ムルティ・バウ
ムルティ・バウ
ウィルタと春香は、パーヴァの宿、酔騏楼の手前で足を止めた。なんとなく店の様子がおかしい。荷車の陰に身を寄せ様子を窺っていると、家の中から見覚えのある人物が出てきた。炭鉱の作業主任のネルチェルピだ。
ネルチェルピがウィルタを認めて、腕で大きくバツ印を作った。
何事と走り寄り、窓から店の中を覗いて唖然とする。机や椅子がひっくり返り、棚の商品が床にばら撒かれていた。酷いのは酒瓶や油瓶で、力任せに叩きつけたらしく、砕け散ったガラスの破片とともに、中の液体が床や壁に無残な染みを垂れ流している。
その足の踏み場もない店の隅で、タタンが踏みつけられた食材の箱を前に、歯を食いしばって立っていた。
ナムがウィルタの姿を見つけ、店から飛び出してきた。
つい先ほど黒服たちがやってきて、酔騏楼の部屋という部屋を調べ始めた。発破を投げつけたガフィのいる宿なので、危険物が隠されているのでは疑ったのだ。家の中を検めると言ったが、それは表向きの理由で、本当は警邏隊に楯突くとこうなるということの見せしめだったらしい。その証拠に、検分など形だけで、通りから見える商品を、これ見よがしにぶちまけ引き揚げていった。
タタンは、ガフィの手術が終わるのを待って店に戻った。そして黒服たちの横暴に出くわし、止めようとして殴られたのだ。左目の周りが赤黒く腫れている。
ウィルタが店の戸口でナムの話を聞いていると、事情を知った馴染みの坑夫たちが駆けつけてきた。いつも店に屯している飲み助の坑夫たちで、警邏隊に一仕事手伝わされ、今しがた解放されたところだ。
ウィルタを押しのけ店に飛び込んだ坑夫たちは、店の惨状を目にするなり、獣のように唸り声を上げたが、すぐに何も言わず散らかっているものを片づけ始めた。
そこに今度はパーヴァさんが走り込んできた。連絡が回ったらしい。
パーヴァが、泣き出しそうな顔のタタンを見て叱りつけた。
「男がそんな情けない顔をするもんじゃないよ。泣いたって何も変わりゃしない。散らかった物は片づける。壊れた物は直す。それに、どうにもならなくなった物は捨てる」
激しい口調で怒鳴りつけると、一転パーヴァはタタンの顔に手を差し伸べ、「怪我はなかったかい」と、優しい声をかけた。
「この目の腫れだけだけど」と、タタンが目の周りを指で押さえる。
パーヴァは大口を開けて笑うと、「立派な痣だ、しかしおまえは商売人の子、これからは喧嘩を売るんじゃなくて、商品を売りな」
そう言って、あとは何も言わずタタンをぐっと抱きしめた。
息子の痣を確認すると、パーヴァは、二人に気を遣って作業の手を止めていた坑夫や、通りから中を覗いている裏通りの連中に向かって、いつもの濁声を披露した。
「嬉しい時も嫌な時も、酒は皆で飲むのが一番。みんな、あとで極上の酒をご馳走するから、店の片づけを手伝っておくれ」
それを聞いて、任せろと外にいた連中がドヤドヤと店の中に入ってきた。
「皆でやれば、こんなものあっという間だ」と、口々に声を掛けながら片づけを始める。
しょぼんとしていたタタンも励まされるように肩を叩かれている。
店の状態を確認すると、パーヴァは後の作業をネルチェルピに託して表に出た。そのパーヴァが、看板の下にいたウィルタを認めて手を挙げた。
「タタンから聞いたよ。シクンはミトを移動するんだってね。掃除が済んだら、息子に挨拶してお行き」
その瞬間、ウィルタは「忘れてた!」と自分の頬を叩くや、店の中に駆け込みざま、「ネルチェルピさん、大変だ!」と、大声で叫んだ。
午後二時半、ウィルタが官舎で目撃したことを皆に伝えている頃、町の北側斜面では、膝痛の足を引きずるようにして、レイが炭鉱事務所への道を上っていた。
道と平行して伸びる鉄の軌道には、石炭を積んだままの炭車が、足止めを食らったように何台も止まっている。
当初、熱井戸を接収した警邏隊は、診療所の使用を夕刻にも許可すると言っていた。それが突然、許可を延期すると通告してきたのだ。医務班の到着が、大幅に遅れることになったというのが、その理由である。レイは、ガフィの胸の手術だけでも診療所の設備を使ってと考えていたが、取り付く島もなかった。なら分室の使用をと詰め寄るが、それも拒否された。どうやら警邏隊に楯突いたガフィに対する嫌がらせ、ガフィを町の住人への見せしめにしようとの魂胆らしい。
町長がレイに代わって交渉に当たっているが、許可が下りるのをいつまでも待つわけにはいかない。最低限の医薬品は診療所から町長宅に運び出してあるので、それを使ってガフィ含めた十人余りの手当てを進めることにする。
ケガが酷いのは、瓦礫が頭部を直撃した婦人と、腕の骨を折った男性、それにガフィで、ほかの人たちは、おおむね軽い打撲や外傷である。婦人は額の動脈を切っているが、派手な出血の割に傷は浅く、切れた血管を繋ぎ傷口を縫い合わせるだけで十分だった。ガフィの骨折した足と、もう一人の男性の折れた腕の処置は、押収された携帯用のレントゲンの使用許可が下りるのを待つことにして、問題はやはりガフィの胸の手術だ。
