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星草物語  作者: 東陣正則
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漂流


     漂流


 そして翌日となる。

 生き延びるための様々な試みが始まるなか、オバルは、昨日に続いて操作盤の記録装置から湖宮自体の情報が引き出せないか、情報の検索を続けていた。湖宮の大まかな構造だけでも分かれば、出入口の位置を予測し、かつ構造的に弱いところを突いて、内部への突破口を開くこともできるかもしれないと考えてだ。

 またオバルとは別に、若衆組代表のジーボと、通信官の若者、そしてゴーダム国の機械技師の三人は、電気や環境維持システムの配線や配管を辿る方法で、湖宮内部への進入口を探していた。

 水面上にある拝殿や講堂その他の施設の扉は、ありふれた棒鍵が使われており、開閉は造作もなくできる。だが合わせて十九ある湖宮上の建造物の中に、漂流生活の手助けとなるようなもの、特に食料は見当たらなかった。湖宮の生活物資は、セリ・マフブ山系から外に出る際にラリン湖に沈められたであろう寝生区と、貢朝品の倉庫などの対外区の施設に、全て収納されていたのだろう。

 難関は鐘塔の後ろの三つのドームである。

 棒鍵の使われる建造物には、扉以外にも窓などの開口部がある。対して奥の院の三つのドームには、開口部がない。密閉された構造なのだ。

 ヴァーリの話では、ドーム扉の開閉は壁面の操作盤によってのみ可能で、その操作には、登録された人物の生体認証と、登録番号の入力が必要になる。この二つのキーのうちの生体認証だが、ジュールの虹彩模様を記録しておいた手帳サイズの魔鏡帳は、ヴァーリが奥の院に幽閉された際に取り上げられている。しかしながら、用心深いヴァーリは魔鏡帳の情報チップの予備を、自身の髪留めの中に填め込んで保管していた。

 その情報チップから、オバルの魔鏡帳のトーカにジュールの虹彩模様を呼び出し、画像をドーム扉の操作盤のレンズに読み取らせてみる。すると開閉装置の小さな画面に、数字を打ち込むためのテンキーの並びが現れた。幸運にも生体認証のカギであるジュールの虹彩模様は、変更されていなかった。

 続いて以前のキーコードであるジュールの生年月日を打ち込んでみるが、さすがにこちらは変更されたらしく、操作盤にエラーの表示が点滅。八桁の数字と記号で、その組み合わせはほとんど無限といってもよく、闇雲に数字を打ち込んでも扉の鍵が解除される可能性はゼロといって良い。オバルは当面操作盤の扱いを凍結することにした。下手にいじってシステムが故障し、本当に開かなくなることを危惧したのだ。

 そのこととは別に、ジーボたちは、ドームの壁面を物理的に壊す試みを進めていた。

 ところが、たがねを打ち込もうとしても、全く歯が立たず、供出してもらった銃で撃っても、傷一つ残らない。機械技師が倉庫の中で見つけた小型のレーザ加工機を持ち出し、十字泡壺を電源にレーザビームを当ててみるが、壁面の表面は融けても、十センチほど下の反射層でレーザが跳ね返されてしまう。全く対処のしようがなかった。

 現在、人の出入りできる建物で、元々の光の世紀の古い構造物と見られるのは、奥の院のドームを除けば、拝殿ホール奥のハッチを潜った通路と操舵室のみで、それ以外の地上の施設は、湖宮本体の上に継ぎ足すように作られたものだろう。それは配線のチェックでも確かめられた。光伝ケーブルの配線されているのが、操舵室のある区画だけで、それ以外の施設は全て電気を送る配線しか敷設されていないからだ。

