ジュール
ジュール
午前二時、講堂では、一部の病人と、水を飲むか用を足すために起きる人を除けば、ほとんどの人が深い眠りについていた。
暖房が効いているということ。それに決壊流に流されたとはいえ、湖宮という宗教の聖地に収容され、そこが島ほどもある巨大な船であり、かつ同じ運命を共有する道連れが二千人もいるということ。そういったことが安心感となって、人々の眠りを深いものにしていた。もちろん聖地の地下で湖宮の僧官たちが自分たちの安全を祈願してくれているということも、間違いなく支えとなっている。
バドゥーナ国とゴーダム国の対立から始まった複雑な騒乱がもたらす身の拠り所のない不安定な状態から、人々はしばし解放されて、安堵の眠りを貪っていた。
講堂に戻ったシャンは、マフポップの容体を確認。それが頭痛薬の多用による胃炎と解かると、直ぐに薬を処方。後は発熱している自身の体調を考え、ほかの患者への対応はトンチーと牧人の施療師に任せて、自身は横になった。シャンの発熱はケガのせいというよりも、疲れによる風邪が原因らしい。
講堂の入口からホールに至る回廊には、倉庫から運び込まれた貢朝船の荷が積み上げられている。半刻ほど前までは、はしゃぐように荷の整理をしていた春香たちも、今は整理途中の荷に埋もれるようにして横になり、講堂入口の大扉の前では、寝ずの番をするはずのベコス地区の若衆組の青年たちまでが、椅子に腰掛けたままウトウトと船を漕いでいる。
一方、拝殿では、いつそこに潜り込んだのか、ブチイヌと包帯を巻かれたシロタテガミが、祭壇の下で一塊の毛のようになって眠っていた。シロタテガミが思い出したように耳をぴくりと立てるが、それは物音に反応したのではなく習慣的なもののようだ。
操舵室の中では、オバルが床に大の字になって大鼾を響かせ、操作盤のモニター画面には、相変わらず吹雪が荒波の上を吹き抜けていく情景が映し出されていた。
この全ての人が眠りについているなかで、唯一目を覚ましていたのがヴァーリだったかもしれない。ヴァーリは長椅子に横たわったまま、まんじりともせずに、非常灯の映し出す天井を見ていた。
低いテーブルを挟んでもう一つの長椅子に、ダーナが横になっている。
ダーナは、顔を洗う時と眠る時以外に、仮面を外すことはない。そのダーナの銀色の仮面が、テーブルの上に置かれている。体に緊張が残っているのか、ダーナが眉間にしわを寄せては、ぶつぶつと寝言を口にする。それをヴァーリは、壁の金具に巻きつけてある万国旗と、万国旗模様のパッチワークの壁掛けを見ながら聞いていた。
壁掛け……、それは光の世紀の様々な国の国旗が、畳二畳敷きの大きさで縫い合わされたものだ。一枚一枚の国旗のサイズは全て等しい。民主国家というものが全ての市民に平等の権利を保障することを理念としたように、このパッチワークは、地球国家として、全ての国に平等の権利を保障する、その理念を顕したものだ。
世界の国々を統合する国際機関の壁に同様のタペストリーが飾られていたのを、何かの図版で見たように思う。だが史実が伝えるのは、そのタペストリーの図柄が理想に過ぎなかったということだ。人個人が不平等という足枷から抜け出すことができなかったように、国家も不平等の頸木の元に喘いでいた。
それでも、国際会場の催しでは、万国旗は必需品だったという。国際的な祭りの場では特にだ。人は苦しい日々を忘れるように祭りを催す。非日常を演出する祭典で、人々は日々の悩みや苦労を忘れて夢を見る。
万国旗を飾るということは、まさにそれが夢だからだろう。
半日以上意識を失っていたヴァーリは、寝つけないままに、ぼんやりと壁掛けの国旗の一つ一つに目を向けていた。体は猛烈にだるかったが、この数日間のことが頭の中に去来、目が冴え、とても眠る気になれなかった。
横の長椅子で眠っているダーナが寝言を吐く。はっきりとは聞き取れないが、十年前の事故で顔に炎傷を負った時のことのようだ。何度もうなされるように口にする。それを聞いていて、自分も今回の夫の凶状を、ダーナのように夢に見るようになるのだろうかと想う。そのためか、忘れていた夫に撃たれた肩の痛みが蘇ってきた。
