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星草物語  作者: 東陣正則
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曠野


     曠野


 二千年の昔、この惑星を『緑の消失』と『巨大隕石群の衝突』という二つの災厄が襲った。大陸がねじ曲がり、大気の組成が変わるほどの劇的な環境変動が引き起こされた。未曾有の嵐や洪水が大地をなぶったために、人々はこの時代をして大洪水時代と呼ぶ。それは十年余りに渡って続いたらしい。悪夢のような天変地異の時代が過ぎ、大気の状態や水門環境が落ち着きを取り戻した時、生き延びた人々の前に立ち現れたのは、剥き出しの岩盤と、深く抉れた谷がどこまでも続く、原始の荒々しさそのままの大地だった。世界はどちらを向いても緑の一点もない赤茶けた不毛の地と化していた。

 その激変した世界を生き延びようとする人類に、更なる試練が降りかかる。それが急激な寒冷化だ。太陽の輻射熱が弱まったことが原因と考えられるが、それだけでは説明のつかない現象もあった。低温のマントル流の出現である。地球そのものが冷えているのだろうか。世界は急速に寒冷化の度合いを強め、大洪水時代以後二十年ほどで、全球凍結の一歩手前まで行ってしまう。

 幸いにも、その後いったん寒冷化の波は止まり、赤道周辺の凍土も緩んで、そこに災厄を生き延びた苔や鮮苔類などが繁茂するようになった。ただ世界のほとんどが雪と氷、あるいは剥き出しの露岩地帯であることに変わりはない。

 この苔のカーペットが広がる赤道周辺の苔土地帯と、後に登場する火炎樹と呼ばれる擬似植物の農園を一歩外れると、後はどこまでも岩と砂礫の広がる荒蕪地となる。そこでは苔も岩の表面に薄く張り付くようにしか生えない。利用できるのは、石と同化したような蹄苔と、リウという茨の灌木、それに湿地帯に生えるヨシと星草ていど。この苔もまばらにしか生えない荒れ果てた土地を、人は曠野と呼んでいた。

 ウィルタと春香は、セヌフォ高原の丘陵地帯を離れ、この曠野のなかに足を踏み入れようとしていた。

 セヌフォ高原の東には、オーギュギア山脈の裾野に連なる広大な曠野が拡がり、大洪水時代の天地を混濁するような洪水が作りだした大地の傷跡が、枯れ谷の峡谷となって残っている。この枯れ谷は、谷底に巨大な石が転がっていることを除けば、思いのほか歩きやすい。それに谷筋をたどるため、道に迷う心配がない。

 板碑谷を出てすでに三時間。ウィルタと春香は枯れ谷の底を歩いていた。

 一時間ほど前には、春香を発見した氷河を越えた。

 闇を見透かすように。ウィルタがカンテラの明かりを頭上に掲げると、左前方に人の背丈の十倍はありそうな三角の岩が浮かび上がった。

「どう、した、の…、ウィル、タ…」

 足を止めたウィルタに、春香が闇を覗き込むようにして聞く。

 枯れ谷は三角岩の後方で左右に別れる。右側の谷をたどれば、谷は徐々に南に向きを変えて、半日の行程の後に、マトゥーム盆地から東に伸びる陶印街道と交差する。そこから街道を東に進むと、軽便鉄道の東の終着駅、ユルツ連邦東端の町に到達。一方、左側の谷に入って直ぐの階段状の岩棚を登れば、古いミトの跡地に繋がる牧人道に出る。

 ウィルタが何度も闇に目を凝らしていたのは、この分岐点の三角岩を見落とさないようにするためだった。

 曠野には使われなくなったミトの跡地が点在し、そこには一夜を過ごせるように整備された小屋が、必ず一軒は残されている。シクンの男たちが定期的に足を運んでは、仮小屋として使えるように手入れしてあるのだ。

 マトゥーム盆地から北北東二馬里の距離に、そんなミトの仮小屋がある。ウィルタは、今夜はそこに泊まろうと考えていた。そこならミト・ソルガの仲間と何度か訪れたことがあるし、地の利も分かっている。それに何より、もう時刻は深夜を大きく回っている。とにかく後のことは、そこに着いてから、とそう考えた。

「三角岩を左」

 自信を持った口ぶりでウィルタが春香に進むべき方向を指差した。


 止んでいた雪が、また降り始めた。

 さらさらとした粉雪が、細い筆を払ったような軌跡を闇のなかに描く。手に下げた円筒形のカンテラに照らされ、うっすらと雪化粧をした地面が闇の底に広がる。

 歩き始めて、かれこれもう五時間。

 谷の左側に、腰ほどの高さの角柱を何万個と積み上げた岩棚が現れた。その積木状の岩棚を息を切らせて登り、緩やかな上りの斜面に出る。

 谷から出たことで、風が前方から吹きつけるようになった。雪まじりの風だが、ここまで来ればもう大丈夫と、ウィルタは斜面を斜めに横断するように歩きだした。

「あと二時間も歩けば、目的のミト地だ」

 春香を励ましながら、ウィルタ自身ほっとするとともに、疲れが出てきたのを感じていた。歩き始めた当初は、激動の一日の名残りか、それとも旅に出た興奮のせいか、疲れも眠気も全く感じなかった。それが今は肩に伸しかかる荷物で息が切れ、運ぶ足が鉛のように重い。黒服たちがユカギルの町を占領してからというもの、目まぐるしいほどに色んなことがあった。疲れのないはずがなかった。