 残念だったのは、ウィルタの所持していた光を紡ぐという紡光メダルが失われたことだ。刻々と決壊流が近づくなか、波止場で筏から落水した人を救けようして、ウィルタも水に落ちた。そして泳げないウィルタが引き上げられた時、首に掛けていた紡光メダルは、鎖だけを残して失われていた。もし紡光メダルがあれば、湖宮内部に侵入する方法として、何か違う策が試せたに違いない。操舵室の扉の開閉装置の切断された切り口を見て、オバルを初め皆が残念がった。

 もっとも紡光メダルがあったとして、それが使えたかどうかは疑問である。ウィルタが光伝ケーブルを切断した数分後には、操舵室の光伝ケーブルは、光の供給を停止している。その切断された光伝ケーブルを接続し直すことは、オバルたちの技術では不可能だからだ。

 ヴァーリの話では、湖宮を構成する各ユニットには、必ずどこかに人が出入りするための連絡口があるという。その指摘に従えば、操舵室の一角にも内部に通じる通路があるはずで、当然動力としての電力や光、あるいは情報を送るラインも、どこかになければならない。

 ジーボと通信官の若者、機械技師の三人は、若衆組の青年たちにも手伝わせて、剥がせる壁、取り外せる装置を片っ端から弄って、配線経路の探索を続けている。しかしながらそれは、オバルの行っているモニター画面に相対しつつ、電子基盤に刻印された情報を探り続けるのとは別の意味で、苦行に近い作業となった。


 難航する湖宮内部への入口捜しと較べて、水と食料の確保に関しては、着々と手が打たれた。火炎樹の樹液を加工するための餅発酵菌が、倉庫で見つかったのだ。菌は種類によって発酵後の加工方法が分かれる。だが概ね、火炎樹の樹液を最短一週間で人の口に入る状態に加工できる。

 まず試しに、一樽分の樹液の発酵が準備された。空調の効いた一室に水槽が運び込まれ、中に火炎樹の樹液と菌が投入、蓋がなされた。室温が二十二度と、やや発酵には低いが、逆に温度が一定に保たれているので、失敗する可能性は低いはずだ。発酵が順調に進むようなら、すぐに発酵槽を増やす予定である。

 海の資源の利用、つまり魚を捕獲する試みも始まる。

 専門の漁師以外にも、窮民街の住人には、川で漁をした経験者が多い。脱出の際に持ち出した道具などを使って、さっそく即席の釣り大会が始まる。しかし、いかんせん巨大な筏で、船べりから海面まではビルほども高さがある。それに外洋の波は大きい。釣り糸を垂れるといっても、ほとんど海の表面に針を置くようなことになってしまう。

 予想どおり、船べりでの釣りは、ほとんど成果を上げなかった。釣れたのはなんと湿地帯でいつも見ていた、汽水帯の魚が一匹。洪水で泥水と一緒に流されてきたのだろう。大洋のど真ん中で、土台小魚がいるような場所ではない。

 ただ釣りをしていた連中が、波間を走る黒い影を見たという。どうやら外洋性の大型の回遊魚がいるらしい。貢朝船の荷の中にあったロープや縫製用の糸を使って、延縄を作り、湖宮の後方から流してみることにする。もちろん大型の魚を狙うのであるから、釣針も手持ちの小魚用では話にならない。金属片を加工して、一から作ることに。上手く行けば、内海では目にしたことのない大型の魚にお目に掛かれるだろう。

 狩猟本能をくすぐられた大の男たちが、講堂横の修養殿で背を丸め、せっせと延縄漁の道具を作り始めた。

 水作りに関しては、当初は船上の至る所に張り付いている氷が使えるのではと思えたが、そのほとんどは海水の凍った海氷で、残念ながら融かしても飲料には適さない。

 一方、空調システムを調べていたジーボたちが、空調の排気管の下に、室内から除湿された水分が流れ出ているのを発見した。そういう場所が三カ所、一日でバケツ十四杯分に相当する水が確保できることになった。

