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星草物語  作者: 東陣正則
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官舎


     官舎


 黒服に追い立てられるようにして、人々は広場を後にする。

 その人の波から、坑夫姿の男たちが櫛で選り分けられるように呼び止められ、経堂の前へと引き立てられていく。軽便鉄道の荷の搬送作業に徴用されるらしい。またそれとは別に、黒服の監視の元、町の男たち数人が、広場に飛び散った瓦礫の回収を始めた。

 その騒然とした余韻の残る広場の片隅、町家の前に、小さな人だかりができていた。吹き飛ばされた瓦礫を受けて怪我をした人と、その家族である。顔面を血に染めた人や、意識を失って地面に伏したままの人もいる。

 解散を命じられた後、一行は診療所に移動しようとしたが、警邏隊が町の診療所を接収すると通告してきたために、そのまま広場に留まっていたのだ。いま衛生士のディプネンが、診療所の使用を警邏隊と交渉をしているところだ。

 不安げに身を寄せ合う一団に向かって、路地の間から小柄な男が手を振りながら走り出た。ディプネンである。小脇に応急処置用の医薬品の入った鞄を抱えている。

 息を切らせて走り寄ったディプネンに、額から血を滴らせた男が「診療所、それにレイ先生は」と、急くように尋ねる。

 ディプネンが怪我人を見回しながら早口で状況を伝えた。

「診療所の件は、町長にお願いしてきた。レイ先生は警邏隊の命令で黒服の手当てに当たっている。貨車の荷崩れで、隊員に怪我人が出たらしい。処置が終われば、先生はこちらに回ってくれる。それよりも、町長が診療所の代わりに町長宅の別棟を使ってくれと言っている。だから、そちらに移動して先生を待つ」

「町長の家で手当てができるのか、炭鉱の分室の方が良くないか」

「町の外に出るのは警邏隊が許可しない。それに警邏隊専属の医務班が到着すれば、診療所は町の管轄に戻すということだ」

 話す声に怒りがにじみ出ている。そのディプネンが声を止めた。

 石畳みの上に寝かされたガフィの横に、大女のパーヴァが屈みこんでいる。その悲痛な表情が目に入ったのだ。横ではタタンが、ガフィの短い腕を励ますように握り締めている。

 いつもの磊落さを置き忘れたように、パーヴァが不安げな視線をディプネンに送った。

「足を撃たれたの。それに屋根から落ちた衝撃で、その足が。胸の骨も何本か折れてるみたいだし」

 見るとガフィは右胸の下に手を当て、苦悶の表情で短く息を繋いでいる。それに銃で撃たれた右足は、ズボンが血で真っ赤だ。

 駆け寄ったディプネンが、「まずいな」と表情を固くした。

「止血はしたけど……」

「足じゃない、胸だ!」

 以前ディプネンは落盤事故で同じ状態に陥った者を見たことがある。その時は、折れた肋骨が肺に刺さって、胸の中で息が漏れていた。

 とにかく確かめようと、ディプネンが鞄から聴診器を取り出す。

 その時、背後から「この男です、発破を投げたのは」と、都なまりの声が飛ぶ。

 振り向くと黒服が二人、ガフィを見下すように立っていた。上官とその部下らしい。

「片腕の男、立てるか」

 半眼で問い質す上官と思しき人物に、ディプネンが噛みついた。

「なにをばかな、見れば分かるだろう、命の危ない状態だ!」

 なるほど脂汗を滲ませ苦悶の表情で息を継ぐさまは、歩くどころではない。

「そのようだな」

「どうされますか、上官どの。連行して取り調べを……」

 長胴銃を構えた部下に、上官が迷うことなく断じた。

「必要ない。それに死体になってもらうと後が面倒だ。行くぞ」

 経堂に向かって歩き出した上官を横目に、「自業自得だ!」と、部下の黒服がガフィの血に染まった太股を、革靴の先で蹴り上げた。

 ギャッと喉を潰したような声をガフィが上げる。

 その瞬間、タタンが留め具の外れたバネのように黒服に飛びかかった。

 ところが組みつく間もなく、地面に叩きつけられる。それでもタタンは這い上がり、黒服に突進、と今度はそのタタン目がけて、銃尻が振り下ろされた。

 ハッとして皆が動きを止めた眼前で、なぜか黒服の銃尻は空を切り、タタンは目測を誤ったように黒服の腰を掴み損ねて、石畳の上にひっくり返った。

 したたか腰を石畳に打ちつけ顔を歪めるタタンに、黒服が罵声を浴びせた。

「糞ガキが、片腕野郎と同じ目に遭いたくなかったら、大人しくしてろっ!」

 怒鳴り上げて唾を吐く黒服に、先を行く上官が顎をしゃくった。

「こら、ガキと遊んでる場合か、さっさと来い」

 上官の叱咤に、部下の黒服はあわてて駆け出す。

 その後姿を怒りの形相で睨みつけたタタンが、自分を抱きかかえている手に気づいて、後ろを振り向いた。

「良かった、銃で殴られたら、顔に大痣ができたかもしれない」

 聞き慣れた声、ウィルタだ。

 銃が振り下ろされる直前、ウィルタが飛びつきざまにタタンの体を押し倒したのだ。そうしなければタタンは銃尻を頭に受けて、大怪我をしていただろう。

 肩で息をつきながらウィルタが状況を説明。タタンがようやく腑に落ちたと頷いたと時、前方で二人を呼ぶ声がした。

「おーい、タタンに板碑谷の坊主、戸板を運ぶのを手伝ってくれ」

 町家の前で、炭鉱のネルチェルピが、戸板を抱えて二人を手招きしていた。

 ネルチェルピは、色白のうえに平服ということもあってか、作業に徴用されなかったらしい。戸板の上にガフィや自力で歩けないケガ人を乗せて、町長宅まで運ぼうというのだ。見ると、広場の隅に残っていた人たちが移動を始めている。

