水の星
水の星
「ふん、どうした、管制室に来ないのかね」
声は天井からしている。ところが操舵室には誰もいない。
「ジュールのやつ、今、管制室と言ったな」
オバルが首を回しながら、操舵室の中を見まわす。しかし特に変わった物は見当たらない。通路を確かめようと、ダーナが椅子から立ち上がりかけた時、オバルが「オッ」と、体を揺らせた。凭れかかっていた箱型のテーブルが、迫り上がり始めたのだ。慌てて体を離し様子を窺う。見る間にテーブルは上昇、そのまま天井の溝にがっちりと組み込まれた。一見すると床と天井を繋ぐ太い柱。がその柱の下半分は骨組みだけで構成され、中に昇降台らしきものが覗いている。顔を寄せると、骨組みの隙間に下の空間が……。
オバルが拳を突き上げた。
「管制室だ、くそう操舵室の真下にあったのか」
オバルの呻きを鼻で笑うように、昇降台の下から声が届いた。
「どうした、いい眺めだぞ、来ないのか」
甲高い笑い声が途切れると同時に、昇降台の蛇腹の扉が開いた。
オバルとダーナが顔を見合わせた。
目で頷くと、オバルが懐から銃を引き抜いた。
春香とウィルタが、それぞれオバルとダーナの服を掴む。自分たちも行くというのだ。
「用心して、付いて来い」
小さく呼び掛けると、ダーナは、ゆっくりと昇降台の中に足を踏み入れた。
側面の操作パネルのキーに指を触れる。機械の擦れる音がして昇降台が始動、床が操舵室の下に沈み込んでいく。操舵室と下の管制室との間は、一メートルを越える厚い外壁で仕切られていた。この厚さの隔壁では、真下に管制室があることなど分からなくて当然、それに元々湖宮の隔壁は、音も電磁波も通さないようにできている。
外壁を抜ける。足元から、下の部屋が見えてきた。
管制室だ。ずらりと計器を詰め込んだ操作卓が、コックピットのように並んでいる。あのファロスサイトの管制室を小型にして、さらに様々な機器をギュッと詰め込んだような部屋だ。昇降台が停止すると、自動的に蛇腹の扉が開いた。
用心深く昇降台の外に足を踏み出した四人は、思わず息を呑む。管制室正面のスクリーンパネル、その四角い画面の上半分を占めるように、地球が映し出されていた。真っ暗な宇宙の闇の中で、その青さが際立つ。氷に覆われたとはいえ、まだ海の大半は凍結せずに満々とした水を湛えている。それは紛れもなく青い水の星だ。
スクリーンパネルの前に、男が背を向けて立っていた。
オバルよりも心持ち背は低いが、それでも長身である。セピア色の髪、やや赤みを帯びた薄茶色の肌に、床に届くほどの灰白色の僧衣、顔は見えないがジュールだ。
四人に背を向けたまま、ジュールは透明なスクリーンパネルの向こうの青い星を見ていた。手前の床に人が倒れている。ヴァーリだ。
「姉に何をした」
激して叫ぶダーナに、後ろ姿のジュールが冷ややかに言った。
「何も、私は湖宮を飛ばしただけ。彼女の体が圧力に耐えられなかったということだ」
マイクを通したような声が、天井から部屋中に響く。ダーナが駆け寄りヴァーリを抱き起こすが、ジュールは振り向きもせずに話を続ける。
「これは映像ではない。外部の防護シャッターを開けたのだ。本物の地球だ。見たまえ、この星が水の惑星と言われるのがよく分かるだろう。氷の惑星になったといっても、それはまだまだこの星にしてみれば、陸の九割が氷に埋もれただけで、惑星の表面の七割を占める海の大部分は、こうして今も満面に豊かな水を湛えている。水こそが、この惑星に豊かな命と環境をもたらした源なのだ。
地球が太陽系に生まれた時、幾多の偶然が重なり、太陽から一億五千万キロメートル離れたこの地点で太陽の周りを回ることになった。これがほんの少し太陽に近ければ、水は蒸気となり、ほんの少し遠ければ氷となる。水が水であったからこそ、この星に生命が育まれた。太陽から単位面積当たり毎分二カロリーの太陽輻射を受けるという、絶妙の位置にこの惑星が置かれたこと、これこそが全ての奇跡の始まりだった。
水は蒸散して気体となり、雲となり、雨となり、川となって海に注ぎ世界を巡る。その水の動きこそが、世界に多様な環境を作り生命の楽園を創り出した。
地球は水と緑に溢れた楽園だった。果てしなく複雑に組み合わさり混じり合った物質の循環と利用のシステム、それはまさに芸術といって良いものだ。生命はその一つ一つが、一度限りの、二度と再生不可能な作品だ。無駄なものなどどこにもない、この地球が数十億年かけて作りあげた生きた宝石。そのシステムこそが芸術だった。珠玉の宝石が世界の隅々にまで溢れていた。数千万種とも言われた生命が、世界に充ち溢れ、複雑な相互関係の中で自らの生を謳歌していた」
透明なスクリーンパネルの中、青い星地球の見える角度が少しずつ変わっていく。岩船が上昇を続けながら、地球を回る周回軌道に入りつつある。