レイが、ガフィ以外の患者の手当てを済ませる間に、ディプネンがタイル貼りの祈祷室に消毒液を噴霧、即席の手術室を整える。応急処置として、ガフィの胸郭に空気を排出する管を挿入してあるが、胸郭内の出血が予想以上にひどい。麻酔もそこそこに胸郭を開くと、溜まっていた血が噴き出してきた。肋骨が三本折れて、内二本が肺の右下葉に刺さっていた。それでもなんとか手術を終えて、患部を縫合。麻酔が切れるころには相当な痛みが襲うだろうが、それは発破を投げるなどという愚行を行った報いかもしれない。
それよりも……と、一息つきながらレイは考えていた。
自分は明日、ベリアフに戻る予定にしている。今後のことを考えれば、衛生士の彼、ディプネン一人でも患者への対応ができるよう、町長宅に設置した臨時の診療室の態勢を整えておかなければならない。それにはある程度、分室の機材と医薬品を運ぶ必要がある。そのことを踏まえ、レイは患者の処置を済ませると、予後の対応をディプネンに任せて、炭鉱の診療所分室に向かった。さすがに医薬品を取りに行くレイを、半夏門で検問中の黒服たちも咎めなかった。
息を切らせて斜面の道を上る。
炭鉱手前の斜面から町の広場がよく見える。広場後方、熱井戸の建て屋の前に馬車が乗りつけ、徴用された町の男たちが、黒服たちの指示を受けて荷台から資材を下ろしている。騒々しいのはその広場だけで、ほかの場所は閑散として人の姿がない。町の住人は、みな家の中で息を潜め、事の成り行きを見守っているに違いない。
レイは炭鉱施設の端、診療所の分室がある倉庫に入った。
町長宅に運ぶ機材や医薬品を手早く箱に詰める。男手二人ほどで運べる荷をまとめ、当座自分で持ち帰る薬を鞄に押し込んで分室を出る。そして鍵穴から鍵を抜き取ったところで手を止めた。違和感を感じたのだ。
隣の控え室に目をやる。わずかに開いた扉に、淡い緑色の光が映っている。
もしやオバルが……と思い、控え室の中を覗く。が、窓の塞がれた三畳ほどの部屋は夜のような暗さで、人の気配はない。その暗い控え室のなかに、ポツンと小さな緑色の明かりが灯っていた。机の上に電信用の通話機と電源の匣電が置いてある。緑の明かりは、匣電の通電状態を示す表示灯だった。
オバルとは一昨日に話を交わしたきりである。検証委員会と連絡を取るために、控え室の通信回線を使わせてもらえないかと、オバルが承諾を求めてきた。自分は知らなかったことにして勝手にやってと、レイは鍵を渡し、あとは任せた。
電源を入れたままにするとはだらしのないこと、そう思いながら、スイッチを消そうとして、レイは匣電に差し出した手を止めた。匣電と繋がれているのが、通話機ではなく、手前の、手の平サイズの薄っぺらい器械だということに気づいたのだ。盤面の上半分にガラス状のパネル、下半分に数字と記号の刻印されたキーが、格子状に填め込まれている。
技術復興院に勤めていたレイには、直ぐにそれが何であるか分かった。古代の通信機。いや、外装の隙間から覗く粗雑な電子基盤からして、それを模した手作りの品か。
おそらくは、検証会が情報の漏れるのを怖れて、通常のアナログ式の通信機ではなく、傍聴される怖れの少ないデジタル式の通信機をオバルに持たせたのだろう。
まるで候人ごっこだな、そんなことを思いつつ、レイはその手の平サイズの通信機を取り上げた。と指先が通信機の盤面に触れたとたん、ガラス状のパネルが青色に点灯。センサーが組み込まれて、人が触れると反応するようになっているのだ。
レイは嘆息し、思い起こした。
技術復興院で仕事をしていた当時、自分は様々な古代の機械に接している。そして、その至れり尽くせりの機能に、時に馬鹿にされているような気分になったものだ。それでも正直にいえば、古代の機械は素人にとって便利に作られている。おそらくこの後、起動キーを押せば、通信機の盤面に正式に電源が入るのだろう。
レイは何か物事を始める時のくせで、鷲鼻の鼻梁を親指と人差し指で数回引っ張り上げるように摘むと、左上の赤いキーに指を這わせた。
淡く光るパネルの盤面に、数字や記号、文字が浮き出る。
老眼鏡の中の目を細め、それを読む。
上段の文字の羅列は、『ムルティ・バウ』、『犬の糞』と読める。
まったく、何が『犬』、何が『糞』だと、レイは鼻で笑った。
文字の下に並ぶ数字と記号に目を移す。最初の四桁の数字は、一見してユルツ連邦で使われる通信回線の登録番号と知れる。それもユルツ国の首府ダリアファルの番号だ。
問題は、次の十桁あまりの数字と記号の並び……。
レイはそれをどこかで目にしたように思った。
前にも述べたように、この時代の通信の基本は有線通信である。
無線通信は、唱鉄隕石の放射する兇電と呼ばれる電波の影響で実用にならない。ところが、ごく一部ではあるが、この十年ほどの間に、衛星通信が用いられるようになっていた。非常に狭い周波数帯ではあるが、兇電がすっぽりと抜け落ちたスポット域と呼ばれる電波域が発見されたのが、その理由である。
スポット域は、波長が人の歩幅よりも更に短いマイクロ波の領域にある。短い波長の電波は、光が物によって遮られるように、障害物があると遮られて、地上での通信には不向きである。しかしながら、遥か上空にある古代の通信用の衛星を用いれば話は別。
