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星草物語  作者: 東陣正則
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対立


     対立


 明けて、一月一日。

 新しい年が巡って来たが、敢えてそれを祝おうという人はいなかった。

 周囲は見渡す限り氷に覆われ、海は遙か南に遠ざかってしまった。湖宮はスブラミル海流に乗って運ばれながら、氷亜大陸から張りだした棚氷に流氷ごと絡め取られた格好である。大陸東北部の沿岸を縁取る棚氷は、一月いっぱいは発達を続ける。氷が緩み始めるのは四月も半ばに入ってからなので、余程のことがない限り、夏まで、ここから脱け出すことはできない。

 そうなれば、いま湖宮の上にいる千九百名余りの者は……、

 講堂の中の人々に絶望感が漂うなか、問題が起きた。

 実は前々から問題の芽は見えていた。

 まだ多少は体力に余力のある牧人の青年グループと、盤都の青年グループが、事ある毎に対立するようになっていたのだ。習慣の違いや食料の些細な分配を巡って生まれた不信が、思わぬ大きな対立になって現れてきていた。事の発端は、『牧人たちが、食料が尽きた後に、人の死体を食らって生き延びようとしている』という噂が流れたことである。

 光の世紀を終わらせた災厄の際、生き延びるために、人肉食がかなり広範に行われたという。記録は残っていないが、発掘された人の骨の状態などから、ある程度は事実だったろうと見なされている。災厄以降、食料難の時代が続くなか、民族や宗教によっては、非常時の亡人食を否定しない場合もある。それがシクンの民が保存食としてミイラを作るなどという噂に、繋がっていくのだが……。

 しかし、それはあくまでも、同じ民族が死者の命をもらい受けて生を繋げていくような場合で、ある民族が別の民族の遺体を食料にするとなると、話は別である。死者を食らうことが、どこかで死者を造り出す行為に転化する可能性が、容易に想像できた。それに、たとえ病気や自然死による遺体であっても、自分の身内が他者に喰らわれるのを許容できる人はいないだろう。

 やがて牧人の青年グループが死者を食料にして生き延びようとしているという噂が、まことしやかに囁かれ出す。

 閉ざされた湖宮のなか、すぐに噂は当の牧人の青年グループにも伝わり、噂を流したとされる盤都の青年グループとの対立が生まれた。さすがに講堂の衆目のなかで手を出すようなことはなかったが、講堂の裏などで暴力によるぶつかり合いが始まってしまう。気づいたダーナを初め、運営会の年嵩の者が諫めるのだが、一度始まった暴力の応酬はなかなか治まりそうにない。

 海原を漂流する場合でも砂漠をさ迷う場合でも、命を奪う最大の要因は、心の変調である。水や食料の枯渇以前に、死への不安が心を蝕むのだ。先行きの見えない漂流と棚氷の中に閉じ込められたことによる絶望が、人生経験の少ない若者たちに、集団ヒステリーを生み出そうとしていた。

 そして今朝、牧人の青年が一人、講堂の外で凍死していた。殴られたような跡もあったが、隠し持っていた酒を外に出て飲んでいる内に凍死したとも考えられる。

 だが、青年が額に巻き付けていた額帯が、雪の上で踏みつけられていた痕跡もあり、牧人の青年グループは、絶対に盤都の青年グループの仕業だと反目を強めた。

 何か手を打たないと、二つの青年グループの対立に、乗船している二千人近い人々が巻き込まれ、湖宮自体が一気に破局に向かう恐れがあった。

 運営会の会議で、ダーナは対応策を議題とした。

 その場に呼び出された牧人の青年グループの代表、例の揉みひげの曹長と睨み合った額帯の青年は、絶対に盤都の連中の仕業だと言って譲らない。一方の盤都の青年グループの代表も、牧人グループが責任を自分たちに押しつけようとしていると、真っ向から疑惑を否定。二人が互いに掴みかからんばかりの形相で睨み合った。

 とても話し合いのできる状態ではなかった。

 元々縁もゆかりもない雑多な人間の集まりである。双方に対して意見できるだけの出自の者などいないし、窮民街出の翁たちの説得を、盤都の青年が聞き入れるはずもない。同年齢のベコス地区の若衆組のリーダー、ジーボが説得を試みるが、これも全く効をなさなかった。


 そんな行き詰まった重苦しい空気が支配する拝殿広間に、表の回廊からオバルが息を切らせて走り込んできた。目の下にくまを作ったオバルが、興奮した様子でダーナに駆け寄り耳打ちする。ダーナが頷き表情を和らげた。

 ダーナは、やおら椅子から立ち上がると、そこにいる一同を見渡し「休憩を入れよう」と呼びかけた。突然の発言に訝る一同に、ダーナが告げた。

「懸案だった、湖宮本体に入る入口の一つが開いたそうだ。鐘塔の裏にあるドーム状の建物で、奥の院と呼ばれている場所だ」

 険しい目つきで睨み合っていた青年グループの代表二人に、ダーナは仮面の顔を向けると、「扉というものは、最初の一つを開けるのは難しいが、それを乗り越えれば、二つ目以降は楽に開くやもしれん。上手く行けば、この湖宮に推進機能が戻ることもだ」

