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星草物語  作者: 東陣正則
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オオカミ


     オオカミ


 朝、目が醒めると、即席の天幕が雪の重さでたわみ、今にもひしゃげそうになっていた。人の字の岩の中にも雪は吹き込んでいた。ただ嬉しいことに、天幕の布は防水処理が施されているらしく、雪の融けた水がほとんど滲み込んでいなかった。

 ウィルタは寝袋に入ったまま地図を広げて、今後の進路を考えていた。

 春香が寝袋から顔を突き出し、横から地図を覗きこむ。

 昨夜宿郷で食料を調達する際、ウィルタも耳を翼のように広げて、食堂で交わされる話に聞き耳を立てていた。タイミング良く、貴重な情報が耳に飛び込んできた。

 次の宿郷の石楽は、陶印街道の東の終点で、かつ南へ向かう擬石街道の出発点でもある。そこから来た官服姿の男が、石楽にユルツ国の手の者がいて、二人連れの子供が通らないか見張っていると、宿の主人に話していたのだ。問題はユルツ国と関係のない者までが、懸賞金目当てにウィルタたちに目を光らせているということだ。

 地図の上で、ウィルタの指が石楽から南にではなく、北のキアック峠に向かうルートをなぞる。その指の動きに春香が眉を曇らせた。

 春香はリウの繁茂している谷を越えた辺りから、しきりと街道のことを口にするようになった。どうやら、足元の悪い道なき道を行くことの大変さを感じているようだった。だからだろう、春香が石楽から南に伸びる擬石街道に目を貼り付けて言った。

「ねっ、ウィルタ、街道から離れたところを歩いて、食料が必要な時だけ宿郷を利用するというのはどう。どちらか一人だけしか宿郷に姿を見せなければ、疑われないんじゃない。盲楽の宿郷を見た感じでは、旅人にけっこう子供も混じってたもん」

 ウィルタが悲しげに首を振った。

 春香が何故と問い質しげな目でウィルタを見返す。

「だめなの。昨日、馬泥棒に間違えられたから。まだ、お尋ね者の子供たちは街道に現れてないんでしょう。昨日の騒ぎは、馬泥棒ってことになってるんだから」

 ウィルタが違うんだとばかりに、地図の上に転がっていた小石を指で弾いた。

「いいかい春香ちゃん、馬泥棒に間違えられたことが問題なんだ。お尋ね者の子供なんかより、馬泥棒の方が、馬借や御者たちにとっては大問題。あいつらにとって馬泥棒は目の敵だからね。それに御者たちの情報網は凄い。今ごろ、街道中に馬泥棒の子供の人相が伝わって、誰も彼もが目を光らせることになってるはずさ」

「そんな……」

 春香が声を詰まらせた。

 ウィルタはため息をつくと、再び地図の上に指を落とした。石楽の宿郷から北に向かって、オーギュギア山脈の西の裾野を南北に縦断する淡い緑色の点線が伸びている。昔この辺りに熱井戸の町がたくさんあった頃、山脈の北と南を結ぶ輪台街道という大きな街道が整備され、軽便鉄道も通って、大量の人と物資が行き来していた。その街道と軽便鉄道の軌道が、今は通る人もほとんどない原野の道として残っている。それが地図の薄緑色の点線だ。その点線の遙か上、別名を竜骨山脈と呼ばれるオーギュギア山脈の竜の首の付け根に、アルン・ミラという大きな都がある。

 薄緑色の線をたどるウィルタの指が、地図から食み出て、フェルトの上で止まる。そこが北の都、アルン・ミラのある場所で、これまで歩いてきた距離の十倍はある。

「そこへ行くの」

「違うよ、行くのはさ……」

 ウィルタは、石楽から少し上、北に親指一つ分上がった地点に、傍らの小石を置いた。この五日間で歩いてきた距離の半分くらいだ。そこを基点に、北に向かう街道跡の破線が東に分かれ、山脈の中に入り込んでいる。長大なオーギュギア山脈は、中央で大きく括れて標高を落とす。その括れに位置するのがキアック峠で、別名を腰骨峠という。

