記
記
大地を掻き回すような天変地異は、春香たちが宇宙から帰還して二カ月ほどで治まり、また凍てつく静穏な大地が戻ってきた。
サイトの質量転換炉は、宇宙空間にある光の反転照射装置を破壊した後も天に向かって光を放ち続けた。しかしその光の柱も、三年後の年の暮れに、息を引き取るように光を放たなくなった。燃料の粒子パックが尽きたのだ。
猛烈な嵐と洪水に見舞われたグラミオドの大地は、まさに荒涼とした荒れ地と化していた。グラミオド大陸に起きた異常気象は、結局、地球規模の気象異変を引き起こし、多かれ少なかれ、ほかの大陸や島嶼部でも猛烈な嵐が吹き荒れ、多くの被害をそこに暮らす人々や生きとし生ける物に与えた。
だが避難し逃げ惑っていた人々にとって、戻るべき場所は、その荒廃した土地しかなかった。それぞれがそれぞれの故郷と言える場所に戻った。
オバルは妹のいるユルツ連邦の港町に。シャン先生とアヌィ、マフポップや船頭のチョアンはドバス低地に。そしてウィルタと春香はセヌフォ高原にという風に。ただあのシロタテガミは、ブチの雌イヌをシャンの元に残し、自分の死に場所を探すと言って、一人亀甲台地へと旅立っていった。
被災した人たちの救助を手伝った後、六月も半ば、春香とウィルタは十カ月ぶりにマトゥーム盆地に戻った。シクンのミトが点在する曠野も、岩や岩盤が露出する文字通りの荒れ地に変わっていた。
ユカギルの町は、高石垣も町の家々も、ほとんど原形を残さないまでに崩れ落ちていたが、その中で熱井戸の排熱塔だけが、まだ白じらしい壁面を陽光に曝していた。
町の住人も、無事災厄を潜り抜けた人は半数にも満たない。それでも盆地の湖のほとりで、新しい町の建設が始まっていた。生き延びたパーヴァさんとタタンは、その町で新しい店を出す予定だ。その作業をタタンの幼なじみ、赤毛の八角帽が手伝っていた。
タタンと無事再会を喜び合う。
そのタタンが、忘れ物だぜと言って、ウィルタにあるものを手渡した。白い毛の鍔の付いた毛糸の編み帽、旅に出る直前に炭坑上の風車の羽根に掠め取られ、そのままになっていたものだ。タタンが回収、大事にとっておいてくれたのだ。
ところが、その当のタタンが、いつもの革の防寒帽を被っていない。聞くと、混乱のなかで失くしてしまったという。それを聞いてウィルタは、手にしていた自分の帽子、バレイの市場で買った革の防寒帽をタタンに進呈した。何も土産らしいものを手に入れることができなかった代わりである。
ただウィルタとしては、お土産のことなどよりも、気に掛けていたことがある。それが、タタンから預かっていた紡光メダルを失くしてしまったことだ。ウィルタがそのことをタタンに詫びようと、胸元からメダルの失せた鎖を引き出すと、気づいたタタンがウィルタの手を押さえて首を振った。
「無事に戻って来た、それがなによりさ」
タタンが、ウィルタの手を握り締めた。
翌日、ウィルタは、シクンの民族帽を被ってズーリィの窪地へ向かった。
そこで同じ帽子を被ったナムとピッタの兄弟に会う。ナムの話では、山脈の裾野にあたる曠野は、猛烈な気象異変に見舞われた。そんななか、シクンの人々は、ほとんどが今回の災厄を生き延びた。ただ残念なことに、丞師のシーラさんは、濁流に流された子供を救けようとして、水に呑まれてしまった。
辛い表情でナムはそれを告げた。そして老犬のブッダも行方知れずだと。
ナム兄弟と別れた後、ウィルタと春香の二人は、再びマトゥーム盆地に戻った。
そして盆地を見下ろす板碑谷のミトの跡地に足を運んだ。
水車が回っていた小川は影も形もなく、全く別の所を石塊だらけの谷川が、水音も激しく流れ落ちていた。岩に腰掛け緩やかな谷の稜線で切り取られた青空を眺めていると、何かが終わったと感じる。
シーラさんが素足を乗せては足裏の感触を確かめていた板碑石が、洪水で流され館岩の横に移動していた。その平たい石の横で、灰褐色の生き物が、のそりと立ち上がる。やせこけた姿にぼさぼさの毛並み、それに後足を引きずっている姿は……、
「ブッダ!」と、ウィルタが手を振った。
二人のことを覚えていたのだろう、後ろ足を引きずりながら、ブッダは二人の元にヨタヨタと近づいてきた。ウィルタが首に手を回して、痩せこけたブッダを抱き締める。きっと主人を亡くしたあと、記憶を頼りにこの谷に戻ってきたのだ。
春香もひとしきりブッダの毛の抜けかけた体を抱き締めると、思い出したように外套の胸のポケットに手を突っ込んだ。普段使うことのない右の内ポケット。春香は、そこから布で包んだある物を取り出した。白銀色の毛の塊、旅に出た当初、曠野で拾ったシロタテガミの毛だ。シロタテガミは捨てるようにと忠告したが、いつかまたブッダに会う時のことを考えて、大切に捨てずに取っておいたものだ。
