小火
小火
五時、いつもよりも早い夕闇が、町を覆い始めていた。
町の数か所に石炭用の発電機が設置され、官舎や電信館などの主要な施設と併せて、高石垣に開いた四つの門にも明るい燭光灯が灯された。一見すると、祭りの時よりも町が明るくなったように思える。だがオレンジ色の燭光灯に照らされた街路を歩いているのは、黒服たちだけだ。
官舎の執務室では、指揮官のダーナが、町長のタルバガンと向かい合っていた。
ダーナが、住民に関する調書をタルバガンに投げて寄越した。
「古い囲郷だけあって、随分色々な人材がいるものだ、なあ、元ユルツ国開発局部長殿」
報告書を手にしたタルバガンが、咳払いをした。
「人の人生は川面を流れる塵埃のようなもの。今は寂れた囲郷の平凡な雇われ役人。それよりも、お父上の前国務大臣なら、絶対このように強引な接収を実行なさらなかったと思いますが」
ダーナが手の平をバンと机に打ちつけた。
「時代は腰の重い策謀家を待ってくれぬ、政治家に必要なのは、即断できる決断力だ」
ダーナが鋭利な刃物で闇を切り裂くように言葉を投げつけた時、「火事だーっ!」と、階下で叫び声が上がった。続いて「後棟一階の用務室だ!」という声。
人工の材でできた柱や梁は、耐久性はあるが、火をつけると酷い臭いを発する。
執務室の中にも焦げた臭気が潜り込んできた。
堪らず口元に布を当てたタルバガンをよそに、ダーナは立ち上がって窓に顔を寄せると、外の通りに目を向けた。官舎前の燭光灯は全て消え、所々に小さな白灯の明かりが残るのみ。一方、広場や焙暘門方向の燭光灯は灯ったままだ。
鼻を刺す焦げた臭いが強くなってきた。
タルバガンが椅子を倒して立ち上がろうとすると、ダーナが醒めた声で諌めた。
「小火ごときで慌てるな。危険なら部下が連絡に来る」
人の走り回る音に混じって「捕虜が逃げたぞーっ!」という声が聞こえてきた。
棒型の白灯をかざした部下が、扉を開けて部屋に飛び込んできた。廊下では煙が天井を這うように流れている。その煙の波打つような動きを、白灯の明かりが下から怪しく照らし出す。部下が窓際に佇むダーナを認めて、声を張り上げた。
「指揮官殿、報告します。捕虜が逃走、手引きをしたのは子供のようです。それに、官舎前の路地を走る大小の人影を見張りの者が目撃しました」
「分かった、手はずどおり追跡しろ、火の状態は」
「煙は出ていますが、部屋を一つ焦がした程度です」
「分かった、行け」
部下はすぐに扉の外に飛び出していった。その足音が他の隊員の足音に重なりながら、階下へと遠ざかっていく。
ダーナは窓の外を一瞥すると、嘲笑を含んだ声をタルバガンに向けた。
「星のない闇夜とは、都合の良いことだ、なあ町長」
タルバガンが「さあっ」と、気のない返事を返した。
オバルとウィルタは屋根の上にいた。
見張りの黒服たちが「あそこだーっ」と声を交わしながら、ウィルタたちのいる場所から離れていく。黒服たちが目撃、追跡を始めた大人と子供の影は、マントを被せた箒を掲げて走る、タタンの姿だった。
腹ばいに屋根に張り付いていた二人が体を起した。官舎の周りは真っ暗。小火に合わせてネルチェルピが発電機と燭光灯を繋ぐケーブルを切断したのだ。向こう側の通りの明かりで、微かに足元の屋根の起伏が見て取れる。
明かりが多すぎては黒服たちに見つかってしまう。逆に全くの闇では、逃げる方も身動きが取れない。華々しい燭光灯が消え、所々に白灯が残る夕まずめの宵闇が、逃亡を助け、かつタタンの偽装を錯覚に導いてくれる。
ウィルタとオバルは、追跡隊の明かりが通りの向こうに移動するのを待って、逆の方向へ屋根を伝い始めた。屋根から屋根へ、大通りを跨ぐ渡り廊下の屋根を渡り、さらに通りを二つ越えて、ウィルタは闇の深い路地裏にオバルを案内した。
熱井戸の裏手に入る。明かりのない工場街は全くの闇の中にある。
慎重に歩を進める靴の下で、ガラスの割れる音が鳴った。
ウィルタが、後ろの足音に向かって言った。
「おじさん、足のケガは大丈夫?」
「どうして」
「うん、歩く時の音がね、リズムが時々崩れるから」
「いい耳をしてるな、でも君の歩く速さなら大丈夫、俺の足は一等長い」
「そうだね」
ウィルタはクスリと笑うと「忘れてた、左側に気をつけて」と、慌てて付け足した。
ゴツンという鈍い音と、噛み殺したような呻き声がウィルタの頭の上で漏れた。
オバルが工場の梁に頭をぶつけたのだ。
「ウィルタくん、足のことよりも、先にこれを言って欲しかったな」
謝りながらウィルタがオバルの手を掴んで誘導、二人の手が分厚い配管の縁に触れる。
「昔使われていた蒸気管なんだって。凄いよね、昔はこんな大きな管一杯に、蒸気が通ってたんだもの。あっ、でもオバルさんには狭いか……」