眼下にグラミオド大陸と大洋を挟んで鎮座するもう一つの大陸、ブラシア大陸が見えてきた。南北両半球に縦長に連なる宏大な大陸に、雪や氷とは異なる、のっぺりとした白っぽい大地が、大陸から溢れ出るように広がっている。晶砂の砂漠だ。
そのガラスの砂漠と真っ白な氷床地帯に挟まれるようにして、くすんだ緑茶色の大地が、虫に食われて葉脈だけになった葉のように、点々と残されている。西の大陸にも、苔に覆われた平原があるのだ。
ジュールが吐き捨てるように言った。
「どこに行った、無数の宝石たちは。みんな死に絶えたさ。人類のばかげた知恵のおかげで、いま残っているのは苔の荒れ地くらいだ」
オバルが、ジュールの背中に向かって声を投げつけた。
「だから何だ、いったい何が言いたい、ジュール」
「この星に人は必要なかったのさ。人さえいなければ、この星が氷に埋もれることも、荒れ果てた大地になることもなかった」
それこそが真実であるかのように、ジュールはその言葉を口にした。
「人はいなくならなければ、ならない」
ジュールは、はっきりそう言い切ると、手にしていたリモコンを持ち上げ、前面の操作卓に向けた。柔らかな羽毛に触れるような手つきで、ジュールの指がタッチパネルに触れる。その瞬間、スクリーンパネルの画面の中で閃光が煌めき、眼下の西の大陸に向かって一条の光が伸びる。光の先、くすんだ緑茶色の大地に、オレンジ色の光条の環が幾重にも重なり合って拡がる。バドゥーナ国が使用した量子砲だ。
「なっ!」
オバルの顔に朱が差す。
「人は滅ぶんだ、そうするしか方法はない、人のいなくなった大地で、もう一度全てをやり直す、それが一番だ」
またジュールがキーに触れた。閃光が煌めき、大地に光の環が生まれる。
「よせっ!」
オバルが後からジュールに飛びかかった。がオバルは、そのままモニター群の前の管制装置に抱きつくように腕をぶつけた。ジュールの姿はホログラフの映像だった。
オバルの横、立体映像のジュールが笑い声を上げた。
「ハハハ、オバル、私がどこにいるか分かるか。分かるまい、分かるはずがない。後学のために教えてあげよう。この光の兵器は、あの質量転換炉が生み出すエネルギーの中から、光を除いた残りのものを収束させて打ち出したものだ。あの光を生み出す炉の、負の側面そのものだ。湖宮と呼ばれるこの船には、あの質量転換炉が積み込まれている。どんな技術も善悪兼用。人は自分たちの作り出した悪魔の火で滅びるのだ」
そうしてまた、ジュールのしなやかな指先が、リモコンのキーに触れる。
眼下に光の環が生まれる。
オバルが、沸きあがる怒りを必死に抑えながら話しかけた。
「分かった、分かったよ、ジュール。君が人間を憎んでいるのはよく分かった。人の過ちが世界をこのように変えてしまったというのも、確かにそうだろう。しかし、今あの眼下の大地で暮らしている人たちに、昔の人々の所業の責任を負わすことはないだろう。苔しか生えない荒れた大地で暮らす人たちだって、精一杯日々の暮らしを積み重ねて生きている。それに、その光の矢で大地を焼き尽くしてしまえば、前の世紀から生き延びた僅かな生き物たちも、みんな焼き尽くしてしまうことになるんじゃないか」
春香が堪らなくなって、「そうよ」と続けた。
「緑したたる森に較べれば不毛の大地に見えるかもしれないけど、曠野にだって、坊主ウサギが巣作りに励み、お歯黒ネズミが冬に備えて苔を集める、自然が生きているのよ」
そんな話など聞きたくないとばかりに、ジュールが春香の声を遮った。
「人間はその存在自体が、悪だといっているのだ。大きな目的のために、多少の犠牲はつきもの。それに、君たちはこの船が何であるか知らないだろう。
この船は、前の世紀の終わり、緑の消失が始まったその時に、世界が総力をあげて集めた、ウイルスに感染する前の植物の遺伝子プールなのだ。いや植物だけではない、動物から細菌までをも含むあらゆる地上の生き物の遺伝子プールだ。この船の神聖区と呼ばれる区画がそれだ。
人類は地球上に存在する生命の情報バンクをこの船に積み込み、宇宙空間に避難させようとした。そしていずれ地球上のハイ・ウイルス対策が終了した時、地上に戻して一つ一つ生命を復活させる予定だった。もっともその後、緑の消失の影響があまりにも大き過ぎて、人類の文明そのものが崩壊しかかったために、生命情報だけでなく、人類の生み出した文化そのものの記録も乗せることになったがね。
つまり、地上に残っている生命が少し減ったからといって、生命の再生には何の支障もない。いやそれよりも、全ての生き物が消えてくれた方が、一から計画的に再生できるのでやり易い。そういうことだ」
我慢できないとばかりに、オバルが机を蹴り上げた。
「何がそういうことだ、何が人類は必要ないだ。いい加減にしろ、おまえのやっていることは、命を弄んでいるだけじゃないか。世界の創造主にでもなったつもりか」
オバルがジュールを怒鳴りつける背後で、ダーナがウィルタに耳打ちした。
