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星草物語  作者: 東陣正則
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宿郷


     宿郷


 もう数分で日没という時刻になっていた。

 オーギュギア山脈の白い山稜の先端が、西に沈んだ太陽の輝きを印象づけるかのように赤く輝いている。その鏡のような眩しさとは対照的に、街道沿いの曠野には、すでに夜の帳が舞い下り、街道を行く人々は急きたてられるように足を速めていた。

 前にも述べたように、街道といっても舗装した道があるのではない。何百年に渡って人の靴や馬車の車輪、あるいは家畜の蹄に踏み固められた大地が、少々の雨や雪ではぬかるまない道と化しているのだ。その簡易舗装のような街道に、徒歩一日行程の間隔で宿郷と呼ばれる宿屋街が設置されている。

 その宿郷の一つ、陶印街道終点の一歩手前に位置する盲楽は、食事を提供する店が数軒軒を並べただけの小さな宿郷である。一般に宿郷は風を避けることのできる場所が選ばれるが、盲楽の宿郷も、大地に半分めりこんだような丸い岩山を背にしていた。大きさ形といい、兎尾山を小型にしたような丸い岩山で、口の悪い人は、ウサギの糞岩と呼ぶ。ウサギのコロコロした糞に例えたのだ。

 そのウサギの糞岩の北東側、風車の並ぶ土手の際に、氷河の底を流れる水が湧き出し、小川となって宿郷の前を流している。この宿郷を盲楽と呼ぶのは、目の前の小川で目の無い魚が獲れるからだが、人によっては、ここまで来れば目を瞑っていても、街道終点の宿郷、石楽に辿り着くことができるからだと説明する。

 盲楽の宿屋は、一階が食堂で二階が宿泊施設になる。しかし徒歩の旅人や、乗り合い馬車の客は、まず九割がた部屋は取らず宿屋の周辺にテントを張る。すでに盲楽のテント場には十張りほどテントが並んでいた。耳に触れるカリカリという音は、手回し式の発電機をまわす音だ。テントの中で匣電を充電しているのだろう。

 宿の主人たちが、宿郷の目印である街道脇の燭光灯に続いて、各自の店先に白灯を吊るし始める。そんな宵闇の忍び寄る小さな宿郷に、蒲鉾型の幌を張った四頭立ての馬車が三台、御者台にぶら提げた白灯を揺らしながら入ってきた。日暮れまでに到着しようと急がせたのか、駄馬たちの背が汗で濡れ、蒸気のような湯気が上がっている。

 馬車が止まるや幌がたくし上げられ、長時間馬車の荷台に押し込められていた客たちが、ゾロゾロと下りてきた。みな疲れた表情で、明かりに群がる蛾のように宿の食堂になだれこんでいく。静かだった宿郷が、にわかに活気づく。

 その賑わいを背に、御者は駄馬たちの具足をはずし、水場へと轡を引く。途中の納屋では、先着の駄馬が桶に鼻面を突っ込み、飼い葉用の麦苔を黙々と食んでいる。

 ウィルタと春香が到着したのは、そんな宿郷が一番にぎわう時間帯だった。

 三軒ほど並んだ店の前では、具を注ぎ足し注ぎ足し煮込んだ泥汁と呼ばれるモツ煮のスープが湯気を昇らせている。我先にと旅の者が器を差し出し、その泥汁を買い求める。奥のテーブルに運んで、懐から取り出した板餅片手に、ズズッとスープをすすり上げる者もいれば、まずは腹ごしらえよりもコレとばかりに、安酒を喉に流し込む者も、ちらほら。

 宿郷ならどこでも見られる夕餉の光景である。

 旅の食事は押しなべて質素。宿の大小や懐具合に関わらず、ほとんどの者は泥汁と板餅の食事を繰り返す。そして単調な食事を補うように、おしゃべりを交わす。

 宿郷は情報交換の場でもある。泥汁の上を旅の話題がひきも切らずに飛び交う。

 これみよがしの大声で語られる下世話な話もあれば、声を潜めて交わされる金になる話も。それでも大半は、旅の道中に見聞きした異国の情報で、到着したばかりの連中に、そういった類の話が聞こえてきた。

