氷河
氷河
地底の奥深くに潜むアヴィルジーンは、幼年時代を流動体で過ごす。
岩を融かしながら生長する幼体は、数千年の時を経て成熟、大地の表面に這い出し蛹となる。太古の巨大生物の化石を思い起こさせるアヴィルジーンの蛹は、石化した石蛹状態で二カ月ほど過ごした後、光に包まれた成体となって外界に現れる。
液体から個体、気体、電離体へと、相を転移させる生命。地球上の生命とは無縁の異質な生命体と説く識者もいるが、多くの人は、アヴィルジーンの光輝く渦を、大地の祖霊と受け取り、信仰の対象にしていた。
アヴィルジーンの石蛹は、高峰の急峻な断崖に現れる。そのため人の目に触れるのは、多くの場合、天に昇る光の渦としてで、それはいかにも何者かの魂が天に召されたように見える。人々がアヴィルジーンを大地の祖霊と見なすのも、うべ無理からぬことであった。その、ほとんど人が目にすることのないアヴィルジーンの石蛹を、つい一週間ほど前に、二人の少年、タタンとウィルタが氷河の谷間で見つけた。
発見した時、岩肌に浮き出た石蛹からは、淡い光が漏れていた。羽化が近いと見て取った二人は、氷河の上、断崖を見上げる古代船の上に陣取り、アヴィルジーンの羽化を見張ることにした。
そもそも二人は、羽化というものは時間をかけ、ゆっくり行われるものだと思っていた。夏に見かける羽虫の羽化が、そうやって行われるからだ。ところがアヴィルジーンの羽化は、事故のように突発的に始まってしまった。そして今、岩から弾き出された光の渦は、垂直に聳える岩壁の上端近くまで達している。
放った鉄の矢は、光の渦を掠め、後方の岩壁に当たって跳ね返った。
急いで予備の矢を番えようとするタタンを押しのけ、ウィルタが船の手すりから身を乗り出す。目を細め、ピンと張り詰めた紐の先に目を……。
「ねっ、当たったんじゃないかな」
「どうして」
「だって、落ちた矢の先っぽが、光ってるもん」
舷側に垂れ下がったロープを掴むや、ウィルタは船の外に身を踊らせた。
「あっ、待てよ、ウィルタ」
タタンを船の上に残して飛び降りると、ウィルタは軽い身のこなしで氷河の上を走り出した。氷河の上は砂利に覆われ、崩落した人の背丈を超える岩も転がっている。クレバスの中に蒼い氷が覗いていなければ、とても氷河とは思えない。
「まったく、ウィルタのやつ……」
呆れたように呟きながら、タタンは頭上に目を走らせた。すでに光の渦は岩壁の最上部に達している。軽く舌打ちをすると、タタンは鉄弓を引き絞るハンドルから手を離し、ウィルタの後を追うようにロープに手を伸ばした。
腰砕けに歩を進めるタタンの前方で、ウィルタは立ち止まって足元を見ていた。
幅三メートルはある氷の割れ目が、行く手を遮るようにばっくりと口を開けている。
「あそこ」と、ウィルタがクレバスの対岸を指した。
撓んで伸びる紐の先、断崖が落とす暗い陰のなかで、青白い光がリズムを計るように輝いている。紐を掴んで引っ張るが、岩に引っ掛かっているようで、矢は動かない。
「向こう側に回らないとだめか」
そう零し、首を振って用心深く渡れそうな場所を探り始めたタタンの横で、ウィルタが腰を落として身構えた。クレバスを飛び越えようというのだ。
慌ててタタンがウィルタの腕を掴む。クレバスの中には濃紺の闇が広がっている。落ちたら、ただでは済まない。それに口には出さないが、太り気味のタタンに、目の前の割れ目を飛び越えるのは無理だ。はやるウィルタを目で諫め、タタンは後ずさった。
と、そのタタンが足を止めた。
足の裏に奇妙な振動を感じたのだ。目を落とすと足元の砂利が震えている。
なに? と辺りを見まわすうちにも、震えは激しくなり、人の頭よりも大きな岩までが、ズルズルと動きだす。直後、訳が分からず棒立ちになった二人が頭を抱える。羽虫が群れとなって飛び交うような感覚が、耳の奥に涌いていた。
溜まらずしゃがみ込み、こみ上げてくる吐き気に耐える二人を、激しい衝撃が襲う。
一抱えもある岩が二人の直ぐ側に落ちてきたのだ。慌てて前方を見上げて息を呑む。そそり立つ岩の岸壁が、こちらに向かって大きく剥がれ落ちようとしている。
逃げなければと必死でその場を離れようとするが、砂利も岩も氷も何もかもがブルブルと激しく振動して、足が地に着かない。
しびれ薬を飲まされたようにもがく二人の上に、巨大な岩の柱が倒落してきた。
どれだけ時間が過ぎたろう。
岩壁の崩落直後に氷河の上を霧のように覆っていた微細な岩と氷の欠けらも消えて、両翼を高い岩壁に挟まれた氷河に、いつもの静寂が戻っていた。
思い出したように、岩壁から小さな岩の欠けらが転げ落ち、その音が左右の岩肌に跳ね返って、山びこのように頭上の空に吸い込まれていく。
ウィルタは体を起こすと辺りを見まわした。