 力を込めてそう話すと、今しばらくは、今回の対立の問題を棚上げにして、怒りの矛先を収めてもらうよう進言した。

 対立するリーダーの二人は、共に一瞬相手の反応を窺ったようだが、異存は無かったのか思いのほか素直に頷いた。

「要は希望を捨てずに、粘り強く可能性を探すことだ」

 ダーナは二十名ほどに減ってしまった運営会のメンバーに、そう呼び掛けると、奥の院に向かうべく拝殿の出口に足を向けた。

 オバルとダーナを先頭に、話し合いに顔を出していたメンバーがぞろぞろと続く。その足取りが、自ずと速くなる。自分たちが縋ることのできるのは、この湖宮しかない。全ては湖宮を動かすことができるかどうかの、その一点に掛かっているのだ。今日この時点での生存者、一九四七名。命運は湖宮に託されている。その突破口が開いたのかもしれない。

 湖宮が動き出しさえすれば……、

 助かる可能性さえ見えれば、若者たちの対立も別の方向に向かうだろう。

 奥の院に着くと、入り口では通信官の若者と機械技師の二人が、扉が勝手に閉まってしまわないようにと、扉と壁の間に建材を積み上げていた。扉横の壁には、くすんだ黒い染みが残っている。壁を打ち壊せないかと、溶接機や様々な方法で試した跡だ。

 まだ内部は手前の通路を覗いただけで、中には入っていない。

 奥の院の内部については、ヴァーリから一応の説明を受けている。そのこともあって、オバルたちは、扉が開いても直ぐに中に踏み込むことはしなかった。念頭にあったのは、シャンが人体を改造した男たちに襲われたという話である。ドームの中にそういう輩が潜んでいる可能性を考えた。湖宮の聖職者は全員亡くなったが、人以外の者に関してはどうか、用心を期したのだ。

 オバルがドームの中に入る前にダーナに連絡に走ったのは、運営会で管理している供出品の銃を借り出すこと。それに、ある程度の人数で内部に入った方が安全と考えてのことだ。ハガーを含め数人が、後ろから追いついてきた。さらに後方には、何事かと講堂から出てきた人の姿もある。

 三十人ほどの者が奥の院の扉の前に集結すると、銃を構えたハガーを先頭に、ゆっくりと奥の院の外殻の通路に足を踏み入れた。

 ヴァーリの話では、奥の院は外殻に円周形の通路が走り、その通路の二カ所にドームの底に下りる急な下り階段があるという。

 古代の環境を保存した内側の空間に入るための扉は、その階段の下にあるはずだ。

 外殻の通路は円環状に繋がっているので、真っ直ぐに進むと元の場所に戻ってくる。その通路を一周するが、特に危険と感じられる物はなかった。だがまだ気を許すことはできない。通路の要所と目される場所に何人か人を配置した上で、二つある下り階段の内、春香が以前下ったという階段を降りることに。

 オバルは、奥の院の中で、他の区画に通じる扉なり、連絡用の通路を探し出そうとしていた。それが駄目なら、湖宮のどこかにあるであろう管制室に接続できる、回線の端末だけでもと。もちろん林の中にあるという、煉瓦色の屋根の家も調べるつもりだ。ヴァーリの話では、その家の書斎にジュールの父親の日記があったという。もしかすると、日記以外にも、湖宮に関する資料があるかもしれない。

 漂流を始めて十日、ひたすら制御装置や持参の魔鏡帳に向かい合ってきたオバルの目は、ぎらぎらと油を塗ったように輝いている。オバルの頭の中は、とにかくこの巨大な船の内部情報にどうすればアクセスできるのか、そのことで完全に支配されていた。

 と、オバルのその凝り固まった想いも、下り階段の最後の一段を降り、扉を開けて中の空間に一歩足を踏み出したとたんに、頭の中からスッポリ抜け落ちてしまった。

 そこに春香の時代の、暖温帯と呼ばれる地域の冬の里の風景が広がっていた。

 冬枯れとはいえ、外の雪と氷の世界に較べれば、目を疑うほどの緑である。小川のほとりの樅の大木の重量感のある緑には、ため息しか出ない。冬の花もいくつか咲き、気の早い春の草花が、枯れ草の間に新しい緑を覗かせている。

 落葉木が八割ほどの林は見通しが良く、適度に残った常緑の木々と、葉を落とした枝々とが程良く混ざり、心地よい自然の階調を生み出している。ダーナに急かされるまで、オバルは眼前の世界に魅入られたようにその場に立ち尽くしていた。

 一行は一団となって、ヴァーリにもらったドーム内の地図を片手に、林の小路を進んだ。一通り地図の道を辿り、初冬の野山を歩く。ドーム内には、煉瓦色の屋根の家も含め、どこにも人や改造人間の姿はなかった。古代の里山と呼ばれる自然の空間が拡がっているだけだ。手分けして、煉瓦色の屋根の家や、外部の通路を検分する。

 そして半日後、もう一つの下り階段の壁の後ろに、様々な装置の収蔵された小部屋が発見された。十畳ほどの広さの隠し部屋の壁だけが、見かけは湖宮の壁に似せてあったが、ウォトの樹脂で作られていた。

