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星草物語  作者: 東陣正則
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重機跡


     重機跡


 平原の上に抜けるような青空が拡がっている。

 初雪は舞ったものの、本格的な冬将軍の到来まで、まだひと月はある。昨夜降った雪は数日で融けてしまうだろう。

 擂り鉢状の窪地の底にあるズーリィと違って、遮るもののない曠野の平原では、窪地や岩陰を除けば雪はほとんど積もっていない。地面の起伏に合わせてだんだらに残った雪で、大地が遠目には灰色に変わったように見える。

 歩き始めると、直ぐにウィルタは外套を脱いだ。体が温まったからではない。町の外套はシクン族の服とは仕立て方が違っている。体が馴染んでいないために歩き難いのだ。それに歩きながら何度も頭に手を当てる。帽子が無いため落ち着かないのだ。愛用の帽子を風車に取られたまま旅に出てしまったことが原因だが、これはもう諦めるしかなかった。

 仕方なくウィルタは手ぬぐいを頭に巻くことにした。

 この居心地の悪そうな町服姿のウィルタと比べて、春香はシクンの民族服を着用。シーラさんが用意してくれた子牛の革製の外套を羽織っている。この時期、日中は夏の陽気を残して暖かい。二十分もすると体が温まり、春香も外套を脱いだ。

 多少の起伏はあるものの、ガラス質の砂利に、砕けた岩が混じる地面は、いたって歩きやすい。風で動いて安定しないからだろう、砂利にはほとんど苔が付いていない。ユカギル周辺で見た小さな葉が密生した苔はなく、薄いベタッとした紙のような苔が、岩や岩盤に張り付いているだけだ。ここで家畜を育てるのは、さぞや大変なことだろう。

 それでも薄い苔が白い雪を帽子のように被り、融け出した水分を吸って鮮やかな緑を見せている。寒い冬の季節、苔は雪を通した光で育つ。海藻が水を透過してきた光で育つのと同じことだろう。鼻歌でも歌いたくなるような陽気だった。

 額の汗を拭いながら、春香が話を切り出した。

「ねっ、ウィルタはお父さんのこと、何も覚えてないの」

 急に問われて、ウィルタは空を見上げた。思い起こそうとしても、頭の中は取っ掛かりの雲ひとつない晴天の空。寄る辺ない声しか出てこない。

「ぼくがシーラさんの所に置き去りにされたのは、二歳半の時でさ、それでもって両親のことは何も分からないって育てられて、突然、父さんが生きているなんて言われても、実感が湧かないんだよな。もちろん、どこかに両親が生きているんじゃないかって、思ったことはあるけど……」

「でも、有名な人みたいじゃない。黒服たちは、ウィルタのお父さんを捜してるんでしょ」

 興味深々の顔で聞いてくる春香に、ウィルタが振り子のように首を大きく振った。

「それ、きっといい意味で捜してるんじゃないと思うな」

「どういうこと」

「ぼくが捨てられた年に、西の都で大きな事故が起きたんだ。すっごい爆発で、一度に何千人もの人が亡くなったって。ユカギルの町でも、目を開けていられないほど空が眩しく光り輝いたっていうからさ。タタンの父さんも、その事故に巻き込まれて亡くなったし、ガフィが片腕なのも、そのせいだって。タタンや町の人から話は聞いてたけど、まさか、ぼくの父さんが、その事故を引き起こした計画の責任者だったなんて。きっと黒服たちは、父さんを見つけて、その責任を取らせようってんじゃないかな」

「お尋ね者ってことなのかな」

 ケロッと言った春香に対して、ウィルタは沈んだ調子で足元に視線を落とした。

「きっと父さん、ぼくをお尋ね者の子供として育てたくなくて、シーラさんに預けたんだろうな。ばかな父さんだよ、そんなことで息子が喜ぶと思ったのかな」

 歩きながら小石を蹴り上げたウィルタに、春香がさらに疑問をぶつける。

「じゃあ、ウィルタは、人をいっぱい死なせた人の息子だって周り中から苛められても、お父さんを恨んだりしない」

 ウィルタが考え込むように俯いた。

「うーん、そりゃ、やっぱ恨むだろうな、父さんのばかやろうってさ。でもだからといって、ぼくを捨てることはないだろ、春香ちゃんだって捨てられた身に……」

 言いかけてウィルタは顔を上げると、「お父さんは?」と、春香に遠慮がちに尋ねた。

 春香がにっこり笑った。そして明るい声で父親のことを口にした。

「うん、ちゃんといるよ。というか、いたわよ。わたしは別に捨て子じゃないし、普通に両親のいる子供だったから。まあ、父さんは仕事々々で、家を留守にすることが多かったから、ある意味じゃ、いないようなものだったけど。それでも会おうと思えばちゃんと会えたし」

 そう説明してから「でもね」と声を落とした。

「わたしの場合、母さんは飛行機の事故で亡くなっちゃったんだろうし。もしかしたら、わたしが父さんを捨てたようなものだったのかもね。これは想像だけど、たぶんわたしは、植物人間になってたんだと思う」

「植物人間って」

「うん、生きてるんだけど、言葉も感覚も感情も何もかも失って、眠っているような状態のこと。気絶したままの人間て言えばいいかな。きっと父さん、そんな娘を抱えて苦労したんだろうと思う。どうしていいか分からなくて、仕方なくあんな棺に入れて、未来の人に自分の娘を託して。誰も知った人のいない世界で目覚めることまで、考えが及ばなかったんだろうな……」

