け物に遭遇したような目つきの子供たちに、毛の塊が平然とのたまう。

「なーに、四つんばいになったのは、この姿勢のほうが雪を払うのにいいからだ。わしゃ、れっきとした人間じゃよ」

 声からして、毛の塊のような者は男。その全身を隙間なく毛で覆った男が、ドカッと二人の前に腰を下ろした。毛の奥に、辛うじて人の顔らしきものが覗いている。

「シクン族の方……ですか」

 恐る恐るウィルタが伺いをたてた。

「ああ、山シクンだ。石嗅ぎのブゴと呼ばれておる」

 曠野に住む民には、シクン以外にも様々なグループがいる。石嗅ぎのブゴと名乗った男は、春香の方を向くと、鼻をひくつかせながら顔を近づけた。

 思わず体を仰け反らせる春香に、ブゴが自問するように話しかけた。

「ふむ、それにしても不思議な匂いだ。人の体の匂いは、食い物と暖の取り方で決まる。石炭を燃やして暖を取るやつらには、石炭の臭いが染みついておるし、家畜を飼うやつらには、家畜のしょんべんの臭い。苔を燃やすやつらには、苔の燻したような臭いがだ。しかし、娘さんの匂いは、そのどれとも違う。生まれて初めて臭ぐ匂いだ。それに、このオオカミの臭い……」

 首を捻りながらブゴが、「まったくもって不思議なことだ」と、何度も繰り返す。

 そのブゴの「オオカミ」という言葉に、春香は思いついてポケットに手を入れた。

「オオカミの臭いって、もしかしたらこれのせいかしら」

 春香がポケットから取り出したのは、曠野に足を踏み入れたばかりの頃に拾った、銀白色のオオカミの毛だった。

 ブゴが納得したように全身を揺すった。

「そういうことか、ようやく事情が呑み込めたわい。その銀白色の毛は、シロタテガミと呼ばれておる、ここいらのオオカミの大ボスの毛だ。老狼でな、確か先日格下の黒頭巾に、ボスの座を奪われたはずだ」

 それを聞いて、ウィルタがその毛を拾った時のこと、宿郷の盲楽での一件、そして今朝のオオカミの巣穴のことを説明する。ブゴが大口を開けて笑った。

「ハハハ、知らぬ存ぜぬというのは愉快な事だ。厩舎の駄馬たちが狂ったように逃げまわったのは、娘さんがオオカミの毛を持っていたからだな。駄馬たちは毛長牛よりも臆病、オオカミの臭いに怯えたんだろう。あと、巣穴のオオカミが、おまえさんらに気づかなんだのは、単純におまえさんらが風下にいて、雪が厚く降り込めておったからだ。いずれにせよ、運のいい子供たちだ」

 ブゴは自分に言いきかすように、うんうんと頷きながら喋る。

「この地で生き残っていくためには、その運の強さは絶対に必要なことだな」

 実感なのだろう至極真面目な調子で言うと、ブゴは腰の袋からキセルを取り出した。一服付けながら、ウィルタを上から下、下から上へとまじまじと眺める。

そしてキセルに詰めたモグサをパンと叩き出すと、ウィルタに聞いた。

「ところで、こんな曠野の真ん中で何をやっとる。町人の服を着とるが、中身は誰が見てもシクンの坊主だ。まさか迷い牛を探して、うろついてるとも思えんが」

 ウィルタがここに至るまでのいきさつを掻い摘んで話すと、ブゴが難しい顔をした。

「なるほど山越えをなあ。腰骨峠、あーっ、町ではキアック峠と言うかな。ありゃあ、なかなか手強い。しかしおまえさんらにとって、もっと難しいのは、この氷河を渡ることだろう」

 輪台街道が廃れ放棄された最大の理由は、オーギュギア山脈から流れ出る氷河にある。いくら道を整備しても、流れる氷河によって、氷河上の渉河点は移動してしまう。勾配の少ない丘陵地帯の氷河と違って、山脈の斜面に当たるこの辺りでは、氷河は日々その様相を変えるほどに速く流れる。

