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星草物語  作者: 東陣正則
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岩船


    岩船


 その頃、氷上の高翼機の中では、オバルとハガーが、二人からの連絡が入るのを今か今かと待っていた。ハガーは泰然と構えていたが、オバルは時計の針に目を落としては、苛々した表情で額を押えていた。朝起きた時に治まっていた頭痛が、ぶり返してきたのだ。あの自白剤の副作用に加えて、この間、操舵室の電子機器や魔鏡帳の操作に没頭していたせいか、引切りなしに頭痛が頭を襲うようになっていた。

 マフポップの持っていた強力な頭痛薬が懐かしい。シャンにあの薬が手に入らないかと聞くと、飲んでマグのように失明したいかと、凄い形相で睨まれた。

 それはそうだが、しかし、とにかくこの頭痛だけは……。

 こめかみを押さえながら、子供たちの潜り込んだ穴に目を向ける。

 二人が中に入ってから、もう四十分が過ぎようとしていた。ウィルタには、十分おきに通信を入れるように言ってある。それが、これから階段を下りるという一報があった後、全く連絡が入らなくなった。二十分ほど待って痺れを切らし、オバルの方から送信してみるが、電波が繋がらない。穴の中に入ったのだから、電波が繋がらなくても当然なのだが、そのことに考えが及ばないのか、それとも湧き上がってくる頭痛で苛々が抑えられないのか、オバルは、ウィルタの通信機の登録番号を憑かれたように押し続ける。

 一方、ハガーは操縦席の計器をじっと見つめていた。

 エンジンの潤滑油の温度が下がっている。外はマイナス四十二度、エンジンは掛けっ放しにしてあるから、何か変調があれば音で分かる。

 気がつくと、窓の内側にも氷がびっしりと付着。機内の温度も氷点下を大きく下回っている。機体の外装の隙間を完全に樹脂製のゴムで塞ぎ、潤滑油と燃料はヒーターで保温してある。が問題は機械と機械の間のグリスの凍結だろう。

 ただ、そういったことよりも、気掛かりなのは、高度計の数値が上昇していることだ。離陸してもいないのに気圧高度計の数値が上昇するということは、周辺の気圧が下がっていることを示している。

 頭を抱えこんでいるオバルに、

「何か深刻な話でもする相手に出会ったんじゃないか。もう時間切れだ、離陸する」

 あっさりそう言い切ると、ハガーが操縦系統の確認を始めた。

 通信機から手を離すと、オバルが声を高めた。

「おいおい、いくら約束の時間を過ぎたからって、それはないだろう」

「俺の仕事はこの飛行機で湖宮に帰還することだ。それに、まだ死にたくない」

 振り向いて方向舵や補助翼の動きを見ながら、ハガーが空いた方の手で、これを見ろと計器の一つを指先で叩いた。

 オバルが声を詰まらせた。高度計が三千メートルを指している。

 オバルの酷い頭痛は、急激な気圧の低下も関係しているらしい。

「なんだ、これは、どういうことだ」

「分からん」

 素っ気なく答えながら、ハガーは高度計の目盛りをゼロ地点に合わせるや、スロットルレバーにゆっくりと力を込めた。エンジンがアイドル状態から回転数を上げていく。プロペラが回り、騒然とした音が辺りを揺るがし始める。

 エンジンの吹き上がりを確認しつつ、ハガーが声を張り上げた。

「俺にはその『声』とやらは聞こえない。しかし、危険の足音が近づいているということは分かる。とにかく命あっての物種だ。離陸して上空から様子を見る。もし何も起こらなければ、そして子供たちが穴から出てくれば、もう一度下りればいい」