 避難民が二千人ということからすれば、問題を劇的に改善できる量ではないが、それでも無いよりは益しで、勇気づけられることだった。

 あとこれも重要なことが、傷病者の治療の問題である。

 紛争と決壊流を潜り抜けてきた人たちで、ケガ人、病人が多数含まれている。特に三分の一の人が、顔や手足に何らかの凍傷を負っている。

 傷病者への対応は、収容した人たちの中にいた牧人の施療師と、シャン、トンチー、それに看護技師の経験のある男女数人で当たることに。傷病者の数に対して医療関係のスタッフが少ない。だがそれ以上に問題なのが、医療資材の不足である。

 墓丘に運んでいた診療所の医薬品と医療機材の大半が、不幸にも飛船が救助に向かう直前の波でさらわれてしまった。医療というものは、薬剤や器具がなければ何もできないと言っても過言ではない。湖宮の倉庫に奉納されていた荷の中にも医薬品は含まれていたが、そのほとんどは薬剤であり、注射器やメス、あるいは包帯やガーゼなどのリネン類といった、基本的な医療資材が見当たらなかった。

 無いものは、作るしかない。量が必要とされる消毒薬は、当面手持ちの酒類で賄いつつ、急いで樹液を発酵させてアルコールを作ることに。リネン類は奉納されていた布地を用い、注射器や手術用のハサミ、鉗子、ピンセットなどの道具類は、代用の物を探すか、他の金属製品を加工して用意することになった。

 

 更に、これは急を要する作業ではないが、船もしくは筏を作る必要があった。

 波止場の岸壁に係留していたゴーダム国の調査船を含め、倉庫に収容してあった馬頭船や飛船も、全て決壊流によって倉庫ごと流され、失われてしまった。湖宮が上手く陸に近づいたとして、この巨大な船が直接陸に接岸することは難しい。

 湖宮から陸まで人を運ぶための上陸用の船か艀を作らなければならない。

 ところが、そのための資材がなかった。十九ある建物の建材や内装用の材も、そのほとんどは金属石でできており、船の建造に使えそうな物といえば、家具等を解体したウォトの材だけで、それも量は限られる。船を造るには、まず材の準備から始めなければならなかった。

 ただ上手くやれば、予備の飛船用のエンジンが見つかったので、エンジン付きの機船を作ることができる。問題は誰が船の建造をするか、いや行えるかということだ。それが、二千人もの人がいるのに、造船の技術を持っている者は、若い頃に造船技師をしていたチョアン一人しかいなかった。

 そのチョアンの姿が見えない。探すとチョアンは、湖宮後部の倒壊した経柱の瓦礫の間に潜り込み、こっそり持ち出した奉納用の酒を飲んで酔っ払っていた。見ると手が異常な震え方をしている。どうやら、麻苔の禁断症状を酒で誤魔化していたらしい。とても船の建造ができる状態ではなかった。

 面倒な問題を孕んでいた。

 チョアンの禁断症状を抑えるには、麻苔と同等の効果をもつ医薬用の麻酔薬を服用させればいいのだが、ベコ連の年寄りたちが、そのことをシャンや牧人の施療師に相談すると、二人とも血相を変えて提供を拒否した。いま湖宮の上には、手術を必要とする傷病者が五十名近くもいる。それに百人を超えている凍傷の患者は、患部の状態によっては、乾化を待たずに切断手術をすることになる。量の限られる麻酔薬を、麻苔の中毒患者などに使う訳にはいかないのだ。

 道理である。だが、湖宮から脱出する際に船が必要というのも道理だ。

 話し合いの末、船を造り上げるまでの間に限って、最低限の麻酔薬を提供する。その後、チョアンは必ず中毒から更生させる。それを元中毒患者だったがガビが、責任を持って監督するということで、問題は一応の決着をみた。