 ウィルタは今日一日のことを思い起こしていた。

 オバルさんはうまく逃げおおせただろうか。タタンはちゃんと家に戻れただろうか。一言も話せなかったけど、レイ先生、お婆ちゃんはどうしているだろう。それに、シーラさんと、ミト・ソルガのみんなは……。

 ウィルタが別れた人たちのことを考えていると、後ろを歩く春香が、ウィルタの心を代弁するように口を開いた。

「シーラ、さん、それ、に、ブッダ…、今、どこ、歩いてる、かな…、せめて、途中まで、いっしょ…、行きた、かった…」

 シーラさんは、先発したミトの一行を追いかけて、移転先の莫庫谷と呼ばれる枯谷に向かっている。新しいミト地は、マトゥーム盆地の北方、丘陵を七つと氷河を四つ越えたところにあるという。大人の足でまる三日の行程だが、ウィルタはその枯谷のことを知らない。もう二百年以上使っていないミト地だということだが……。

「一緒…、行き、た、かった」

 春香の言葉にウィルタが頷く。

「そうしたかったけど、途中まで一緒だと、よけい別れるのが辛くなるだろう」

 ウィルタの言葉に今度は春香が頷き返す。

 別れた人たちを思い出したことで沈んでしまった気持ちを払うように、ウィルタはわざと元気よく音をたてて足を動かす。

 斜面を上り切ると、牧人道らしき踏み跡が闇のなかに伸びていた。昔街道として使われていた道らしく、土手のような石積みが途切れ途切れに続いている。目的のミトの跡地までもう少し。そう思うと疲れた足にも元気が蘇ってくる。

 嬉しさを表現するように、ウィルタが歩幅を広げて歩きだした。春香もそれに合わせる。一緒に歩く時は、呼吸のリズムを合わせると歩きやすい。それがほんの少し春香の方が歩幅が狭いため、しばらくするとリズムが崩れてくる。ウィルタが春香に合わせるのか、春香がウィルタに合わせるのか、それがはっきりしないからだ。ただ無理に合わせようとはしない。一方がどちらかに合わせるのではなく、何となく二人の歩調が合うリズムを探るように歩く。歩幅を変え、歩く速さを変え、何度かそれを繰り返した頃、ウィルタが唐突に足を止めた。

 ぶつかりそうになった春香が「どう、した…、の」と、聞く。

「しっ、黙って」

 ザックの肩紐を握り締め、身じろぎもせずに立っているウィルタの顔に、雪の粒が貼り付く。ウィルタが進もうとする方向から、その音は聞こえてくる。

 ウィルタはしばらく音のする方向を睨んでいたが、突然、踵を返すと、春香の手を掴んで元来た方向に歩きだした。

「どう、した、の…、あっち、じゃ…、ない、の」

 ウィルタの仕草で、何か音が鳴っているということは春香にも分かる。しかし真似をして耳をそばだてても、聞こえるのは外套の縁を掠める風の音ばかり。それらしい音は何も聞こえない。

 なぜ……、と問いたげな春香の手を、ウィルタが強引に引っ張る。

 ところが、ものの数歩も行かないうちに、ウィルタが足を止めた。

 手袋をはめた手からウィルタの緊張が伝わってくる。そして今度は、春香の耳にも、はっきりとその音が聞き取れた。

 カンテラの灯を吹き消すと、ウィルタは春香の手を引いてその場にうずくまった。

 地面に片膝を付き石のように身を固めた二人の顔に、雪が吹き付ける。無数の雪つぶてを頬に受けながら、春香はその音を懐かしい想いで聞いていた。

 どこかで聞いたことのあるような長く尾を引く音。

 あれは……と、春香が記憶の河原から聞き覚えのある石を拾い上げようとした時、今度はすぐ前方でその音が鳴った。硬直するように身が縮まる。

 思い出した。名前は思い出せなくとも耳が覚えていた。

 獣の声、それも遠吠えだ。

 雪つぶてと共に重苦しい時が過ぎる。と次に遠吠えが聞こえてきた時には、音は自分たちの後ろに移っていた。いや、違う。後方だけでなく、相変わらず前方からも聞こえてくる。前と後ろで遠吠えを交し合っている。

 ウィルタの腕を握り締め、春香が「オ、オ、カ、ミ」と、その言葉を口にする。

「ウン」と、押し殺した声でウィルタが頷く。

 遠吠えは進むべき方向からも、いま歩いてきたばかりの枯れ谷からも聞こえてくる。前にも進めず後ろにも戻れない。周りは起伏の少ない砂礫地で、岩の窪みのように身を隠す場所もない。もしオオカミに出くわしても、ここでは逃げも隠れもできない。

