旅立ち
旅立ち
ウィルタとタタンは板碑谷に入った。
館岩の陰から二人が谷の様子を探っていると、谷の右斜面で人の声がした。
見ると右手の尾根筋を白い明かりが並んで動いている。警邏隊の隊員、黒服たちだ。
タタンが「おい、あそこ」と、明かりの少し先を行く二つの黒い影を指した。影の大きさからして子供、一人はスカート姿だ。一瞬、春香……と思ったが、春香とは髪型が違う。
「誰だろう」と言いかけたウィルタが、分かったとばかりに軽く指を鳴らした。
「そうか、あれはナムとピッタ、スカート姿の女の子は、きっとピッタだ」
黒服たちは、あの二つの影を、曠野の少年と古代人の少女だと思い込んでいるのだ。
暗闇の中でタタンが声を殺して笑った。つられてウィルタも笑う。
「ナムのやつ、オバルさんの救出作戦の真似をしたんだ」
ナムとピッタの影が尾根筋を向こう側に抜けると、追跡の黒服たちの明かりも後を追うように姿を消した。それでも用心のために足音を殺してゆっくりと進む。
二人の背後で、かすかに砂利を踏む音が鳴った。
振り向いた二人の前に、ブッダの鼻面があった。
のそっと姿を現わしたブッダは、体を擦りつけるようにして二人の横を通り過ぎると、そのまま扇状地の奥に向かって歩きだした。
ウィルタが声を潜めて「ブッダ」と呼ぶが、振り向かない。
「まったく……」と、舌打ちしながら顔を上げたウィルタに、板碑谷の左斜面で点滅する灯が見えた。斜面の岩窟は、ミトの仲間しか知らない場所だ。
ウィルタはタタンの肩を押すと、急いでブッダの後を追った。
板碑谷の最奥部、切り立った岩盤の前にシーラが立っていた。
直ぐに岩窟の中へ。そこに荷物を積んだ毛長牛と、インゴットの息子のアーマ、それに春香がいた。灯芯を絞り、薄布で包んだカンテラの微かな明かりのなか、春香がウィルタを認めて頷くのが見えた。ウィルタも頷き返す。込み上げてくる安堵感で、ウィルタは両膝に手を置いたまま大きく息をついた。
アーマがカンテラを囲っている薄布を持ち上げる。豆粒のような灯だが、それでも暗闇に慣れた目に嬉しい光が五人を照らし出す。明かりに引き寄せられるように、五人が緊張と安堵の入り混じった顔を近づけた。
「ナムとピッタが追っ手を引き回しているうちに」と、シーラが声を潜めて話しだした。
「詳しく説明している暇がありません、手短に話します。ウィルタ、あなたのお父さんは生きています」
ウィルタはその話が出ることを予想していた。だから驚いた様子も見せず、確かめるように聞いた。
「やっぱりぼくの父さんは、あのハンていう、たくさんの人を死なせた事故の責任者だったんだね。ねっ、シーラさんは、そのことを知っていたの」
シーラが済まなさそうに目を伏せた。
「ごめんなさい、お父さんから、固く口止めをされていたの。ウィルタのお父さんは、ユルツ国の進めていた事業と、その事故に深く関わっていました。そのことで、今、ユルツ国の人たちは、必死になってウィルタのお父さん、ハン博士を捜しています。博士だけでなく、ウィルタ、あなた自身もです。ここにいれば、あなたも警邏隊の人たちに捕まってしまうでしょう」
「うん、さっき黒服たちが話しているのを聞いた。でも、ぼくなんかを捕まえても、何の役にも立たないと思うけど」
「あなたを人質にして、お父さんを捜し出したいのでしょう。いいことウィルタ、あなたのお父さんは、チェムジュ半島というところにいるそうです。会いに行ってあげなさい」
ウィルタは目を丸くした。まさかシーラが、父さんのいる場所まで知っているとは思っていなかったのだ。
「父さん、生きているの、どこって」