 実は、この部屋を見つけたのはマフポップである。

 奥の院の扉が開いたことを耳にしたマフポップが、両目に眼帯をつけ、ジーボに手を引かれて療養室からやってきた。そして何かを感じると言いながら、通路の壁に額を当て、また少し歩いては壁に額を当て……、ということを繰り返し始めた。

 それを奇異の眼差しで見つめ、マフポップが心に変調を来しているのだとして、修錬堂に連れ戻すようジーボに命じる者もいたが、ジトパカがそれを押し留めた。マフポップの所作に何か秘めた決意のような物を感じたのだ。

 やがてジーボに手を引かれてドーム内を歩き回ること四時間、マフポップは階段下で額を壁に当てたまま動かなくなった。

 その後ろに、隠し部屋があった。

 便宜的に環境制御室と名付けられた隠し部屋の装置からは、無数の微細な配管と配線が、ドームの壁面に薄膜となって広がっていた。拡大して見ると、配管や配線に微小の制御素子と生体鞭が無数に付着している。古代に編み出された極小素子とマイクロマシンと言われるもののようだ。その血管のような網目状の配管が、ドーム内の閉鎖空間に、現実とそっくりの雨や風などの気象条件を生み出しているらしい。

 環境制御室を調べると同時に、若者数人に奥の院の地面を数カ所掘り下げてもらう。それで分かったことは、ドーム内の地面は、どこも五メートルほど下で、ドーム外壁と同様の壁にぶつかってしまうということだ。

 ざっと調べた結果では、環境制御室から湖宮内部の別の区画に通じる連絡口は見つからなかった。唯一注目されたのは、環境制御室の床から出て制御装置に繋がっている一本の手首大の配管である。制御室と外部を繋いでいるのは、この一本の配管だけだ。ということは、ドーム内の環境を維持管理するエネルギーと情報は、全てこの配管を通して送られて来ているということになる。

 この環境制御室の存在を、ヴァーリは知らなかった。

 半日かけた調査の結果、運営会は奥の院のドームに危険はないと判断した。もちろん調査は継続するが、それと同時に、講堂にいる人たちに、ドーム内の見学を勧めることにした。見たからといって空腹が癒されるものではない。しかし、湖宮の上に拡がり始めた厭世的な気分と、いがみ合いを緩和するためにも、講堂内で無気力に横たわっている人や反目しあう者たちに、順次、気分転換を兼ねて、ドームの中を散策してもらう。

 何より、一度も見ないで終わらすには惜しい空間だった。

 夕刻も間近ではあったが、ドーム内の見学会が始まる。

 三十名ずつが中に入る。

 解説はもちろん春香の担当だが、春香にしても、まるでタイムスリップして昔の時代に戻ったような気分だ。幼稚園児のハイキングにお手伝いとして同行した時のことを思い出す。一組十五分ずつ六組を案内して疲れ、その後の組からは、案内役を他の人と交代した。

 夕食が終わっても、明かりを灯して交代で見学は続けられた。その頃には、もう中に入る人数に制限はなく、皆だらだらとした行列となって中を散策していた。先に解説を受けた人がポイント毎に立ち、後から来た人に解説を加えるという方法を取っていた。

 見学が行われている最中、ドーム内の環境制御室では、再度船の内部に通じる出口や、それを捜し出す鍵になるものがないかと、綿密な調査が始められた。ただオバルは、その調査を他の人に任せて、一旦操舵室に戻り、ジュールの暮らしたという煉瓦色の屋根の家、その書斎から持ち出したノート類に目を通していた。

 古代語で書かれたノートである。

 またそれとは別に、マフポップは、ジーボに手を引いてもらいながら、湖宮の中を、壁や床やあらゆるものに額を当てながら、何かを感じ取ろうと歩き回っていた。

 あらゆる物は固有の電磁波を発している。人もそうだし、苔も衣服も機械も何もかもがだ。絶対零度以上の物質、熱を持った物質は、電子の動きの結果として電磁波を出す。人は光の領域の電磁波に対する感覚が突出しているために、それ以外の領域への感覚が埋没しているが、ごく稀に、光以外の電磁波を強く感じ取る人もいる。手灯の能力の持ち主などが、その例だ。

 元々マフポップは、体内にある光以外の電磁波のセンサーが、異常に発達していた節がある。それが目を病むことによって表に現れてきたのだろう。湖宮本体の外壁には電磁波を遮る素材が使われているが、僅かながら内部の電磁波が外に漏れているらしく、それをマフポップは感じ取っているようだ。

 思い詰めたような表情で施設の中を歩き回っていたマフポップが、腹部を押さえて座り込んだ。胃の痛みがぶり返してきたらしい。それでも気力を奮い立たせ、立ち上がっては壁に額を押し当て、何かを感じ取ろうとしている。


 夜の十時、ダーナは遅い夕食を口にするために、修錬堂の休憩所に足を向けた。

 湖宮の食事は日に二度、朝の十時と夕刻の五時に講堂で取るのをルールにしている。しかしダーナは食事の時間がずれることが多く、ほとんどの場合、食事を作る修錬堂に来て食べていた。