「ジュールのやつ、リモコンで管制室の機器を操作している。ということは、かならず管制室か周辺のどこかにいる。あの幻影のジュールの姿でだ。ウィルタ、おまえのあの能力で探してくれ」
ウィルタの義眼の能力で、隠れているジュールを探してくれというのだ。ウィルタが小さく頷いた。
ジュールの注意をウィルタに向けないために、ダーナも声を張り上げる。
「ジュール、世界をもう一度創造すると言っているが、それがおまえ一人の手でできるのか。この湖宮に暮らしていた人たちは、いずれその作業に携わる目的で、綿々と生命再生の技術を伝承してきた人たちであろう。その人たちを殺め、おまえ一人になって何ができる」
リモコンを手の中で軽く転がすと、ジュールが自信満々の顔で吐き捨てた。
「心配は無用、あいつらは、もう生命の再生など考えていなかった。古い因習に従う奴隷に過ぎなかったさ。地球が滅んでも、生命の再生など始めなかっただろう。とうの昔にハイ・ウイルス対策は終了している。それなのに、冬眠の穴に潜り込んだまま、外に出ようともしなかった腑抜け野郎たちだ。いてもいなくても何の問題もない」
ダーナがウィルタの方を盗み見た。ウィルタは目を瞑ったまま肩を震わせている。
とそのウィルタがパッと目を開き、管制室の右隅の操作卓に視線を向けた。
卓上の角に、小さなマイク。それを認めた瞬間、ダーナは外套の内側から銃を引き抜き、マイクの上の空間めがけて引き金を引いた。
銃声と同時に、ジュールの絶叫が管制室の中に響き渡る。マイクの後ろで、人の姿が電気がショートして弾けるように見え隠れする。その姿がプツンと消えた。
「気をつけろ、いる!」
ダーナが叫んだ直後、昇降台のある柱の横から閃光がほとばしり、ダーナの体を貫いた。
前のめりに倒れたダーナの顔から仮面が外れ、床に転がる。
「ダーナ!」
叫びながらオバルが走り寄る。
抱き起こしたオバルに、「血だ、床の血に気をつけろ」と、口に血を滲ませダーナが声を絞る。春香が叫んだ。誰かが、いや見えないジュールが、春香の首に手を回したのだ。
春香の足元に血が滴り落ちる。ジュールの血だ。
マイクを通したのではない、ジュールの肉声が耳を打つ。
「フン、よく分かったな」
胸を押さえたダーナの口から血が垂れる。肺をやられたようだ。自分の血でむせ返りながら、ダーナがくぐもった声を吐いた。
「マイクの音が異常に大きかった、それに部屋中に音が割れるように響いていた。肉声を隠すためだと、気づ……い……」
話しながらダーナがオバルの腕の中で首を垂れた。
「ふん、さすがはユルツの女傑殿、だが勝負は俺の勝ちだな」
銃を構え直すと、オバルが声の方向を睨んだ。
春香の後ろから甲高い声が勝ち誇ったように響く。
「撃てるかオバル、俺の頭はこの娘の真後ろにあるんだぞ、撃ってみろオバル」
その声が終わらないうちに、春香の肩口から閃光が走り、銃を持ったオバルの胸の上で、眩しい光芒を発して弾けた。弾き飛ばされるようにオバルが床に倒れる。
「オバルさん!」
春香が叫ぶ。
頭痛で頭を抱えていたウィルタが、大の字に倒れたオバルに、這うようににじり寄る。
「ハハハハ、前回は人工の真空で殺しそこなったからな、こんどは本物の宇宙空間に放り出してやる。冷凍人間となって未来永劫、宇宙をさ迷うことだ、ハハ、ハ……」
甲高い笑いが途切れ、ジュールの姿が点滅するように春香の後ろに現れた。
ジュールの背後に、ナイフを手に呆然と立ち尽くすヴァーリがいた。
ジュールは首を捻るようにして後ろを向くと、そこにヴァーリの蒼白な顔を見つけ、頬をひくつかせた。
「馬鹿な女だ、神の妻になれたのに……」
そう小さく呟くと、ジュールは灰白色の僧衣を真っ赤な血で染めながら、崩れるように床に崩れ落ちた。
宇宙に瞬く星々は、何億何千万光年の彼方から、変わらない光を地球に送り続けていた。
大地で繰り広げられる様々な所業とは無縁に……。
宇宙空間に出てから、三時間。
オバルは、ジュールの体を星の瞬きの元に送り出した後、岩船を地球へと向けた。
岩船本体から切り離されたデッキ部分、湖宮にいるであろう人たちを救出するのだ。それにヴァーリと、胸を撃たれたダーナの手当ては、オバルや春香ではできない。二人は止血だけをして、管制室の後ろの部屋に寝かせてある。
管制室で操作卓に向かっていたオバルが、暖房で体が火照ってきたのだろう、外套に続いてセーターを脱いだ。そのセーターの胸の部分に、黒く焼け焦げた十字の穴が空いている。ジュールの光圧弾で撃たれた跡だ。
ジュールがヴァーリに刺されて倒れた後、春香は直ぐにオバルに駆け寄った。
ダーナが口から血を吐きながらも、閉じていた目をカッと見開き、自力で立ち上がろうとしているのと比べて、オバルは大の字に倒れたままピクリとも動かない。胸の真ん中やや左、ちょうど心臓のある辺りが黒く焼け焦げ、薄い煙が立ち昇っている。
「即死」という言葉が、春香の脳裏を掠めた。
