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星草物語  作者: 東陣正則
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歴史


     歴史


 春香とウィルタは、緩やかな傾斜の中央、窪みの縁に立っていた。

 目の前に穴がある。庇のように張り出した着氷越しに中を覗くと、幅二メートルほどの方形の穴の中に、階段が下に向かって伸びていた。穴は垂直にではなく、湾曲した形で蒼氷の中に続いている。ただカーブを描いているために、奥の様子までは分からない。

 二人は顔を見合わせると、飛行機を振り返った。風防ガラスに日差しが反射して、ハガーの顔は見えない。ウィルタは腰の通信機を取り上げると、オバルを呼び出した。

 雑音のない鮮明な音でオバルの声が返ってきた。

「どうした?」

「穴の中に、階段があった」

 ウィルタが目の前の穴の様子を報告する。

 その横で、春香はじっと足元の穴を見つめていた。『声』が暖かい風のように穴の中から吹き上がってくる。

 通信機のスイッチを切ったウィルタが、春香に伝えた。

「危ないと思ったら、さっさと引き揚げて来いってさ」

 話しかけたウィルタの目に、春香の澄んだ瞳が『危険はない』と言っていた。

 ウィルタもなぜか、全くといっていいほど危険を感じなかった。二人は軽く頷き合うと、氷の階段にゆっくりと足を下ろした。

 確かめるように一段一段、階段を下りていく。十段ほど下りても、階段は同じように螺旋状にカーブを描いて続いている。

 階段を下り始めて直ぐに、あることを感じた。それはこの螺旋階段の穴が、人の手によって作られたものではないということだ。氷の面に削ったり掘り出した跡がどこにもない。ツルツルに磨きあげられた氷の壁の曲線も、階段の幅も、どれもがコンピューターの画面で描き出したように、寸分の狂いもない造形を見せている。

 あのサイトの通路も同じく計算されたような構造をしていたが、それでもまだ人が作ったものだと感じられる何かがあった。それがこの穴は違っている。人が生み出すゆらぎのようなものが、微塵も感じられない。抽象的な概念の中にしかない構造物といってもいい空間だった。

 それにもう一つ、穴の外は皮膚が張り付くような冷気に覆われているというのに、穴の中では寒さを感じないのだ。おまけに穴を下っているのだから、下りるに連れて上からの光が届かなくなるはずが、穴の中はどこも水色のカクテルの中にでも落ち込んだように、淡いブルーの光で満たされている。

 ウィルタは用意していた棒灯をザックに戻した。

 相変わらず『声』は聞こえている。いや聞こえるというよりも、自分たちが『声』の中にいると感じるようになった。

 螺旋を三回りほど下りたところで、ウィルタが通信機にスイッチを入れた。すでに電波は繋がらなくなっていた。足を止め春香と顔を見合わせるが、二人は無言で視線を階段の先に戻した。吹き上がってくる『声』が、危険はないと伝えている。

 二人はまた階段を下り始めた。

 何段下りただろう、あの竜鱗堆の骸骨ビルの階段と同じくらい下ったように思う。

 螺旋階段の先にぼんやりと青白い光が見えてきた。光が仄かに明滅している。

 階段は終わり、穴の底に真円状の横穴があった。青白い光はその穴の先から来ている。

 春香がウィルタの手を強く握った。

 横穴の奥に『声』の主がいる、それを感じたのだ。

 足を止めかけた春香は、しかしためらうことなく、ウィルタの手を引き横穴に足を踏み出した。ここまで来て引き返すことはできない。それに相変わらず身の危険は全くと言ってよいほど感じなかった。

 ゆっくりと光の射してくる方向に進む。

 氷の表面が、奥から射してくる淡い光と一体となってぼやけてきた。融けているのではない、氷がふやけたように境界をぼやけさせている。氷と光が一体になった感じだ。

 二人は穴を抜けた。

 湖宮のドームがすっぽりと入ってしまうほどの空間が開けていた。全体が見通せた訳ではない。しかし感覚として、そう把握できた。春香はその球形の空間の一歩手前で足を止めた。ウィルタと繋いだ手は自然に離れていた。ウィルタは、春香のやや後ろで、目の前の物を見つめていた。

 空間を埋め尽くす大きさの、淡い光を放つ物体がそこにあった。アドバルーンほどもある球体が、僅かだが揺らぐように点滅している。人が呼吸をするようなリズムだ。ウィルタにも、それが『声』の主だということが感じられた。

 春香の頭のなかに、目の前の光から、一際明瞭な『声』が届いた。

「ようこそ、私の母主よ」

 春香が尋ねた。

「母主、どういうことなの、あなたは誰、あなたは何?」

 頭の中に言葉が返ってきた。

「その問いに一度に答えることは難しい。自分があなたを母主と呼んだのは、それがあなたを形容するのに、一番相応しい言葉だと思ったからだ。だから本来の母という意味ではない。あなた、つまり春香とよばれる生命体と私が、体を構成する情報において継続している、重複しているということだ。それは私の生命としての原型が、あなたの肉体を構成する元になった生命情報にあるということだ」

 確かに声は、目の前の淡い光を放つ物体から届けられている。空気を震わせて伝わる音ではなく、頭の中に直接届けられるたぐいの音だ。手を耳に当てても、聞こえてくる声に変化はない。