 春香が不安そうな声で聞いた。

「山脈を越えるの、だって、この峠道も破線ということは、昔の道なんでしょう」

「うん、今は使われていない。でもシクン族の別の一派が山脈の向こう側に住んでいて、時々この峠を越えて行き来してるって話だ。街道沿いを南に進むのがだめ、それに曠野を真っすぐ北の都までひと月以上も歩き続けるなんて、もっと無理。ここから山脈を越えようとすれば、この峠越えの道しかない。山を抜けるから不安はあるけど、シーラさんが勧めたくらいだから、それほど大変じゃないと思う」

 ウィルタは自信をもった口振りで話しているが、春香は屏風のようにそそり立つ山脈の山越えと聞いて、見るからに不安そうな表情を浮かべた。

「でも、わたしたち、とても高い山を登れるような装備じゃないわ」

 逃げ腰の春香に、ウィルタが地図の上、峠の場所に小石を置いた。

「よく見てごらんよ、オーギュギア山脈は四千メートル級の山の連なりだけど、キアック峠はその半分もない。冬に入ったばかりの今の時期なら、まだ楽勝さ。この山越えの道なら、道の入り口まで四日、峠を越えて山脈の向こう側の街道に出るのに五日、合わせて十日もあれば充分。その日数なら、昨日手に入れた食料で何とかなる」

 春香は地図よりもウィルタの顔を覗きこんだ。不安を見せないために、あえて自信たっぷりを装っているようにも見える。

 春香は騙された振りをして、「食料が尽きて、ズヴェルをかじりながら歩くなんて、わたしは、嫌よ」と、冗談めかした。

「大丈夫だよ、それに街道跡と山道への分岐点には、シクンの交易所があるはずなんだ。そこに寄って食料を分けて貰えばいい。それにさ、これはインゴットさんが話してたことだけど、標高の高い所にオオカミはいないってさ。餌の毛長牛がいないからね」

「分かったわ」

 春香は心を落ち着かせるように大きなあくびをすると、寝袋から這いだした。

「どっちにしろ、この世界のことを何も知らない私は、ウィルタに付いて行くしかないんだもの、行くわよどこへだって」

 岩陰から身を乗り出した春香が、周囲を見渡す。

 昨夜逃げ出した宿郷の方向を除けば、小高い岩山がぼこぼこと並んで見通しが悪い。おまけに東の山脈方向には、鉛色の雲がどんよりと低く垂れこめている。

 春香が拍子抜けとばかりに肩を落とした。

「んーっ残念、目標が見えないのって辛いな、ファイト湧かないもん」

 天幕から這い出してきたウィルタが、春香に並んで緞帳のような雲に目を向けた。

 少なからずウィルタもがっかりした様子だったが、大きく伸びをして背後を見やると、

「出発の準備ができたら、後ろの丘に登ってみようよ。丘といっても結構高そうだから、頂上まで登れば辺り一帯が見通せると思うよ」

 口にしなかったが、ウィルタにはなんとなく天気の崩れる予感があった。板碑谷を出発した夜に雪が降って以降、ずっと好天に恵まれている。この時期、晴れの日が一週間も続くはずがなかった。それに妙に風が湿気を孕んでいる。天気の変わる前触れに違いない。空模様が悪くなれば、たとえ見晴らしのいい場所があっても、周囲を見通すことはできない。それなら今のうちにと思ったのだ。

 ここに至るまで、起伏の少ない平原ばかり歩いてきたので、一度この周辺、それにこれから進もうとしている曠野の先を見ておきたかった。なにしろ曠野の一端に住んでいたとはいえ、ウィルタにとって、マトゥーム盆地とその周辺以外は、どこも初めての場所なのだ。何も知らない春香の手前、やせ我慢で自信たっぷりの話し方をしてはいるが、内心は不安で堪らない。その不安を、高いところから周囲を見渡すことで和らげたかった。

 二人は出発の準備ができると、荷物を岩陰に置いて後ろの丘に登った。

 実際に登り始めると、背後の丘は小山ほどもあり、それに不安定な浮石が多く、思ったよりも登りにくい。二十分ほど喘ぎ喘ぎ足を動かし、頂上へ。

 それでも丘の頂きに立つと、登ってみるだけの価値はあった。周囲からポツンと突き出た岩山の頂上から、辺りの風景が一望にできる。

 多少は意識していたが、オーギュギア山脈に向かって歩くということは、山脈の裾野を上がっていくということだ。考えていたよりも遥かに自分たちが高い場所にいるということに、二人はびっくりした。