「大陸の東の果てのチェムジュ半島、オーギュギア山脈の遙か先の地よ。遠い場所だけど、そこに行けば、きっと会うことができる。会って、大きくなったあなたを見せてあげなさい。ウィルタのお父さんは、事故のことでとても苦しんでいたの。もしかしたら、今でも悩んでいるかもしれない。あなたで力になれることがあったら、支えになってあげて。ウィルタなら、きっとお父さんの力になれるわ」
呼吸を整えるような間の後、ウィルタは、はっきり「わかった」と返事をした。
ウィルタの上半身が小刻みに震える。父親の存在が明らかにされ、遠い場所にいる父親に会いに行かなければならない、そのことで気持ちが昂っているのだ。そうでなくとも、この数日、心の震えるようなことが続いていた。
武者震いをするウィルタを落ち着かせるように、シーラはウィルタの頬に手を当てると、その手で岩窟の奥を指した。毛長牛の横、岩の上に、荷物を詰め込んだ子供用のザックが置いてある。
ウィルタが、まさか……とシーラの顔を見た。
「会いに行くって、これから?」
「もちろんよ。早くしないと、いずれここへは銃を持った連中が戻ってくるわ。あなたを送り出したら、私たちは直ぐにミトの仲間を追いかけて出発します」
あっけに取られたウィルタを促すように、シーラが続けた。
「お父さんの居場所で分かっているのは、チェムジュ半島の海沿いの村ということだけ。道は街道を行く方が楽だけど、街道筋を旅するのは、身分証など持たない曠野の民には不都合が多いもの。それにユルツ国の人たちが見張っているかもしれない。難しい行程になるかもしれないけど、北のキアック峠を越えて行きなさい。大した準備はできなかったけど、最低限の荷物はザックに詰めておきました」
シーラの説明を聞きながら「それ、ぼく一人でってことなの」と、ウィルタが自信のなさそうな声を吐く。
「もちろんよ」
「でも……」
あまりにも突然の話だった。物心ついて以来、ウィルタは曠野の外に出たことがないのだ。知っている外の世界といえば、ユカギルの町だけ。タタンと話したように、いずれは旅に出てみたいと思っていた。でもそれは、あくまで一人で何でもできるようになってから、自分に自信が持てるようになってからだ。今すぐ知らない世界に、それも一人でなど、とてもそんなことができるはずがない。それも全く何の心の準備もできてなくて、直ぐにだなんて……。
どう返事をしようか迷うウィルタの目に、自分を見つめるタタンとアーマが見えた。ウィルタは心の動揺と、自信の無さを隠すようにシーラに答えた。
「新しいミト地に着いてから旅に出るのでも、いいんじゃないかな」
さらに何か言おうとするウィルタを、シーラが手で押し止めた。
「ウィルタ、これは私からのお願い。いい、あなたがミトの仲間と一緒に行動すると、ミトの人たちが災いに巻き込まれる恐れがあるの。もしそうなったら、あなたはミトの全員から疎まれるようになる。丞師になった私は、あなたの手助けをできない。ウィルタ、あなたはもう一人で生きていかなければならないの、分かるでしょ」
シーラの真激な眼差しがウィルタの心を打ち据える。
ウィルタが俯いた。自身のことで手一杯の自分が、恥ずかしく情けなくなったのだ。
うな垂れたウィルタの耳朶を、シーラの声が打つ。
「ウィルタ、あなたはミトを離れなければなりません。その一番の理由は、あなたがまだはっきりと、町に住むか曠野の暮らしを選ぶかの判断を下せていないから。このまま曠野の奥に行ったら、あなたにはいつまで経っても決断できないでしょう。なぜなら、あなたが知っている曠野以外の世界は、ユカギルだけだから……」
シーラは自分の額をウィルタの額にくっつけるように話していた。