 すでにガフィも戸板の上だ。

 二人して駆け寄り、ネルチェルピの指示で、気を失っている婦人を戸板に乗せて、前をネルチェルピ、後ろをタタンとウィルタの二人で持ち上げる。婦人は瓦礫が頭部を直撃したのだ。斜め前を、パーヴァと町家の男性が、ガフィを乗せた戸板を持って進む。

 パーヴァが振り向きタタンに目配せをした。ガフィは大丈夫という目だ。

 ほっとしたようにタタンが詰めていた息を吐いた。

 踏ん張るようにしてガニ股で歩きながら、タタンがウィルタに話しかけた。

「ウィルタ、よく、こんな時に」

「それより、いったい何が起きたの」

「ユルツ国の連中が、井戸を奪いに来たんだ」

 戸板を揺らさないよう慎重に足を運びつつ、タタンが朝からの顛末を手短に説明する。

 頷きながらウィルタも町に駆けつけてきた訳を話す。

「ミトの移転、それもこんな日にか」

「それもあるけど……」

「あるけど、なに?」

 ウィルタはタタンに相談したかった。シーラさんが丞師になること、自分が曠野か町のどちらかを、選ばなければならなくなったことをだ。しかし今は、とてもそんな話ができる状況ではない。

 ウィルタが口ごもっていると、タタンが「あれを」と、顎をしゃくった。

 タタンの視線の先、裏通りの四つ辻を、黒服が春香の腕を掴んで歩いていた。

 それに黒服の小隊から少し間を置いて後をついていく小柄な人物がいる。町服を着ているがナムだ。ところがキョロキョロと辺りを窺いながら歩く姿は、いかにも後をつけていますと言わんばかりだ。

 タタンが戸板を持つ手を握り返すと、口のなかで含み笑いをした。

「ウィルタ、お前、行って忠告してやれよ。ナムのやつ、あれで後をつけてるつもりなんだ。あれじゃ、そのうち引っ捕まって、銃で殴られちまう」

「でもこの戸板……」と、ウィルタが言いかけると、

「大丈夫、町長さんの家は次の通りだ。おれの柔い腕だって、そのくらいは大丈夫。それより早くしないと、お前のお姫様をかっさらわれるぜ」

 タタンは心配ないとばかりに元気な声を返すと、片方の腕をウィルタの支えている側に伸ばした。軽く頷き返したウィルタが、戸板を支える力を抜く。その瞬間板は少し沈んだようだが、タタンは奥歯を噛み締め、ウィルタに「行け」と首を振った。

 ウィルタは「あとで」と小さく言うと、ナムの姿を追いかけるように走りだした。


 四つ辻の次の通りで、ウィルタは物陰から前方を窺うナムに追いついた。ナムは塵芥溜めの箱の陰に隠れて、通りを曲がろうとする黒服の一行を盗み見ていた。

 後ろから近づき、チョンと指先でナムの背中を突く。

「わっ、撃たないで」

 ナムがバンザイをするように両手を上げた。その大げさな反応に、ウィルタがナムの口を塞ぎ、家と家の間に引っ張りこむ。

「なんだ、ウィルタか、驚かすなよ」

 ナムは、後ろにいたのがウィルタだと分かると、へなへなと腰を落とした。気の弱いナムは胸の上に手を置き、荷を山積みにされた仔馬のように情けない息をついている。

 ウィルタは塵芥用の箱から半身を突き出し、黒服たちの通った街路の先に目を向けた。

 一行は角を曲がった先の官舎に入ったようだ。

 ナムが聞かれもしないのに、板碑谷で起きたことを話しだした。

「ぼくは、追跡には向いてない、心臓が破裂するかと思った。この役はウィルタに任せる」

 懇願するように言って、ナムがウィルタの手を握りしめた。

「分かった、追跡はぼく一人でやるから、ナムはパーヴァさんの宿で待っててくれ」

 任せてくれとばかりに立ち上がったウィルタの手を、ナムが引っ張る。

 そしてもう一方の手で、着ている服を指す。

「シーラさんに着せてもらった服、ウィルタの服だよ」

 何も言わずウィルタは上着を脱ぐと、ナムと服を交換。シクンの服と較べて上品だが、素っ気ない。でもそれを着れば、ウィルタも十分町の子供だ。

「えーっと、あの難しい名前の宿屋で待ってればいいんだよな」

 シクンの服に戻ってもまだ不安気なナムに、ウィルタは酔騎楼に続く裏道を説明。後は通りに出て、何事もなかったかのようにスタスタと歩きだした。

 車輪が石畳を踏みしだく派手な音が、通りを縫うように伝わってくる。街路の間から、資材を満載した荷馬車が広場に入って行くのが見えた。

 ウィルタは官舎の手前で、家の陰に身を寄せると様子をうかがった。

 どうやら町の官舎が、黒服たちの本部として接収されたようだ。二階建ての官舎の入り口に二人、建物の両袖に、さらに一人ずつ監視役の黒服が立っている。

 様子をうかがうウィルタの目の前を、経堂の助経司が通り過ぎた。その次は町の会計課の主任。さっき一緒に戸板を運んでいたネルチェルピさんまでが姿を現し、急ぎ足で官舎に走り込んでいく。話し声からすると、官舎に出頭するよう呼び出しを受けたらしい。みな建物を入ったところで、黒服に身分証を見せている。

 残念ながら、シクンに身分証のようなものはない。

 表口から入るのは難しいと判断したウィルタは、建物の裏側に回ることにした。

 