目を開けていることに疲れたヴァーリは、毛布代わりの外套を体の上に引き寄せると、目を閉じた。ヴァーリの耳に、妹の寝言が耳につく。
と、寝返りを打った妹が、長い息を吐いた。体を起こしたのか、手を動かす音と共に、テーブルの上のコップを取ったのが分かる。水が入っていなかったからか、そのままコップをテーブルに戻したようだ。
「テーブル脇の籠の中にポットがある。水はその中よ。揺れを考えて、シャンがそこに置いたの」
「起こしたか」
「ううん、眠れなくてずっと起きていたの」
ダーナはポットを取り上げると、中の水をコップに注いだ。
「姉さんも飲むか」
「私はいい」
ダーナは、二杯たて続けに水を呷った。
そして肩で息をつくと「寝言を言っていたろう」と姉に聞いた。
答えに詰まってヴァーリが黙っていると、構わずダーナが続けた。
「煩さかったら言ってくれ、寝ていると、時々事故の瞬間が蘇ってうなされる。突然叫び声を上げることもあるらしい。家では家政婦が飛んできたこともある」
それはヴァーリも知っていた。惨事の後、家を去るまでの数年間に、自分もダーナの寝言を何度か耳にした。妹のダーナは感情を抑制することに長けている。そのため、目覚めている時に抑えていたものが睡眠時に噴き出してくるのだと、掛かりつけの医者は言っていた。
「父上にそのことを話したら、うなされることの一つや二つ、政治の世界に入ったらあって当たり前だと、一笑に付された」
「お父さまらしいわね」
ヴァーリが微かに口元に笑みを浮かべた。ダーナはコップを机の上に置くと、音をたてて長椅子に横になった。そして天井を見上げて言った。
「姉さんの気質は我が家の家風に沿わない。さっさと家を出て正解だったろう」
同じように天井を見ながら、ヴァーリが嘆息した。
「そう思っていたわ、家を出て湖宮に嫁いだ時は……」
言ったまま、ヴァーリは押し黙った。非常灯の明かりにぼんやりと照らされた顔は、頬が窪み見るからにやつれている。肉体の病いやケガなどではない、心が原因のやつれ方だ。
ダーナが声を掛けようとすると、先にヴァーリが口を開いた。
「まだ聞いていなかったけど、都……、ダリアファルはどうなったの」
「この世界から消えた、濁流に押し流された」
「そんな……」
思わず体を浮かせかけたヴァーリに、ダーナはこの数日間に起きたことを説明した。
そして、ダーナらしい醒めた口ぶりで、あっさりと言い切った。
「私たちの育った、氷床と円錐形の火山を背にしたダリアファルの町並みは、もう記憶の中のものだ。ユルツ国の市民は、放置されていた波崙台地の遷都先に避難している。もし今回の災事を潜り抜ければ、そこが新しい都になるだろう。遷都を拒み続けた連中も、これで踏ん切りがつく。いい契機なのかもしれない。まあ、それもこれも、あの天のスポットライトが消え、生き延びることができればの話だが……」
話しながら、ダーナが仮面の下で眉間にしわを寄せた。さすがに避難先の混乱を、今の姉に話すことはできなかった。それに父の死も……。
声が途切れると、空調の音が耳に戻ってくる。ヴァーリはダーナの話にため息をつくと、羨ましそうに感想を漏らした。
「あなたはやっぱり強いわね、そうやって、さっと気持ちを切り替えられるんだもの」
ダーナがフンと小さく鼻を鳴らした。
「私だって、生まれ育った土地や街で暮らしたいという想いは分かるし、現にその気持ちは人一倍強い。だからこそ、古都を生き延びさせるために、新しいエネルギーの開発に手を染めた。だが私は現実主義者だ。明日を生きるために古いものを捨てなければならないとなったら、いつでも捨てるさ。日和見と言われようが何と言われようがな」
「でも……」
ヴァーリは口ごもると、これまで何度も口にしようとして、できなかったことを話すように「でも、あの人は、そんな生き方のできる人じゃなかった」と、ポソリとそのことを口にした。