技術復興院に在籍中に、レイは衛星通信の試験テストの現場に居合わせたことがある。その時は、技術復興院の東西の建物に別れての送受信だったが、今まで無線といえば、猛烈な兇音の中から信号音を拾い上げるような交信しかできなかったのが、スポット域を利用した衛星経由の交信では、兇雑音の入らない鮮明な音が受信された。兇電放射の無かった光の世紀、あらゆる人々がポケットサイズの無線機を駆使し、世界中どこからでも鮮明な通信会話を楽しむことができたという話が、実感できた瞬間だった。
ところが、十年余り前に見出された衛星通信は、一般には普及しなかった。一番の理由は、交信実験に用いた古代の衛星が、突然機能を停止したからである。宇宙空間にはまだまだ多くの通信衛星が飛び交っているというが、いつ使えなくなるか分からない衛星を、正規の公的な通信事業に使う事はできなかった。
そのためスポット域を用いた衛星通信は、その後、遠距離間の緊急通信や、特定の機関、あるいは一部の好事家の間だけで使われる限定的なものとなった。
そして、いま目の前の器械に浮かび出た数字。
ムルティ・バウと表示された文字に続く、十桁余りの数字……、
衛星通信の試験通信の際に使われた通信コードの、数字と記号の並びに似ている。
そのことを思い起こしつつ『ムルティ・バウ』『犬の糞』と、何げなく言葉を口にした時、レイはあることに思い当たった。そして通信機を持つ手が震える。
『ムルティ・バウ』……、ムルティ・バウとは、自分が息子につけた幼名だ。
「まさか」と、通信機の液晶画面を見つめる。
ムルティ・バウ、何度か口の中でその言葉を反芻するうちに、確信に近い思いが湧いてきた。いやそれ以外に考えようがなかった。
オバルはハンに会いに行こうとしている。そのオバルの所持する通信機に、息子の幼名と衛星通信の通信コードが表示されているのだ。随分昔のことだが、息子が知人の研究者から古代の通信装置一式を譲り受けたと話していたことがある。
この衛星通信の通信コードは、息子の通信機の番号だ、間違いない。
さらに別のことにも思い当たる。
一昨日のこと、オバルは言った。
「博士から届いた手紙の住所は、大陸東のチェムジュ半島となっていた。文面でも、そこを拠点にしているとあった。ところが、博士が本当にそこにいるかどうかが分からない。そこで自分が検証会を代表して、それを確認しにいくことになった。博士と会うことができれば、彼を説得してユルツ国に連れ戻すのが自分の役目で、それにつけては、レイ先生にも、ぜひ彼に都に戻ってくるよう一言口添えを……」と。
あの時オバルは「ハン博士に呼びかける言葉を考えておいて下さい」と、そう言った。
「それを先生にお願いするために、彼への誤解を解く意味もあって、惨事の真相を明かしたのだ」と。
「博士に呼びかける言葉を……」
その時は何気なく聞き流したが、普通なら会いにいくのだから「彼宛に、何かメッセージを書いてほしい」と、そう言うだろう。それを「呼びかける言葉を……」と。
興奮で震える体を押さえるように腕組みをして、レイは通信機の小さなパネル画面を凝視。呼吸を整えると、ゆっくりと通信機の盤面に指を当てた。
どういう使い方をする器械かは分からない。しかし古代の器械を模して作った物なら、扱いは簡単なはず。古代の器械には共通点がある。高度で複雑化の極に達した器械は、内部にそれの取り扱いを説明する機能を備えているのだ。子供でも扱えるように。
おそらくは、この通信機も……、
レイの指が碁盤状に並んだキーの一つに触れる。
液晶の画面に『通信モード、切り替え』の表示が現れた。同時に番号入力の案内、『アナログとデジタル』のどちらかを選択するように指示が出る。アナログを選択すると、さらに発信モードの選択肢が示される。
こちらが選ばずに考えていると、ダイアル発信の表示が点滅。前回の通信では、こちらを使ったということを示している。指示に従って番号を入力、下の画面から取りあえずユルツ国の四桁の数字を入れる。そして送信のキーに触れる。
内蔵されている音声再生器の部分に耳を当てると、人工的なダイアル音が聞こえ、呼び出し音が五度聞こえた後に、回線が……。
実は回線が繋がった後のことを、レイは考えていなかった。オバルが連絡を入れようとしていた検証会なる団体の人物が出たら、少し話をして、問題がないようなら、パネルの画面に表示されていたムルティ・バウの番号について、尋ねてみようと思ったのだ。それと同時に、人は出ないだろうという予感もあった。通信機を耳に当てていると、回線は繋がったままだ。
通信機を耳から離して画面を見直す。さらに通信を先に進めるための手順が示されていた。接続「内線1」となっている。その後ろに、あの数字。そして留意記号の後ろには、自動送信の表示も。おそらくは霜都ダリアファルの検証会に、衛星通信の装置が設置してあり、そこに繋がるようにセットしてあるのだ。きっとそうだ。
レイは迷わず留意記号のキーを押した。送信先の番号入力の指示が出る。言われるままにそれを入力、そして決定のボタンに触れる。信号音は聞こえず、液晶の画面の中で送信中の文字が点滅を始めた。
昨夜オバルは、都の検証委員会に連絡を入れた。
まずはハン博士の母親に会ったことを伝え、博士の通信機に母親の声でメッセージを残すことの了解を得たうえで、会の事務所の機材に、自分が預けてきた衛星通信機を繋いでもらった。