 北からの客が身振りよろしく話を披露する。

 オーギュギア山脈北部の中心地、アルン・ミラの都で、二つの熱井戸が閉鎖された。都での生活に見切りをつけた人たちの大半は、夏の間に山脈東の街道を南に下った。目指すは大陸の中東部、ドバス低地の塁京。もちろん仕事を求めてだ。

 別の卓では、南部の亀甲台地で流行中の牛の奇病が話題にのぼる。

 南部の平原で毛長牛がバタバタと倒れている。脳がスポンジ状になって、最後は体中が痙攣を起こして倒れる病だ。数年前にも同様の病が流行ったが、今回は人にも伝染する型らしく、逃げ出す人で、南部の街道筋はどこもごった返しているという。

 各地の話題が右に左に飛び交う食堂の壁際の卓に陣取り、いかにもここが俺たちの定席とばかりに、泡酒を酌み交わしていたひげ面の男たちが、聞こえてきた奇病の話に、自分たちの与太話を中断して聞き耳を立てた。

 ひげ面の男たちは御者仲間で、みな寒さ避けのマフラーのように、見事なひげを顎の周りに蓄えている。ひげが首元で二つに割れた二股ひげ、よだれ掛けのような箒ひげ、顔全体を包む淡い綿ひげ、ひげ先を編んで飾り玉でまとめたビーズひげ、白髪混じりの灰色ひげ、などなど。髭は様々だが、どの男も肌は一様に日差しと酒焼けで赤黒く、塗りたくった防寒用の脂でテカテカと脂光りをしている。

 二股ひげが、箒ひげに泡酒を杯を勧めながら話しかけた。

「大量に牛が死んでるとなりゃ、仕事を失くした牛飼いが、どっと塁京に流れるな」

 溢れそうになる泡に口を寄せつつ箒ひげが杯に応じる。

「いくら塁京の景気がいいったって、底無しに人が流れ込んで食えるほど、仕事があるはずねえだろうに」

「そりゃあ、そうだが」と杯を返して、また一献。杯をやったりとったり。

 長椅子の端にちょこんと腰掛けた新米御者が、先輩御者たちの話に口を突っ込んだ。

「仕事にあぶれた南部の御者が、こっちに回ってこないですかね」

 ひげもまだ短い新米御者としては、やっとありつけた仕事に影響が出ないか、心配になったらしい。すかさず二股ひげが「今、お前がやらなければならないのは、仕事を覚えることだ」と、革の手袋と防寒帽を投げつけた。

 ほかの先輩御者たちも、次々と手袋と防寒帽を新米御者の前に投げて寄こす。

 磨いておけというのだ。

 最後、年嵩の灰色ひげが、出来上がった手袋と帽子の山に、自分の手袋を重ねて言う。

「奇病は南部の話、俺は足元の方が心配だ。なにせ馬泥棒が出たっていうからな」

 重しの効いた声よりも、馬泥棒という言葉に、その場にいた全員が灰色ひげに目を向けた。話では、久しく耳にしなかった馬泥棒が、石楽から南に向かう擬石街道に現れ、駄馬が一度に四頭もいなくなったという。

 のんびりと杯を酌み交わしていた御者仲間が、全員酒そっちのけで身を乗り出した。

「本当に馬泥棒かよ、オオカミにやられちまったんじゃねえのか。前にも飲んだくれの御者が、馬を小屋に入れ忘れて、オオカミの餌にしちまったってのがあったろう」

「親方に言い訳するのに、馬泥棒のせいにしたって、やつか」

「ばれてよ、ひげを剃られて、馬の糞溜めの上に吊されたんだっけ」

「いや、今回は本当に馬泥棒らしいぜ。いなくなった馬の一頭が、ほかの町の市場で売られてたって話だからな」

「待てよ、その売られてた馬のけつに、オオカミの歯型が残っていたって話もあるぜ。真相は、オオカミに襲われて逃げた馬を、目先の利くやつが取っ捕まえて売り払おうとしたってとこじゃねえのか」