 そして麻酔薬を服用、チョアンは、それまでの様子が嘘のようにケロッとした顔に戻った。ところが……だ。

 このチョアンが、エンジン付きの船は作りたくない、作るなら普通の双満船に限るとごね始めた。チョアンが、かつて機船の製造に関わっていたというのは衆知の事実。ドバス低地の川や湖ではない、今いるのは外洋上である。可能なら、筏のような推進力のない船ではなく、波を自力で乗り越えられる機船が手元にあった方がいいのは当たり前だ。

「なぜ!」と、ベコ連の年寄りが詰め寄るが、

「どうしても」と、チョアンは頑強に言い張る。

 その頑迷さを見て、地獄耳のグランダが何かを思い出したように、ガビに耳打ちした。

 鉄火鼻のガビが、あだ名の通り垂れ鼻を真赤に充血させて、怒鳴り上げた。

「昔、都に、自分の作った船のスクリューで指を落とした造船技師がいたそうだな。そいつは、それ以来スクリューが恐くて、機船を作ることも、機船に乗ることもできなくなった。噂じゃ、そいつは酒と麻苔に溺れ、渡しの船で櫓を漕いでるっていうじゃねえか。えっ、どこのどいつだ、その意気地なしの腰抜け野郎は!」

 叩き付けるようなガビの啖呵に、それまで、ぐずってそっぽを向いていたチョアンが、「違う!」と、淀んだ目を見開き言い返す。

「何が違う!」

「それは……」

「そうだ、違うというなら、機船を作れない訳を言ってみろ、このカニ指野郎!」

 ガビやベコ連の年寄りたちが、伸し掛かるように迫る。

 睨みつける翁たちの前で、チョアンはプイと横を向いてしまった。

 チョアンはなぜ機船を作りたくないか、その訳を最後まで口にしなかった。それでも渋々ながら、エンジン付きの機船を作ることを承諾した。

「手を抜いて作るなよ」と、ガビが疑り深そうに念を押すと、ムッとした顔でチョアンが監督役のガビを睨み返した。

「馬鹿にするな、これでもドバス低地の警邏艇の原型は俺が作ったんだ」

 そう吐き捨てると、チョアンは無言で船の設計図を引き始めた。


 修養殿で行われている延縄作りの作業の横では、操縦士のハガーが、溶接の道具を持ち出し、パイプや缶を繋ぎ合わせていた。釣り針を作る手を休めたウィルタが、興味深そうに覗き込むと、ハガーが作業の手を止め、一息入れるように話しかけてきた。

「何を作っているか分かるか」

 辺りに鼻をつく臭いが漂っている。

「なんだか油くさいね」

「飛行機の燃料を作っているのさ。機船のエンジン用の油じゃ、不純物が多くて、飛行機の繊細なエンジンは、内部が焼き付いてしまう。通常の燃料用の油をもう一度乾溜し直してるんだ。まあ濁り酒から蒸留酒を作るようなもんだな」

 途中のビンの中に、ポタポタと水のような液体が滴っている。それがハガー言うところの、航空用の燃料なのだろう。溜まりだした無色透明な油を見て、ハガーがにんまりと笑った。

「もし湖宮が陸からどんどん離れた場合、小さな船では、とても外洋の荒波を越えることはできない。最後は空をひとっ飛びできる飛行機が命綱になってくる。そのためにも、この油は絶対に必要なものだ」

 ハガーは出来上がった油を指につけ、舌先に置くと「ウーン、まあまあか」と言って、操縦桿を握っている時のしかめっ面とは打って変わって、にこやかに目を細めた。聞くとハガーは元々操縦士ではなく、燃料を作る部署で働いていたという。あの樹油を流して荒れる波を抑えたのは、燃料用の油を日々扱っていたハガーならではの思い付きだった。

 そのハガーが燃料を作っているところに、一人の中年の婦人が現れた。

 リウの荷カゴを抱えている。婦人がカゴを開けると、中に雑多な器械の部品が入っていた。ハガーが燃料を作る際の資材が足りないとベコ連の年寄りたちに話していたのを耳にして、使えるものがあればと持ってきてくれたのだ。