 そのウィルタが通りを迂回している頃、官舎一階のロビーでは、町の主要な人物、町長、助役、自警団長、炭鉱長などが、椅子に座って名前を呼ばれるのを待っていた。

 一階のロビーから左右に伸びる通路、その右手の一室で、熱井戸接収隊の次官が、呼び出した町の役職者に聞き取りを行い、町の設備や人材に関する調書を作っていた。

 官服をかっちりと着込んだ中肉中背の次官は、太くて短い眉をそのまま写し取ったようなひげを二本、鼻の下に生やしている。

 その二本ひげの次官が、机を挟んで向かい合った司経に質問を投げつけ、返ってきた答えを几帳面に用紙に書き込んでいた。

 次官がペンを走らせる間も、町の情報の要であることを自負する司経は、聞かれていないことまで、だらだらと喋り続ける。その饒舌な口を塞ぐように「なら、町でこういう人物を見たことはあるか」と、次官が一枚の用紙を突きつけた。

 中年の男の顔写真が貼りつけてある。司経の記憶にない人物だった。

 いかにも残念といった顔で司経は首を振ると、「何者ですか、この男」と、探るような視線を次官に送った。

「説明する必要はない、見たことがあれば、見たと答えればいいんだ」

 次官がピシャリと言葉を叩きつけるが、詮索好きの司経は「ですが、次官殿……」と、めげずに続ける。

「ここは存外、旅の人間が行き来する土地でして、経堂には名前を変えた輩が泊まっていくこともあります。どういう人物か分かれば、探し出す糸口が見つかるやも知れません。なにせ経堂は人物の往来ですから」

 司経の話すように、経堂は地域の人と情報が集約される場所である。

 自己顕示欲の強そうな司経を胡散臭く見ていた二本ひげの次官も、ここは情報を与えて協力させるのが得策と考えたのか、写真の男の素性を明かした。

「行方不明の学者だ。週に一度、この町に来る医者がいるだろう、その医薬師の息子だ」

 行方不明の学者と聞いて司経は思い当たったらしい。「あの十年前の惨事の後に姿を消したという学者、あの男がレイ医師の息子」と、大口を開けて驚いてみせると、直ぐに算段深い目つきになって、「お探しということは、何か先程おっしゃっていた、復興計画の話と関わりがあるので」と、探るように次官の顔を覗きこんだ。

 如才ない顔つきで話しかけてくる司経を冷たい目で一睨みすると、二本ひげの次官は喋りすぎた自分を誤魔化すように、「こちらのやっていることに立ち入ると火傷をするぞ」と言って、司経の鼻先でファイルをパンと音をたてて閉じた。

「あっ、これはどうも……」

 机に身を乗り出しかけていた司経が、慌てて腰を引く。

 そこに隣の部屋に繋がる扉が開いて、小柄な女性事務官が入ってきた。

 オバルの荷を調べに、商人宿、パーヴァの酔騏楼に出向いていたスタッフだ。

 その女性事務官は、次官の数歩手前で両足をピシリと揃えると、手がかりになるようなものが見つからなかったことを報告。「不審な物といえば、収監したオバルが所持していた、この鍵くらいです」と、一本の鍵を机の上に置いた。オバルの上着のポケットから出てきた鍵で、家庭用の十字の棒鍵とは違う、板のような鍵だ。

 次官がその鍵を手に取る。そして吟味しようと顔を寄せて目を細めた。机の向こう側で自分の様子を窺っている司経に気づいたのだ。

 鼻先で小さく笑うと、次官は摘み上げた鍵を司経の鼻先に突き出しゆすった。

「この鍵に見覚えはあるか」

 問われて司経が悔しそうに鼻の付け根にしわを寄せた。

 先ほどの写真と同じで思い当たる節がなかった。仕方なく「経堂の鍵でないことは確かですが……」と、言い訳めいた返事を口にする。

 次官は司経の視線から鍵を引き剥がすと、女性事務官にそれを投げて返した。

「関係者に当たって何の鍵か確認しろ、オバルが身につけていた鍵なら、調べる価値はある。あいつが計画反対派の要請を受けて旅に出たことは分かっているんだ。急いでやれよ。それから例の少女は、もう総監の部屋に連れて行ったのか」

「はい、直々に面接を行うとのことです」

 歯切れ良く言って、事務官の女性は部屋に入ってきた時と同様、きびきびとした身のこなしで部屋を出ていった。

 ドアが閉まるのを見届けると、二本ひげの次官は椅子を回し、司経に意味ありげな視線を送った。

「仮面の総監は、現場の視察で同行しているだけで、今回の接収事業に関しては、俺が監督官だ。もし写真の男に関する情報を提供してもらえれば、今の町長を更迭してやってもいいぞ。おまえにとって、今の町長は目の上のたんこぶだろうからな」

 司経はとぼけた顔で目を泳がせたが、二本ひげの次官に自分と似た人格を見て取ったのか、「了解しました、監督官殿」と、下僕のようにへりくだって答えた。


 公的な訪問者の宿泊などに使われる官舎は、二階建ての建て物が二棟、中央の連結棟で繋がったH型の構造をしている。表通りに面した前棟が、会議室なども備えているために、やや広い。その二階右側の小部屋に、顔の左半分を銀色の仮面で覆った、今回の熱井戸接収隊の指揮官がいた。再開されることになった第二次ファロス計画の総合監督官、ダーナである。そのダーナ総監は、部下が持参する書類を手早くめくっては、次々と印をついていた。今回、熱井戸を接収するに当たって調達した資材の受領明細、警邏隊の派遣期間延長の要請書、復興財団宛のレター、束になって届く雑多な書類が、机の上にばらまかれたように積み重なっている。