「どっちにしても、今年は妙にオオカミが目につく。まだ人が襲われたって話は聞いてねえが、この調子じゃ、いずれオオカミの胃袋に納まるやつが出てくるな」

 ポンポンと話が続くなか、綿ひげが皆の注目を集めるように音を立てて杯を置いた。

「あーっ、嫌な話を思い出した、牛追いの犬にオオカミの血を入れようと、盛りのついた雌犬を荒野の真ん中繋いでおくだろう。それが一週間ほど前、杭に繋いであった雌犬が、そのままオオカミに食われて骨だけになってたっていうんだ」

「縁起でもねえ!」

 全員が首を振ると、口直しをするように杯を呷った。

「奇病に移民、馬泥棒に、人食い狼……」

「どっかに、景気のいい話は、転がってないもんかね」

「ユカギルの町だって、ようやく熱床を掘り当てたと思ったら、ユルツのやつらが、分捕りに来たっていうじゃないか」

「まったく、自由都市協定なんか反古同然、真っ当な連中のすることじゃねえぜ」

 一転、話題は、オオカミからユルツ国の熱井戸接収の話に移った。

 話題がユルツ国の悪口になったとたん、隣の卓にいた牛面の男が、二股ひげと箒ひげの間を割るように顔を突き出してきた。剥き出しの出っ歯が染めたように黄色い。苔で作った煙草、煙苔のヤニである。それに歯以上に目立つのが、濁った灰色の目、カビが入って視力を失った目だ。

 牛面の男が、灰色の目玉を剥き出しにして話に加わってきた。

「自由都市協定なんてものは、貧乏人の富くじ。誰かが当たりを引けば即ご破算。くじに外れた連中は、当たったやつのお零れに流し目を送るか、それを分捕ろうとするもんよ」

「そうそう、お零れを頂戴するには、連邦府たるユルツ国のプライドが許さねえからな」

 箒ひげが牛面の話を待っていたように、合いの手を入れた。

 ほかの連中も頷きながら杯を重ねる。

「だからといって銃で脅すってのはねえだろ、なっ!」

「それが人の世の常さ」

「まっ、俺たちゃ、盗られたとしても馬だけ、それも親方の馬で、自分の馬じゃねえ」

「雇われ御者の気楽な稼業」

「しかし、どこかに金になるうまい話はねえもんか」

「有るわけねえだろ、そんなもの」

「ない、ない!」と、幼稚園児のようにひげ面全員が声を合わせる。

 と抗うように一声、牛面が「ある!」と思わせぶりの声をあげた。

 一斉にひげ面たちが、牛面の平たい顔に注目。

 自分に向けられた視線が分かるのか、牛面は「あるんだ、これが」と、灰色の目玉でひげ面たちを見返すと、黄ばんだ出っ歯を舌で巻くように舐めた。

「西から来たやつに聞いたんだが、熱井戸を接収したユルツのやつらが、人捜しをしてるんだとよ。それも懸賞金を懸けてだ。お目当てはガキの二人連れで、男の方はシクン族、娘の方は、なんでも氷河から掘り出された二千年前の娘らしい。見つけた者には、一万ブロシュ、捕まえた者には四万ブロシュの謝礼を出すってことだ」

 二股ひげが口に含んでいた泡酒を吹き出した。

「おいおい、四万ブロシュだと、本当かよ。大変な額じゃねえか。四万ブロシュあれば、箱馬車のオーナーになれる」

「四千の間違いじゃねえのか」

 信じられねえとばかりにひげを擦り上げる御者たちに、牛面が自信あり気に卓の中央に置かれたコップを指さした。コップには巻き煙苔が一束突っ込んである。

 なかの一本を二股ひげが引き抜き、牛面の手に握らせた。

 すかさず新米御者が付け火を寄せ、牛面が旨そうに一服くゆらす。

 二口ほど紫煙をその場に立ち昇らせると、牛面が灰色の見えない目を宙に向けて話しだした。ただし声を低めてだ。

 牛面に額を寄せた御者仲間から、「ほお」とか「なるほど」といった声が漏れる。

 離れた卓で聞き耳をたて、様子をうかがっていると、話の途切れる度に、御者の誰かがコップから煙苔を一本抜き、牛面の手に握らせている。

 御者たちは、酒を飲み始める前に、カップに各自同じ本数の煙苔を入れる。そして面白い話を提供した者から順にその煙苔を取る。もし話が煙苔一本に当たらないと見なした場合は、異議を申し立てるように拳で机を叩く。牛面の男は宿の居候。日長一日宿郷の卓に陣取り、聞きかじった面白い話を、ほかの旅人や御者たちに披露しては、酒や煙苔、時に食事のお零れに預かるという暮らしをしているのだ。