二人は大人の身長ほどもある管の中に足を踏み入れた。
六時、すでに小火は沈火していた。
官舎の執務室では、ダーナの前で、例の首ぼくろの隊員が、帚と外套を持って立っていた。タルバガンを前に、ダーナが感心したように鈍い笑い声を上げた。
「してやられたな。子供にやらせるとは賢い手だ。なあ町長」
「はっ、なんのことで……」
タルバガンが、とぼけた調子で受ける。
「まあいい、泳がせて、行き着く先を探るという手もある」
ダーナは手にしたペンで金属の頬を叩くと、ドア横に待機している伝令に「通信室で例のことを確かめてこい」と、ペンの先を振った。
素早く部屋を出ていく伝令を横目に、首ぼくろの隊員が、してやったりとばかりに口元に薄ら笑いを浮かべた。
「間抜けなやつでさ、足の裏をぶっ叩いてやると言って靴を脱がせたのを、真に受けてましたから」
パシッという鋭い音が部下の発言を遮る。ダーナがペンを机に打ちつけた音だ。
くぐもってはいるが、きつい調子の声が部下に投げつけられた。
「口の軽い者は早死にするぞ。もし町の周辺にハンが潜んでいるなら、オバルは必ず会いにいく。抜かるなよ。分かったら、さっさと追跡にかかれ」
首ぼくろの隊員は、逃げ出すようにダーナのいる執務室を飛び出していった。
首ぼくろがオバルの靴を脱がせたのは、何も拷問をするためではない、靴に発信器を仕込むためだった。
書類に目をやりながら、ダーナが有無を言わせぬ口調で告げた。
「残念だな町長、たとえ子供がやったことであろうと、誰かに責任をとって貰わねばならん。タルバガン、たった今、お前を町長の役から解任する」
町長を退席させると、ダーナは次官を呼びつけ声高に言い渡した。
「宿屋に集まっている連中を解散させろ。炭鉱の火薬類はすべて一カ所に集めて監視下に置け。小火の際に照明が消えた、断線作業に協力した者がいるはずだ、探し出せ」
ダーナは矢継ぎ早に部下に指示を下し始めた。
この小火騒ぎの少し前、雲が張り出して来たために少し早い夕闇が辺りを包み始めた頃、炭鉱の事務所棟の東の端。分室のある倉庫の扉が開いて、シーラが姿を見せた。
シーラは一人、炭鉱横の坂道を上っていった。
そのシーラが去った分室の控え室では、レイが窓際の椅子にどっかりと腰を落とし、先ほどまでシーラと話していたことに思いを巡らせていた。意地の悪いことだと思いつつ、レイはシーラに告げた。ウィルタが十年前の惨事の原因であったということを。
そして「あなたならどうする」とシーラに迫った。
驚きと困惑と悲しみと長い沈黙のあと、シーラは口を開いた。
「ウィルタを父親のハンの元に送りましょう」
何かを悟ったような声だった。
レイが憮然とした顔で睨みつけるが、構わずシーラは続けた。
「遅かれ早かれ、警邏隊の人たちも、ウィルタがハンの息子であることに気づくでしょう。それに事故の真相が一部の人にであれ知れているのであれば、いずれそれはウィルタ自身の耳にも入るに違いない。いえ、ウィルタがそれを知る可能性があるということが、問題なのだと思います。もしそうなるのだとしたら……、私は真相が間接的に誰か見知らぬ人からウィルタに伝わるのではなく、父親のハンから直接に語られるものであって欲しいと思います。
十年前に、ハンが私にウィルタを手渡した時の彼の複雑な表情を、今でもよく覚えています。今にして思えば、あれは我が子が多くの人を死に追いやり、自分の社会的な地位を失墜させ、さらには妻を死に至らしめたことへの恨みと、それでも捨て切れない我が子に対する愛情、そのことの間に渦巻く葛藤だったのだと思います。あれから十年、ウィルタも十三才。事実を受け止めることのできる年令になっています」
レイが酔いを振り払う鋭い目つきになって言い返した。
「あの子に、お前のせいで何千人もの人が、母親までが、死に至ったと告げるのか」
レイの怒気を含んだ視線を受け止めると、シーラはきっぱりと言った。
乾いた声だった。
「非情かもしれません。でも、ほかに方法がないでしょう。たとえ三歳に至らない子であっても、罪は罪。それを認めるところからしか世界は開かれない。誤魔化そうとすると、いずれそこを誰かに突かれることになる。そう思いませんか」
逆に問い返され、レイは返答に詰まった。
確かにそうなのだろう。
すべては、事実を事実として認めるところから始まる。しかし、とも思う。
シクンのように自然に向きあって生きる民は、状況を受け入れることに長けている。自然は受け入れるしかない存在だからだ。人は雪が降ったからといって、空を恨むことなどしない。自然の中で生きるということは、常に、状況をあるがままに受け入れる生き方だ。余分な見栄や虚飾に惑わされない生き方とも言える。