ところが、春香がブッダの鼻先にそれを突き出し、「ほらこれが、お前の兄弟の毛だよ」と話しかけても、ブッダは何の反応も示さない。人に飼われている間に本能が錆ついてしまったのだろうか。春香は肩を落とした。それでも、にっこり笑みを浮かべると、もう一度ブッダを強く抱き締めた。生きていてくれた、それだけで嬉しかった。
春香とウィルタの二人は、板碑谷に留まることにした。
そこが自分たちの故郷だと感じたからだ。
天変地異といっていいあの出来事の後、生き残った人々は、しばらくの間は生きていくことだけで精一杯で、ほかの事は何もできなかった。それでも世界は少しずつ暖かくなる兆候をみせていた。
ボルボから渡された漆黒のエネルギーボールは、大陸の最も深い熱井戸に投入された。今もそのエネルギーボールが、地球の内部に沈み込みながら、大地に熱を返していることだろう。
災厄の四年後のこと、オバルから一度遊びに来ないかと誘いの声がかかった。
オバルは港町のワイカカで、妹と亀甲石の回収業を営んでいる。
春香とウィルタは、揃ってオバルの家を訪問した。亀甲石の回収業と聞いていたが、扱っているのは隕石を含む金属一般。石の何でも屋さんだ。
ドゥルー海は海水が流出、半分の大きさになっていたが、それでもグラミオド大陸の中央にデンとのさばっている。その水位が下がって露出したドゥルー海の海底から、亀甲石を始めとした各種隕石や、錆ついた古代の金属が次々と見つかっている。それに目を付けたのだ。いち早く回収業を始めたおかげで、仕事はまあ順調の部類だそうな。
二人がオバルの事務所を訪ねた時、オバルは、ちょうど持ち込みのあった隕石の査定をしていた。汚れを落した隕石を鼻先で擦り合わせている。
買取り用紙に条件を記入しながらオバルが、「亡くなった弟も俺と同じで、いい鼻をしててな、親父が旋盤で金属を削り始めると、どちらが正確に金属の種類や合金の成分を当てるかで、競争したものさ」と、挨拶もそっちのけで、懐かしそうに子供の頃の回顧談を始めた。
茶器を手に奥の部屋から現れたオバルの妹が、その兄をたしなめる。
「もう、せっかく遠いところから来てくれたお客さんに、石の話なんかして」
テーブルに湯気の立つカップを並べると、兄同様の螺髪頭の妹さんが、
「お兄ちゃんたら、石を嗅いでいる時が一番幸せって言うの、変でしょ」と、二人に困ったもんだと目配せをした。
「そんなことは無いさ」と、オバルが言い返したところに、妹を追いかけるように出てきた幼女が、オバルの長い足にしがみついた。螺髪に小さなリボンをいっぱい付けた、オバル似の丸鼻の女の子だ。その幼女を軽々と抱き上げ、「今のおれの一番の幸せは、このトゥカだな」と、オバルが相好を崩した。
春香やウィルタと旅をしていた頃は、四十を過ぎているというのに、どこか腰の据わらない学生のような雰囲気を漂わせていたオバルだが、今や誰が見ても、いいお父さんだ。
空気を捕まえるように小さな手を握ったり開いたりしている幼女の手を、春香が指先で摘むように握り返す。黒くて小さな指先の、白い貝殻のような爪が何とも愛らしい。
子供に気を取られた春香の横で、ウィルタが「あれは」と声を上げた。
棚の上のガラスケースに、懐かしいものを見つけたのだ。
オバルが大事にしていた魔鏡帳、トーカだ。オバルの命を救った平頭ネジも、宝石でも飾るように、小箱に入れて並べてある。
「壊れてしまってな」と、オバルが残念そうにケースの中のトーカを見やった。
もっともそう零しつつも、娘を抱くオバルの顔は穏やかそのもの。
「あなたが、魔鏡帳の名を引き継いだのよね」と、春香がオチビさんの顔を覗き込んで、愉快そうに笑った。
泣き出したトゥカを、オバルの妹が母親のところに連れて行く。その店の奥に続くドアの横、壁一面に、大きな写真が飾られていた。
漆黒の宇宙を背景にした地球の写真である。青い真珠のような星。ただその瑞々しい真珠の下三分の一に、不粋な操作卓のような機械が写りこんでいる。どう見ても、せっかくの地球の写真が台無しである。
ウィルタが春香を肘で突つくと、「あの操作卓に見覚えがないか」と耳元でささやく。
言われて、春香もハッとした。
確かに操作卓にも、操作卓越しに見えている地球の姿にも見覚えがあった。いやそれ以前に、良く見れば、写真の右隅に人の左半身が写りこんでいる。顔は写っていないが、その小柄な人物の着ているセーターは、星草の模様で……、
「あれは、わたしだ!」
春香が椅子から立ち上がって叫んだ。
写真の操作卓は、紛れもなく自分たちが乗っていた岩船の管制室のものだ。
「これって……」
春香とウィルタが、まさかという目でオバルを見た。
