夜明け
夜明け
十二月二十日、
オバルは目の奥が明るくなったような気がして、目を開けた。
目映い。室内に照明が戻っていた。
起き上がると、操舵室のスクリーンパネル全面に、暗い夜明け前の茫洋とした海が映っていた。白波は立っているが通常の荒れた波ほどで、空はまだ雲が渦を巻いているが、それでも雲の切れ間に濃紺の空が覗き、遙か先で水平線が朝焼けに変わろうとしていた。
操舵室の電源は回復したようだ。しかし推進機関は止まったままなのだろう、機関部を動かす動力は赤い表示から変わっていない。オバルは堅い床の上に寝て凝り固まった背を解すように肩を回した。
「この様子なら、待っていれば、そのうち自分で修理して動き出すだろう」
そう操舵盤に向かって話しかけると、オバルは椅子に掛けてあった外套を手に操舵室を出た。自分の目で外の様子を確かめたくなったのだ。通路に出ると、隣の控え室の扉が開いて、ヴァーリとダーナが眠っているのが見えた。
オバルは静かに控え室の扉を閉めると、拝殿に向かった。
拝殿正面の大扉とは別に、左右の回廊の途中に、建物の側面から外に抜ける通用口がある。その小さな扉を開けて、オバルは思わず身を竦めた。肌を切るような風が吹き込んできたのだ。慌てて外套の襟を合わせ扉を潜る。まだ薄暗いが、建物と建物の間に白波をたてる海が覗き、その向こうには、スクリーンパネルに映し出されていた朝焼け一歩手前の白みかけた空が広がっている。
拝殿横の通路を広場に向かって走り出そうとして、オバルは何か様子が違うのに気づいた。濡れた建物や石畳が、白んだ空の明かりを反射、建物も、柱も、階段も、石畳も、磨き上げたようにツルツルの肌理を見せている。怒涛のような荒波と吹き荒ぶ風に、張り付いていた苔が剥ぎ落とされ、下の石組みが露わになったのだ。さらに場所によっては、その石組みも剥がれて、金属質の壁面が剥き出しになっている。
「化けの皮が剥がれたというところか」
オバルは金属光のする壁を手の平で叩くと、広場に向かって歩きだした。
用心しながら歩くが、それでも濡れて凍った石畳で足が滑り、腰砕けになってしまう。広場に出ると、扇を重ねたような階段の上に、講堂の石造り壁面が重々しく立ち現れる。正面中央の扉が四分の一ほど開かれ、外の様子を窺うように人が姿を見せていた。寒さに驚いて顔を引っ込める者もいるが、ほとんどの人は、風が強くないのを見て取ると、講堂前のテラスに出て周りを見渡す。
オバルは講堂と右手修錬堂の間の穏やかな上り通路に足を向けた。
と講堂側の手すりの上からウィルタが手を振り、「オバルさん大変だ、波止場が無くなっている」と、叫んだ。
足を止めたオバルが、背伸びをして手すりの向こう側に首を振る。角度からして波止場は見えないが、波止場側のテラスに人だかり。その背中越しに白波が弾ける。いやそんなことよりも、貢朝船の荷を納めた倉庫の屋根が二棟しか見えない。前は十棟あったはず。昨夜の大波と嵐で流されたのだ。
ウィルタが声を上げて、逆の方向、広場の反対側を指した。参道にずらりと並んでいた柱が、ほんの数本しか残っていない。
オバルが長い腕を振り回してウィルタに呼び掛けた。
「鐘塔に上ろう。湖宮がどうなったかを知るには、それが手っ取り早い」
オバルが目の前の狭い通路を鐘塔に向かって走り出した。その後ろを、手すりを飛び越えたウィルタが追う。
刻々と明るさが増していた。ついさっきまで輪郭だけしか見えなかった講堂壁面の彫刻が、今ははっきりと彫り跡までが見て取れる。
決壊流の衝撃で湖宮のかなりの部分が削り取られたようだ。
講堂と修錬堂の間の狭い坂道を抜けると、講堂裏の鐘塔は傾きもせずにそのままの姿で立っていた。塔の中の階段を駆け上る。所々にある窓から吹き込んできた飛沫が、壁や階段のあらゆるところで凍りつき、鐘塔の中を氷の鍾乳洞に変えていた。
最後滑りやすい階段を這うようにして上り、鐘突き堂の最上部、望眺台に。手すりから何から厚く氷が張り付いている。だがそんなことよりも、遮る物のない洋上を突き抜けていく風が、肌に染み入るように冷たい。
オバルは手袋と防寒帽を持ってこなかったことを後悔したが、それでも体を空に突き立てるように背を伸ばして、湖宮と、それ取り囲んでいる海を見渡した。
東の空の水平線が赤紫色に染まる一方、後方の西の空には、まだ藍色の空に星が滲むように瞬いている。
オバルが顔をしかめた。耳が切り裂かれるように痛い。