だが……、誰もがそのような生き方をできる訳ではない。人は雑念の中に生きている。鉄の意志を持つことに憧れても、その片鱗さえ持つことができない。聖者に憧れても、その足元に歩み寄ることさえできない、それが人間なのだ。
罪を贖うことをせずに逃げ出したハンに、事実をそのまま息子に告げるなどということができるだろうか。いや、それは私が考えるべきことではない。もし息子が目の前に現れて何も語れないような父親なら、先は見えたようなもの。いずれユルツ国に連れ戻され、自分の意志とは関係なく、惰性で計画の再開に利用させられてしまうだろう。
レイは大きく肩を上下させると、自分の老いた、しわだらけの手に目を落とした。
そういうひ弱な育て方をした責任は私にある。しかしハンも四十半ば。その弱さを受け入れて、生きていくしかない。息子も孫も、お互いに与えられた条件の中でのたうつしかない。人は自分の人生を生きるしかないのだ。
外はもう完全に闇。その闇の中に希望を探すように明かりが灯される。
シーラは自分の考えを述べた後、これまでのウィルタとの暮らしを振り返るように、淡々とした口調で言った。
「あの子を自分の息子ではなく父親の分からない孤児として育てた、その判断が確かだったことに内心ほっとしています。自分のどこかに、あの子が町の暮らしではなく、曠野での暮らしを選んでくれるのではという期待がありました。でも今ようやくそれが、ふっ切れたように思います。あの子は、まだ自分がどういう人生を送りたいか迷っている。しかしきっと父親に会いに行くこと、自分に与えられた運命と向き会うことで、彼は何かを理解するはず。それが最終的に曠野で暮らす生き方と繋がるなら、曠野は喜んで彼を受け入れるでしょう」
子供がいずれ親から離れ、自立しなければならない存在であるということは、親と子供、双方が自覚している。対して親が子供から離れ、自立しなければならないということは、見過ごされがちだ。今までシーラは、事あるごとにウィルタに自立の時を語ってきた。しかしそれは取りも直さず、自分がウィルタから自立しなければならないということだった。レイと話すなかで、シーラはようやくそのことを悟ったといってよい。
シーラはレイに別れを告げた。そしてユカギルの町を振り返ることもなく坂を上っていった。自分を待っているのは、一族を統べる丞師としての仕事である。それがこれからの、ウィルタがいない自分の、人生の課題だ。
うまいタイミングで後ろからナムが追いついてきた。シーラはナムの背を軽く押すと、板碑谷に向かって尾根道を歩きだした。
レイは瓶の酒を飲み干した。気がつけば、机の上に空き瓶が三本転がっている。
「私は私の人生を生きなければならない」
自分に言い聞かすように呟くと、レイは椅子から立ち上がり「いや、それは人生などというものではない、只の後始末だ」と、自嘲気味に言い直した。
大股に部屋を横切って備品扉の前に立つ。レイは痰を吐くような鋭い息を吐くと、観音開きの扉を一気に引き開けた。中に、くの字に体を折り曲げた司経が押し込まれていた。
僧衣を血で染めた司経に、レイが哀れむように話しかける。
「悪かったわね、司経さん。まだ息子の居場所をユルツ国に知られる訳にはいかないの。
あなたは私をただの老いた町医者だと見くびっていたようだけど、私は医者は医者でも、黒い血に染まった医者。オバルもあの養母も気づいていないようだけど、息子のハンは、私が汚れた仕事をやっていたことを軽蔑していたの。表の顔で病を治し、裏の顔で病を生み出す私をね……」
死体を引き出すとレイは「息子に嫌われても仕方ないか」と肩を竦め、今度は相談でもするように司経に語りかけた。
「さあて、あなたをどうしようかしら。このままここに転がしておくこともできないし。そうそう、炭坑の外れに使わなくなった竪坑がある。あそこがあなたの墓場よ」
倉庫の扉を開けたレイが、外の様子を慎重に覗き見る。
事務所棟の東、緩やかな下り斜面の中ほどに、昔の竪坑跡の櫓の黒い影が見える。時を合わせたように、高石垣の内側で火の手が上がった。官舎で起きた小火だ。炭坑の入口にいた黒服数人が、それを見て町の方へ駆け下りていく。
「ふむ、誰の仕業か知らないけど、これで隊員たちの注意はあちらに集中する。天佑とはこのことね。しかし井戸まで二百メートルはある。運ぶとなると一仕事。この病んだ体を使うことを考えれば、酒を丸々三本というのは、ちょっと飲み過ぎだったかしら。まあそれも済んだこと、やるしかない」
独り言のように呟くと、レイは死体の両足を持って、戸口から引きずり出した。そしてズルズルという曳き音と共に、闇の中に消えていった。
