表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星草物語  作者: 東陣正則
15/149

移転


     移転


 春香に心が目覚めて二日目、マトゥーム盆地の谷間に静かな朝が明けた。

 この夏初めての霜が降りていた。ミト・ソルガの一行は、今日の正午をもって板碑谷を撤収、新たなミトに向けて出立する予定である。

 シーラは、春香の寝床の横で編み物をしていた。

 昨夜、シーラはウィルタに告げた。

 まもなく自分が一族の丞師となり、ウィルタと離れて暮らさなければならなくなるということ。ウィルタが来春の成人の儀までに、曠野の暮らしと町での暮らしのどちらかを選択しなければならないということの二点をだ。ただし、ウィルタの父親のことと、レイ先生がウィルタの祖母であるということは、口にしなかった。それはウィルタが将来のことに結論を出してから伝えるべきだと考えた。

 シーラが丞師に……と聞くと、さすがにウィルタも驚いたようで、まるで他人を見るような目でシーラを見た。当たり前といえばそう、次代の丞師の候補にシーラの名が挙がったことなど、一度も無かったからだ。それにウィルタにしてみれば、まずシーラに占術の能力のあることが信じられなかったようだ。

 占事の能力は歳を経てから花開くものなのと、シーラは、はぐらかすように答えたが、ウィルタは丞師継承のことを冗談と受け取った。自分を突き放し、町で暮らすように仕向けようとして付いた嘘ではないかと疑ったのだ。

 そんなウィルタを見て、シーラは今まで伏せてきた、自分が丞師の娘であることの証しとして耳に付けている耳飾りの由来を、話して聞かせた。シーラが左耳に付けている水紫色の逆巻き貝の耳飾りは、シーラの母ミルラが、丞師となって別れる際に形見として娘のシーラに渡したものだ。今の丞師の右耳には、同じ耳飾りの対の物が付けられている。日頃、丞師は頭から首をすっぽりとショールで覆っているので、耳飾りを目にすることはない。しかし、どうしてもウィルタが確かめたいというのなら、丞師に頼んで見せてもらえるよう計らいますとまで、シーラは言った。

 ウィルタにとってはショックだった。

 近い将来、町から離れてしまうことは覚悟ができていた。ところが、まさかシーラと別れ別れになって、それも自由に話すこともできなくなるとは……。

 その夜、ウィルタは就寝のあいさつを忘れた。

 窓辺で最後の片づけをするシーラに、寝床の中でウィルタが考えこんでいる様子が、乱れた息遣いを通して感じられた。

 頭から毛布を被り、ウィルタは、まんじりともせずに毛布の中の闇を見つめた。結論は年が明けてからでもいいと言われた。ただそれまでに結論の出る問題なのだろうか。それが分からないことが、ウィルタを不安にさせていた。

 いずれ曠野か町の暮らしのどちらかを選ばなければならないということは、理解していたし、理解したつもりでいた。欲張りかもしれないが、板碑谷での暮らしのように、自分はどちらも選べるような生き方をしたいと思っていたのだ。

 時間をかけて考えれば、何かいい方法が見つかるのではと、淡い期待を抱いていた。

 それがミトの移転とシーラの丞師継承という事態で、現実の問題となって、直ぐにでも結論を出さなければならなくなってしまった。あまりにも突然の展開で、どうしていいか分からない。どう考えればいいのかが分からなかった。

 来年の夏には、成人の儀としての曠野の一人暮らしが待っている。

 儀式を済ませ、大人の男の仲間入りをすれば、町との接点はなくなる。シクンの暮らしで町との関わりを持つのは、薬苔を作っている女たちで、男は一人毛長牛を連れて曠野で暮らす。家族のいるミトに顔を出すのは、月に三分の一ほどで、町の人間に会う機会といえば、荷の搬送で女たちに随伴する交易市の時くらいだ。男は老いて一人で暮らすことができなくなるまで、そういう生活を続けることになる。