 春香が目の前の光に対して問いかけた。

「分かったわ、あなたはわたしから作られたということね。でもどうしてあなたは、わたしの名前を知っているの、人の心の中が見えるの」

「答えよう。私が春香を知っているのは、私が春香の父親によって創り出されたからだ。私が何者であるかを説明するには、春香の父親の行っていた研究について語らなければならない。

 春香も知ってのとおり、春香の父親はバイオエネルギーの研究者であり、遺伝子工学の専門家でもあった。博士は生物の持っている多様なエネルギー利用のシステムを人為的に加工して、新しいエネルギー利用のシステムを構築することを模索していた。当時、世界が抱えていた、エネルギー資源の枯渇と熱汚染の問題を改善するためにだ。結果として、今までよりも効率良く光のエネルギーを化学エネルギーに変換する植物を開発した。これは春香が事故で植物人間の状態になる前の話だから、覚えているだろう」

 春香が小さく声に出した。

「やっぱり、わたし植物状態になっていたんだ」

 音としての声も聞き取ることができるのだろうか、目の前の光がすぐに反応する。

「そうだ、十九年と七カ月の間眠っていた。歳を取らずにだ。ガンを患っていた博士は、五十八歳で亡くなる前年、眠り続ける娘、春香を次の世代に託そうと、冷凍睡眠に処した。そして春香はその後、二千年の長きに渡って眠り続けることになる。私が生まれたのは、春香が飛行機事故で植物状態になってのち、五年を経てからのことだ」

「あなたはさっき、わたしのことを母主と言ったわ、ということは、お父さんもいるということなの」

「そうだ、まあどちらが母でも父でもいい関係ではある。それに私の中には、様々な生命体の遺伝子が組み込まれている。私は多様な百八十種にも上る生命の遺伝情報の複合体なのだ。ただし、その中に骨格となる遺伝子グループが二つある。その情報群を、便宜的に母と父という名で私は呼んでいる。その私の原型となった、もう片方の親は、土星の衛星のメタンの海の中から発見された生命体で、春香の知識でいえば細菌のような生物だ。そのMS4と名付けられた地球外生命は、あるエネルギー利用の特徴を持っていた。それは熱エネルギーを吸収するということだ。

 当時、地球上で隆盛を誇っていた人の世界では、有限な石炭や石油などの化石燃料、天然ガス、ウラン鉱などに代わる、代替エネルギーの開発が競って行われていた。新しいエネルギーに課せられた最大の課題が、環境に影響を及ぼさないということだ。その方針に沿って、太陽光や風力に始まり、波力、地面の振動、海水の温度差、騒音、ありとあらゆる物や場所から、エネルギーを広く薄く集めることも行われた。

 それでも増え続ける世界の電力需要を支えるためには、一極集中型の炉型の発電所は不可欠だった。増大し続ける電力需要をまかない、かつ環境に負荷をかけない大出力の発電方法が切望されていた。

 そんな状況下、低温核融合の実用化が視野に入ってくる。ところが、喉から手が出るほど必要視されていた核融合発電所が、国際機関の合意により棚上げにされる。

 原因は、当時深刻な問題になっていた地球の熱汚染だ。

 大気組成の変化で熱が宇宙に放散され難くなるという意味での温暖化ではない。過剰なエネルギーの使用で、地上に熱源が増え過ぎたことによる温暖化の問題である。発生する熱エネルギーの総量が多過ぎることによって引き起こされる、地球システムの混乱と言ってもよい。

 たとえば、二酸化炭素を放出するしないに関わらず、極地で膨大なエネルギーを使えば、極地の温度は上昇、地球上の熱循環のシステムは深刻な影響を受ける。安価で無公害のエネルギーは、当然のことながらエネルギーの大量消費を引き起こす。そのことによる地球表面の熱化が現実の問題となって社会を覆い始めていた。核融合は、地球上に元々存在しなかった熱を加えることになる。この技術が一般に広まれば、更なる地球の熱汚染が進むのは明らかだった。

 それでも、百億を超えて増え続ける人類のエネルギー需要は、高まりこそすれ減ることはない。

 熱そのものを排出しない新たなエネルギー利用のシステムの構築が急務だった。

 そうした状況下で、このMS4と呼ばれる微生物が発見された。

 地球上に余分な熱を増やさないようにするためには、分かりきったことだが、熱を排出する系と同時に、同じ量の熱を吸収する別の系を作れば良い。熱を発生させるプラスの系に対して、熱を消すマイナスの系を作り、熱収支のバランスを取ることだ。

 ここまで言えば想像がつくと思うが、博士はこの熱を吸収する地球外生命体MS4を使えば、エネルギー利用の全く新しい系が構築できるのではないかと考えた。そして、MS4の利用を研究し始めた。

 この生命体の吸収する熱はごく小量である。なにせ細菌で、おまけに増殖力も弱かった。何億年も時間があれば、太古の時代に微生物が地球の環境を少しずつ変化させたようなこともできるかもしれない。だが今必要なのは、数年の時間スケールで結果が出るような仕組みだった。

 博士は、この微生物の改良に取りかかった。当時猛烈な勢いで発達を遂げていた生命工学の技術を使ってだ。その柱の一つが、MS4の巨大化、もう一つが他の生命体との融合である。博士はMS4を地球上の環境に適合した生命に改良するために、地球上の様々な生命体との組み合せを試みた。