死体を曳きながらレイは独言を口にしていた。いま自分は精神的に異状な状態に陥っている、自分で自分をそう分析しながら、それでもレイは、口を衝いて出てくる独言を、歌を歌うように口にし続けていた。
半刻ほど奮闘の後、レイは竪坑の穴に司経の体を落とし込んだ。
よろけながら診療所の控え室に戻る。そしてもう一度、通信機の前に立つ。レイは目を閉じ、しばらくその前に佇んだ後、通信機のスイッチを切った。
童謡のような歌を口ずさみながら、レイは鞄をひっくり返した。中のものが床にぶちまかれる。転がる錠剤など目もくれず空になった鞄の底をメスで切り裂くと、レイは隙間から小さな包みを取り出し、胸のポケットに押し込んだ。
酔騏楼で酔って騒ぎたてる坑夫たちに黒服が解散を命じている頃、町の南東側の斜面を下った辺り、湿地帯の手前に口を開けた蒸気管の中から、ウィルタとオバルが出てきた。雲がさらに厚みを増したのか、辺り一面墨を流したような闇だ。振り返ると、家並みの壁に反射する明かりの変化で、街路を人が走り回っているのが分かる。黒服たちが逃げ出したオバルを探しているのだろう。
ウィルタとオバルは、輪郭線に沈んだ町を横目に、闇の底を歩きだした。
前方にチラチラと小さな光の帯が瞬いている。
「星草だな、あの光は」
頭の上から聞こえる声に、ウィルタが合いの手を打つ。
「盆地の東側に星草の湿地帯が拡がっているんだ。星草の原を抜けて、南に五分ほど歩けば、街道と軽便鉄道の軌道にぶつかる。そのまま街道を東に進めば、盆地の東の出口、逆に西に進めば七百メートルほどで……」
「ユカギルの軽便鉄道の駅ということだ」と、オバルが続けた。
脱出後の逃走路に関しては、ネルチェルピがメモを用意してくれた。そのメモを、ウィルタは、さっき配管の中でオバルに渡した。メモの逃走路は警邏隊の追跡隊が国境沿いの東に向かうことを見越して、いったんユルツ国方向に引き返すルートだ。ただネルチェルピの案をオバルがどう判断したかは分からない。
軽便鉄道の方向を示すべく伸ばしたウィルタの腕に、オバルが腰を屈めて寄り添う。
オバルは方角を確認すると、ウィルタの手を握り締めた。がっしりとした手が、ウィルタの小さな手を包む。
「坊主、世話になったな。あとはもういい、炭鉱や町のみんなによろしくと伝えてくれ。それからレイ先生にも、ありがとうと」
体の大きな男性は、太くて低い声のことが多い。なんだか声を聞いているだけで心が落ち着くように思う。ウィルタも少年らしい声で明るく返事をした。
「おじさんも元気でね、殴られた左足、無理をしないで」
「ああ分かってる、じゃあな」
空気の動く気配で、オバルが手を振っているのが分かる。ウィルタは、自分から遠ざかっていく砂利の音に向かって、手を振った。
その足音が止む。立ち止まって何かを見ているようだ。
オバルが話しかけてきた。声の感じだと、もう二十メートルは離れている。さすがは大男の長い足。湿った夜風にオバルの太い声が乗る。
「ウィルタくん、一つ思い出した。あの古代の少女は、警邏隊に拘束されたら、即、ユルツ国の技術復興院に送られる。研究材料としてだ。オレは復興院にいたことがあるから想像がつく。たとえ昔の記憶が断片しか戻っていなくても、言葉を理解する古代人は得難い存在なんだ。もしあの子が人らしい人生をこの世界で送れることを望むなら、なるべく早く、彼女を黒服たちの手の届かないところに連れて行くことだ」
「ありがとう、そうする」
ウィルタが闇に向かってはっきりと答えた。
湿地の所々に帯のように見えていた星草の輝きが、今は湿地の全面に広がっている。空が厚い雲に閉ざされているので、まるで星空が地面に下りてきたようだ。
闇の中から、またオバルの声が届いた。
「星草が光るということは、今年の夏も終わりだな」
「そうだね、あったかい冬になるといいね」
オバルは「ああ」と和やかに返すと、「坊主とは、またどこかで会うことになりそうだな」と、名残を惜しむようにごちた。しかしその声は、一陣の風が起こした星草の葉擦れの音に紛れて、ウィルタの耳には届かなかった。
オバルと別れたあと、ウィルタは高石垣の壁際に戻った。
天廻門手前の高石垣に、子供が潜り抜けることのできる穴が開いている。ウィルタはそこから町に入り、酔騏楼に寄って、タタンに最後の挨拶をするつもりだった。反り返ったように聳える高石垣が作る濃い陰の中を、足音を殺して歩く。
頭の上から、高石垣を越えて石畳を歩く黒服たちの靴音が聞こえてきた。裏に金属の錨を打った黒服たちの靴は、歩くと音がたつ。その耳障りな音と声高な話し声が、壁の反対側で止まった。
つられて足を止めたウィルタの耳に、巡回の二人組の話し声が飛び込んできた。