 婦人がその箱を開けた瞬間、側にいたウィルタは、そのカゴが、あの翔蹄号で一緒だったジャンジャさんの物であることに気づいた。後で婦人に確かめると本当にそうで、盤都在住の婦人はジャンジャの内縁の奥さんだった。

 ハガーは、さっそくカゴの底に並べてあるパイプを取り上げ、「これは水素を添加する装置に使えるな」と、嬉しそうに婦人に燃料製造のウンチクを話し始めた。

 迷惑顔ながら、婦人はハガーの熱弁に耳を傾けている。

 修養殿に布を抱えた女たちが入ってきたのを機に、ウィルタはその場を離れた。

 布を解し、取り出した糸を編んで網を作るのだ。気の遠くなる作業だが、女たちはワイワイ騒ぎながら作業を始めた。その作業の輪の中に、ベコス地区の祠の横でヨシの編みカゴを並べていた盲目の少女、フィルルの姿もある。

 女たちの賑やかな声を聞きつつ、ウィルタは見張りのため望眺台に向かった。


 午後も遅く、ウィルタが望眺台での見張りを終えて、修錬堂に戻ってくると、修錬堂の小部屋で、船頭のチョアンが船の設計図を引いていた。酒に溺れている時が嘘のように真剣な顔をしている。左右二本ずつの指なのに、ペンと棒切れと紐を操り、微妙な曲線を見事に引きだして行く。薬が効いているのか、指の震えはないようだ。

 手を止めたチョアンが、ウィルタに声をかけた。

「材料が揃ったら、製造に二十人は人手が欲しい。おまえもやるか」

「もちろん」と答えて、すぐにウィルタは「でも、見張りで鐘塔に上がってる時は駄目だけどね」と、頭を掻いた。

 チョアンがばかにしたように、カニ指を振った。

「なんだ見張りなんかやっているのか、そんなことより物を作るほうが楽しいぞ」

「ダーナさんからの要請なんだ。見張りは視力がいいだけじゃ駄目、あれは一種のカンが必要な仕事で、誰もがやれる仕事じゃないって。そう言って頼まれたら断れないだろう」

「そりゃあそうだな」

 チョアンは残念そうに頷くと、「手があいた時は覗きに来い」と言って、ウィルタの小さな手を左右二本ずつの指でギュッと握り締めた。分厚く柔らかい手の平が、酒浸りのせいか濡れたように湿っている。

 ウィルタは、にっこりと微笑んでチョアンの側を離れた。

 ウィルタは何となく心が弾んでくるのを感じていた。漂流していることを除けば、まるで小さな町みたいなのだ。それにみんな生き生きと何かをしている。

 講堂の柱を外し、そのウォト材を削ってお椀を作っている人がいる。

 二千人も人がいるのに、食事の際に使える食器が僅かしかない。まとめて食事を作るとなると、大鍋での煮込み料理か乾物になる。汁のある料理を配布するには、どうしても椀が必要だった。  

 シャンに頼まれ注射針を作っているのは、あの睡木を削っていた飾り鞍の職人のおじさんだ。息子の青年がふいごで起こす樹油の炎を使って、金属のパイプを伸ばしている。あれを繰り返して、細くして、ヤスリで斜めに切断して針にするのだそうだ。

 湖宮の上には、いつ乗船したのか家畜の姿まである。腹に子を持ったお腹の大きな毛長牛の雌牛が一頭に、角羊が三頭、それに卵鳥が十羽余り。荷を運び出した倉庫に入れて、小さな子供たちのグループが世話を担当。遊んでいるようにも見えるが、大波にもはがれずに残った苔を、壁面からかき集めて、餌として与えている。