耳を両手で押さえ、風に煽られながら、ぐるりと自分たちのいる世界を見渡す。三百六十度、水平線が拡がっている。いやまだ西の方角には夜の闇が残っているから、日が昇れば、空と海の境に陸が望めるかもしれない。それでも、いま自分たちが大洋の真只中にいることは、疑う余地のないことだ。
水平線の下から差してくる朝の光が、上空の雲の底を黄色く染め始めた。
「随分、小っちゃくなったね」
望眺台の狭いテラスの上を、ぐるりと一回りしたウィルタが、感心したように言った。
海に気を取られていたオバルも、視線を下に移す。一見して湖宮が小さくなったのが見て取れる。自分たちがバンザイ機で到着した時と較べても、一回り小さくなった感がある。大小の楕円を合わせた瓢箪型をしていたのが、今はただの細長い楕円。推進機関を持った船の上に作られた宗教施設の張り出し部分が、崩れ落ちてしまったのだろう。
今しも広場の左側、参道に残る柱の一つが、音をたてて海面に倒れ込んでいく。舷側の下のほうで水柱が上がった。上に乗っている部分が減ったぶん、湖宮全体の重量が軽くなって、船の舷側の位置もかなり持ち上がったようだ。
小さくなったとはいえ、それでも幅が二百メートル近く、全長はその倍以上あるだろう。上面の平らな部分だけでもかなりの広さだ。ただ苔が剥がれ落ち、剥き出しになった湖宮の表面は、新築のまがい物の建物のようで、なんだか安っぽい。
眼下を見詰める二人の顔に、オレンジ色の朝日が当たった。
眩しいと思った次の瞬間、朝日は雲に隠れ、嵐が引きずって残した上空の層雲の縁に、鮮やかな朱黄色の光が移る。その光が、太陽が昇るにつれて、また下に下がってくる。そうして、一瞬にして船の上だけでなく、波の波涛からこの世の全てが光に満たされた。
日の出だ。
ウィルタは風に逆らうように体を東に向けると、「どこにいても、生きていれば、夜が明けるんだね」と、感慨深げに言った。
「急に大人みたいなことを言うじゃないか」
茶化すようにオバルは答えたが、それを気にする風もなく、ウィルタは「でも良かった助かって、こんどこそ駄目かと思ったもん」と、ほっとしたように大きく肩で息をついた。
オバルは耳に当てた手を外して腕組みをすると、朝日を真っ直ぐに見つめ直し「俺もそうさ」と、今度は素直に答えた。
体がオレンジ色に変わってしまったような錯覚を覚える。
真横からの朝日を顔いっぱいに受け止めながら、オバルがウィルタに話しかけた。
「ハン博士のことを聞いたよ、残念だったな」
「ううん、そんなことはないさ。父さん満足そうに眠ったもん。シーラさんが、あの時『父さんに会いに行きなさい、父さんの助けになってあげなさい』って、そう言ったのが、父さんの最後の寝顔を見ていて良く分かった。もしぼくに会えずに、何も話せずに終わっていたら、あんな満足そうな顔で眠ることなんて、できなかったと思うもん。それだけでも会いに行って良かった」
「ああ、会って思い出を刻んでおけば、自分の胸の内で何度でも会うことができる。あの朝日のように、何度でも顔を覗かせてくれるさ」
ウィルタが朝日を受けながら微笑んだ。
「オバルさんも、意外と詩人だね」
「空と太陽は、人を詩人にするのさ」
朝の冷気で屈折した太陽がゆっくりとその全身を現し、海という海をオレンジ色に染めていく。二人は無言で、地球と太陽と水が何十億年と繰り返してきたドラマに見入った。
と、後ろから荒い息を吐く音が聞こえ、春香とジャーバラが望眺台に上ってきた。
春香が頬を脹らませてウィルタの背中を突いた。
「もうずるいんだから、男たちだけで朝日を楽しんじゃって」
「だって、春香はいびきをかいて寝てたじゃないか」
ウィルタが冷やかすように言う。
「嘘、わたしいびきなんか、かかないわよ」
目を吊り上げてウィルタを睨む春香の横で、ジャーバラが海を染める太陽を見やり、
「あーっ、寒いけど綺麗、地球が生きてるって感じがするわね」と、しみじみとした声を漏らした。
ウィルタの耳元でオバルが「もう一人詩人がいたぞ」と、ささやく。
ウィルタが笑って頷く。
「もう、男二人で何をこそこそ言ってるのよ」
「ほらほら黙ってよ、せっかくの綺麗な朝焼けなのに」
ジャーバラの声に、また皆が東の空に目を向ける。
美しいという言葉ではもったいない朝の光が、世界を満たしていた。
十二月二十日、午前十時。グラミオド大陸東方二百三十キロの地点、シフォン洋の真只中を、湖宮と呼ばれる巨大な筏が、ゆっくりと北東に向かって流れていた。