「いい、ウィルタ、私はあなたを責めているのではないの。あなたがあなた自身の将来の生き方を考えるには、あなたは曠野の外の世界を知らなさすぎる、そういうことなの。あなたは世界を見てこなければならない。違う世界を見て、経験を積み重ねれば、曠野とそれ以外の世界のどちらを選べば良いか、判断できるようになるでしょう。もしその結果、あなたが曠野で暮らすことを望むなら、ミトの人たちは、それを喜んで受け入れてくれる。たとえあなたが災いを持ち込もうとです」
ウィルタは身を固くしてシーラの話を聞いていた。いや実のところ、シーラの声は聞こえていなかった。じっと考えていた。考えることに集中していた。自分が何かを判断する、それは自分がその判断の責任を取るということだ。そして責任を取るということを自分に言い聞かせるために、決意が必要だった。
意を決したように頷くと、ウィルタは自身の考えを手繰るように話しだした。
「分かった、シーラさん。シーラさんが、そうすべきだって言うのなら……、いやシーラさんに言われる前から、きっとぼくはそうすべきだったような気がする。ずっと曠野と町のことを考えていて、どうすれば答えが出るんだろうって、それが分からなかった。でも答えは簡単なこと。ボクが曠野以外のことを知らなかったという、それだけのことだったんだ」
言葉を口に含んで確かめるように話しながら、ウィルタは顔を上げ、真っ直ぐにシーラを見た。そして「ボクは、世界を見てくる」と短く言った。
少年らしい、高いくっきりとした声だった。
シーラは安堵の笑みを浮かべると、祝福するようにウィルタの手を取った。
「ウィルタ、あなたはもう十三才、りっぱな大人よ。旅に出て自分の目で世界を見て考えなさい。そして、あなた自身で選びなさい、あなたの生きていくべき道と世界を。それからでも曠野に来ることは遅くない。私は、ウィルタが曠野に戻ってくるのを、いつでも待っています」
「でもその時は、丞師になったシーラさんとは、話を交わすこともできない……」
ウィルタの沈んだ声に、シーラが寂しそうに微笑んだ。
それを敏感に感じ取ったのか、ウィルタは口を真一文字に引いて、泣きそうな目でシーラを見上げた。
シーラは強ばったウィルタの顔に手を伸ばし、頬を、髪を、優しく撫でた。そして黙ったまま、両手をウィルタの前で動かした。握った拳を胸の前で広げ、その手を胸に当てて、外に返す。相手に向かってだ。シクンの手言葉の挨拶である。
ウィルタが、黙ったまま同じ手の動きで返す。そして苦笑いした。
「ずるだよ、シーラさん、それじゃあ……」
「そうね、ずるね。でも口をきいてはいないわ」
丞師は私的な内容の話をしてはならない。確かに手言葉なら、口を使って話をしてはいない。でも、それは言い訳だろう。
「それでも……」と、シーラは言う。
「人と人は、別に声だけで会話を交わしているんじゃない。たとえ言葉を発することができなくても、心を通じ合わせることはできる。本当に相手に何かを伝えたいと思えば、方法などいくらでもあるわ。それに、私はどこにいても、ウィルタが語りかけてくれるのを待っている。そして、いつまでもウィルタの味方よ」
泣きそうな顔のウィルタが手を動かす。「分かった」の手言葉だ。
シーラがウィルタの頬に手を添えた。
「もしあなたが曠野を選んだとしたら、いつでも歓迎するわ」
コクンと首を振ると、ウィルタは恥ずかしそうにあることを口にした。
「ね、シーラさん、ひとつだけお願いがあるんだけど、いい」
「なに?」
「ずーっと、そうしろって言われてきたから、そうしたけど。一度だけ、やらせて。シーラさんの呼び方を、別のさ、ねっ分かるだろ」