 講堂は暖かいが、二千人の人間の発する臭気で息苦しい。拝殿は運営会の誰かがいつも会議や話し合いをしている。操舵室では、自分がいるとオバルが作業に集中できない。操舵室手前の通路沿いの小部屋は使われておらず、暖房も入っているので、誰にも邪魔をされずに食事を取ることができるが、いかんせん窓がない。閉鎖された空間というのは、どうにも気分が滅入った。

 較べて修練堂は窓から外の明かりが入る。それに厭世的な空気が漂う湖宮の中で、ここだけは何かをやろうとする人たちが集まっていた。それも物を作る連中がだ。ジーボの音頭取りで始まった筏作りは、筏が五角形の骨格を見せ始めていた。その向こうでは、有志の婦人グループが服を縫っている。

 暖房はないが、そういった人たちの出す良い気が、修錬堂には漂っている。それが疲れの溜まったダーナに気力を蘇らせてくれる。

 一息ついて、ダーナは修錬堂の休憩所で腰を落とした。係の娘が細やかな夕食を配膳してくれる。椀に半分ほどの粥だが、トレーの上で食器ばかりが大きく見えるのを配慮して、ドームの中にあった紅葉の一枝が椀の横に添えてあった。

 それを認めてダーナが目を細めた。

 娘は、茶は自分でお願いしますと、一つだけ置いてある樹油のストーブの上にヤカンを乗せると、ダーナの脇を離れた。

 湯が沸くのを待ちながら、ダーナは、今日、奥の院に足を踏み入れた時のことを思い出していた。初めて目の当りにする古代の風景には、当然のこと驚かされた。ただそれ以上に印象に残ったのは、刺々しい顔をしていた青年グループの代表の二人が、奥の院の風景を目にしたとたん、表情を和ませたことだ。あの様子なら直ぐに衝突とはならないだろう。少なくとも一旦は矛先を納めてくれそうな雲行きだった。それを見て、ダーナも肩の荷を一つ下ろすことができた。

 それに湖宮の事にかまけていたが、ユルツ国の遷都先のことを忘れたわけではない。通信の手段が無いため、推測するしかないが、おそらく事態は逼迫しているだろう。それを好転させるためには、この湖宮で天のスポットライトを消す手段を見つけるしかない。

 そして今日、その第一歩となる内部への通路が開かれた。

 更に奥に繋がる道が見つかるかどうか、今の段階では分からない。しかし、ここまで全く進展が見られなかったことからすれば、大きな一歩だ。事態が好転するのではという、予感が胸に湧いてくる。

 久方ぶりの明るい話題に、ダーナは弾む気持ちでヤカンの湯を茶器に注いだ。香しい匂いがテーブルの上に立ち昇る。煉瓦色の屋根の家にあった古代の本物の発酵茶だ。この間の疲れが洗い流されていくような、そんな香りである。

 琥珀色の飲物を喉に流し込むと、ダーナは一転気を引き締め、更なる内部への通路探しと併せて、この後やらなければならないことに想いを巡らせた。

 問題は山積している。中でも急を要するのが、蔓延する疥癬への対応だ。講堂の暖かな空間に、栄養失調寸前の人間が身を擦り合わせるように押し込められている。避難した当初、ほんの一握りだった疥癬の感染者が、今では半数にまで広がっている。普段なら疥癬など縁がない都の人たちにも、菌を貰ってぼりぼりと体を掻く者が出ている。消毒しようにも薬はなく、もちろん水が貴重とあっては、体を拭くこともままならない。その疥癬のあとを追うように、風邪が拡がり始めていた。

 この時代の疥癬は、万病の元、貧困と不衛生と栄養失調の代名詞でもある。疥癬はかゆみを伴うため、体を掻くことで、そこから雑多な菌が体に侵入しやすい。おまけに寝不足で体力が奪われ、病を発病しやすくなる。疥癬が伝染病の呼び水となる可能性が大いにあった。避難してきた当初からダーナが危惧していたのが、この伝染病の問題である。

 発生をいかに防ぎ、もし不幸にして発生した場合にはどう対処するのか。今のところ危険な伝染病は発生していない。しかし、万が一そういった類の病気が発生すれば、それはあっという間に体力の落ちた講堂内の人々を席巻するだろう。

 今の内に疥癬対策を進めておかなければ、いずれ手に負えなくなる。そう思いながら、ダーナ自身も頭を掻いた。この十日余り体を拭いていない。奥の院の見学が終わり、人がいなくなったら、あそこにあった井戸の水で体を拭くか……、そんなことを考えながら、琥珀色の飲物に口をつけた。

 そのコップを手にしたダーナに、修錬堂の奥の通路から、三角巾で腕を吊ったシャンがこちらに向かってくるのが見えた。

 シャンは術後の熱も下がり、痛みも何とか治まったようで、昨日から修錬堂の奥に移された診療室で、診断はシャンが、患者への処置はトンチーが務めるかたちで、牧人のゴーブリ先生と手分けして患者の診療に当たっている。