講堂の中では、湖宮に収容した避難民全員を前にして、ダーナが、この湖宮が何であり、いま自分たちがどういう状況に置かれているのかということを、拡声器片手に説明していた。
この湖宮という聖地は、古代に作られた巨大な船であるが、推進機関は停止しており、海の上を漂流する筏と化している。湖宮の住人である聖職者は、全て事故によって死亡、遺体を収容した倉庫は、昨夜の波に攫われて海に流出してしまった。現在湖宮の直接の関係者で生き残っているのは、湖宮に嫁いだ自分の姉だけで、聖地の人たちが地下で祈りを捧げているとした昨日の説明は、無用な混乱を避けるための便宜的なものである。
一連の話に続けて、ダーナは、避難してきた二千八十七名の概要と、これからやるべきこと、そしてそれへの協力を皆に要請して、話を締めくくった。
次に、シャンの付き添いのもと、ヴァーリがこの施設のあらましを簡単に述べた。湖宮が幾つかの区画に分かれ、よそ者の自分には、十年近くも住んでいながら、未だに入ったこともなく、入る方法も分からない場所がほとんどであるということ。いまユルツ国の技術者、オバルが、船の操舵室で湖宮のことを調べているが、もし協力してもらえる知識と技術を持っている人がいたら、手伝いをして欲しいと。
ヴァーリは、湖宮が古代の文化と環境を保存するために作られた施設であるということは口にしなかった。これはダーナの指示である。ダーナは聖職者たちの死を伏せたのと同様の理由で、無用な混乱を避けるのが今取るべき最善の策と考えた。
ただし奥の院のドームに古代の自然環境が残されていることは、その具体的な光景と共に話すよう、ヴァーリに助言した。入口を開けるための暗号が変更されたために入ることができないが、もし暗号が解読できれば、ここにいる誰もが古代の緑の林を散策することができるだろうと。
ヴァーリの話に軽いどよめきが起こった。
ドバス低地に避難民としてやってきた人たちは当然として、二つの都に暮らしていた人々にしても、盤都迎賓館の緑のガラス室を噂で耳にしてはいても、実際にそこを訪れたことのある人はほとんどいない。誰もが一度は足を踏み入れてみたいと思っていた緑溢れるガラス室のような空間、否、それ以上の空間に、足を踏み入れることが実現するかもしれないのだ。
せっかく乗船して命は助かったものの、海を漂流することになって気落ちしている人々にとっては、唯一これが心の慰めとなる明るい話だった。
ダーナとヴァーリの説明が一区切りすると、質問や疑問が出た。
収容者の中に何人かいたモア教の関係者は、湖宮の公師を含め、全ての聖職者が亡くなったという話は到底信じられない。それにいったい湖宮の聖職者が亡くなった事件とは何なのかと、強い口調で問い詰めた。
その質問にはダーナが答えた。ヴァーリには答え難い質問だと判断したのだ。
ダーナは、淡々とこの聖地で起きた惨事を語った。
十一人いる公師の一人であるヴァーリの夫が、湖宮の公師を含め、その家族までをも殺害したということをだ。惨事を引き起こすきっかけは、ヴァーリの夫、つまりジュール公師とその他の公師たちとの間に発生した、教義上の対立にあったらしいこと。
ダーナは原因の説明には深入りせずに、二日前に自分が飛行機でここに駆けつけた時に目にしたことを話した。そして最後に、ジュール公師は精神的に病んでおり、それ故、ささいな内紛が悲劇に行き着いたらしいこと。それはジュールが自らの妻を銃で負傷させたことでも分かると、痛々しい姿の姉を指して了解を求めた。
もし今の話が信じられないようであれば、後で操舵室を覗いてもらえれば、扉を切断した際の跡は残っているし、通路には拭き残しの血糊が残っているだろうと付け加えた。
シーンと話を聞いている人の中から、「血糊はちゃんと拭いたから、残ってなんかないわよ」と、春香の声が飛ぶ。
小さな笑いが起きた。
ダーナは苦笑したが、質問をした経堂の助経司は、「納得した訳ではないが、目撃者がいない以上、この件に関しては保留する」と、あっさり追及の矛先を引き下げた。
もし本当に湖宮の関係者が殺されたのだとして、それが被災者の救助を懸命に行っていたダーナたちではないだろうと考えたようだ。
また別の信者が手を挙げて立ち上がると、「この施設の中にはまだ公師たちがいるのではないか、別にあなた方が公師を閉じ込めているとは言わないが、早急にこの船の内部を調べてもらいたい」とだけ言って、すぐに腰を下した。
周りの人たちも一様に頷いている。