 いやそんなことよりも、シクンの男として生きていくということは、毛長牛を飼い、星草の種を挽き、シクンの娘を伴侶にもらって、子供を育て、やがて曠野で老いていくということだ。そんな暮らしが自分にできるだろうか。技術的なことではない、曠野での営みを日々営々とこなしていく生活を、四十年、五十年に渡ってやり続けることができるかということで、それはとても忍耐を必要とすることだ。

 でも……、だからといって、曠野の暮らしと比べて町の暮らしが楽で、自分に向いているかというと、一概にそうとは言い切れない。

 町での暮らしも、あれはあれで大変なことだ。それはタタンと付き合うなかで見えてきた。第一、自分のように曠野で育った人間が町で暮らしていこうとすれば、どんな仕事をやればいいのか。何もかも、一から学び直さなければならない。それに経堂の礼拝や読経にも、毎日顔を出さなければならない。経堂に足を運ぶのは、町の人間であることの証のようなものだからだ。

 シーラさんは言ってくれた。もしぼくが町での暮らしを希望するなら、それなりの人にあなたを預けて、成人まで面倒を見てもらえるように手配します。だから心配しないで、自分がどちらの生活をしたいか、しっかり考えて判断しなさいと。

 でも、たとえシーラさんが手配してくれなくても、パーヴァさんなら自分を引き取ってくれるだろうし、それに踏ん切りさえつけば、経堂は身寄りのない人を世話してくれるから、経堂に転がり込むということだってできる。

 けれど、もしぼくが町の人間になってしまったら、それこそ曠野の奥で暮らすみんなとは会えなくなってしまう。それにわざわざ曠野に出向いてミトを探し当てたとしても、丞師になったシーラさんとは、話をすることも許されない。

 いったいどうすれば……。

 頭の中で、固乳作りの攪拌棒が回っている。しかしいつまでたっても頭の中のミルクは固まらずに揺れている。そのまま腐って頭の中が発酵してしまいそうだ。

 インゴットさんは、結論がすぐに出るような問題は考えなくても答えの出る問題で、どうでもいい問題。シクンの男は曠野で一人、結論の出ない問題と向き合うのだと言う。でも、いま結論を出さなければならない場合は、どうすればいいのか。大人は子供の前で格好良く哲学を語る。でも哲学なんて、実際の問題の前じゃ何の役にも立たない。大切なのは自分の気持ちだ、でもその気持ちが分からない。見えない。

 堂々めぐりを続ける頭の中を覗くのに疲れて、ウィルタは、とにかく明日の朝一番で、タタンにお別れだけは言いに行こうと、そのことだけを決めた。どちらにせよ、明日はもうこの地を離れるのだ。最後は、その言葉だけが頭の中を回っていた。そして結論の出ないまま、ウィルタは疲れて眠ってしまった。

 そうして、ウィルタの疲れた寝息を聞きながら、シーラもまた遅い眠りについた。


 朝になった。

 窓の外に、霜に当たって色づいた苔の広がる谷間が覗き、目を細めれば、遠く盆地対岸のユカギルの町では、朝餉の煙が幾筋も斜めに棚引いている。

 荷の梱包はすでに昨日のうちに終えている。ウィルタは、最後、小屋の中に敷いていたフェルトの敷布を丸めて荷橇に縛りつけていた。その作業の音を聞きながら、シーラは落ち着かない気持ちを宥めるように、やりかけの編み物を取り出し手を動かしていた。