 説明するハガーの前で、磁針計が狂った踊り子のようにクルクルとダンスを踊り始めた。

「趣旨替え、俺もその上空待機に賛成する」

 言ってオバルが顔を上げた機の前方、氷の穴から、青白い光が放散され始めた。

「離陸する、安全ベルトを締めてくれ」

「分かった、急いでくれ」

 ベルトを締め直す間にも、穴からの光は輝きを増してくる。真昼なのに、サーチライトのように光が空に向かって伸びる。

 その時、穴の中から這うようにして子供たちが飛び出してきた。

「出た、子供たちだ!」

「扉を開けろ、子供たちが乗り込み次第、離陸だ」

 機の離着陸用の橇が、氷面の雪を引きずるようにして、人の歩くほどの速さで動き出した。氷上に薄く積もった雪が、プロペラの風で微粉を叩いたように巻き上がる。

 方向舵を動かし機体を回転、機首を穴と反対方向に向ける。穴から放出される光は、刻々と強さを増している。まるで穴の中に太陽でもあるかのようだ。

 扉を開けたオバルが、子供たちに向かって「急げ!」と、叫んだ。

 子供たちが動く機体に追いすがり、オバルが二人とゴボウ抜きに引き上げる。

「拾った」と、その声と同時に、ハガーがスロットルを押し込んだ。

 機が加速して雪の上を滑るように走り出す。後方の穴から放散する光は、もう直接目を向けることができないほどに光度を増している。

 息を整えるのももったいないという表情で、ウィルタが「早く」と、ハガーの肩を叩く。

 ハガーがチラッと後ろに目を走らせた。

「分ってる、あの光を見れば、誰だって急いでこの場を離れたくなる。だが飛行機というのは、そう簡単には離陸してくれないんだ」

 早口でそう言い返すと「光は秒速三十万キロ、こっちはどんなに頑張っても、時速二百八十キロ。いざという時は諦めろ!」

 最後はやや語気を強めた。

「そんな……」

 光は春香たちの出てきた穴からだけでなく、周辺の氷のあちこちから、分厚い氷を突き抜けるようにして洩れ輝いている。光の束がミラーボールを回転させたように、四方八方に飛び散る様は、まるで氷の下で光の爆弾が膨れ上がっているかのようだ。

 磁気コンパスの針が、捻れて計器の中で止まってしまった。

 外を睨みつけていたオバルが、「待ってくれよ、待ってくれよな」と、哀願するように窓に顔を擦り付ける。その願いを無視するように、窪地全体の氷が持ち上がり始めた。

「うわわわわ、待ってくれーっ!」

 叫び声を上げたオバルの横で、ハガーがゆっくりと操縦竿を引く。

 橇が雪面を離れると同時に機はふわりと氷上から浮き上がり、そして一気に上空に舞い上がった。その瞬間、ドーム状の光が辺りを包んだ。

 一面が幾重もの光の層に覆われる。

 一秒、二秒、数秒後、ドーム状の光球の中から、高翼機の先端のプロペラが、そして機首、風防と機の前半分が姿を見せる。しかし、ドーム状の光球が高翼機とほとんど同じスピードで拡がっているため、光の外に抜け出せない。機体だけを見ていると、まるで高翼機が光球に突き刺さっているように見える。

 一分余り飛んで、ようやく機体が、膨らみ続けるドーム状の光球から抜け出した。

 徐々に機体と光球の間が広がり始める。

「やれやれ、なんとか光の魔の手に捕まらずに済んだみたいだな」

 胸を撫で下ろすオバルの横で、ハガーは依然真剣な表情で操縦桿を握り締めていた。

 さらに数分、レース中の競走馬のように前のめりに機を飛ばして、ようやくハガーが後ろを振り返った。その時には、すでにドーム状の光は、ラージュバルド山の東山麓全体を包んでいた。光のドームから、波のように薄い光の膜が虚空に拡がっては消えていく。

 春香とウィルタは窓に顔をくっつけ、じっと遠ざかっていく光の半球を見ていた。

 前の座席から振り向いたオバルが、子供たちの真剣な眼差しを見て、「どうやら『声』の主とやらに、会えたらしいな」と声をかける。

 二人は何も答えない。窓ガラスに顔を押しつけ微動だにしない。

 爆音と共に高翼機が海岸の氷瀑を越え、光の輝きが後方に遠ざかっていく。

 二人の頭の中に、光の波紋と共に、まだ『声』が届いていた。ただしそれはもう『声』というよりも、歌のような響きとなってだ。

 人が歌う歌も、突き詰めれば空気の振動、空気の中を伝わる波である。海岸に打ち寄せる波の音に人が身を委ねるように耳を傾けるのは、そこに波という歌があるからだ。この世界は波、波動に満ちている。水の波から、空気の波、電磁波の波、生命は波の中にある。そして生きるということは、幾多の波の中を泳ぎながら、みずからが新しい波をそこに加えていくということである。誰かに話しかけるということは、この世界に新しい波を生み出し、それを相手に送り届けることだ。