 ところが、近寄ってきたシャンの顔色が優れない。

「無理をするとまた熱が出るぞ」

 ダーナの方から話しかけ、茶を勧めるように茶器を持ち上げる。

 ところがシャンは、茶器に目をくれることなくダーナの横に座ると、「マリア熱の患者が出たの」と、疲れた声を吐いた。

 茶器を持ったダーナの手が宙で止まる。

 それを見て、シャンがダーナを安心させるように話を続けた。

「心配しないで。薬は十分にある。不幸中の幸いで、マリア熱に関しては、あのジャーバラ嬢が、戦役勃発直前に二百人分の薬を届けてくれたの。前々からダーナが伝染病の発生を気にしていたから、一応耳に入れておいた方がいいと思って……」

 状況を説明しつつダーナの顔を見たシャンが、おやっと思った。

 ダーナが茶器を手にしたまま、固まったようにあらぬところを見ているのだ。

「どうしたの、ダーナ」

 その一言で、呪文が解けたようにダーナは茶器を机の上に戻すと、空いた右手で額を押さえた。そして深呼吸をするように何度か大きく息を吸うと、シャンに視線を戻した。

 ダーナの顔に、困惑とも悔恨とも怒りとも思える複雑な表情が浮かんでいた。

 その場では何も話さず、ダーナは重ねてあるコップから一つ余分なコップを取ると、そこに古代茶を注ぎ、自分のコップと併せて盆に乗せ立ち上がった。そしてシャンを修錬堂奥の個室に誘った。

 ダーナの顔に漂う重苦しい気配に、シャンは何も言わず、それに付き従う。

 個室で茶を一口啜ると、ダーナはシャンを正面から見すえ、ある事を話し始めた。

 話を聞くうちに、今度はシャンの顔が強ばってきた。

 そのダーナの話とは……、


 ダーナは、ユルツ国が大混乱に陥っている最中に、わざわざ遷都先から飛行機を飛ばしてドバス低地に足を運んだ。ダーナ自身は塁京の地に赴いた目的を、天のスポットライトを消す方策を、ジュール、もしくは湖宮の公師から聞き出すためだと説明した。もちろんそれも一理、だが実際には、もう一つの重要な目的があった。

 ダーナは、ギャロップから湖宮行きを依頼された際、最初はそれを断った。公の派遣ではない。ギャロップの独断で警邏隊の拘束から抜け出すのだ。いくらそれが緊急を要する課題であり、自分が適任であるとはいえ、法的には自分は脱走したことになる。それは名門政治家一族の名において、到底受け入れることのできない要請だった。

 ギャロップの指摘は重々理解できる、しかし……、

 困惑する自分を見て、ギャロップは決心したように、あることを告げた。

 それは、ユルツ国の国家機密に関する事である。

 ファロス計画の反対派は、サイトに閉じ込められていた人質を救出すると同時に、政府の文書館から事故調査報告書の捏造に関する書類と、計画推進派と都の土地利権集団の間に交わされた密約文書を盗み出した。その持ち出した機密文書の中に、全く別の案件ではあるが、ある重要な機密文書が紛れ込んでいた。その文書、正確には文書の写し。

 それは、バドゥーナ国の国務大臣ガヤフと、ユルツ国の統首バハリが交わした密約だった。バドゥーナ国が移民条項を受け入れる条件の一つとしたもので、ユルツ国が極秘に開発、秘匿してある新種のマリア熱の病原菌とその特効薬を、無償でバドゥーナ国側に借与するというものだった。これが何を意味するのか。

 両国の責任者が何を考え密約を結んだのか、それは機密文書の写しには書かれていない。

 しかし推測するのは簡単だ。

 バドゥーナ国政府、否、この場合は国務大臣のガヤフ個人の考えになるだろう。大臣のガヤフは、ドバス低地の抱える問題の根本的な解決を目指した。

 おそらくガヤフはこう考えた。

 今この段階で、避難民も含めてドバス低地の人口は、五百万人を超えている。それは、たとえ新種の火炎樹を用いて低地下流域、デルタの開発を進めたとしても、まだ飢える者の残る数字である。ゴーダム国を叩き、牧人系の避難民を一定の地域に押し込めたとしても、ドバス低地のどこかに飢える民は残る。飢える者と食える者の存在は、必ず争いを生む。それに流れ込む民は、いまだ増加を続けている。もしバドゥーナ国がデルタの開発に着手すれば、それはより一層の避難民の流入を呼ぶだろう。人がこの地に流れ込み続ける限り、対立の芽は残り、争いは起きる。そしてあっという間に、デルタの土壌資源は食い潰され、貧窮の時代に逆戻りする。

 全ての問題の根幹にあるのは、ドバス低地に集まった多過ぎる人間なのだ。このままではドバス低地の土壌資源はあっという間に食い潰され、早晩この地は海辺のゲルバ護国と化してしまう。この問題を解決し、かつ、あと百年二百年に渡って、この地で人が暮らせるようにするにはどうすれば良いか。