 牛面の話に、二股ひげが首をひねった。

「いったい、そのガキたちのどこに、そんな価値があるんだ」

「教えてやるぜ、二千年前の娘の生き血を飲めば、寿命が倍に延びるんだとよ」

 茶化す灰色ひげの歯も黄色い。居候の牛面の歯ほどではないにしても、そこにいる全員が、ヤニで黄色く染まった歯を見せて、下品な笑いと唾を飛ばす。

 二股ひげが、たしなめるように舌を鳴らした。

「よせよ兄貴、気味の悪い。実は俺もその話を聞いたんだ。さっき、石楽に向かう速馬の郵便官が、馬を取り替える際に宿の親父とその話をしていたからな。どうやらユルツのやつらのお目当ては、男のガキの方で、そのガキが、ユルツ国のお偉いさんのご落胤だってことよ、これは本当の話だぜ」

 卓を取り囲んでいた全員が拳で卓を叩いた。ガセネタだろうという意思表示だ。

 残念とばかりに二股ひげが自身も拳で卓を叩く。

「うーん、何はあれ賞金は欲しいな。四万ブロシュあれば二年は遊んで暮らせる」

 悔し紛れで大声を上げた二股ひげの目に、食堂中の耳と目が自分に集まっているのが分かった。

 

 そんな御者たちが喋り、旅の者たちが聞き耳を立てる店の前に、一人の少年が料理を入れる器を持って現れた。ウィルタだ。ウィルタは棚に並べてある乾物を注文すると、泥汁の鍋を覗き込んで、ズヴェルが入っているかどうかを店の主人に確かめていた。

 店の奥に陣取る御者仲間の一人、箒ひげが、ひげ同様の幅広の眉を上下させると、ビーズひげの脇腹を肘で突いた。

 ビーズひげが泡酒の泡を口ひげに付けたまま、店の前にいる少年に目を向ける。

「なんでぇ、男のガキじゃねえか」

 その声に、他の御者たちが一斉に視線をウィルタに差し向ける。

「あれがどうした、ユルツ国のやつらが捜しているのは、ペアのガキだろう。六日前にユカギルの町を逃げ出したってんなら、とっくに石楽から擬石街道を南に下っている頃だ。陶印街道を西に向かっていれば、酒三楽の宿郷、場合によっては蜜楽から、船に乗ってるかもしれねえ」

 ビーズひげの言葉に、黙って先輩たちの手袋を磨いていた新米の御者が、確かめてきますと席を立った。その新米御者の背中を、聞き耳を立てていた店内のほかの客たちまでが、無関心を装いながら目で追いかける。

 板餅と泥汁の勘定を済ませたウィルタに、新米御者が声をかけた。

「やぁ、坊主、どこから来たんだ」

 ウィルタは愛想良く「こんばんは」と挨拶を返すと、

「ぼくですか、三日前にベリアフを出て、これから青苔平原のマカ国に、伯父さんに会い行くところです。それより、マトゥームの盆地を通った時、ユカギルの町に黒服の隊員たちがいっぱいいたけど、あれ、何かあったんですか」