 巨大化は比較的順調に行われたが、異生命間雑種の創造は困難を極めた。あまりにも地球の生命とMS4が、生命の仕組みにおいて違っていたからだ。無意味とも思える試みと失敗が、飽きもせずに繰り返された。

 博士はできれば地球上の植物に、MS4の能力を取り込むことができないかと試行錯誤を続けていた。無酸素状態で生きる生物が、酸素を利用する生物を自身の体内に共生させることで、有酸素状態に適応する生命へと進化したように、植物を超えた次のステージの生命体が創造できないかと実験を繰り返した。しかし異生命間の交雑というのは、全く劇的に新しい生命を造り出すようなもの。そして結果は、ただ一つの例外を除いて全て失敗に帰した。

 そのただ一つの例外というのが、MS4と、ヒトである春香の遺伝子の組み合せだった。

 正確には、その接合には、マントル物質から分離された超高圧下微生物の遺伝子が接合役を果たしている。まあ、仲人といったところだろう。

 このMS4と春香の遺伝子の接合は公表されなかった。国際条約でヒトと他の生命との交雑は禁止されていたからだ。私は博士の研究室、後には博士の自宅で密かに分裂を繰り返し成長していった。植物人間となって眠り続ける春香のベッドの脇に、私が置かれていたこともある。春香の父親は、私の形状がプランクトンのボルボックスに似ていたことから、愛称としてボルボと呼んでいた」

 光の玉、ボルボは、言葉のイメージを一瞬途切らせると春香に尋ねた。

「どうした、話が、解かり難いかな」

「いいえ、良く分かるわ、でも私が生きていた時代と、この世界がどうしても結びつかないの」

 それは春香がこの世界に目覚めてからずっと思っていたことだ。光の世紀から氷の世紀に時代が変わった当時のことを、この世界に目覚めて以来、何度も耳にしてきた。緑の消失や隕石の衝突、火炎樹の創造、低温のマントル流の出現など断片的な話をだ。一番まとまった形の話は、岩船屋敷でホブルさんから聞いた満都の歴史の一部としてだが、それでもまだ釈然としないものが残っている。

 春香の思いを感じたのだろう、ボルボがその点について解説を始めた。

「それは分かる。いくら資源の枯渇があったとしても、それだけでは、このような寒冷化した世界にはならなかった。

 そこには事件があった。それも複数の事件がだ。『緑の消失』については春香も聞いているだろう。それが起きた経緯とはこうだ。

 技術というものは、いつの時代も両刃の剣、社会に対してプラスにもマイナスにも作用する。生命工学が遺伝病などの難病の克服に役立ったのは事実だ。だがその一方で、想像もつかない恐ろしい細菌兵器も生み出した。

 ある病原菌が当時の軍事大国で開発された。それは、植物という植物を枯死させてしまう病原体、ハイ・ウイルスだった。ハイは、宿主に対して特異性を持たないということを意味している。ウイルスを越えたウイルスという意味で、ハイ・ウイルスと呼ばれた。

 これを開発した大国は、世界の穀倉とも言われている国で、穀類を枯らす新種のウイルスを開発して他国の産地に流布、相場をコントロールしようと企んでいたらしい。その研究の過程で偶然にも誕生してしまったのが、このハイ・ウイルス、全ての植物を死に至らしめる悪魔の病原体だった。ところがその大国は、悪魔のハイ・ウイルスを破棄せずに、研究所の奥深くに秘匿した。もちろん厳重な管理の元、液体窒素のカプセルに入れてだ。

 それがあろうことか、この悪魔の病原体が盗み出されてしまう。

 犯人はその大国と対立する小国の急進派団体だった。彼らは、その細菌兵器で、大国と駆け引きをするつもりだったらしい。だが運の悪いことに、盗み出した当事者たちは細菌の専門家ではなかった。扱いに慣れていなかったのだろう。それに事前の情報で、穀物に重大な影響を与えるウイルスとしか、病原体を把握していなかった。彼らは人体に害のある菌は厳密に扱ったが、対植物性のウイルスということで、その扱いに厳密さを欠いてしまう。そして単純な保管上の手違いから、菌が外の世界に漏れてしまった。

 空気感染するハイ・ウイルスは、あっという間に世界に広がる。世界中の森が林が草原が、農地の作物が、ありとあらゆる緑が、あっという間に立ち枯れていった。

 たった半年だった。半年の間に、世界中から緑という緑が失われたのだ。

 もちろん、どんな生き物でも、病原菌に対してごく僅かではあるが、生まれつき耐性のものが存在する。探せば一本二本とそういう植物も見つかりはしただろう。しかし事件の起きた年で、世界の人口は、ほぼ百億。ほんの小指の先ほどの生き残りの植物で、崩壊しつつある世界を支えるなどということは、到底不可能だった。

 世界中が飢え、生き残りをかけた熾烈な争いが起きる。

 地獄図が展開された。食料の備蓄などさしてあるはずもない。一年を待たずして世界の人口は、百万単位に減ってしまった。生き残った人の大半は、海の幸の恩恵に与かれる離島か、逆に環境が厳しくかつ人口希薄な極地などで暮らしている人たちで、残りは、一部の特権階級といえる人々だった。

 この植物が失われたことで環境が激変、世界中で洪水と旱魃が激発、自然火災が何度も大地を嘗めた。人が生きていくための作物がいつ再生できるかなど、誰も想像がつかなかった。そして地球上の文明、多様な生命系も崩壊の危機に直面した。