「町長宅に放火したやつがいる。それに、どさくさに紛れて、閉じ込めてあった男が逃げた。マルド族のノッポ野郎だそうだ」
「町のやつらが放火したのか」
「分からん、だが町の外には追跡隊が出た。逃げ出した男も、土地の者じゃねえっていうから、手引きをする者でもなきゃ、すぐに捕まっちまうんじゃねえか」
「闇夜だぜ、どうやって追い駆けるんだよ」
「さあな、でも追跡隊は自信満々で出て行ったぜ」
高石垣に体をくっつけるようにしてウィルタが聞き耳をたてていると、後ろから誰かがウィルタの袖を引っ張った。振り向くと、タタンが息を切らせて立っていた。
タタンが膝に手を置き、苦しげな表情で話す。
高石垣の穴を黒服たちが見張っているというのだ。追いかけてくる黒服たちをまいて酔騏楼に戻ったタタンは、店にいた坑夫たちからそのことを教えられ、今ならまだ間に合うと、ウィルタにそのことを伝えに、慌てて町の外に出てきたのだ。
タタン自身は、酔騏楼の屋根の上からロープを垂らして、高石垣の外に出たという。
坑夫たちの話では、レイ先生と春香、それにウィルタの三人に対して探索令が出され、つい先ほど板碑谷に向かう警邏隊の一隊が町の広場を後にした。タタンが酔騏楼の屋根の上に出た時に、その隊の明かりが炭鉱前の斜面を上っていくのが見えたという。
「どうする。ウィルタもだけど、板碑谷に戻った春香ちゃんも、あいつらに見つかったら、また捕まってしまうぜ」
ナムと、それに続いて春香も、もう谷に戻っているだろうから、事情を聞いたシーラさんは、時間を延長してウィルタの帰りを待っているはずだ。
そこに黒服たちが行ったら……、タタンが半夏門を出る黒服の一行を目撃したのは、つい五分ほど前のことだ。あれから尾根筋に出たとして、この闇夜。土地勘のない黒服たちが板碑谷に到着するには、まだそれなりに時間がかかるだろう。
「今なら、走れば、あいつらよりも先に谷に戻れる」
タタンが、直ぐに行けとばかりにウィルタの背を押した。
「ありがとう、タタンも見つからないよう、町に戻って」
「大丈夫、高石垣の穴は、小さいのも含めていっぱいあるからな」
タタンが自信たっぷりに親指を立てた。
町の東斜面から星草の湿地帯を抜けて小川沿いを走れば、ぎりぎり黒服たちよりも先に谷に着ける。そう思ってウィルタが走り出そうとした時、「準備はいいかーっ!」と、大きな声が高石垣の上から降ってきた。
「ああ、このでかい樽のような匣電と照明がありゃあ、ネズミどもも隠れてなんざいられないさ」
照明とは探照灯のことらしい。
機材を動かしているのか、バラバラと小石が二人の上に落ちてくる。
タタンがウィルタの肘を突いた。見ると天廻門の入り口が明るい。手提げ用の白灯をかざして警邏隊員が出てきた。明かりは三つ、三人いるようだ。
その白灯の動きに気を取られていると、突然眩いばかりの明かりが、壁から離れた荒れ地の一角を照らし出した。雷火灯と呼ばれる高圧放電球を用いた探照灯だ。町の南側にも探照灯が据え付けられたらしく、街道沿いにもポッカリと丸い光が浮かび上がる。その丸い光の檻が、町の周囲を右に左にと生き物のように大地を探り始めた。
思わず二人は顔を見合わせた。
「まずった、壁から離れられなくなった」と言って、タタンが歯ぎしり。
壁に背を張りつけ慌てる二人に、高石垣の上の男たちの話が聞こえてきた。
「おい聞いたか、この町に来ている女の医者が、例の十年前の惨事のな、責任者の母親なんだとよ。おまけに町外れの谷には、責任者の息子が隠れているって」
「責任者ってあれかよ、爆発事故の後、姿を晦ませたって学者のことか」
「確か、ハンって名前だったな」
名前を聞いて、ほかの隊員もその事を思い出したのだろう、
「覚えてるぜ、ファロス計画の現場監督の男だ。そいつの母親に息子か、もしかしたらハンって学者も、この町のどこかに隠れてるのかもしれねえな」
「捕まえたら褒賞ものだぜ。こりゃ、見張りもしっかりやらねえと」
男たちの会話に「ばかいえ」と、高石垣の上手から別の声が割り込んできた。
「もしこの町にいたとしたら、逃げられることの方が恐い。取り逃がしでもしたら、あの仮面の指揮官に、どんな懲罰を喰らわされるか分かったもんじゃねえ」
闇のなか、タタンが自分に視線を振り向けたが、ウィルタにも分かった。
その視線に目を合わせると、ウィルタも、自分で自分を指して、まさかという顔をした。
「ぼくが、ハンていう人の子供……なの?」
信じられないという顔のウィルタに、タタンが「本当なのか、今の話」と聞く。
暗がりなので表情は見えないが、声が上擦っている。
「知ってて黙ってたのか」
タタンがもう一度、問い詰めるようにただす。
ウィルタは答えない。タタンと同じで唇が震えている。