 一つの命の波が終わろうとしていた。この惑星上で歌われた波としては、異質な波であったかもしれない。波の中に刻まれた声が少しずつ小さくなっていく。

 ウィルタが前に向き直った。まだ波の歌はウィルタの心に届いている。ただそれに耳を澄ませることが、ウィルタには切なくなっていた。

 一方、春香は窓に顔を押し当てたまま後方を見ていた。そして耳を傾けていた。

 何かを見届けるように……。

 宙空に残る『声』の余韻に全身をそばだてつつ、手はポケットの中の物を握り締めていた。ボルボから預かった、アメシスト色の卵と、漆黒のボールである。

「声の主とやらは、悪いやつじゃなかったみたいだな」

 興味深そうに話し掛けてきたオバルを、ウィルタが上目遣いに見上げた。

「春香の息子だったんだよ、いや娘かな。歳は二千歳だけどね。それでもって、死んで、いま石に戻りかけてる」

「なんだそりゃ」とオバルが顎を突き出す。そのとたん、おならが鳴った。

「おっと失礼、高度が上がると、ガスが出やすくなっていけない」

 ハッとして、ウィルタが座席の上に目をやった。穴に入る前に置いた包みが無くなっている。ウィルタが眉を吊り上げ、オバルを睨んだ。

「オバルさん、ぼくのイモを食べたな。あとで食べようと思って残しておいたのに」

「ハッハッ、約束の時間に連絡を入れなかった罰だ、心配してたんだぞ」

 オバルが冷やかすように、手にしていた通信機を、ちらつかせた。

 ウィルタが、ふてくされた顔で言った。

「だって、真面目な話をしてたんだもん」

「石とか?」

「違うよ、意志を持った光の球とだよ」

「分かったもういい、頭痛が酷くなる。話は湖宮に戻ったら聞くよ」

 顔をブルブルと左右に振ると、オバルは笑いながら前に向き直った。

 そのオバルに、航空眼鏡をたくし上げたハガーが聞く。声が緊張を帯びている。

「おい、オバル、さっきの光のせいかな、目がおかしい気がする。前を見てくれ、湖宮が棚氷の上にあるように見えるんだが」

 言われてオバルが機首の前方に目を向ける。オバルが声を上げる前に、後ろの座席のウィルタが、オバルの肩越しに「あーっ!」と叫び声を上げた。

 機は海岸の氷瀑を過ぎて、棚氷の上を高度八百メートルで飛行している。湖宮までは、まだ十キロ。この距離からすれば、湖宮は棚氷と棚氷の間に挟まれたクジラの背のように見えるはずだ。それがどうも、クジラが氷の上に乗り上げたように見える。

 湖宮が近づいてきた。今度は春香が声を上げた。いや春香が指摘するまでもない。飛行機の中の四人全員にそれが見えていた。

 湖宮は氷の上にある。ただ氷の上に乗っているのではない、棚氷と湖宮の間に、もう一つ湖宮が入りそうな空間が空いている。浮き上がった湖宮のやや右手に目を移すと、そこにあるのは、氷のない黒い開水面。棚氷に囲まれて湖宮が立ち往生していた場所だ。

 湖宮まであと七キロ。湖宮と棚氷の間が少しずつ広がっているように見える。

 湖宮の舷側を伝って海水が滝のように流れ落ちている。その瀑布の音が聞こえてきた。

「なんてことだ、あのばかでかいやつが宙に浮いているなんて」

 あまりの事に絶句したオバルが、自分の漏らした言葉に気づいて、もう一度それを口にした。

「湖宮が宙に浮いている……だと」

 遠目からは陰になって分からなかった湖宮の下の部分、今まで水中に隠れていた船底部分が、近づくにつれてはっきりと見えてきた。通常の船の船底とはまるで違う、ごつごつとした黒い鋼板を張り付けたような表面だ。その船底が何カ所か割れ、巨大な円環状の構造物が露出、それが淡く輝いている。