ささくれだった岩の欠けらが一面に散らばり、少し先には、古代の船より二回りも大きな岩の塊が、鉄槌でも打ち下ろしたように氷河に突き刺さっている。
すでにアヴィルジーンは、遙か上空で明けの明星ほどの輝きに変わっていた。
目の上に痛みを感じたウィルタは、手袋を脱ぐと額に手をはわせた。
指先に赤い血、落ちてきた石がぶつかったらしい。帽子を被っていなければ、額が割れていたかもしれない。突き上げてきた疼くような痛みに、ウィルタは眉をしかめた。
「まったく、祖霊様に手を出すから、罰が当たったんだ」
ぼやきつつ額に手ぬぐいを当てようとするウィルタの目が曇った。クレバスの縁に引っ掛かった革の防寒帽が目に入ったのだ。タタンの帽子だ。
確かめるように辺りを見まわすが、どこにもタタンの姿はない。岩が倒壊してきた瞬間、二人はその場に伏せた。タタンが離れた場所にいるはずがなかった。
まさか……と思い、胸の鼓動を押さえつつ、クレバスににじり寄る。
水に溶け入りそうな淡い空色を湛えた氷の先に、濃紺の湖の底を思わせる闇が拡がっている。この幅百メートルほどの小さな氷河は、幅の狭さとは逆に、深さは二百メートルを超すといわれている。ここは氷河が大地を切り取ってできた峡谷ではない。大地の裂け目に氷河が流れ込んだ、氷河溜まりなのだ。
ウィルタが息を詰めた。藍色の闇の一歩手前に、派手な石黄色が覗いている。
タタンのマフラーだ。
今にも奈落の底に落ちそうな格好で、タタンは氷のテラスに引っ掛かっていた。
「タタン」と呼びかけようとして、とっさにウィルタは声を喉の奥に押しこむ。声の振動で氷のテラスが崩れてしまいそうな気がしたのだ。
代わりに唇を舌で湿らせ、鋭く口笛を鳴らす。
ところがタタンは横たわったまま動かない。どうやら気を失っているようだ。
どうすればと迷う気持ちをあざ笑うように、氷の壁が剥がれ落ち、濃紺の闇に吸い込まれていく。助けを呼びに行く間にもテラスが崩れ、タタンはクレバスの底に落ちてしまうかもしれない。迷っている暇はなかった。
ウィルタは後ずさるように氷の裂目から離れると、古代の船に向かって走った。錆だらけの船によじ登り、ザックの口を開けるのももどかしくロープの束を引き出すと、再びクレバスへ。転がる岩にロープを結び、クレバスに垂らしこむ。さらにもう一本。
左右二本のロープの先端が氷のテラスに届くのを見届けると、ウィルタは素早くロープを自分の腰に絡ませた。そして、クレバスの内側へと体重を移す。
焦る気持ちを抑えながらロープを伝って降りていく。体重が腕にかかり手が滑る。途中に結び目でも作っておくんだったと後悔するが、時すでに遅し。
ロープを掴む手に力を込めるウィルタの脇を、氷の欠けらが掠めた。頭上を振り仰ぐと、クレバスの縁でロープと氷が擦れ合っている。
極力ロープを揺らさないように、下へ、下へ。
長い年月をかけて気泡を押し出した氷の壁は、どこまでも澄んだ透明な蒼を湛えている。
しかしその美しさに目を奪われている余裕はない。
なんとか氷のテラスに到達、タタンは不自然に腕を折り曲げた格好で、氷の出っ張りに引っ掛かっていた。上から見た時は、かなり下にあると思えた氷のテラスも、降りてみれば、まだクレバスのほんのとば口にすぎない。
呪文のように「崩れるな、崩れるな」と呟きながら、ウィルタはタタンの腰にロープをまわした。しかし気が急いているのか、手先が震えて紐が上手く結べない。それでもなんとかロープを結び、息を整えるように上を見上げた瞬間、ピシッという音が耳を突き抜けた。あっと思った時には、体が宙に浮いていた。テラスが崩れたのだ。
数秒後、濃紺の闇の底から、ガラガラと氷のぶつかる音が噴き上がってきた。
幸い体に絡んだロープのおかげで、ロープを離さずに済んだ。揺れる体を引き上げ、ロープの先端に作った輪っかに靴を突っ込み、一息つく。幸いタタンは、体をくの字に折り曲げた格好で、もう一本のロープにぶら下がっていた。
やれやれと心の中で汗を拭い、不安定な体を支えるように、目の前の氷の壁に足を伸ばす。とその足の先、氷の中の埋もれたものが目に入った。
折しもクレバスに注ぐ太陽の日差しが、頭上の濡れた氷の壁に反射して、一筋の光を氷の壁に差し入れる。照明を当てたように、氷の中の四角い箱が目に飛び込んできた。
棺のような横長の箱。大人の背丈ほどの長さで、高さと奥行きはその半分くらい。
棺の上の白っぽい蓋が、日の光を反射してキラリと光る。白っぽく見えるのは反射する光のせいで、蓋自体は透明らしい。
そうするうちにも射し込む光の角度が変わり、表面の反射が消えて、棺の中のものが見えてきた。短い指を並べた足の甲、半球のような膝、胸の上に組まれた細い腕と手。
午後の日差しが、棺の中の少女を照らしだした。
第一話「序」・第二話「氷河」・第三話「マトゥーム盆地」・第四話「板碑谷」・・・・