眼を丸くしている二人に、「実は二人に渡したいものがある」と、オバルが机の引き出しから一冊のファイルを取り出した。
「本当は、もっと早くに渡そうと思っていたんだが、なにぶんにもピンボケや、ブレたようなのばかりで、恥ずかしくてな。まあ写りのいいやつから順に並べてある……」
前置きしつつオバルがファイルを開いた。写真のアルバムである。
最初のページに、いま壁に飾ってある地球の写真と同じものが、アルバムサイズにプリントされて貼り付けてあった。
「これって、あの、岩船の管制室から見た地球でしょ」
「そういうこと。最後、岩船を宇宙に残して地球に帰る時に、シャトルの防護壁を開けて眺めた光景だ」
オバルが次のページをめくる。
と、春香とウィルタの目が、そこに貼られた写真に釘づけになった。
箸を手にしたまま顔を引きつらせている春香と、それを面白そうに横目で眺めるウィルタが写っている。春香の手元、テーブルに置かれているのは、寄生虫のソーメンだ。
慌てて二人はアルバムを手元に引き寄せ、ページをめくった。
馬車の後部座席の下で寝込む、やつれた顔の春香。街道の泥道に足を突っ込んで顔を歪めているウィルタの横顔。盤都の迎賓館から逃げ出した時だろうか、ジョノと一緒に下水道を行く春香とウィルタの後ろ姿……。どれもこれも、自分たちの旅の様子だ。
だが惜しむらくは、どの写真も、ブレたり、ボケたりと、お世辞にもいい写りではない。
構図はともかく、まともに写っているのは最初の二枚、宇宙から見た地球の写真と、寄生虫のソーメンくらいだろう。
二人は信じられないとばかりに、オバルの顔を見つめた。
オバルがカメラを持っているところなど見たこともない。いったい、いつ、どうやって撮ったのだろう。
穴が開きそうな視線を振り向ける二人に、オバルが、もったいぶったように肩の関節をコキコキと鳴らすと、胸のポケットから禁煙ギセルを取り出した。そして実演でもしてみせるように、吸い口部分を捻った。かすかにカチッという音が鳴る。
そう、禁煙ギセルがカメラだったのだ。
それは古代の遺物で、超小型の画像素子が組み込まれたカメラだった。以前オバルは、ユルツ国の情報局に収容され、自白剤を打たれた。その施設から逃げ出す際に、オバルは諜報用の小型カメラを失敬した。それが、いま手にしている禁煙ギセルである。
旅の最中に、よくオバルが「吸い口の調子がなあ……」とぼやいては、禁煙ギセルを指先でいじっていた。あれは吸い口を調整していたのでも何でもない、写真を撮っていたのだ。オバルが種明かしでもするように話し始めた。
もう二十年も前のこと、自分は警邏隊の飛行機の試験飛行に同乗、写真の撮影を行った。ところが飛行機が着陸に失敗して墜落炎上、自分は逃げ出すのがやっとで、機材も何も持ち出すことができなかった。そのアルバイトが原因で、自分は技術復興院を除籍になり、ひいては紆余曲折の人生を送ることになった。
だから、かねがねその時のリベンジ、当時の失敗を帳消しにするような写真を撮って、皆を見返してやりたいと思っていた。そんな折、ハン博士を探す旅に出て、妙な経緯から情報局に連行され、そのおまけとして超小型のカメラを手に入れた。
その後も自分は、情報局に追いかけ回される身分だ。
普通なら、写真は追いかける側が撮影するものだが、これをもし逆の側、追いかけられる側から撮れば、どんな写真が撮れるだろう。上手くすれば、皆の注目を浴びる写真が撮れるのではないか、そう思って撮影を始めた。もちろん情報局の横暴を、写真を使って告発してやりたいという反骨心もあった。
そして身を隠しつつ塁京に向かうなか、春香とウィルタに出会った。自分同様、二人も情報局から付け狙われる身だ。なら二人の写真も撮れば、もっと面白いものが撮れるはずと、禁煙ギセルのレンズを向けることにした。
その結果が、いま目の前にあるアルバムの写真だ。
「もちろん最後は、サイトの事業そのもの、湖宮に乗り込んでからは、今回の地球規模での出来事を記録するという、その使命を感じながら撮ることになった……」
オバルが当時を懐かしむように、そう語った。
それでも「盗み撮りなんて」と憤慨している春香に、オバルは平謝りしながら、別の分厚いアルバムを広げた。そこにオバルが禁煙ギセルで撮影した全ての写真が、びっしりと貼りつけてあった。
霜都の劇場でのセレモニーや、突然立ち現れた光柱にサイトのスタッフたちが唖然とする様など、春香やウィルタが現場に居合わせてないものも沢山ある。
ただこちらも、写りの悪い失敗作ばかりだ。
「本当に言い訳になるが」と、オバルが恨めしそうに手の中の禁煙ギセルに目を落とした。