這うようにオバルにしがみついたウィルタと、駆け寄った春香が、オバルの顔を泣きそうな顔で覗き込む。
その時、オバルの特大の鼻の穴から、「グ……」と、大きないびきのような音が漏れた。
「グ……、グ、……、ググ」
何度か鼻音を鳴らした後、オバルがパッと目を開けた。
そして天井を見ながら、「どう、した?」と、間の抜けた声を出した。
「どう……、って、オバルさん、胸を撃たれたのよ」
「胸を?」
春香に言われて、オバルは自分の胸に手を当てた。確かに、外套の上に十字状に焦げた穴が空いている。オバルは首を捻りながら、その焼け焦げた場所を探り、やがて何かに気づいたように胸の中に手を差し入れた。
外套から引き出した手に、赤黒く錆ついた平頭ネジのネジ頭が握られていた。ビスカコイン程の大きさのネジ頭の十字の溝の部分だけが、溶けて艶やかな金属色を見せている。
もう随分昔のことのように、オバルはその事を思い出した。
都のダリアファルで父親の葬儀を済ませ、差し押さえられた家の後片づけをしていた時のこと。父が最後事切れていたという机の上に、分解した機械の部品が並べてあった。その一つ、一番手前にあった平頭ネジのネジ頭を、オバルは、父の形見にとポケットに捻じ込んだ。それを長い旅の間にすっかり忘れていた。
ジュールの撃った光圧弾の十字のやいばを、ネジ頭の溝が受け止め反射したのだ。
そういえば、光圧弾を胸に受けた瞬間、弾けるような光が管制室を包んだように思う。
オバルはしばらくの間、ネジ頭を手にしたまま笑っていた。
奇跡のような幸運に恵まれたことが、信じられなかったのだ。そして笑い終えると、声を上げて泣き始めた。泣きながら誰か人の名を口にしたようだが、それは春香とウィルタには分からなかった。
巨大な宇宙船は、赤道上高度八百キロメートルの周回軌道を半回転すると、グラミオド大陸の東端を目ざして軌道を外れた。
大陸中央部は巨大な渦巻状の雲に覆われていた。雲の一部は、高さ一万メートルを越えて横に拡がり、その雲を突き抜けるようにしてサイトの光の柱が聳え立っている。近くに行って確かめたいが、今はとにかく切り放された湖宮の人々と、ダーナとヴァーリの命が優先である。特にダーナの出血が止まらないのが気掛かりだった。
あのユカギルのガフィの場合は、折れた肋骨が肺に突き刺さり、血が胸郭の中に溜まって呼吸ができなくなるという、逼迫した状態だった。比べてダーナの場合は、開放性の胸の傷で、そこまでの危険はない。最初はそう思っていた。
しかし横に付き添い、容態を診ていて春香は気づいた。胸の傷とは別に、仮面を外したダーナの顔の黒く爛れた皮膚から、血が流れ出て止まらない。皮膚の下に何か全く別の病巣が巣くっている気配があった。
ただ悔しいかな、この場この瞬間に春香にできることといえば、苦しげに喘ぐダーナの額の汗を拭ってあげることくらいだ。今は一刻も早く岩船が地上に戻り、そしてシャンたちが無事であることを祈るしかなかった。
オバルはオバルで、必死の思いで岩船の操船をしていた。
岩船の操船自体は難しいものではない。操舵室の機器の扱いと同じで、目的地を画面上で指定すれば、あとは自動航法で飛行してくれる。それでも、全くのぶっつけ本番。それに光圧弾を受けた衝撃で肋骨にひびが入ったらしく、体を動かすと猛烈に胸が痛む。手で胸を押さえ、顔を歪めながらの操船である。
その呻きながら操作卓に齧りついているオバルの横では、ウィルタが頭を抱え、全身に脂汗を滲ませていた。透視の結果湧き起った頭痛だ。
正面のスクリーンパネルには、地上数百キロの上空から見下ろす壮大な雲のパノラマが映し出されている。しかし岩船の中で、それを楽しむ余裕のある者はいなかった。
人の苦悩とは関係なく、岩船は順調に大気圏を降下していく。
すでに、グラミオド大陸東部は夜に入っていた。ラージュバルト山の南八十キロの海面を目指して、さらに高度を落とす。
薄墨色の雲海が、大陸から目標地点周辺に流れ出ていた。
夜間、雲の下は全き闇の支配する世界となる。陸側なら、雪と氷で肉眼でも地形を確認できるだろうが、夜の海の上となると……。
巨大な構造物とはいえ、闇夜の洋上で、果たして湖宮を見つけることができるだろうか。分厚い雲の状態からして、吹雪いていることも考えられる。いやそれ以前に、岩船本体から切り離され海に落ちた衝撃で、湖宮がバラバラに崩壊、海に沈んでしまった可能性もある。その場合は、湖宮にいた人たちの命は、すでに失われているだろう。
込み上げてくる不吉な予感を振り切り、パネルの中の画像に目を凝らす。
高度九百、雲の底に出た。やはり闇だ。
オバルが画像の感度を上げていく。雪はパラつく程度。最初に見えてきたのは、ラージュバルト山の右手に淡く輝くドーム状の光だった。周辺の雪と氷の大地が、仄白く浮き上がって見える。その尖り帽子の南に広がるのは、ひび割れ模様の入った棚氷だ。
と、それが目に入った。