 後方の鐘塔で、ゴーンという夕刻前の祈りの時間を告げる鐘が鳴り響く。

 作業をやっていた人たちが跪き、祈りの経を唱え始めた。

 食事は朝と夕の二食なので昼食はない。それでも作業に参加している人と、育ち盛りの子供には、特別に干し餅のひと欠けらが朝食の後に渡される。ウィルタがその欠けらをポケットから取り出した。親指大の欠けらで、その大きさが今の湖宮の食料事情を物語っている。でも贅沢は言えない。欠けらを口の中に放り込むと、ウィルタは鐘塔の後方、湖宮の最後尾に走った。正午の読経の後に流した延縄、その初めての引き上げが行われるのだ。魚は掛かっているだろうか。

 作業の開始を告げるように、金属製のパイプを叩く音が湖宮の後部から聞こえてきた。


 漂流を初めて、丸三日が過ぎた。

 湖宮に収容した人たちの大半は、激動の数日を生き延びることで体力を使い果たしたのか、ただひたすら食事の後も体を横たえたままだ。元気そうに見えても、作業に参加せずゴロゴロしている人もいる。そういう人は、体力を温存することが、生き延びる最善策と割り切った人たちだ。でもそれをとやかく言う者はいない。

 この頃には、拝殿の広間で行われる話し合いに顔を出すメンバーは、四十名ほどの面々に固定されてきた。中心はベコ連の年寄りたちだが、両都の市民や牧人系の移民の人など、ほぼ満遍なく講堂に収容された二千人の顔ぶれを代表する者たちだ。

 その湖宮に乗船した人たちの舵取り役を買って出たメンバーが話し合いをするなかで、懸案の議題があった。それが個人の持っている食料の処遇である。

 事前に準備を整え避難を敢行した人たちは、かなりの量の食料を持参している。比べて、着の身着のまま命からがら逃げ出して、危うく湖宮に救助されたような人たちは、自前の食料に限らず、荷物らしい荷物さえ持っていない。この個人の所有している食料の格差が、いずれ問題になってくることは容易に想像できた。

 湖宮に上陸した時点で、武器と同様、強引に接収しておけば良かったのだろうが、あの時点では、そこまでの配慮はとても無理。ただ今後の事を考えると、いま手を打っておかなければ、後になるほど対応は難しくなる。

 その食料供出の依頼と回収をどう行うか、皆で頭をひねるが、妙案が浮かばない。運営会での話し合いの結果は、月並みな回答だが、個人所有の食料は例外を設けず、全てベコ連の年寄りたちに預けてもらうというものだ。

 全体の食料が無くなるまで接収した食料には手を付けない。全体の食料が尽きた段階で、もう一度全員で協議の上、個人所有の食料の処遇を決める。供出してもらった食料の処遇を先送りにすることで、何とか供出に応じてもらおうと考えた。

 大切なのは例外なく没収することで、食料を持参している人にとっては何とも理不尽な話だが、恨まれようがこれはやらなければならないことだった。

 ただ難しいのは、この作業を誰が行うかということだ。

 食料の供出といえば聞こえはいいが、要は没収である。有無を言わさぬ強引さが必要な仕事で、それができそうな人物の人選が難しい。というよりも誰もがやりたがらない仕事である。不快感を与えず気持ち良く供出に応じてもらえるよう説得のできる人物がいればいいが、常識的に考えてもそれは無理。おそらくは力ずくで取り上げないとだめな場面も出てくる。憎まれ役に徹しないとやれない仕事なのだ。

 それができる人物といえば……、

 何人かの候補の中から、揉みひげの曹長とジャーバラに、白羽の矢が立てられた。

 最初は「自分が」と、ダーナが申し出たが、ベコ連の年寄りたちが、それを押し留めた。翁たちは、この問題で揉みひげの曹長とダーナの対立が抜き差しのならない状態に陥るのではと危惧した。そして、それなら逆に曹長を使ってみてはと提案したのだ。

 強引に供出させることを考えれば悪い人選ではないが、汚れ役を自分一人が引き受ける、その見返りを要求してくる可能性がある。そうこう考えるうちに、曹長とジャーバラの組み合わせを思いついた。