古代のカメラには、素人が撮っても失敗しないようにと、手振れの防止を初めとして、様々な機能が付いている。だから少々荒っぽく扱っても写真は撮れているはずと、高をくくっていた。それが実は違っていたのだ。どうやらこの諜報用のカメラは、修理中のものだったらしい。オバルが自省の念を込めて話す。
「俺のなかにも古代の機器への過信があったんだな。それが今回の大失敗の原因だ。とても、あのサイトを復活しようとした連中を笑えないよ」
自嘲気味に笑うと、オバルは白髪の混じり始めた螺髪をざっと撫で上げた。
「しばしアルバムを眺めててくれ」と二人に言って席を立つと、オバルは事務所の扉を開けて外に出た。なんだろうと思って見ていると、オバルがドアの外で紙巻きのタバコを燻らせ始めた。煙苔ではなく、古代の植物の葉で作ったタバコ、煙草である。ドームの中にあった植物のタバコが外部に持ち出され、それが今や大陸中で栽培されて、紙巻きタバコを吸うのがブームになっていた。
オバルの妹さんが、替えのお茶を持って奥から出てきた。芳しい薫りが鼻をくすぐる。二人がお土産として持参したメチトトの苔茶だ。
その妹さんが、気持ち良さそうにタバコを燻らせる兄を見て、眉を尖らせた。
「吸うと頭痛が酷くなるんだから、きっぱり止めればいいのに。でも、できないのよね。お兄ちゃんたら、子供の頃から誘惑に弱かったから」
オバルが窓越しに、余計なことを言うなと手で合図を送る。それに対して、妹がツンと顎を振った。
「子供ができたら絶対に止めるって宣言してたのに、全く口先だけなんだから」
妹さんはプリプリした口ぶりで話すと、奥へと戻っていった。
春香とウィルタは、思わず笑いをかみ殺した。
その当のオバルは、玄関脇の柱に寄り掛かり、紙巻きタバコを燻らしつつ港の風景に目を馳せた。海面が大きく下がったために、新たな桟橋が古い港の四百メートルほど先に設けられている。その桟橋で、接岸した帆船からの荷下ろしが始まっていた。
じきに肩夫や荷馬車の行き交う喧騒が、こちらの元の波止場に移動してくるだろう。
桟橋での荷下ろしの掛け声を耳に、オバルはポケットから禁煙ギセルを取り出した。
先ほど子供たちには、このキセルで写真を撮ったのは、昔の大失態へのリベンジだと説明した。墜落した飛行機から逃げ出すのに精一杯で、フィルムを持ち出すことができなかったことへの、と。
本当にそうだったか、実は違うのだ。
飛行機が警邏隊の基地目指して降下するなか、オバルは分かっていた。自分が警邏隊の注文を満たす写真を撮れていないということを。そのことをどう言い訳しようかと、気もそぞろに考えているところに、突然、エンジンから煙が噴き出した。
あれよという間に機は失墜、そして墜落。
前の座席から機長が手を伸ばして、安全ベルトを締めたまま気を失っている自分を揺さぶっていた。それを自分は気がつかない振りをしていた。このままでは機が爆発すると見て、機長がケガをした副操縦士、あのハガーを背負って機外に脱出。その様子を自分は薄目を開けて見ていた。そしてこれ以上待つと自身が炎に包まれるという寸前、機外に飛び出した。炎上する機に撮影機材を残して……。
先に脱出した機長たちを、怒り心頭の形相で追いかける。
フィルムは持ち出せなかったのではない、持ち出さなかったのだ。若い自分としては、「まともな写真一枚撮れないのか!」という批判に曝されることが、恥ずかしかったのだ。今にして思う、あの墜落事故が自分の人生を変えたのではない。未熟な見栄が、自分の未来を変えてしまったのだ。
為した事の責任に向き合うことなく、逃げ出したということ、それが枷となり自身の心を縛ってきた。この二十年、どこかでその清算をしなければと、ずっと思い続けてきた。
「ぼけた写真を公開するか、なあオバルよ」
自分に言い聞かせるように呟くと、オバルは事務所の前を通るなじみの肩夫に、「吸ってくれるか」と、タバコの入った箱を放り投げた。
受け取った肩夫が、まだ数本しか減っていない箱の中身を見て、「だんな、まだ十本以上残ってるじゃないですか」と、目を丸くする。
「禁煙したんだ、娘のためにも長生きしなきゃならんからな」
そう答えると、オバルは指に挟んだ最後の一本を顔の前にかざした。そして、ゆっくりと味わうように紫煙を肺の中に送り込んだ。
事務所の中で、春香とウィルタは写真に見入っていた。
最初は「盗撮なんて」と憤慨していた春香も、何度かそのアルバムを捲っているうちに、心の内に、なんともいえない懐かしさが込み上げてくるのを感じていた。
それはウィルタも同じだ。たとえぼけた写真であっても、一枚一枚が、自分たちがそこで生き、何かを見て、聞いて、経験して、感じたことを、まじまじと思い出させてくれる貴重な記録なのだ。もう遠い過去のようにさえ思える旅の一瞬一瞬が、つい先ほどのことのように蘇ってくる。
