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星草物語  作者: 東陣正則
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棚氷


     棚氷


 十二月三十日、漂流十一日目、夕食後。

 運営会のメンバーが拝殿のホールに集まって、今後のことを話し合っていた。

 食料は残り十日分。昨日と同じ日数である。実は食料が尽きないようにするために、手持ちの食料を常に十等分して、その日の割り当て分とすることにしたのだ。明日に持ち越される十分の九の食料を、明日はまた十等分するという風にしてである。こうすれば、食料が尽きる日は伸び続ける。

 しかし……。

 相変わらず湖宮は氷に取り囲まれたまま、ゆっくりと北東方向に流されている。湖宮内部への突破口は未だ開かず、船内では皮膚病の疥癬が猛威を振るい始めていた。

 グラミオド大陸が平穏な状態なら、実際には不可能にしても、飛行機を飛ばして救助を求めるということも考えられる。しかし、通信機に混入する酷い兇音と、西方を覆う雲からして、天のスポットライトによる大気の擾乱は益々度を増し、グラミオドの諸国は、猛烈な嵐で大変な混乱に陥っていることが予想された。

 較べて湖宮は平穏そのもの。大陸本土では天変地異という惨禍が激烈に進行し、湖宮では飢えという惨禍が緩慢に忍び寄る。シフォン洋の東にあるもう一つの大陸、ブラシオ大陸までは、悠か八千キロの距離がある。もしそこに流れついたとして、その時湖宮の上にあるのは、二千体のミイラだろう。

 助かるための妙案などなかった。

 やれることといえば、いかに食料を食い延ばすか、その程度のことだ。海の表面にいるアミの類を掬い採るだの、食事の配給の量を体重によって加減するなどといった、些末なことを一つ一つほじくり出して検討する。しかし、そういったことを全て実行しても、さして効果がある訳ではない。それでも、それをやることが生きていることの証であるかのように、延々と話し合いは続けられた。

 議論は大人たちに任せて、春香とウィルタは鐘塔の上に来ていた。夜の見張りである。この数日は、一日おきに晴天と吹雪が入れ替わっている。ちょうど昼間の嵐のような吹雪が止み、凍てついた空に満天の星が戻ってきたところだ。光芒も色彩も様々な星の輝きに混じって、久しぶりにこの時代の人が蛍星と呼ぶ人工衛星が、規則的な点滅を繰り返しながら天空を横切っていく。二千年に渡って天空を動き続ける装置など、この時代の感覚からすれば奇跡に近いものだが、二人はその光を軽く見上げただけで、また視線を前方に移した。

 星明かりの下、見渡す限り白く平坦な世界が広がっている。棚氷に埋め尽くされた海面である。前方遙か先、白い水平線の上に小さな三角の出っ張りが覗く。氷亜大陸の象徴ともいえるラージュバルド山で、昨日よりも僅かにその突起が近づいたように見える。

 いま湖宮は棚氷と棚氷の間の大きな開水面に浮かんでいる。風もぴたりと止み、周辺の氷も黙したように静まり返ったままだ。こういう時は凛とした星空の瞬きの方がよほど冗舌に思える。音が天に吸い取られたような静けさで、湖宮の要所々々に吊るした白灯の明かりが波のない海面に冷たく映える。

 春香は手すりに両腕を置き、そこに顎を乗せて、耳の意識を前方にそばだてていた。

 ウィルタが腕を伸ばし、北北東の方向を指す。

「こっちだよね」

 春香が頷く。

 今日に限っていえば、ウィルタにもその『声』とやらが聞こえた。それが春香に聞こえているのと同じものか、同じように聞こえているのか、それは分からない。だが聞こえると感じる方角は一緒だった。彼方に見えているラージュバルド山の右斜面の辺りからだ。方角を確認すると、また目を閉じて耳を澄ませる。

 と鐘塔の階段を上がってくる足音が聞こえた。姿を見せたのはジャーバラだった。分厚い防寒帽を二重に被り、顔には真っ白に防寒クリームを塗りたくっている。その白塗りの顔の中で、目だけがくりくりと動く。都育ちのジャーバラには、塔の上の寒さはとても耐えられないようで、「二人とも見張りが好きよね」と、感心したように手袋を擦り合わせた。