 傍らで声がした。

「その…、編み、込みの…、模様…、とて…、も…、きれ…、い」

 春香だった。剥き出しになった窓際の土台の上で、毛布を体に巻きつけ眠っていた春香が、体を起こしてシーラの手元を見ていた。ごく普通の少女の目がそこにある。

 しばし返事をせずに、シーラはその黒い瞳を見つめ返した。

「その…、模様…」と、もう一度春香が口にした。

 言葉を受け留めるようにシーラは微笑むと、セーターを広げて見せた。

「私たちの一族ではね、代々母親が娘に、その家に伝わる編み込みの模様を伝えるの。いま私が編んでいるのは、星草と呼ばれる模様。分かるかな、おばさんの言ってること」

 春香はコクンと首を上下させると、シーラの言葉を繰り返した。

「星…、草…」

 喋ると目がクリクリと動く。いかにも十代初めの、好奇心に満ちた女の子の目だ。

 その目を見ているうちに、シーラは胸の内に嬉しさが込み上げてきた。

「ええ、星草よ。夜空に光る星の星。この星草という草は、じめじめとした湿地に生えていて、花は咲かないし実は埃のように小さくて、集めるのも大変なら、食べるには面倒な手間をいくつもこなさないとだめなの。おまけに槍のような硬い葉には、毒の刺をいっぱい付けていて、手をケガすることもよくある。でもそんな誰からも好かれそうにない草が、星草という素敵な名前をもらっている。どうしてだと思う。星草はね、夏の終わりの一時、葉の先端が輝くの。星のようにキラキラと。だから星草。湿地に群生した星草の草原が、いっせいに輝く様は、まるで星空を地面に映したようで、それは綺麗なものよ」

 シーラが少女の頃に戻ったように若々しい笑みを浮かべて話す。

「養母がよく言ってたわ。どんなに取り柄のない娘でも、きっとどこかに、みんなから愛されるところがあるもの、それを信じて頑張りなさいって。そう言って、私にこの模様を教えてくれたの」

「いい…、お…母…さん…、です…ね」

 シーラが謙遜するように肩をすぼめた。

「ふふ、血の繋がった母さんじゃなかったから。それに私、問題児だったの。だからお互い適当に距離をおいて付き合っていたのが良かったのかな。あら、ごめんなさい、お母さんの話題なんか出して」

「あっ、気に…、しない、くだ、さい…、昨日、たっぷり…、泣く、した…、それに…、わたし、の…、取り柄、もの、忘れ…、とても、いい」

「アハハ、私とおなじね」

 シーラが声を出して笑うと、春香も笑顔になった。笑うと左の頬に、えくぼができる。陰欝な表情の春香しか見ていなかったシーラは、春香が初めて見せた少女らしい表情に、ほっとしてまた明るい笑い声をたてた。

 笑いながら不思議な気がしていた。言葉が途切れ途切れになることを除けば、春香との会話は、まるでシクンの子供と話しているのと変わりがない。あたかもシクンの少女が冷凍睡眠から覚めた感じなのだ。そんなことがあるだろうか。

 しかし、そんな疑問もなぜかあまり気にならなかった。

 春香の明るい笑いにつられて、シーラも笑った。いや笑いたかった。

 この数日、重苦しい気持ちが自分を支配していた。丞師拝命のこと、ウィルタのこと、ミトの移転のこと、それらを一時でいいから忘れたかった。その思いが笑いにすり替わって、口から溢れてきた。

 二人がくすくすと笑い声をあげているところに、戸口からウィルタが鍋を持って入ってきた。鍋を洗うために、中に残っているスープを食べてくれというのだろう。

 ウィルタが笑みを浮かべた春香を見て、不思議そうに首を傾けた。ウィルタの頭の中には、昨日の獣のように泣き叫ぶ春香の姿が、強烈な印象となって刻みこまれている。どう見ても、いま笑顔を見せている少女が、別人としか思えなかった。

 首を捻りながらウィルタが「さっき、話をしてたよね」と聞くと、「そうよ、春香ちゃんが、喋れるようになったの」と、シーラが嬉しそうに傍らの少女を指した。

 まさかという顔で春香を見つめるウィルタの前で、当の春顔は、まだコロコロと笑い続けている。「それがね」と、シーラがさらに話を続けようとしたところで、寝台の上の春香が、ピタリと笑うのを止めると、真顔になって姿勢を正した。