 喋りながら、春香の声が、どんどん小さくなっていく。そのしんみりした声を跳ね飛ばすように、ウィルタが快活な声をあげた。

「ぼくだったら、知ってる人が誰もいない世界に放り出されるなんて嫌だな」

「それは誰でもそうよ。でもたぶん、父さん、そうするしかなかったんだわ。それが娘にとって一番いい方法だと思って。でもわたし別に恨んでなんかいやしない。きっと父さんにすれば、善かれと思ってやってくれたんだろうから」

「そりゃそうさ、ぼくの父さんだって、善かれと思ってぼくを捨てたんだろうし。でも、もし父さんに会ったら、ぼく、思いっ切り文句を言ってやるよ」

 頬を紅潮させてそう言うと、ウィルタは春香が下を向いているのを見て、「ごめんね、春香ちゃん」と、慌てて言い訳を口にした。春香が父親と会うことも話すこともできないということに気づいたのだ。

「いいのよ、そんなの仕方のないことだもん。昔に戻る訳にはいかないし。でもわたしは、亡くなった母さんの思い出をいっぱい持ってるけど、ウィルタには、お母さんの思い出がないんでしょう。そっちの方が、よほど悲しいことだわ」

 母親の話題を出されて、今度はウィルタの声が小さくなった。

「母さんかあ……、シーラさんが、昨日別れる間際に教えてくれたんだ。ぼくの母さんは、事故の時に亡くなったんだって。一度くらい会って声を聞きたかったな」

 天気に似合わず、二人が沈んだ気分になりかけた時、春香が「あれっ」と声をあげた。

「見て見て、雪の上に足跡がついてる。何だろう、手前から向こうに続いてる」

 春香が、はしゃいだように小さな足跡の残る窪地に走った。

 屈んで雪の上を覗き込む春香に、ウィルタが襟首の縁取りを示した。

「坊主ウサギの走り回った跡だよ。ほら、頭巾や外套の縁に縫い付けてあるのが、坊主ウサギの冬毛。この毛のお陰で、吐く息が氷になってへばりついたりしないんだ」

 首を伸ばした春香が、どこかに坊主ウサギがいないかと辺りを見まわす。

「だめだめ」と、ウィルタが首を振った。

「坊主ウサギは人がいると出てこない。もし見たければ、一時間は石のようにじっとしてなくちゃ。じっと待っていれば、チッチッってよく通る甲高い鳴き声が聞こえてくる。その声に合わせて、体を動かさずに、目だけで音のした方向を見るんだ。そうすれば、石の上に二本足で立っている坊主ウサギを見ることができる。いや坊主ウサギだけじゃない。この辺りだと、拳くらいの大きさの、お歯黒ネズミなんかも見られるはずさ」

 ウィルタが腕を広げ、舞台を紹介するように解説する。

 そのウィルタの大げさな話しぶりに、「ウィルタって自然観察の指導員さんみたい」と、春香が感心したように手を叩いた。

「なんだい、その何とか観察員って」

「わたしの時代には、野外で自然のことを解説する仕事があったの」

「仕事ってことは、それでお金が貰えるんだろ、変だね」

「あら変じゃなくてよ。人がたくさん住んでいる都会には、野生の生きものなんていないから、町の人たちが自然の中に出かけていく時には、そこの自然を説明してくれる人が必要になるの」

 良く分からないとばかりに、ウィルタが首をひねった。

「町に暮らしている連中が曠野の生き物の事を知らないってのは、そうだろうけど、お金を払って説明して貰うってのが、よく分からないなあ」

「いいのいいの、それよりほら、あの雪の上にある大きな足跡はなに」

 てくてくと歩き始めたとたん、また春香が別の足跡を見つけて駆け寄る。

 帯状に積もった雪の上に、大きな足跡が残っていた。

「毛長牛の足跡だよ、野生の」とウィルタがあっさり断定、

「蹄が二つに割れてるだろう。それに雪が盛んに蹴散らかされてる。毛長牛は、冬になると蹄で雪を掻き分けて、積もった雪の下の苔を食べる。だからそれが癖になってて、雪とみるとすぐに蹄で掘り返してしまう。蹄の跡は一頭分だけみたいだから、群れから逸れたやつだろうね。野生の毛長牛は、家畜の毛長牛より二回りほど小さいけど、蹄の大きさは同じなんだ」

 ウィルタの解説になるほどと頷きながら、春香は目の前の曠野を見渡した。

「そうなんだ、曠野っていうから、動物なんか何もいないのかと思ったけど、けっこういろんな生きものが住んでるんだ」

 ウィルタが、その感想を待っていたように気取って言った。

「曠野ってのは、町の人間が使う言葉でさ、シクンや、ほかの曠野の民は、決して曠野なんて言葉は使わないもん」

「え、じゃあ、何て」

「ワハジ・ザビ」

「意味は」

「苔の泉ってこと」

 春香が頷く。そして直ぐさま、「ねっ」と、ウィルタに話しかけた。

ウィルタは、春香が何か見つけたり質問をする度に足が止まることに気づいて、

「春香ちゃん、歩く歩く、春香ちゃんは話しだすと歩くのが遅くなるから」と、春香を急き立てるように足を早めた。

「ちょっと、そんなに早く歩かないでよ」

 すたすたと先に行きかけたウィルタの後ろで、また春香が声をあげた。

「ウィルタ、見て、あれ、あれ」

「早く行かないと日が暮れちゃうよ」

「だって血が……」

 さすがに血と言われて振り向いたウィルタの目に、窪地の白い雪の上に残る赤い色が目に入った。慌てて駆け寄ると、確かに血だ。おまけに辺りには掻き乱したような足跡が幾つも残っている。ふっと顔を上げて辺りを見回したウィルタは、周囲にその者の気配がないことを確かめると、ぽそりとその名を口にした。