砕けた棚表のやや南東、漆黒の洋上に、何かが恒星のように強い光を放っている。オレンジがかった石黄色の鮮烈な光だ。強く、弱く、まるで命あるものが呼吸でもするように瞬いている。やがてその光に目が慣れてくると、その輝きを取り巻く無数の小さな光も見えてきた。
「なんだろう、あの光……」
額を押さえ、食い入るように画面を見つめるウィルタの横で、ダーナとヴァーリの看病の間を縫って、春香もその光に目を向けた。
湖宮にあのような眩しい光を放つものがあっただろうか。
オバルが胸の痛みを堪えながらキーを操作、パネルの画像を拡大する。
やがてそれがスクリーンの中で、明瞭な姿となって浮かび上がる。吹きつける雪で画像はぼやけているが……。
春香にウィルタ、そしてオバルが、ほとんど同時に「アッ」と声を上げた。
雪の切れ間に立ち現れたもの、それは紛れもなく湖宮だった。
無数の光を宿した湖宮が、砕けた棚氷に囲まれて浮いている。極寒の洋上に孤高を保って浮かぶ湖宮は、カルデラ湖に浮んでいた時よりも遙かに宗教施設らしく思える。
拡大されていく画像のなかで、湖宮の端々に灯りを持って立つ人の姿が見えてきた。
ある者は講堂前の広場で、ある者は船着場の階段で、ある者は拝殿前で、小さな灯りを手に、じっとこちらを見上げている。灯りの数は千を下らない。
「数珠が光ってる!」
画面に顔を擦り付けるようにしてウィルタが叫んだ。皆が掲げている灯りは、声紋石の数珠だった。数珠がオレンジ色に輝いている。
そして鐘塔の望眺台で、一際明るい光芒を灯台のように放つもの。拡大された画像がそれを捉えた。
ジャーバラが降下してくる岩船に合図を送るように、輝くものを頭上に掲げた。
春香がプレゼントした、黒い石の欠けらで作ったイヤリングだった。
後に、ジャーバラから石が輝き始めた時のことを聞く。
湖宮は岩船から剥がれるようにして海面に滑り落ちた。一度海中に没したものの、湖宮は直ぐに洋上に浮かび上がり、海面を漂い始めた。
湖宮が決壊流によって海に押し流された当初、湖宮内部への通路を探すために、外壁の石を取り除く作業が行われた。その際、金属石の下にゴムと金属の合の子のような泡石の層が湖宮を覆っていることが認められた。湖宮の重量を軽減する目的で使われた素材のようだが、それが湖宮に浮力を与えているようだった。
しかし漂流を始めて二時間、徐々にではあるが湖宮が沈み始めた。
一時間に半メートルのゆっくりとしたペースで沈降が続く。このまま行けば、明日の午後には完全に波間に没してしまう。いやその前に、湖宮の上に残された人々は、全員が凍死しているだろう。岩船から離脱した段階で、ライフラインは途絶、照明も暖房も停止してしまったからだ。周囲を極寒の海に囲まれた環境で、いかに扉を閉ざしていても、寒さは容赦なく講堂の内側に入りこんでくる。
そして日没と共に、講堂の中も氷点下となった。
真っ暗な講堂の中で、人々はどうすることも出来なかった。湖宮は沈み続けている。凍えて死ぬか、波に呑まれて死ぬか、もはや生き延びるための手だてはない。死を覚悟する気力も費えていた。すでに人々の意識は、生を放棄した諦めの境地にあった。
そんな諦念が支配する講堂のなかで、誰かが祈りの経を唱え始めた。暗闇のなか、声からすれば、生まれたばかりの赤子を抱いた女性であったように思う。
呼応するように数人が唱和。そしてその現象が現れた。
声紋石の数珠が輝きだしたのだ。唱和する人が、一人、二人と増えると、光りを放つ数珠も一つ二つと増える。やがてあちらこちらで、祈りの経が響き、数珠という数珠が連動するように輝き始めた。
一際大きな光を放って輝きだしたのが、ジャーバラが耳につけていたイヤリングだった。祈りと共に、数珠は輝きを増す。祈りの声が、光となって自分たちを照らしている。
その数珠の輝きを目にした時、人々は思った。救いはある。少なくとも、この数珠が光を放つ間は、自分たちに生き延びる可能性は残されていると。
人々は、祈り、詠唱し続けた。
そして数時間後、人々が目にしたのは、雲を割り、闇のなかを降下してくる岩船の姿だった。無数の灯りが瞬く湖宮の横に岩船は着水した。
奇跡としか言いようがないが、水中に落ちた衝撃で失われた命はなかった。
いやただ一人、三日後に亡くなった者がいる。
オバルたちは、直ちに湖宮を大陸の東の岬、チェムジュ半島に向けて曳航する作業に入った。その間に、シャンは、ゴーブリ先生にも手伝ってもらい、ヴァーリとダーナの手当てを行った。ヴァーリは命を取り止めた。しかしダーナは出血が止まらず、おまけに意識が回復しない。春香が病巣と感じた顔面の黒い組織は、春香の時代でいう皮膚ガンだった。おまけに、ゴーブリ先生が行った検査で、ダーナが血液のガンにも掛かっていることが判明した。出血が止まらないのは、そのせいらしい。
十年前の惨事の際に、ダーナはかなりの量の放射線を浴びている。それが元での発病で、病巣の進行具合からして、発病後数年は経ているとみられる。