 ジャーバラに声をかけると、ジャーバラは臆せず面白そうと言って、すぐに了解してくれた。問題は曹長だが、こちらも一瞬考えこんだが、あっさりと首を縦に振った。

 どうやらこの自己顕示欲の強そうな曹長は、生き延びるための作業のなかで、自分の役どころがなくて不満に思っていたようだ。そこに権威を振りかざす仕事が舞い込んできたのだ。文句のある連中には、仮面の女の命令でやっているのだと言って、強引に食料をむしり取れば良いのだから、これはいい憂さ晴らしになると踏んだのだろう。

 けだし、ジャーバラのような小娘を相棒に付けられたのは心外だったようで、露骨に嫌な顔を見せた。それに対しては、今回の作業は、ゴーダム国とバドゥーナ国の代表に、それぞれ一名ずつ参加してもらい、実施しようということになったのだと言って、了承を求め、結果、揉みひげの曹長は渋々頷いた。

 夕食後、全員が講堂に集まっている際に、それは行われた。

 ジトパカが拡声器を手に、これから実施する食料接収の意図を説明、作業が始まる。

 講堂の中を曹長とジャーバラが並んで歩き、その後ろを曹長の部下数人と、園丁のホロが小さな手押し車を押して付いていく。曹長がジロリと睨むだけで、食料をごそごそとザックの中から取り出し差し出す者もいれば、頑固に拒む者もいる。全く無いと言い張る者の荷物を、曹長は部下に命じて、むりやり検分する。その強引さに、ホールの隅から様子を見守っていたダーナや運営会の面々は、自分たちが人選を誤ったのではと顔をしかめた。

 そして、問題が起きた。

 八名ほどの牧人の青年グループが、自分たちは手持ちの食料を供出する気はない。食料の配給を必要としない代わりに、自分たちも食料を提供しないと、はっきり明言したのだ。牧人の青年グループは、荷物の検分を拒否、全員で荷物を囲うように背後に回して、曹長の部下と睨みあう形になった。

 講堂の中が、事の成り行きに身を潜めるように静まり返る。

 額に額帯を締めたリーダー格の青年は、一廉の出の者らしく、面構えもしっかりしているし、腕っ節も強そうだ。その額帯の青年が、敵意剥き出しに曹長を睨み返す。制服を着ているやつらなど何するものぞ、いつでも喧嘩の一つくらいは受けてやるといった気合いが、体から表情から、ほとばしるように匂い立っている。

 揉みひげの曹長にしても、食料を供出させられなければ自分の沽券に関わるとばかりに、この若造をどう組み伏してやろうかと、相手に噛みつきそうな剣幕だ。はなからこういう場で、口で相手を説得するタイプではない。腕力と強引さでここまで伸し上がってきた、その血が騒いでいるのがヒクヒクと動く口元に現れている。

 青年の仲間と曹長の部下が、ここは大将同士の争いで、取り巻きが口出しをする場ではないと一歩後ろに下がった。

 そして額帯の青年と揉みひげの曹長がガッと睨みあった瞬間、ガーンという鈍い鐘のような音がホールに鳴り響いた。

 ジャーバラだった。どこから持ち出してきたのか、ジャーバラが厚手の平鍋の底を思い切り打ち鳴らしたのだ。何事かと、青年も曹長も、そして二人に視線を集めていた全ての人が、音の方に目を向ける。

 拡声器を手にしたジャーバラの声が、ホールに響く。

「皆さん、ご覧ください。たぶんあと十日もすれば、このような食料を巡る争いが、湖宮のあちこちで発生するでしょう。生きるか死ぬかの瀬戸際になったら、もっと真剣な殺伐とした争いになると思います。眠った瞬間に寝首を掻かれるようなことになるかもしれない。脅すつもりはないけど、いま曹長さんがやっている荷物検査を拒めば、その人が食料を持っているということは、周知のことになります。そうすると、その人は残りの人たちから狙われることになる。このホールにごろごろと首が転がる様子なんか誰も見たくない、そうでしょう」