 ハガーとオバルの間に顔を突き出した春香が、風防ガラスの向こう、近づいてくる巨大な湖宮を見て、思わず口にした。話す春香の口元が震える。

「もしかしたらって、考えてた。さっきボルボが、宇宙って言葉を使ったから。あれは水に浮かべる船じゃない、船は船でも宇宙船だわ」

「宇宙船、あれが、あんな巨大なものがか」

 オバルがまさかとばかりに前方に目を凝らした。

 あと、五キロ。全長四百メートルはある湖宮が、視界の中で急速に拡大してくる。その湖宮が、ドーム状の奥の院のある側を下にする形で傾き始めた。

 春香が急いた声をハガーの耳元に投げる。

「ねっ、何だかとても嫌な予感がするの。早く湖宮に着陸して。本格的に動き出したら、とても追い付けない気がする」

「分ってる、悪い予感がプンプン匂う。燃料効率は悪いが飛ばそう」

 高度を下げながら、棚氷の上を滑るように飛ぶ。スロットルを一杯に押し込んだため、エンジン音とプロペラの回転音が変わり、椅子の背もたれに体が押しつけられる。蜂のように一直線に機が湖宮を目指す。

 眼前にスカートの襞のように滴る水の壁が近づいてきた。残り三キロ。

 湖宮はゆっくりと船体を傾けていた。その傾きの角度が増していく。それにつれて、講堂やドームなどの宗教施設の乗った湖宮の上面が、ズルズルと滑るように湖宮本体から剥がれてずり落ち始めた。

「湖宮が落ちる」

「宇宙船以外の部分を切り離しているんだ」

 叫んだオバルも、思わず息を呑む。ゆっくりとスローモーションのように、湖宮の上部が横にスライド、そのまま棚氷の海になだれ込んだのだ。絶壁のような水柱が洋上に立ち上がり、打ち沈む波の衝撃で周囲の棚氷が捲き込まれるように次々と割れていく。

 宇宙船は、背中に被っていた聖域部分を脱ぎ捨てると、更に傾きの度合いを強める。

 距離、千メートル。あっけに取られているオバルの眼前に、巨大な宙に浮く構造物が迫ってきた。だがそれは、今までの湖宮とは全く別の存在、紛れもなく古代に建造された巨大な宇宙船だ。

 先程まではまだ距離があったために、一見するとガスで膨らませた飛行船のようにも見えた。それが、いま目の前にあるのは、ごつごつとした黒っぽい金属のような表面で、それが圧倒的な量感で視界の上下両端に拡がっていく。

 全体としては長楕円形の繭のような形をしているが、印象はまるで巨大な岩山が宙に浮いているとしか言いようがない。晶砂砂漠のホブルは、昔の宇宙連絡艇を岩船と呼んでいた。しかし、これこそが正に岩船だ。

 底部で輝く円環の構造物が推進機関のようだが、そこから何かが吹き出ている気配はない。なのに巨大な岩船の下に拡がる棚氷には、一面に細かく亀裂が走り、氷と氷の間では海水が泡立つように跳ねている。粒子やガスを噴出するエンジンとは全く別の推進機関なのだろう。

 距離、五百。飛行機の前方を、岩船が完全に塞ぐ。

 もう岩船の傾きは二十度近い。低部の円環がさらに迫り出し、その向きを変化させ始めた。上昇する準備に入ったのかもしれない。

 そして岩船に手が届くと思った瞬間、高翼機は湖宮の鐘塔のあった辺りを掠め、岩船の向こう側へと突き抜けていた。

 ハガーが操縦桿を傾け、機を大きく反転させる。

 全長四百メートルの巨大な構造物に較べて、四人の乗った単発の高翼機は余りに小さい。象にまとわりつくハエのようなものだ。

 擦れ違い様に見えた湖宮の表面は、ゴツゴツとした岩のような表面と、無数の細かい方形のブロックが入り混じって、全体として網目状の模様を成していた。網目の目に見える部分が、ブロックとブロックの接合部にできた溝だ。

 見ると、巨大な繭の後方の一部に、丸い半球状の構造物が三つ隆起したように並んでいる。その半球の上部だけが、他の部分の黒っぽい色と違って黴びた色をしている。苔の張り付いていた奥の院のドームだ。