無言で天井を見上げている姉に、ダーナが尋ねた。
「ジュールとの間に何があった、そもそも、この湖宮とは何だ」
「話せば長くなるわ、ダーナは寝なくていいの」
ダーナは腕の時計を見て時間を確かめると、
「もう二時間半は眠った。この後何が起きるか分からない、聞ける話は聞ける時に聞いておかないと」
「そう……」
分かったとばかりに微かに顎を引いたヴァーリは、それでも何から話せばいいか迷うように、しばし宙に視線をさまよわせた。そして……、
「ここは、古代の人たちが残した施設、そして、私の夫のジュールは、ある意味で湖宮が生み出した犠牲者なの」
そう前置きすると「自分は」と言って、静かに話を始めた。
「自分……、私は……、幼少の頃から、政治家一家の三姉妹の長女として、跡取り娘になることを運命づけられたように育てられたわ。でも性格的に政治の世界に向かない私は、いつもどうやれば家の呪縛から逃れられるか、そのことばかりを考えていた。そして二十歳を過ぎて、父親の跡を継ぐ運命から逃れるためには、生まれ育ったユルツ国を離れるしかないと思い始めた頃、都の技術復興院に遊学に来ていたジュールと出会った。
僧衣姿のジュールは、博識で優しい物静かな青年だった。そんな彼に私の心が傾くのに時間は掛からなかった。そして近い将来、聖地の湖宮で僧位に付く彼との、平穏な祈りに満ちた暮らしに憧れるようになった。
彼が惨事のあと都を去ると、私も彼を追いかけるようにして家を出た。そうしてジュールと結婚、湖宮で暮らすことに。
けれど……、ここに戻ってからの彼は、以前の彼とは違っていた。
ジュールは家を留守にすることが多く、どこに行っていたのと聞いても、祈りの儀式だとしか説明してくれない。いつも何かに苛々して、些細なことにも腹を立てるし、かと思えば突然塞ぎ込んで何も喋らなくなる。出会った頃の彼とは、全く別人のようになってしまった。
何とか彼を理解しようとしたけど、知人も友人もいない祈りの島で、私はどうしていいか分からず、一人途方にくれるだけだった。
私と彼の住まいは、寝生区と呼ばれる湖宮の東の端の、小さな岬のような場所にあった。立ち並ぶ苔むした柱の間から見える青い湖面と、雪を頂いたカルデラの山並みは、それは美しいものだった。でもその美しさと相反するように、私は孤独だった。
湖宮には百五十人ほどの人が暮らしていたが、私がその人たちと会うことは、ほとんどなかった。おまけに聖職に位を持たない私は、湖宮の中を自由に歩くことが許されなかった。いずれは僧位を取れるように手配してあげると、彼から言われていたが、それも何時になるか分からない。話し相手もいない、まるで幽閉されたような生活だった。
そんな孤独な毎日を癒してくれたのが、窓の外、水辺にやってくる水鳥たちだった。
私はジュールが家にいない時は、いつも窓辺に腰かけ、水鳥に餌をやって過ごした。
そんなある日のこと……、
水鳥たちに混じって、一羽の見慣れない鳥がいることに気づいた。小さな桟橋に沿って立てられた杭に、その小鳥は止まっていた。二千年前の災厄によって、内陸の森に住む小鳥は死に絶えている。生き延びた鳥のほとんどは、渡りをするような水鳥たちだ。ところが、いま自分が目にしているのは、この世界で初めて目にする、古代の図鑑の中でしか見たことのない森の小鳥。鮮やかな黄色い胸が印象的な小鳥だった。
その手の平ほどの大きさの小鳥も、私と同じで、仲間がいなくて孤独だったのかもしれない。いつしかその小鳥は、私のいる窓辺の手すりに来て止まるようになった。
窓辺でその小鳥と目を見交わすようになったある日、小鳥と一緒にいるところにジュールが帰ってきた。小鳥はすぐに飛び去ったけれど、それ以来その小鳥は来なくなってしまった。また私は孤独になった。
それから数カ月たったある日、小鳥のことも忘れかけた頃、手すりの下の苔の間から、何か植物の芽らしきものが出ているのを見つけた。もしかしてあの小鳥が落としていった糞から出た芽かと思い、私はそれを鉢に植えて家の中で育てることにした。