 今回の接収計画の実施母体は、ユルツ国復興計画推進準備委員会という、復興省の技術復興院に設置された小委員会になる。古代の炉を復活させるファロス計画は、国土復興計画の一事業としての位置づけにあり、計画の再開が正式に議会で承認されれば、ファロス計画は復興計画から独立した国の直轄事業となって、管轄の省庁を外して独自に行動できる。しかし今の段階では、何をするにも技術復興院という上部団体を通さなければならない。接収用の警邏隊の借り受け手続きにしても、しかり。

 何をやるにも手続きが煩雑なうえ、今回の接収事業は、計画の立案が四日前で実行が昨夕という慌ただしさ。そのため現場に来てから書類と格闘するはめになった。ただ国の事業というものは、書類の束をきちんと処理しておかないと、後々不都合が生じる。そのこともあって、ダーナは昨日からほとんど睡眠を取らずに、煩雑な事務作業に没頭していた。

 苛立ちが、つい言動にも出てしまう。

 まさかという思いだった。自分が銃で住人を威圧、それにあの場で本当に隊員が発砲するとは……。

「黒服たちを動かすコツは、とにかく最初にガツンと指揮官の力を見せつけること。言葉で説得などと、弱腰は絶対は禁物!」という、警邏隊総監の助言が頭のどこかに張り付いていたのだろう。とにかく計画を軌道に乗せるまでは、多少の強引さは必要悪として目を瞑るしかない。政治的な手法としては、意に反することだが……、

 降参したとばかりに髪をかき回したダーナが、「まったく、どうでもいいような書類ばかりのくせに」とぼやいて、仮面にペンを打ちつけた。そして処理済みの書類を抱えて出ていこうとする部下に、「おい、そちら側から見て、この町の調査報告書が机の上に見えるか」と、泣きつくように聞いた。

「長官の左手前の赤い付箋の付いたものがそれかと」と、部下が姿勢を正して返答する。

 ダーナは書類の束から目的の報告書を抜き出すと、伝令役の青年に「休憩する、私がよしというまで、誰も部屋に入れるな」と命じて、外に出ているようにと手を払った。

 角を留めただけの簡易の報告書をめくる。今回の接収事業に当たって、地域の情勢を確認するために作成させた報告書である。なかに、古代人の少女が冷凍睡眠から蘇生、シクン族の仮住村で暮らしていることが書き込まれている。

 言語機能、記憶は、ともに喪失状態とある。ダーナはそれを、よくあるパターンと考えていた。冷凍睡眠の人間は、無事に蘇生したとしても記憶を喪失しているのが常だからだ。人の形をした生き人形である。

 そんな生き人形でも、技術復興院は、記憶回復の実験材料として欲しがった。生き人形でも人は人、良い気はしなかったが、復興計画が正式に再開するまでは、何をするにも復興院の承認が必要になる。少しでも謝意を表しておいた方が得策だろうと、古代人の少女を都に搬送するように命じ、自分は少女の検分をするつもりはなかった。

 その気が変わったのは、目的の少女を連行してきた隊員が、断片的にではあるが少女が言葉を口にしていたということを、報告してきたからである。

 冷凍睡眠から覚めたばかりの古代人が、言葉、それも古代の言葉ではなく、今の言葉を話しているとすれば、ただの生き人形ではないかもしれない。もしかすると、少女は古代人などではなく、この時代の人間かもしれないという危惧を感じたのだ。以前金もうけのために、聾唖の子供が古代人として技術復興院に売りつけられた前例がある。その轍は踏みたくなかった。

 ダーナは書類から顔を上げると、壁際の椅子に座っている少女に目を向けた。

 ごく普通の少女に見える。着ている服はシクンの民族服だが、顔つき以前に、肌がいま棺から出てきたばかりといった、幼児のような肌をしている。曠野で暮らす連中なら当然の、日に焼け、風雪に晒された野性的な肌ではない。生粋の曠野の子供、この時代の子供ではないというのが一目瞭然だった。それに、あらぬところを見ている目つきは、記憶を失くした古代人のそれとよく似ている。直感として、この娘は間違いなく古代の娘だということが感じられた。

 少女は、先程から、ぼんやりと窓の外の錆色の屋根の連なりを見ている。

 

 その当の少女、春香は、まだ夢うつつのぼんやりとした感覚のなかにいた。

 シーラに話したように、冷凍睡眠から目覚めて昨日までの間、自分はずっと夢の中にいるのだと思い込んでいた。その夢のような感覚が、まだ抜けていなかった。

 脳の知覚と感覚が、ブツブツと途切れたようにしか繋がらない。それに記憶の中の情報と、現実に目の前に見えているものとが重ならないのだ。必死で考えていないと、意識が夢を見ているのかもしれないという方向に傾いてしまう。それを少しずつ、自分は現実の世界を見ているのだと、修正しているところだった。

 その夢から現実への軌道修正を、春香は見えるものを言葉に置き換えるという方法で行っていた。歩いている、どこへ、町に。歩く、誰と、黒い服の人と。家畜が、食べる、何を、苔……、といった風にである。自分で自分に質問を与え、それに答えるということを繰り返していた。

 一つ一つ物事を積木を積み上げるように確認していかないと、自分が現実の世界にいるという実感が持てなかった。そしてその確認作業は、この部屋に通されてからも続いていた。見えるもの感じるものを言葉に置き換えるということを、ひたすら繰り返す。それが仮面の指揮官からすれば、虚ろな目でぼんやりしているように見えたのだろう。