 逆に問われて、新米御者は首筋を掻いた。

「いや、俺の商売はこの宿郷の近辺でな、ユルツの事情には疎いんだ」

「ぼく、ユカギルに伯母さんがいるから気になるんだ」

 ウィルタは心配げにユカギルのある街道の西を見やった。

 素直に受け答えするウィルタを気に入ったのか、新米御者が誘うように顎をしゃくった。「どうだ坊主、おじさんと一緒に飯を食べないか。一人で食ったって旨くないだろう」

「ありがとう。でもぼく、いっぱい歩いて疲れたから、早く食べて眠りたいんだ」

 いかにも申し訳なさそうに、ウィルタは頭を掻いた。

「そうか、無理にとは言わねえが。まあ今年は街道筋にオオカミも出没してるっていうから、気をつけて旅を続けな」

「ありがとう、おじさんもね」

 泥汁の入った器に蓋をすると、ウィルタはその善良そうな新米御者に腰を折った。

 立ち去るウィルタの後ろ姿をしばし見送るように眺めると、新米御者は先輩たちの陣取る奥の卓に戻った。

 外れとばかりに手を振る新米御者に、二股ひげが「くたびれ儲けか」と冷やかす。

「外れ、外れ、ベリアフの出身で、これから青苔平原に行くそうです」

 腰掛けた新米に灰色ひげが、「残念賞」と言って泡酒の瓶を傾ける。

 杯の中で膨らむように泡が持ち上がる。その泡を口で受け留める新米御者の後ろで、牛面と共に茶色い腐酒を飲んでいた男、肉の塊のように太った男が、これ見よがしの声を上げた。

「わざわざ二人揃って買い出しをするはずがねえだろう。器は二つ重ねてあったのに、買ったのは一人前、警戒したんだろうな。それにあの小僧、服は町人の服装だが、靴はシクンの短靴を履いていたぜ」

 ガタンと音をたてて二股ひげが椅子を倒して立ち上がった。

 それより鼻先一つ早く席を立った綿ひげが、猛然と店の外に走り出す。後ろに箒ひげとビーズひげ、それに聞き耳を立てていた旅の連中までもが、「待てーっ、四万ブロシュは俺のものだ」と叫びながら続く。

 我先にと外に飛び出していく男たちの後ろで、牛面の横に座っていた男、膝から下を失い、運動不足と、残り物の泥汁の食べ過ぎで上半身が肉の塊のようになった宿のもう一人の居候が、コップに立ててある巻き煙苔に手を伸ばした。

「一本貰ってもいいかな」

「三本でもいいんじゃねえか」

 牛面が灰色の目玉をグリッと動かせた。


 水場の置き石の後ろで、春香は首を伸ばして宿の様子を窺っていた。

 宿屋街の端に一つだけ目印のように灯された燭光灯以外、宿の明かりはみな白灯である。その白灯が二つ店の中にも吊るされているのだが、いかにも暗い。春香の経験で言えば、倉庫の天井に小さな白熱電球がポツリと灯された程の明るさだ。小学校の体験学習で、行灯だけで一晩を過ごしたことがある。あの時は、余りの暗さに、食事の際、お椀の中に浮いている虫が見えなかった。目の前の宿屋の明かりは、そのロウソクの行灯よりは明るいが、でもとても字は読めないだろう。

 そんな薄暗い宿屋の食堂でも、旅の人たちは笑顔でおしゃべりを交し、食事をぱくついている。この世界では、あの暗さが当たり前なのだ。

 食料を買うと、ウィルタはいったんテント場に向かった。用心のためにテントの間を通り、ぐるりと岩山の後ろを回ってから、春香のいる川岸の水場に戻ってくる予定にしていたのだ。ところが岩山の横に回り込んだ辺りで、店の中から男たちがバラバラと飛び出してきた。夕餉の煙が立ち昇るテントの間を、しらみつぶしに覗き込んでいる。ウィルタを捜しているのだ。

 次々と明かりが灯され、「岩山の後ろに隠れたんだ、両側から挟み打ちにするぞ!」と、男たちの歓声が上がる。店の前で身ぶり手振りも激しく言い合う男たちの何人かが、パッと左右に散って、岩山の後ろに向かった。

 挟み撃ちにされたら捕まってしまう。

 そう思って腰を浮かしかけた春香に、もっと悪いものが目に入った。御者姿の男、箒ひげが、春香が身を忍ばせている小川の岸辺に、白灯を掲げながら近づいてきたのだ。春香の後ろには、砂礫の空き地と、宿の横手から流れ出た浅い小川があるだけだ。隠れる場所などどこにもない。それに逃げ出せば逆に怪しまれてしまうだろう。