 ハガーとオバルが顔をくっ付けるようにして言葉を交わす。ハガーは頷くと、機を大きく左に旋回させて、持ち上がりつつある岩船の先端部分に機首を向けた。

「どうするの」

 春香の問いに、オバルが大声で指示を出す。

「岩船の前方で、奥の院と同じように黴びた地肌を晒している部分がないか探せ。そこが、拝殿の後ろに繋がる操舵室のある建物だ」

 すぐにウィルタが身を乗り出し、腕をその方向に向けた。

「あそこ、四角い箱が縦にずらっと並んでいる先の、出っ張った部分」

 他の三人にも、その場所が見えた。長方形の構造物の先端部分が黴びた色をしている。後ろに細長い管状の施設が続き、管の一番手前に、ハッチのような窪みがある。拝殿のタペストリーの後ろにあった、操舵室に向かう通路の入り口だ。

 プロペラの音が聞こえたのか、ハッチの扉が開き、人が姿を現した。ダーナだ。

 着信音が鳴ると同時に、「ジュールよ、ジュールが生きていた」というダーナの声が飛び込んできた。

 オバルが手の中の通信機に向かって叫んだ。

「そうだと思った。直ぐに、そちらに行く」

 機は操舵室の建物の上を通り過ぎると、一旦高度を上げながら、大きく左に旋回。ハガーは、岩船を左下方に見ながら、その表面に視線を走らせた。着陸する場所を探さなければならない。岩船の表面を嘗めるように飛ぶ。逆側で反転して、もう一度、今度は岩船の右側面。そうする間にも、岩船は傾きを増していく。今で、二十五度くらい。このままいけば、いずれ岩船は倒立する。

「急がないと着陸できなくなる」

 ハガーは唇を噛むと、機を岩船の上方に引き上げた。

 眼下に岩船の傾いた上面が拡がっている。方形のブロックは、大きなものは長さにして三十メートル、小さなものは十メートルほど。ブロックの表面は平面だが、いかんせん着陸するには狭すぎる。普通に着陸すれば、そのままブロックとブロックの段差に引っ掛かる。それに、溝に交叉するように、壁状のブロックが、いたるところに突き出ている。へたをすれば、それに激突するだろう。着陸するとすれば、機を失速させて、機を三十メートルのブロックの平面上に置くようにするしかない。それなら可能だ。

「どうする」と、オバルが悲壮な声で前方を睨む。

「大丈夫、なんとかする」

 ハガーが機首をもう一度、岩船から引き剥がした。後方下から岩船の傾きに合わせて上昇。エンジンを止め、失速させて着陸させようというのだ。

 と、エンジンの音が変わった。機体を着陸させることばかりに気を取られて、ほかの計器を見ていなかった。

「くそう、やっぱり、オイルの不純物が濾過し切れてなかったか」

「どうした」

 オバルの問いに、ハガーが顔を歪めた。

「ドアを開けて飛び降りる準備をしろ、急げ」

 燃料用の油作りを急いで行なったために、不純物が混入、それがエンジンのどこかで焼き付いた、いや、給油装置の途中にある濾過装置を塞いだのかもしれない。エンジンが気の抜けたような音を最後に停止、プロペラの音が消える。失速させる前に失速。もう下から上昇しつつ失速させる手は使えない。

 しかし考えれば、この機は固定した橇を装着している。宇宙船の今の傾きでは、橇が滑って、傾いた方形の面の上では停止できない。

 眼下の海は、岩船の推進装置の波動の影響で、氷が細かく割れて泡立っている。不時着できる安定した棚氷まで滑空できるかどうかも、賭けだ。

 その瞬間、ハガーは目を閉じた。


 飛行機に乗るようになってちょうど二十年。飛行回数も三百回を超え、ハガーは警邏隊航空局の現役操縦士の中では、最古参のベテラン操縦士になった。操縦桿を握っても、昔のように首が攣るような緊張感を感じることはない。それが本当に久しぶりに、初めて飛行機に乗った時のような緊張が、全身を締め付けていた。

 自分は希望して操縦士に職を得たのではない。警邏隊の燃料局で、たまたま航空燃料の担当に配属されたことが縁で、機体の整備、そして操縦へと回された。

 当初は、臆病者の自分に操縦士などという仕事が務まるだろうかと心配していたが、なんとかここまで職務を全うしてきた。ただ回数は少ないが、二度、操縦桿を握る仕事から足を洗って、燃料局に戻ろうと思ったことがある。どちらも生死を分ける事故に遭遇した時だ。