 これが『緑の消失』と呼ばれている事件のあらましだ。

 しかし地球を襲った災厄は、これで終わったのではない。更なる危機が、間を置かずして人類を、そして地球を襲うことになる。

 人類を本当の絶滅の縁に追い込んだのが、巨大隕石群の地球への衝突だった。

 地球が誕生して四十六億年、地球表面は大気層も含めて、絶え間なく宇宙空間から飛来する隕石の洗礼を受けている。二十億年前に誕生、惑星表層に繁栄し始めた生命も同様である。生命は、小惑星の衝突による環境変動で、何度も大量絶滅を繰り返しながら進化を遂げてきた。その同じことが緑の消滅直後に起こった。

 かつてないほどの規模で巨大隕石群が地球に衝突したのだ。光の世紀とその後の世紀の地形の変化は、その際に起きた。

 人類、否、地球上に存在する全ての生き物が、絶滅の縁に立たされたといってよい。おそらくは、巨大隕石群の衝突による災厄を生き延びた人類は、数千人程度だったろう。

 数年に渡って続いた巨大隕石群の衝突が終了した後、原始の世界に戻ったような大地で、生き残った人たちは何とか生きていく道を探り始めた。

 とにかく最重要の課題は、食料を造り出すことだった。直接人の口に入るような植物は、生き残っていない。その後地上に繁茂することになる苔の類さえ、災厄直後の大地では、ほとんど目にすることがなかった。あるのはただ見渡す限りの剥き出しの大地で、人々が拠所にできるものといえば、海に生き残った少数の海産動物くらい。それも環境の激変でどんどん死滅している。

 とにかく急いで糊口を凌ぐ何かを生み出さない限り、生き延びた者たちに未来はない。人類滅亡までのカウントダウンがなされるなか、幸運にも生き存えていた遺伝子工学の専門家たちは、枯死した植物残渣を人の口に入る食料に加工すべく奮闘していた。

 そして、植物残渣を特殊な細菌によって分解して石油様物質に変換、生じた石油様物質を更に別の細菌群によって分解して、食用となるデンプンやタンパクなどを生産するシステムが生み出された。この一連の反応に用いられた細菌群が、のちに開発される火炎樹の元となる。

 こう話すと、いかにも都合よく植物残渣を加工する細菌群が誕生したように見えるが、実はその細菌群は、人類を災厄が襲う前に、すでにその原型が生み出されていた。

 石油に依存し石油を使う形の世界を作ってしまった人類にとっては、石油が無くなったからといって、簡単に別のエネルギーに乗り換える訳にはいかない。社会のシステム、たとえば輸送や移動の体系で考えれば良い。石油由来の液体燃料を燃やすエンジンがあって、あの形の自動車があり、あの自動車ゆえに舗装されたあの幅の道路網がある。輸送体系だけでなく、当時は社会のありとあらゆる物が、石油の存在を元に組み立てられていた。

 当時の政治家は、石油を使わない新しいシステムを作り出すよりも、石油が枯渇すれば、石油を自分たちの手で作り出せばいいと考えた。

 代替の資源を使うということは、それに合わせて社会のシステムを作り変えることであり、それには膨大な時間と資金を必要とする。石油に代わる新しい資源の開発よりも、日常の生活用品から燃料に至るまで、あらゆるところで社会を支えている石油を人工的に作り出すことの方が、より効率良く今の人類の繁栄を続けられると考えた。膨大な生物残渣が何億年という時間をかけて石油に変化した反応過程を、ごく短期間で行うシステムを開発しようとしたのだ。

 地球上のあらゆる植物という植物、つまり植物由来の有機物を、新たに開発した細菌群を使えば、ほんの数時間で石油に作り変えることができるというところまで開発は進んでいた。その細菌群に食品工学で使う油脂を加工する細菌群を組み合わせれば、災厄の後、世界中に散らばり残された植物残渣を人の口に入る食品に変えるのは、それほど技術的に難しいことではなかった。

 そして生き残った人々は、生き延びるための食料を造り出す手段を手にした。

 しかしながら植物残渣は有限である。それに人類が利用せずとも、自然界の中でどんどん分解減少していく。災厄後の植物残渣は、ごく近い将来に確実に枯渇してしまう有限な資源。それ故に、早急に次の策が求められた。

 そうして、地球を見舞った未曾有の災厄から百年。

 植物残渣を加工する細菌群を元に、あの葉を持たない、太陽の光を必要としない火炎樹が生み出された。土壌という資源を石油様物質に転換する、生きた化学工場がだ。

 その後の人類の歴史は、この火炎樹と呼ばれる擬似生命体を中心に動いていく。

 更に百年後、巨大火炎樹が開発されるに至って、土壌資源の豊富な地域では、満都のような都市が発達、火炎樹の樹液から作り出された食料や生活物資が大陸全土に流通することになる。そのおかげで、直接火炎樹の栽培に携わることのない町も生まれた。熱井戸に依存する町のようにだ。

 火炎樹誕生以後の二千年は、人類が地球上に残された土壌という資源を食い潰していく世紀であり、またそれは取りも直さず、土壌資源の枯渇に翻弄された世紀といってもいい。その火炎樹と土壌を巡る動きが表の歴史を動かしていく原動力とすれば、その裏でもう一つの重要な現象が、人類の歴史をある方向に押し流していた。