 小さい氷河ならともかく、幅一キロにも及ぶ大氷河となれば、氷河の上に荷を積んだ馬車が通れる道を整備するのは、至難の技になる。そういう氷河が山脈の西側を何本も流れ落ちているのだ。山脈西側にある熱井戸の町が次々と閉鎖されていくなか、町を繋ぐ街道や軽便鉄道が曠野の一部に戻っていくのは、時代の趨勢だった。

 ウィルタと春香の二人は、湯の沸くのを待ちきれず、板餅をかじりながらブゴの話に耳を傾けた。ブゴが続ける。

「そうそう、それからおまえさん、さっき苔で方角を決めたと言ったが、苔はあまり当てにせん方がいい。ここいらの地形は複雑でな、南側の苔が良く成長するとは限らんのだ。方位や天候は、体で感じるものだ」

 ブゴは鼻でふんふんと空気を嗅ぐと、納得したような声を苔煙の煙と共に吐き出した。

「風の湿り具合で分かる。この雪は明け方には止み、明日は一日晴天が続くだろう」

 ブゴの話を聞いているうちに、火が消えていた。雪のせいで苔が湿っているのだ。

 ウィルタが焚火に足す苔を岩棚から採ろうと立ち上がると、ブゴが強い口調でいさめた。

「小僧、これ以上苔を燃やす必要はない。茶を入れるならもう十分の熱さだ。お前が燃やしておる苔は、曠野が数百年の歳月をかけて育てた苔だ。茶を飲むなとは言わん。しかし飲むなら人肌の温度で十分。一度熱い湯に慣れれば、次も熱い湯が飲みたくなる。その熱い湯を沸かすために、苔は剥ぎ採られ、曠野が只の荒地になっていく。街道沿いの岩だらけの荒地、あれがいい見本だ。曠野で生きていくなら、ここの掟に従うことだ。そうしないと、いずれしっぺ返しを食う、そうだろうシーラの息子よ」

 叱られたと思って俯いたウィルタが、顔を上げてブゴを見た。

「どうして、シーラさんの名を……」

「分からんか、おまえの体から、発酵茶の香りがぷんぷん匂っておる。それはシーラが作るのを得意にしているメチトトの茶の香りだ。シーラが町の子供を引き取ったという話を聞いたことがある。おまえがそうなのだろう」

 コクンと頷いたウィルタに、「生粋のシクンの子供は、餅を食べたりしないからな」と言って、ブゴが愉快そうに体を揺すった。

 子供たちが苔茶を飲み終えると、ブゴは雪を払い、毛皮のザックを持ち上げた。

「お前さんたちでは、氷河の中の道を見つけるのは無理、付いて来い、案内してやる」

 ブゴがザックを背負うと、着ている毛皮とザックが一体となって、荷をしょっているのかどうかも分からなくなる。

 二人は急いで火を消すと、ブゴのあとに続いた。


 いったん氷河を離れて雪原に出る。歩くと靴が柔らかな感触で沈みこむ。丈の長い霜柱を踏み抜くような感じだ。見ると雪の下に丈の短い星草が生えていた。夏場の湿地帯は水が沁み出し通り抜けるのに苦労するが、今なら岩場よりも歩きやすい。

 いつの間にか、ブゴは雪靴の下にリウの枝で作った輪っかを填めていた。

 雪自体は手の平ほどの厚さしか積もっていないので、ウィルタの履いている普通の平靴でも歩き難くはない。しかし大の男が輪っかを填めた靴でスイスイ進んでいくので、置いて行かれないように付いていくのが大変だ。