 採るべき道は、じっと動かずにオオカミの声がしなくなるのをここで待つか、それともオオカミの声のしていない方向に進むか、そのどちらかだ。

 しかし昼間ならいざ知らず、雪のぱらつく闇夜。いくらオオカミの気配は無くとも、牧人道を外れて、道のない曠野を行くのは危険すぎる。先の枯れ谷ほどではないにしても、曠野には崖や谷が至るところにある。それに動くことで逆にオオカミの注意を引いてしまう可能性もある。でも、と思う。なら鼻先にオオカミがうろついているような場所で、じっと留まっていることが良いことなのか……。

 荒い息遺いにウィルタの迷いを感じたのか、春香がウィルタの耳元でささやいた。

「迷う、時…、動く、いい…、なにも、しない…、あとで、後悔…、座って、待って、頭、かじられる、わたし、いや…」

「だよな」

 気持ちを奮い立たせるように拳を膝に打ちつけると、ウィルタはカンテラに火を灯し直した。雪が本降りになってきた。

 磁石で方位を確認すると、ウィルタは春香の手を引いて立ち上がった。

「行こう、とにかくオオカミの声のしない方向に進むんだ。身を隠せる場所が見つかれば、そこで今夜の行軍は終わりだ」

 了解とばかりに、春香はウィルタの手を握り返した。

 手探りで闇のカーテンを押し開けるように二人は歩きだした。その二人を急き立てるように、またオオカミの遠吠えが聞こえてきた。


 そうやって一時間。

 目標もなくただ歩き続けるというのは、疲れるもの。それが雪の闇夜の道なき道ともなれば尚更だ。二人とも今日一日の疲れがどっと噴き出し、一足一足の足の運びが、重しをつけたように緩慢になってきた。体だけではない、耳と足元に集中している神経の糸が、今にもプツンと切れそうになっていた。この時期、寝袋に入ってしまえば、吹き曝しの場所でもない限り、寒さはほとんど気にならない。岩の間でもどこでもいいから、体を横にして休みたい、眠りたい、そういう気持ちになっていた。

 ところが砂礫の平原に出てしまったのか、寄りかかれそうな岩一つ見つからない。強くなってきた風が、容赦なく地面の雪を舞い上げ、外套にも顔にも手袋にも、びっしりと雪がこびりつく。今はまだ本格的な雪のシーズンではない。しかし大気に夏の湿気が残る分、時として大雪になることがある。

 春香が石に足を取られて尻餅をついた。

 ウィルタが手を差し伸べようとして、その手を自分の耳に添えた。

「また、オオ、カミ?」

 不安げに尋ねる春香に、ウィルタが耳をそばだてる。

「何だろう、笛のような音が聞える。岩山でもあるのかな。前に岩の隙間を吹き抜ける風が、ああいう音をたてるのを聞いたことがある」

 耳に手を当てたまま、ウィルタはもう片方の手で春香を引き起こした。春香も真似をして聞き耳を立てるが、何も聞こえない。ウィルタが特別耳が良いというのではない。おそらく都会暮らしをしていた春香と、曠野の自然の中で育ったウィルタとでは、音に対する感受性が違っているのだろう。おまけに雪が舞っている時は、雪が音を吸収して極端に聞こえにくくなる。

 春香が不満げに顔を振った。

「オオ、カミ、の、ような、岩…で、なけ、れば…、いい、な」

 冗談に答える余裕がないのか、ウィルタは疲れた息を吐くと、春香の手を取って音のする方向に歩きだした。靴底の感覚で下り勾配になったのが分かる。

 その勾配を感じなくなった頃、春香の耳がようやく音を捉えた。生きものの声とは別の無機質な響きに、春香が強張った顔を緩めた。

 闇の底に崩れた石垣が現れた。吹きつける風と同調して鳴る音は、甲高い笛の音そのもの。人が吹いているのではなく、風が鳴らしている音だ。

 カンテラの灯を掲げ、石垣の残骸に沿って歩く。

 やがて石垣が途切れ、左右に大きな石柱の立っている場所に出た。

 経柱、町の入り口の焙暘門だ。

 経柱の間の闇を見透かし「町、なの」と、春香が聞く。

「うん、山脈とセヌフォ高原の間には、熱井戸の町跡が散らばっているから、ここもその一つじゃないかな」

 カンテラの明かりを強めると、瓦礫の山が浮かび上がった。やはりユカギルのように地熱を利用していた町らしく、折れ曲がった配管が、くねった蔓草のように走っている。笛のような音は、錆びた配管の穴が風を受けて鳴る音だった。

「風を避けられる場所を探そう」

 瓦礫に挟まれた目抜き通りに足を踏み入れる、と直ぐに一軒の家が目を留まった。四方の壁が崩れ落ち、その上に屋根が蓋をする形で被さっている。隙間を探しカンテラを差し入れると、ウナギの寝床のような先で、穴がひょうたん型に広がっている。二人は天井が崩れて来ないか確かめながら、その穴に潜り込んだ。