 春香が自問自答を繰り返しているところに、突然、声が耳から飛び込んできた。

「私の言葉が分かるか」

 二度そう問われて、春香は我に返ったように、声の主を見た。

 黒い影が自分に覆い被さるように立っていた。窓を背にしているために、銀色の仮面よりも灰色の瞳の方が目立つ。逆光のなか、薄灰色の目が、春香を見透かすように覗き込んでいた。

 さらにもう一度問われて、春香は頷いた。

 仮面のダーナが命じた。

「上着を脱いでみろ」

 思わず春香は「えっ」と声を出した。

 その反応でダーナは、少女が自分の言葉を解していると理解した。言葉が分かれば話ができる。話さえできれば、古代の人間か、今の時代の人間か判断がつく。

「緊張するな、わたしも女だ、こんな声と顔をしているがな」

 机に体をもたれさせたダーナの前で、春香はおずおずと外套を脱いだ。

 上半身をセーターだけになった少女の周りを、ダーナが顎に手を当て歩く。少女の肉体を確かめるように、ダーナが少女の肩を掴んだ。力のある指が肌に食い込む。

「い…たい」

「名前は何という」

 ふた呼吸ほどの間を置いて「ハ…ル…カ…です」と、たどたどしい答えが返される。

「やはり喋れるようだな。しかし不思議なものだ。今と昔では言葉が違うはずだが。目覚めてから覚えたか。まあいい、言葉が分かるのに越したことはない」

 ダーナは椅子に座るよう春香に命じると、ゆっくりとした口調で話しかけた。

「過去から来たということでは、おまえは客人。もてなされもしよう。だがどの道この世界で死ぬまで生きていくしかない以上、この時代の奴隷でもある。私は奴隷に遠慮はしない。私もお前と等しく、時代の奴隷なのだからな」

 おずおずと椅子に腰掛けた春香を、腕組みをしたダーナが正面から見下ろす。褐色の肌と銀色の仮面、その二色の顔の中で、唯一女性らしい薄紅色の端正な唇が動く。

「まあそう緊張するな、客人。片言でも言葉が喋れるというのであれば、聞かせて欲しい。お前が生きていた時代のことをな」

 そう語りかけると、仮面の指揮官は灰色の瞳でじっと春香を見つめた。


 官舎裏の出入口にも、黒服の男たちは配置されていた。

 仕方なくウィルタは、官舎の斜め向かいの家と家の間、隘路の配管の後ろに身を潜めて、様子を窺うことにした。まずはここに本当に春香がいるかどうかを、確かめようと思ったのだ。ナムから借りた小さな単眼の遠眼鏡で一つずつ窓を見ていく。

 しかし悔しいかな、どの窓もカーテンが引かれて中が見えない。

 と右端のカーテンが開いて、人が姿を見せた。その人物の顔がキラリと光る。

 もしや、と目を凝らす。あの仮面をつけた指揮官ではと思ったのだ。

 もう一度しっかり見ようと、遠眼鏡を手に、隠れていた配管から身を乗り出す。そのウィルタの前に、黒服が立ちはだかった。

 ウィルタは、あっけなく官舎に連行され、何もない十畳ほどの部屋に放り込まれた。

 後棟二階、西側奥の部屋である。

 黒服たちは、ウィルタの手足を紐で縛ると、外から鍵を掛けてしまった。

 黒服たちの気配がドアから離れると、ウィルタは体をねじり、部屋のなかを見回した。

 天井際に明かり取りの高窓が一つあるだけの、薄暗い小部屋である。窓の位置が高すぎて外は見えない。ウィルタは芋虫のように体を屈伸させると、扉ににじり寄った。

 連行された際に、黒服たちが数人、向かい側の部屋でたむろしているのが見えた。

 扉に耳を当てると果たして隊員たちの喋る声がする。部隊の配置や、次の資材が午後の軽便鉄道の便で届くことなど、雑談を交わしている。向かいの部屋は隊員たちの休憩室だろうか。声からして、今いる隊員は三人。

 ちょうど連行した少女のことが話題に上った。

「夕方の折り返しの便で、ユルツ国に運ばれるらしい」という声に、「記憶を蘇らせる手術で廃人になった古代人もいるぜ」と合いの手が入る。物知り気な隊員が、その悲惨な末路を迎えた古代人の例を並べ立てる。

 ウィルタの背に冷たいものが走った。

 早く春香を救け出さなければならない。

 慌てて体をくねらせる。しかし大人が力を込めて縛った紐が、簡単に解けるはずもない。そして紐を緩めようと無理な姿勢で力を込めているうちに、手足の筋肉を攣ってしまう。

 痛みを我慢しつつ、筋肉のツッパリが消えるのを待つ。

 そうする間、天井を見ていて気づいた。天井の板と板の隙間の向こうに、梁らしきものが覗いている。シクンの小屋には天井裏がない。だから意識しなかったが、ここは町。天井裏にさえ出られれば、部屋を抜け出すことは可能なはずだ。そう考え、冷静になって部屋の中を見渡し見つけた。柱に打ち込まれたままの配管の留め具が残っている。

 柱に体を寄せ、手首を縛りあげた紐を金具の角に押しつけながら、上下に動かす。

 休憩室を出入りする隊員たちの足音が扉越しに聞こえるが、ウィルタのいる小部屋を覗く気配はない。じりじりとした時間が過ぎ、紐よりも先に手首の皮が破れるのではと思った矢先に、紐が緩んだ。切れた。

 ところがそこからが大変だった。

 天井裏に上るには、手足を縛っていた紐では短くて話にならない。

 気は焦るが、セーターを脱いで糸を解し、解した糸で縄をなう。三本を束ねてない、さらに六本で……、いつもいい加減な縄ないしかしてこなかったことを反省する。

 見かけは悪いが何とか紐が形に。その紐に壁の金具を外して結び、天井の板と板の隙間に向かって投げ上げる。するとまるで奇跡のように、数回投げただけで、金具が隙間に飛び込み、奥の梁に巻きついた。

