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星草物語  作者: 東陣正則
145/149


     声


 一月三日、漂流十五日目。

 昼前、鐘塔の上で見張りをしていたウィルタと春香に、爆音と共にダーナの乗る単発のプロペラ機が見えてきた。左右の主翼中央から胴体に斜めに支柱が取り付けられた、いわゆる、主翼の下に胴体がくっついた高翼機である。

 氷に閉じ込められた湖宮の周辺を、偵察飛行に出かけて帰ってきたところだ。

 今朝、ダーナが偵察機を飛ばすことを提案した。

 湖宮の周りは、びっしりと氷で埋め尽くされている。陸まで約四十キロ。氷の割れ目を示す黒い海面が部分覗いているものの、棚氷は確実に陸まで続いている。鐘塔から双眼鏡でそれを確認した上でダーナは、氷の割れ目はあるが、棚氷から棚氷を伝って海岸に取り付き、陸路大陸沿いを南下して人の住む地域に帰還する道も探るべきではないかと。

 このまま湖宮に座していれば、食料が尽きた先にあるのは、二千人全員の餓死という道だけだ。当然のこと、陸路大陸南部に戻るにしても、生きて人の住む地に到達するのは、限りなく困難な道になる。だが湖宮にいて食料が尽きてからでは、その道を選ぶことはできない。ならば今もし希望者がいるなら、いくばくかの食料と共に送り出すべきではないかと、ダーナはそう提案したのだ。

 飛行機を飛ばすのは、二つのルートを探すためである。

 一つは人が足で歩いて海岸に到達するための、湖宮北側に広がる棚氷を北に抜けるルート。もう一つが、推進機関が復旧した暁に、湖宮そのものが棚氷の檻を抜け出すための、南の洋上に抜けるルートである。またその二つのルートの探索に加えて、湖宮を取り巻く半径八十キロの地域を視察することも予定に入れた。

 ダーナはこの視察飛行に、反目しあう二人の青年リーダーを同乗させた。彼らに湖宮を出ていけ、陸路大陸南部を目指せと言っているのではない。ダーナは密かにある期待を込めて、二人に同乗を勧めた。

 そして離陸から一時間余り、操縦士のハガーが精製した燃料は、上々の出来だったらしい。偵察飛行は無事終了、ダーナと二人の青年を乗せた高翼機は湖宮に帰還した。

 さっそく講堂で、その報告がなされた。

 湖宮を取り囲んでいる棚氷はしっかりしたもので、来春までの間、氷が大きく割れて動き出すことはないものと予想される。それは湖宮の南側に拡がる棚氷も同じだ。

 陸までの距離は四十キロ、途中に大きな割れ目が何本か走っている。それは携帯できる小さな艀で十分に渡れそうなものだが、それよりも陸を目指す際に関門になりそうなのが、海と陸の境界にそそり立つ、高さ百メートルを越える断崖だ。端々で内陸から押し出されてきた氷が、氷瀑となって海側になだれ落ちている。この氷瀑さえ乗り越えれば、その向こう側は、比較的安定した氷原の続く世界になる。

 どういう形にせよ、陸路大陸の南を目指す場合は、相当の準備の元に挑戦しないと、途中で身動きの取れなくなる公算が大きい。

 講堂のなか皆の前で、ダーナは同乗させた二人の青年に、それぞれ感想を求めた。

 二人とも、飛行機に搭乗することも、雪と氷の世界を上空から眺めることも初めての経験である。雄大な景色に圧倒された様子が、二人の神妙な面持ちから窺える。

 二人はまずダーナの説明を肯定した上で、印象に残ったことを口にした。

 盤都の青年リーダーは氷の瀑布を強調。対して牧人の赤い額帯の青年リーダーは、瀑布の先に広がる氷の原野を強調した。そして食料を余分に分けてもらえるなら、自分は陸路、人の住む世界に戻る道を探ってみたいと、はっきり口にした。