 どんどん先を行くブゴに、春香が声をかけた。

「おじさんは、雪を被って、あそこで何をしていたんですか」

 もぞもぞと口を動かし、ブゴが「眠っていた」と答える。

「眠って?」

 ブゴの答えをそのまま繰り返すと、すぐに春香が「寒くないんですか」と続けた。

 今度はブゴがニーッと笑って、足元の雪を指した。

「雪のふとんは暖かい、とくに新雪はたっぷりと空気を含んでおるからな、羽毛のようにほかほかじゃよ」

 冬山で遭難したら、下手に歩き回るよりも、雪に潜り込んでじっとしていた方が体温を奪われない。母から教わったことを、春香は思い出した。でもそれは非常時のことだ。

「毎日、そうやって眠るんですか」

「もちろん、今年もやっと雪のふとんで眠れるようになって、ホッとしとる」

 頷きながら春香が、遠慮がちの次の質問を持ち出した。

「あの、おじさんは、一人で生活しているんですか」

 ブゴがまた口をもぞもぞと動かす。言葉が頭から口に伝わるまで、時差のあるような喋り方だ。やっと言葉が口から出てきた。

「シクンの男は、一人で生きるのが嗜みだ。家族のいるミトに戻るのは、それ相応の理由がある時だけ、薬用の苔や毛皮が集まった時とかな」

「それって、淋しくないんですか」

 もぞもぞと口を動かした後、ブゴが赤黒い唇を開けて笑った。

「お嬢さんも一人で暮らしてみるといい、一人で暮らすということは、何もかも一人でやらにゃならんということだ。飯の準備から、服の繕いから、毛長牛の世話のことまで何でもだ。忙しくて、淋しいなぞと感じる暇はないわ」

 ブゴは何を聞かれても、嫌がらずに答えてくれる。そのことに安心したように、春香が肩の力を抜いて問いかける。

「へえ、おじさんも牛を飼ってるんだ、牛はどこにいるんです」

 今度はもぞもぞなしに「それはな」と、ブゴが話し始めた。

 総じて家畜を飼っている者は、家畜の話になると目を輝かせて自分から喋りだす。ブゴも毛皮の頭巾に隠れて見えないが、相好を崩しているようだ。自分の飼っている六頭の毛長牛の特徴を、こと細かに話しだした。

 二人の後ろを付いて歩きながら、ウィルタはあることに気づいた。春香がブゴに話しかけてから、ブゴの歩きぶりがぐっと遅くなったのだ。

 春香はブゴと並んで歩きながら、ニコニコと話に相槌を打っては、また質問を投げかけることを繰り返している。見方を変えれば、春香はブゴの歩みを遅らせるために、あれこれ話しかけているように見える。曠野を歩き始めた当初、春香がしきりに質問を繰り返すので、答えるのが面倒だなと思ったことがある。今にして思えば、春香はもっとゆっくり歩いて欲しいということを、そうやって伝えていたのかもしれない。

 ウィルタの前を行く二人が、足を止めた。

 雪の平原の先に、十頭余りの毛長牛の群れと人の姿があった。ブゴと同じような格好の人が手を振っている。手を振り返すと、ブゴは今までの朴訥とした話しぶりとは違う早口で、その男と話を始めた。自分たちと話していた時とは違う言葉だ。

「牛飼いの言葉」と、ウィルタが春香に耳打ちした。

「シクンの大人の男だけが使う言葉で、全部は分からないけど、子供たちを氷河の対岸に連れて行くので、もうしばらく俺の牛を預かっといてくれと頼んでる。対して向こうの男が、了解した、戻ってきたら一嗅ぎしてくれって……」

「一嗅ぎ?」

 二人の話し声が聞こえていたのだろう、ブゴが振り向いた。

「一人で暮らしているといっても、いつも一人な訳じゃない。同族はいっぱいこの地にいるからな。昨日から牛を仲間に預けて、今度の交易市に出すブツを取りに行ってたんだ。その帰りに一休みしているところで、おまえさんたちに会ったという訳だ」