「オオカミ……、これ、オオカミの足跡だよ」

「オオカミ!」

 春香がオウム返しに叫んだ。雪の上に残された跡は、間違いなくオオカミの足跡、それも何頭かが争った跡のようだ。雪に滲んだ赤い血に混じって、肉片の付いた毛の塊まで落ちている。春香がその一つを拾い上げた。銀白色の美しい毛だ。

 珍しげにオオカミの毛を見つめる春香の横で、ウィルタは考えていた。血痕はまだ赤い血の色を残している。ということは、先程までオオカミがここにいたということだ。

 ウィルタは無言で立ち上がると、硬い表情で春香に「行こう」と呼びかけた。

 春香はもう少しオオカミたちの争いの跡を見ていたかったが、ウィルタの真剣な表情に押されて立ち上がった。

 オオカミの足跡を目撃したせいだろうか、ウィルタが今までになく早足で歩く。

 小走りに追いかけながら、「ゆっくり歩いて」と春香が注文をつけると、「やだ、オオカミに食われたくない」と、ウィルタが怒った声を返した。

 怯まず春香が質問をぶつける。

「オオカミって、人を食べるの?」

「食べる、とくにお喋りな人間の女の子を」

「嘘!」

「嘘じゃない、去年の冬も、お喋りの、そっ、ちょうど春香ちゃんくらいの歳格好の女の子が襲われた」

「嘘つき!」

 息を切らせて追いついてきた春香に、ウィルタが口をへの字に曲げた。

「嘘じゃない。オオカミは鼻も利くけど耳もいいんだ。オオカミのボスになると、人の言葉が分かるし喋ることだってできる。物陰に隠れて人の話に聞き耳をたて、夜になるとその時聞いた話や人の名前を使って人を誘い出す。そして噛み殺して食べるんだ」

「嘘、嘘よ!」

「嘘なもんか、オオカミは人間の肝が好物なんだ。人間だって動物の肝を重宝するだろう。肝は栄養たっぷりだからさ。オオカミは、冬越しの栄養をつけるために、人間の肝を食べる。その証拠に、内臓を食い散らかされた旅人の死体が、曠野沿いの街道で時々発見されるもん」

 春香の頭の中に、ばっくりと腹を抉られた旅人の姿が浮かんだ。

 顔を引きつらせた春香を見て、ウィルタが「コホン」と咳をついた。

「だからさ、大人は子供に言って聞かせるんだ。夜中に変なところから名前を呼ばれても、絶対に返事をしたり、付いて行っちゃだめだってね」

 ウィルタが何食わぬ顔で話を閉めた。

「なによ、それって教訓話なの」

 騙されたと思って、春香がほっぺたを膨らませた。

 そんな春香に構わず、ウィルタは真面目な口調に戻ると、

「思わぬところで、オオカミが人の話に耳を傾けてるってのは本当だよ、だから……」

 言いかけて春香の肩越しに目を向けるウィルタの顔が、強張っている。

「春香ちゃん、その岩の後ろ……」

 ウィルタの押し殺した声に、春香は恐る恐るウィルタの指す方向に顔を向けた。雪で濡れた岩が転がっている。

 真剣な表情で、春香が「どこ」と聞く。

「ほら、中央の平べったい石の上……」

「え、どの石」

 目を皿のようにして石を見つめる春香を横目に、ウィルタの肩がピクピクと動く。

 気づいた春香が「あっ」と、ウィルタを睨んだ。

 ウィルタが表情を崩して笑いだした。

「ほら、そこの平たい石の上にあるだろ、ウンコが。曠野のオオカミって、そういう石の上にウンコをするんだ」

「もう、オオカミがいるのかと思ったじゃない」

 顔を真っ赤にして怒る春香を、ウィルタが、さも面白そうに見返す。

「とにかくオオカミがいることに違いはないんだから、急ごう。旅は長いから、お喋りはいつでもできる。オオカミに食べられて、石の上のウンコにされるのは嫌だろう」

「もう、お喋りは、そっちでしょう」

 鼻をプンプンさせながら、春香がウィルタを追い越した。

 その春香の後ろを、今度はウィルタが口笛を吹きながら付いていく。

 どこまでも青い空が続いていた。


 太陽が西の地平に没する少し前に、ようやく二人は次の熱井戸の跡地に辿り着いた。

 ズーリィよりも前に見捨てられた町のようで、すでに町は突き崩した瓦礫の丘に戻り、中心部は陥没して小さな沼に変わっている。熱井戸の建て屋だろう箱型の建物が傾いたまま崩れずに残っていたが、風化が激しく、中に入るのはためらわれた。

 二人は大型の重機の残骸を見つけると、重機と地面の間に潜り込み、そこで一夜を過ごすことにした。錆びた鉄の匂いが漂う三畳ほどの空間である。

 うまい具合に、重機の側面にびっしりと苔が張りついている。曠野では珍しい針金状の苔で、表面は昨夜の雪で湿り気を帯びているが、内側はカサカサに乾いて、まるで突き固めたスポンジである。ウィルタは、その固くしまった苔にナイフで切れこみを入れると、ブロックを抜くようにゴソッと引き剥がした。