 何事かと春香の方を向いたウィルタとシーラに対して、春香は伸ばした背筋をペコッと前に倒した。鍋から立ち昇る湯気が、春香の動きに合わせて前後に揺れる。

「わたしの…、名前…、はるか、春香です…、十三、才、わたし…、遠い、昔、から、来た、よう…、まだ、夢の、なか、だけど…、よろ、しく…、お願い…、します…」

 春香の杓子定規な挨拶に、今度はシーラが笑い声をたてた。

「アハハ、じゃあこのウィルタと同じよ。この子も、起きていても夢の中でも、いつだってぼんやりしてる子なんだから」

「ひどい紹介だよな、シーラさんだって、いい歳なのに、見栄張って髪染めてさ」

「この髪には訳があるの、それに、いい歳は余計よ。あなたのたった三倍じゃない」

「オエッ、生きた化石」

 ウィルタが、大げさに口を開けて舌を突き出した。

「そう、か…、おば、さん、の、名前、シーラ…、だった、わね…」

 たどたどしく言葉を繋ぎながら、春香がシーラをまじまじと見つめる。ウィルタとシーラが、何事かと、春香の反応を待ち受ける。

 春香が、慌てて二人の興味を打ち消すように手を払った。

「ウィルタ、さん…、生きた、化石、と、言った…、だか、ら…」

「だからなに、私の顔が化石みたいだと思ったの」

 シーラが憮然とした声を返すが、しかし声とは別に目は笑っている。

「違う…、わたしの、時代…、生きた、化石…、そう、呼ば、れる、魚、いた…」

「あっ、分かったぞ。その魚の名前が、シーラって名前なんだろ」

 ウィルタが目を輝かせて、身を乗り出した。昨日からあれこれ考え過ぎて、頭の中のネジが、ガチガチに締まっている。それを今は、大声でも上げて巻き戻したかった。

 ウィルタの勢いに、春香は体を後ろに反らしながら、小声でその名前を口にした。

「ええ、シーラ、カン、ス…、その、魚…、の、名…」

「アハハハハハ」

 ウィルタの特大の笑い声が、狭い小屋にこだまし、明け放たれた戸口から外に拡がる。

 シーラが、今度こそ憮然としてウィルタを睨んだ。

 構わずウィルタが、腹をよじる。

「ユカギルの町長さんが言ってたよ。名は体を現わすってね」

 タガが外れたようなウィルタの大笑いに、シーラが何か言い返そうとした時、パーンという乾いた音が、扇状地の谷間の先から聞こえてきた。ユカギルの町の方角だ。

 シーラが虚空を睨み「銃声……」と、声を伏せる。

 数秒の間をおいて、次の銃声が朝の冷気を震わせるように伝わってきた。

 窓の外された四角い石積みの枠の向こうに、見通しの良い風景が覗いている。

 それに今朝は、朝一番の風で空気が澄んでいる。

 ウィルタは跳ね起きるように窓から頭を突き出すと、谷間の先、ユカギルの町に目を向けた。右手の小屋からナムが走り出て、扇状地の前方で視界を塞ぐ館岩の上によじ登ろうとしている。館岩は盆地を見下ろすように突き出た巨大な板碑石で、その突端でナムが遠眼鏡を取り出した。ナイフの代わりに買ったものだ。

 シーラが何か言おうとする前に、ウィルタは小屋を飛び出していた。シーラは、春香に小屋の中にいるように言い聞かせると、ウィルタの後を追って外に出た。

 セヌフォ高原に暮らす人々は、町の住人も、牛を追う牧人も、銃など持たない。銃は都の警邏隊など、特別の職務の者しか手にしないものだ。それは銃や銃弾が高価な物であるということと併せて、殺しあうような争いが、ほとんどなかったことに因っている。護身用の道具は、もっぱら刃物の類か、狩猟用の強弓に限られる。つまり朝の銃声は、それ自体、かなり特別なことが起きたということだ。

 シーラは、酒による諍いが高じての発砲騒ぎではないかと踏んでいた。ところが事態はその予想を超えていた。銃声が、また何発か立て続けに盆地の上にこだます。

 遠眼鏡の焦点を調節していたナムが、脇を締めるようにして手の動きを止めた。

「軽便鉄道の貨車から、ゾロゾロ人が下りてくる。ダニの行列みたいだ」

 実況放送のように興奮して喋るナムに並んで、ウィルタも目を凝らす。

 石炭を運ぶ軽便列車の貨車から、黒い服装の連中が列をなして下り立ち、焙暘門の前では先に到着した黒服たちが、町の外に出ようとする人たちを、門の内側に押し返そうとしている。ウィルタの視力は、ミトの中でも一二を争う。目を凝らすうちに、黒服たちが手にした棒のような物が、明瞭な形となって見えてきた。