ダーナも、もっともだと頷くと、「自分も、一人でも関係者が生きて、真実を証言してくれることを願っている。そして生き残った人物が、この停止している巨大な筏の推進機関を稼働させて、陸に向けて航行できるようにしてくれることを」と力を込めた。それは今ここにいる収容者全員の偽らざる想いだった。
ダーナの発言に、講堂の中に何となく共通の想いで充たされたような和んだ空気が漂う。
とその空気を掻き乱すように、大きな咳払いをついて、揉みひげの曹長が立ち上がった。
曹長はホールの中心にあるガラスの神木に寄り掛かるようにして立つと、拡声器を手にしたダーナを冷ややかな目で見やり、自分はそんな物など使わなくとも喋れるとばかりに、声を張り上げた。
「事実は常に自分の目で見て確かめるものだ。この女はバドゥーナ国に古代の兵器を売りつけ、濠都を灰燼に帰させた張本人だ。そんな人間の話を、はいそうですかと信じるほど、我々はお人好しではない。公師の遺体が無いのは、その死を隠蔽したいからではないか。湖宮の内部に入れないのは、入られると都合が悪いので、入ることが出来ないと言っているに過ぎないのではないか。大体、この湖宮が船であるということ自体が信じられない。とにかくこの目で、湖宮を動かしているという操舵室を見ないことには、ここが船であることを自分は信用しない」
いきり立って話す口ぶりには、なぜ自分が異国の人間にあれこれ指図されなければいけないのかという不満が現れている。
すぐにダーナが答えた。拡声器を使わずにだ。ところが、くぐもった声が更に擦れる。サイトが危機的な状態に陥って以降、ほとんど不眠不休の毎日が続いていた。
擦れた自分の声に顔をしかめると、ダーナはもう一度、拡声器を口に当てた。
「のちほど船の操舵室には案内する。ただし狭いところだから、数人ずつにしてくれると有り難い」
当然だとばかりに曹長はダーナを睨むと、「ここに避難しているのは、それぞれ出自を異にした人々だ。ドバス低地以外からの避難民もいれば、窮民街の貧民、門京や囲郷の住人も混じっている。人種も年令も職業も身分も全くバラバラな集団である。適当な時期に、民主的な方法で代表を選ぶべきだろう。そしてその役を担うのは、ここが聖地であることを考慮すれば、中立の立場の聖職者であるべきではないか」と、自信満々に提案、ダーナの顔を見すえた。
もっともな意見だ。しかし揉みひげの曹長を中心とした集団の中に、僧官の姿がある。曹長が身内の僧を代表に祭り上げ、自分がここの実権を握りたいと、そう考えているのが明け透けに覗いていた。
ダーナは「それはいい考えだ、ぜひ実行しよう」と、笑って答えると、「だが」と話を切った。間を取り、自分を見ている二千人余りの収容者に、頭を左右に動かしながら視線を侍らせる。自分を見つめる無数の目に、ゴーダム国の曹長と自分との間に、指揮権の争奪戦が起きるのではないかという不安が見て取れる。
ダーナはゆっくりと曹長に視線を戻すと、泰然とした声で語りかけた。
「その前にやらなければならないことがある。それは、朝飯を食べることだ。腹が空いてはいい話し合いはできぬ。続きはその後にしたいがどうだ」
そう呼びかけると、手にしていた拡声器を、疲れたとばかりに隣のジトパカに渡した。
一斉にさざ波のように笑いが起きた。
拡声器を手にした喉袋のジトパカが、コホンと大きな咳をつくと、曹長とダーナに座ってくれとばかりに手で合図を送った。
「わしもこの歳だし、昨日から仕事のし過ぎで声が枯れておる。だが疲れておっても飯を喰わんことには、身が持たん。難しい話はまた午後にでもということにして、飯の準備の打ち合せをやりたいんだ。どうだね調査艇の曹長さん、同意してくれるかね」
場の雰囲気と、反論すべき正当な理由がなかった。渋々ながら揉みひげの曹長は腰を下ろした。
ダーナが朝食の話を持ち出したのは、何も曹長の発言をはぐらかすためではない。言を質に取るタイプの人間は、やもすると本道を忘れて議論をすることが優先してしまう。それを軌道修正しただけだ。事実、食事という言葉が出た瞬間から、この場にいる全ての人は、生きていくために最も必要で重要な食料の問題に、頭の中の意識が移っていた。
それは冗談でなく切実な問題だった。
昨夕、救助の際に倉庫に保管されていた板餅を一人二個ずつ配給してある。しかし手持ちの食料を持っていない者は、それ以降、半日以上何も口にしていない。