「凄いね、ウィルタって。どこでも生きていけそう」

「エッヘン」と、ウィルタが咳払いをした。

「こんなことで誉めないでよ。でも旅に出ることが分かっていたら、シーラさんに、もっと曠野での生活の仕方を教わっておくんだったな。ぼくは曠野に出かけるよりも、タタンのいる町に行く方が好きだったんだ。だから毛長牛の世話も下手だし、いざという時の雪屋の作り方も知らないもん」

「雪屋って」

「雪をブロック状に切り出して積み上げ、家を作る方法があるんだ。シクンの大人の男なら、だれでもやってることだけど……」

 感心している春香の前で、ウィルタはナイフの刃を手袋の背で拭うと、

「春香ちゃんのザックにもナイフが入っているはず、それでもう少し苔を剥がしておいてくれるかな、ぼくは日の沈む前にやっておきたいことがあるから」

 ウィルタは苔の切り出しを春香にバトンタッチすると、沼の方に駆け出していった。

 ウィルタのものより一回り小さいナイフが入っていた。

 実際にやってみると、針金苔の切り出しは、思いのほか力を要する仕事だった。表面の生きている苔ではなく、下の古い層の苔は、木質化した繊維が、がっしりと木の根のように絡み合って、力を込めて一気に引きちぎらないと、ナイフに苔の繊維が絡みついて動かない。鋸を使って切り出したいような固い苔だった。

 仕方なく切り出す線に沿って順番にナイフを突き立てていく。勢いをつけて突き立てるくらいなら、非力な春香でもできる。ぐるりと長方形に刻み目を入れ、次にギシギシとナイフを上下に動かしながら切れ目を広げて、最後そこに両手をねじ込んで力任せに引っ張る。ベリッと壁紙が剥がれるような音がして、一塊の苔のブロックが引き出された。ウィルタの切り出したブロックに比べれば、小さくて形もいびつだが、切り取ったことに変わりはない。春香はフーッと大きく息をつくと、一人笑みを浮かべた。

 でも、不思議なものだと思う。

 春香の知っている苔は、ふかふかのクッションのようなもので、どう考えてもこんな堅い木の根っこのようなものではない。湿ったところに生えて、古くなればグズグズに腐って土と変わらなくなってしまう日陰の柔らかい植物だ。いま手にしている苔は、自分の知っている苔とは、全く別のものなのかもしれない。いろんな『もの』や『こと』が、自分の生きていた二千年前とは変わってしまったのだろう。

 苔のブロックを積み上げ一息ついて顔を上げると、さっきまで黄色だった太陽が、地平線の上で赤く色づいていた。

 その赤い夕日を背にウィルタが帰ってきた。枯れ枝のようなものを一束小脇に抱え、手に糸のような草を数本握っている。ムチのような枯れ枝は、昨夜、瓦礫の中に埋もれていたリウの枝と同じものらしい。一方、糸のような草は、春香がこの世界で初めて目にするものだ。

「なにそれ?」

 目を輝かせて覗き込んだ春香に、ウィルタが勇んで名前を口にした。

「ズヴェルだよ、餅ばかり食べてたら、体の調子を崩しちゃうからね」

 糸のような草の根元が、心持ち膨らんで紡錘形の球根になっている。その球根についた苔の切れ端を、ウィルタが指先で、ていねいに払い落とす。

 顔を寄せた春香が、ブシュッとくしゃみをした。

 ウィルタが、にやりと笑う。

「時々いるんだ、ズヴェルの臭いの苦手な子ってのがさ。お喋りの女の子に多いんだけど、でも緑の物を摂らないと体に悪いから、食べなきゃだめだよ」

 泣きそうな表情を浮かべた春香が、ズヴェルをウィルタの方に押し返した。

「どうしてよ、それネギじゃない。一番嫌いな野菜なのに、ほかの野菜はないの」

「春香の時代には、いろんな植物が生えてたんだろうけど、今の時代、とくにこの曠野で簡単に手に入るのは、これだけなんだ」

 声を強めて言うと、ウィルタはズヴェルをちぎって口の中に放りこんだ。

「どうしてかな、こんなに美味しいのに」

 嬉しそうに口を動かすウィルタを、春香は目を吊り上げて睨んだ。

「ウィルタの意地悪」

「何言ってんだよ、ぼくは春香ちゃんのことを思って言ってるんだよ」

「そういう顔じゃない、面白がっている顔よ」

「そうかな……、まっ、煮ちゃえば、臭いは飛んじゃうけどね」

 喋りながら、ウィルタは地面に石を並べた。即席のかまどである。そこに針金苔を置いて、昨夜のように火打ち石で火をつける。マッチも持っているが、よほどの時でないと使わない。乾いた苔には簡単に火がつく。その炎の立ち上がった針金苔から、チンチンと赤い火花が飛ぶ。まるで金属の粉でも含まれているような燃え方だ。

 少しずつ苔を足しながら、火が大きくなってきたところで、石のかまどの上に雪を山盛りにした鍋をかける。新雪などは九割方が空気で、手でギュッと押し固めておいても、融ければさらに嵩は減る。二人は苔を足しながら、雪が融けて萎んでいく様を見守った。

 重機の間から見える外の風景が、赤紫色に染まってきた。

 湯が沸騰すると、ウィルタは塩を一つまみと茶色いサイコロ大のスープの素、それにナイフで刻んだズヴェルの葉と球根を鍋のなかに落とし込む。春香が恐い顔をしてズヴェルを睨み付けたが、ウィルタは、それを無視、口笛を吹いて誤魔化した。