「何かの間違いだろ。だってボクは捨て子で……」
声を搾り出すと、そのままウィルタは下を向いてしまった。
黙り込んでしまったウィルタの体を、タタンが焦れたように揺さぶる。
「ウィルタがシクンのミトに置き去りにされたのは、確か十年前の九月って言ってたよな。ユルツ国で大きな事故のあったのも、同じ年の九月だ。今まで考えたこともなかったけど、とても偶然とは思えない」
ウィルタは、これまでにも坑夫やシクンの大人たちから、十年前に西の都で起きた惨事の話を聞いている。たくさんの人が亡くなったという。ガフィが片腕を失くしたのもその惨事のせいだし、タタンが町の子供たちから仲間外れにされたのも、元はといえばその惨事のせいだ。でもそれを自分と繋げて考えたことは一度もなかった。それが……。
口を震わせながらウィルタが口を開いた。
「そんな、まさか、ぼくは何も知らなかったんだよ」
興奮で思わず声が大きくなってしまった。
声が届いたのか、作業の男たちの会話が止む。
「おい、下に誰かいるのか」
「怪しいぞ、下に行って調べろ」
気配で高石垣から人が身を乗り出したのが分かる。とっさにタタンがウィルタの体を石の壁に押しつけた。壁に張り付いた二人の上で、男たちの声が交錯する。
「探照灯をもっと下に向けられないか」
「それより、下に降りて調べろ」
前方に目を向けると、荒れ地を照らしていた探照灯の光が、探るように左右に動きながら高石垣に寄ってくる。おまけに、天廻門の出口で動いていた白灯が、一斉に高石垣に沿って下り始めた。このままでは見つかってしまう。
二人が顔が引きつらせたその時、天廻門の階段を下った先の闇の中で、がさついた女性の声が上がった。
「ちょっと、暗いのよ、私の周りを照らしてくれない」
「誰だ、そこにいるのは」
隊員の誰何に、間髪入れず大きな声が返された。
「怪しい者じゃないわ、医者のレイよ。隣町の。あなたたちが診療所を占領したから、患者に必要な薬を、わざわざ炭鉱の分室まで取りに行ってたの。ほらこれよ、痛み止めの薬」
高石垣の下に向けられていた照明が地面をステップ、炭車の軌道の手前にいる人物の姿を捕えた。鞄を開けて、薬の束を見せる大柄な女性が、闇に浮かび上がる。
「ちょっと眩しいわ。照らすのは私じゃなくて、私の足元。まったく気が利かないわね、最近の警邏隊って」
レイの罵声とは関係なく、門の前に立っていた隊員が声高に叫んだ。
「医薬師のレイだ、身柄を拘束するように通達が出ているぞ、捕らえろ」
黒服たちが走り出て老女を取り囲む。
なかの一人がレイの腕を掴んだとたん、レイが大げさな笑い声をあげた。
ぎょっとしたように隊員が手を離す。煌々とした照明の光に目を細めたレイが、まだ歳若そうな隊員を彫りの深い目で睨みつけた。
「まったく、年寄りに手荒な真似をするもんじゃないわよ。指揮官はダーナでしょ。あの仮面の女、よく知っているわ。気の強い娘さんよ。あなたたちも彼女の下で働くなんて、ご苦労なことね」
「酔っているのか」
「そうよ、酔ってなにが悪いの」
悪態をつくように声を荒げたレイの目に、闇の底をそろそろと移動する二つの影が見えた。ウィルタとタタンだ。レイはわずかに眉を上下させると、二つの影とは反対の方向に、左足を引きずるように歩きだした。
「こらっ、どこへいく」
突然歩き始めたレイに、隊員の一人が行く手を阻むように銃の突き出す。ところが、意にも介さず、レイは強引に前に突き進む。
慌ててもう一人の隊員が、レイの前に両手を広げて立ちはだかった。
「何よ、門があるのは町の裏側でしょ」
大声で体を押し付けてくる老女に一瞬隊員も怯むが、負けじと「この階段の上にも、門はある」と、やり返した。
「あら、そうなの。私はこの町の住人じゃないから分からないのよ。ほら、連行するって言うんなら、ちゃんと案内なさい」
まるで上官が部下に命令でもするかのように言い放つと、レイは掴まれた腕をちゃんと引っ張りなさいとばかりに、前に突き出した。取り囲んでいた隊員たちは、思わず顔を見合わせたが、それでも年嵩のレイに気を遣ってか、腕を掴み直すと、天廻門の階段に向かってレイを誘導して歩きだした。酔いが回っているのかレイが足をふらつかせる。
レイは数歩歩いては大きく息をつき、また数歩歩く。
そうやって歩を進めながら、レイは背後の闇に向かって、声にならない声でささやいた。
「元気で暮らすのよ、私の孫。おそらくあなたとは、もう会うことはないでしょう。あなたの父さんによろしく、そしてさようなら」
そう小声で呟くと、「さっさと歩け」という隊員の声に急き立てられるようにして、レイは天廻門の長い段階を上っていった。