ハン博士に連絡を入れ、先方の器械にレイ先生のメッセージを残す。もちろん、博士が通信に出るなら、それはそれで問題ない。ユルツ国の事情を説明して、博士に戻ってくるよう説得できるからだ。そうすれば、わざわざ遠い大陸の果てまで足を運ぶ必要はなくなる。あとはレイ先生に事情を説明して、メッセージを吹き込んでもらうだけだ。
いつでも連絡を入れられるように手はずを整えたところで、オバルは気分転換に丘の上に登った。通信機は、一息入れたら直ぐに戻ってくるつもりで、スイッチを切らずにおいた。ところが、その丘の上で、オバルは身柄を拘束されてしまう。
その夜、レイは町長主催の慰労会が長引き、診療所の分室に顔を見せずじまいに終わった。そのまま翌日となり、ユルツ国の警邏隊がユカギルの町を占拠。午後も回ったこの時刻、備品を調達しにやってきて、匣電の通電ランプに気づいたのだ。
送信中を示すオレンジ色の画面が緑に転換、その瞬間『送信中』の文字が『交信』に変わる。レイは通信機の音声再生器部分に耳に押し当てた。
回線が繋がった、そのことにレイは、耳がカッと熱くなるのを感じた。
繋がった、どこに、いや誰に……。
期待と不安と怖れと、様々な感情の入り混じったレイの耳に、「こちら、アルイズアブ・ムルティ・バウ」という男の声が聞こえた。
一声聞いただけで分かる、それは紛れもなく息子の声だ。
「こちら、アルイズアブ・ムルティ・バウ、通信をありがとう」
答えようとして、レイは声を呑み込んだ。
音声の後に「しばらく不在にします、伝言を残して下さい、方法は……」という息子の声が続いたのだ。同じ内容の音声が、もう一度繰り返された後、信号音と共に息子の声は、細かな兇音に戻った。不在の場合、相手方の通信機の音声保存装置にメッセージを残すことは、都の一部、公的な機関同士を繋いだ有線通信でも行われている。それと同じようなものだろう。
おそらく、オバルはハンの通信機に繋がるかどうかを確認するところまでやって、この部屋を出た。もしハンが通信に出たなら、すぐにでも私に連絡を寄越したはずだからだ。
数秒の間をおき、また最初からハンの残した「こちら、アルイズアブ……」の言葉が繰り返される。レイは通信機に耳を押し当てたまま、息子の声に耳を澄ませた。
もう一度、さらに二度、三度……。
自分の知っている息子の声よりも、幾分丸みを帯びて聞こえる。機械で高音部が削がれているせいだからか。ただそんなことよりも、予想していた以上に声に張りがある。
最後に息子と話を交わしたのは追悼式典の時で、その時息子は疲れ切った顔と声をしていた。しかし今聞こえてくる声に、当時の迷いや苦しみは感じられない。
安堵の息をつきながら、息子の声に耳を傾ける。
六度目、七度目……、繰り返し聞きながら、息子が幼かった頃のことを思い返す。
生の声ではない、録音された声である。しかし声からして息子は絶対に生きている。その確信が、それまで体を縛っていた緊張を取り払ってくれた。
そうして何度、息子の声を聞いただろう。
気がつくと、回線を切ろうとして切れない自分がいた。一度切ってしまうと、十年振りに息子と繋がった、その繋がりが切れてしまうような気がしたのだ。それを意を決して切り、もう一度最初からコールする。不安だったが、無事息子への通信は繋がった。聞こえるのは同じように録音された短い伝言だけだ。
三度ほど聞いて一旦通信を切る。
息子の声を聞くことに集中していて、伝言を残すことを忘れていた。
何を話すか、いや話すべきことは分かっている。オバルは息子を都に戻るように説得してくれと言った。しかし残すのは説得すべき言葉ではない。
私があの子に伝えるべき言葉とは……、
器械を操作。また回線が繋がり、そして息子の伝言が終了。発信音が鳴るのを待って、レイは心を落ち着けながら口を開いた。
「こちら、アルイスラブ・サルナ・レイ、聞こえますか。わたしの声が聞こえますか。ムルティ・バウ。私です、母さんです。声を聞きました。元気そうなので安心しました。あなたに伝えたいことがあります、それは……」
そこまで話した時、レイは背後に人の息遣いを感じた。話の途中だが振り向く。後ろにいるのが、オバルだと思ったのだ。
と意外にも、そこに立っていたのは司経のヌタックだった。
ヌタックはニヤニヤと笑いながらレイに歩み寄ると、通信機の盤面を覗きこんだ。
「それが、お尋ね者のハンとかいう学者の通信先か。先生があの惨事を引き起こした責任者の母親だったとはな。警邏隊のお偉いさんも、随分お前さんの息子にはご執心のようだし、惨事で身内を亡くした者が何人もこの町にはいる。その連中が、このことを知ったらどう思うか、楽しみだな」
講話の際の威厳のある話し方ではなく、ヤクザのように、ねちっこい喋り方だった。
人の弱みを握った嫌らしい口臭のような笑いが、狭い部屋の中に広がる。
司経に目を合わせないよう俯いたまま、レイはゆっくりと通信機を机の上に戻した。
レイが俯いているので、司経はますます勝ち誇ったように笑い声を上げる。
とその司経の目が、あっけに取られたように見開き、両手が胸を押さえた。