「密談するにはここが一番なんだ、この監獄島から脱走するためのね」

 振り向いて目配せをするウィルタに、「じゃあ、それは、わたしの相談に乗ってからにして」と言って、ジャーバラが春香の袖を引いた。

 ジャーバラが鐘塔の後方、奥の院の後ろ辺りを指差した。

「湖宮の上に何カ所か白灯を吊るしてあるでしょ。奥の院の向こう側、湖宮の一番後ろに置いてある白灯が消え掛かっていたから、交換の匣電を持っていったの。そうしたら白灯に照らされた海面がざわざわと波立っているのね。今夜は風もないのに変だなと思って良く見たら、魚みたいなものが群れてる。獲れるかなと思って、白灯の引っ掛け棒を突っ込んだら一匹獲れた。それがこれ」

 ジャーバラが脇に抱えていた布の中から、カチカチに凍りついた棒のようなものを取り出した。それが手袋の中でツルッと滑って足元に落ちる。手の平の三倍ほどの長さの白っぽい塊である。その塊を拾い上げ「クラゲみたいに見えるんだけど」と、ジャーバラが首を傾げた。

 見た瞬間に、春香にはそれが何であるか分かった。だが直ぐには答えず、ウィルタの反応を待つ。ウィルタは、筒のような本体から伸びたイボイボの紐に気づくと、慌てて手を引っ込めた。どうやら知らないようだ。

「これ、イカよ」と、春香はその名前を口にした。

「イカ?」と、ジャーバラが怪訝そうに聞く。初めて耳にする言葉らしい。

 魚とは別の海の生き物だと、春香が説明する。

 ウィルタよりもジャーバラの方が、好奇心が強い。ジャーバラは、イボの付いた足を指先で突つくと、「食べられるの」と興味深そうに尋ねた。

「もちろん」という春香の返事を聞いたとたん、ジャーバラが嬉しそうに目を輝かせた。

「私でも獲れるくらいたくさんいるの、来て」

「凄い凄い、わたしも見たい、奥の院の後ろね」

 声を弾ませながら、春香とジャーバラは鐘塔の階段に走り込んだ。

「おい、見張りはどうするんだよ」と叫ぶウィルタの耳に、「見張りよりも、今は食料!」という春香の興奮した声が、鐘塔の下から返ってきた。

 滑りやすい足元をものともせず、春香とジャーバラはドームの後ろに走った。

 そして白灯の明かりに照らされた海面を見下ろす。小さなプランクトンの粒がプツプツと水中で光を反射するなかを、黒い影が右に左に走っている。イカだろうか、魚のようにも見える。しかし、群れというほどでもない。

「さっきは海面が、ざわつくほどいたのよ」とジャーバラが言うので、急いで他の場所も確かめる。すると、以前拝門の柱の立ち並んでいた湖宮左舷の白灯の下に、海水がざわめくほどにイカが群れていた。雪氷の貼り付いた壁が、白灯の明かりの反射板となって水面を明るく照らしているせいらしい。

 参道の斜面を下って水際まで下りると、勢い余って拝門の斜面に乗り上げたイカや小魚が数匹、身をのたうたせていた。これなら延縄用に作ったタモ網を使えば、難なく掬えそうだ。それに明かりを増やせば、もっとイカが集まってくるかもしれない。

 すぐに拝殿の中で話し合いをしている大人たちに報告。傾いた拝門の柱と柱の間にロープを渡し、その下にありったけの白灯を持ち出してぶらさげる。

 すると透明度の高い海水が濁るほどに、プランクトンが集まってきた。さらにそれを目当てに、黒い小さな影がザワザワと音が聞こえそうなほどに群れ始める。小魚の群れだ。その小魚を追いかけて、一回り大きな黒い影が右に左に激しく走りだした。本当に波が泡立つほどのイカの群れだ。

 時ならぬイカ漁が始まった。

 三本あるタモを使ってイカを掬う。一掬いで二〜三本のイカが網に入る。イカと併せて、小魚も一緒に獲れる。それを後ろに放り投げ、すぐにまた次のイカを掬う。いくらでも面白いように獲れる。獲れたイカは寒さであっという間に凍りつく。それを背後に控えた人たちが、拾って樽に入れる。すぐに満杯になり次の樽も。海面の狂騒に刺激されたように、石の斜面に乗り上げるイカも後を切らない。それを拾う人も、別に急ぐ必要もないのに競争で拾い集める。