 牧人は移動の民。閉じ込められての死よりも、移動しながらの死の方が自分たちには相応しいと考えたようだ。

 操縦士のハガーが、一言感想を述べた後、ダーナが報告せずに伏せていたことを口にした。それを目撃したのは、南に最大八十キロまで下った地点だ。

 ダーナたちが目撃したのは、割れた棚氷に囲まれるようにしてあったもの、バラバラに砕けた船の残骸だ。折れた帆柱の形からして、ゴーダム国の警邏隊員たちが強奪した『希望号』に違いない。おそらく南東に下る途中、エンジンの故障か何かで漂流を始め、海流と風に吹き寄せられて、最後棚氷に挟まれて押しつぶされたものだろう。

 周囲に人影はなかった。船を捨て棚氷を辿りながら陸を目指したか、それとも氷に衝突した際に海に呑み込まれたか、それは分からない。だが陸まで百キロ以上も離れ、途中には湖のように大きな開水面がいくつも口を開けている。生存の可能性は限りなく薄いだろうと、ダーナは淡々と感想を述べて、その話題を締めくくった。

 報告に耳を傾けていた講堂の人たちも、ほとんど無表情だった。

 因果応報と言えばそれまでだが、抜けることの出来ない氷の檻を実感させられて、声が出なかったともいえる。

 空調の通風口に誰が引っかけたか、洗った布地を乗せた金属棒がカタカタと単調な音をホールに響かせる。幼児のおしめに使った布。おそらく、その幼児は亡くなったのだろう。漂流を始めて二週間、干からびた布が空しく揺れる。

 掛ける時は肩車をして持ち上げ引っ掛けたのだろうが、今はそれを外す気力のある者がいなくなっている。

 無力感だけが乾いた風になぶられるように、ホールの中を流れていく。

 報告の最後に、前日に亡くなった人の名が読み上げられた。

 五日ぶりに遺体を海に流す。

 今までは三日に一度行っていたが、湖宮の周囲が氷に覆われて遺体を流すことができなかったために、繰り延べになっていた。今日は相応の氷の割れ目が現れたので、二日遅れで葬儀が行われることになったのだ。

 死者の名前を講堂で全員を前にして読み上げることに、当初は反対の意見も出た。そうでなくとも、無気力と厭世感が蔓延している。それを助長することにならないかというのだ。しかし、いま湖宮の上には、誰一人身寄りもなく助け上げられた人が大勢いる。人は非常時でなくとも亡くなる。自分の死が誰からも認められずに、名も呼ばれずに、躯だけが海に流される。そのことを想う方が、残された者から生きる力を奪うだろう。

 そう考え、亡くなった者は、講堂の全員の前で名を読み上げ、尼僧による葬送の経の後に、体力の許す者によって運ばれ、海に投げ入れられた。

 そして今日、二十三名の躯が海に流された。

 次は自分の番かもしれない。しかし、自分が最後にならない限りは、大気の中に声の振動を刻みつけるように、名は読み上げられるだろう。


 一月四日、漂流十六日目。

 そしてまた漂流のカレンダーに一日が刻まれた。

 オバルは奥の院の環境制御室で、制御装置の情報端末にトーカを接続、ヘルメット型の情報検索装置を被って、黙々と魔鏡帳のキーを叩いている。何か考えがあるのだろうが、光明は見出せていないようだ。

 もう頭痛薬の瓶は空っぽだ。

 眼帯を付けたマフポップは、あれからまた血を吐いて倒れた。それでも起き上がり、ジーボに背負われる形で、拝殿後ろの通路から操舵室にかけてを行ったり来たりしている。何かそこに違和感を感じるという。ただその場所がはっきりと特定できないでいる。

 講堂内は相変わらずだった。緩慢な死が忍び寄っている。減り続ける食料の配布に、もう声を出す気力も湧かないという風に見える。

 唯一の明るい話題は、反目しあっていた二つの青年グループが和解したことだ。偵察飛行に連れ出したそれぞれのリーダーが、仲間を説き伏せたらしい。上空から荒々しい氷しかない世界を俯瞰すると、実際は大きく思えた湖宮が、ほんの点のようにしか見えない。その点しか生き延びる場所を持たない自分たちが、そこで諍いをやっている、そのことの馬鹿馬鹿しさを、二人のリーダーは共に感じたようだ。もっと何か自分たちが建設的な事をやるべきだと気づいたのだろう。