 

 風が吹き込まないよう入り口に戸板を当てがい、ウィルタが穴の奥に戻ってくると、春香が土砂に埋もれかけたストーブを見ていた。達磨型のストーブで、背面から出た煙突が、右に折れ、左に折れしながら天井に突き刺さっている。

 筒に耳を当てると微かに風鳴りのような音が聞こえる。煙突が外に抜けているなら、火を焚くことができる。しかし……、

「燃やすものがなあ……」

 カンテラをかざすウィルタに、尻すぼみに狭くなったウナギの寝床の奥のものが目に入った。崩れた壁面から棒ぐしのようなものが突き出ている。

「リウの枝だ、壁を補強するために塗り込めてあったやつだな」

「リ、ウ、なに、それ」

 覗き込もうとする春香をその場に残し、ウィルタは四つんばいになって狭い瓦礫の間に潜り込んだ。櫛の歯のように並んだ細い粗朶木を、手を伸ばしてポキポキと折り取る。

 ウィルタが一束分のリウの枝を抱え、元の場所に戻ってくると、春香が瓦礫の下からタンスの引き出しを引っぱり出そうとしていた。

「駄目だよそれは」

 ウィルタが春香の手を押えた。

「どう、して…、これ…、木、の…、タンス…、で、しょ」

 合点がいかないという春香に、ウィルタが言って聞かせる。

「一見、木でできているように見えるけど、それは木じゃない。燃やせば分かるけど……」

 手にしたリウの枝を数本ストーブの焚き口に押し込むと、ウィルタは火口と火打ち石を使って手際よく火をつけた。乾いた枝が勢いよくはぜり、炎が奥に向かってなびく。煙が外に抜けているのを確かめ、ウィルタは残りの枝を炎の上に重ねた。

 明るい炎が、焚き口を見守る二人を照らしだす。

 火が落ち着くのを待って、ウィルタがタンスの引き出しを炎に近づけた。火で炙られたタンスから、ムッとする不快な匂いが湧き立つ。

 焚口からはみ出た紫色の煙を手で払いながら、ウィルタが説明を入れた。

「木みたいに見えるけど、これは木に似せたウォトという物で、燃やそうと思えば燃えるけど、臭いが酷くて暖房や煮炊きには使えないんだ」

 咽返る口を手で押さえ、春香が了解したとばかりにコクコクと首を振った。

「わかっ、た、わかっ、た、から…、その、ウォト、どこかに、やって…」

 先端が融けるように焦げたウォトの板を足元の砂に突き刺すと、ウィルタはストーブの上に鍋を置き、水筒の水を注ぎ入れた。

 ザックの中身を改め始めたウィルタをよそに、春香はまだ納得がいかないのか、焦げたタンスの引き出しを見ている。木目もあるし、微妙な質感や凹凸も木そっくりなのだ。春香が信じられないとばかりに、しつこく問いを投げかける。

「あの、戸板、も…、そこの柱、も、みんな、ウォトで、できて…、るの?」

「そういうこと」

「もしか、して…、パーヴァ、さんの、宿の、机、椅子、…、みんな、みんな…、ウォト?」

「うん」

「木で、できた、もの…、ない、の」

「ない、ほとんどない」

 布袋の中を掻き回していたウィルタが、残念そうにぼやいた。

「まったくなあ、シーラさんたら、急いで用意したんだろうけど、お茶っ葉くらい入れといてくれりゃいいのに」

「わた、し…、自分の、ザック…、探す」

「いいよ、春香ちゃんさえ良ければ、ぼくはお湯でいいから」

「うん、わたし…、お湯、うれ、しい…」

 春香が、にっこりと右頬にえくぼを浮かべた。

 風が強くなってきたのか、入り口を塞いだ戸板がガタガタと音をたてる。笑い声のような軋み音に、ウィルタが面倒げに肩を揺らせて立ち上がった。

 ウィルタが再度入り口を補強して戻ってくると、鍋から薄い湯気が上がっていた。

 真鍮製のコップに湯を注ぎ、拳ほどの大きさの油紙の包みを開く。中から出てきたのは毛長牛の固乳で、それをナイフで一口大に削ぐ。

 ストーブの横に腰を落ち着けた二人は、両手でコップを包み込むように持った。手の平に伝わってくる温もりに感謝しながら、湯を飲み下す。微熱のような温もりが喉から体のなかに広がり、それに合わせて、今日一日の緊張が体全体に溶けていく。

 どこから入ってくるのだろう、二人の周りを一つ二つと雪の粒が舞う。その雪を目で追いながら固乳を奥歯でかみ締める。そういえば夕刻、酔騏楼で軽く食事を取って以降、何も口にしていなかった。