この体の状態を、ダーナは誰にも明かしていなかった。
処置をしながらシャンが、「なぜよ」と意識の戻らない妹の手を揺すっていた。
湖宮の皆が救われたことからすれば奇跡はある。あるに違いない。そう信じて手当ては続けられたが、曳航を開始して三日目の夜、「光を消してくれ」という、うわごとを最後に、ダーナは息を引き取った。
その翌日、湖宮はチェムジュ半島に到着した。
そこはウィルタの父と母の思い出の地でもある。ダーナの遺体は、海蛍の輝きが望める岬の丘に葬られた。
翼のない巨大な岩船が空中を浮遊する様は、遠目には飛行船に思える。
その浮遊しながら中空を移動できる飛行船のような機能を使って、オバルたちは水没したドバス低地の人たちを救い出していった。
その救出作業の合間に、オバルは岩船の航法や構造などを確認。救出の区切りを待ち兼ねたように、再度岩船を宇宙空間へと差し向けた。
眼下に、洪水に翻弄される大地、そしてサイト周辺から大陸全体に拡がった雲の渦が見えた。相変わらずサイトからは、上空に向けて光柱が放たれている。それは大陸の頭上三万六千キロメートルの一点で、地球の自転にあわせて回転する静止軌道上の構造物によって反射され、氷に覆われた大地を、昼夜を厭わず照らし続けている。
オバルは岩船の進路を、反転照射する構造物に合わせた。
やがて眼前に、その光の反射装置が近づいてきた。櫓のような構造物の中央に、巨大なリングを組み合わせた装置がある。
どうやってあのエネルギーの塊のような光の柱を宇宙空間で地上に反射させているのだろうと、疑問に思っていた。高密度のエネルギーで、反射装置自体が消失してしまうのではと考えられた。しかし反射させているのでなかった。空間を捻じ曲げることで、光の進路を曲げているのだ。古代の曲光管という装置の話を聞いたことがある。反射装置の中に組み込まれた巨大な曲光管を用いて、エネルギー柱を捻じ曲げ、そして捻じ曲げた光を一定の枠の中に拡散放射させる。
ウィルタが首に掛けていた紡光メダルのことを思い起こす。あの光を紡ぐ機能を逆に使えば、光は拡散する。
ファロスサイトの生み出した災厄を止めることは簡単だった。それに気づいた時、オバルが螺髪を掻き乱して悔しがった。
「地上の施設のことばかり考えていたから、思いつかなかった。上空に浮かんでいる反転照射装置を破壊すれば、照明は簡単に消すことができる」
オバルが、目前に迫ってきた巨大な装置に向けて、光の矢の照準を合わせた。それを見て、ウィルタが懐からあるものを取り出し、スクリーンパネルの前、操作卓の上に置いた。
ダーナの銀色の仮面だ。
「いいかな」
「オーケー」
ウィルタの返事と共に、オバルがスイッチを押し、光の矢が目的のものを射抜く。
構造物は静寂のなか宙空に砕け散り、あとは地上のファロスサイトから放たれた光の柱が、ただ宇宙の闇の彼方に向けて、どこまでも伸びるだけになった。
「ダーナさん、お墓の中でホッとしてるかな」
「きっとね」
春香が横に来て、辛そうな目でダーナの仮面に視線を落とす。
ウィルタは、ダーナの仮面を、地上の様子が良く見えるようにと、スクリーンパネルの前面に高く掲げた。
「後は炉の中の粒子パックが燃え尽きるまで、放っておけばいい」
言ってオバルは春香のほうを向くと、「次は春香ちゃんの番かな」と指差す。
「はい」
明るく返事をすると春香は、ポケットからボルボに託された卵を取り出した。
手の上のアメシスト色の卵を、脇からウィルタが覗き込む。
「この卵からどんな命が生まれるんだろう」
不思議そうに首を傾げるウィルタに、オバルが茶化して言った。
「冷凍睡眠のカプセルに入って、この宇宙空間で四千年、眠って待つかい」
ウィルタが思い切り舌を突き出した。
「わたし、これをデッキに置いてきます」
春香はウィルタの袖を引っ張るとデッキに向かった。重力のない空間で、狭い通路を泳ぐように移動しながら、春香はボルボの言葉を思い出していた。
この卵、言葉を代えればボルボの子供についてである。
ボルボは言った。この子は、四千年後に殻を破って誕生すると。
私はこの子を創造した。それは、私を超える存在としてだ。私は座して瞑想に耽る生命だった。だが私の子には、人と同じように動き移動しながら考える能力を与えた。そういう生命として創造した。
地球上の生命体は、小さな変異を繰り返しながら進化する。だがこの宇宙には、一代一代全く異なるシステムを作りながら、命を繋げていくタイプの生命もいる。
私は、私の子に、物質の質量そのものをエネルギーに転換する能力を与えた。転換するのは、光ではなく超光速微子、そう、あの他宇宙から、私たちのいる宇宙に届けられた、光速を遙かに超えるエネルギー波だ。私が、私の子に与えたのは、超光速微子というエネルギーを用いて、宇宙空間を移動する能力だ。