 東には山脈の裾野の山々が雲海の緞帳から食み出すように波打ち、南には昨夜逃げ出してきた盲楽のウサギの糞岩が、天から落ちてきたように転がっている。

 陶印街道は石楽の宿郷に到達後、擬石街道と名を変えてドゥルー海沿いを南へと下っていく。その擬石街道は、石楽を出てすぐに、山脈の裾野の襞を避けるように西にカーブし、台地状の山の先で山脈から流れ出た巨大な氷河と交差。台地が衝立になって見えないが、氷河はその先端をドゥルー海に落とし込んでいるはずだ。

 南から西に向かって首を巡らす。盲楽の右手に兎尾山、その後ろにウェネボグ山地、その後方にセヌフォ高原の緩やかな丘陵が続く。セヌフォ高原と、いま自分たちがいる岩山の間には、二人がこの間てくてくと歩いてきた曠野の原野が広がっている。

 そしてこれから進む北の方向、そこにあるのは、曠野と岩山とが果てしなく続く光景だ。南の裾野がさざ波なら、こちらは土用波か。

 春香がセヌフォ高原のやや北寄りを指した。

「何だか、曠野にアリ地獄がいるみたい」

 曠野の平原に、くぼんだ擂り鉢状の地形が点在している。おそらくズーリィは、そういう地形の中に作られた町だろう。

「どれがズーリィかな」

 手を廂のようにかざして探すウィルタに、春香が山脈の裾野にかかる辺りを示した。

「ね、岩山ってよく見ると、並んでいるように見えない」

 ウィルタにとって、曠野は自分の育った土地で、細部に想いが詰まっている。そのため、どうしても細かいところに目が行ってしまう。対して春香は醒めた目で地形を見ている。

 岩山が並んでいるように感じるのは、岩山と岩山を繋ぐように、間にも小振りの岩山が転がっているからだ。目を細めれば、大地に線を引いて、そこに大小の岩を転がしたように見える。曠野から山脈の裾野のなかほどにかけて、幾筋かそういう岩山の並びが見て取れる。かつて地球が氷河期を終えた時、広大な平原には、氷河の運んだ巨大な岩が、置き土産のように転がっていたという。いま見えている岩山の列も、もしかしたら何か大きな地球規模の現象の名残りなのかも知れなかった。

 遙か西北の方向、曠野の尽きる先に、氷床と呼ばれる雪と氷の大地が、白い地平線となって横たわっている。しばらくの間、二人はその雄大なパノラマに見惚れた。

 風が西から東に吹いているのに、雲は山脈から這い出るように西へ西へと広がっている。

「そろそろ下りて出発しよう」

 最後、二人は西の地平に目を向けた。

 その方向に、マトゥーム盆地と、ウィルタが暮らし今は無人のミトの跡地となった板碑谷がある。二人は、その方角に軽く顎を引いて会釈をすると、岩山を走り下りた。

 二人が出発するのに合わせたように空気が冷え、細かな霙が降り始めた。それは直ぐに雪に変わり、もうどこからも辺りの景色を見ることはできなくなった。


 二人はひたすら、輪台街道の跡を北に向かって歩いていた。

 ウィルタが歩く速さを少し落とす、すると春香が歩きながら歌を歌うようになった。今までは、ウィルタの歩く速さに付いていくのがやっとだったのが、歌を歌うだけの余裕ができたようだ。ほっとして、ウィルタも歌を口にする。歌いながらウィルタ自身、シーラさんと別れてから歌を歌うのが初めてだということに気づいた。春香は肉体的に速く歩く余裕がなかった。ウィルタは速く歩けても、これからの事を考えて余裕がなく、歌を歌うことを忘れていた。二人は、しばらくの間、久しぶりの歌を楽しむように、交互に知っている歌を口ずさんだ。

 道は元街道というだけあって歩きやすい。それでも時々山脈から流れ出た川によって抉り取られたり、斜面ごと崩れ落ちて、どこが道なのか分からなくなる。また山脈の裾野ではあっても、山肌を横断するために、山脈に向けて歩くのと比べて、道の上り下りが格段に激しくなった。それでも、進むべき道が足元に見えているというのは心強い。細かな雪が頻繁に舞う天気だが、風もなく地面がうっすらと雪化粧をしている程度なので、歩くのに支障はない。二人はただひたすら足を動かして先を急いだ。