 すぐに紐をよじ登り、途中で足を伸ばして壁面の小さな窓を押し開ける。そこから逃げ出したと思わせるためだ。天井の板をずらして天井裏へ。

 そこまでは上手くいった。

 ところが暗すぎて、見えるのは、ほんの手の届く範囲だけだ。

 窓の外に逃げ出したと思わせるためには、天井の板を塞がなければならない。でもそうすると、暗い屋根裏が真っ暗になって何も見えなくなってしまう。

 どうすればと思った次の瞬間、ウィルタは肩に入っていた力を抜いた。

 体全体の気を右目に集める。自分の義眼の能力のことを思い出したのだ。意識して義眼の能力を使うことはない。使うと猛烈な頭痛が起きる。それに暗闇の中を見透かすのは初めて。上手くいくかどうか自信はないが、とにかく全身の神経を右目に集中する。

 十秒、二十秒……、何かが見えるよりも前に、頭の中に頭痛のさざ波が立ち始めた。

 その刺のような痛みを我慢しているうちに、頭痛の波間に、屋根裏の柱や梁が浮かび上がってきた。二本の梁が平行して走っている。

 ウィルタは天井の隙間を塞ぐと、建て物の西側の壁に向かって梁の上を伝い始めた。這うように進むウィルタの動きに合わせて、カサカサと乾いた音が周囲に散る。虫の走る音。古代に良く見られた衛星害虫のゴキブリのような虫で、この世界で豚虫と呼ばれる親指サイズの平べったい虫だ。淡いピンク色の綺麗な虫だが、暗闇で姿は見えない。

 虫の走り回る音の向こうで、微かに光が漏れている。

 這い寄ると、そこにも天井板に隙間があった。下に見えるのは便壺、トイレだ。茶色い便壺の上に豚虫が一匹、ピンクのアクセサリーのように張り付いている。

 ここなら下りても大丈夫だろう。そう思って天井の板をずらそうと手に力を込めた時、もう一本の梁の先から、ガツンというにぶい音と、人の呻き声が聞こえてきた。

 一呼吸置いて、もう一度。

 その物を叩きつけるようなガツンという音に合わせて、ウィルタの頭のなかを頭痛の大波が襲う。目に集中していた意識を消して深呼吸、頭痛の波を静める。頭痛の大波が小波に変わり一息。が物を打ちつけるような音と人の呻き声は、変わらず続いている。

 気になったウィルタは、Uターンして、音の方に手足を這わせた。

 板の隙間を探し、下の部屋を覗きこむ。

 小部屋に男が二人。一人は白土肌の黒服。もう一人の椅子に座った男は黒炭肌で、手足を縛られている。と黒服が椅子の男を革靴で蹴りあげた。

 椅子ごと横倒しに倒れた男の顔を見て、思わず声を上げそうになる。夏送りの夜に、気を失った春香をミトまで送ってくれた、オバルさんだ。

 呻き声をあげるオバルを、またもや黒服が力任せに蹴りつけた。

 黒服の白くて太い首の側面に、大きなほくろが二つ。天井裏から覗いていると、頭が近くに見えることもあって、首のほくろがやけに大きく感じる。昔話に出てくる吸血鬼に血を吸われた跡のようだ。

 その首ぼくろの男が、鉄の灰掻き棒を手に残忍な笑みを浮かべた。

「しぶといやつだ。殴られるのがよほど好きと見える。まあいい、次はどこを殴る。腹か、手か、足か、そうだ足の裏を殴ってやろうか」

 首ぼくろの男が、オバルの足を靴先で突くと言った。

「足の裏にはな、人間の内臓に繋がる筋があるんだとよ。だから足の裏をぶっ叩くと、体に傷を残さず内臓だけをボロボロにできる。どうだ、殴って欲しいか」

 横倒しのオバルが、血の滲んだ黒い顔を死霊のようにヌッと持ち上げた。

「ふん、最近の警邏隊はそういうことを教えているのか。落ちたもんだ、教官に言っとけ。お前の話しているのは、筋じゃなくて、ツボと言うんだ」

 その瞬間、耳を塞ぎたくなるような呻き音が、天井裏に届いた。

 首ぼくろの男が、鉄の棒でオバルの腹を突いたのだ。

「なめるなよ、次官殿から殺すなと言われているから、手加減してやってるんだ。死にたくなかったら、さっさとハンの居場所を吐け。ガキの所でもいいぞ。俺はあの事故で兄貴を殺されたんだ。分かるか、兄貴は骨も残らない業火に焼かれて死んだんだ」

 言葉を叩きつけるや、また鉄の棒を振るう。

 鈍い音とオバルの呻き声が、狭い部屋の中で出口を塞がれたように交錯する。

 逆流する血で胸が破裂しそうになるのを堪えながら、ウィルタは後ずさった。これ以上見ていると、天井板を剥がして下の部屋に飛び降りてしまうと思ったのだ。今は春香を助け出すことの方が先だ。

 ウィルタがトイレの上に戻ると、自分が閉じ込められていた部屋の方向から、「ガキが逃げたぞーっ!」という声が聞こえてきた。続いて通路を人が走る音……。

「窓だ、窓から、出たんだーっ」

 建物の外からも人の声が上がる。窓を開けておいたのが功を奏したようだ。

 人の気配が官舎の外に移っていく。

 天井板をずらしてトイレの床に飛び降り、そこから通路へ。

 いま自分がいるのは、官舎後棟、二階西側の廊下だ。

 通路のどん詰まりで、黒服たちが部屋の中を指して言い合っている。あれが自分の閉じ込められていた部屋だろう。ウィルタは素早く靴を脱いで手に持つと、隊員たちがこちらを向かないようにと祈りながら、建物を中央で繋ぐ連絡棟に向かって走った。