 お湯が体にしみ渡り、固乳が胃のなかに落ち着くと、とたん体の底から眠気が噴き上がってきた。ウィルタがザックに縛りつけてあった寝袋を拡げながら言った。

「体が冷えないうちに寝袋に入った方がいいよ。春香ちゃん、寝袋の使い方は分かるかな」

「だいじょう、ぶ…、とうさん、と…、キャン、プ…、よく行った、から」

 ウィルタの真似をして春香も寝袋の紐を解き、くるくると回して広げる。袋の入口がファスナーではなく蛇腹の布になっているほかは、春香の知っている寝袋と同じだ。

 寝袋に体を滑り込ませながら、春香がクスッと笑った。

「どうしたの?」

 腰から下を寝袋に入れたまま、ウィルタが春香の方を向いた。

 春香は、寝袋の口から顔だけ突き出し、壁に映るストーブの炎影を見ていた。赤黒い影が不思議な生き物のように動いている。その影を見ながら春香が言った。

「うん、時代、変わる…、でも、人の、暮らし…、そん、なに…、変わ、ら、ない…、そう、思っ、たら…、なぜ、か、おか、しく、なった…、食べて、寝て、喋って、歩いて、走って、喧嘩、して…」

「いい、暮らし、したい…、思う、いやな、こと、ある…、お酒、飲む…、いい、こと、ある…、だれ、かと…、手を、取る…、夢を、見たり…、無くし、たり…、きっと、あと、何、千年、たっても…、やっ、ぱり、人の、暮らし、は…、人の、暮らし…、なんだ、って、ねっ、ウィルタ、も…、そう、思う、でしょ…」

 返事の代わりに、ウィルタの寝息が聞こえてきた。

 燃え尽きたリウの枝が音もなく崩れる。ストーブの残り火を見てい春香も、隣から聞こえてくるウィルタの寝息に誘われるように、目を閉じた。

 外では瓦礫に吹き付ける風が一段と強さを増し、大地を揺さぶる音をたてている。その音に時折、配管の奏でる甲高い笛の音が混じる。

 春香は夢の世界に落ちていくなかで、風の唸りに混じって獣たちの叫び声を聞いたように思った。その獣の咆哮が人の話し声に変わり、記憶の中の両親や友だちの声に変わり、また獣の声にと、果てしなく変わりながら続いていく。

 だが、やがてそれも圧倒的な眠気のなかに、吸い込まれるように消えていった。


 春香の寝息に時々意味の分からない言葉が混じる。

 古代の言葉だろうか、そのようでもあり、そうでないようにも思える。その寝言まじりの寝息を、ウィルタは目を閉じたまま聞いていた。

 実はウィルタは起きていた。自身、寝息をつきながらも寝つかれずにいた。

 疲れを取るために早く眠らなければと思うほどに、目は冴え、頭の中に様々な思いが去来する。シーラさんのこと、ユカギルの町のこと、タタンのこと、そしてこれからの旅のこと。ミトの仲間たちのことも気になるが、それよりも明日から何をどうすればいいのか、それを考えると、とてもゆっくり眠ってなどいられなかった。

 頭の中の地図に、これから進むべき道が現れては消える。

 明日からの旅の行程を、どうするか。

 曠野の彼方には、オーギュギア山脈の峻険な峰々が衝立のように南北に連なっている。その山脈の裾野に波打つ山稜の一つが、西に向かって足を伸ばし、その先端をセヌフォ高原に届かせている。ウェネボグ山地である。

 セヌフォ高原の東端に位置するマトゥーム盆地を出立したウィルタは、今ちょうどウェネボグ山地の西の端、その北側の曠野にいることになる。なお盆地を東西に縦断していた陶印街道は、セヌフォ高原を東に抜けた後、ウェネボグ山地の山向こう、南麓をオーギュギア山脈に向けて東に伸びている。

 シクンの民は、街道を移動する際に必要となる身分証や通域手形を持っていない。街道の通行にそれが絶対に必要という訳ではないが、所持していないことによる不都合は容易に察しがつく。だからこそシーラは、街道を行かずに、曠野から山脈越えの峠に入りなさいと言った。それに山脈越えの方が、山脈を南にぐるりと廻り込むのと比べて、大陸の東に向かうには遥かに近道。ほとんど直線で大陸を横断するコースなのだ。

 シーラの助言に従い、ウィルタはウェネボグ山地の北側を進むルートを選んだ。

 最終的な目的地のチェムジュ半島は、衝立のように立ちはだかるオーギュギア山脈の遙か先のまた先である。ウィルタには、山脈越えを初め、その先のことには、とても考えが及ばなかった。なにしろ、今いるウェネボグ山地の北側に広がる曠野にも、崖や岩山や氷河や様々な難所がいくつもある。自分がミトの暮らしの中で足を伸ばしたことがあるのは、一泊行程で行ける範囲で、そういう場所にしても、自分は大人と一緒にしか行っていない。

 明日から足を踏み入れるのは、全く初めての土地。

 同じ曠野とはいえ、いったい何が行く手に待ち受けているか。噂では、曠野には奈落の底に繋がるような深い大地の亀裂があるという。それに今夜のようにオオカミに出くわす可能性も大きい。

 考えれば考えるほど、不安が腹の底から込み上げてくる。その不安を、空腹をなだめるように腹の底に押し返す。今はとにかく何も考えずに、山脈の裾野までたどり着くこと、それだけだ。それくらいなら自分にもできるだろう。