 一度目は、副操縦士として復元飛行機の初飛行に同乗した時である。

 飛行機事故の大半は離発着時に発生する。特に着陸時が危ない。あの時もそうだった。 復元機の初のデモ飛行が無事終了し、ホッとしたその間隙を突くように着陸に失敗。機体は炎上、ケガをした自分は、機長に背負われて火の手の上がった機から逃れた。後ろの座席に写真家が残っているのは分かっていた。しかし燃料への引火を考えると、とても引き返す余裕はなかった。

 そして、二度目の事故は、サイト1の惨事の時。

 炉が暴走を始め、見学者、関係者、スタッフたちが、なだれを打ったように現場を離れる。そのサイトを脱出する人々を運ぶ機の機長を自分はしていた。

 爆発の危機が迫っていた。一刻も早くサイトを離れなければならない。そんななか、副操縦士が、搭乗を懇願する幼児連れの婦人を、次の便に回れと怒鳴り付けていた。次の便では助からないことは分かっていたが、機の定員はすでに超過しており、乗客を降ろしたいくらいなのだ。この子だけでもと泣きながらしがみ付く婦人に手を焼いた副操縦士が、機長の自分に判断を仰いできた。

 子連れの婦人を乗せること、つまり重量をさらに五十キロ超過させることで、どの程度危険が増すのか。その可能性と婦人と幼児の命、そして今搭乗している二十余名の安全を天秤に掛ける。瞬時には判断しかねることだった。

 結果、自分は幼児ともども婦人の搭乗を許可した。

 そして重量を超過した機は、都を目前にして、貴霜山の側面を回り込む強風に煽られ、バランスを崩して墜落。失われた命は二十三名。助かったのは、当時サイトの広報部長をしていたダーナ総監と、総監に助けられた機長の自分だけだ。幸か不幸か、サイト爆発という非常時ゆえに、墜落の責任を問われることはなかった。

 操縦士とは一瞬の判断を要求される職業だ。迷う前に判断を下すことが要求される。即決の苦手な自分にとっては辛い仕事だ。それでも、一度足を突っ込んだからにはという、意地のようなものがあった。

 操縦士になって二十年、サイトの事故からでも十年が過ぎた。

 長く飛び続けた成果だろうか、気がつくと自分のなかに、ある種の気構えのような物ができていた。慣れと言ってもいい。つまり操縦士とは、離陸と共に死に、着陸と共に息を吹き返す者ということだ。

 日々、死に、そして再生する。死者に死の恐怖はない。迷いもない。あるのは、これまでの経験から最善の策を割り出す、判断装置としての自分だ。三百回のフライトを経験したということは、三百回の死を経験したということでもある。 

 離陸と共に自分は死ぬ。そして自分は今、死者だ。自分は死んでいる。


 そう思った瞬間、ハガーは閉じていた目を開けた。

 目の前には、高度を落とし続ける機がある。あと一秒で機体は、岩船と同じ高さになる。

 刹那、脳細胞が判断を下した。今なすべきことは、湖宮に乗り込むこと。棚氷に不時着しても、その先にあるのは時間の差さえあれ本物の死だ。

 ハガーが操縦桿を握る指に力を込めながら叫んだ。

「機体をばらす、行けと言ったら、飛び降りろ」

「ばらすって?」

 そうウィルタが聞いた時には、機体はもうブロックから突き出た壁めがけて突っ込んでいた。突然バリッという派手な音と、衝撃が機体を包む。ウィルタの目に、後方に飛び散る砕けた着陸用の橇が見えた。ブロックの角に着陸用の橇をぶつけて、吹き飛ばしたのだ。

「橇が!」

「いいから、早く飛び出す準備を、扉は締めたまま、膝を抱えて頭を低く!」

 ハガーの吠えるような叫び声に、オバルはハッとした。ハガーが何をしようとしているのか分かったのだ。前方を見る。機体は今まさに岩船の表面にできた溝に突っ込もうとしている。オバルが叫んだ。

「頭を下げろーっ!」

 声と被さるように、体を吹き飛ばす衝撃が四人を襲った。そして頭の上を猛烈な突風が吹き荒ぶ。溝に突っ込んだ衝撃で、高翼機の左右の翼が、機体の天井ごと引き剥がされたのだ。胴体だけとなった飛行機が、ブロックの間の溝を、スキーのボブスレーのように滑る。機体の側面が溝の壁面に擦れて、火花を散らし、後方をちぎれた尾翼が、枯れ葉のように舞いながら転がっていく。