 しばらく上りが続いたと思ったら、足元の岩場が垂直に抉れ、前方が小さな盆地になっている場所に出た。マトゥーム盆地の半分ほどの広さの盆地である。

 盆地の底を幾筋もの小川が蛇行しながら流れ、あちらこちらで浅い沼を作っている。黒い鏡をばらまいたような沼の周辺では、丈の低い星草が、雪を被りながらも枯れた茎を寒風にそばだてている。断崖の縁に取りついた春香に、ウィルタが頭を臥せるように合図、盆地の一角を指した。そこにいるものを見て、春香は目を輝かせた。

 二十頭ほどの毛長牛の群れがいた。野生の毛長牛で、体を覆う毛、特にお腹の毛が地面を擦りそうなほど長く垂れ下がり、見た目はまるで掃除のモップだ。今年生まれた仔牛も混じり、少し離れた岩場では、角のある群れのリーダーが用心深く辺りを見回している。群れの牛たちは、星草に混じって生えている水苔を、足元の雪に鼻面を突っ込んで食べていた。

 春香が口を押さえた。ほとんど同時にウィルタもそれに気づいた。

 なんとオオカミの群れが、毛長牛の群れを狙っているのだ。

 子供のいない若い雌に向かって、二頭のオオカミが忍び寄っているのだが、上からだと、それが囮であることが分かる。リーダーの雄牛が群れに警告を与え、オオカミと反対方向に群れが移動を始める。その群れが動くと同時に、反対側に潜んでいた一頭のオオカミが飛び出した。群れが乱れる。が飛び出した一頭も囮だった。役割は群れを撹乱することで、隊形を乱した毛長牛の群れに、さらに岩陰に潜んでいた二頭が飛び出す。狙いは最初から今年生まれた仔牛だった。二頭のオオカミが仔牛に並走、誘導するように親牛から切り離し、最後、湿地の端に追いつめ、足踏みしてしまった仔牛の喉笛に喰らいつく。あっという間の出来事だった。

 春香が驚いたのは、毛長牛たちが盆地の別の場所で水苔を食べ始めたということだ。ほんの目と鼻の先でオオカミたちが仔牛を貪り喰っているというのに……。

 ウィルタが心底感心したように言った。

「餌のある間は、オオカミは絶対に自分たちを襲うことはない、そのことを毛長牛たちは知っているんだ。もし場所を移動して、そこに飢えたオオカミがいたりしたら、どうしようもないもんね」

 説明に頷いたものの、春香は頭が納得しても心が同意しないようで、悪寒でもするように体をブルッと震わせた。

「たとえ理屈で分かっていたとしても、人には絶対に毛長牛の真似はできないわ」

 ウィルタも同感らしく「まったくだよ」と相槌を打つと、興奮して握り締めたままの手を揉みほぐし、地面に下ろしていたザックを担ぎ上げた。

「行こう、オオカミたちが食事をしてる間に、あいつらから離れなきゃ」

「うん、あんなに手際良く襲って来られたら、とても逃げられないもの」

 二人はそそくさと、その場を離れた。


 オオカミを目撃してから、丸二日が過ぎた。

 昨夜は岩の隙間に天幕を張った。

 ところが、あと一日歩けば峠道の入口に到達するという地点で、二人は進路を阻まれた。前方に山脈から流れ出た氷河が横たわっていたのだ。岸寄りには砕けた石がぶ厚い帯となって被さり、氷河のなかほどには、氷が砕け盛り上がった乱氷帯が幾筋も迷走している。人を拒絶するような荒々しさだ。

 渡れるルートがないか目を皿のようにして探すが、雪で視界が悪いこともあって、どこを渡れば対岸に行き着けるかが分からない。

 しばらく谷沿いを上ってみるが、氷河はどこも荒々しくけば立つ流れを見せて険しい。横断などもってのほかと言いたくなる光景だ。そうこうするうちにも、雪は降り方を増し、日暮れが近づいてきた。今夜はもう氷河のこちら側で夜を明かすしかない。二人は日没前に見つけた浅い岩の割れ目に身を寄せた。