 そう信じ込ませようと『できる』『できる』と、心の中で念じる。ところが気がつくと、『できる』という言葉が、『オオカミ』や『大地の亀裂』という言葉にすり替わっている。慌てて、また『できる』『できる』と念じる。

『できる』『できる』、絶対にできる……。

 その言葉を呪文のように繰り返しているうちに、やがてウィルタも、今日一日の疲れの波に呑まれ、深い眠りの底に落ちていった。


 翌日、春香が目を覚ますと、すでに入り口の扉は外され、鏡で照らしたように眩しい光が、崩れた家の中に射し込んでいた。光の中からウィルタが顔を覗かせた。

「目、醒めた、もうお昼だよ」

 起き上がろうとして、春香は顔をしかめた。体中の筋肉が張っていた。

 棺から目覚めてこの方、運動らしい運動をしていない。それが急にザックと寝袋を背負って何時間も歩いたのだ。筋肉が悲鳴を上げても当然だった。

 顔をしかめて出てきた春香に「どうしたの?」と、ウィルタが聞く。

「うん、ちょっとね、筋肉が張ってるの、急にいっぱい歩いたから」

 春香は肩の凝りを解すように、腕をグルグルと回した。

 目が外の明るさに慣れてきたのか、春香は大きく伸びをすると辺りを見まわした。

 雪はほとんど積もっていない。うっすらと雪化粧をした通りを挟んで並んでいるのは、崩れた石造りの家の残骸だ。向こうに経柱が二本、傾いたままに立っている。昨夜通り抜けた焙暘門だ。後ろを振り返ると、瓦礫の先に、ほとんど原型を残さないまでに崩れ落ちた箱型の建物があった。この町を支えていた熱井戸の建て屋らしい。さらにその先には、瓦礫の町を取り囲むようにして緩やかな上りの斜面が……。

 どうやらこの町跡は、擂り鉢状の盆地の底にあるらしい。

 風が止み、光に満ちた午後の日差しが輝いている。

「お日様が、温ったかいね」

「町の名前が分かったよ、ズーリィっていうんだ。ズーリィは擂り鉢って意味。なんとなくここの地形を見てると納得するよね」

 地図を広げたウィルタの横に、春香は腰を下ろした。焚火に掛けた鍋からは、心の汚れを拭き取るようにすっきりとした良い香りが、湯気と一緒に立ち昇っている。

「これ」と、ウィルタがコップを差し出した。

「メチトトの苔茶だよ。ザックの中に、ちゃんとお茶っ葉が入れてあった。シーラさんのこと疑ったりして、謝まんなきゃ」

 言ってウィルタが嬉しそうにコップのお茶をすする。

 眠たそうに手の甲を目に擦りつけていた春香は、渡されたコップを両手で挟むように持つと、湯気に顔に近づけ鼻を燻らせた。

「ほんと、いい香り。いま分かったわ。これシーラさんの香りだ。シーラさんも、シーラさんの編んでくれたセーターも、みんな同じ匂いがするもん」

「そうなんだ、慣れちゃってて気がつかなかったけど。そういや、シーラさん、いつもこの苔茶を飲んでたもんな」

 懐かしげに言ったウィルタが、コップを口元で止め、春香の顔を覗き込んだ。

「どうかした?」

 まじまじと見つめるウィルタに、春香が小首を傾げる。

「気がつかないかな、喋るの、とっても上手くなってる」

 指摘されて、春香が目を顔の真ん中に寄せた。

「なにも考えてなかったけど、でも、言われてみればそうね。昨日までは、考えて考えて、ようやく言葉が浮かんでくる感じだったんだけど、今は意識しなくても、スラッと言葉が出てくるもの」

 話しながら、春香は不安そうに眉の間にしわを寄せた。

「これってもしかしたら、まだあの冷凍睡眠の棺の中で眠っていて、夢を見てるってことなのかしら、やだ、もしそうだったらどうしよう」

 突然流暢に喋りだした春香を、あっけに取られたように見ていたウィルタは、何を思いついたか、左手に持っている四角い食べ物を春香の鼻先に突き出した。見た目も形も色も、春香の時代の餅にそっくりのものだ。

「もし夢の中にいるんだとしたら、食事をしなくても大丈夫ってことだよね」

 不安そうに目を動かしていた春香は、差し出された餅に鼻先をヒクヒクとうごめかせたかと思うと、夢が醒めたように目を見開いた。こんがりと焼けた餅から立ち昇る匂いが、春香の鼻孔をくすぐったのだ。