もちろん、ジュールには内緒で……、
暖かい部屋の中で芽は育ち、半年後、その草は花弁が五つある薄紅色の小さな花を咲かせた。まさかと思った。
ユルツ国にいる頃、古代の植物図鑑で似たような花をつける植物を目にしたことがある。
でもまさか、一年の半分以上を雪で覆われたカルデラの岩山に、そんな花を咲かせる植物が生えているとは思えない。それに毎日窓辺に来ていた小鳥が、カルデラの向こうの世界から種を運んで来るはずもない。小鳥が住んでいるのは、湖宮の対岸の岩山か、この湖宮のどこかだ。しかし苔と石組みしかない湖宮のどこに、あんな小鳥の住める場所があるというのだろう。
疑問を胸に抱いたまま、私の湖宮での生活も四年目に入る。
そして……、しばらく前から、私は湖宮に疑いを持つようになっていた。
宗教の聖地としての湖宮が、聖地とは別の一面を持っていることに気づいたのだ。
ここの生活は貢朝船、つまり世界中の信者からの喜捨で成り立っている。それなのに、喜捨でこの地に持ち込まれたとは到底思えないような物を見かけるのだ。それは、たとえば僧衣の帯の刺繍の糸であったり、儀式の前に焚きしめる特殊な香であったり、ペンのインクの顔料であったりする。おまけに奇妙なことに、外部から拝宮者がある時は、必ずといって良いほど霧が出る。
そしてある日のこと、ジュールの汚れた僧衣を洗おうとして、私は彼の僧帽の中に一枚の木の葉を見つけた。親指ほどの大きさの枯れて薄茶色に変色した木の葉。
いったい、この木の葉はどこから……。
湖宮のどこかに、木の葉を茂らせる木があるのだろうか。
彼に問い質そうか迷った挙げ句、私は、彼にも、そして湖宮の誰にもそのことを尋ねなかった。彼だけでなく、湖宮に暮らす全ての人が、そのことを隠そうとするに違いないと思えたのだ。それにもし彼に尋ねて、彼が答えてくれなかった時、彼が益々私から離れてしまうような気がしたから……。
結局、誰に尋ねることもなく、私はその一枚の枯葉を机の引き出しの奥に隠すと、自分で湖宮のことを調べ始めた。
この湖宮という楕円形の島は、外周を歩いて、ちょうど一時間かかる程の大きさをしている。大ざっぱにいえば、島の西から野外祈祷区、拝宮区、広場や講堂のある教育区、波止場や倉庫のある対外区、ドームの並ぶ奥の院、生活のための寝生区の六つの区に分かれている。私の住んでいる家は、寝床区の端に突き出た小さな岬にあった。寝生区以外は、ほとんど宗教施設だけで、私や外部の訪問者の立ち入りは、原則として禁じられている。それでも、外部の宗教関係者が訪問する講堂などの施設や、野外礼拝所は、私でも自由に出入りできたし、島の北側にある対外区の港湾施設に付随した倉庫や資材供給所周辺は、比較的自由に歩くことができた。だから寝生区の岬から資材供給所に生活用品を調達しにいく時は、いつも寄り道をして途中の施設を見て歩くようにした。
建物の中には入れなくても、歩いていれば中を覗けることがあるかもしれないと思ったのだ。ところが、ここの建物は、講堂以外は窓のないお墓のような建物ばかりで、入口さえ見当たらない建物がほとんど。仕方なく次は小船を借りて、湖面で釣りをしながら島を観察することにした。
やがてあることが見えてきた。湖宮という島には、水面に出ている対外区と呼ばれる宗教施設以外にも、地面の下に何か大きな構造物があるということだ。
でもその時には、まだ湖宮が浮き島だということまでは分からなかった。
次に私が行ったのは、奥の院のドームや拝殿を見張ることだ。外部の人間が立ち入りを禁じられている施設の開閉を、誰がどうやって行っているかを知りたかった。
そして分かったのは、湖宮の様々な施設の管理は、十一人の公師がそれぞれ分担して行っているということだ。施設の出入口、扉の開閉は、それを管理している公師個人の肉体の一部が鍵となっているため、当人しか行えない。それを知った直後、夫のジュールが奥の院のドームの一つを管理していることに気づいた。開閉のための鍵に、ジュールの目の虹彩模様が使われていることもだ。