 ウィルタが防水布を拡げる。

 盲楽を出て以降、休憩の度に二人で防水布を三角の筒状に縫い合わせてきた。それを、リウの枝を使って岩の割れ目の下に張る。三角の筒は寝袋よりもやや長く、高さは子供の股下くらい。その筒の中にフェルトを敷き、寝袋を二つ並べる。テントというよりは三角形をした大きめの寝袋カバーのようなものだ。それでも、これがあれば吹きさらしの岩の窪地でも、フェルトや寝袋が雪に濡れずにすむ。

 あっという間に夜の闇が訪れた。

 雪が枕元を容赦なく吹き弄っていく。二人は芋虫が巣穴に引っ込むようにテントの奥に潜り込んだ。

 春香が濡れた頭を拭いながら「テントに入り口をつけなきゃ」と、思いつきを提案。

 もぞもぞと服を脱いでいたウィルタが、寝袋から頭を突き出し、水面に顔を出した海女のようにプハーッと息を吐くと、春香の問いかけに応じた。

「折り込んである部分を切り取って、前に垂らすように縫いつけよう。それより春香ちゃん、寒くない」

「ううん、ぜんぜん。服を着込んだまま寝袋に入ってると、暑いくらい。子供の頃、庭の木に、蓑虫っていう木の葉で体をすっぽりと包んだ芋虫が、ぶら下がっていたの。寒風に曝されて寒くないのかなって思ってたんだけど、案外あれ、暑いくらいに思ってたのかもしれないな。それに……」

「それに、なに?」

 寝袋の中で、ウィルタが春香の方を向いた。

「わたし、二千年も氷漬けになっていたのよ。ちょっとくらいの寒さなら、平気だと思う。ウィルタこそ寒くないの」

「ぼくは、大丈夫。風さえなければ、雪が降ってる時は寒くないんだ。それに冬はまだ始まったばかりだからね。本格的に寒くなるのはこれからだよ」

「そうよね、真冬になったら、きっと骨まで凍り付くほど寒いんだろうな」

 丸一日、雪まじりの天候の中を歩き続けた二人は、寝袋の中が暖まるのを待つ間もなく、眠りに落ちていった。

 その夜、春香は久しぶりに、夢の中で獣の声を聞いたような気がした。

 そしてその夜は、ウィルタもその声を聞いたのだ。


 翌朝、雪は霧のような細雪に変わっていた。

 夜じゅう雪が降り続いたのだろう、周囲は白一色で、地面には雪が爪二つ分ほどの厚さで積もっている。乾いた雪で、歩くとキュッキュッと小気味の良い音をたてる。

 かしこに見えていた砂礫の地面や岩肌も、何もかもがすっぽりと雪の衣を被っている。一人寝袋を抜け出した春香は、岩陰で用を足すと、冷えた手を擦りながら辺りを見まわした。自分たちが宿に使った岩の割れ目の反対側に、長方形の岩がドミノ倒しの駒のように転がる場所があった。長方形の石と石が傾きながら、間に大きな洞穴を作っている。

「なんだ、あの穴なら雪を完全に避けて眠れたのに」

 春香がくしゃみを押さえながら一人ごちた。

 その軽く嘆息し背伸びをした春香の目に、穴の手前、地面に這いつくばっているものが目に入った。一瞬にして、春香の腹から背に冷たいものが走る。

 寝袋に入ったまま朝のお茶を入れようとストーブの用意をしていたウィルタの側に、春香が表情が引きつらせて戻ってきた。喋ろうとするが声が上擦って言葉にならない。しかし口の動きで春香の言おうとしていることを察したのか、ウィルタは慌てて寝袋から這い出すと、春香に引っ張られるようにして岩の後ろに回った。

 オオカミだった。

 ざっと見て六頭。穴の中から、小犬のようなオオカミの子供が、じゃれあいながら出てきた。穴の縁には餌にした動物の骨や毛が散らばっている。オオカミの巣だった。体を丸めていた一頭が、口を開けて大きく欠伸をついた。

 二人は後ずさるように岩の割れ目に取って返すと、無言でザックに荷を押し込み、その場を離れた。方角などどうでも良かった。とにかくオオカミの巣から離れなければならない。きのうの夜、二人が夢の中で聞いたと思った獣の声、それは夢でも何でもない、本物のオオカミの声だった。