 遠眼鏡を目に当てたまま、「長胴銃だ!」とナムが叫んだ。

「ユルツ国の警邏隊だな」

 後ろでインゴットの声がした。振り返ると、インゴットが双眼の遠眼鏡をユカギルの町に向けていた。いつの間にか、館岩の上にミトの面々が姿を見せていた。

「警邏隊って?」

 ちびのピッタが母親のモルバに尋ねる。どう答えようか口ごもるモルバに代わって、ナビバの亭主が「銃で牛を扱う下品な連中だ」と吐き捨てた。

「牛は人のこと、ユルツ連邦の治安を任されている連中だ」

 インゴットが遠眼鏡をナビバの亭主に渡しながら、言い直した。

 また銃声、重なるように人の悲鳴も朝の冷気に乗って伝わってくる。

 何か良からぬ事が起きたに違いない。曠野に散っていた男たちが、夜のうちに荷造りのためにミトに戻っている。その男たちが口々に何か言い合う。

 インゴットが丞師と何か相談、と老齢の丞師が館岩の前に歩み出て、ミトの面々に呼びかけた。老いた女とは思えない、声量のある声が小さな谷間に広がる。

「われらは八年の前、天啓によってこの地に移り住んだ。ここは辛うじて曠野の縁、それに対岸の町の井戸もカラカラに乾いておった。じゃが町に火が蘇った。この地はすでに熱い地、曠野ではない。シクンには相応しくない。留まればいずれ我らに災厄が降りかかる。その前触れがあれだ。みな急いでこの地から離れるのだ」

 丞師の言葉を受けるように、インゴットが続けた。

「正午をもってこの地を離れるつもりだったが、予定を早める。今が七の刻、すぐに屋根落としを済ませよ。九の刻には出立の祓いを行い、この地を撤収する」

 重石のするインゴットの声を耳に受け止めながらも、ウィルタは目を離すことなく、ユカギルの町を見つめていた。そして考えていた。九の刻出発なら、まだ二時間以上ある。ここから町までは、急いで走れば二十五分。往復に一時間はかからない。荷物の梱包は終えているから、あとは荷橇に積むだけだ。タタンに挨拶をする余裕はある。それに町で起きていることを確かめる時間も。

 インゴットの一声で、急き立てられるように一同が各自の小屋へと散って行くなか、ウィルタはヒョイと館岩を逆の側に下りた。そこにシーラが立っていた。

 シーラがウィルタの手首を掴むや、厳しい口調で言った。

「いけません、町に行っては。タタンに挨拶をするなら、誰かに伝言を託しなさい。どうしても会いたければ、また日を改めて」

 厳しい表情で自分を見つめる養母を、ウィルタも見つめ返した。いつもの柔和な目ではない、初めてみる険しい目がそこにあった。それに手は、がっしりと自分の手首を掴んでいる。経験したことのないような力、大人の力だ。

 シーラには事態がある程度予想できた。ほかのシクンの女では分からなかったかもしれないが、シーラはかつて町の青年と関わりを持ち、今は薬苔の売り渡しを一手に引き受けている。ミトの構成員の中では、町というものを一番理解している。

 ユルツ国の警邏隊が早朝から押し掛けてきたということ、それはつまり熱井戸を接収しに来たということだ。かつて熱井戸を巡って争いが繰り返された時代があった。争いは人の命を喰って育つ。いま町に行けば、必ずその争いに巻き込まれる。シーラの知識と巫女としての本能が、そう予感させた。