 どうしようと、そう思った時、春香は隠れていた置き石の陰を出て、明かりの灯った宿屋に向かって歩き出した。

 宿屋の前では、女たちまでが姿を見せて騒ぎ始めている。

 箒ひげに向かって歩きながら、春香は昔のことを思い出していた。

 自分は切羽詰まった状況に追い込まれると、考える前に、ついなるようになるさと足を踏み出してしまう。考えるのが面倒というのではない、性格なのだ。物心ついた時からそうだった。幼稚園の頃、丸木橋を渡り始めて、前にも後ろにも進めなくなって泣きだしたことがある。戻って来れるだろうと沖合に泳ぎ出て、そのまま潮に流され漁船に助けられたことも。飛行機の予約は取れてなかったけれど、でもどうしても早く家に帰りたくて、母さんを急かせて空港に行って、そしたらちょうど空席が二つあって、シメシメとチケット片手に乗り込んだ。あの時、母さんは、春香のそのなんとかなるさっていう楽観主義に助けられたわねって、褒めてくれた。それが、その飛行機が事故で……、

 春香の前で、箒ひげがキョロキョロと闇の中を探っている。

 春香は近づいてくる箒ひげに向かって声をかけた。

「何かあったんですか」

 白灯をかざした箒ひげが、御者特有の枯れた声を出した。

「お尋ね者の子供が現れたんだ。娘さんも、怪しい男の子を見かけなかったかい」

 明かりを向けられているので、逆光になって男の顔は見えない。しかし朴訥とした話しぶりだ。春香はいかにも歩き疲れたように顎を出して言った。

「ごめんなさい、お腹が空いちゃって、ゴハンのことしか考えてなかったから」

 笑い声とともに明かりが揺れる。

「ワハハ、人の顔まで餅の欠けらってやつか。そりゃあ、怪しい男の子どころじゃないな。店の前で熱々の泥汁が湯気を上げている。早く行って腹の虫を宥めてきな」

 笑いながら箒ひげは、水場の置き石の方に向かって行った。

「お腹が空いてるのは本当だから」と春香は小声で呟くと、悪戯っぽく舌を出した。

春香はそのまま宿屋の前の人だかりに近づくと、途中で向きを変えて、宿の右手、駄馬たちのいる厩舎に足を向けた。厩舎は岩山の右端に接するように建っている。そちらから、ウィルタが男たちに羽交い締めにされて、出てくるような気がしたのだ。

 厩舎の中では、駄馬たちが桶に鼻面を突っ込み餌の麦苔を食んでいる。

 あの厩舎の屋根の影に入ってしまえば、人目に付くこともないだろう。そう思い春香が厩舎の脇に体を寄せた時、太い指が春香の腕を掴んだ。ざらついた声が耳元で喚いた。

「こら、小僧、ここで何をしてる。お前が馬泥棒だな。さっきから店の方が騒がしいんで、もしやと思って見張ってたんだ。片棒がお尋ね者の子供を装って騒ぎを起こし、みなの注意を引きつける。そのどさくさに紛れて、相棒が馬を失敬。ありそうな手口だ。やい盗人小僧、顔を見せろ」

 男が乱暴に春香の頭巾を引く。夜目に、春香の三つ編みの髪が弧を描いた。

「なんだ、お前、娘っ子じゃねえか。益々もって怪しい。こっちへ来い、店に連れて行って調べてやる」

 男が鷲掴みに春香の腕を引っ張った。

 その時、厩舎にいた駄馬がブルンと鼻を震わせた。

 それが呼び水となったのか、厩舎の駄馬という駄馬が、悲鳴のような嘶きを上げて暴れ出す。飛び上がるようにして砂塵を蹴り上げる駄馬もいれば、首を左右に振って隣の駄馬と衝突、ガツンと派手な音をたてるものも……。