 リーダーの二人は、仲間を説き伏せた。今は、それぞれのグループが、どうやれば陸路大陸南部に戻れるか、競うように案を練っている。

 どうやら二人を偵察飛行に同乗させたダーナの目論見が、的中したようだ。

 ところがそのダーナの表情が優れない。

 マリア熱の発生は危険な時期を過ぎようとしていた。この様子なら、おそらくもう大丈夫だろう。きっとバドゥーナ国の為政者は、最後の段階でその病原体を散布するという愚行を思い留まったのだ。しかしマリア熱とは別に、泡死病の患者が発生していた。同時に三名も。体力が失われるとともに、肉体が押し留めていた病原菌が、その本性を現し始めたかのようだ。直ちに隔離したが、予断を許さない状況であるのは確かだ。

 暖かい暖房の効いた空間に、体力の落ちた半病人のような人間が、袖を擦り合う形で、ぎっしりと詰め込まれている。栄養たっぷりのスープの上で菌を培養しているようなもので、いつ爆発的に患者が発生してもおかしくない状態になっていた。

 実は、ダーナが、若者たちに陸路脱出する道を探るよう勧めたのは、この病の発生とも関係している。未来のある若者を、病の道連れにしたくなかった。この後、病が増えることはあれ減ることはない。

 ダーナを憂鬱にしているもう一つの理由、それが湖宮の内部への入口が、相変わらず見つからないということだ。ドームに入ることができて希望が見えた分、落胆も大きい。

 ダーナが本当に疲れた表情で講堂の外に腰掛け、顔を半分失って以来封印していた、煙苔を口にしていた。自分も何もかも放り投げてしまいたいと思う。自分はなぜ、誰のために、走り回っているのか。この状況下で、何ができるというのだろう。

紫煙が仮面の表面を撫でながら立ち昇っていく。

 気がつくと、ぼんやりと煙苔を吹かしているダーナの前に、春香とウィルタが立っていた。その顔が二人とも妙に真剣である。

「どうした?」

「実は……」と、二人が話を切り出した。

 二人を飛行機でラージュバルト山の麓に連れて行ってくれないかというのだ。

 春香はダーナに『声』のことを話した。この一週間ほどの間、鐘塔の望眺台で見張りをしながら聞いていた『声』のことをだ。

 ウィルタも同様に同じ方向から何かが聞こえるという。『声』を発している何かがそこにあるということを確信した春香は、それをどうしても確かめてみたいと思うようになった。ウィルタも、父親が最後に語った『声』が、もしかしたら今聞こえている、その『声』なのかもしれないと感じ始めていた。

 二人はこれまで、全くその『声』のことを人に話していない。見張りは十名弱の者が交代で行っているが、『声』を感じたのは、春香とウィルタの二人だけらしい。

 ダーナにとっては、全くの寝耳に水のような話で、正直なところ当惑した。自分一人では、どう判断してよいか分からないことだった。拝殿で話し合いをしていた運営会のメンバーに意見を求め、まずは、子供たちの話す『声』なる物を確かめてみようということになった。

 実際に鐘塔に登って耳を澄ませてみる。しかし運営会のメンバーで、春香の話す『声』を感じる者はいなかった。時間帯が昼間ということもあってか、この時は、ウィルタも『声』を聞き取ることはできなかった。聞こえるのは春香だけだ。

 ダーナは何か考えているようだったが、ベコ連の年寄りたちは、春香とウィルタの二人に向かって、はっきり空耳じゃろうと言って、首を振った。

 飛行機を飛ばすとなると燃料を使うことになる。ゴーダム国の曹長が湖宮を去る際に燃料を炎上させてくれたおかげで、燃料は、今一から蒸留して作り直しているところだ。昨日、偵察飛行を行ったために、余分な燃料はほとんどない。それにやはり飛行機は最後の切札、むやみに飛ばすことはできない。

 飛行機を飛ばして貰えそうにないこと、それに誰も『声』の聞こえる人がいなかったことで、春香とウィルタは気落ちしたらしく、肩を落とした。

 そのいかにも残念そうな子供たちを見て、ジトパカが、次に偵察飛行をする際に飛行機に同乗させてもらい、『声』とやらのする場所の近くを飛んでもらうのはどうだと、皆に提案した。そこにいた全員が、それが妥当な線だろうと頷く。

 春香とウィルタも、今すぐにと考えていたのではない。青年グループの若者たちが本当に陸を目指すとなれば、その前にもう一度機を飛ばすことになると聞かされ、気を取り直したように表情を緩めた。