シーラは優しく微笑んだ。
シーラの微笑みに促されるように、ウィルタがその言葉を口にした。
「シーラ……、母さん、ありがとう、ぼくを育ててくれて」
言葉の気恥ずかしさを隠すように、ウィルタはシーラに抱きついた。そして、暖かなシーラの胸に顔を埋めながら、甘えるような声で聞いた。
「でもさ、母さん、ぼくは父さんの顔を覚えてないんだよ。チェムジュ半島というところまで行ったとして、どうやって捜せばいいんだろう」
「大丈夫、あなたのお父さんよ、きっと直ぐに分かるわ」
ウィルタの体を軽く押し返しながら、シーラは目で後ろの荷物を指した。
「それよりウィルタ、順調に行っても二カ月はかかるでしょう。必要なものは、その都度入手しなさい。街道を旅するための入域許可証も何も用意できなかったけれど、なんとかうまく切り抜けてちょうだい」
タタンが横で羨ましそうな視線をウィルタに送った。
気づいたウィルタが、済まなさそうに頭を掻く。
「ごめんねタタン、どうやら先に、旅に出ることになっちゃった」
「分かってるって、気にするなよ。うちはあの様だろ。とても家を空けられる状態じゃないからな。それにこの腕も、まだ完調じゃないし」
タタンはクレバスで捻挫した左腕を軽く振ると、思いついたように首の後ろに手を回した。そして胸に下げていた例の紡光メダルを外した。
「これを、持ってけよ」
「えっ、だってそれは、おじいさんの形見じゃないか」
「いいんだ、おれの代わりに持って行ってくれ」
遠慮するウィルタの首に、タタンは強引にメダルを回しかけた。
「気にするなって。おれはおれでさ、いつか旅に出て、もっと凄えものを見つけるから」
首にぶら下がったメダルを指先でなぞると、ウィルタは遠慮がちに、でも嬉しそうに、「ありがとう」と言った。
「さあ、黒服たちが、騙されたことに気づいて戻ってくるまえに」
シーラが出発を促そうとした時、春香が思い詰めたように口を開いた。
「シーラ、さん、わたし…、わたし、は…、どう、すれば、いい?」
「そうだ、シーラさん、黒服たちが春香ちゃんを捜してるんだ。春香ちゃんは、捕まればユルツ国に連れて行かれて、研究材料にされてしまう。ぼくは春香ちゃんをどこか安全なところに連れて行きたい」
シーラはこめかみに手を当てると、思案気な顔でウィルタに言い聞かせた。
「ウィルタ、あなたの行く道は易くない。お父さんに会うための旅は、あなたにとって、初めての体験の連続になるでしょう。もちろん、この世界のことを何も知らない春香ちゃんにとっては、もっとよ。丞師様は、春香ちゃんに関しては、私たちと一緒に暮らすことを了承してくれたの。私と春香ちゃんは、曠野であなたが無事にお父さんに会えることを祈っています」
春香が、納得できないとばかりに「でも…」と、抗議の声を上げた。
不満げな春香にシーラが「ねっ、春香ちゃん、私と一緒に行きましょう。あなたは体も元に戻ってないし、曠野でゆっくりと、この世界のことを学ぶのがいいわ」
半ば強引に説得しようとするシーラに、春香が訴えた。
「わたし、も、ウィルタ、いっしょ、旅、でて、みたい…」
「この、世界…、夢の、続き、みたい…、まだ、わたし、の、なか…、目を、つむる、ひらく…、もとの、世界、もどる、かな…、気持ち、いっぱい…」
「でも、いま、この、世界…、わたしの、世界…、わたし、目覚めた、この、世界…、知り、たい…、この、世界、見て、まわり、たい…」
「それ、から、目が、さめる…、昔の、世界、もどる…、おそく、ない…」
想いを吐露する春香に、ウィルタとシーラが思わず顔を見合わせた。