 それが、地球の寒冷化である。

 人為的な環境の温暖化で表面上は隠れていたが、光の世紀末期は、地球がなだらかに寒冷期に入り始めた時期でもあった。ただ地球の温暖化寒冷化のサイクルは、数万年単位で繰り返されるもので、本来、人の歴史の外にある時間の流れだ。

 それが、災厄直後の大気圏が猛烈な塵灰に覆われて、いわゆる核の冬のような状態になった時期はさておき、その後のほんの数十年の間に、一気に当時温帯と言われる辺りまでがツンドラと化してしまった。さらに寒冷化は進み、ほぼ百年、ちょうど火炎樹の開発がなされた頃には、かつての熱帯までが亜寒帯気候の地に変わってしまった。いったいこの突然の急激な氷期をもたらした原因は何か。

 一番に挙げられるのは、太陽からの輻射熱の減少である。太陽活動の異常。ではそれは、なぜ起きたのか。実は主な原因は、やはり飛来した巨大隕石群にある。

 地球誕生以後四十六億年の間、地球に降り注ぎ続けた隕石や小惑星は、太陽系に元々存在するもの、主には火星と木星の間にある小惑星帯からのものだ。

 だが、今回地球に飛来した巨大隕石群は、太陽系外からのものだった。

 では太陽系外のどこから……、

 太陽系に最も近い、四光年余り離れた連星系からか。

 いや違う、同じ銀河の中からではない。では、二千億個の銀河が輝く銀河系の外、十六万光年離れた隣の銀河系からか。それも、違う。

 では百億光年以上離れた、宇宙の果ての銀河から……、

 それも、違うだろう。

 今回、地球に降り注いだ巨大隕石群は、この地球のある宇宙とは別の宇宙に由来する物だった。今、地球という惑星が存在する宇宙は、百三十七億年前に、インフレーションと呼ばれたエネルギーの相転移によって生み出されたものだ。その相転移のエネルギーの量子的な揺らぎから、私たちの宇宙だけでなく、多数の異なる原理の宇宙が同時に誕生したことが分かっている。

 誕生の起源を同じくする多宇宙の中で、個の宇宙は時間的にも空間的にも本来は互いに交わることのない存在である。ところがその交わることのない個の宇宙同士が、全くの偶然から交わり始めた。本格的な交叉は七十億年ほど先、もうこの星系の恒星も燃え尽きて、中心核のみを残した灰のような死の星になってしまっている頃の話だが……。しかし、その前駆体はすでに、互いの宇宙に飛び込み始めている。

 やっかいなのは、他宇宙同士の交叉は、紐状の空間がまだらに絡み合って起きるということで、宇宙の外縁部から交叉していくのとは基本的に異なる。その前兆として、他宇宙由来の隕石・小惑星群は、突如、太陽系外十六AU宇宙単位の位置に出現、太陽系の軌道上を横切った。

 今回の他宇宙由来の隕石・小惑星群の飛来で特筆すべきは、隕石・小惑星群が衝突したのが、地球だけではなかったということだ。ほかの金星や火星などの惑星、そして星系の中心に位置する恒星そのものにも、隕石・小惑星群は降り注いだ。星系全体を横切った隕石・小惑星群からすれば、地球に降り注いだ巨大隕石群など、まさに塵が舞い降りた程度で、この星系の中心にある太陽には、最大規模の惑星規模の小惑星が衝突した。

 多宇宙界に存在する個々の宇宙は、それぞれ固有の物理的な原理、定数によって構成されている。それは宇宙誕生時の超絶高温高密度下の中で生み出されたものだ。

 今回我々の宇宙に交叉しようとしている他宇宙は、原子核でみれば、核内の素粒子の性質も異なるし、原子核を取り巻く電子の軌道とその数も違ってくる。そのため生成される様々な原子や物質群が、私たちの宇宙とは全く異なる物理的化学的な性質を帯びてくる。あの電磁波を放射する唱鉄隕石のようにだ。

 これは私の推測に過ぎないが、太陽に衝突した惑星規模の小惑星の構成物質が、太陽の中で行われている核融合反応の抑制因子として働いたようだ。太陽はその未知の物質で、ほんの数年の単位で一気に反応を低下させることになった。

 太陽内の核融合反応の低下により、太陽から周囲に放射される各種のエネルギーが異常に減少した。この太陽輻射熱の減少、それが災厄の後、この惑星が短期間で全球凍結に近い状態に陥った最大の理由になる。

「太陽が……」

 思わず春香が口にした。今まで地球が雪と氷の星になったのを見て、どうしてそうなったのかずっと不思議に思っていた。隕石がたくさん衝突したと聞いて、もしかしたらその衝撃で、地球が太陽から離れた位置に動いてしまったのだろうかとも考えた。全く想像もしていなかった理由だ。

「太陽への惑星の衝突は、緑の消滅の直後に起きている。未曾有の災厄の渦中に起きた出来事だった。自分たちの星に降り注ぐ隕石群のことでさえ、ほとんど記録らしい記録に残

せていない。ましてや空は厚い塵灰の雲で覆われていた。ほかの惑星や太陽に小惑星が降り注いだことに気づかなくても、それは仕方のないことだろう。

 春香の思考を妨げないように、途切れていた『声』が、再び聞こえた。

「おそらくこの太陽活動の低下は、一時的なもので、二万年もすれば、また太陽の活動は元の状態に戻るはずだ。もっとも、寿命が百年に満たないヒトという生き物からすれば、それは長い待ち時間となるかもしれないが……」