 鍋をスプーンでゆっくりかき回すと、スープの素が溶けて、お湯がとろみを帯びてくる。そこに朝と昼も食べた四角い餅のようなものを二切れ、放り込む。春香から見て餅のように見えた白っぽい塊は、この世界でもやはり餅と呼ばれ、この時代の主食である。様々な形状の物があるが、いま鍋に入れた四角い板餅が最も代表的なもので、この板餅がスープに入って溶けると、モッティーと少し洒落た名で呼ばれる。

 餅をスープに入れると、鍋を火から少し遠ざけ、ゆる火でしばらくそのまま煮込む。

 ウィルタは、カチカチの石のような板餅が、水分を含んで少しとろけ始める寸前を見計らって、鍋を火から下ろした。

 スープを器に取り分けながら、ウィルタが春香の質問を先取りするよう言った。

「この火から下ろすタイミングが難しいんだ。早すぎると板餅が固いし、遅れるとドロドロになっちゃう。さっ、冷めないうちに食べて」

 春香は渡された真鍮製の器に匙を入れて一混ぜすると、顔を上げて微笑んだ。

「ありがとう、ネギ、えーっとズヴェルだっけ、減らしてくれたのね」

 ズヴェルの欠けらが、ほんの数切れしか入っていなかった。

「お礼を言うのは、スープを味わってからにしてよ。これが食べられなかったら、この先、旅行ができなくなってしまうんだから」

 ウィルタの脅しに、春香が緊張した面持ちでスープを口に運ぶ。

 春香の口元を見つめながら、ウィルタが「味は?」と聞く。

 昼に食べた焼き餅は香ばしいたれが塗ってあったので、餅そのものの味は記憶にない。いま口の中にある溶けかけの板餅も、感じるのはスープの味で、餅本体の味はしない。それでも何度か噛んでいるうちに、舌の上にほんのりとした甘味が広がってきた。板餅は、やはり食感も含めて、古代の餅とすごく似たものだ。

 ただしスープの方は、春香が初めて口にする味だった。動物の肉汁のような味もするし、植物の青臭さも感じる。おまけに乾し魚の少し黴びたような味に、甘酢のような酸味も。要は、ありとあらゆる味をいっしょくたに詰め込んで、一つにまとめあげたような味といえばいいか。まずくはない、でも美味しいというものでもなかった。春香は子供の頃に病院で食べた、入院食の「調味おかゆ」の味を思いだした。

「どう?」と、 もう一度念を押すように聞かれて、春香は少し首をひねると、「体に良さそうな味ね」と、言葉を探すように答えた。

 ウィルタは春香がスープを気に入ってくれたものと思い、ようやく匙を自分の口に運んだ。

「良かった、もしスープの味が口に合わなかったら、どうしようかと思ってたんだ。たぶんこのあと、毎日、このスープを食べることになるだろうからさ」

「ずーっとなの」

「うん、ミルクが手に入れば、ミルクの中に板餅を入れる。ミルクが無ければ、味素のグリを溶かしたスープで煮るんだ。それがグリ・モッティー。ミルクに味素とモッティーを入れれば、ミルク・グリ・モッティー。お祝いの時なんかには、肉を入れて、グリ・モッティー・アトラ。アトラは毛長牛の肉のこと。魚の肉が入ればグリ・モッティー・ギーヨ」

「ギーヨは魚の肉ってことね」

「そういうこと」

 食後、ウィルタは、食料品の入った袋を重機の座席に広げた。

 けばけばしい朱黄色の箱には、スープの元、味素のかたまりが、キャラメルのようにぎっしり詰め込まれている。一切れがタバコの箱くらいの大きさの板餅は、十個一まとめにして、強々のハトロン紙のような紙に包まれている。どちらも思い起こせば、パーヴァさんの宿、酔騏楼の帳場の棚に並べられていたものだ。あとは練り歯磨き粉の入ったチューブのような容器。中にペースト状のドロッとした赤いソースが入っている。これを板餅に塗って焼いたものが、昼間食べた香ばしい焼き餅である。残りは、拳大の毛長牛の固乳に、脂肪の塩漬け、岩塩のかたまりが二かけ、メチトトのお茶が一袋、それで全てだ。

 春香が自分の荷を調べてみると、食料はウィルタと同じものが同じ量入っていた。

 ウィルタの荷物との違いは、ウィルタの荷に、携帯用のコンロと、燃料ビンが入っていることくらいだ。

 ウィルタは指を折って計算していた。一日に板餅を二個半食べるとして、食料はちょうど一週間分。次に食料を調達できる場所は、山脈に沿って北に進んだ場合は、キアック峠の入口にある交易市で、南側に進んだ場合は、陶印街道終点の石楽の宿郷。そこまでの行程で考えれば、何とか及第点をつけられる量だ。

 もっともチェムジュ半島は果てしなく遠い。行き着くまでには、何度も食料を補充しなければならない。シーラさんから渡されたお金では、とても足りるはずはなく、どこかで食料や燃料を買うためのお金を工面する必要がある。ただウィルタは、お金のことは春香に言わないでおこうと思った。お金の問題は、お金が無くなるまでに何とかすればいい。とにかく今は、ひたすら歩くだけだ。

 食料を丁寧に袋に詰め直しているウィルタの後ろで、ガリッと音がした。

 春香が固いままの板餅を齧ったのだ。

「んーっ、そのままじゃ固いし、味も何にもしないわ」

「そりゃそうだよ、板餅は生で食べるもんじゃないもん」

 手の平の上で板餅の欠けらを転がしながら、春香が不思議そうな顔をした。

「ねえ、これ何でできてるんだろう、小麦なのかな」

「小麦って、昔の人が粉に挽いて食べてた植物の実だろ。餅は火炎樹という木の液から作るんだ」

 春香が穴の開くような目でウィルタを見た。

「樹の液って、そんなものから餅ができるんだ。ねっ、それどんな木、この近くにも生えているの」

 春香の眼がキラキラと輝く。これは春香がそのことに興味をもった証拠だ。ウィルタは、春香の聞きたがりが始まったと思って、「知らない、ボクも話だけで見たことないもん」と、春香の気を逸らすようにとぼけた。