 手綱は柱に引っ掛けてあるだけで、結ばれていない。駄馬たちは何かに脅えたように厩舎を飛び出すと、闇に向かって走りだした。

 慌てたのは春香の腕を掴んでいた男で、血相を変えて叫んだ。

「大変だ。馬が逃げたぞ、大変だ、みんな来てくれ!」

 言われる間でもなく、宿郷にいた男という男が、駄馬を連れ戻そうと一斉に走り出した。

 男も春香のことなど忘れたように、駄馬を追いかけ、闇の中に駆け出していた。

 状況が分からず春香は、その場に棒立ちになって、走りまわる駄馬と追いかける男たちの騒然とした様子を見ていた。その春香の耳元で聞き慣れた声がした。

「今がチャンス、曠野の闇の中に逃げ込んでしまえば、誰も追って来れない」

 ウィルタだった。

 二人は宿郷で繰り広げられる騒ぎをよそに、曠野の闇へと走った。

 一刻ほど、盲楽の宿郷一帯では、逃げた駄馬を探す白灯やカンテラの灯が、闇をさ迷うホタルのように動き回っていた。またその明かりとは別に、ウサギの糞岩の上ではチカチカと黄色い灯が点滅を繰り返していた。通信設備のない宿郷では、夜間、灯火信号を使って隣の宿郷と情報のやり取りをする。おそらくは今夜の騒ぎを伝えているのだ。


 春香とウィルタ、二人は手を繋ぎ星明かりを頼りに歩いていた。

 宿郷の明かりが星明りと同じに見えるところまで歩いて、ようやく足を止めた。緩やかな斜面の中腹で、眼下に街道が乾いた白っぽい筋となって見て取れる。

 岩陰を見つけると、ウィルタはカンテラに小さく明かりを灯した。

「ここまで来れば大丈夫だよ」

 荷物を下ろしたウィルタの前で、春香が不思議そうに首をひねった。

「どうして急に馬たちが暴れ出したんだろう。あのおじさんは馬泥棒がどうって言ってたけど」

「いいじゃないか、そのお陰で助かったんだし。それよりお腹が空いた、食事にしよう」

 ウィルタが小脇に抱えていた器の蓋を取った。

「走ったから泡だってるし、おまけに冷めてる」

「仕方ないでしょ、わたしはネギさえ入ってなきゃ、オーケーよ」

「春香ちゃんは、本当にズヴェルが嫌いなんだよな」

 ぼやくように言ったウィルタが、思わず天を仰いだ。そして腰に吊した袋を手で押さえた。中に兎尾山手前の涸れ谷で見つけた黒ズヴェルが八本、束にして入っている。

 ウィルタが心底残念そうに、ため息をついた。

「店の人に売ろうと思ってたのに。いいお金になったはずなんだけど……」

「全く、それどころじゃなかったでしょ」

 たしなめる春香に、ウィルタが気負いこんで言い返す。

「そんなことないよ、節約するところは節約しないとさ。シーラさんが持たせてくれたお金だけじゃ、この後が心配だからね。先のことを考えたら、少しは稼がなきゃ」

 春香が泥汁の中に浮いたネギから、ツッと視線を上げた。

「そっか、わたし何にも考えてなかったけど、旅をするのって、お金が要るのよね」

「もちろん」とウィルタが頷く。そして腰に付けた革の小物入れから、巾着袋を取り出すと、中身を座っているフェルトの上に空けた。

 何種類かの硬貨と、紐で縛った小振りの札束が転がり出る。

 春香の吸い付くような眼差しに、思わずウィルタが巾着袋を持つ手を引いた。

「そんなに目を輝かせて見ないでよ」

「あら、驚いてるだけ。お金という物があるのを、すっかり忘れていたから」

 さっきまでの騒ぎなどまるでどこ吹く風、生き生きとした顔で春香が札を手に取る。

「ねえ、ちなみに、その黒ズヴェルは幾らで売れるの」

「うーん、白ズヴェルは十本で一ビスカだけど、この黒ズヴェルの束なら三ビスカかな。板餅が六個買える値段」

「へえっ、この時代のお金の単位って、ビスカって言うんだ」

「お金の単位は、ビスカ以外にもいくつかあって、ブロシュというのも使うけどね」

 ウィルタが、先ほど買った袋詰めの板餅を取り出し、自慢げに解説を始めた。

「板餅は一個半ビスカ、でも二十個入りのパックで買えば九ビスカ、少し安くなるんだ」

「ビスカに、ブロシュか、変な名ね。それ何か意味があるのかな」

 買った板餅を包みごと春香に渡しながら、ウィルタが天を仰いだ。

 ウィルタは、お金の名前の由来など知らないし、考えたこともなかった。町の子供ならいざ知らず、シクンの子供にとって、お金は縁のない物だ。それにシクンの大人たちは、お金の単位の意味など子供に教えたりはしない。