自分は結婚して湖宮に移り住む際、一つだけ実家からある物を持参した。それが子供の頃から愛用していた、手の平サイズの魔鏡帳だ。
通信用の魔鏡帳だが、様々な機能が付いている。その魔鏡帳に付いている映像の撮影機能が役に立った。魔境帳のレンズでこっそり彼の顔を撮影。そして魔鏡帳の映像パネル上でジュールの目の拡大、その映像を奥の院の入口にある識別装置のレンズに当ててみた。上手く行くかどう分からなかった。それがなんと、入口の開閉装置が反応して、識別装置のパネルにテンキーが現れた。半信半疑ではあったけど、パネルの数値欄が八桁なのを見て、私は、とっさに彼の生年月日を押した。するとパネルが緑色に変わって、扉と思われる壁の中で何かが外れたのだ。私は怖る怖る扉を押し開いた。
扉の隙間から中の通路が見えた。
でもその日は、とても扉の内側に足を踏み入れる勇気は起きなかった。
数日後、公師全員による祈祷が拝殿で行なわれる日に、私はもう一度奥の院のドームに行き、同じ手順で扉を開けた。そして中に足を踏み入れた。
その時の驚きは、とても言葉で言い表わせるものではない。
あの花の一件からして、ある程度の予感はあった。ただ前の世紀の環境がそっくりそのまま保存されている、そんなことは想像もしていなかった。子供の頃に古代の本の擦れた写真で見ていた風景が、そのまま手で触れることのできる形で残っているのだ。私は奈落のような階段の下で、扉を開けたまま立ち尽くしてしまった。
そこに、あのいつも岬の窓辺に来ていた胸の黄色い小鳥、キビタキが飛んできた。そして案内するわとでも言わんばかりに、木立の間へ飛び去った。私は導かれるように小鳥の後に付いて、過去の世界に足を踏み入れた。
体が染まりそうな緑の木立を抜け、青い果実がたわわに実る果樹園の坂を下り、小川の橋を渡る。道の先に煉瓦色の屋根が見えた。すぐに分かった。それが復興院で初めてジュールと会った時、彼が熱っぽく語っていた、二千年前にタイムスリップしたらこんな家に住みたいなと言っていた、その家のことなのだと。
小鳥は煉瓦色の屋根の家の前、ポストの上に止まって、私を誘うように首を振っていた。暑いほどの日差しのなか、門を潜る。人の気配はなかった。私はそっと扉を押した。
家の中はきちんと整頓されていた。中の間取りも、家具の配置も、飾ってある額の絵まで、彼が話していたものとそっくりだった。
そして私は、彼の両親がいたであろう部屋の戸棚のなかに、アルバムを見つけた。家族の写真集だ。そこにジュールの成長の記録もあった。幼い頃の彼が両親と兄姉に囲まれ、家を背にして写っている。一つだけ今のジュールと違うのは、彼が車椅子に乗っているということだ。さらに私は、一冊のノートを見つけた。
ずしりと重く厚いノート……、何かの記録のようだった。古代の言葉で書かれているため、その場では目を通すことができない。予感があったのだろう、私はそれを服の中に忍ばせると、訪れた形跡を残さないようにして、その場を立ち去った」
話に耳を傾けていたダーナが、初めて口を挟んだ。
「そういえば姉さんから、古代語の辞書を送ってくれという手紙が届いたことがあったな」
「そうなの、あれはその日記を読むためのものだったの」
ヴァーリはコップの水に少し口をつけると、話の先を続けた。
「持ち出したノートは、彼の父親の日記だった。そして、そこに書かれてあったことは、悲劇としかいいようのない出来事だった」
ヴァーリはコホンと咳を一つつくと、
「でもそれを話す前に、私が理解した範囲で、この湖宮が何であるかということを説明するわ。それを知っていないと、ジュールの身に起きた悲劇も分からないと思うから」
頭の中を整理するような間の後、ヴァーリは湖宮という施設が何であるか、そのことを話しだした。