 ジャーバラは、皆の反応を確かめるようにホールの中をグルリと見回すと、袖を捲り上げた額帯の青年に、請うように話しかけた。

「何も、その食料を、今、みんなで分けてしまおうということじゃないの。争いをこの湖宮の上で起こさないようにするために、一括して別のところに保管しておこうということなんです。せっかく戦争と洪水から生き延びることができたというのに、こんなことで争うなんて、なんだか情けないわ。わたしたちが助かることのできた湖宮への喜捨だと思って、供出して欲しいの。ね、牧人のお兄さん、お願い」

 ジャーバラは、最後の「お願い」という言葉を、沸砂語で言った。

 厳しい表情の額帯の青年の肩から、ふっと力が抜けた。青年が後ろに控えていた七人の仲間を振り返る。仲間たちがお前に任せるとばかりに小さく頷く。

 額帯の青年は、自分よりも二まわりも小さい少女に視線を合わせると、「分かった、預けよう、ただしちゃんと管理しろよ」と、念を押すように言った。

 ジャーバラは嬉しそうに微笑むと、「分かってまーす、ちゃんと名前を書いておきますから」と明るく言って、額帯の青年に握手を求めた。

 心配そうに喉袋を膨らませては萎めていたジトパカに、「機転だな」とダーナが声をかけた。ジトパカが同感とばかりに頷く。

「ああ、湖宮への喜捨とは上手い。無用な争いを起こさないようにするには、あのやり方の方がいい。喜捨なら、自分の手を離すことも納得しやすいだろうし」

「力ずくで取り上げるつもりだった曹長は、少し手持ちぶさただろうが」

 そう言って口元を緩めたダーナに、後ろにいたガビも「まったく」と、汗をかいた大きな垂れ鼻をブルンと震わせた。

 名前を書いた布に食料が包まれ、手押し車に積まれる。

 ジャーバラの明るい声がホール全体を包んだ。

「ご協力ありがとうございました。きっと神様も、祝福してくれると思いまーす」

 あとは、それほど問題もなく食料の回収は進んだ。ただ特例として、妊婦と乳幼児のいる人に対しては、こちらから食料の供出を求めることはしなかった。また途中から春香が飴と酒を持って回収グループに加わり、回収に協力してくれた人たちに、それぞれ希望に合わせて、飴と酒を形だけだが進呈した。

 講堂の一角に集められた個人の食料が小山を作る。ベコ連の年寄りたちが、その山を見て感慨深げに顔を見合わせた。

「塵も積もれば何とやら、意外に多かったな。これだけあれば、全員で均等に分けても三食分は優にある」

 春香が咎めるように口を尖らせた。

「だめよ、みんなで分けるとは言ってないんだから」

「はは、そんなことは、みな分かっとるさ。財産を手放すというのは踏切りが難しいんだ。いったん自分の手を離れてしまえば、諦めもつく」

「全体の食料が尽きてしまってから、また一悶着ありませんかね」

 心配気な通信官の若者に、一服付けていたホジチが、長ギセルを膝に打ち当て言った。

「大丈夫、よしんば十日後に全体の食料が尽きたとして、自分の食料を返してもらって、自分だけが二千人の飢えた人に囲まれて食事ができるはずがない。隠れてならそれも可能じゃろうが、この開けっぴろげの空間ではな。この湖宮の上の者は、一蓮托生の仲間なんじゃ」

 戦利品を前にしたように集めた食料を眺める曹長に、「おじさんはどう見ても、こっちかな」と、春香が酒の小瓶を差し出す。

 じろっと睨み返した曹長が「おれはこっちだ」と、飴の袋に手を突っ込んだ。



次話「拝夏群島」

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