 この子を絶対に町に行かせてはならない。

「いてて、シーラさん、手首が……」

 顔をしかめたウィルタの声で、シーラは握り締めていた手を緩めた。その瞬間、するりとウィルタの手がシーラの手から抜け落ちた。

 離れたと思ったその時、シーラとウィルタの目が合う。

 ほんの数秒だったろうか、養母とその息子は互いの目を見つめ合った。

「ごめんなさい、九の刻までには戻るから」

 振り切るように言うと、ウィルタは振り向くことなく、川沿いの道を盆地の底に向かって走り下りていった。

それをシーラは呆然と、そして同時に仕方ないものと見ていた。


 しばらく後、ウィルタは町の高石垣の側までやって来た。東側の天廻門に黒服、つまり警邏隊員の姿が見えたので、町の北側、半夏門手前の石炭の搬入口を目ざす。

 そのウィルタが町に到着した頃、板碑谷のミト・ソルガでは、予想外の事が起きていた。

 尾根筋の牧人道から、ユルツの警邏隊員たちが下りてきたのだ。黒服たちは、屋根落としをしていたミトの女に銃を突きつけ、シーラの小屋に案内させると、有無を言わせず春香を引き立てた。

「娘をどうする気だ」

 インゴットが立ちはだかるが、黒服たちは「我々はユルツの警邏隊。上官がこの娘に会いたいと言っているので、連行する」と居丈高に言い放つや、インゴットの腹を銃の柄で突き上げた。

 インゴットが膝を着く。駆け寄ったシーラが黒服たちに請う。

「その娘はまだ冷凍睡眠から目覚めたばかりで、体の調子も思わしくないの。どうしてもというのなら、だれか付き添いを同行させて」

「用が済めば帰す、安心しろ」

 断られるとは思いもしなかったのか、シーラが声を詰まらせた。

 黒服たちは銃をかざして威圧すると、これで用は済んだとばかりにミトに背を向けた。

 肩を怒らせた歩き方が、反抗すると容赦をしないといっている。

 脇腹に手を当てたインゴットが、顔をしかめながらもナムを手招きした。

「ナム、ここにいるメンバーでは、お前が一番町に詳しい。お前、黒服たちに見つからぬよう後を付けろ。娘がどこに連れていかれるか、見届けてこい。もしウィルタと会ったら、一緒に行動しろ。いいか日没までに戻ってこい。出立は予定どおり行うが、後発の者を数名残して待っている。分かったら行け」

 そう耳打ちすると、インゴットは思いついたようにナムの服を指した。

「継ぎの少ない服で行け、町では目立つ」

「そんなこと言ったって……」

 突然の大役を言いつけられたナムが、自分の着ている服に目を落とした。確かに、つぎはぎのポンチョや派手な編み帽を被っていては、一目でシクンの者と分かってしまう。

 困惑するナムに、シーラが一寸待つよう声をかけ、自分の小屋に走った。

 戻ってきたシーラの腕に、小綺麗な無地の服が抱えられていた。ウィルタが町に戻ることを選んだら着せようと用意していた町人の服だ。ナムには少し丈が短いし、それに曠野の服と違ってボタンが付いている。しかし今はそんなことを言っている場合ではない。ナムが麦苔織りのズボンに足を通し、ジャケット風の上着のボタンをもどかしそうに填める。

 数分後、シーラやミトの仲間に見送られ、急ぎ足で尾根道に向かうナムの姿があった。

 シーラが強ばった声でインゴットに話しかけた。

「黒服たち、あの娘を連れて行って、どうしようというのでしょう」

 蘇生した古代の人間が高価に取引されるという話を耳にしたことがある。春香がユルツ国に連行される様子が目に浮かぶ。

 ユカギル程度の大きさの町だと、宗教や民族が違っても、それほど露骨な差別は行われない。ところが都の住人と曠野に暮らす民の間では別だ。都の住人は、曠野の人間を蔑視している。それが先の黒服たちの行動に現れている。春香が町の娘で、ここがシクンの集落でなければ、彼らは絶対にああいう態度は取らなかっただろう。ちゃんとした説明や、書類の一つでも示したはずだ。嫌な噂、古代の人間が研究材料にされるという話が思い浮かぶ。春香が途切れ途切れにでも言葉を話すなら、彼らは必ず春香を都に連れて行くはず。言葉が喋れるまでに蘇生した古代人など、滅多にいないのだ。