「あーっ、ずるい、知ってて隠してるでしょ」

「ほんとに知らないんだって、はい、これ」

 ウィルタが、ズヴェルと一緒に採ってきたリウの枝を春香に渡した。大人の指くらいの長さの枝の先を、ナイフで細かく切れ目を入れて、けば立たせてある。

「なによ、これ」

「分かんないかな」

 ウィルタが口を開いて、その仕草をする。

「あ、そっか、歯ブラシね」

「虫歯になると困るだろ、荷物の中に入ってなかったから、作ったんだよ」

 手製の歯ブラシの毛先を、春香が感心したように指先で撫でる。

「ウィルタって、ほんとうに器用ね」

「違うよ、先月まで虫歯で泣かされてたから、当分虫歯はこりごりってことさ」

 ウィルタが口を開けて下の奥歯を示した。暗くてよく見えない。でも、とても虫歯がありそうな歯には見えない、歯並びのいい白い歯だ。

 ウィルタが鍋とコップを重ねて持つと、外を指した。

「雪で歯を磨こう」

 重機の下から這い出すと、二人は雪を摘んで口に放りこんだ。

 外には満天の星明かり。地平線の微妙な大地の起伏までが、くっきりと空の星の明るさを背景に、切り絵のように横たわっている。その星空の明るさと対象的に、焚き火の炎に照らし出された場所以外は闇で、風の音も聞こえない。耳に触れるのは、針金苔のはぜる音と、二人の口の中で動くブラシの音だけだ。

 雪の冷たさが歯に沁みて痛い。ウィルタが口に含んでいた雪を豪快に吐き出した。

 続いて春香が雪を吐き出し大きな息をついた。

 ウィルタが笑った。

「春香ちゃん、虫歯はなさそうだね」

「どうして」

「だって虫歯があったら、そんなに長く、口の中に雪を入れてられないもん」

 春香は腹に力を入れ、頭の芯に気持ちを集中した。そうしないと、まだ昔の記憶は蘇ってこない。飛行機事故で記憶が途切れる前、自分には急いで歯医者さんに診てもらわないといけない歯があった。記憶の束をまさぐりながら、虫歯だったはずの歯を舌先で探す。しかしどの歯がそうだったのか、まるで分からない。どれも健全そう。

 ということは……。

 もしかしたら、眠り娘になっている間に、誰かが治してくれたということだろうか。

 いったい誰が……。

「どうしたの、春香ちゃん」

「うん、星が綺麗だと、それだけで誰かに感謝したくなるなって、そう思ったの」

 治してくれる人がいたとしたら、それは父さんしか考えられない。あの時、自分に虫歯があるのを知っていたのは、父さんだけだからだ。

「ありがとう、お父さん」

 春香は心のなかで呟いた。

 ユカギルの町を出て、二日目の夜がゆっくりと過ぎていった。


 その同じ頃、ズーリィの廃墟で、昨晩二人が泊まった瓦礫の穴を探っている者がいた。いや正確にはそれは者ではなく、四つ足の獣である。

 その獣は、二人が寝ていた地面の匂いを、鼻面を地面に擦りつけるようにして確かめると、何かを理解したかのように、かぶりを振った。そして二人の匂いを十分脳裏に刻みつけると、廃屋を後にして緩やかな坂を上っていった。

 折しも夜の雲間に浮かぶ雲の断片から下弦の月が顔を覗かせ、冷やかな明かりを斑に白いものの残る大地に投げかける。その月明かりを受け、獣の白銀色のたてがみが鈍く輝く。

 四本足の獣は坂を上り切ると、天上に静まる月に向かって一声長い声を投じた。


 重機の間で宿を取ってから三日が過ぎた。

 昨夜はシクン族の放棄されたミト地を見つけて、そこで眠った。天井が落ちないように補強してあることからして、時々ミトの男たちが利用しているようだ。

 やはり家はいいものだと痛感する。前の二日間は、泊まるのに適当な場所を見つけられず、岩の隙間で寝るはめになった。石を均しフェルトのマットを敷いても、背中は痛いし風が抜けるやらで落ち着いて眠れない。その寝不足分を取り返すように、乾いた苔を敷きつめた寝台で、二人は眠りを貪った。

 翌朝、小屋を後にする際、ウィルタは砕いた塩を、油紙に包んで竃の横にある瓶に入れた。そうするのが小屋を使わせてもらった礼儀なのだ。お礼は保存のきく食料ですることが多いが、燃料でもマッチでも布でも、なんでもいい。要は気持ちの問題で、これを怠ると、旅の最中に災難が降りかかると言われている。

 世話になった小屋に一礼して出発。ほんの十歩も歩くと、もう小屋は大地に溶け込み、曠野と見分けがつかなくなった。ミトの跡地を見つけられたのが、幸運以外の何物でもないということが身に沁みて感じられる。自然のなかで旅をするということは、その幸運を必然に変える作業でもある。シーラさんが、巫女としての能力で皆を導いていれば、もう新しいミト地に到着して、ミトの土饅頭作りが始まっている頃だろう。