宇宙空間を飛び交う粒子を食らい、それを超光速微子のエネルギーに変えて、我が子は飛び続ける。一度飛び始めれば、自らの体に触れる物質を体内に取込み、それをエネルギーに転換して、さらに加速。宇宙空間の中でひたすら加速を続けながら飛び続ける。それがこの子に与えられた能力、運命だ。大型の回遊魚が海の中をひたすら呼吸のために泳ぎ続けるのと似ているだろう。
飛びながら、ひたすら物質をエネルギーに変えて加速し続ける。光速に近づくにつれ、質量も指数関数的に増大。その己を押しつぶすほどの質量に抗いつつ、逆に膨大な質量を用いて空間を捻じ曲げ、波打たせる。そして空間の波濤を繋ぐようにスキップ。
軽やかにスキップを繰り返しながら、やがてこの子は考える。なぜ自分は飛び続けなければならないか。なぜ、そういう存在として生まれてきたのかと。
生命とは、自らを在らしめた者の意志を受け継ぐ、否、背負わされた者だ。
ひたすら加速し、飛び続け、やがて我が子は拡大を続ける宇宙の果てに到達する。
いや果てという言葉は、あくまでも私から見ての言い回しにすぎない。それは果てではなく、拡大し続ける宇宙の先端、宇宙開闢以来、斥力によって拡大を続ける宇宙の先端だ。事象の地平線と言ってもいい。
宇宙の先端に到達すれば、その先に、我々のいる宇宙と系を同じくする幾多の別宇宙が望めることだろう。綺羅星のごとく様々な宇宙が鏤められた、汎宇宙界が。
全ての存在の元となった素空間に浮かぶ、多様な原理の宇宙群……。
私の寿命がまだ千年続くなら、私自身、自らの肉体を改造して宇宙を飛び、事象の地平線に立って、その多宇宙界に自らの足跡を印してみたいと思う。
だが、今の私にとっては、隣の銀河でさえが遠い世界だ。
夢を叶えるには、生まれ直さなければならない。
その自戒の念と共に私は我が子を創造、自身の見果てぬ夢を託した。
もちろん私の夢を感じるも、実行するしないも、この子の自由。だがこの子は私の夢を託されて生まれてきた。だからきっと実行するだろう。広漠とした多宇宙界へ。
その先の、異なる系の宇宙界がひしめく、更なる高次の世界へと……。
だが、それは我が子にとって、己の限界に打ち拉がれる時でもあるはず。私が我が子に与えることのできた能力は、事象の地平線に到達するまでの能力だからだ。
そして己の限界を知った我が子は、それを乗り越える方法を模索する。
容易くはないだろう。有限な生命にできることは限られる。与えられた時間も、能力も、機会も、全てが限られるのだ。生命とは一本のマッチの軸のごとく、瞬時に燃え尽きてしまうものだ。生命は、生命という足枷に歯噛みしながら、生を全うする存在でしかない。
そうして己の生の天井を知った時、我が子は次の世代に夢を託すことを考える。そして理解する。有限な生、しかしその有限が、世代を繋ぐことで無限に変わることを。
たとえ同じ夢でなくとも、世代が繋がれることで想いは残され、夢は紡ぎ続かれる。
生命とは目的を生み出し続ける意志そのものだから。
春香に小さな卵を託す際、ボルボはそのイメージを送ってきた。
それは一瞬にして春香の脳裏に入り込んだ。死を前にした老人の繰り言のようでもあったし、子を手放す親の言い尽くせぬ想いでもあったように思う。おそらく、宇宙には様々な生命の有り様があるに違いない。そのどれもが、たとえ言葉は持たずとも、万感の願いを込めて、自身の想いを次の世代に託し続けていることだろう。まだ子供の年令に過ぎない春香にも、その想いの深さだけは十分過ぎるほどに感じ取れた。
「想いを継ぐ者」
その言葉が、口をついて出てきた。
ウィルタが「何?」と聞く。
「ううん、なんでも」
春香は、小さな卵を外部に繋がるデッキに置いた。
ウィルタと二人、内側の通路に下がり、ハッチのボタンを押す。閉じていく扉の向こうに、小さな卵が一つ、ポツンと見えていた。
孤独な生命、そう思った。人は無数の人の集まりの中で、生を紡いでいく。ところが、あの卵は生まれた時から一人なのだ。自分と同じ生命もただ一つ。きっと地球は、命に充ち溢れ過ぎていたのかもしれない。地球がもっと孤独な生命の世界なら、何かが違っていたかもしれない。
扉が締まり、淡く繊細な色の卵は一人になった。
二人は卵を置いたデッキの中の空気を抜き、真空にして再び管制室に戻った。正面のスクリーンパネルには、デッキの様子が映し出されている。それをオバルが、禁煙ギセルを口に銜えてぼんやりと眺めていた。
オバルがスイッチを押し、ハッチの開口部と逆方向に軽く推進装置を働かせる。真空の宇宙空間にいると感じないが、今この岩船は猛烈な速度で地球の上を回っている。慣性の法則に従って、宇宙空間に飛び出していく小さな卵が見えた。そして直ぐにアメシスト色の卵は宇宙の闇に溶けて見えなくなり、あとには一面の星空だけが残された。
春香が呟いた。
「元気でね……」と。
しばらく卵の消えた宇宙空間を眺めたあと、オバルがパンパンと手を叩いた。
「さあこれで宇宙での用は終わった。そろそろ地上に帰るとするかな」