 ブゴが背負っていた革袋の中身を見せてくれた。緑色の塊が入っていた。緑青をふいた銅で、交易所で買い付けの業者に売りさばくという。

 今の今まで、ウィルタは交易所のことを、シクンの男たちの物資と情報の交換の場だと思っていた。ミトの大人たちからそう教わったからだ。もちろんそういう側面もあるが、実際には、シクンの男と町の人間が取り引きをする場という意味の方が強い。

 シクンの男たちは、毛皮や薬用の苔、乳製品など、曠野の産物をミトの女たちに届ける。それを女たちは加工して町に持ち込み現金に換える。つまり男たちが原料の生産供給役で、女たちが加工販売係である。

 ただし例外もあって、金属と隕石だけは、男たち自らの手で売却される。

 この時代、鍋や刃物などの金物の材料には、古代の遺跡から掘り出した金属が用いられる。その方が鉱石を精錬するよりも簡単だからで、いまブゴが運んでいる銅の塊は、古い被覆線の中の銅線を集めて叩き、地金の状態にして保存しておいたものだ。ただし鉄だけは、どこでも大量に入手できるため商品にならない。自分たちが必要な時に必要な量を掘り出し、焚石場に運んで刃物などを作るといった使い方をする。インゴットさんの強弓は、焚石場に常駐している鉄鍛冶専門のシクンの男が鍛えたものだ。

 この金属と併せて、男たちにとって貴重な現金収入になっているのが、隕石である。

 二千年前の災厄の際、多種多様な隕石が地上に降り注いだ。

 唱鉄隕石のように迷惑千万なものもあるが、匣電の陽極の材料に使われる亀甲石など、有用なものも多い。ただ亀甲状の結晶紋を持つ亀甲石のように外見上の特徴を持つものは稀で、ほとんどの隕石は晶鉄隕石と同様、柔らかな質感の玉のような石だ。

 その玉様の隕石群の中から有用な石を見分ける手段が匂いである。隕石同士を擦り合わせると、わずかだが特有の匂いが立つ、それを手がかりに隕石を選別するのだが、その微かな匂いをブゴは嗅ぎ分ける。仲間が「一嗅ぎしてくれ」とブゴに声をかけたのは、集めた隕石をブゴの鼻で鑑定してくれということだった。『石嗅ぎのブゴ』の石とは、もちろん隕石のことで、ブゴはシクン一の鼻利きなのだそうな。

「すごい鼻なんですね」と春香が褒めると、ブゴが照れ笑いをして、「石の嗅ぎ分けはオオカミ並み、おなごに関しては鼻づまりと、皆にからかわれておるわ」

 ブゴが全身にまとった毛皮を大きく揺すった。

 

 仲間のいた雪原を離れて石の原野に戻る。半刻ほど歩くと、目の前に氷河が現れた。

 ブゴによると、氷河の渡河点は季節によっても変わるという。

 氷河の流れが蛇行を止め、両岸が狭まっているところで斜面を下りる。氷河の縁に到達するのと時を合わせたように雪が止み、雲の底に視界が開けた。

 左方向、氷河の流れる先に、広大な氷原が見えてきた。

 山脈から流れ落ちる氷河は、地形によっては塞き止められ、ダムのように氷の湖を作る。いま見えているのは、対岸が水平線に連なるほどの氷湖で、この辺りでパルリ氷湖と呼ばれる小氷床である。このパルリ氷湖も、氷湖西岸の地形の低い場所で新たな氷河を押し出し、さらに低い土地へと流れていく。そして最後、ドゥルー海や大陸中央に広がる広大なダイバル氷床へと合流していくのだ。

 地響きのような音が伝わってきた。氷河が氷瀑となってパルリ氷湖に落ち込む音だ。

 二人はブゴに急かされ、氷河の脇に堆積した砂礫の帯に足を踏み入れた。砂礫の下に蒼氷が覗いている。すでに三人は氷河の上を歩いていた。

 ブゴが歩きやすい道を選んでくれるが、進むにつれて氷河の表面が逆巻く波のように激しい起伏を見せ始める。それでも亀裂が縦横に走る氷河の上を、ブゴは何を目印にしているのかと思うほど、すいすいと渡っていく。