一通り見終えてアルバムを閉じると、二人は大きく息をついた。そして示し合わせたように背筋を伸ばした。
最後の一服を吸い終え、晴れ晴れとした顔になってオバルが戻ってきた。
二人はアルバムを手に立ち上がると、満面に笑みを浮かべてその言葉を口にした。
「ありがとう、オバルさん」
アルバムは、紛れもなく二人にとって宝物となった。
オバルの一家に見送られて、ワイカカの港町を後にする。
オバルは、世界が暖かくなっているのは太陽の活動がまた活発になってきたせいではないかと話していた。一方、ボルボは、二万年かけて太陽の活動が元に戻ると言った。
二万年、人の一生の時間からすれば、遠いお伽話のようなものだ。地球の温度が、一度や二度上がったからといって、一年の大半が冬であることに変わりはない。それでも暖かくなりつつあるというだけで、降り注ぐ日差しが優しくなったように思える。
ところが、その暖かくなることで、逆に問題も起きていた。ドゥルー海が決壊してシフォン洋の海水面が上がった後も、気温の上昇による水位の上昇は続き、今ではドバス低地のヨシのそよぐデルタ地帯の半分は、水に沈んでしまった。
何にせよ、急激な環境の変化は、犠牲を伴うということだ。
少しずつ世界は落ち着きを取り戻していった。
そして六十年の歳月が過ぎる。
惨事以前の時代との一番の違いは、大地に緑が増えたことだろう。
岩船を空の上に残す最後のフライトの前に、三つあったドームの区画だけは、岩船から取り外されて地上に置かれた。そのドームの中にあった植物が、大陸の各所に運ばれ地面に根を下ろした。寒さで枯れてしまったものも多いが、根づいたものもある。一番嬉しいのは、木らしい木が蘇ったことだ。
緑の多かった島国に住んでいた春香は、そのことが何より嬉しい。
三つのドームは、ドバス低地の北側の丘陵地帯に運ばれ、そこでそのまま植物の研究兼苗木供給センターとなった。センターの初代の代表を務めたのが、砂漠の岩船屋敷のホブル。二代目がホーシュで、今はホーシュの子供が役を継いでいる。
センターに隣接した宿泊施設で土産店を経営していたのが、すでに故人となったフィルルとマフポップだ。結局マフポップの視力は回復しなかった、それでもマフポップは、毎日店の前に立ち、客の呼び込みをしていたという。父親譲りの弁士のような喋りは、大いに客を沸かせたそうだ。
そして、あのジャーバラ嬢はというと、彼女は三十歳という若さで、塁京八国を統合する国の初代国首となった。髪にピンクのリボンを付けていることでリボンの統首と呼ばれ、三期十年余り国の代表を務め上げ、引退後は歌三昧の人生を送っている。歌手となってからは、派手なリボンは外し、耳に小さな黒いイヤリングを付けているだけだったという。
ちなみに、ホーシュと共にお世話になった坊商のダルトゥンバ氏。
岩船のドームから持ち出された本物のお茶の木のおかげで、トゥンバ氏の『黄金の木』の目論見は露と消えた。それでも地道に交易商を続けた氏は、後年、意を共にする仲間たちと、ジンバの子供たちのための授産教育施設を開設、そこで歴史の教鞭を取っていたそうだ。子供たちには絶対『先生』や『氏』と呼ばせなかったらしい。
トゥンバさんらしいと思う。
それはそれとして、ホブル館長の苗木供給センターから取り寄せた針葉樹の一種が、板碑谷の斜面にも植えられ、もう見上げるような高さに育った。その木から増やした二世、三世の苗木も、次々と谷間の斜面で枝葉を拡げている。やがてこの谷が、緑の森で覆われる時が来るだろう。もちろんそれを、いま七十二歳の自分は見ることができない。でも、それを想像しながら、この世を去れることはとても幸福なことだ。
そう春香は思う。
谷間にそよぐ緑の香りを含んだ秋の風に吹かれながら、春香は自分の人生を思い返していた。様々なことがあった。
楽しかったことも悲しかったことも。
ウィルタとは、あの惨事から七年の後に結婚、三人の子供も授かり、今はさらにその子供の子供、孫が曾孫を連れて自分に会いに来てくれる。
ウィルタは父親から想いを託されたということもあったのだろう、仕事の合間に古代から今の世紀に変わる節目の出来事を調べていた。
そのウィルタが明らかにした事実を一つ。
自分にとっては複雑な思いのする事実だが……。
実は、私の生まれ育った国は、二千年前の『緑の死』と『巨大隕石群の衝突』という災厄以前に消滅していた。この消滅という言葉は適当ではないかもしれない、正しくは、人の住めない国になっていたということだ。
ウィルタに教えられた時に、大よそ見当はついた。