 シーラの腕を、インゴットが上から押さえた。

「行くなよ、心配なのは分かる。しかし大人が行くと問題が大きくなる。今は様子を見よう。必要とあらば、ミトの移動は皆に任せて、ここに残ることだってできる」

 シーラはユカギルに目を向けたまま、「ええ」と小さく首を縦に振った。

「縁あって、ここに来た娘だ、できる事はしてやりたい」

「私もそう思います」

 シーラの不安をよそに、ユカギルの町の上空では、熱井戸から白い蒸気がユルユルと立ち昇っては消えていた。


 ウィルタは石炭の搬入口から町の中に入った。

 酔騏楼には誰もいなかった。

 広場の方角から、人のざわめきが聞こえる。すでに住人のほとんどは、広場に集められたようだ。ウィルタは家と家の間の隘路をたどって、人で埋め尽くされた広場に入った。

 先日の開通式の時以上の混みようだが、一つ決定的な違いがある。それは広場が喜びではなく、不安と猜疑の心で占められているということだ。

 人混みを縫うように走るが、人が多過ぎてタタンが見つからない。広場に集められた人の半数以上は、祭りの後もユカギルの町に残り、祝宴を続けていた近在囲郷の人たちだ。集められた三千人余りの人々が、突然の出来事に何が起きたのかと、声を低めて互いの憶測を話し合っている。そのざわめきが止んだ。

 警邏隊員とは異なる灰緑色の官服を着た人物が、祝典の行われた演壇の姿を見せた。周りにいる連中の対応からして、その人物が黒服の代表らしい。

 その指揮官らしき人物が演壇の階段に足をかけると、前方がざわめいた。横向きの体形から女と分かったのだ。好奇の目が注がれるなか、指揮官が壇上で正面を向く。一転、また静かな緊張が広場を支配する。指揮官の顔の左半分を、銀色の仮面が覆っていた。仮面というよりも、顔の起伏にぴったりと合わさった金属製の皮膚といってもいい。

 十年前の惨事で顔に火傷を負った女性がユルツ国の政界に進出したという話は、ユルツ連邦の多くの人の知るところである。

 名前までは定かでないが、どうやらその人物らしい。

 無機質の銀色の皮膚が日の光を反射して冷たく光り、くり貫かれた仮面の眼窩の奥、切れ長の目が、睥睨するように群衆を見下ろしている。

 その仮面の指揮官は、沈黙した群集に向かって、右から左、左から右へと嘗めるように視線を巡らせると、仮面に相応しい無機質な声をマイクを通して響かせた。

「私はユルツ国警邏隊分隊の責任者です。ユカギルの皆さん、早朝から皆さんにこのような形でお集まりいただいたのは、他でもない。ユルツ国政府からこの町の熱井戸に関して、重大なお願いがあったからです」

 発言を待っていたように、最前列の一人が野次を飛ばした。

「あんたは、人に頼み事をする時に銃を向けるのか」

 仮面の下の口が心得たように笑った。

「必要とあらば、その銃を撃つこともです。簡潔に言います。ただ今より、ユカギルの熱井戸はユルツ国の直轄、採掘と利用の権限はユルツ国に帰属します」

「ばかな!」

 群衆の間に、驚きと非難の入り混じったどよめきが起きる。

 坑夫姿の男が激した声で叫んだ。

「新しい熱床を掘り当てたのは我々だぞ。俺たちは、ユルツの連中に何の援助も受けていない。町の住人が資金を出し合い、やっと掘り当てた熱床だ」

そうだそうだという賛同の声が、一斉に沸き起こる。

 町長のタルバガンが、太い餅腹を揺すって群衆の前に進み出ると、体型に見合った朗々とたる声を張り上げた。

「わしは、この町、囲郷ユカギルの町長のタルバガンだ。ここに集められているユカギルの住民に選ばれた町長、もちろんユルツ連邦からも認められた行政の長だ。わしは連邦府から何の通達も受けておらん。いったい誰が、そのような決定を下したのだ。この大陸では、連邦は国を奪わず、国は囲郷を奪わず、すべての国や囲郷は行政上も財政上も自立した存在であり、その権利を保証される一個の個人のようなもの。成りは小さくとも、ここも国、誰からも介入される謂れはない」