 突然、氷と氷の間に川が現れた。氷河の上を流れる川で、見るからに透明な水が、氷の割れ目に吸い込まれるようにして消えていく。

 ブゴの話では、氷河の中にも、底にも、川が流れているという。

 半刻ほどで氷河の対岸の岩に取りつく。絶壁だ。

 反り返ったような岩の壁で、どこにも登り口などない。

「対岸に着いたのはいいけど、こんな岩の壁、とても登れないよ」

 ブゴは無愛想にウィルタの腰を掴むと、荷物ごとヒョイと肩の上に担ぎ上げた。

 立ち上がったウィルタの前に、岩の割れ目が口を開けていた。

「去年はちょうどいい高さにあったんだが、氷河は動いているでな、そんな所になっちまった。割れ目を抜ければ、絶壁の向こう側に出られる」

 かじりつくようにしてウィルタが岩の割れ目に足を乗せ、反転して下を向くと、春香がブゴの肩の上に乗って手を差し出していた。その手を掴んで引き上げる。

 二人して割れ目に這い上がり、ほっとして振り返ると、すでにブゴは氷の間を飛び跳ねるようにして対岸に戻っていくところだった。ウィルタが慌てて呼びかけた。

「おじさん、おじさんは登らないの」

 毛皮の背中から声が返ってきた。

「その割れ目に、わしの体が通ると思うか。それに今日は、そちら側に用はない。さっさと行け、その割れ目は急だぞ、滑って氷河の上に戻って来るなよ」

 そのまま乱氷の向こう側に姿を消すかと思えたブゴが、足を止めて振り向いた。

「このあと一荒れ来るが、明日の朝には晴れ間も覗く。されば山も見える。子供の足でも夕方までには山越えの峠道に着ける。それでは達者で暮らせ、シーラの息子よ」

 励ますように言うと、石嗅ぎのブゴは身にまとった毛皮を揺すりながら、氷のうねりの間に消えていった。ウィルタは、しばしブゴの言ったことを反芻するように、ブゴの消えた氷河の上を見ていた。

 春香は春香で、ブゴに担ぎあげられた際に耳元で言われたことを、思い出していた。

 ブゴが咎めるように耳打ちした。

「氷河の底の匂いのするお嬢さんや、ポケットに入れてあるオオカミの毛は捨てた方がいい。そりゃあ人間が持つべきものじゃない」

 春香は服の上から、オオカミの毛を押さえた。


 狭い岩の割れ目を登り切った先に、対岸と同じ雪を被った岩の曠野が広がっていた。

「どっちへ進むの」と春香が聞くと、ウィルタが思案げに上を向いた。

 空模様が気になるのだ。ウィルタの顔に雪が降りかかる。

 二人が山越えをしたいと言った時、ブゴは難しい顔をした。

 季節の変わり目のこの時期、天候は変わりやすく、旅慣れたシクンの大人でも道を失うことがある。もしどうしてもというのなら、十分な食料を調達した上で、誰かこちらから山越えをする人がいる時に一緒に行くのが、賢明なシクンのやること。そのためにもぜひ、シクンの交易所に足を運ぶべきだと、ブゴは二人に勧めた。

 ウィルタは知らなかったが、峠道の入口にあったシクンの交易所は、今は移動してパルリ氷湖の北東岸にあるという。穴蔵のようなシクンの小屋ではなく、ちゃんと屋根のある石積みの家で、シクンの男が数人常駐しているとのことだ。