 一件落着で、鐘塔の上から全員が降りる。

 鐘塔から降りたところで、一行の前を、オバルが担架に乗せられて運ばれていくのにぶつかる。呼び止め、担架を抱える機械技師と通信官の若者に事情を聞くと、どうやらオバルは昨日から奥の院の環境制御室にこもって、延々魔鏡帳に向かっていたらしい。つい先程、頭を抱えたまま胃液を吐いて倒れたという。

 修錬堂の診療室から駆けつけたトンチーが、担架の上のオバルを覗き込んで、一言「過労ね」と言った。

 明るい日の下で見るオバルの顔は、黒炭肌の頬がげっそりと痩せ、白目がひっくり返りかけている。ただ、それを見つめるトンチーも、幽霊のような顔だ。それはそうだろう、講堂で横になっている人たちと違って、湖宮を切り盛りしている運営会のメンバーや医療スタッフは、ほとんど不眠不休なのだ。ほんの二週間ほどの間に、みな人相が変わったようにやつれてしまった。

 ダーナはたまたま姿を見せた例の青年リーダーの二人を呼び止めると、機械技師と通信官の若者に代わって、オバルを修練堂の診療室に運んでくれるよう頼んだ。機械技師が本当に助かったという顔で、担架を持つ手を青年たちにバトンタッチした。

 運ばれていくオバルと入れ代わるように、今度は講堂横の坂道を、眼帯姿のマフポップがジーボに手を引かれながら上がってきた。限界に来ているのか、ふらふらと揺れるように歩を運んでいる。見た目は、まるで夢遊病者で、ふっくらとしていた顔が萎み、痩せた牛の腰骨のように頬が突き出ている。

「無理をすると、また胃に穴が開くぞ」

 ダーナが一声、声をかけると、眼帯姿のマフポップが口元だけで弱く笑い、

「もう少しで……、何か、見つかり、そう……気が……、だか、ら……」

 眠っているような、ぼんやりとした声である。

 そのマフポップが、眼帯で両目を隠しているものの、人が集まっているのが気配で分かるのか、「何か、あったん……です、か」と聞いてきた。

 ダーナの横にいたグランダが、春香のいう『声』の一件をマフポップに伝える。

 するとマフポップが、眼帯を押さえ、

「声、ですか……、そういえば……、ずっと、耳の奥……、撫でる、そんな音が……、聞こえて、今は……、ああ、かすかに、聞こえますね」

 その発言に、思わずそこにいた一同が顔を見合わせた。

 春香が気負い込んで聞く。

「ねねっ、マグ、それってどこから聞こえる、湖宮の中、それとも……」

 体を揺らせながらマフポップが、すっと腕を上げた。指先がラージュバルト山のやや右寄りを指している。

 言い訳でもするようにマフポップが話す。それによると、その声らしき音は、音楽的な音ではなく、ぶつぶつと何か念仏でも唱えるような音だという。いま自分は、湖宮の内部から漏れている電磁波の方に関心があるので、人には話さなかったのだと。

 一同が顔を見合わせ、今一度ラージュバルト山の右手に目を向けた。

 そこに、『何か』が、あるというのだろうか。


 翌、一月六日。

 高翼機が収納してある倉庫から引き出された。

 操縦士のハガーに春香とウィルタ、それにオバルの四人を乗せた高翼機は、爆音と共に湖宮を離陸した。

 春香とウィルタの要請に応える形で、ダーナを中心とした湖宮の運営会は、高翼機を飛ばすことを了承した。最初は否定的だったジトパカたちベコ連の年寄りたちも、マフポップの話を聞いて気が変わったようだ。この湖宮を含め、世界には自分たちの理解の範疇を超えたものがあるということを、この間、何度も見せつけられてきた。量子砲、改造人間、湖宮という巨大な船、海門地峡の決壊、奥の院のドーム、自分たちの普段の生活からは、とても想像のつかない物や出来事ばかりである。もしかすると、この子供たちやマフポップが感じている『声』の先に、何かがあるのかも知れない。

 湖宮に乗り込んだ人々が再び生きて陸に足を下ろすことは、常識的に考えれば、もうほとんど不可能になっている。この現実を変えるには、凡人では想像もつかない何かが必要なのだろう。もしかしたら、それが……、