見るのも汚らわしいとばかりに、レイは窓の方を向いていたが、腕は司経の胸に伸びていた。声にならない声が司経の口から漏れたようだが、司経はそのまま膝を折ると、レイの前に崩れ落ちた。突き出したレイの手に、金属製の棒が握られていた。
冷ややかな声が、床を嘗めるように倒れた司経の背中に投げつけられる。
「これは携帯用のメス。司経は経堂でお祈りをしていればいいのよ。畑違いの世界に首を突っ込もうとするから、こういうことになるの」
気が抜けたように腰を落とすと、レイは目を閉じた。右手からメスが落ちて、司経の頭の横で跳ねる。レイが独り言のようにヌタックに話しかけた。
「ちゃんと自己紹介をしておけば良かったかしらね。わたしは医者は医者でも、情報局の医療開発部門で、汚れた仕事に手を染めていた医者なのよ」
自身を卑下するような鼻に掛かったため息が、ラビア紋様のセーターにこぼれた。
午後三時、酔騏楼では、炭鉱の男たちが怒りを堪えて酒盛りを始めていた。
オバルが拷問を受けているという話を聞かされた時、炭鉱の男たちは血相を変えて、今直ぐにでも接収隊からオバルを救け出そうと、拳を固めて立ち上がった。なにしろオバルは命の恩人なのだ。みな戦争でも起こしかねない血走った目をしている。
そのいきり立つ坑夫たちを、最初はネルチェルピが、そして途中からは、酔騏楼の様子を見に来た町長のタルバガンがなだめる。
町長が落ち着いた声で呼びかけた。へたに刺激すると逆に警邏隊の横暴を引き出しかねない。腹は立つだろうが、今は何もしないのが得策であり、取り敢えずは皆でどう対処するか考えよう。明日にでも自分が連邦府に出向いて、大審院に今回の熱井戸の接収に対する異議の申し立てを行い、接収隊を引き上げさせる交渉をしてみる。そのためにも今は事を荒立てないのが賢明な策だ……と。
説得に応じて拳を下ろした者もいるが、半数は怒りを抑え切れず、憤懣やるかたない想いを机に打ちつけている。ガツンガツンという拳で机を叩く音が、天井の低い酔騏楼の奥の小部屋に響く。その気の治まらない坑夫たちの前に、パーヴァが酒保に秘蔵していた極上の酒を並べた。
「今夜は私のおごり、思い切り飲んで憂さを晴らしてくおくれ」
パーヴァの呼びかけを機に、酒盛りが始まる。
飲んで怒りを紛らすのだ。店の中に警邏隊を罵る声が飛び交う。
巡回の黒服がそれを聞きつけ、店に踏み込んできた。
「おまえら、何をやってる」
とたん黒服に向かって、矢のように怒号が投げつけられた。
「分かるだろ、酒を飲んでんだ。苦労して掘り当てた熱床を掠め取られたんだぞ。酒でも飲まなきゃ、やってらんねえ。それとも、酒を飲むことまで文句を付けようってのか」
黒服が入り口の扉をガンッと蹴飛ばした。
「勝手にしろ、それより古代人の少女を見なかったか、姿を晦ましたんだ」
「知るか、いくら女気のない穴底の仕事だからって、娘っ子を追いかける趣味はねえ、探したきゃ探せ」
「そうだ、探せ、探せ!」
酒の力を借りて大声で喚く炭鉱の荒くれたちに、黒服たちも付き合ってられないとばかり、「見つけたら報告しろ!」と捨て台詞を吐くと、扉を叩きつけて去っていった。
坑夫たちが黒服を上手くあしらったのを見て、パーヴァは「さあさあ、遠慮せずに、もっと飲んで騒いどくれ」と、煽るように特上の一本を坑夫たちに放り投げる。そしてすかさず「上での密談が、外に聞こえないようにね」と、小声で付け足した。
その時、酔騏楼の三階では、ウィルタとタタンが、主任のネルチェルピと膝を突き合わせていた。炭鉱の男たちは官舎に押し掛けるのを踏み留まった。しかしオバルさんの窮地を救いたいという気持ちに変わりはない。どうにかできないかと考え、その役目を子供たちに託そうということになったのだ。
ネルチェルピが二人に、その方法を説明する。
温水を使った床下暖房の名残りで、ユカギルの町には至るところに温水を通す配管が通っている。その一本、官舎の用務室に通じる幹線の配管に大穴の空いていることが、先日の蒸気の開通で判明した。子供なら潜り込める口径の管である。その配管を通って官舎の中に忍び込もうというのだ。炭坑で働く前は配管工をやっていたというネルチェルピは、配管の経路を熟知している。不安げな表情を浮かべる二人に、ネルチェルピは管の直径を示すように腕を広げた。実際の幅はともかく、ネルチェルピの自信を持った話しぶりに、ウィルタとタタンは納得したように首を縦に振った。
手順はこう。まずは配管の中に潜り込んで、官舎の用務室の手前で待機する。日没後、機を見てウィルタは館内に忍び込み、二階から天井裏へ。タタンは官舎内を混乱させるために用務室に火を放つ。発生した小火騒ぎの隙をついて、ウィルタはオバルを救出。天井を破って屋根の上へ。タタンは配管に戻って、また待機……。
幸いにも分厚い雲が空を覆いつつある。この様子なら間違いなく今宵は闇夜になる。その闇のなか、ウィルタとオバルは屋根伝いに逃走。タタンは配管を伝って隣の家に移動し、頃合を見計らって、黒服たちを惑わすために、オバルたちと逆の方向に走る。コートをかぶせた箒を持ってだ。
さらに、このボヤ騒ぎの間に、春香は町の外に脱出。
ネルチェルピが壁の暖炉に向かって「一人でミトに帰れるかな」と声をかけた。
暖炉の口から顔を覗かせた春香が「もう、二度、通って、る…、それ、に…、一人、目立、た、ない」と、指でオーケーのマークを作った。