放射能汚染の災害に見舞われたのだ。この災害という言葉も不適当、実際には人災というべきだろう。地下に貯蔵していた放射性の廃棄物が、地震によって地表に噴出、大気の流れに乗って国中にばらまかれた。町も家も山も田畑も水も、何もかもが汚染されてしまった。そして、そこに暮らしていた人たちは、流浪の民となって世界に散った。
事故の可能性は、確率としては絶対に起こり得ないほどに小さかったかもしれない。しかしゼロではなかった。そして、それが現実のものとなった。
この私の祖国を壊滅させた放射能汚染の惨事は、周囲の国をも巻き込んだ。
隣国のみならず、数千キロ離れた海の向こうの国まで被害が及んだのだ。後に起きる『緑の死』ほどではないにしても、地球規模の惨事となった。
ただ一方で、そのことが結果として、世界にある潮流を生みだした。
この惨事がきっかけとなって、放射能汚染を引き起こす可能性のある施設や、兵器を廃絶する機運が生まれたのだ。世界中にだ。
それは直ちに実行に移された。
今にしてみれば、これは本当に奇跡だったと思う。
もしこの国際的な潮流が生まれずにいたとしたら、『緑の死』と『巨大隕石群の衝突』によって引き起こされた未曾有の天変地異の中で、当時世界に相当数あった放射性物質を燃料とした発電施設や、あるいは数万発が配備されていた核兵器から、猛烈な量の放射性物質が地球全体に隈無くまき散らされていただろうからだ。そうなれば、間違いなく地球は人の住めない、否、生命の生存さえもが難しい星になっていただろう。
惜しむらくは、『緑の死』が起きた時、まだ廃絶すべき施設や兵器の二割が残されていた。そして『緑の死』と『巨大隕石群の衝突』という二つの災厄による天変地異によって、多量の放射性物質がばらまかれ、地球上の広範な地域が放射能によって汚染された。
ところがこの事実を、災厄を生き延びた人々は、記録に書き記していない。それだけ二つの災厄がもたらした被害が大きかったということだろうか。
それでも……だ。放射性物質は、放射能を吐き出す能力が半減するのに、長いものでは何万年、物によっては億単位の年数がかかるものなのだ。それが災厄の後、世界が落ち着きを戻して以降も、全く問題として取り上げられていない。なぜか。
ここでも、ある奇跡が働いていた。
無数にこの惑星に降り注いだ別宇宙からの隕石群、その中に放射性物質を吸着する隕石が含まれていたのだ。実はそれが唱鉄隕石である。兇電を放射することから唱鉄隕石と名付けられた特殊な隕石は、なんと放射線や放射性物質を吸着吸収し、その取り込んだ放射性のエネルギーを電磁波として放出するという性質を持っていた。
いったい何ということだろう。地球は、唱鉄隕石によって、死の星になるのを免れたのだ。それは、本当に奇跡といって良い。
この事実を知った時、私は「優しい神様だな」と思った。
きっと、神様は人類にもう一度チャンスをお与えになったのだろう。
この歳になって、私は神を感じるようになった。
どこかに神はいらっしゃる。もちろんそれは人だけの神ではない。この世の摂理と万物の流転をご覧になっている神だ。
そんなことを口にしては、日に何度もお祈りしている私を見て、子供たちは「お婆ちゃんも、着々と神様の世界に近づいているよね」と、からかう。
もちろん、そうかもしれない。
しかし、それでもどこかに、私たちを、そしてこの大地を見守って下さる者がいらっしゃると、私は思う。
話が脱線してしまった……、かな。
夫のウィルタ。
ウィルタは、三十歳を過ぎて、治まっていた目の能力が再発、右目が赤く光るようになった。もちろんそれに併せて頭痛もだ。
そしてその頃から、ウィルタはこの世界のもう一つの大陸、西のブラシア大陸に行ってみたいと口にするようになった。災厄の後、ブラシア大陸は、こちらの大陸とは違う歴史を歩むことになったという。その変容にウィルタは興味を持ったようだ。それにウィルタは岩船で宇宙に出た時に、海の向こうのもう一つの大陸を見ている。ブラシア大陸の光景が、どうしても頭から離れなかったらしい。
そして三十九歳の誕生日の翌日、「ごめん」と言って、家族を残して旅に出てしまった。
あの白い毛の鍔つきのシクンの民族帽を被って……。
ウィルタは、そのまま帰ってこなかった。
男の人の中には、二つの人格がある。それは家族のための自分と、自分のための自分だ。ウィルタは、それに折り合いを付けるために旅に出た。二十年近くの間、彼が自分の夢を抑え、家族のために生きてきたのを私は知っている。だから、私は止めなかった。笑顔で彼を送った。そして、あとは一人で子供たちと生きてきた。
人は様々な人生を生きる。自分の生を充足させるために。