 板餅を手にしたまま考え込んでしまったウィルタを、春香が慰める。

「いいのいいの、名前の由来なんか、それよりズヴェルがお金になるんなら、わたしも採るわ」

 突然はしゃぎ始めた春香を見て、ウィルタが呆れたように舌打ちした。

「ちぇっ、ちゃっかりしてるの、さっきまでズヴェルは嫌いって言ってたじゃないか」

「あら売るために採るのよ、売ったお金でほかの美味しそうな物を買うの」

「まったく、我ままなんだよな」

「いいじゃない、せっかく違う世界に来たんだもの。色んな物を食べてみたいわ」

「それなら、黒ズヴェルを味見しなよ」

 春香がベーッと舌を出した。その舌の上に、久しぶりの雪が舞い落ちてきた。

 見上げると、いつの間にか星空が半分ほど雲に覆われている。

 花を散らすように舞い始めた雪に、ウィルタが「そうだ、さっきこれを手に入れたんだ」と、ザックの上に縛りつけていた物を外した。丸めた布である。

 ウィルタが悪戯っぽい表情を目に浮かべた。

「宿の連中が追っかけて来ただろう。だから、とっさにこれを拝借したんだ」

 ウィルタが手にした布をクルクルと広げて見せる。シーツのような薄手の布だ。

 岩山の後ろに回る際、ウィルタは干してあった布を拝借、追っ手が迫ると、その布を両手で広げた状態で岩壁に張りついた。もちろん背中を岩側にしてだ。

 くすんだ色の布はうまく岩の表面と同化、追っ手はウィルタに気づかずに通り過ぎた。その布を、ウィルタはそのまま持ってきたのだ。

「人を罪人みたく追っかけるんだもん、布を一枚もらったって罰は当らないさ」

 泥汁を脇に置くと、ウィルタは、この間ずっと持ち歩いていたリウの枝をザックから外した。ナイフで棘をこそげ落としたリウの枝が数本。それを地面に突き刺し、布の端を結び付けてピンと張る。即席の天幕の出来上がりだ。

「すごーい、ウィルタくん、すごい、すごい」

 春香の誉め様に照れたウィルタが、真面目くさった顔で話す。

「前から考えてたんだ。雪降りの時に泊まるところが見つからなかったら困るからね。せめて雪くらいは防げなきゃ」

 食事を済ませると、二人は荷物を背負って歩きだした。ここではまだ宿郷に近すぎると思ったのだ。カンテラで照らしながら、さらに二時間歩く。

 もう一時間と思ったが、空が雲に覆われて星が消え、方角の判断が難しくなったので、今日の行軍はそこまでとした。二人は、二つの大岩が互いに寄りかかるようにしてできた岩の間に潜り込んだ。

 春香がその岩を見て、古代の表意文字の『人』という字に似ていると言った。

「その字は、二本足で立って歩く人の姿を象ったものなんだけど、別の見方もあって、人と人はお互いに支え合って生きている、その意味が込められていると読み解く人もいるの。わたしは、どっちかと言うと、そっちの方が好きかな」

 春香が説明すると、ウィルタが感心したように、カンテラで頭上の岩を照らした。

 人という字の形をした岩屋の間に、先程の布で三角の天幕を張り、その下にフェルトのシートを敷いて今夜の宿とする。

 寝袋にイモムシのように潜り込んで、天幕の中から外を眺める。曠野の夜空を数日ぶりの雪が音もなく舞い落ちていた。



第二十三話「オオカミ」・・・・第二十九話「竜の胃袋」・・・・

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