 簡単である。抜本的な解決策は、ドバス低地の人口を減らすことだ。それを現実のものとするための手段、それが治療薬のない伝染病の流布である。

 一方、密約を結んだ、相手側ユルツ国の統首バハリは、こう考えたに違いない。

 ファロス計画が成功するかどうかは全くの未知数である。それが失敗した際の保険、つまりバドゥーナ国への移民権を獲得したとして、現実、五百万の人間がひしめく土地への遠方からの移民は、絵空事でしかない。バドゥーナ国が古代兵器を用いてゴーダム国を組み伏せ、彼の地の権力を握ったとしても、その土地が養える人の数が変わる訳ではない。ユルツ国の市民が移民を敢行したとして、そこに待っているのは、過酷な生き残りをかけた生存競争になる。一歩間違えば、満都でラングォ族がゲルバ族に顎で使われることの再現になるだろう。それでは波崙台地で褐炭に頼って爪に火を灯しながら生きていくのと変わりはない。必要なのは、移民をした後の生活の質を確保することだ。

 そのためには、何をすれば良いか。理想は、数百年の長きに渡って豊かな生活ができる条件に、ドバス低地を変えることである。

 そして、新型の伝染病の流布という提案がなされた。

 この案がどちらの側から提出されたかは分からない。

 推測するに、発案はユルツ国のバハリ統首だったのではないか。その手法を、暗にユルツ国はこの数百年に渡って、何度も用いてきたからだ。病原菌をばらまき、その後で薬を売り込むという手法をだ。ユルツ国の政府内で情報局が大所帯なのは、一重にユルツ国が裏で画策してきた、病と薬を天秤にかけた闇の商売を行うためである。

 ドバス低地を楽園に変える方法、それは新種のマリア熱の病原菌を争乱に乗じて散布するということだ。もちろん同盟国のバドゥーナ国には、その対処薬を提供する。新種のマリア熱は、ドバス低地に溢れた人口を一気に減少させる。と同時に、未知の病の恐怖ゆえに、外部からの人の流れ込みが止まる。この方法を使えば、ドバス低地はかつて三十年前に瘴癘の地と恐れられた、低湿地帯に戻ることになる。

 どれだけの人口をバドゥーナ国が残すかは、バドゥーナ国政府の判断である。できればバドゥーナ国の人口自体も減らすことが望ましい。そうすることによって、ごく小数の選ばれた者だけが……、新しい病原菌に対応する術を持った者だけが、デルタの開発の恩恵に浴することができる。そして三十年前に行った過度の開発を教訓に、今回は三百年、四百年に渡って繁栄を保証するような、ゆったりとした開発を行う。

 この方法とは、つまりドバス低地での開発と国造りをリセットすることだ。選ばれたバドゥーナ国の一部の市民と、ユルツ国の市民の手で。

 先年から、ドバス低地の一部で、古いタイプのマリア熱の発生が見られるようになった。今なら新しい変異株の出現に不審を抱く者はいない。さらに戦争による混乱の極み。これほどのチャンスはない。正に千載一遇のチャンス……。

 そして密約が結ばれた。

 その病原菌と特効薬を届けたのが、あの雪の夜に春香が潜り込んだ双発機である。

 つまりハガーの隣に坐っていた副操縦士が、古代兵器の部品を搬出し終えた後、慌てて追加で運び出したのが、その病原菌と特効薬が納められた箱だった。ハガーたちは、その箱の重要性を知らされていなかったため、その場に現れたガヤフに指摘されるまで、うっかりその箱を機から下ろすのを忘れていたのだ。


 ギャロッポは、この密約の存在を知った時、これをどう扱うか迷った。

 もしこの機密が国外に漏れた場合は、ユルツ国という国家の存在自体が危ぶまれることになる。しかし機密には、ドバス低地五百万の人の命が掛かっている。ただ希望的に考えれば、バドゥーナ国が病原菌散布という手段を本当に行使するかどうかは疑問だ。余りにも人道に外れた計略だからだ。それに、もしそれがどこかで公になれば、バドゥーナ国は、自国以外の全ての周辺国家を敵に回すことになる。おそらくバドゥーナ国がユルツ国から入手した古代兵器で勝利するなら、細菌兵器にまでは手を付けないのではないか、ギャロッポはそう考えた。これは公にすべき情報ではないと。

 ただダーナに湖宮行きを説得するにあたって、この情報は切り札になるだろうとも。

 なにせダーナの二人の姉は、彼の地にいるのだ。

 ギャロッポは、裏で手を回し、対処薬のアンプルを一本入手した。

 話を聞かされ、ダーナは愕然とした。

 ある意味、国家の中枢にいた自分でさえも知らない密約だった。いかにもあのバハリ女史が企てそうな策某である。事によると、菌と薬をセットにして渡すと言いつつ、薬は偽物を渡している可能性もある。ドバス低地の人間を全て消して、その後に、治療薬を持ったユルツ国の人間が入植するというシナリオも有り得るのだ。