「ねっ、シーラ、さんも‥、そう、考えた、でしょ…、だって…、かごの、うしろ…、もう、一つ、リュック、ある」
シーラは天を仰ぐと、春香の目を見てにっこりと微笑んだ。
「春香ちゃん、私からもぜひお願いするわ。どんな旅にも連れは必要なもの。ウィルタと一緒に行ってあげて。ウィルタはまだまだ頼りないから」
「なんだよ、それ」
むっとしたウィルタの横で、シーラは春香の肩を抱くと耳元でささやいた。
「春香ちゃん、あなたは人類の過去を知る者として、この世界に生まれてきたの。あなたは、たぶん、あなたにしかできない役割を背負っているはず、それを探してちょうだい。そして、あなたにしかできない人生を見つけて」
シーラが脇に置いた布袋から、先日来編んでいたセーターを取り出した。
「冬の長いこの世界ではね、いいセーターは、いい道連れと同じくらいに大切な物なの。セーターのここに、ちょっとだけ編み残しがあるけど、それはシクンの習わしで、長い旅に出かける人には、また会えますようにって、編みかけのセーターを渡すものなのよ」
シーラは、その星草柄のセーターを春香に着せると、今一度強く抱きしめた。
「あなたに、星草の加護のあらんことを」
「でも、シーラさんが寂しくなっちゃうわ」
シーラの腕の中で、春香が身をよじった。
「大丈夫、私にはブッダがいるから」
いつの間にそこに来たのか、シーラの足元にブッダが寄り添っていた。
「ウィルタ、厳しい旅になると思うわ、お父さんに会うまでも、そして会ってからも。くれぐれも体には気をつけて」
荷を背負うよう促すと、シーラは「警邏隊の隊員たちが戻って来るといけないから」と、二人の背を押した。
緊張した面持ちでザックを担ぎ、カンテラに明かりを灯すと、二人は岩窟の出口へと進んだ。外は漆黒の闇。その岩窟と暗黒の境で、シーラが「元気で行ってらっしゃい」と、二人を代わる代わる抱きしめる。
あまりの急な事の運びにウィルタは戸惑っていた。しかしもう後戻りができないということだけは、はっきりしていた。自分は前に進むしかない。アーマと握手を交し、タタンとは、しかと抱き合った。そして絞れるだけ絞ったカンテラの明かりの中で、シーラを見た。自分を育ててくれた養母が、いや母が、そこに立って静かに自分を見つめている。
ウィルタは「必ず……」と呟くと、小さく母に礼をした。
墨を流したような闇の中、春香とウィルタは、わずかなカンテラの明かりを頼りに、岩窟の脇の坂を上った。続くようにタタンも、シーラに一礼して岩窟を出る。
二つの足音が別々の方向、尾根筋と盆地の底に向かって離れていく。
岩窟の奥から、アーマが荷を積んだ毛長牛を牽いて出てくると、シーラがじっと自身の手の平を見ていた。訝しんだアーマが「手が、どうかされましたか」と尋ねると、振り返ったシーラが、「ああ、違うの、ちょっとね」と、はにかみながら手にしていた物を左耳に付けた。水紫色の逆巻き貝の耳飾りである。
さっきアーマやタタンが春香に別れの言葉を贈っている時に、ウィルタはシーラに布で包んだ小さな物を差し出した。それが、いまシーラが左耳に付けた耳飾りだ。
ウィルタは逆巻き貝の耳飾りを渡しながら、「元気で、母さん」と言った。いつもシーラが右の耳にだけ耳飾りを付けているのを見て、気になっていたらしい。きっとアーマやタタンが見ている前では、恥ずかしくて渡せなかったのだろう。
シーラが、耳に付けた耳飾りにそっと手を這わす。
アーマが意外そうに言った。
「いつも片方しか付けてらっしゃらなかったので、お持ちではないのかと思っていました」