 あまりの振動と音で、椅子にしがみついているのがやっとだ。左右は溝の壁で何も見えない。見えるのは溝の上、頭上の空だけ。溝が曲線を描いているために、飛行機の胴体と壁面が擦れあってブレーキとなり、滑る速度が一気に落ちる。

 春香が叫んだ。

「前を見て、カーブの先に、壁が見えない」

「やばい」

「どうして」

 座席の間から頭を突き出し、前方を睨みつけるウィルタに、オバルが叫んだ。

「分からないか、この岩船の形は球体、曲面をしている。先に何も見えないということは、あの先までいけば、今度は下り坂になるということ。そして最後は宙に飛び出す、つまり下に落ちる」

「説明はいいから、急いで」

 最初に春香がベルトを外し、胴体の後ろに上がった。それに続いてウィルタ、そしてオバル。ところがハガーが座席に座ったまま立ち上がらない。安全ベルトが外れないのだ。ナイフで切ろうとしている。もう目の前に岩船の側縁の落ち込みが迫っている。

 そしてその先には海面が。カーブを過ぎれば、あとはもう海面に向かって一直線だ。

「急げ!」

 オバルがハガーを怒鳴りつける。

「行け、一緒に墜落したいか、俺は大丈夫、信じろ!」

 止まりかけていた胴体がまた滑り始めた。と同時に目の前に水平線が迫り上がってくる。それも斜めに。岩船が直立するだけでなく、全体を回転させている。宇宙空間に打ち上げられるロケットは、姿勢を制御するために回転しながら上昇する。この岩船も、上昇する際、姿勢制御のために機体を回転させようとしているのだろう。

 四人を乗せた胴体の滑るスピードが速くなってきた。それに、溝の壁にぶつかる振動で、しがみついていないと振り落とされてしまう。ハガーが怒鳴った。

「行け、逃げ遅れたのを、こちらのせいにされちゃたまらん。分かるか、そう二十年前に機長が言っていたぞ!」

「はっ……?」

 一瞬、オバルは、何を言われたのか理解できなかった。が、次の瞬間、ある情景が蘇ってきた。二十年前の、あの復元機のデモ飛行の墜落の時のことだ。

 機は着陸時に失敗して墜落炎上した。前の座席に座っていた正副二人の操縦士は、意識朦朧の自分を機内に残して逃げ出した。警邏隊とは、市民の生活と安全を守ることを責務としている機関である。それが、あろうことか……。

 間一髪、オバルは機を脱出すると、怒り心頭の面持ちで、先に逃げ出した機長を追いかけ殴り倒した。ところが機長に気を取られていたのか、爆発した機体から飛んできた破片に気づかず、それを背に受け、重症を負ってしまう。

 そのまま病院送りで、退院後、無許可でのバイトが発覚して学院を除籍になった。後に級友から教えられたのは、許可の有無よりも、機長を殴った暴力行為の方が問題視されたらしい。その殴り倒した機長の顔は、今でも鮮明に覚えている。しかし副操縦士のことは、ある一点を除いて何も覚えていない。

 その一点とは、副機長の左手首に、お守りの革のバンドが填められていたということだ。

 オバルの目が、ハガーの腕に填められたバンドを認めた。

「お、お前!」

 オバルが声を上げた瞬間、溝の段差で胴体が跳ねるように揺れ、その衝撃でオバル初め三人は、浮かび上がるようにして胴体の外、溝の中に放り出された。

 空と海が空間を斜めに二分するように拡がっている。その海に向かって、ハガーを乗せた飛行機の胴体が飛び出す。そして機体は、眼下の氷床の海に吸い込まれるように、放物線を描いて落下……。

「ハガーさんが!」

 口に手を当て悲鳴を抑えた春香に、機体から何かが離れ、それがパッと大きく花のように開くのが目に入った。パラシュートだ。

「野郎、あんな物を用意してやがった!」

 溝の中で立ち上がったオバルが指を鳴らす。そのオバルの足が、ズリッと滑った。ウィルタと春香も体が傾かないように、溝の側面の壁に手を当てる。忘れていたが、岩船は回転しながら角度を上げている。これ以上船が傾けば、もう岩船の表面を滑り落ちるしかない。そして三人は、パラシュートなど身に付けていない。