闇のなかを息を切らせて走るウィルタとタタンは、湿地帯手前の壊れた風車小屋に駆け込み、ようやく一息ついた。
荒い息が納まるのを待てないとばかりに、タタンが早口でまくしたてた。
「さっきのはレイ先生、ということは、おまえのおばあちゃんだ。おれたちの方を見てた。知ってて助けてくれたんだ。さすがはお医者さんだ、人を助けるのが上手いや」
「それより、タタン、ぼく……」
「何も言うなよ」
タタンがウィルタの口を手で押さえた。
「別にウィルタが、父親のことを黙って俺と付き合ってたなんて、思っちゃいないさ」
「でも……」
「親の問題は親の問題、そうだろう。ウィルタの父さんのせいで、うちのオヤジは死んだのかもしれない。でも今度は、ウィルタのおばあちゃんのおかげで、叔父貴のガフィは命拾いをしたんだ。巡り合わせだよ。それより、これからどうする。もう今から板碑谷に走っても、黒服たちの方が先に着いちゃってる。上手くシーラさんや春香ちゃんが、隠れててくれてればいいけど……」
動き回る探照灯の明かりを目で追いながら、ウィルタが拳を振り上げた。
「さっきオバルさんから聞いたんだけど、あいつら春香ちゃんを最初から都に連れていくつもりだったらしい。研究材料にするっていうんだ。そんなことは絶対にさせない。それに、もし春香ちゃんが、あいつらに捕まったんなら絶対に取り返す。そして春香ちゃんを、あいつらの手の届かない所に連れていく」
ウィルタの決意の後押しをするように、タタンが相槌を打った。
「ほんとあいつら、人を何だと思ってんだろうな。よし、おれが付いてってやるよ。板碑谷に黒服たちが居座ってたら、ほかへ誘い出してやる。春香ちゃんが捕まっていても、二人での方が助けやすいだろう」
ウィルタが遠慮がちに頷いた。
「ねっ、タタン」
「なんだよ、ウィルタ」
「ありがとう」
年上のタタンがウィルタを優しく睨んだ。
「水臭いこと言うんじゃねえ、おれはウィルタの味方さ。でも、ウィルタがハン博士の息子だってことが知れてしまった以上、ユカギルの町には顔を出さない方がいいな。あの事故で身内を亡くした連中が黙っていないだろうからさ」
ウィルタの背をタタンが押した。
「よし、行こう」
二人は軽く掛け声をかけて立ち上がると、闇のなか、足元に気を配りながら、板碑谷に向かって足早に歩きだした。
経堂の両翼には二本の丸い塔、鐘楼が聳え立つ。その庇に吊り下げられた燭光灯のオレンジ色の明かりが、広場を煌々と照らしていた。次々と人が経堂に出入りする。官舎の清掃が終わるまで、一時的に接収隊の本部が経堂に移されたのだ。
レイが黒服の隊員に肩を支えられるようにして経堂に連行されてきた。それを指揮官のダーナが、祭壇に肘をもたれさせた格好で待ち受けていた。
ダーナのくぐもった声が、経堂の半球状の天井に鈍く反響。
「お久しぶりです、レイ先生。それともハン博士のお母様と呼べばよろしいですか」
「どちらでも、それよりも覚えておいて下さって、ありがとう」
「ファロス計画の内覧会の際に、先生に招待状をお出ししたのは私ですからね」
それを聞いてレイは、この接収部隊の指揮官が、ファロス計画の広報部長をしていたのを思い出した。それに、惨事の際、顔に大怪我を負った女性が、のちに傷跡を覆う仮面をつけて政治の世界に転身したという話も……。
ある意味、この女も十年前の惨事で人生が変わった一人だ。レイは親近感を覚えると同時に、身に降りかかった不幸をばねに、逆に成り上がろうとする仮面の女の執念じみた逞しさに嫉妬を覚えた。その妬みが酔いと共にレイの口調を皮肉めいたものにする。
「そうだったの。それはそうと、計画を再開するそうね。惨事を起こす前に、先に懺悔をやっているのかしら、ブィブァスブィット・リーウォック・ダーナ殿」
名前を呼ばれたダーナは、人差し指の爪先でコツコツと金属の仮面を叩くと、
「懺悔が必要なのは先生の息子さんの方でしょう、私は神など信じていないものでね」
突き放したように言う。
「用件を言います。私が知りたいのは、ハン博士の行方です。お教え願えますか」
「知らないと言ったら」
待ち構えていたように、横にいた黒服が銃尻でレイの横腹を突き上げた。首に黒い二つの斑点、オバルを痛めつけていた首ぼくろの隊員だ。
レイが体を折り曲げ、うずくまる。
「止めろ、年寄りは労るものだ」
ダーナはパンと手を叩くと、首ぼくろの隊員にレイを助け起こすよう命じた。
腕組みをしたまま、酷薄な声を突きつける。
「私はまどろっこしい拷問などやる気はない。素直におっしゃっていただけないなら、薬を使わせてもらいます。先生が古代の医薬品の中から見い出した、この自白剤をね」
ダーナがポケットに入れてあった小さな薬瓶を取り出した。