ネルチェルピが「了解」と親指を立てた。
なおナムは、黒服たちの警備の様子を見ながら、一足先に高石垣の割れ目を通って板碑谷に戻る。ウィルタたちの帰りが遅れることを、ミトに残っているであろうシーラに伝えるのだ。ネルチェルピが、椅子の上に置いた編みカゴを目で示した。
「中に、パーヴァさんに出してもらった地味な服がある、着替えなさい」
カゴの中に黒っぽい喪服のような服が入っていた。直ぐに服を着替え始めた子供たちの横で、ネルチェルピは、見取り図に計画の経路と、予定の時間をペンで書き込んでいく。
ウィルタが長めの袖を折り返しながら言った。
「すごいね。ネルチェルピさんって、本当に配管工だったの」
ペンで耳の後ろを擦ると、ネルチェルピが照れ笑いを浮かべた。
「この計画の発案者は町長だよ。さっき炭鉱の連中をなだめた後、ちょっと待ってくれと言って、破れた食品の包装紙にメモを走らせたんだ、それがコレ」
ネルチェルピが、手帳に挟んだ紙切れを取り出し二人に見せた。今回の計画が箇条書きに記されている。実行するのが子供というのは、いざ失敗して捕まったとしても、子供なら言い逃れの道が立つと考えてのことだろう。
「俺は、作業の段取りを、ちょいとアレンジしただけさ」
ネルチェルピは謙遜するように言ったが、そこには子供に大人らしいところを見せることができた自慢が、少しばかり覗いていた。
「さすが、仕事をやってる大人は違うや」
タタンがズボンのベルトを引き締めると、大げさに感想を漏らした。
マトゥーム盆地の上空に雲が掛かり始めた。
ユカギルを見下ろす牧人道から、その広がる雲をシーラが見上げていた。つい先ほどまで、シーラは胃の焼ける思いでウィルタの帰りを待っていた。
ミト・ソルガの一行は、春香の連れ去られた後、九の刻に予定を早めて出発した。
出立の間際に、丞師はシーラに命じた。板碑谷の左斜面の岩窟に移動してウィルタとナムの帰りを待つようにと。丞師は何かを予感している様子だった。
最後、丞師は杖をつきながら、ゆっくりとシーラに歩み寄った。よろけるような歩き方とは裏腹に、目は異様に輝いている。命が外に向かって噴き出すような輝き、まさに人を導く丞師の目だ。その目がシーラに語りかける。
「後継者よ、私の命はこの移動の最中に尽きるだろう。正式の継承式をやる間はない。私の命が尽きた時、それがおまえが丞師を継ぐ時、わが一族を導く役を引き継ぐ時だ。それを一族の巫女には想念で伝えた。我が後継者よ、よろしく頼む。私は私のできることを為した。お前に丞師としての良き天啓が下りることを祈っている」
己が想いを込めてそう伝えると、丞師は目をしばたくこともなくシーラを見つめた。そして満足そうに頷くと、ゆっくりと踵を返した。
「丞師様にも良き天啓を」シーラも母の背に声をかける。
「ありがとう、後継者よ」
足を止めた丞師は、そう一声返すと、あとはもう振り向くことなくシーラから離れていった。その体をインゴットが支えていた。
丞師とミトの一行は、八年の間暮らした谷間の扇状地を去っていった。新しいミト地までは日数にして三日。丞師の言葉通りなら、丞師の命は三日の内に尽きるということになる。いや、おそらくはもっと短いだろう。
シーラには、丞師の目の輝きが急速に衰えているのが分かった。本来なら、もう自分が丞師に取って代わるべきなのだろう。手続き上は問題があるが、ミト長のインゴットさえ了解してくれれば、それは可能だ。それが……、丞師、いや母は、娘の気持ちを汲んで、しばしこの谷間に残ることを許した。
シーラとしては、直ぐにでも一行の跡を追い、母を支えたかった。しかし……、
シーラには、インゴットの息子のアーマと、ナムの弟のピッタが付き添っている。青年のアーマは、インゴットの指示でシーラを補助すべく残されたのだ。
じりじりするような時間が過ぎていく。二時間で戻ってくるというウィルタの約束の時間はとうに過ぎ、太陽は中天を大きく回っている。二の刻も近い。
アーマに「いつまで待ちますか」と、問われた。
いつまで……、インゴットは夕刻までに戻って来いとナムに命じた。しかしウィルタはともかく、ナムが予定通りに戻って来なかった場合はどうすべきか。
つい先ほど警邏隊の黒服が数人、板碑谷にやってきた。そして小屋の屋根が落ち、人がいなくなっているのを見ると、直ぐに引き揚げた。丞師が出立を急がせ、シーラに岩窟で待つように指示したのは、このことだったのかもしれない。だが彼らは何の目的で、ここに足を運んだのか。春香だけでなく、ほかの誰かを連れて行こうとしたのか。もしそうだとしたら、それはウィルタしか考えられない。ミトの住人で町との接点を持っているのは、あの子だけだからだ。警邏隊がウィルタを探している。レイ先生の孫であり、ハンの息子であるウィルタを……、なぜ。
何もせず、ただ待つというのは辛いもの。
朝、ウィルタが自分の制止を振り切ってユカギルに向かった後、大きな爆発音が町の方向から伝わってきた。インゴットが遠眼鏡を差し向けたところ、広場の辺りで白煙が上がっていた。しかしその後は、この谷間から見えるユカギルの町は静穏の内にある。思えば、あの音は何だったのだろう。
春香と同じように、ウィルタも黒服たちに拘束されたのではないか。