それに、いま湖宮が漂流しているということを聞かされて、最初に皆の脳裏を掠めたのは、飢えという言葉だった。二千人の運命共同体であり、暖房も効いているので、まだ救助されたことの安堵感の方が強い。それでも今後のことを考えれば、真っ先に頭に浮かぶのは、どうやって食料を得て生き延びていくかということだ。
湖宮は漂流している。
それは朝、講堂の外に出て、三百六十度水平線しか見えないのを目で見て、誰もが痛感したことだ。いくら湖宮が大きな船だといっても、この広い大洋の中では針の先にも満たない点のような場所である。漂流がいつまで続くかは誰にも分からない。楽観的に考えれば、明日大陸の岸に流れ着いてしまうということもあるだろう。しかし推進機関が稼働せずに、果てしなく洋上を漂う生活が続くことも有りうる。生き延びるためには、手持ちの食料で少しでも長く食い繋いでいかなければならない。一部の都の人たちを除けば、常に飢えと向き合って生きてきた人々にとって、それは余りにも自明のことだった。
今やるべきことは、直ちに生き残りのための準備にかかることで、それは多かれ少なかれ、誰もが口に出さずとも考えていることだった。
そしてジトパカが拡声器を口にあて、食事の手配を皆に話しかけようとした時、講堂の右隅に座り込んでいた、ハミ族特有の抜けるように青い藍晶色の布を体に巻いた婦人が、おずおずと手を挙げて立ち上がった。中年の女である。顔が疲労と緊張で青ざめている。
衆目が集まるが、どう見ても何かこういう場で発言をするタイプの女には見えない。そのため、皆が意外そうな目でその婦人の挙動を見守る。
その女性は藍晶色の織り布を手できつく握り締め、何か話し始めた。ただ声が小さく、それも震えているのでよく聞き取れない。
慌ててジトパカが歩み寄り、手にした拡声器を女性の口元に差し出す。
婦人の顔が目の前の拡声器に緊張して強ばった。
それを見て取ったジトパカが「いい、わしが持っておるから、あんたは喋れば良い。何か言いたいことがあるんじゃろう」と、婦人の耳元でささやいた。
婦人の疲れた、しかし必死な声が、拡声器から講堂の中に拡がる。
「あ……、わ、わたし」
緊張のせいか声が少し吃る。
「わたし、子供を、亡くしました……、三人いた、子供、全員をです」
話し始めると、言葉が喉の奥から込み上げてくるように出てきた。小さな子供がいたという、母親らしい柔らかい声だ。
「たくさんの人が、亡くなったから、私だけが、特別だとは思いません。でも、あのオレンジの光の刃物が、私の家の上を通りました。夫と、上の二人の子は、一瞬にして、家と共に消えました。下の子は、寝ていたヨシの寝台の上で、腰から下が、焼かれて消えました。ほんの数秒でしたが、意識を失うまでの間、あの子が、悲しそうに私を見ていました。私は、どうすることも、出来ませんでした。でも、私だけが、生き残って……」
中年のハミ族の婦人は、そこまで言って泣き崩れた。
誰かに言わずにおれなかったのだろう。泣き崩れる直前、婦人がダーナを睨んだように見えた。あの兵器を売りつけたのはあなたなのではという、非難と憎悪が込められた視線だ。それはその婦人だけではない。この講堂にいる二千人の内の幾許かの人は、先程の揉みひげの曹長の「この女が古代の兵器を……」という下りを耳にした時から、刺すような視線をダーナに向けていた。
自分たちは湖宮に助けられた。それに当たっては、あなたの尽力もあったろう。しかしそれと自分たちの身内が殺されたのは別の問題だ。自分はお前を決して許すことはない、そういう想いが込められた厳しい視線だった。
嗚咽のままに座り込んだ婦人の背中を、ジトパカが労るように擦る。
「お前さんの言いたいことは良く分かる。言いたいことは一杯あるじゃろう。じゃがな、今は生き延びた、そのことだけを考えよう。わしらは生き残った。それは、誰かに助けられたというのではない。たまたま偶然が重なって、生き存えさせられたんじゃ。きっと天が、その幸運をわしらにお与えになった。生き残った者は、生きねばならん。死んだ者のためにもな……」
ジトパカはハミ族の婦人から顔を上げると、拡声器ではなく、地声を講堂に響かせた。
「生きような……、みんな、な」
しばらく後、ジトパカに代わって、拡声器を手にした鉄火鼻のガビが、食事の準備をするに当たっての作業の説明と、それを行うスタッフを募り始めた。並行して行う倉庫の中に残された貢朝品の仕分けは餅耳のグランダが、湖宮内の水のチェックと配給所の設置は目袋のホジチが担当者として拡声器を引き継いだ。