 交代でイカ掬いは続いた。

 春香も試しにやってみたが、拍子抜けするほど簡単にイカが獲れるので、三度ほど掬うと、見張りから下りてきたウィルタに網を渡して、自分は凍ったイカを拾う方に回った。次々とイカで一杯になった樽が並ぶのを眺めながら思う。おそらく大型船のないこの時代、人が漁に訪れることのない海域では、自分のいた時代とは比較にならないくらい魚が沢山いるのだろう。曾祖父のさらに祖父の時代、初めて遠洋漁業の漁船の入った海域では、海の色が変わるくらい魚が群れていたという。

 もし毎晩こうやって、イカやほかの大型の魚を光で集めて獲ることができれば、もしかしたら湖宮の食料問題もかなり引き伸ばせるかもしれない。

 それにしても、目の色を変えてイカや小魚を捕まえようとしている人たちの中には、先ほどまで何のやる気もなく寝転がっていた人も混じっている。人はなぜ捕まえるということに、熱狂するのだろう。人の血を騒がせる何かが、ここにはあるのだろうか。

 狂騒は二時間が過ぎても続いた。


 その皆がイカ掬いに狂騒している頃、操舵室の中では、オバルが頭に小型のヘルメットのような物を被ったまま、操作盤に突っ伏していた。軽い鼾が顔の下から漏れている。

 漂流が始まって以来、オバルは操舵室か、奥の院の壁に接して張られたテントの中に詰めていた。湖宮が動いて陸に戻れることを期待する皆の気持ちが分かっていたし、展望が開けないことによって、講堂の中に疲弊した空気が漂い始めていることも、十分過ぎるほど理解している。全ては湖宮が動くかどうかにかかっているのだ。だからこそオバルは、肩にかかる重荷に突き動かされるようにして、制御装置のキーを操作し、モニター画面を見つめ続けた。そしてこの数日は、制御装置の中に見つけた情報のゴミ棄て場を、ひたすらかき回していた。

 オバルが被っている頭の上半分を覆うヘルメット状の装置は、ドアーズと名付けられた情報検索装置である。膨大な情報を検索する際、とくにそれが体系だって整理されていない情報の場合、モニターの小さな画面に一度に呼び出せる情報は限られる。俯瞰できる情報が少なすぎるのだ。それを補う意味で開発されたのが、このドアーズという装置らしい。

 情報を、窓を開いて探すのではなく、ドアを開いて、その情報の中に人の意識そのものを入れてしまおうという装置だ。窓型の情報検索が、図書館のカウンターで一冊ずつ本を借り出す方式なら、このドアーズ方式は、自分で書庫の森の中に入って探す方式といえる。

 操舵室の備品入れの中にドアーズの装置を見つけたオバルは、操作盤の記録装置に残された膨大なゴミ情報の中に扉を開けて立ち入り、何か手がかりになるものがないか、この三日間ひたすら捜し続けていた。

 記録装置のゴミ箱に残された情報は、ほとんどが単純な気象情報のデータであったり、各モニター類の通電稼動時間であったり、運航時の出力数の変化であったりと、ひたすら数値の羅列である。意識がその数値の海で溺れそうになる。一向に手掛かりになりそうな情報が見つからない……。

 そして、情報の海の中でもがくことに疲れて、オバルは情報検索用のヘルメットを着けたまま、居眠りを始めてしまった。

 うたた寝のなか、オバルの夢の中に、あの盤都迎賓館で口にした料理が蘇っていた。香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。匂いというものは、夢の中でもこんなに鮮やかに感じることができるもかと、オバルは感心しながら、目の前の料理の皿に手を伸ばした。ところが料理の乗った皿は、オバルの手を擦り抜けるようにして動く。追いかけてまた料理の皿に手を伸ばすと、また皿が逃げる。何回かそれを繰り返し、今度こそと思って、皿に飛びつき、両手がしっかりとその皿を掴む。

 これで料理を食べることができると、そう思った瞬間、皿に手を伸ばした格好で、自分が飛行機の操縦席から身を乗り出していることに気づいた。後ろを見ると、なんと靴先が操縦席の窓に引っ掛かっているだけ。遙か下は海、あっと思う間もなく、靴先は窓から離れ、自分は海に向かって……、