 二万年……、

 それは、ほんの数時間で生命を更新していく微生物から、人の人生を見るようなものかもしれない。そして二万年という時間にして、長い宇宙の時間の流れの中では、ほんの瞬き程度の時間に過ぎない。

 春香がボルボに尋ねる。

「でも、ユカギルのように地熱が落ちて困っている人たちもいたわ。太陽が冷えても、地球の内部まで冷えることはないでしょ」

 頭の中に聞こえていた『声』が、かすかに微笑んだように感じた。

「そうだ」という、はっきりとした声が、頭の中に届いた。

「そうだ」ともう一度。

 そして、ボルボの説明が始まる。

「私は博士によって生み出された後、確実に成長を続けた。ちなみに春香の入った冷凍睡眠のカプセルは、大陸中央にある冷凍睡眠カプセルの集中保管センターに送られた。春香が大陸中西部の丘陵地帯で目覚めたのは、そういう理由でだ。

 先にも述べたように、春香をセンターに送り出した直後に『緑の消失』が起きた。

 当時、私はちょうど直径二メートルほどの大きさに育っていた。そして誰もハイ・ウイルスの伝染を止めることが出来ないまま、世界中にその疫病は広がっていった。世界では、その後の惨禍を予告するように、悲惨な終末的な事件が、社会のありとあらゆる場所で起きていた。人類が破滅の方向に向かっているのは間違いない。その流れを押し留めるのは不可能だと誰もが思った。

 破局へと突き進む奔流のなか、博士は私を湖に投棄した。私の命を断つこともできただろうが、それをしなかったのは、君の遺伝子を持つ生命を葬ることが、心情的に許せなかったからだろう。それに世界の情勢からして、早晩人類は滅びるだろうと博士は考えたようだ。だから私を放棄しても、とくに問題はないと判断した。

 そして私は、その後の巨大隕石群の衝突を湖の底で経験した。

 私は水の中でも熱を吸収し、水が融かし込んだ様々な物質で体を構成しながら成長を続けた。それは急速な成長だったと思う。

 博士が私を水の中に投棄してくれたことは、幸運だったと思う。私が水の熱を奪うことで、水はいつも凍結した状態で、私の体を殻のように覆っていた。巨大隕石群の衝突による災厄を私が潜り抜けることができた最大の理由は、私が分厚い氷の殻に覆われていたからだ。

 巨大隕石群の衝突から数十年の後、地球環境がやや落ち着きを取り戻してきたのを見て、わたしは体の一部を植物の根のように湖の底から地中深くに伸ばし始めた。熱を吸収する根だ。根を伸ばしながら、ひたすら周囲の熱を吸収し、そして自分の体を構成し続けた。最も根が伸びた時点で、私の根は下部マントルとコアの境界面にまで達していた。

 ただし、猛烈に熱エネルギーを吸収している割に、私の体は、今の数倍程度の大きさを超えて拡大しなかった。吸収した熱は、物質とエネルギーの中間的な存在、中光子という存在に変えて、自分の中に蓄えていた。これは、あの乾壺の中に電気エネルギーを貯える際の反応と似たものだ。膨大なエネルギーもその中間物質にすれば、ごく僅かな容量になる。

 後々問題となる低温のマントル流の出現は、私が地球本体から熱を吸収したからにほかならない。地球の寒冷化の原因の約二パーセントが、私の熱吸収によってもたらされたものだ。

 私は八百年かけて成熟、今のこの体の状態になって体の構成が安定した。春香のような生命体でいうところの、成長が止まり肉体的に成熟したということだ。そして、成長期間が終了すると同時に、私は思索期と呼ばれる生命としての次の段階に移った。生命は根源的に自分が何者であるかを考える存在だ。それが、単細胞生物の細胞表面の物質のやりとりで相手を見分けることから、人の言語を用いた外界の概念化まで、生命の本質は自己と他者の識別ということにある。

 私は何者か。

 私は肉体の成熟とともに、自分が何者であるかを考え始めた。

 その考えるということのために、膨大なエネルギーが必要となった。思索という行為は、エネルギーを消費する行為なのだ。

 私は自身の体の中に貯えた熱エネルギーと共に、さらなる熱エネルギーを、地中や、あるいは大気の中から吸収し、思索を続けた。

 この惑星の熱循環が、単純に赤道を挟んだ南北の半球に分けることができないのは、私の存在が影響している。赤道直下のドバス低地に、寒冷な時期が現れるのもそうだ。

 それはともかく、この時期に至って、私は自分自身がどういう生命のシステムを持っているのかを理解した。その元となる、ある基本的な概念をだ。

 それは、質量とエネルギーが相互に可変であるということと同時に、思索とエネルギーもまた可変ということだ。それはすなわち、質量がエネルギーという状態を介して、思索と可変であるということを意味している。

 春香の時代に物理外力という言葉が使われたことがある。見えない、あるいは測定できない力で、物質を移動させたり、変形させたりする能力のことだ。それは思索力がエネルギーに変わって物質に作用した結果である。核反応によって、莫大なエネルギーが解放され、同時に質量欠損が起きる。それはつまり、思索力によっても質量欠損が起きるということだ。