 二人は、ただひたすら岩と砂礫の原野を歩いていた。

 苔が多くなってきたのは、この辺りが、家畜と共に移動生活をしているミトの男たちが足を運ばない場所だということだ。苔の葉を偽葉と呼ぶが、麦の穂のような形の偽葉を持つ麦苔が増え、それを食べる野生の毛長牛の糞を目にするようになった。曠野と麦苔平原の中間のような土地だった。

 どんよりと雲が垂れこめているものの、東にオーギュギア山脈の峰々が、南にウェネボグ山地の小高い丘のような山並みが見えているので、方角を見誤ることはない。進行方向に横たわるオーギュギア山脈が、マトゥーム盆地を離れたばかりの頃と比べて、心持ち背を持ち上げて来たように思える。竜骨山脈と称される起伏の激しい稜線が、空と大地をギザギザに切り分けている。

 足元は相変わらずガラス質の砂と、瓦礫のような砂利、それに思い出したように顔を覗かせる岩盤の繰り返しで、旅に出た当初とほとんど同じだ。目新しいものといえば、曠野のなかを走る涸れ谷に、刺柳、リウの藪が目につくようになったことだ。

 リウは人の腰ほどの高さの潅木で、細かく別れた枝が、もつれ合い絡み合って繁茂している。かたい鈎状の刺がついているために、服を引っかけると外すのに苦労する。曠野に限らずこの世界に残された貴重な植物の一つだが、毒の棘を持つ星草とともに、嫌われ者の代表格だった。大きな涸れ谷を横断するために谷底に下りるが、リウの茂みに行く手を阻まれ、下りてきたばかりの斜面をもう一度登ることになった。

 朝から、そんなことを繰り返している。

 春香が外套の裾をリウの刺に引っかけ、うんざりしたように顎を上げた。

「ねっ、ウィルタ。もっとちゃんとした木はないの。わたしのいた時代だと、一年じゅう雪や氷に閉ざされる土地でなければ、少しくらい雨が少なくても、立派に木が育ったものよ。地面の下に氷の層があるような場所でも、夏に土の表面が融ければ、ちゃんと木は育つって学校で習ったもん。わたし思うんだけど、このくらいの寒さなら、苔や薮のような植物じゃなくて、もっと木らしい木が生えていてもいいと思うんだけど」

 春香の疑問に、ウィルタは、あのジグソーパズルの風景を思い浮かべた。

「春香ちゃんの話してる木って、太い幹があって緑の葉がいっぱいくっついてる、見上げるような植物のことだろ。ああいうのは、この曠野にはないんだ。曠野だけじゃなくて、この世界のどこにもないはずだよ。インゴットさんから聞いた話だと、前の世紀の終わりに植物はみんな死に絶えて、そのあと生えてきた植物は、苔も含めて、どれも地面を這うようなものばかりになってたんだって」

 同じ質問を繰り返す春香に、ウィルタも同じような答えを繰り返す。

 春香にとっては、木や森が無くなってしまったということが、不思議で仕方がないのだ。

 一方、ウィルタにしてみれば、太い幹のある木は絵で見ただけのものに過ぎない。だから森と尋ねられてもピンとこない。風にそよぐ草原、木漏れ日踊る涼やかな林、昼なお暗い鬱蒼とした森、話を聞いて想像の翼を拡げてみても、それはあくまでも想像のなかの産物だ。そして緑溢れる大地が、刺柳のリウの藪や、星草の湿地や、苔しか生えていない大地になってしまった理由をウィルタは知らない。問われても答えようがなかった。

 春香が眠り姫となって冷凍睡眠の棺に入れられた後、地球に異変が起きた。おそらくそれは途方もない異変であったに違いない。その大変さは、逆に異変の具体的な事実が記録としてほとんど残されていないことからも想像できる。記録を残す余裕もないほどの災事が地球を襲ったのだ。人はその災厄を生き延びるだけで精一杯だったのだろう。

 植物が消えてしまった理由をウィルタがうまく説明できないのが分かると、春香はその質問を口にしなくなった。

 それでも、頭の中では想像の翼を羽ばたかせていた。

 かつて人の文明は緑と共にあった。その緑が無くなったというのだ。自分が飛行機事故で意識を失い、植物人間となって棺に入れられた後に、その惨事は起きている。

 地球上の植物という植物が枯れて、大地に星の雨が降ったこと。それが地球を変えてしてしまった原因だと、この時代の人たちは考えている。少なくともウィルタはそう説明した。恐竜が滅んだように、地球に巨大な隕石が衝突したのだろうか。でも動物と植物は違う。何もかも枯れてしまうようなことにはならないのでは。それに地球が冷えて雪と氷の世界になってしまうということも……。

 春香の時代、人類の扱う技術は物凄いスピードで発達していた。何か地球そのものを変えてしまうようなことを、人類がやってしまったのではないか。春香の生きていた時代は、地球の温暖化が問題となり、それを食い止める様々な試みがなされた。たとえば、それが行き過ぎて、地球を冷ますようなことになってしまったということだって、あるのかもしれない。

 春香が黙っていると、今度はウィルタの方から話しかけてきた。少しでも春香に説明できることがないかと、考えていたようだ。

 立ち止まって、ウィルタが周りに生えているリウの薮を指した。

「生き残った植物も、その姿は昔と全く違うものになってるって話なんだ」

 ウィルタがリウの枝を手袋の先で摘み、ぎゅっと押し曲げた。表面の皮が厚いため、リウの枝は曲がるだけで簡単には折れない。それでも二つ折りにするほどきつく曲げると、枝にできた裂目から、鮮やかな赤い樹液が血の脹らみのように出てきた。