年寄りたちの連携のいい進行ぶりに、ダーナは座り込んだまま、ほっと一息ついた。実際の作業は、日々生きることを実践してきた、この年寄りたちに任せておけば上手くいくだろう。
しかし、ほっとしながらも、まだ、あの婦人の刺すような視線が、体に突き刺さったまま残っているような気がしていた。そして思い出す。遷都先の避難所で自分に向けられた非難の眼差しを……。
ダーナは、溜めていた疲れが一気に噴き出してくるような想いがしていた。
ベコ連の年寄りたちによる手配師のような差配ぶりが一段落すると、ダーナは気を奮い立たせ、再び拡声器を手に皆に呼びかけた。
「どうしても操舵室を自分の目で見て確認したいという方は、今からこの長身のオバルと一緒に拝殿に行って、操舵室を見学してくれ。制御装置や電子機器を扱う仕事は集中力を必要とする仕事だ。あまり入れ替わり立ち替わり人が訪れても邪魔になる」
そう言って例の曹長に目を向けた。
揉みひげの曹長が空咳を一つつくと、部下の袖を引っ張って立ち上がった。
オバルを先頭に、操舵室へ向かう一行が人を掻き分け出ていく後ろで、ベコ連の年寄りたちが、さきほど募ったスタッフを一カ所に集めて、作業の説明を始めた。
講堂の入り口に引き下がったダーナは、壁際にいた操縦士のハガーに耳打ちした。
「お前も操舵室に行ってくれ。この期に及んで、あの曹長もばかな真似はしないと思うが、念のためだ。それとなく見張っておいてくれ」
「了解」と、ハガーはその場を離れた。
作業毎に人の輪ができ、それぞれの作業の説明と仕事の割り振りが始まるのを見届けると、ダーナは講堂の外に出た。無性に外の空気を吸いたくなっていた。
二千人の人間を詰め込んだ講堂内は、いくら空調が効いているとはいえ、人いきれで熱気がこもる。その体にまとわりついた熱気が、外に出ると、あっという間に剥ぎ取られる。風の有無さえ考えなければ、洋上なので内陸ほどの冷たさはない。ダーナは午後の海風を肌に感じながら「これで気温は氷点下二度くらいだな」と呟いた。
講堂の前でぼんやり佇むダーナを、誰かが呼んだ。
ダーナは辺りを見回し、それが講堂後ろの鐘塔からであることに気づいた。ウィルタが自分を呼んでいる。そういえば、目のいいウィルタに、鐘塔の上で見張りをするように頼んだのは自分だった。そのことをすっかり忘れていた自分に、ダーナは思わず拳で仮面を叩いた。疲れが溜まっているのだろう。
と今度は腰の通信機が鳴る。
受信のボタンを押すと、塔の上にいるウィルタの声が耳に飛び込んできた。
「ダーナさん、上がってきませんか、寒いけど気持ち良いですよ」
今後のことに関して考えておかなければならないことは、まだ山のようにある。だがその前に、先の婦人の言葉を吹き払いたかった。塔の上に上がれば、疲れと眠気も吹き飛ぶだろう。そう考えたダーナは「分かった、お邪魔しよう」と、通信機に向かって張りのある声を返した。
数分後、鐘塔の望眺台にダーナが上がってきた。
白い息を切らせながらダーナが言う。
「階段に張りついている氷を取らなければ、誰かが滑り落ちるな」
「もう四人、落ちてます、最初の被害者はオバルさん。倉庫で金槌を見つけたから、あとで割って落とします」
話し合いの始まる前にオバルがしきりに腰を擦っていた、そのことを思い出したダーナが笑い声を上げた。口元を緩めたダーナの前に、見事な眺めが拡がっていた。
時刻は昼前。日の出直後に較べれば、空を覆っている雲は半分くらいに減っている。それも分厚い雪雲ではなく、高層を流れる筋雲だ。その刷毛で払ったような筋雲の間から、天中高くに差しかかった太陽の明るい日差しが、海に反射して眩しく煌めく。海はその深さのごとく、ほとんど黒っぽい藍色となってたゆたい、海の流れに沿って薄茶色の水とごみが帯状にいく筋も連なって、南西から北東に向かって水平線から水平線を繋ぐように伸びている。昨夜ドバス低地を洗った決壊流によって海に押し出された泥水だ。水平線の果てまで続く薄茶色の帯、この海流が大陸の東の海を流れるスブラミル海流だろう。
ぐるりと体を回転させても、見えるのは水平線だけだ。
ただし西の方向は、ぶ厚い雲に覆われている。光の反転照射装置は地上数万キロにあるという。おそらくは、今自分が見ている視野のどこかで、宇宙空間にあるその装置が、地上からの光の柱を反転させ、光のスポットライトとして照らし続けているに違いない。