 私は、熱エネルギーを使って思索に耽る存在だった。

 思索を深めれば深めるほど、思索の次元を高めれば高めるほど、吸収する熱量は増える。通常の生命であれば、吸収した熱によって自身が分解溶融するだろう。高度に集積した演算装置が、その稼動に大量の電力を消費し、それゆえに膨大な熱を生み出して、装置本体の機能が脅かされるようにだ。だが私は熱を吸収し異化する能力を備えている。つまり私はどれだけ自分の集積度を高め、かつ巨大化して思索に耽ろうとも、その結果、熱で解体する杞憂のない存在だった。

 ちなみに、あの質量転換炉の内部にある補助制御装置にも、私の母体となった細菌を元にして作られた、熱エネルギーを吸収する擬似生命体のような素子が用いられている。

 そう、あの質量転換炉についても説明をする必要があるだろう。

 あの質量転換炉は、人のエネルギー需要を満たす炉として作られたものではない。それを、エネルギー柱を上空に放射させて、静止軌道上の反転照射装置で拡散放射させて大地を照らす施設として活用しようとしたのは、災厄直後の地球が全球凍結の危機に瀕した際に、あの地域に生き延びていた古代の科学者たちだ。

 あれは純粋に実験研究施設だった。では何の研究を行っていたか。

 この時代の人々がファロスサイトと名づけた古代の施設は、超絶高温高密度下のエネルギー状態で起きる物理現象を研究する施設だった。宇宙誕生時の状態を再現すること。目指したのは、ビッグバン以前、宇宙が無の状態からこの世界に誕生し、瞬時に空間が十の百乗を超えるような激烈な膨張をした、インフレーションと呼ばれる時期に何が起きていたかを検証すること。それがこの施設の一義的な目的だった。

 では二義的な……、その先に見すえていたものは何か。

 この施設が作られるきっかけとなった、ある物理的な発見がある。

 それが超光速微子の発見である。光子同様、粒子でありかつ波として振る舞う、光速を遙かに超えた速度を持つ未知の粒子。実は、この光速を超える粒子、エネルギー波も、他宇宙からの前駆体として、私たちの宇宙に侵入してきたものだったのだが……。

 未知の粒子は、負の質量を持ち、かつ光速を遙かに凌ぐ速さで空間を伝播するエネルギー波として観測された。

 宇宙誕生の最初期の段階、まだ物理量が確定していない、時空間そのものが揺らぎの状態にある宇宙の胚胎期に、様々な粒子やエネルギー波が泡沫のように生み出されては消えた。それは生命の系統樹に相似する、宇宙自体が自らの未来を模索するような生成と消滅の仕方だった。そのほんの一秒の何十乗分の一という短時間の試行錯誤の末に残されたものが、現宇宙を構成する物質の元となった素粒子群であり、重力などの四つの基本的な力になる。

 もちろん消えていった幾多の粒子やエネルギー波に、意味がなかった訳ではない。今の宇宙の非対称性を生み出し、正物質だけで構成される現宇宙を生み出した最大の要因は、この消滅した粒子にあったからだ。

 そして研究者たちは、発見された超光速微子を、現宇宙の物理量が確定する前の胚胎期、重力が発生するよりもさらに前の段階で生成消滅した粒子の一つと推定した。

 もとより、光よりも速い因子がこの世に存在する。その発見は世界に様々な動きをもたらした。もちろん経済界にもだ。

 質量転換炉、後世の人たちがそう名付けた施設は、古代のある民間企業によって作られたものだ。光よりも速い因子がもし実用の物となれば、それが生み出す利益は計り知れない。光を含む電磁波を用いた機器の性能は、つまるところ、電磁波の物理的性質によって制約される。光の速さを超えて通信を交わすことはできないし、光の速さ以上の速さで計算をすることはできない。

 秒速三十万キロメートル以上の速さで空間を伝わる因子。

 もしそれが自在に操れるようになれば、あらゆる情報通信機器に革命が起きるだろう。いや理論的には、未来や過去との通信も可能になるかもしれないのだ。

 その企業は、莫大な資金を投資すると共に、その研究を全くの極秘裏に進めた。宇宙がまだ素粒子一粒よりも小さな点に過ぎなかった時代の超絶高温高密度下で、果たして本当に光を超える未知のエネルギー波が発生するのかどうかの検証をだ。

 物質の質量を光に転換、植物育成プラントに使用するといった計画は、全くの副次的な事業、否、これは施設本来の目的をカモフラージュするためのものだった。

 なぜこの施設が歴史上の記録に残されていないか。当然である、この施設は企業秘密の塊のような存在だったのだ。


 話が脇道に逸れた……、かな。

 私が私であることの自覚とは、私が存在していることの目的を探すことでもある。

 そして私が見つけ自分に課した目的が、私しか生み出すことのできない新しい生命体を、この宇宙と呼ばれる空間に生み出すことだった。

 地球という惑星が生み出したヒトという生命体と、土星の衛星のメタンの海から採取された生命体、さらには地球深部の耐熱耐圧型の微生物を含む、百八十ほどの生命の遺伝情報の断片をモザイクのように繋ぎ合わせて生み出された、私という存在。熱エネルギーを吸収しながら思索に耽る私という存在……。