 彼方に広がるパルリ氷湖に目を向け、ウィルタが自分を納得させるように言った。

「ブゴの言うとおりにする方が賢そうだ。一度、氷河を下って氷原に出て、それからパルリ氷湖の岸伝いにシクンの交易所を目差そう。それが、峠越えの一番の近道だ」

「急がば回れってことね、うん、わたしはウィルタにお任せ」

 よほどオオカミのいる対岸を後にできたことが嬉しいのか、春香が弾んだ声を出した。

「まったく春香ちゃんは気楽でいいよな、自分で何も決めなくていいんだから」

「だって、この世界のことを何も知らないんだから、仕方ないじゃない」

「そりゃそうだけどさ……」

 声は不服そうでも、ウィルタの目も笑っている。何とか氷河を渡ることができて、ウィルタ自身ほっとしているのだ。

 氷河の北側に連なる小丘を、上り下りを繰り返しながら北へ。手を伸ばせば届きそうな低空を、分厚い雲の底が不気味にうねりながら流れていく。

 いくつもの稜線を上り、また下る。夕刻にかかった頃、ブゴの言葉を裏付けるように風が強くなってきた。風が妙に温かい。それに雲がどんどん東に移動している。

 と突然、猛烈な風が吹き始めた。辺り一面真っ白で、右も左も分からない。手を繋いだ春香の顔もはっきりしないほどの激しい吹雪だ。突風のような風が、この数日来降り積もった雪を地面から剥ぎ取り、巻き上げるようにして吹き飛ばしていく。

 辺りが白一色に塗り潰される直前、二人は辛うじて見つけた岩棚の下に転がりこんだ。風下にあたるため直接風は吹き込んでこない。舞い込む雪を避けるように三角テントを張る。吹雪のうちに、あっという間に日が暮れてしまった。

 朝のオオカミ騒動から始まって、氷河の横断まで、神経をすり減らした疲れがどっと出てきた。苔も見当たらず、カンテラ用の油をコンロに入れて、白湯を沸かして飲む。夕食は板餅を一個半。明日、無事にシクンの交易所に着けるだろうと予測して、少し奮発する。

 板餅はお腹のなかで膨らむ。

 疲れと合間って、二人は泥のように眠りに落ちていった。

 そして夜半、風と雪が嘘のように止み、上空の雲が割れてきた。星明かりが積もった雪を白々と照らし出す。


 その夜のこと、春香はまた夢のなかでオオカミの声を聞いた。

 耳ではなく頭の中に直接、声が聞こえてきた。

「起きろ、目を覚ませ!」

 何度かそう呼びかけられて、春香は奥歯を噛むように、まぶたを持ち上げた。

 頭の中で声は続いている。

「岩棚の外を見るのだ、急げ!」

 頭をもたげ、首を捻るようにして三角テントの外に目を向ける。冷気が首筋を刺す。

 庇のような岩棚の作る黒い影の向こうに、雪原が仄白く広がっている。その雪原の上に、二つずつ赤い星が浮かんで……。

 その瞬間、春香は息が止まり、体が縮むような感覚を覚えた。

 雪原の上に並ぶ四つ足の影、その影の中に赤い星はある。

 あれは目だ。何の目、オオカミだ。違いない。一、二……、三頭もいる。

 痙攣するように小刻みに顎が震える。赤い目は明らかにこちらを見ている。

 オオカミたちは数歩進むと足を止め、危険がないのを確認すると、また数歩進むという動きを繰り返している。

 顔をオオカミに向けたまま、目だけを動かし横を見る。

 ウィルタは、ぐっすりと寝入った顔だ。

 声を掛けようとするが、喉が引きつって声が声にならない。

 慌てて唾を呑み込み、もう一度。

 三頭のオオカミは確実に近づいてくる。とても今からウィルタを起こして、逃げることなどできない。逃げる素振りを見せれば、それを合図に飛び掛かってくるだろう。

 春香は寝袋から腕を引き出し、ウィルタの体を揺さぶった。

「ねえウィルタ、起きて、目を覚まして、お願い起きて!」

 ウィルタを揺さぶりながら、春香はブゴと話したことを思い出していた。春香は尋ねた。もしオオカミと出会ったらどうすればいいのかと。

 するとブゴは、手に持っていたグングール、剣柳の古杖を体の前に構えた。

「火があれば、あいつらは寄ってこない。だがもし火がない時に襲われたら、なにはさておき棒を手にすること。あいつらは銃と棒の区別ができん、だから一瞬たじろぐ。それで怯まないようなら、棒を構える。これで九割方のオオカミは引き揚げる」