「オバルさん、どうするの」

 溝の側面は高さ三メートル近い壁だ。外が見えないために、どちらに行けばいいか分からない。それにもう壁の突起部分を掴んでいないと、足が滑って体を支えられない。

「駄目だ、滑り落ちる」

 オバルが叫んだ時、溝の上、斜め前方から声が掛かった。

「そこにいるのか」

 ダーナの声だ。

 直後、溝の中に、操舵室手前の部屋にあった万国旗が、ロープ代わりに投げ入れられた。

「捕まれ」と再び、ダーナ。

 言われなくても、もう壁以外の何かに捕まらないと、体がズルズルと滑ってしまう。三人は慌てて万国旗のロープを掴むと、それを辿って溝の上に這い上がった。ほんの数メートルほどの所に、ハッチと、その中で手を振るダーナの姿があった。

 ダーナは飛行機の胴体が滑り落ちていくのをハッチから見ていた。一つだけパラシュートが開いたので、機から脱出した者がいるかもしれないと探していたのだ。

 万国旗のロープを伝って、三人はハッチの中に転がり込んだ。

 その時には、湖宮本体は、四十度近くにまで傾きの度合いを強めていた。ダーナが入口脇にあるボタンを押すと、分厚い耐圧トビラが動きだす。

 ほとんど同時に、上に向かって推力がかかった。

 四人は慌てて操舵室の方向に走った。走るというよりも、四つん這いになってよじ登るといった方が正しい。通路の床面が大きく傾いている。最後は滑り落ちないように必死に這いつくばって、操舵室の扉にすがりつき中に転がりこんだ。

 見る間に部屋が傾き始めた。

 本当に船が垂直に立ち上がろうとしている。

 ダーナが操舵室の後ろ、壁ぎわにあるオブザーバー用の引き出し式の椅子を指さした。それに座ってベルトを締めろと身ぶりで示す。慌てて腰掛け安全ベルトを締めるが、推力に体が椅子に押しつけられる。胸が苦しい。

 春香は目を閉じていたが、その横でダーナがオバルに説明する声が聞こえた。

『声』探索の高翼機が湖宮を離れた後、急遽、景気付けに、まだ掘り起こしていないイモの収穫と収穫祭を催すことが決定。その催しに、疲れの溜まっている運営会のメンバー全員を、休養と称して強制的に参加させることになった。

 そして操舵室のブロックにヴァーリを残して人がいなくなる。

 その収穫祭の最中、シャンに代わってダーナが、ヴァーリの様子を見に操舵室に戻って気づいた。操舵室にジュールがいたのだ。

 説明するダーナが声を詰まらせた。推力がグングン増してくる。

 オバルが喉を詰めたような声を上げた。

「一気に推力を上げたな。宇宙に出るつもりだ」

 春香が薄目を開けると、オバルは椅子ではなく、ダーナの横で、机に背を張り付けるようにして座りこんでいた。引き出し式の椅子は、オバルには小さ過ぎたようだ。そのオバルの黒い顔が歪む。岩船の上昇に伴う加速度が、体に押し被さってくる。

 全身を押さえつけるような推力に、春香の脳裏に子供の頃の思い出が甦ってきた。

 父さんと一緒に、遊園地のジェットコースターに乗った時のことだ。ガラガラと動き始めたジェットコースターに揺られながら、父さんがロケットに乗って地球を脱出する際にかかる、重力加速度の解説を始めた。

 ロケットが地球を脱出するためには、秒速で十数キロを超える速度が必要になる。そのため、ロケットが上昇する際には、搭乗する人に大きな加速度Gがかかる。

「今の滑りで、加速度は4Gくらいかな……」と、父が嬉しそうに話していた。

 すでに岩船の加速度は、その4Gを超えているだろう。刻々とGは上昇を続けている。

 父さんは、加速度が増すと目の眼底が圧迫されて視野が狭くなると話していた。ジェット戦闘機のパイロットがよく陥るブラックアウトという状態だ。そういえば、目の前が白っぽくなって物が見えなくなってきた。音は聞こえるが、頭の中が霞む。

 そして……、プツリと世界が消えた。

 どのくらいその状態が続いたろう。意識が戻った時には、体重をどこかに忘れてきたかのように、体が軽くなっていた。重力圏から抜け出したのだろうか。

 そう思って春香は目を開けた。

 その時、操舵室の天井に声が響いた。甲高い声、ジュールの声だ。



次話「水の星」

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