 私は動物のように行動する存在ではない。私は動く必要がなく生きていける存在だ。そういう意味では、私は地球上の植物に近い存在であるかもしれない。思索を深めるのに動き回る必要はない。動物的な感覚器というものは、取り入れる情報を限定してしまうというマイナスの側面のほうが強い。人という生命体は、思索するための情報を、動きながらセンサーを使って読み取る行為を必要とする生き物だが、人の限界はそこにある。

 思索に必要な情報は、観念の知覚器で感じれば済むことだ。私は畢竟、生まれながら座して瞑想に耽るブッダなのだろう。

 この私が思索の果てに、今までこの宇宙に存在しえなかった存在を生み出すこと。

 私は膨大な熱エネルギーを吸い取り続け、思索し、そうして私の中に溜めこんでいた中光子のエネルギーを使って、千二百年の時間を掛けて、一つの作品を作り出すことに成功した」

 気がつくと、春香とウィルタの前に、淡いアメシスト色の卵のようなものが漂っていた。

 ボルボが自ら発する光で、その拳ほどの大きさの卵を優しく包む。

「その宝石のような卵が、私の作品だ」

「私のこの二千年間の努力の成果、私の生命としての成果だ。博士が生きていたら誉めてくれただろう」

 春香は宙に浮いた卵を眺めながら、「二千年……」と呟いた。

「何も長くはない、この惑星は君たちヒトを生み出すのに四十六億年を費やしているのだから」

 ボルボが『声』を続ける。

「その卵は、宇宙の真空状態に置かれれば、四千年ほどで孵化する。その子の孵化を、私も自分の目で見てみたかったが、どうも人生はそう都合良くはできていないようだ。私の存在はあと数時間で消滅する。氷の空間と、私の間に隙間ができているだろう。私が凝縮し始めた証拠だ。私はこのままどんどん収縮して、最後にはどこにでも転がっている石に変わる。残念ながら生命というものは、自分の寿命に関しては読みが甘くなるようだ」

 そう言ってからしばらく間があった。

「一つだけお願いがある」

 春香には、ボルボの声が微かに割れているように感じた。

 目の前に、金属光沢の漆黒のボールが漂ってきた。

「それは、私がこの地球から吸収した熱エネルギーの残渣だ。本来ならそのエネルギーを使って、わが子を宇宙に打ち出す仕組みを作ろうと思っていたが、どうやら時間切れになってしまった。この場で、エネルギーボールのエネルギーを一気に解放すれば、その勢いで、わが子を宇宙に弾き出すことはできる。だがそれでは、地球のこちら側の半球にいる生命体が、熱線を受けて滅んでしまう。それは避けたい。

 もし春香が我が子を宇宙に連れて行ってくれるなら、それと引き替えに、そのエネルギーボールを君たちに差し上げよう。

 春香は自分の手の中に入ってきた二つの球体に目を落とすと、慌てて言った。

「でも、わたしたち宇宙へなんて……」

「心配ない、私にもウィルタの養母のように、未来を望観する能力がある。心配せずとも、君たちは宇宙に行くよ」

 ボルボの自信を持った口ぶりに、春香は二つの卵を両手でそっと握り締めた。

「分かりました、だったら預かります、必ず宇宙空間に置いてきます」

「そうか安心した、そちらのエネルギーボールの方は、君たち人類の作った熱を汲む穴、あの熱井戸の中に投げ入れてくれれば良い。徐々に地球の深部に沈み込みながら、熱を開放、最終的には地球の気温を一度くらいは上昇させてくれるだろう」

 そうしている間にも、目の前の光の球体が縮小し始めたのが分かった。

「最後に自分の原型に会えて良かった。なかなかこちらの『声』を感じてくれないのでやきもきしておった」

 春香はポケットから手拭いを取り出し、丁寧に二つの球体を包むと、

「御免なさい、聞こえてはいたんだけど、信じられなくて」

「自信を持つことだな、人はおそらく人が知っている以上の力を持っている。それは可能性といっても良い。人は聞こうとする心、見ようとする気持ちさえあれば、もっと様々な物を見、声を聞くことのできる存在なのだ」

 ボルボのゆったりとした呼吸のような光の点滅が、速くなってきた。

 ボルボが急かすように語りかける。

「さあ、そろそろ行きなさい、私の寿命もあと数分だ。私が無に戻る直前に、私の中に残った熱エネルギーが開放される。量は少しだが、それでもこの周辺数キロの氷を融かすくらいの容量はある。私は私の大切な原型を融かしたくはない」

 そう話しかけて、すぐに付け加えた。

「そうそう、そこの男の子、私の母主をよろしくな」

 出口に向かいながら、振り向いた二人を急き立てるように、光の中から声が漏れた。しかしその声は、すでに風のような音に変わっていた。

「はは、さっ、行った行った」

 そんな声が、最後、脳裏を通り過ぎたように思う。立ち尽くす春香の前で、ボルボは一気に収縮を始め、やがてそれと逆行するように、明るい光を放ち始めた。

「行こう春香」

 ウィルタが春香の手を引いて促す。

 春香はその縮まっていく巨大な球体に「さようなら」と、一言声を掛けると、ウィルタに引っぱられるようにして通路を走った。そして螺旋階段へ。

 後ろから光が風のように吹き上がってきた。



次回「岩船」

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