「わーっ!」と叫び声を上げて、オバルは椅子から転げ落ちた。

 目を開けると、湯気のたつ皿が目の前に突き出されていた。皿を持っているのはアヌィと春香。どうやら自分は料理の匂いにつられて、椅子を転げ落ちたらしい。

 目の前でアヌィと春香が、クスクスと笑っていた。

「すごいすごい、人間、匂いでも、目が覚めるんだ」

「鼻の中から手が出てきそうなくらい、鼻の穴が拡がっていたわ!」

 二人が拍手でもするように、おおげさに手を叩いた。

 寝呆けた目を擦りながら体を起こすと、オバルは操作盤の上に置かれた皿に目を向けた。焼き餅用のソースと肉の焦げた香ばしい匂いが、手招きをするように立ち昇っている。その胃壁をくすぐる匂いを幅広の鼻で胸いっぱいに吸い込んだオバルの目に、スクリーンパネルに映し出された光景が飛び込んできた。

「イカという魚を獲っているところです」と、助手の機械技師が注釈を入れる。

 場所は拝門の階段。吊り下げられた白灯の下で、網を手にした連中が盛んに何かを掬っている。網を手にした人からも、見物人たちからも、真っ白な息が吐き出され、その後ろでは本物の煙が雲のように湧いている。獲れたイカに櫛を刺し、ソースを塗って焼いているのだ。こんがりと焼けたイカが、手から手へ渡される。

「そうか、あれを焼いたのがこれか」

 オバルは目の前の焼きイカにフォークを突き刺すと、がぶりと噛みついた。不思議な歯ざわりだ。毛長牛の煮込んだ腸を噛むような歯応えで、獣の肉とも魚の肉とも違う味と触感だ。しかし旨い。オバルが二口目を噛みついたところで、スクリーンパネルを見ていた隣の技師が「ワッ!」と、雄叫びを上げた。

 何事……と、イカにかぶりついたままオバルも顔を上げる。

 アヌィと春香も、スクリーンパネルの映像に釘付けになった。

 画面の中、白灯に照らされた夜の海面が、猛然と泡立ちながら盛り上がってくる。

「何だあれは!」

 オバルが叫ぶのと同時に、海面は一気に突き上げるように上に裂け、その中から巨大な口のようなものが海水を飲み込むようにして姿を見せた。バックリと裂けた巨大な口は、体を反転させながら、豪然と波しぶきを辺りに跳ね飛ばしつつ、崩れるように海の中に落ち込んでいく。

「クジラだ!」春香が口に手を当て叫んだ。

 オバルがまさかという目で、画面に顔を寄せる。今度は少し離れた場所から、別のクジラが海面を盛り上げるようにして現れた。何頭かのクジラが次々と大口を開けて、波ごとイカや小魚を丸呑みしては、海の中に潜り込んでいく。食事をしているのだ。

 クジラが体を水面に打ちつける際の轟音が、湖宮上空の闇に鳴り渡る。四半刻もそれは続いた。現場に居合わせた人たちは、クジラたちの饗宴が終わった後も、しばらくは惚けたように水面にできた波紋を見つめていた。

 クジラのおかげで小魚とイカの群れはいなくなってしまった。それでも一人につき一匹半もイカを食べることができた。新鮮なタンパク質を口にすることができたことも嬉しいが、それ以上に、何かしら自分たちの想像を超えた自然の営みに、励まされる部分があった。まだまだ自分たちが考えもしないようなことが起きて、自分たちがここから脱出することができるのではと、そんなことを巨大な生き物の出現は感じさせてくれた。

 次の朝、牧人の尼僧の誘いに応じて、祭壇で祈りを捧げる者が増えたのがその証拠だ。


 十二月三十一日、大晦日。

 昨夜のイカ漁のこともあり、講堂の中に少し活気が戻ったように思える。

 ところが、昼前から、その活気に水を差すように、湖宮の周りの氷が加速度的に増えてきた。午後を回ると、もう氷に覆われていない水面を探すのに苦労するほどになってしまう。湖宮は氷の牢獄に閉じこめられつつあった。当初は氷も海流に乗って流れていたが、その氷がぎっしりと寄り集まって、ほとんど動かない。

 北方の大陸の縁には、棚氷と呼ばれる分厚い氷の板が、陸から張り出すように拡がっている。一年の最後の日に、湖宮はその棚氷の先端で、流氷と共に完全に氷の平原の一部に取り込まれてしまった。



次話「対立」

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