 ギャロッポが、ポケットから鎖に繋いだ金属製のロケットを取り出した。

「アンプルが一本入っている。これがあれば、多少時間は掛かってもワクチンは再生産できる」

 話しながらギャロッポが、ロケットをダーナの目の前で振った。

「どうする、百万単位の人の命が掛かった案件だ」

 ダーナの灰色の瞳が、旧友を睨みつけた。

「お前、本気で政治家になる覚悟を決めたな」

「兄貴が死んだんだ。それに目の前にお前という、お手本の政治家がいたからな」

 言ってギャロッポは、ロケットの鎖をダーナの首に回しかけた。

「冗談は抜き。本当に照明を消す手だてを見つけてくれ。そして生きて、ここに帰って来てくれ」

 ギャロッポは願うようにダーナの耳元でささやいた。


 ダーナはドバス低地に飛んだ。

 先にも述べたように、ダーナがドバス低地上空に入った時には、すでに海門地峡は決壊、ドゥルー海の水が流れ込んでドバス低地は海と化していた。その混乱のなか、バドゥーナ国がその菌の形状から『長い髪のマリア』と呼ばれる新種の病原菌の封印を解いたかどうかは、確かめようがなかった。意図して散布していない場合でも、濁流に盤都が押し流される過程で、それが外に漏れ出した可能性はある。

 湖宮に来てからも、ダーナは上陸してくる避難民たちを注意深く観察、あるいは聞き耳をたて、マリア熱の発生がないか目配りをしてきた。新種のマリア熱は潜伏期間が二週間と聞いている。その期間が過ぎれば、まず湖宮は大丈夫と考えられる。

 事前にこのことをシャンに忠告すべきかどうか、ダーナは迷った。

 しかし決壊流から逃れる混乱や、シャンが熱を出していたこと、なにより気持ちが天の光を消す手だてを見つけることに向いていたため、話しそびれていた。今にして思えば、ギャロップ同様、母国の最大の恥部を表に曝したくないという思いも、どこかで働いていただろう。それに、ファロスサイトの暴走から始まる疲れが溜まって、自分自身、正常な判断が下せなくなっていたように思う。

 ダーナは、自分が判断を誤ったか……と、自問した。

 唇を噛むようにして天井を見上げたダーナに、

「手に入れたアンプルは?」とシャンが、厳しい目で聞く。

「ここにある」

 ダーナが胸元から鎖を引き出し、先端にぶら下げた金属製のロケットを開けた。

 小指の先ほどのアンプルの中に、半透明の液体が封入されている。予防兼治療薬で、この量で六人分の量になるという。

 ダーナは重荷の取れたような表情を顔の半分に浮かべると、シャンが手にしたアンプルを見ながら言った。

「今回発病した患者が、万が一新種のマリア熱に罹っていても、その薬で乗り切れる。問題は、大量に患者が発生した場合だ。そのためにも、そのアンプル中の原液を元に薬を増やさないといけないだろうが……」

 マリア熱は、発病初期の段階では、新種のマリア熱かどうかの特定はできない。今回湖宮で発生した患者が、新しいマリア熱の患者であるかどうかが分かるのに、およそ五日の時間が必要になる。シャンはすぐに頭の中で計算、ワクチンを作るための日数をだ。ワクチンを作るには、最低十日は掛かる。もしそれまでに患者が次々と発生を始めれば……、そして、それよりもと考え、シャンが全身をこわばらせた。

 目の前の妹に向かって叫ぶ。

「ダーナ、牛を確保して。ついさっき運営会が、食料確保として、一頭だけいた雌牛の屠殺に同意した、ワクチンの製造には牛が必要よ」

 弾かれるように立ち上がったダーナは、振り向くことなく部屋を飛び出していった。

 不幸という点では、母牛はすでに屠されていたことだ。そして、幸運という点では、仔牛の二頭はまだ生きていた。だが、生まれたばかりの仔牛を使って上手くワクチンの製造ができるかどうかは未知数だ。

 シャンは「とにかくやってみるしかない」とそう言って、その準備に入った。


 次から次へと問題は湧いてくる、取り敢えず傷口に包帯を巻くが、傷が外から見えなくなっただけで、中では傷が膿み腐って溜まり、やがて臭気を外にまき散らそうとする。湖宮の置かれた状態を考えれば、旗振り役を買って出たよそ者のダーナがいくら走り回ろうと、それは傷が腐った臭いをたてるのを少し遅らせるだけの効果しかないように見える。

 ワクチン製造のために、仔牛をシャンの管轄にするよう運営会の了承を取りつけ、ようやくこの件は一段落した。もっとも、次々とマリア熱の患者が出るようなら、湖宮の上が大混乱に陥ること必至だ。ただダーナとしては、この問題は、これで一区切りとすることにした。気が付くと深夜の二時を回っていた。