 しばらくの間、二人は何も話さずひたすら歩いた。走り出したかったが、走るとその音を聞きつけ、オオカミが追ってくるような気がした。音をたてないように必死で足を動かす。一時間以上歩いて、春香が浮き石に足をぐらつかせて尻餅をつく。助け起こしながら、ようやくウィルタが声を出した。緊張しているのか声がカサカサに乾いている。

「驚いた……、まさか、オオカミの巣の横で寝てたなんて」

「わたしもよ。岩の向こうを覗いて、最初は、なんだ、あんな大きな穴があるのなら、あそこに泊まれば良かったなんて考えていたら、穴の中に何か動くものが見えたの。それが何か分かった時は、もう心臓が止まるかと思ったわ。あーっ、本当にびっくりした」

「ちょっとそこの岩棚の下に行って休もうよ、心臓が苦しくて……」

 言われる間でもなく、春香も息が続かなかった。二人は庇のような岩のでっぱりの下に歩み寄ると、そのままそこにペタリと座り込んでしまった。

 緊張の糸が切れたのか、膝がガクガクと震えだす。

 しばらくの間、二人はただ体を震わせていた。

 そして震えが治まってきた頃、ウィルタが思い出したようにザックから油紙に包んだものを取り出した。小指の先ほどの大きさのものだ。

 春香が何だろうとウィルタの手の上のものを覗き込む。

「探してごらんよ、春香ちゃんのザックにも入ってると思うから」

 春香が自分のザックを掻き回すと、針や糸の裁縫道具の入った袋の中から、その油紙が出てきた。手にした丸いものを見て、それが何であるか分かった。なかの一粒を指で摘み、口に放りこむ。ウィルタが笑って同じように自分の口に投げ入れる。口の中で頬を融かすように甘い味が広がる。飴だ。

「シーラさんが言ってたな。緊張を解したければ、歌を歌うか飴をなめなさいって。甘いものは緊張を取る働きがあるんだって」

「うん、それはわたしも知ってる。学校の試験の前に、よく飴をなめてたもん」

 口をもごもごと動かす二人の体から、ようやく震えが取れてきた。

「さあ、どうしよう。訳も分からず、無茶苦茶に歩いちゃったな」

 言ってウィルタが方角を確認しようと、腰の革袋に結びつけていた磁石に手をやり、顔色を変えた。磁石がなくなっていた。気が動転して、結んだ紐を何かに引っ掛け、ちぎってしまったらしい。慌てて服やザックの中を改めるが、もとよりあるはずがない。

「わたしの荷物には最初から入ってなかったし」と、春香が申し訳なさそうに自分のザックを覗き込む。

 ウィルタが厳しい顔で後ろを振り返った。二人のつけた足跡が、雪の上に乱れた足取りのままに残っている。しかしいくら何でも、オオカミのいる方向に戻りたくはなかった。

「雪が止んで、お日様さえ顔を出してくれれば、時計で方角が分かるけど」

 春香が胸元から時計を引き出した。タタンとウィルタが氷河の中で見つけた時計だ。

 あの日以来、時計は紐をつけて春香の首にぶら下げてあった。

「ばかだな、空が晴れれば、山脈が見えて方角なんか考えなくても分かるだろう」

「なにもそんな、怒ったように言わなくたっていいじゃない」

 むっとして言い返した春香が、何を思ったか突然しゃがみこむと、雪を掻き分けた。

「ん、やっぱりそうだ」

 春香が嬉しそうに剥き出しになった石を手でなぞった。

「ほら、この石についている苔、石の向きによって苔の付き方が違うでしょ。こっち側は密によく伸びているのに、後ろは丈も寸詰まりで色も薄い。お母さんに山歩きに連れて行ってもらった時に教えてもらったの。方角が分からなくなって、お日様も見えない時は、植物を見なさいって。たとえば木の幹についた苔は向きによって生長が違う、だからそれを参考にして方角を判断しなさいって」

「そうだった」と、ウィルタが自分の頭を拳でゴンと叩いた。

 緊張したり焦ったりすると、当たり前のことでも頭からすっぽりと抜け落ちてしまう。春香の指摘はもちろんウィルタも知っていた。それでも春香に感謝するようにしゃがみこむと、苔の付き具合を目で探った。

 苔で方角を確認、二人は北に向かって歩きだした。



第二十四話「山シクン」・・・・

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