 足音を殺し連結棟に曲がり込む。幸い通路に人影はない。そのまま表通り側の本館へ。

 本館中央の下り階段の途中、踊り場から下を覗くと、ロビーの長椅子には、呼び出しを受けた町のお偉方が座っていた。横には見張りだろう黒服たちの姿もある。

 ちょうどそこに、女性の事務官に付き添われた春香が姿を見せた。春香を案内してきた事務官は、春香を壁際の椅子に座らせると、玄関方向に姿を消した。

 ウィルタは身をひるがえすと、階段の出窓に顔を寄せた。果たして官舎の前に同じ事務官が出てきた。正面玄関にいる黒服と、停めてある馬車を指して話をしている。

 春香を都に連れて行く打ち合わせをしているのだろうか。そう思うと、腰がむずむずしてじっとしていられない。忍び足で階段を下りると、ウィルタはロビーの隅にある人造石の塑像の後ろに体を滑り込ませた。

 ほんの十歩足らずのところに、春香は腰掛けている。ただこの位置からだと、春香は横向き、おまけに側に黒服が立っているので、声をかけることはできない。

 どうやればと考えて、ウィルタは春香のすぐ横、壁に取り付けられた大鏡に、人造石の塑像ごと自分が映っていることに気づいた。同じ鏡のなかに春香の姿もある。

 ウィルタは、ゆっくりと手を動かし始めた。シクンの手言葉である。

 教えた言葉は少ない。それでも、どうしても知っておいてもらいたい言葉は、体全体を動かして教えたつもりだ。覚えておいてくれることを願って、ウィルタは、その動作を繰り返す。トイレ、トイレ……と。

 ぼんやりとしていた春香も、視界のなかで何か動くものがあることに気づいたのだろう、うつむき加減の顔を上げた。鏡を介してだが、視線が重なったとウィルタは感じた。

 春香はさりげなく頷くと、ゆっくりと椅子から腰を上げた。

 黒服の前に立ち「ト、イ、レ」と口にする。もう一度「ト、イ、レ」と告げて、指先を前後左右に振る。黒服の隊員が、笑って中央の連結棟に腕を向けた。

「後ろの建物の左側だ。分かるか、そこの通路を奥に行って、左に曲がるんだ」

 春香は確かめるように「奥、左、ト、イ、レ」と復唱すると、説明してくれた隊員の手を取った。

 隊員は苦笑いをすると「いいから、一人で行ってこい。俺はここに立っているのが仕事だ」と、進む方向を示すように春香の体を連結棟に向けた。隊員にしてみれば、官舎の裏にも見張りの隊員は配置されている。それに、この言葉もたどたどしい夢遊病者のような少女が、逃げ出そうとしているとは思いもしなかったのだろう。

 春香は首を縦に振ると、ゆっくりと連結棟に歩を進めた。

 渡り廊下のような通路を抜けて後棟の官舎に。先に二階の通路を渡ってきたウィルタが、階段の下り口で待っていた。ウィルタが早口でささやく。

「ここにいると危ない。都に送られて実験台にされて、メチャクチャにされてしまう。逃げよう」

 春香は「了解」と手の平を動かすと、そのまま「出口、は」と聞いた。

 ウィルタが拳を自分の頬に打ち当てた。トイレの窓から外に出ようと考えていたが、一階のトイレに窓があるかどうかの確認をしていなかった。一階の窓は格子の入っていることが多い。もしそうだとすれば窓からは出られない。

 ウィルタが黙っていると、春香がウィルタの手を引いた。階段の上から足音が近づいてくる。二人は反射的に通路を奥に走ると、柱と柱の間に身を寄せた。

 階段から降りてきたのは、設計図らしき紙の束を抱えた男だった。幸いその技術屋風の男は、連絡棟を挟んで二人のいるのとは反対側の部屋に入った。そしてその時には、二人は通路の突き当たりにある小さな扉に目を向けていた。非常口だ。

 足音を殺して非常用の扉に走り寄る。ところが扉には大きな南京錠が。

「だめだ、鍵がかけてある」

 ウィルタが口走る横で、春香がすっと扉の上に手を乗せた。

 足元にカチャリと音をたてて鍵が落ちる。

「よく、カギ、そこ、置く」

 春香が片目を瞑ってみせた。

 錠を外して扉を開けると、そこは隣家との間の狭い通路だった。左は表通りへ、右は奥で行き止まりになっているが、途中に左に曲がる隘路らしきものが覗いている。

 背後から聞こえる声に押し出されるように、二人は外に出た。通路を右に。行き止まりになる少し手前に、やはり隘路が口を開けていた。半身になって進まなければならないような狭い隙間道だが、二人は足を止めずに建物の壁と壁の間に潜り込んだ。隘路から隘路へ。いつもは困りもののユカギルの迷路道だが、今日に限っては感謝の一言。