 春香が自分の頬を両手で挟むようにパシパシと叩いた。

「夢の中かどうかは、その、お餅みたいな食べ物の味見をしてから判断したいわ。だってそれ、すっごく美味しそうな匂いがしてるんだもの」

 目を輝かせて春香が焼き餅をウィルタから受け取る。と焼き餅が口に入るのを待てないとばかりに、春香のお腹がグーッと大きな音をたてた。

 ウィルタが腹を抱えて笑った。つられて春香も焼き餅を手にしたまま笑い出す。

 しばらくの間、二人の明るい笑い声が、日溜まりの廃墟にこだました。

 遅い朝食を食べ終えると、ウィルタが春香の前に地図を広げた。上半分が白く塗りつぶされている。白は一年を通して雪と氷に覆われた地域。一方、地図の下から三分の一の高さに、海と陸を分かつ入り組んだ海岸線が東西に伸びている。その虫に喰われた木の葉の縁のような海岸線と、上の白い大地に挟まれて、ドゥルー海北東岸の人の住む世界が拡がっている。このドゥルー海の北東岸を東西に占める連邦国家を、ユルツ連邦という。

 ユルツ連邦は、十余りの国と、囲郷と呼ばれる中小の自治集落から成っている。地図の中心に位置する秀峰が貴霜山で、その麓の国が連邦府のあるユルツ国。そのユルツ国から東に目を移すと、氷河の集中した平原に、セヌフォ高原、ウェネボグ山地、オーギュギア山脈と地形は続く。高石垣で囲まれた町、囲郷ユカギルは、セヌフォ高原のほぼ東の端にある。地図はオーギュギア山脈の峻険な峰々の中程で終わっていた。

 座布団ほどの大きさの地図を、春香がしげしげと覗き込んだ。

「ウィルタのお父さんのいるのって、確かチェム……、何とかって言ってたわよね」

 目でその場所を探す春香に、「これはユルツ連邦の地図だから、チェムジュ半島は載ってないよ」と、ウィルタが地図をひっくり返した。

 裏面はグラミオド大陸中北部の概略図である。

 ウィルタの指が、地図の右上を押さえた。

 大陸の上部は一年を通して雪と氷に閉ざされた地域で、ほとんど白一色。その白い大陸の中東部に、小さな半島が東の大洋にちょこんと突き出ている。それがチェムジュ半島だ。

「いま自分たちのいるのが、この辺り」

 ウィルタはオーギュギア山脈の西の裾野を指で押さえると、そこから大陸の東にある目的の半島までをざっとなぞった。直線で考えても、いくつもの山脈に、砂漠に、河に、氷河にと、ありとあらゆる地図の記号がその間に散らばっている。

 ウィルタが逐一それを目で追いながら説明を始めた。

「チェムジュ半島に行くには、まずウェネボグ山地の北側の原野を東に進んで、標高四千メートルのオーギュギア山脈を越える。その次は、山脈の向こうに広がっている岩漠地帯を横切り、広大な晶砂砂漠の砂の海を横断して、トッレ山塊を上ったり下りたりしながら、さらに氷河帯を乗り越えて……」

「ちょ、ちょっと待って」

 春香がウィルタの口を塞ぐように大きな声をだした。

「もういい、要するに、とにかく果てしなく遠くて、行くのが大変だってことよね。いま地名を教えてもらっても、覚えるなんてできそうもないから、とりあえず一週間で行けそうなところまでを教えて」

 ウィルタが笑いながら、それでも真面目な表情に戻って言った。

「ごめんごめん、ぼくも、行ったことも見たこともない土地だから、地図の上で確認してみたかったんだ。ほんと、こうやって見ると、チェムジュ半島って信じられないくらい遠い場所だよね」

 ウィルタは大げさにため息をつくと、手早く地図を折り畳んだ。手の平サイズになった地図には、セヌフォ高原の東四分の一と、オーギュギア山脈の裾野までが入っている。目につくのは、いくつかの町と街道らしいオレンジ色の線だけだ。

 それを見て、春香が安心したように口の中の餅を呑み込んだ。

「うん、それなら歩いて行けそう。さっきの全体図じゃ、体に翼でも生えてなきゃ、とても大陸の東側まで行けそうにないもの」

「本当にそうだ」

 相槌を打ったウィルタが、手にした餅の欠けらをポイと口に放りこんだ。


 一口に曠野といっても、様々な土地がある。いま二人がいるセヌフォ高原の東側に広がる曠野は、岩とガラスの砂礫が混じり合う、ごく一般的な曠野だ。

 地図で見る限り、これから先は、曠野とはいえ起伏の激しい地形が続く。徒歩で越えるには、かなりの体力を必要とするだろう。ウィルタは、まずは平坦な砂礫の曠野を歩きながら、春香の体の状態を見極めようと考えていた。なんといっても冷凍睡眠から目覚めて、まだ半月余りしか経っていないのだ。

 もし曠野を行くことが春香にとって負担が大きいようなら、ウェネボグ山地を南に抜けて、陶印街道に出ることも考えなければならない。ただオオカミは曠野よりも低い山地のような場所に出没するという。そのことからして、南に抜ける場合でも、安全を期して、ウェネボグ山地が完全に途切れるまでは、このまま東に進むのが賢明なはず。地図で見る限り、セヌフォ高原とオーギュギア山脈の間には、ところどころに昔の熱井戸の町跡が残っている。それにミトの跡地もだ。街道を行けば何かと物入りで、手持ちのお金を節約する意味でも、できるだけ曠野を東に進んでから南に進路を取るのが正解だろう。