 そう思って、運営会の一同は、二人をその『声』の探索に差し向けることにした。

 オバルの搭乗に関しては、高翼機の座席が一つ空いているのを見て、ダーナが無理に同乗を勧めた。この数日、オバルは余りにも魔鏡帳に向かい過ぎている。そうしなければ血路が開けないのではという気持ちも分からないではない。が、ここは無理にでも休息を取って、気分転換を図る必要がある。

 そうダーナは考えた。そして半ば強制するように、オバルの背を押した。

 快晴無風、気温が少し上がる時間を待って、午後一時、高翼機のエンジンを始動。

 湖宮は棚氷に囲まれているとはいえ、海の上にある。

 風が無く現在気温は氷点下四度だが、陸側の気温はもっと低いことが予想される。内陸の晶砂砂漠のような極端な冷え込みはないだろうが、ここは晶砂砂漠よりも緯度が高い。用心のために、全員衣類を着込めるだけ着込んで、所定の位置に座った。

 そして離陸。

 ダーナや翁たち、それに麻苔中毒の痙攣の残るチョアンまでが講堂の外に出て、離陸した高翼機を見送る。

 診察を一時中断、修錬堂の外に出てきたシャンが、「大丈夫かしら、そんな意味も分からない『声』の正体を確かめに行くなんて」と、まだ指の動かせない右手を振る。

 シャンの声を耳に留めたダーナが、冗談混じりに受けた。

「さあな、だが、もし『声』の先に魔物が住んでいるなら、それはそれでよし。魔力で湖宮をここから救い出してくれんとも限らん」

「交換条件に命をくれといったら、どうしますか」

 ジャーバラが後ろから話に割って入った。目は遠ざかっていく高翼機を羨ましそうに追っている。そのジャーバラに、ダーナが腕組みをしたまま言った。

「命なんざくれてやるさ。どの道、ここにいればミイラにでもなるのが落ちだ」

 ダーナの頬がこの数日でめっきり痩けていた。体力も限界に来ている。ダーナ自身、もう考えることが面倒になり、神頼みでもしたくなっている自分に気づいていた。この辺が自分の限界なのだろうかと、自嘲気味の笑いを口元に浮かべた。

 ただそれがジャーバラには、ダーナの余裕に見えた。大人の政治家は強いなと改めて感心していた。

 ダーナがあれだけ動き回り、発言し、意見を取りまとめながらも、食事は皆と同じ量しか食べていないのを、食事の配給係をやっているジャーバラは知っている。

 ジャーバラはジャーバラで疲れていた。

 飢えた人たちに限られた食事を配給することが、どれだけ気疲れをすることかと痛感していた。ダーナから、たっての願いということで頼まれやってきたが、もう限界だと思っている。毎回毎回、椀に食事を注ぐ際、請うような視線を無視して、ほんの少量の餅粥を椀に盛る。もっと沢山、一滴でも多く注いで欲しいという願うような視線と、ほかの人には多く入れていないかという刺すようなチェックを浴びながら、食事を配給して回るのだ。文句を付けられれば、うまく周囲の空気を荒立てないように言い含めなければならない。仕事のご褒美として、餅屑の一欠けらを貰いはしている。しかし責任のない椀を差し出す側の方が、どれだけ気楽なことか。きっと政治家とは因果な商売なのだ。自分は政治家などには向いてない。

 そう思って、耳の黒いイヤリングに指を触れながら肩でため息をついたジャーバラに、ダーナが視線を合わせた。

「あの二人が、幸運を引き連れて帰ってくるのを願おう。さすれば、ジャーバラも面倒な配給作業から解放される」

 自分の気持ちが読まれていたことにジャーバラは頬を染めると、それを誤魔化すように、「どんな『声』なのかな、わたしには何にも聞こえなかったけど……」と、珍しく拗ねた声を出す。