「それでも、オオカミが襲って来ようとしたら……」

 重ねて聞くと、ブゴは鼻の穴をヒクヒクと動かせ、しばらく考えた上で、

「その時は、こちらから棒を持って、オオカミに殴りかかっていく。生死を賭けた争いの場合、生き残るのは、より生きたいと願っている方、気迫の勝った方だ。まっ、しかし、腹ペコのオオカミに出会ったら、それは自分に運がなかったと思って、諦めて笑うことだな。死ぬ時は、悲壮な顔で死ぬより、景気よく笑って死んだ方がいい」

 そう言って、ブゴはこんな笑い方はどうじゃと、赤黒い唇をいっぱいに開けて笑ってみせた。でも本当にそんな場面になったら、とても人間笑えるものではない。とにかく自分の意志とは関係なく、口がブルブルと震えて止まらない。

 春香はザックに突っ込んであったリウの枝を引き抜くと、目の前に構えた。

 オオカミたちの動きが止まった。明らかに警戒しているようで、首を下げて低い唸り声を上げている。しかしそれもほんの一瞬のこと、オオカミたちは構えた棒に変化がないことを見定めると、またジリジリと間合いを詰め始めた。

「ねぇ、ウィルタ、ウィルタったら起きてよ」

 片手で棒を構え、もう片方の手でウィルタの背中を寝袋の上から揺さぶる。

 反応がない。もう間に合わない……、そう思った春香は、ウィルタのザックからストーブの入った袋を引き出し、逆さに揺すった。小型のストーブと一緒に、火付け道具一式、火口用の綿苔やマッチの小箱などが、寝袋の上に転がる。

 マッチを摘み出し、箱の側面に擦りつけて火をつける。そこに火口を……、

 炎が上がると、弾かれたようにオオカミたちは反転した。

 そのオオカミが怯んだ隙に、再度ザックの中をまさぐる。しかしカンテラ用の油瓶が手に触れない。ハッとする。ウィルタが油瓶を枕代わりにしているのを思い出したのだ。

 またオオカミたちが、こちらに向かって歩を進め始めた。

 春香がウィルタの頭の下に手を突っ込む。

「ん、な……に?」

 ようやくウィルタが、寝惚けた声を漏らした。

「ウィルタ、起きて。オオカミよ、オオカミ!」

 もうどうにでもなれと、春香は寝袋の上からウィルタの頬を叩いた。

 相手を食ってやるくらいの気迫がなければ、生き残ることはできないというブゴの言葉が、春香の頭の中をグルグルと回っていた。

 オオカミたちは、雪明かりに一頭一頭の顔が判別できる距離まで近づいている。

 そのオオカミたちの赤い目を見ているうちに、春香の中にむらむらと怒りが沸いてきた。なかなか起きないウィルタにも腹が立つ。それに、ぞろぞろと連れ立って、人が寝ているところに押しかけてくるオオカミたちも気にいらない。武器など何も持たない子供の寝込みを襲うという、その卑怯なやり方が許せなかった。

 春香はオオカミたちを睨みながら、ポケットから手拭いを引っ張り出すと、リウの棒に巻きつけ、そこに油瓶の口を押しつけた。

 寒さと緊張で手が震えて、油が棒を伝ってこぼれ落ちる。

 もう先頭のオオカミの鼻面が見える。リズム良く吐き出される白い息が、まるでこちらをあざ笑っているかのようだ。先頭にいるのは、頭に黒い頭巾を被ったようなオオカミだ。真っ黒い頭巾の中に、目だけが嫌らしく輝いている。