 旅の行程を説明するウィルタに、春香が口を挟んだ。

「ねっ、街道に出て、黒服たちがウィルタを探していたらどうするの」

 ウィルタが、セヌフォ高原の東側に引かれた茶色の破線を指で押さえた。

「これがユルツ連邦とその東側の国との境界線。ユルツ国の警邏隊も、この線を越えてまでは捜しに来ないと思うよ」

 街道と交差するように南北に伸びる破線は、セヌフォ高原の東を流れる氷河で、春香の棺が埋まっていた氷河はその枝線にあたる。

「じゃあ、もしかして、もう邦境は越えているの」

「そういうこと、もっとも邦境といったって、街道から少し離れれば人は住んでいないから、誰も見張ってなんかいやしないだろうけどね」

 オーギュギア山脈の麓までは、この曠野を真っ直ぐ東に進む。その後の状況次第で、北の山脈越えのルートか、南に向かって街道に出るルートのどちらかを選ぶ。ウィルタは説明の最後に、街道に出た場合には、馬車に乗ることがあるかもしれないと、期待を持たせるような一言を付け加えた。

 馬車と聞いて、春香は空を見上げた。

 頭上を流れる雲の断片が馬のように見える。馬車に乗る旅など、何だかおとぎ話のようで、氷浸けのまま夢を見ているのではという気分になってくる。

 その浮ついた気持ちを正そうと、「山脈の麓まで行くのに、どのくらいの日数がかかるの」と、春香が具体的な数字を聞いた。

 一口に曠野といっても地形は様々。それを前提のうえ、直線距離で一日三馬里、町の単位で二十五キロを歩くとして、五日間でオーギュギア山脈麓の古い街道跡に到達。そこから街道跡を北に辿れば、三日で山脈越えの峠の入口、南に向かえば丸一日で陶印街道の東の終点、石楽の町、と大雑把な目安をウィルタは口にした。

「夜も頑張って歩けば早く着けるけど、でも夜は歩きたくないだろう」

 ウィルタが同意を求めるように目配せをした。

「うん、ほんと。オオカミが出てきたら、どうしていいか分からないもの」

「インゴットさんが、丞師様を迎えにいく時に、鉄弓用の鳴矢を矢筒に入れていた意味が分かった。あれはオオカミを脅して追い払う意味があったんだ。こんなちっこいナイフ一つじゃ、とても狼になんか太刀打ちできないもん」

 手にしたナイフを心細げに見やると、ウィルタはそのナイフで、焚火にかざした串刺しの餅をさっと取り分けた。

「さっ、早くこれを食べて出発しよう、明るいうちに次の宿を見つけたいからね」

 ほどよく焼けた餅が香ばしい匂いを漂わせる。その匂いに釣られて、春香のお腹が先ほどよりも大きな音をたてた。

 ウィルタの笑い声が、ズーリィの窪地いっぱいに広がった。


 遅い朝食を済ませ、二人はズーリィの町跡を後にした。

 昨夜は緊張していたせいか、ザックの重さがほとんど苦にならなかった。それが今は、ずしりと体に伸しかかってくる。昨日の疲れが残っているのだ。

 息を切らせて斜面を上る。

 斜面の頂上に着いて辺りを見渡し、春香は息を呑んだ。後方の昨夜二人が歩いたであろう場所が、実は尾根筋で、片側が切り立った崖になっていたのだ。崖は蛇のようにグネグネと蛇行しながら東西方向に途切れず続いている。

「すごいね、暗闇のなかで、よく崖から落ちなかったもんだ」

 その他人事のような口ぶりに、春香がキッと目を吊り上げた。

「ちょっと、落ちたら、足を折るくらいじゃ済まなかったのよ」

「うん、朝起きて様子を見に斜面を上がってびっくり。ボクたち、よほど運がいいんだ」

 引きつりかけた表情を隠すように、春香が顔に手を当てた。

「その運が続いてくれることを祈るわ。わたし、綱渡りをしてる自分を想像しただけでも、目眩がするんだから。とにかくわたしは、この世界のことを何も知らなくて、ウィルタに付いていくしかないんだから、もっとしっかり考えて行動してよね」

 春香の悲壮なもの言いに、ウィルタが相変わらずの軽い調子で返す。

「だって、考えて動かないでいるより、動いてから考えた方がいいって勧めたのは、春香ちゃんだろ。いいじゃないか、結果オーライなんだから。大丈夫だよ、二千年の時を生き延びた春香ちゃんを、神様が簡単に死なせたりするはずないもん」

 ウィルタのお気楽な話し振りに、春香が俯いた。

「どうしたの頭でも痛いの」

 下から覗き込むウィルタに、春香がブルブルと頭を振った。

「違うの、楽天家と楽天家を足したら、どんな結果が生まれるか想像してたの」

 荒げた声で言うと「道はこっちでいいんでしょ」と、春香が彼方に横たわるオーギュギアの峰を目指してスタスタと歩きだした。



第二十一話「重機跡」・・・・

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