 ダーナが笑って、「はは、政治家を目指すなら、人の声を聞けるのが一番だ」と、いつものくぐもった力のある声を返した。

 高翼機はすでに小さな黒い点となって、ラージュバルト山に向かっていた。


 高翼機の座席は、前後二列。前席左がハガーで、右にオバル、そして後部座席の左側に春香、右にウィルタの配置である。高度六百メートルを、対気速度百七十キロ時で飛ぶ。

 春香が爆音に耳を澄ませていた。

「この爆音でも、その声とやらは聞こえるのか」

 後ろを向いて話しかけてきたオバルに、春香がプロペラの音に負けないように大きな声を返した。

「ええ、はっきり。飛行機の進行方向から聞こえています」

「ぼくは駄目、音と振動で何も聞こえないや」

 両耳に手を当てがって耳を澄ませるウィルタが、そう話しつつ大きなおならをした。

「ばかやろう、狭いところでやるな」

「だって、あのサツマイモって、美味しいんだもん」

 昨日の午後、ヴァーリの指摘で、奥の院の畑から紡錘形の芋が掘り出された。地上部が完全に枯れていたため、検分の際に春香も気がつかなかったものだ。掘りだされた芋は、夜には蒸し芋となって講堂の皆に配られた。チモチの水っぽい芋とは比べ物にならないほど甘い芋、もちろん大きさもだ。余りに美味しかったので、ウィルタは一度に食べずに残りを取っておき、今朝、残りをさらに半分だけ食べた。ただし気圧の低い上空に上がると、腹の中のガスが出やすくなる。

 オバルが空調管の外気送風のレバーを少しだけ押し下げた。身を切り裂くような冷気が機内に侵入してくる。

 そんなことに構うことなく、春香はじっと目を閉じ、『声』に心を集中していた。

 離陸して十五分、前方に氷亜大陸の断崖が近づいてきた。

 陸が直接海の側、海溝に落ち込む地形のために、海水面の低下した今では、海岸線が断崖となって連なっている。おまけに海岸地帯の山系は降雪量が多く、氷雪が寄り集まり氷河となって、断崖の合間から巨大な氷の滝となって海になだれ込む。断崖から下に落ち込む雪氷と、海岸線を埋め尽くした棚氷がぶつかりあい、まるで氷と氷が格闘をしているようだ。とても人が近づくことなどできそうにない激しい地形だった。

 氷の瀑布が目の前に広がる。

 春香が「やや左……」と言った。

 操縦桿を春香の指示に合わせて傾けながら、ハガーが温度計に目を走らせた。陸に近づくにつれて、外気の温度が急激に低下している。高度六百メートルを飛んでいることを考えても、すでに、機外の温度はマイナス十四度。それに磁気方位計が、ブルブルと震えて要をなさなくなっている。潤滑油のヒーターの温度を上げる。

 断崖を過ぎた。

 内陸二十五キロにあるラージュバルト山の麓辺りから『声』は聞こえてくるという。陸から海に向って弱い風が吹いている。あと五分もすれば、その問題の地点に到達するだろう。オバルは武者震いのように体を震わせた。

 と後部座席のウィルタが、前の座席の間に首を突っ込むと、興奮したように叫んだ。

「聞こえる、確かにぼくにも聞こえる、前方からだ」

 目を閉じたまま、春香が自信を持って、手を『声』の聞こえる方向に伸ばした。

 外部の気温はさらに下がってマイナス十八度。予想よりも気温が低い。

 前方やや左側、雪嶺の際立つ純白の山が近づいてきた。スカートを広げた貴婦人のように、裾野がなだらかな斜面となって山嶺を囲っている。特別何かがあるようには見えない。

 春香が叫んだ。

「過ぎた、もう一度元の場所に戻って」

「何、何か見えたか?」

 オバルが首を右に左に振りながら、窓から外を覗き込む。落ち着きのないオバルと較べて、ハガーは冷静な口調で「オーケー、旋回する」と答え、機を左に傾けた。

 旋回しながら、ゆっくり高度を落としていく。そして先ほど春香が過ぎたと言った辺りに目を向けた。

 一面の銀世界。今度は、ウィルタが「ここだ!」と叫んだ。

 一面の平らな白銀の世界、起伏のない雪面の形状からして、凍結した湖のようだ。

 ハガーは、先ほど春香が「過ぎた」と言った瞬間、機体の下に取り付けた袋を投下した。袋に入れた赤い粉が、眼下の雪上に刷毛を一筆払ったような赤い線を残している。

「あそこから、声が聞こえているんだな」

 ハガーの呼びかけに、春香が「降りられる」と聞く。

「この気温なら、湖の氷は確実に一メートルの厚さを超えている。問題ない」

 答えながら、ハガーは眼下の平らな雪面に素早く目を走らせた。幅五〜六キロの長楕円形をしている。所々で雪が完全に吹き払われて、氷面特有の濡れたような光の反射を覗かせている。積雪は昨夜降った小雪程度だろう。