「この湖宮という施設が作られたのは、前の時代に遡るの……、
ここは、光の世紀と呼ばれる古代に、ある目的によってつくられた施設で、宗教施設というのは後世になって付け加えられたもの。
ここは、前の世紀の自然や文化の全てを集めた、タイムカプセルのようなもので、生きたタイムカプセルといってもいい。緑の死によって消滅崩壊した地球の環境と文化を保存する施設。その施設の保存を代々受け継いできたのが、公師を中心とするここの聖職者たち。
建造されてから二千年、ここの施設に分厚い苔が生えているように、今では、湖宮本来の目的の上にも、モア教という宗教の分厚い苔が覆い被さっている。
本体の浮き島の部分は、幾つかの区画に別れ、それぞれに独立した管理が行なわれている。区画にはそれぞれ管理担当者、公師が定められ、担当の公師しか中に入ることは許されない。湖宮が建造されて以来、誰も中に入ったことがないという神聖区という区画もある。十六ある区画の内、夫のジュールが管理していたのが、動力機関区と三つある奥の院の一つで、私はその奥の院に忍び込んだ。
でもそれは直ぐに発覚して、私は奥の院のドームに幽閉されてしまうのだけど……、
それはそれとして、ここに暮らしている人たちは、湖宮の内部に保存されている自然や文化を未来に伝承していくという目的に従って、厳格な規律の元、正に宗教人のような暮らしをしている。ここでは暮らす人の数も、性別も、年令構成も、一生の内に行うべきことも、厳しく管理されている。生命というものが生きることで変化していく存在だとするなら、ここの住人は変化することを否定された、生きながら死んでいる存在と言ってもいい。
子供も常に男女一人ずつの二人と定められていた。
ただし、遺伝子の劣化を避けるために、湖宮のどこかに保存されている人の遺伝子が取り出され、一定の割合で新しく生まれた子供に付与された。
ここでは、そういうことも行われていた。
すべては厳格な管理のもとに行われていた。それなのに……、何かの手違いで、ジュールの両親に、予定外の第三子が生まれてしまう。
この閉ざされた社会で必要とされなかった、三番目の子供が……、
それが悲劇の始まりだった。
ここで生まれた子供は、外界を見聞する修業のため、十五歳になると、修養と称して外の世界に旅に出される。世界が直面している苛酷な状況を知ることが、自分たちが守り伝えてきたものを評価することに繋がり、また継承していくことの自覚を生むという観点からの修養だった。そして修養の期間を終えて帰還の後、公師となってここ本来の仕事につく。しかし湖宮の意味を評価できず、厳しい戒律を自発的に守ろうという意識の芽生えない者は闇に葬られた。それもまた、ここの規律。
ところが取り敢えず必要とされない余分な子供が生まれた時、両親が、気紛れだろうか、聖職者の家族が暮らす寝生区で子供を育てずに、ドームの中、つまり奥の院で育てた。普通に寝生区で暮らしていれば、外部からの拝宮者などを見ているうちに、外の情報がそれとなく入ってきて、子供たちは親から教えられなくとも、自分たちの暮らしている湖宮が、外の世界と隔絶した異質な世界であるということを、自明のこととして理解する。
それがジュールの両親は、外に別の世界があることを知らせずに子供を育てた。ひたすらドームの中で育てた。
ただ両親にも同情の余地はある。その三番目の子供は、遺伝子操作で十歳までの命と決められていたのだ。せめて十年の生涯なら、奥の院の豊かな環境の中で、生涯をまっとうさせてあげたいと考えた。
悪いことは重なる。その子供は心臓に病を抱え、足が不自由で、車椅子に乗って家の周りだけで暮らすことを余儀なくされていた。そうして家から外を眺めるだけなら、ドームの閉ざされた世界は、雨も風も雷も夜の星空も太陽も何もかもがごく自然のままに感じることのできる、本物そっくりの擬似空間なのだ。
少年は田舎の別荘で、ごく自然に育っていった。
そして父親が情報管理区を担当していたことが、次の悲劇の芽を生むことになる。