状況が分からず待つことに焦れたシーラは、自ら町の様子を確認してくることにした。「五の刻までには帰ってくる。もし自分が戻らない場合、それにナムとウィルタが六の刻を過ぎても戻ってこない場合は、岩場の壁に伝言を残して先に出発しなさい」
そうアーマに言い渡すと、シーラはユカギルの町の様子を確かめるべく、一人で岩窟を離れた。
シーラは炭鉱事務所に向かって、足早に坂道を下っていた。
竪坑の櫓の前には炭坑馬が繋がれ、後ろの資材置場では、警邏隊員と作業服姿の男たちが数名、資材の確認作業のようなことをやっている。
倉庫の並びの前に、炭車が石炭を山積みにしたまま止めてあった。朝一番の貯炭槽への炭下ろしの直前に、黒服たちがやって来て、そのままになっているのだ。その炭車の列の先、町を真下に見下ろす場所に出ると、下から銃を携えた警邏隊員が二名上がってくるのが目に入った。
銃を使うことのないシクンの民、それも女性は、銃に対して本能的に怖れを感じる。
シーラは炭車の陰に身を寄せると様子を窺った。
二人は話に夢中だが、このままでは見つかってしまう。そう判断したシーラは、炭車の側を離れ、倉庫の裏に走り込んだ。
幸い黒服の二人は、炭車と炭車の間を抜けて、本坑口のほうに歩いて行った。
胸を撫で下ろすと、シーラはもう一度ユカギルの町に目を向けた。高石垣の北門、半夏門の門扉は固く閉ざされ、警邏隊員が銃を構えて目を光らせている。とても中に入れて貰える雰囲気ではない。
ウィルタを探すには、町に入るか、誰かに状況を尋ねるしかない。シーラは小脇に抱えた包みを握り締めた。中身は薬苔、黒服に見咎められた際に、注文の品を届けにきたのだと釈明するつもりで持参したものだ。しかし今もまた、半夏門の前で牧人風の男が追い返されている。やはり中に入るのは難しそうだ。どうすべきか……。
逡巡するシーラの背後、倉庫の壁越しに人の声が聞こえた。
薄暗い倉庫の部屋で、レイは椅子に腰掛けたまま、通信機のキーに指先を触れた。
呼び出し音のあと回線が繋がり、人の声が流れる。コードを外部の拡音器に繋いだので、通信機は机の上にある。
息子の声。録音してある短いフレーズに過ぎない。しかしそれでも十年振りに聞く息子の声だ。椅子に座って想いを巡らしつつ、思い出したようにキーに触れては、息子の声に耳を傾ける。そんなことを繰り返していた。
もうそろそろ調達した薬を抱えて、ガフィの容態を診るために町長の家に戻らなければと思う。その反面、すでに医師としての気力が萎えていた。
背を屈め、目の前のガラス瓶を掴み上げる。酒だ。
レイは過ぎ去った六十余年の人生を、息子の誕生を、都での仕事の日々を、そして流転する人生を想っていた。
換気のために外した窓の戸板の間から、どんよりとした雲の底が覗く。まだ夕刻前というのに、日没間近のように薄暗い。分厚い雲が空を覆い尽そうとしていた。
今夜あたり夏の終わりを告げる雪が舞うのではと、町の人は話している。しかしそんなことは、レイにとってどうでも良いことだった。
何度息子の声を聞いたろう。今は久しぶりに聞いた息子の声しか頭の中になかった。息子は今、どうしているだろう。息子は……、
何げなく顔を上げ、部屋の衝立ての横に人が立っていることに気づいた。しばらく物憂げな目つきでその人物を窺う。暗くて良く分からないが、細身で女性のようだ。
身じろぎもせずに立っていたその女性が、遠慮がちに口を開いた。
「ウィルタの養母、シーラです」
しばらく間があって「そう」と、短い答えがレイの口から返された。
ザーッと砂を流すような音が、拡音器から漏れる。レイがキーの一つに軽く指で触れると、雑音が消え、時が止まったような静寂が部屋を包んだ。
途切れた雲の切れ目から陽がこぼれ、盆地全体が午後の明るさを取り戻す。窓から差し込む外の光に、レイの目の下を伝う涙の跡が白く照り映える。それを押し隠すようにレイは項垂れた。ただそれは人に自分の顔を見られたくないというよりも、もう何もかもがどうでもいいという、体から張りが抜けてしまったような素振りだった。
俯いたまま顔を上げようとしないレイに、シーラが聞く。
「息子……さん、ですか」
少し間があって、レイが足元に落ちるような声を返した。
「聞いていたの、ウィルタの父親、……ハンの声よ」
「連絡が取れたのですか」
「声とだけね」
レイが投げやりに答えた。
また日が陰り部屋が薄闇に戻る。その薄闇がりのなか、シーラは首を傾げた。レイの言葉の意味が分からなかったのだ。構わずレイが続ける。
「当人は不在、機械に残されていた声と連絡が取れたの」
レイは無理やり顔を引き上げると、体の中の酒を吐き出すように言った。
「十年ぶりの声だったわ。相変わらず、昔の技術というものは凄いものね。オバルは、チェムジュ半島と話していたから、オーギュギア山脈の向こうにある晶砂砂漠の先のまた先、大陸の東の果ての半島だわ。この音、これはね、古代の通信衛星を経由した音なの。何千キロも離れているのに、耳元に人がいるように鮮明に聞こえる。残酷なものね、雑音塗れの声なら遠くにいる実感が掴めて諦めもつくのに。こんなすぐ隣にいるように聞こえるなんて……」