 春香はありったけのマッチを箱に擦りつけ、わきあがった炎を、油の滲み込んだ布に押し当てた。もどかしいような炎が棒の先にユラユラと立ち昇る。ところが春香がそれを振りかざしても、オオカミたちは軽く腰を落としただけで、ひるまない。もうこの娘が自分たちを死に至らしめる銃を持っていないと、見切ったような態度だ。

 赤い目が、すぐ目の前にある。先頭の一頭が、今しも飛びかからんと前脚を屈めた。

 春香は火のついた棒を前に突き出しながら、目を瞑った。

「母さん、助けて、わたしを助けて」

 オオカミたちが一斉に雪を蹴る音が……。

 その瞬間、まぶたの向こうが赤く染まり、激しい獣の叫びが大気を震わせた。

 春香は目を閉じたままでいた。目を開けると、そこに牙を剥いたオオカミがいるようで恐かったのだ。しかしオオカミのうなり声の代わりに、ウィルタの咽るような咳が聞こえた。春香は、ゆっくり、一、二……、と数を数えると、目を開けた。

 黒い影となって雪原を散っていくオオカミたちの後ろ姿が見えた。

 リウの枝から、油が燃える時の煤を含んだ黒い煙が、岩棚に向かって立ち昇っている。何が起こったのか分からないが、どうやら助かったらしい。肩から力が抜け、即席のタイマツが手元から滑り落ちて、雪の上でジュッと鈍い音をたてる。

「間一髪ってのは、こういう時のことを言うんだろうね」

 そう言ってウィルタが激しく咳をついた。

 口の中に雪を放りこんでは、ゲエゲエと雪を吐き出している。何度かそれを繰り返すと、ウィルタは惚けたような顔の春香を引き寄せ、その手を握りしめた。

「良かった、ちゃんとできて。上手くやれるかどうか自信はなかったけど、ほら春香ちゃんも見ただろう、夏送りの祭りの夜に、旅芸人が火吹きの芸をやるのを」

「火吹き……の芸」

 春香がぼんやりとした声で言った。

 寝惚けまなこのウィルタが気づいた時には、オオカミは直ぐそこに迫っていた。

 春香が必死に手製のたいまつをオオカミに突き出すが、いかんせん小さな炎。そんなもの歯牙にもかけないとばかりに、オオカミたちはどんどん間合いを詰めてくる。どうすればと考え、とっさにウィルタは枕元に転がっていた油瓶を掴んだ。そして油を口に含んで、オオカミたちが飛びかかってきた瞬間、それをたいまつ目がけて吹きつけたのだ。

 ウィルタの説明に、春香が震えながら頷く。

「そうだったの、良かったわ助かって。ねえウィルタ、お願い。ザックの中の飴を、口に入れてくれない」

 言われるままにウィルタは、血の気の失せた春香の口に飴を取り出し押し込む。

 春香の唇がそれを含む。

「良かった……」という言葉が、もう一度唇から漏れたかと思うと、春香は体を傾け、雪の中に倒れこんだ。気を失ったのだ。

 春香が意識を取り戻した時には、テントの前に積み上げられた苔が、明るい炎を上げていた。焚き火の脇では、ウィルタが腕組みをして白み始めた明けの空を見ていた。雲が去り、空一面に星が瞬いている。

「気がついたかい、春香ちゃん」

 ウィルタが労わるように声をかけた。

「やっぱり子供だけでオオカミのいる曠野を行くのは無謀だった。ぼくは良くても、春香ちゃんをこれ以上危険な目に遭わせる訳にはいかないもの。ブゴの言うように、シクンの交易所に行って、もう一度、今回の旅をどうすればいいか相談に乗ってもらうよ」

 気の抜けたように「そうね」と答えると、春香は瞬く星に目を移した。



第二十五話「パルリ氷湖」・・・・第三十話「火炎樹」・・・・第三十五話「紡光メダル」・・・・

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