両親は古代のある年代の映像情報を、保管されている時代順に、少年の生長と同調させ、見せながら育てた。少年を全く二千年前に生まれた子供のように育てたのだ。
足の不自由な少年は、いつか健康になって都会に出ることを夢見ていた。父親が食文化区からコピーして持ち出したファストフードを食べ、その店にも行ってみたいと思っていた。いつの日か、好きな歌手の公演にも行けることを願っていた。
両親も最初は子供を核としたその擬似的な演劇のような古代の生活を楽しんでいた。いずれそのことを子供に告白しなければ、という危惧はなかった。少年の寿命は十年と定められていたからだ。
しかし両親にとっては架空の演劇空間でも、子供にとってはそれが現実の世界。
やがて車椅子の子供は、自分の夢のために、親に隠れて自分だけで歩く訓練を始めた。立つこともできなかった子供は、松葉杖に頼りながらも歩けるようになる。少年は自分が立てるようになったことを、両親にいつ教えようかと、わくわくしていた。もちろん自分の夢、宇宙飛行士になることも……、
破局は子供が九歳の時に訪れた。
子供は親のいない時に、車椅子を下り、杖を使って、いつもは入らない林の奥の坂道を上っていった。そして少年はそこに壁を見つけた。
それは壁というよりも世界の終わりだった。
少年の驚きは想像にかたくない。極端に言えば、地球の上で暮らしていると言われて育てられ、実はそこが宇宙だったというようなものなのだ。いやそこが宇宙なら地球に戻ればいい。だが少年の育った時代は、帰ることの絶対に不可能な、遠い過去の世界なのだ。
その段階で少年はすでに精神に変調を来していた。
彼が予定どおり十歳で寿命を終えるか、もしくは亡くならずとも、一生をあの閉ざされたドームの中で、廃人か世捨て人のような生活を送れるのであれば、悲劇は起きなかったかもしれない。しかし問題は悲しいかな、そこで終わらなかった。悪いことに、少年の上の兄姉が、二人とも突然の事故で亡くなってしまったのだ。
ジュールの十年の寿命は、遺伝子操作によって変更された。そしてその時から、彼は公師として、湖宮の規律に従って生きることを強要されることになった。
絵を愛し音楽を愛し心の中で宇宙飛行士を夢見ていた繊細でひ弱な少年の心は、すでにズタズタになっていた。
結果、少年は自分をこのような運命に落としこんだ両親を憎み、岩と砂と氷しかないこの時代を呪い、誰にも共有してもらえない文化を持ってしまった自分を呪い、そうした世界しか生み出しえなかった人類そのものを嫌悪するようになった……」
ダーナが深いため息と共に、顔に手を当てた。
「悲しい話、救えない話だな」
ヴァーリが、ジュールの心が乗り移ったように、か細い声で言い募る。
「これがあのジュールの心の中なの。彼がもし古代の音楽を愛しているなら、私にも聞かせてくれれば良かった。二千年前に流行した映像文化を楽しみたいなら、私にも見せてくれればよかったのに……。湖宮に来て以来、彼は私の前では、けっして古代の文化を語らなかった。彼は、彼の愛した時代が、私に拒否されることを怖れていたのだと思う」
ヴァーリの額に冷たい手が触れた。ダーナの手だった。一度に喋り過ぎたせいか、興奮して熱が出ている。
「喋りすぎたようだな、病人にあまり喋らせると、あとでシャンに文句を言われそうだ」
「でも、私ばかり喋って」
「いいからもう一度眠ることだ。明日になれば、この船のことで聞きたいことが山ほどある」
「でも……」
ダーナはポケットから小さな袋を取り出すと、ヴァーリの手に握らせた。
「姉さん、これを飲むんだ。安定剤だ。この湖宮が無事夜明けを迎え、私たちが石と苔の大地に足を下ろしたら、いくらでも話はできる」
姉にそう言い聞かせると、ダーナはごろりとソファーに横になった。
「わたしも、一眠りする」
ダーナは、自分でもその錠剤を口に放りこんだ。
非常灯の薄明かりのもと、空調の単調な音がかすかに部屋の中に響いていた。
次話「夜明け」