ウィルタが、残念そうに言う。
「ねっ、ほんとに岩船を、ここに置いていくの」
「皆で決めたんだ。それに、俺もそうすべきだと思う。ここに保存してある技術を使えば、確かにいろんなことが可能になる。でもそれは、世界を滅ぼすことであるかもしれない。それに何もこの船を爆破しようってんじゃない。ここに置いていくだけだ。ここのシステムは、放っておいても、あと数千年はここにあるものを守ってくれるさ。
それに、ここにある物を抜きにしても、岩船は俺たちに素敵なものをプレゼントしてくれたじゃないか。あの地上に残してきたドームを見たろう。地球にかつて存在した様々な森や林や草原が、小さくてもそのままの形で切り取られて保存されていたんだ。あれだけでも、今後の地上のことを考えれば、どれだけの恩恵を俺たちに与えてくれるか」
ウィルタがコクンと頷いた。
「そろそろ、行きましょうか」
そう言って、操縦席に座っていたバレイの通信官の若者が、計器のボタンを押した。
「ほんと、この岩船って通信機よりも扱いが簡単ですね、何もかも自動でやってくれる」
軽い振動があって、岩船本体から管制室を含んだ先端の一部が離れた。
連絡艇だった。
「せっかくだからスクリーンパネルの映像じゃなくて、もう一度、肉眼で地球を見ておきたいわ」
春香の要望に答えて、通信官の若者が、正面のスクリーンパネルを透明に変え、船体外部の防護シャッターを開く。
青い地球が、防護シャッターの向こうに見えてきた。
真っ暗な中に浮かぶ、瑞々しい水滴のような惑星。
先程、ボルボの卵を宇宙に打ち出す際に、デッキの小さな窓から見えた太陽が脳裏を掠める。漆黒の宇宙を背景に太陽がギラギラと輝いていた。
人類が宇宙に足跡を印す前の時代のこと、地上から見上げる青い空を背景にした太陽は、暖かな日差しで大地を照らし万物を育む豊穣の神だった。しかし一度宇宙から太陽を見れば分かる。太陽とは白々しいエネルギーの塊なのだ。重力の檻に捕えられた物質が、毎秒数百トンの質量をエネルギーに変えて周囲にまき散らす、剥き出しの裸の炉だ。
この宇宙を構成する物質の九十九・九パーセントは、太陽のように電離したプラズマ状態にある。その巨大なプラズマの塊である太陽の浮かぶ宇宙空間は、マイナス二百七十度の極低温にあり、単位空間当たり水素原子が二個あるかないかの真空状態。その希薄な空間を、高速でプラズマや放射線が飛び交っている。
それは、有機体である生命が生存を許されることのない、容赦呵責のない猛々しい世界だ。もし人がそこで生き存えようと思えば、地球の環境をそっくり宇宙船というカプセルに詰めて持ち出すしかない。
その過酷な宇宙の中に浮かぶ、青い水滴のような惑星。
人が生を紡ぐことができるのは、地球を取り巻く磁場と大気が、荒々しい宇宙から大地を守る障壁となってくれるからだ。ほんの薄皮一枚にも満たない大気の層が、地球表面に張り付き、その下で暮らす生命を守ってくれる。
有機体の生命の生きる場所は、眼下の青い星の大気の下にしかない。
「綺麗……ね」
目の前に浮かぶ青い星を見て、思わず春香がそう漏らした。
ウィルタが「あっ」と声を上げて、前方を指さした。
無数の光の玉がこちらに向かって上昇してくる。
「アヴィルジーンだ」
宇宙を旅する恒星間生物は、連絡艇の近くまでくると、透明な羽を次々と広げ始めた。個体、液体、気体、電離体と、相を転移させながら生きる生命体。
アヴィルジーンが、翼のような電離体の体に太陽からの粒子風を孕みながら、星空の彼方に飛び去っていく。様々な粒子が放つ光で、翼が光り輝く。かつて小説で宇宙蛍と言われた、その美しい姿が実在するとは。
生命はどこかで自分の創るものを経験から模倣する。もしかしたら、ボルボは自身の子を創造する際、アヴィルジーンの姿を参考にしたのかもしれない。
そんなことを春香はふっと思った。
しばらくの間、管制室にいた者は、その光景に見惚れた。
オバルが踏切りをつけるように、皆に声を掛けた。
「さあ、この連絡艇には、一回分の飛行の燃料しか入れていない。地上に下りてしまえば、もう二度とこの青い星を見ることはできない、しっかりと見ておくことだ」
オバルがスイッチを押した。
防護シャッターが垂れ幕のように上から下に視界を閉ざしていく。
春香は目を瞑った。
まぶたのなかには青い星の残像がまだしっかりと残っている。
二度と見ることはない、確かにそうだろう。しかし、わたしは何度でもこの青い星を見る。心の中に焼き付けた青い星を思い出して。
連絡艇は静かに降下軌道に入った。
次話、最終回 「記」
星草物語を読んでいただき、本当にありがとうございます。七面倒な、それも長~い話で、肩も凝ったし目も疲れたことでしょう。年末の慌ただしいひと時、温ったかいお風呂にでも浸かって、ゆっくりお休み下さい。それでは新しい年が、あなたにとって良い一年になりますように。 東陣正則