ウィルタは宇宙からこの世界を見てしまった。それが彼の運命を変えたのだと思う。それは良いことでも悪いことでもない。彼はそういう運命の元に生まれたのだ。小さな谷間で人生を終えるのは、彼には苦痛だったのだろう。でも広い世界を見て回りたい、そういう子供のような願望を持ち続けるウィルタの気持ちを、私は理解できるし、理解したいと思う。
私は二千年の時を生きた。それは二千年の旅といってもいい。だから、この狭い谷にいても、十分に心は地球を感じることができる。旅はもう充分だ。
子育ても充分過ぎるほどやった。余生も恙なく過ごした。
あと自分に残されたのは、二つの時代を生きることになった自分の人生を書き記すことだけ。これさえ終えれば、いつ土に戻ってもいいと思う。死んで自分の体が土に戻り、その養分で新たな緑が育っていく。それを星になって天上から見守るというのも、とても愉快なことだろう。
書くのは辛い。昔から作文は苦手だったから。
でも自分のこの拙い文章を読んで、若い人が何かを感じてもらえるならと、そう思う。
そうそう、あれも書いておかなくちゃ駄目だ。自分がウィルタやタタンと一緒に、マトゥーム盆地東の氷河溜まりの中で見つけた時計、あれが何であったかを。
あの天変地異の十五年後、ひょっこりと一組の夫婦が訪ねてきた。タクタンペック村で世話になったトゥカチだ。なぜかグッジョと夫婦になっていた。人生なんて分からないものよと、トゥカチは笑っていた。そして、グッジョが頭を掻きながら、あの時私から取り上げた時計を差し出した。ずっと返さなければと、気になっていたという。
その時計、相変わらず二千年の時を刻み続けている時計。
グッジョからそれを返して貰ってからというもの、私はいつもそれを首に下げていた。ところが、ある日紐が切れて、時計が石の上に落ちて割れた。中からカプセルに入った小さな黒いものが出てきた。手の平に広げて、それが何であるか、私には直ぐに分かった。花の種だ。五粒だけだったけど、その種のことを私は覚えていた。子供の頃、家の庭にいつもその種を播いていたから。
私はその種を、期待を込めて自分たちの家の前に播いた。そして、その花が毎年家の周りを飾るようになると、私たちの家はその花の名前で呼ばれるようになった。
秋桜屋敷って……。
夏の終わりの季節になった。
今年も秋桜、コスモスの淡いピンクの花びらが風に揺れている。氷河の底で見つけた時計は、種の保存装置だったのだ。時計は飾りみたいなもの。言葉を代えれば、湖宮と同じ役割をもって作られた玩具といえる。
でも私はその時計を外側の容器だけを記念に残して、中の機械を粉々に砕いた。機械好きのタタンが、それを知って悔しがっていた。でも、何千年も時計を動かし、かつ種を保存する装置なんて、湖宮と同じで薄気味悪いだけ。時計は毎日ねじを巻けばいいのだし、種も毎年土に播けばいいの。過ぎたるは及ばざるがごとし。
ちょっと説教臭いことを書いてしまったかな。
御免なさいね。歳を経るとどうも愚痴が増えて。
これは湖宮にいたヴァーリさんに聞いた話だけど、湿地に生えている星草というトゲトゲの草があるでしょ。あれも遺伝子の操作で造られたものなんですって。稲の遺伝子に蛍の発光遺伝子を組み合せてできた植物だって。あんまり人間がいい加減なことをするから、稲が腹をたてて、人を寄せ付けない植物になってしまったんだろうって。
話を聞いたアヌィが笑ってた。
ほんと私のいた時代の人たちは、何を考えていたんだろう。
そうそう、それで稲なの。私はやっぱりお米を食べて育ったし、それに叔母さんちが農家だったから、いつも秋は稲刈りを手伝っていた。だから、やっぱり稲を育てたかった。それでわざわざドームまで行って中を探したの。そうしたら、ちゃんと生えていた。そして、その種を少し貰ってきた。
稲は元々暖かい所の植物だから、期待はしていなかったけれど、それが何とか育って実をつけた。丈は低くて実の数も少なかった。でも稲藁の匂いを臭ぐだけで、本当に涙が出てきそうになった。その稲が今年も短い夏の間にしっかりと実をつけてくれた。こうやって家の前の椅子に腰掛け、コスモスの花の向こうに稲穂が風に揺れているのを見ていると、本当に幸せを感じる。
庭先で春香の曾孫にあたる女の子が、犬と睨めっこをしている。まるで犬と話をしてるようだ。
それを見ながら春香は、あの氷の穴の中で、ボルボが語ったことを思い出していた。
春香が、ボルボに『声』に気づかなくてごめんなさいと謝った時のことだ。
ボルボは即座に「気にすることはない」と言うと、「実は、自分も『声』らしきものを、今この瞬間も聞いている」と続けた。
ボルボが語りかけてきた。
「その『声』らしきものの呼びかけに気づいたのは、もう千年以上も前のことだ。