アーマの疑問にシーラが軽くウインクで答える。そして「これは私のお守りなの」と軽やかに言って、またその耳飾りに指を添わせた。耳たぶに触る癖のある自分だ、きっとこれからは、この耳飾りに触れるのが癖になるだろう。
そう思って、また耳飾りに指を近づけようとした時、シーラの体を何かが通り抜けた。
悪寒が襲ったようにシーラが両腕を抱えた。
「どうされました」
アーマが、心配そうに声をかける。
しばし無言で何かに耐えるように足元に視線を落としたシーラは、ゆっくりと顔を上げると「いま、丞師様が亡くなられた」と、抑えた口調で言った。
アーマは、父親のインゴットから、シーラが丞師の後継者に指名されたこと、加えて、今の丞師様が身体的にかなり危ない状態にあるということを聞かされている。だから驚いた表情は見せたものの、すぐにシーラに向かって丁寧な言葉を使った。
「出発なさいますか、丞師様」
「そうね、行きましょう、直ちに」
シーラは心の動揺を抑えるように静かに答えると、闇の向こうに目を馳せた。
そして、アーマに呼びかけた。
「ミトの一行は、北北西、三馬里、猿額岩の岩棚の下にいます。そこで私たちの来るのを待っています。行きましょう」
丞師らしい自信に満ちた声だった。その凛とした響きの声に、アーマは姿勢を正すと、シーラの前に立って歩きだした。
二人は板碑谷の谷間を途中まで下り、ウィルタたちが上ったのとは別の尾根に向けて、毛長牛の尻を叩いた。全き闇の中を、二人は牛とともに進む。そこに息を切らせてナムとピッタが合流してきた。
ウィルタと春香の二人は、板碑谷の右手奥の崖のような斜面を上った。井戸から立ち昇る蒸気にタタンが狂気して下った、八方尾根に続く斜面である。
斜面を上がり切ると、二人は牧人道から後ろを振り返った。
昼間ならマトゥーム盆地の全景が見渡せるのだが、今は夜、それも漆黒の闇だ。
目に映るのは、オレンジ色の燭光灯を灯したユカギルの町と、その手前の盆地の底にぼんやりと光る星草の湿原だけだ。
「あっ、星が…、降って、きた」
春香が、目の前に舞い降りてきた白いものに手を差し伸べる。
雪だった。
空を見上げる二人の上に、立ちこめた厚い雲から、次々と雪が舞い落ちてくる。
「星草は、夏の最後の日に瞬くって言われてるんだ」と、ウィルタ。
「じゃあ…、あし、た、は…、秋、なの」と、春香が聞く。
「違う、あしたは冬、あさっても冬」
「そっか…、ずーっと、冬…、なんだ」
「うん」
「じゃ、春、は…、いつ…、来る、の」
少しだけ間を置いて「きっと、この旅が終わった時」と、ウィルタが応えた。
「フーン、ウィルタ、の…、捜し、もの…、春、と…、おとう、さん、か…」
春香が納得したように、何度も首を頷かせる。
小さな踊り子のような雪の花を手の平に受け止めながら、今度はウィルタが聞く。
「春香ちゃんの捜しものは何だろう」
舞い降りてくる雪を頬で受け止めていた春香が、夜の空に向かって声を発した。
「わた、しは…、たぶ、ん…、わた、し」
会話が途切れたその隙間を埋めるように、雪が風に舞う。
二人は、なんとなく顔を見合わせると、「行こうか……」と声を出した。
その掛け声の息があまりにぴったりと合ってしまったことに照れて、二人は笑った。
そして「じゃ」と言って、改まって姿勢を正すと、今度はゆっくりと少し大股の第一歩を踏み出した。盆地沿いの尾根道を北東に向かって歩く。
互いに寄り添って歩く二人の上に雪が舞い、やがて本降りとなった雪のカーテンが、二人の姿を白い闇のなかに消していく。
この夜、セヌフォ高原に長い雪と氷の季節が始まり、そしてまた春香とウィルタの長い旅も始まったのだ。
第二十話「曠野」・・・・