 ダーナは、疲れた体を引きずるようにして、操舵室に入った。

 オバルが相変わらず、制御盤に向かってキーを叩いていた。

 後の椅子に、ダーナが徒労感に襲われたように肩を落として座る。

 自分同様、背中を曲げているダーナを見て、「猫背は体に悪いぞ」と、オバルが、こちらも疲れた顔で声をかけた。顔はやつれて、心を病んだ患者のようである。

 ダーナが珍しくぼやいた。

「疲れたな、何のために走り回っているんだか……」

「生きるというのは走り続けることだろう。長距離を走るコツは、ペースを崩さないことだ。速すぎるペースを少し落とすことだな」

「落として、後ろからオオカミに喰いつかれるような場合はどうすればいい」

 仮面を外して、裏の汚れに目をしかめつつ、ダーナが聞く。オバルは少し困ったように言葉を呑み込んだが、モニター画面に目を向けたまま言った。

「その場合は、オオカミに喰われるのがいいと、僧は言うな。自分の体がオオカミになってまた走り続ける、そうやって生き物は永遠に走り続けると」

「古代の石僧の教えか。生まれ変わるなら、私は誰にも喰われない石にでもなりたい」

 そう呟いたダーナが、ふいに思い出したように、指を鳴らした。

「そうだ、まだ聞いていなかったが、あの奥の院の扉はどういうふうにして開けたんだ。扉を開ける暗号のパスコードが解けたのか」

 眠そうな目を擦り上げると、オバルはモニターから目を離し、傍らにあったメモ書きの束をパラパラと捲くった。

「結構、苦労させられた」

 疲れた目をしばたきながら、オバルが戦利品でも見せるように、手帳の走り書きをダーナに示した。そこに短く一言『日替わり』と書かれていた。

 奥の院の扉を開けるためのパスコードは、生体認証と八桁の数字で構成されている。つまり一種の暗号である。

 オバル自身は、かつて氷床ハンターをしている時代に、何度も古代の暗号コードというものを目にしている。生体認識型の開閉装置もだ。生体認識も指紋などという単純なものではなく、ヒト個人の発する電界のパターンであったり、遺伝子そのものを鍵とするものまであった。そういうものに比べれば、このドームの鍵は、ごく単純な目の虹彩模様と、八桁の数字の組み合わせである。古代の施設でありながら、コードが思ったよりも簡単なのは、湖宮という場所が聖域で、聖職者以外の人間がまず訪れることのない場所だからだろう。その単純なコードゆえに、ヴァーリにも開けることができた。

 生体認識標は、ヴァーリが髪留めの中に忍ばせていた情報チップの中の、ジュールの虹彩模様がそのまま使えた。問題はヴァーリが幽閉された後に変更された、八桁の数字と記号である。その数字と記号の組み合わせは、単純に計算すれば天文学的な数字になる。それは、この時代からすれば、まず解き明かすことのできない暗号といって良い。しかしオバルは魔鏡帳のトーカを持っている。トーカの演算能力からすれば、時間をかけさえすれば、単純な数字と記号の組み合わせのコードは解析できる。そうオバルは踏んでいた。ところが、それが一向にできない。

 なぜ、できないのか、なぜ……。もし、このパスコードが、単純な数値と記号の羅列でないとしたら、いったいどういうコードの可能性があるのだろう。暗闘するように操舵室と奥の院を往復しながら、ずっとその理由を考えていた。

 そして、昨日ひょんなことをきっかけに、あるアイデアが閃いた。

 それは、隣のヴァーリの寝ている部屋にあったカレンダーを見ていて思いついたことだ。

 この時代にはない、紙の無駄使いのような日捲りのカレンダー、それを見ていて、瞬間、頭の中に『可変』という、キーワードが浮かんだ。

 今まで開閉装置のパネルに自分の魔鏡帳を繋ぎ、暗号コードの解析を繰り返しながら、いつもある程度解析が進んだ段階で、ふいにそれが途中でストップしてしまうようなことがあった。原因はパスコード自体が変わってしまうことにあるのではないか……。

 そのアイデアに沿って、コードの変化の法則を探す作業を始める。そして分かったのは、このパスコードが、日替わりどころではなく、秒単位で変わっていくということだ。変化に対応できるかどうかは、魔鏡帳の演算能力次第ということになる。しかし、なんとかその変化を予想し、未来のパスコードに先回りして網を被せておく。役に立ってくれたのが、避難民の婦人から提供してもらった、同調回路という古代の特殊な電子回路である。

 最後、魔鏡帳と、その同調回路を用いて、やっと鍵に辿り着くことができた。

 オバルの話は、その法則を導き出した具体的な方法の説明に入ったが、その時にはダーナは後ろの机で突っ伏し、軽い寝息をたてていた。

 オバルは椅子に被せてあった毛布をダーナの肩に掛けると、「長く走り続けるために一番大切なのは、休息を取ることだそうだ」と小声で呟き、机から食み出して下に落ちそうな仮面を、そっとダーナの顔の横に寄せた。そして気づいた。

 仮面を置いていた机の上に、血のしみが付いている……。

「ダーナ、おい、お前」

 思わず呼びかけたオバルに、ダーナが顔をうつぶせたまま、机の横に垂らした腕の先を左右に振った。

「頼む、寝かせてくれ、それから血のことは、シャンには秘密だ」

 顔を上げることなくそう言ったダーナは、そのまま軽い鼾をたて始めた。

 ダーナの指先が、夢の中でも現実と格闘するように虚空を掴んでは伸びる。

 しばし複雑な表情でその様子を見ていたオバルは、眠気を払うように首を振ると、モニターの画面に向き直った。そして傍らに置いてあったヘルメット型の情報検索装置を被ると、卓上の瓶に残った白い錠剤を口の中に放り込んだ。

「あと、一錠か。こいつが切れる前に何とかしなければ、こっちもな……」

 そう呟くオバルのヘルメットの中で明かりが点滅し始めた。



次話「声」

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