「このリウだって、元は別の姿をしていたそうだよ。一説には、鮮血に染まったような大輪の赤い花を咲かせてたって。とてもこの姿からは想像できないけどね」

 春香は、花と葉を失いトゲトゲの枝だけになったバラを想像した。

 ウィルタが律儀に説明を続ける。

 それによると、この世界には苔以外にも、二十種類くらいの生き残りの植物があるという。曠野にあるのはその内の七種類で、一番使い道があって便利なのが、剣柳のグングール。大きさはリウより小さいが、刺がなくて粘りのある材質なので、曠野以外の人も利用する。でも今は採り過ぎで、ほとんど残っていない。それから一番たくさん生えているのが、刺柳のリウ。シクンは、このリウを使うことが多い。何でも作る。手間はかかるが、刺を取って束ねて縛って家の柱にもするし、剥いだ皮からは繊維を採って布を織る。カゴも作れば、棺桶も……、もちろん燃料もだ。

 頷きながら聞いていた春香が、疑問を口にした。

「でもほら、板餅は大っきな木の樹液から作るって」

「ああ、火炎樹は形は木、それも巨大な木だけど、これもインゴットさんに言わせれば、火炎樹は木じゃないって。話で聞いただけだから、なんとも言えないけどね……」

 質問の予防線を張るように、ウィルタが腕でバッテンの印を作った。

「フーン、木であって木じゃないものかあ、変なの」

 箸ほどの太さのリウの枝を、春香がタクトのように振る。

 その横を並んで歩くウィルタが、突然腰を屈めて、リウの茂みに手を差し入れた。

 リウの根元に、苔とは違う黒紫色の草が生えている。

「すげえ、黒ズヴェルだ」

 ウィルタが黒ズヴェルの地際を持ち、そっと上に引っ張ると、鉛筆のような茎がスポッと抜けた。ところどころに鱗のような薄紅色の葉がついている。

「なにそれ」と覗き込んだ春香の鼻先を、特徴ある臭いが包む。

「うわっ、これドクダミの臭いだ」

 鼻を摘んだ春香に、ウィルタが驚いたように聞き直した。

「今なんて言った、ドクダメ……って、言ったの」

「ドクダミよ、ドクダミ」

 手にした黒紫色の草を、ウィルタがしげしげと眺めた。

「へえ、これ、春香の時代じゃ、ドクダミって呼んでんだ。これ珍しいんだ。すっごく良い値で売れるんだよ。ズヴェルと形が良く似てるだろう。春香がネギって呼んでいるズヴェルを、白ズヴェル、こっちを黒ズヴェルって言うんだ。きっとリウの茂みの中に生えていたから、見つからずに残ったんだ」

「どうでもいいけど、それ、あっちにやって、わたしその臭い嫌い」

「なんだよ、黒ズヴェルの地下茎は、毛長牛の脂でカリカリに炒めると、香ばしくてすっごく旨いんだぞ」

「分かった、分ったから、あっちにやってよ。あーあ七種類しか生えていない植物の二つが、ネギとドクダミだなんて、神様も、もう少し良いものを残しといてくれればいいのに」

 ブツブツと文句を吐き散らす春香をよそに、ウィルタは他にも黒ズヴェルがないかと、リウの藪の間をきょろきょろと覗き始めた。しかし別の黒ズヴェルが見つかるよりも早く、二人は藪の出口を見つけてしまった。

 さすがにもう一度迷路のような茨の楽園に戻る気はしない。二人は遅れを取り戻そうと、涸れ谷の斜面を上り、再び山脈に向かって歩きだした。

 面倒なリウの茂みにはその後も悩まされたが、リウのおかげで助かったこともある。大地が真っ二つに裂けたような谷を、絡み合ったリウの蔓を伝って渡ることができたのだ。毛長牛を連れて曠野に散っているシクンの男たちと出会わないのは、この大地の裂け目のせいだろう。牛を連れていては、奈落の谷を渡るのは不可能だ。

 大地の裂け目を過ぎてからは、リウの藪もほとんど見かけなくなった。

 雪は板碑谷を出立した夜に降っただけなので、もうどこにも残っていない。

 オーギュギア山脈の麓に差しかかるため、標高はセヌフォ高原よりもかなり高く、その分、肌に触れる風が刺すように冷たくなってきた。

 午後を過ぎて、ウィルタが進行方向を南寄りに変えた。

 午前中、南西方向に見えていたウェネボグ山地東端の兎尾山が、今はほとんど真西に見える。兎尾山は、名前の通り、坊主ウサギの尾のように丸い山だ。遠目に眺めれば山地のなだらかな起伏の上に、丸い石をちょこんと置いたように見える。実際は、山全体が一つの岩でできている巨大な岩山で、遠い昔、海底にあった巨岩を津波のような大波が運んでできた山だと言われている。

 兎尾山の東側を南に進めば、陶印街道にぶつかるはずだ。

 なおこの陶印街道という名は、かつてこの街道西部に陶製の印の製造で知られた町があり、街道沿いを行くと割れた印をよく目にしたことから付けられた。ただそれも今は昔。あと半刻も歩けば宿郷の盲楽に到着する。ウィルタは、当初オーギュギア山脈の裾野を北に折れて、キアック峠の入口にあるシクンの交易市を目指すつもりにしていた。それが思ったよりも食料の無くなり方が早いので、いったん進路を南に変えて、街道の宿屋街、宿郷で食料を調達してから交易所を目指すことにしたのだ。



第二十二話「宿郷」・・・・

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