レイが、またキーに指先を触れる。通信機のパネルが、送信状態を示すオレンジ色に点滅。電波が繋がり拡音器からハンの声が流れる。何度聞いても同じ声……。
もういいとばかりに、レイは途中でスイッチを切った。
「声を保存できるようになっているの。向こうの声も、こちらからの声もよ」
「聞きました。伝言を残して下さいと、おっしゃってました」
「そう、だから、さっきからずっと考えていたわ、息子になんて言ってやろうかって」
レイは瓶に残っていた酒を喉に流し込むと、フンと鼻を鳴らした。
「母親のことを毛嫌いして姿を晦ませた息子よ。一言の断りもなく姿を消して、十年このかた、連絡の一つも寄越さない息子。あの子のおかげで、私がどれだけ苦労をしたか。築いた地位からも引きずり降ろされた。国中からハンの母親というだけで、刺すような視線を浴びて、哀れみの目でも見られた。
そりゃあ、姿を隠したくなるのも分かる。孫を人目から遠ざけたいということも。でもその子供の預ける先が、なぜ実の母親の私じゃいけないの。おまけに、孫には私のつけた名前を名乗らせずにいる。そんなに私を嫌っていたのなら、そう言えばいいじゃない。それをある日突然姿を消して、残った母親を、一人矢表に立たせて……」
レイはシーラの存在を忘れたように喋り続ける。そして空になったガラス瓶をドンと音をたてて机の上に置くと、上目遣いにシーラを見やった。
「えっ、愚痴の一つも言ってやりたいじゃない、罵ってやりたいじゃない。なのに声を聞く度にそれが萎えるの。とにかく会いたい、そのためには、どんな言葉を息子に掛ければいいか、そればかりを考えてしまう。悔しいじゃない、母親なんてそんなものなの。どんな息子でも、何をやった息子でも、許して、大手を振って、抱き締めてやらなければならないものなの」
シーラはただ黙って、吐き出すように喋り続けるレイの声に耳を傾けていた。心が乱れているのか、あるいは酒のせいか、話す度に肩で息をつく。やがてレイの顔つきが、苛つくような表情から、唇を噛み締めるような顔に変わってきた。
「話さなきゃ駄目なことがあるのよ。ユルツ国が計画を再開したなんて、どうでもいい。もう時間がないのに……」
救いを求めるようなレイの話しぶりに、シーラが口を挟んだ。
「息子さんとの連絡方法が分かったのなら、焦らなくても、いずれゆっくりお話しになる機会はあるんじゃないですか」
「お互いが生きていればね」
そう言ってレイはブルンと首を振ると、「つっ立ってないで座りなさいよ」と、据えた目でシーラを睨みつけた。
「私はいいです」
不躾な発言を跳ね返すように、シーラは断った。
「じゃあ好きにして」
椅子には座らなかったが、シーラは衝立から前に出た。
背筋を伸ばし両手を軽く体の前で交差させた姿は、崩れたように背中を丸めたレイとは、まるで対照的である。レイが新しい酒を傍らの袋から抜き出し、蓋を開けて中の液体をグラスに注ぐ。そして今ここにいる二人の女に乾杯するかのように宙にかざした。
赤黒く濁った目を、グラスの中の同じ色合いの液体に向けながら、レイが愚痴った。
「医者の不養生とはよく言ったもの。私の体は、もうボロ布同然。息子がいなくなってから、ずーっと酒と薬をやっていたの。そのせいで内臓はしこりだらけ。医者だから分かる、私に残された時間は長くない。それに……」
レイは、ためらうように話を途切らせると、「まあ、あのことはいいわ」と、こみ上げてきた想いをいなし、グラスの酒を一息に飲み乾した。そしてグラスが空になったことを喜ぶように、また酒を注ぐ。シーラが見かねて何か言いかけると、レイは傾けた酒瓶を持つ手を止め、詰問するように声を投げつけた。
「あなたは、十年前の事故の真相を、ハンから聞いてないの」
「真相?」
怪訝な表情を浮かべるシーラに関係なく、レイは酒を口に運ぶ。
レイの崩れた姿勢に異義を申し立てるように、シーラが凛とした声を響かせた。
「私が知っているのは、十年前にユルツ国の北方で、この遠い片田舎から見ても空が真っ白に輝くほどの爆発事故が起き、数千人の人が亡くなったということです。ハンがその責任者の一人だったということは、ウィルタを預かった後に風聞で知りました。ハンは事故を引き起こした者の家族に向けられる、謂れのない差別を怖れていた。その差別から息子を守るために、ウィルタを自分の子供としてではなく、身寄りのない孤児として育ててくれと言って、私に預けたのだと思います」
これまでのことをまとめるように、シーラは言い返した。
レイはシーラがそれ以上何も喋らないのを見て取ると、意地の悪い笑みを口元に浮かべ、「知らないの、じゃあ教えてあげるわ」と、そのことを口にした。
「事実はどうやら、別だったらしいわね。事故の犯人は、孫……、ウィルタという少年の悪戯が、あの惨劇を引き起こしたのよ」
シーラが息を呑んだ。
「まさか」
「私も二日前に知ったばかり、ハンと一緒に仕事をしていた人物から聞いたの」
自分だけがこの問題を背負うのは不公平とばかりに鼻を鳴らすと、「あなたなら、どうする」と、レイが乱暴な口調で問いかけた。
「ウィルタの悪戯が、あの三千人の人が亡くなる惨事を引き起こした……」
確かめるように口の中でその言葉を繰り返すと、シーラは顔を歪めた。
第十八話「小火」・・・・