西の大陸上を覆う雲を見て表情を曇らせたダーナは、両腕を大きく左右に広げ、何かを振り払うように頭を左右に振ると、しみじみとした声で言った。
「開放的な空間というのは、それだけで心が軽くなる、いいものだな」
ウィルタはコクンと頷くと、「ヴァーリさんも熱が下がれば、ここに連れて来てあげたいですね。さっきシャン先生にそう話したら、肺炎になるのが関の山だから、絶対に駄目だって叱られました。でも、ヴァーリさん、この湖宮に暮らしていて、まだ一度もこの塔には上ったことがないって言ってるんですよ」
「そうか、それはぜひとも連れて来なければ」
睫だけでなく、まぶたまでが凍り付きそうな凍風の中、水平線に目を遊ばせながら、ダーナは明け方、姉から聞かされたジュールの生い立ちの話を思い出していた。ドームという閉ざされた空間、それに擂り鉢状のカルデラという閉鎖的な空間が、どこか人の心をいびつに変えてしまったのではないか、そんな思いが脳裏をよぎった。
眼下の講堂の建物越しに、人がぞろぞろと出てくるのが見えた。残った二棟の倉庫に物資を取りにいく人たちだ。どうやら作業が始まったようだ。
ダーナは、肺が凍り付きそうなくらいに大きく息を吸うと、
「さあて、漂流船のサバイバルの準備が始まったな、私もそろそろ行くか」
ウィルタが驚いたように、ダーナを見た。
「もう行っちゃうのダーナさん。いつも忙しくしているから、たまにはのんびりしていけばいいのに」
「これでも子供の頃は、いつもボーッとしていたんだ。そのツケを、いま払っているのさ」
ダーナは「風邪をひくなよ」と言って、ウィルタの頭を防風頭巾の上からポンと叩くと、そそくさと階段を下りていった。
午後四時、昼食兼夕食が皆に配られた。
その後、湖宮の現況を報告するのに先だって、ダーナが謝罪を行った。自身が関わった古代兵器の譲渡によって被害を受けた方がいることへの謝罪である。簡単な謝罪だったが、そのことに対して特に異を唱える者は出なかった。朝のハミ族の婦人も、じっと無言でダーナを注視していた。
拡声器を受け取ったジトパカが、話を引き継ぐ。
「色々と想いはあるじゃろう、だが当座はこのダーナさんに、皆のまとめ役をやって貰おうと思っとる。それで良いかな」
この問いかけにも異論は出なかった。ダーナが引けば、ゴーダム国の揉みひげの曹長が名乗り出るに違いない。それに、ダーナ本人が古代兵器の引き金を引いたのではない。ただもしバドゥーナ国で兵器の発射に関わった人物がここにいたとしたら、さすがに標的にされた側の人間は、それを許すことはできなかったろう。
「了承して貰えたかな」
柔らかい声で呼びかけ、ジトパカは青い衣装の婦人を見やった。
婦人は、ただじっと、どこにも焦点を合わせないような目で身を固くしていた。
それを見定めると、「では」と、ジトパカが議題を先に進めた。
湖宮の現状報告はオバルが行った。
懸案である湖宮の推進機関は未だ停止したままで、復旧の目処は立っていない。現状では湖宮は巨大な筏に過ぎない。それでも照明と空調のシステムが働いていることから、動力機関は稼働しており、故障は推進機関にあると考えられる。その確認のためにも早急に湖宮の内部に入ることが望まれるが、それはまだ手付かずの段階である。
また飛行機に積み込まれていた六分儀を使って天測で確かめたところ、現在湖宮の位置は、グラミオド大陸の東三百キロの洋上を、スブラミル海流に乗って東北東に時速八キロで流されている。つまり大陸とはどんどん離れつつあるということだ。
この報告に、みな一斉に落胆のため息をついた。
ただそういう反応が出ることを承知の上で、ダーナやベコ連の翁たちなど、当面の筏の水先案内人を買って出たメンバーは、本当のことを伝えた。
先のことを考えると、余分な期待を抱ける余地はない。助かるとしたら、それは推進機関が回復するか、どこか他から救援が来るか、北の氷の大陸に流れ着くかのどれかであり、何か予想もしないことが起きない限り、確実に自分たちは海の上を漂流し続けることになるからだ。
なお操舵室を見学に行った揉みひげの曹長は、それが全く自分の手に負えないものだと分かると、さっさと退室した。また見学者の中から、バレイの検問所で通信官をしていた若者と、濠都で機械の保守点検をしていた男性が、オバルの作業を手伝うことになった。
ベコ連と若衆組が共同で行った食料その他の物資の調査結果を、グランダが自慢のハスキーな声で説明する。