 仮面の指揮官が冷ややかに返す。

「もちろんだ、今はな。しかし古の法は生きている。ここがユルツ連邦の古国に属していた時、熱井戸の開発を行ったのはユルツ国。それ以来、管理者である囲郷ユカギルへの正式な委譲の手続きは行われていない。法の改定もなされていない以上、井戸の所有権はユルツ国にある」

 全くのこじつけ。町長の顔が赤らむ。

「ばかな、古の法は現実に機能している法ではない。慣習的にどこの熱井戸も、その土地の住人の所有管轄になっているではないか」

「小さな井戸の場合はそうだろう、しかし状況は変わったのだ」

 そう言い放つと、仮面の指揮官は腰から小銃を引き抜き、群集の頭上に向かって引き金を引いた。静まり返った広場に、銃声の余韻が、ユルツ国の傲慢を押し広げるように幾層にも伝わっていく。指揮官の高圧的な声が続く。

「これは決定したことだ。ユルツ国はこれから進める国土復興計画に、この町の熱井戸を必要としている。直ちに井戸の返還を要求する。連邦府の大審院も、すでに我々の正当性を認めた。もし反対するなら、実力をもってでも井戸を接収させてもらう。そのことを伝えるために、今日このような形で皆さんに集まってもらった」

 我慢できないとばかりに罵声が上がる。

「何が正当性だ、要は人の努力を掠め取ろうという事だろう」

「権利の行使です。ただし管理者である町の住人への配慮は行うつもりです。我々はこれから行う工事に、人材と資材を必要としています。ユルツ国は、ユカギルとその周辺地域から、優先的に人材を登用する予定。むろん応分の賃金も支払われます。当局は、皆さんが進んでこの事業に協力することを期待します、以上」

 畳み掛けるように言うと、仮面の指揮官は群衆を一瞥、ゆっくりとマイクの前を離れた。

 とその時、群衆の頭上から、聞き覚えのあるしゃがれ声が降ってきた。

「野郎、井戸の熱を使って、昔の計画を再開させようって魂胆だな。あの計画のおかげで俺は右腕を失ったんだ。井戸が、お前らの計画に利用されてたまるか!」

 広場を囲む家並みの屋根の上で、男が仁王立ちにがなりたてていた。飲んだくれのガフィだ。見ると腕の先から白い煙、発破用の爆薬を握っている。

「警邏隊がなんでえ、盗人野郎、俺たちの井戸を盗れるもんなら盗ってみろ!」

 血走った目でわめくと、ガフィが腕を振りかぶる。

 その瞬間、パンと乾いた音が鳴り、ガフィの手から爆薬が弾き飛ばされた。

 演壇脇にいた黒服が銃を構え、さらに一発。

 二発目の銃声に身を縮めた群集の頭上、屋根の上を筒型の爆薬がコロコロと転がる。

 気づいて皆が息を詰めた刹那、天の太鼓を打ち破るような破裂音が広場を揺るがした。

 身を伏せようとする人々に、屋根の破片や砕けた石壁が降り注ぐ。

 交錯する悲鳴の間を割くように、瓦礫に混じって大きな物が落ちてきた。ガフィだ。

 混乱する広場の様子を見ていた仮面の指揮官は、顔を寄せてきた部下に素早く指示を出すと、再度演壇に戻りマイクを手にした。

 騒然とした広場に、くぐもった声が響き渡る。

「追って皆さんには、警邏隊から個別に協力要請が行われるだろう。命を大切にしたいなら、協力することを私はお勧めする」

 仮面の指揮官は、ざわつく群集を見向きもせずに演壇を下りた。



第十六話「官舎」・・・・

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