 機を大きく迂回させると、ハガーは氷の上の赤い線に向かって、まっすぐに機を進入させる。序々に高度を落としていく。高度九十、八十……、

 後ろから手を突き出す春香に、ハガーが注文をつける。

「あの赤い線を基準にして、降りる場所をもう少し細かく指示してくれ」

 即座に、春香が声を張り上げた。

「線の始まった地点のやや手前、氷面にかすかに臍の穴のような窪みがあるでしょ、あの近くに降りてもらえる」

「オーケー」

 ハガーは氷の作る淡い陰影に向かって、滑るように機体を降下させた。

 機体下の橇が雪面に接地、振動が全身を武者震いのように全身を揺する。ほとんど抵抗もなく滑るように機は窪みに向かって接近、右手前六十メートルほどの所で停止した。

「ここでいいか」

 ハガーの問いかけに、緊張した顔で春香が頷く。ウィルタの目にも緊張が浮き出ている。

 オバルは窓越しにその氷の窪みに目を向けた。直径四十メートルほどの緩やかな窪みの中央に、穴があいているように見える。

「オーケーか」ともう一度、ハガーが念を押す。エンジンの音が煩い。

 春香は深く頷くと、目だし帽の上に外套のフードを被った。隣ではウィルタが外に出る準備を終え、気合を入れるように肩を上下させる。

「気をつけて行ってこいよ」

「うん、分かってる」

「マイナス二十九度、機はエンジンを掛けたままにする。それから、これは携帯用の通信機と発煙筒」

 ウィルタが、ハガーから差し出された通信機と発煙筒を受け取る。

 通信機は湖宮の内部で使っているもので、試しにスイッチを入れると、すぐにオバルのポケットで着信の音が鳴った。

「穴が深ければ、通信機は使えない可能性がある、十分おきに連絡を入れてくれ。それから、一時間以内にここに戻ってくること。連絡のない場合は三十分しか待たない。それがリミットだ。それを過ぎたら俺たちは帰還する。ここで飛行機と一緒に凍死することはできないからな。以上だ、幸運を祈る」

 オバルが、にやりと笑って付け加えた。

「もし穴の中に、挨拶のできるようなやつがいたら、よろしくと伝えてくれ」

「分かった、じゃ、行ってくるね」

 二人がドアを細く開けて雪面に飛び下りた。

 そのほんの数秒の間にも、機内に冷気が入り込み、ミシッと音が鳴った。冷気で機内のものが収縮して軋んだ音、それが鉄の悲鳴に聞こえる。

 見送るハガーが、素早くドアを閉めた。

 機内の水分が霜となって窓に張りつく。それを手袋の甲でこそげ落とした時には、春香とウィルタはすでに氷の窪みの手前まで歩を進めていた。

 子供たちを機内から見守りつつ、ハガーは計器に目を落とした。外の気温はさらに下がって、マイナス三十二度。一度エンジンを止めてしまうと、掛け直すことはできない。磁針計がグルグルと回っている以外は、今のところ他の計器は正常な値を示している。

 それを確認すると、ハガーは再度、子供たちに視線を向けた。

 ちょうど、二人が穴の縁に立ったところだった。空気が澄んでいるのか、氷面に反射する光が鏡の反射のように眩しく目を射抜く。

 背伸びをするように並んだ二人が、飛行機に向かって手を振っている。

「ちゃんと、帰って来いよ」

 そうオバルは念じると、思いついたように自分も目を閉じ、耳を澄ませた。二人の言う『声』とやらが聞こえないかと思ったのだ。しかし聞こえてくるのは煩いエンジンの音だけだ。オバルは肩を窄めると、後ろの座席に転がっているウィルタの芋に手を伸ばした。固い石のような感覚が、手袋を通して伝わってきた。凍っている。

 機内の温度計に目をやると、マイナス六度を下回ろうとしていた。



次話「歴史」

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