その『声』は、ある時は十年の間をおいて、またある時は百年の時をおいて、私の中に繰り返し聞こえてきた。その声が、どこから発せられ、どのようにして私の中に届き、何を伝えようとしているのか、私は千年を越えてずっと考えてきた。そして理解したのは、それが私のいる、この宇宙から発せられたものではないということだ。
その『声』は、もう一つの宇宙、七十億年の後に私たちの宇宙と交叉することになるであろう、もう一つの宇宙、そこから届けられる声なのだ。私たちの宇宙に近づきつつあるもう一つの別の宇宙から、誰かが声を届けようとしている。
間もなく消滅する私が、その『声』の主に会うことはないだろう。
しかし、その『声』を私が受け取ったという事実は残る。それは、私の人生の中でも、とても喜ばしいことだった。
宇宙は『声』に満ちている。
母主よ、届けられる『声』に気づかないことを恥じる必要はない。必要なのは、いつも心を開き、耳を澄ませることだ」
そして最後に、ボルボはあることを耳打ちするように告げた。
「春香がオオカミと意志を通じ合えるのは、別に春香の頭に埋めこまれていた翻訳機とは何の関係もない、春香本来の能力だ。
春香が植物人間になった時、博士は、春香の脳に刺激を与えるために、様々な音を聞かせた。その中で春香が一番反応したのが、家で飼っていた愛犬の鳴き声だった。博士は意識の戻らない娘に、繰り返しその鳴き声を聞かせていた。何十年も植物人間の状態が続くと、普通ならもう見込みがないといって安楽死の道を選ぶのだが、博士が頑としてそれを受け入れなかったのは、娘の春香にまだ物を感じる能力が残っているということを知っていたからだ。
あの緑の死から始まった破局のなか、博士は予言していた。もし人類がこの災厄を潜り抜けた後、新しい世界を作り出すことができるとすれば、それは新しい人類が生まれた時だろうと。
『声』を聞くことのできる者が、次の新しい世界を創るだろうと……。
すべての生命は『声』を持っている。
生命は同じ種だけでなく、等しく他の生命の『声』も聞くことができる存在なのだ。しかし人はそれを失って生まれてきた。いや持ってはいるが、持っていることになぜか気がつかない。ある意味、地球にとっては、それが悲劇の始まりだった。だが人にもその能力を自然に感じ取ることのできる者が現れ始めた。特にあの二千年前の災厄の後にだ。
今、人という生き物が、自ら変わろうという内発的な力に目覚めたのだろう。悲観する必要はない、生命というものは、どのような時にも前向きに変わっていくものなのだ。それを当事者が意識するしないに関わらずにだ。いずれは木や草の声を聞くことのできる人も誕生するだろう……」
そうなのかもしれない、と、春香は思う。
鳥と話すアヌィも、たぶん馬の気持ちが分かるというボナさんも、兇音が苦にならないホーシュやマフポップ、川イルカのキュロンの会話が聞き取れるチョアンさん、そしてもしかして形は違うかもしれないけど、ウィルタや、私の孫たちも……。
いつか人が森羅万象の全ての声を聞き、話ができるようになる時が来るだろうか。
生き物だけでなく、大地や空や宇宙とも……。
ぼんやりと空を見上げている春香を、家の中から娘の春絵が呼んだ。
「おばあちゃん、ぼーっとしてるんなら、孫に編み物を教えてもらえます」
春香は振り返ると、軽く手を振った。そして杖を片手に立ち上がると呟いた。
「そうそう、記録のほかに、もう一つやっておかないといけないことがあったわね。このセーターの編み込みの模様を、孫や曽孫たちにも伝えなくちゃ」
そう呟く春香の胸に、遠い昔にシーラさんから貰った、色褪せたセーターの、色褪せた星草の模様が見えていた。
立ち上がった春香の手を、犬と一緒に駆け寄ってきた、ウィルタに似た曽孫の男の子が支える。春香はその男の子に手を引かれながら、家の中に入っていった。
水車が小川の水を受けて、時を刻むように回り、時折ゴトンという鈍い音を響かせる。その手前、春香のいなくなった机の上では、書きかけのノートが、初秋の澄んだ風に、カサッ…カサッ…っと、落ち葉のような音をたてて捲れていく。
びっしりと文字が書き込まれたページから、何も書かれていない白いページへと。
やがて捲れるページが、風を手の平で受け止めるようにゆっくり動きを止めると、その上にフワリと綿毛が落ちてきた。草の種だろう爪の先ほどの白い綿毛は、旅の中休みでもするように、細い毛の塊をコロコロと数回ノートの上に転がせると、次の風でまた上空に舞い上がった。天の高み、宇宙に続く蒼穹の彼方へと……。
そして綿毛の消えた青空のもと、緑の木々で覆われた谷間では、黄金色の稲穂とコスモスの薄桃色の花が秋の微風に揺れていた。
終り