現在手に入る物資のほぼ全ては、残された二つの倉庫に納められた、貢朝船の積み荷に集約される。衣類に関しては、今のところ暖房が効いているので支障はない。必要があれば生地が相当量あるので、それを材料に仕立てればよかった。この先漂流し続けることを考えた場合、問題となってくるのは、やはり二千人余りの人を支える食料と水である。
細々とした明細を読み上げながら、通常の半分の消費量で計算して、食料が八日、水が十二日分という結果が出た。ただし水に関しては、いまタンクに貯蔵してある水を使用した時の数値なので、雪や氷を融かすことで追加補給できる量を加算すると、もっと長い期間供給が可能になる。二千人の集団の消費する物資というものは、想像以上に多いというのが、試算をしたグランダの偽らざる感想だった。
結局いま現在の湖宮にある食料で生き延びることのできる期間は、長くて二週間弱というところに落ち着いた。
その数字に一同声を無くした。それが一体全体長いのか短いのか。
自分の話が場に重苦しい空気をもたらしたことに、グランダは申し訳なさそうに餅耳を撫で下ろすと、補足するように付け加えた。
以上の計算は、あくまでも今ある食料で考えればで、それ以外に、倉庫のタンクに火炎樹の樹油の原液が相当量、保管されていた。これが加工できれば六日分の食料になる。また海の上である以上、魚を捕獲できる可能性もある。実際には工夫次第で、もっと長く生き延びることができるはずと、そう言って自身の報告を締めくくった。
グランダの最後の発言で場が明るくなった訳ではないが、それでも、ここが砂漠の上ではなく、海の上であるということは、それだけでも救いだった。
この後、二千人の避難民が共同生活を送っていく上でのルールの検討と、役割毎に決められた責任者の紹介が順番に行われる予定だった。ところが翁たちの報告の間も、横になって眠ったままの人がけっこういる。蓄積している疲労がまだ全然抜けていないのだ。
それを見て取った進行役のジトパカが、この後の話し合いは、体力の残っている者のみの自主的な参加で操舵室のある拝殿の広間で行うことを提案、講堂での全体の話し合いを打ち切った。
ただし最後に一つだけ大切な報告が残っているからと前置きをした上で、モア教の僧官の一人を呼んだ。
壇上に上がった尼僧は、昨日からここに避難民が上陸を始めてより、二十七名の命が失われたことを告げた。そのほとんどは低体温症による衰弱から回復できなかった者である。また、その二十七名に加えて、湖宮の後部側面で、流された倉庫の一部と共に、湖宮の公師の遺体が一体見つかったこと。その体には、先にダーナがここで起きた惨事の話通りに、銃とは異なる殺傷具で撃たれた跡が残されていたことを淡々と語った。
明朝、亡くなった人と公師を合わせた二十八名の遺体は、葬送式を執り行った上で海に流す予定であり、希望者は列席してほしい旨を告げて、講堂での話し合いを終了した。
体力と生き残りの計画に自主的に参画していこうという意欲のある者だけが、場所を拝殿の広間に移して、話し合いを続けることになった。
なお、胃炎を悪化させたマフポップは、他の患者と共に講堂奥の小部屋で横になっており、全体での話し合いには参加しなかった。
五十名ほどの人たちが、拝殿のホールに移り、今後のことについて話し合いを続けるなか、奥の操舵室では、オバルが操作盤との格闘を再開していた。
オバルは、操作盤にある記録装置の中から、何とか湖宮そのものの情報を引き出せないかとキーを叩いていた。しかし記録装置の中に、この船の操船に関する情報があるのかどうかの確認が取れなかった。
また湖宮内の他の情報機器への接続は相変わらずできない。つまりこの船の推進機関が故障しているのかどうかさえも、操舵室では分からないのだ。
この湖宮のどこかに、全ての情報と権限を司る管制室があり、そこの情報処理装置が、この船の各種のエネルギーの供給や、艦内の環境を維持するためのシステムや、機関区の保全や、刻々と入ってくる外部センサーのデータや、動力系の現状や、船体の構造といった基礎データに至るまで、全ての情報を集約して、湖宮運行のための指令を出しているはずなのだ。
操舵室の管轄から外れた指令を打ち込むと、即座に指令内容の再検討が表示される。情報が中央集権的に上意下達になっており、下から上の情報を引き出すことができない。とにかく当面は、より上位の指揮権をもった情報管制機器に接続を試みながら、船の自動修復機能が働いて、湖宮が勝手に動き出すのを待つしかなかった。
次話「漂流」