 太い路地に出た。ウィルタは頭に町なかの地図を描くと、通りを挟んだ向かい側の路地へと駆け込む。これでもう表通りに出ることなく酔騏楼までたどり着ける。

 横目で春香を見やると、急ぎ足の自分と同じテンポで足を動かしている。昨日までのぼんやりとした人物とはまるで別人だ。

 その伸びやかな動きに、ウィルタはホッとして声をかけた。

「町長さんたちに伝えなければならないことがある。春香ちゃん、走れる?」

 足を緩めることなく春香が「わた、し、走る、好き」と、はっきりした声で答えた。

「よし、じゃ走る」と言うなり、ウィルタは細い石畳の路地を駆け出した。

 後ろを、春香が短い三つ編みの髪をなびかせて追う。

 走るウィルタの脳裏に、さきほど首ぼくろの男が口にした、ハンという言葉が蘇ってきた。とても懐かしい響きをもった名だ。いったいどこで聞いた名だったろう。

 そう思っていると、ウィルタの目を覚ますように前方から声がした。

 見ると春香の背中が、数メートル先を走っている。

「いけない、今は余分なことを考えてる時じゃない。早く皆に相談して、オバルさんを救い出さなきゃ」

 ウィルタは、自分で自分を叱咤すると、前を走る春香に呼びかけた。

「次の角を左、三十メートル先の宿屋!」

 了解とばかりに、春香が後ろ手に指を丸めた。


 その頃、接収隊の本部の置かれた官舎では、指揮官のダーナが、二本ひげの次官と部下数人を交えて、今後の作業日程についての打ち合わせを行なっていた。打ち合わせが一段落したところに、オバルをいたぶっていた首ぼくろの隊員が姿を見せる。

 ダーナが、話せとばかりに首ぼくろの隊員にペンを向けた。

「あのノッポの男、思ったよりもしぶといですね。なかなか口を割りません。いかがいたしましょう、自白剤を使うという手もありますが」

 渋い顔をしてダーナがペンを左右に振った。

「使い道を誤れば、あの薬はかなりの確率で人間を廃人にしてしまう。素人だが、あの男の古代語の知識は使える。ファロス計画の再開に当たっては、残しておきたい人材だ。もう少し痛めつけてみろ。ただし手と目は怪我をさせるな、仕事に支障が出る」

 首ぼくろの隊員は嬉しそうに体を震わせると、敬礼をして部屋を出ていった。

 オバルに関する報告で思い出したのだろう、ダーナが隣に座っている平服の女性に尋ねた。都の調査部のスタッフである。

「オバルの持っていた魔鏡帳から、何か情報が引き出せたか」

 上司の質問に、平服の女性調査官は書類を見ることなく答える。

「まだ検索中ですが、チャクラチップに記録されていたのは古代の情報だけで、今のところ、オバルが新しい情報をそこに書き込んだ形跡は見つかっていません」

「そうか……」

 ペンの動きを止めダーナは何か考えたようだが、直ぐに「博士の母親はどうなっている」と、次の質問を繰り出した。

「監視は怠らないようにしています。三カ月ほど前から人を配置して見張りを続けていますが、ハン博士らしき人物と接触した様子はありません。通信、郵送物に関しても、特に不審な点はなし。総監、泳がせておけば、いずれ博士が姿を見せるのではと、今まで距離を取って見張ってきましたが、一度絞め上げて、知っていることを吐かせるのも手かと。いざとなれば薬を使ってでも……」

 部下の発言を途中で遮ると、ダーナがきつい調子で申し付けた。

「調査部は頭を使う部署だろう、薬に頼っていてはいい仕事ができんぞ」

「はっ、失礼しました」

 ダーナは部下の返事を聞き流すと、「自白剤か、そういえばあの薬は、当のレイ自身が開発したものだったな」と呟き、決断するようにペンを自身の仮面に叩きつけた。

「泳がすのも潮時か。分かった拘束する。オバルと一緒に都に搬送しろ」

「すぐに手配します、それから…」と、調査官が報告書の一枚を取り上げた。

「まだ何かあるのか」

「医師のレイは、体を病んでいるようです」

「彼女がか、さっき見かけた様子では、元気そうだったが」

「表向きはそう装っていますが、監視の者が、何度か血を吐いたのを目撃しています」

「労咳か?」

「いえ薬です、安定剤を多様している様子です。それからアルコールも」

 アルコールと聞いて、ダーナがペンを額に当てた。医薬師のレイは、昔、都の戒酒院で理事を務めていた。そのことを思い出したのだ。

「そうか、あのアルコール嫌いの女医がな。ミイラ取りがミイラになったか」

 そう話すダーナの目が、書類のある項目で止まった。

「レイが町の外に何度か足を運んでいる、これはなんだ」

 これには二本ひげの次官が答えた。つい先程、部下から報告を受けたばかりのことだ。

「盆地の東斜面の谷に、シクン族のミトがありまして、治療に使う伝統薬の調達に出向いていたようです」

「古代人の少女のいた仮住村だな。しかし足の悪い女医が、わざわざ出向いてまで調達する必要のある薬が、そんなところにあるのか」

「さあそこまでは……」

「その仮住村に、シクン以外の者は?」

 問われた次官が、手持ちの書類に目を走らせる。

「あの少女以外は特に、あっ、でも、シクン族かどうか分かりませんが、孤児の男の子が一人います」

「孤児、どんな孤児だ」

「男子で、年令は十三才、名前はウィルタとあります。何でも、十年程前に仮住村内に置き去りにされていたそうで、両親は不明とのことですが」

「十年前のいつだ」

「正確な月日までは……」

 ダーナが仮面にペンの背を押し当てたまま、鋭い目つきで次官を睨んだ。

「ちょうど、博士が息子を連れて身を隠した時期と一致するな」

「その子がハン博士の息子だと」と、次官ではなく調査官が身を乗り出す。

 ダーナが、その場にいる全員を詰問するように声を高めた。

「そうは言わない。しかし子供を捨てるとき、わざわざシクン族の穴蔵の前に置き去りにするか。私なら経堂の前に置いていく。すぐに、その子供と養母を連行して確かめろ」

 くぐもった大きな声が、狭い会議室に反響した。



第十七話「ムルティ・バウ」・・・・・・・・・・第二十五話「パルリ氷湖」・・・・

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