首ぼくろの隊員に引き起こされたレイは、ダーナの手にした瓶に目を走らせると、「用意のいいこと」と、口元に侮蔑の笑みを浮かべた。
しかし直ぐにその笑みも消え、レイは胸を押さえた。
口から吐き出された黒い血の塊が、老女の腕を掴む首ぼくろの隊員にかかり、祭壇の床に飛び散る。首ぼくろの隊員が、弾かれたようにレイの腕を離した。
血で汚れた口元を手の甲で拭いながら、レイがダーナを嘲るような目で見た。
「ふん、血を見て手を離すなんて、随分意気地のない兵隊を使ってるのね」
ダーナは、表情一つ変えずにそれを聞き流すと、
「不安を紛らわそうと酒と薬に溺れる医者よりは、よほどましでしょう」
「フン、これは昔からの持病、胃に血が溜まっていただけよ。私に話を聞きたいのなら、先に薬の一つでも飲ませなさい。ほら、そこの首の太い兵隊、私の鞄を取って、あと水も。取りに行く必要などないわ、コップをもらえれば、そこの聖盤の水を使うから」
口元だけでなく白い歯までが、凝結した血で歯染を塗ったように赤黒く染まっている。
目が飛び出すようにぎらつき、異様な形相になっていた。
ダーナは、言うとおりにしてやれとばかりに黒服に顎をしゃくった。
「手拭いも渡してやれ、血だらけの顔を見ていると気分が悪い」
命令された首ぼくろの隊員が、鞄と手拭い、それにグラスをレイに差し出す。グラスの中に入っているのは、祭壇手前、聖盤に張られた聖水だ。
当然とばかりにグラス受け取ったレイが、口元に笑みを浮かべた。
「美味しそうな水ね、最後に味わう水が聖水というのも悪くない、感謝するわよダーナ」
そう嬉しそうに言って、レイは鞄を黒服の足元に投げ捨てると、胸のポケットから丸薬を取り出し、それを悠然と口の中に流し込んだ。
周りにいた者が、気取られたようにレイを見る。
レイはそのまま一口、二口と、さも旨そうにグラスの水を飲み乾すと、穏やかな顔つきに戻ってダーナに話しかけた。
「さあて、それじゃ尋問に応じましょうかね、ただし十秒だけ」
祈祷壇で微笑を浮かべているレイと、一段上の祭壇にいるダーナとは、歩数にして七、八歩の距離がある。祭壇から数歩前に歩み出たまま動きを止めたダーナは、信じられないとばかりに目の前の老医薬師を見つめた。ダーナの手にしたガラス瓶が床に落ち、鋭い音を立てて割れ、中の白い錠剤が四方に飛び散る。
顔を歪めたダーナが「衛生員を」と、手を叩く。
「どうされたんですか」と聞く首ぼくろを、ダーナが呻くように怒鳴りつけた。
「情報局にいて分からないのか。彼女が口にしたのは、人の記憶を奪う薬だ」
「まさか」
「この自白用の薬も、いま彼女が飲み下した記憶を奪う自壊剤も、彼女が国の諜報活動用に開発した薬だ」
「すぐに、吐かせます」
ダーナが無駄だとばかりに拳を祭壇に打ちつけた。
「飲んで十秒で薬は血液に入る。数分で彼女はもう何も話せないし、何も覚えてない」
そう吐き捨てるダーナを、穏やかな表情のレイが見ていた。
ダーナはレイに歩み寄るや、悲痛な声をぶつけた。
「どうしてだ、なぜハンの居場所を隠す。計画の再開は、博士にとっても、過去の汚名を晴らす絶好の機会なんだぞ。教えろ、博士はどこにいる」
レイが明るく微笑んだ。
「計画が名誉挽回の場であるかどうかを決めるのは、ハン自身。でもあの子がそう判断することはないでしょう」
自信を持って言い切ると、レイは安堵の笑みを浮かべつつ目を閉じた。
薄れゆく意識の中で、レイは自身の人生を振り返っていた。
技術復興院に特殊医療研究班という部署がある。レイはそこの主任研究員だった。それは通常の医薬品開発の業務とは別の、裏の仕事である。レイはその研究開発を通して、ダーナが手にしていた自白剤を初め、様々な医療以外の用途に使われる薬品をこの世界に送り出した。
北の某国との間で薬の開発競争に明け暮れるユルツ国は、情報局に多数の諜報活動に携わる候人を抱えている。その要員が持たされる自壊剤も、レイが古代の医薬品の中から見つけ出したものだ。何人のスタッフがその薬を服用して廃人となったか、レイはそれを知らない。要員の保身用に開発したこの薬、自壊剤を飲んで自らの記憶を消す。いかにも自分らしい最後だ。
輪郭のぼやけていく意識のなかで、レイは最後、息子の記憶を辿っていた。
「ハン、尊敬すべからざる母親だったようだけど、最後に、ささやかだけど、あなたの秘密を守ることができたと思う。もし生きて会うことになっても、息子の顔も分からない母親になっているでしょう、でも許して」
うっすらと目を開けたレイが、にやりと笑って呟く。
「自壊剤のいいところは、絶好の痛み止めになるということね」
その言葉を最後に、レイは腹部を押さえたままその場に崩れ落ちた。
第十九話「旅立ち」




