停止
停止
ふわっと体が持ち上がったような感覚の後、床が大きく右に傾いだ。三十度近い傾きで、這いつくばって身構えていたからいいようなものの、もし立っていたら、みな将棋倒しに床を滑り落ちていただろう。しばらくその状態が続いた後、今度はその反動で逆方向に傾く。何度かシーソーのような傾きを繰り返し、同時に前後にも揺れる。絶え間なく揺さぶられるような振動が続き、その間にも、何か大きなものがぶつかったような衝撃が、床から体を上に突き抜けていく。
何度目かの体を震わせるような衝撃の後、照明が消え、講堂の中は闇となった。講堂正面の大扉に耳を付けると、扉の外を大波が洗っている音が聞こえる。
激しい揺れが落ち着くのを待って、ダーナは手持ちの白灯に明かりを灯した。
操舵室のオバルに無線を入れるが繋がらない。講堂も電波を通さない構造になっているのだろうか。講堂の扉を開けて電波を飛ばしてみようかとも思ったが、まだ体が揺れるほどの振動が辺りを包んでいる。今しばらくは様子を見るのが賢明と考え、ダーナは床に敷いた毛布の上に横になった。
その同じ頃、真っ暗な操舵室の中で、オバルは倒れていた床の上で目を開けた。決壊流が湖宮に衝突した衝撃で椅子から転げ落ち、その拍子に頭を打って気を失ったらしい。後頭部がズキズキと痛む。触れると瘤ができていた。
体を起こして操作盤に目をやると、中央にあるノート大のモニター画面だけが、闇夜の蛍石のように、ボーッと青白い光を放っている。椅子に座りその画面を覗きこむ。
モニターの画面は、決壊流が衝突した時点の状態で停止、隅に機能停止と非常用電源への切り替えを示す表示が、赤く点灯している。画面が完全に消えていないのは、データを消去しないための電源がどこかに組み込まれているからなのか。だが緊急時の非常用電源への切り替えがどうすれば出来るのか、その手順は示されてない。新規に情報を呼び出そうにも、あらゆるキーはガードが掛かって、反応しなくなっていた。
操舵室の機能は完全に停止していた。
電力を動力源とした施設は、主電源が停止した際には自動的に補助電源に切り変わり、また補助電源が機能しない場合でも、一定の時間は管制機能が保たれるよう、ストック電源が組み込まれているものである。それが非常灯さえも点灯していない。闇のなか耳を澄ませ、唾で濡らした指を立ててみるが、空気の流れも感じない。
完全閉鎖構造の操舵室で空調が止まっているということは、非常時用のシステムが作動していないということだ。完全に動力、電源共にストップしたと判断すべきだろう。
体に感じるのは、右に左にゆっくりとローリングを続ける湖宮の動きだけだ。
唯一明かりの残る小さなモニター画面に手を近づけ、腕時計の時間を確かめる。十九時三分。操作盤のモニター画面の時間が十八時四十三分で止まっているから、最初の衝撃から四十分余りが経過したことになる。
ぶつかるような揺れがほとんどないということは、津波級の波の襲来は終わったか、あるいはすでに波のない場所にまで運ばれたということかもしれない。そう考えて、オバルは思わず頭を掻いた。湖宮を微かに揺らすだけでも、波としては貢朝船を一呑みにしてしまうほどの大波に違いないからだ。
まだ頭が働かないな……と、オバルは暗闇の中で頭痛のする頭を左右に振った。頭を打ったためというよりも、この数日の寝不足で頭がぼんやりしている。
何度か頭を振っているうちに、操作盤手前の把手に、携帯用の通信機がぶら下がっているのに気づいた。決壊流の衝突する直前に、そこにぶらさげたことを思い出す。
講堂に避難した連中のことが頭に蘇ってきた。講堂はどうなったろう。
通信機を取り上げ、スイッチを入れてダーナを呼び出してみる。
通じない。呼び出し音自体が聞こえない。電波を外部に中継するための装置が、電源が落ちたために機能しなくなったのかもしれない。外に出て直接電波を飛ばしてみようかと思うが、ダーナと同じ理由でオバルもそれをやめた。体に感じる揺れからすれば、まだ相当の波があると思われたからだ。
「一休みしろとの神の思し召しかな」
そう呟くと、オバルは通信機を操作盤の上に置き、深々と椅子に背を凭れさせた。
そのオバルの目に、モニター画面の隅に映った小さな赤い灯の揺らぎが見えた。モニター画面の明かりではない。振り返ると、人の体の幅ほどに開けられた操舵室の入口から、シャンが顔を覗かせていた。マッチを手にしている。
「大丈夫?」と、シャンがオバルに聞く。
「シャンさんか、こちらの建物にいたのか」
避難民の治療に当たっていたシャンは、熱が三十九度近くまで上がったために、休養とヴァーリの様子を看ることを理由に、こちらの建物に回されたのだ。
シャンも決壊流の衝撃で、しばらく気を失っていたらしい。
次のマッチを擦りながら、シャンが話しかけてきた。
「真っ暗だけど、操舵室の機械はどうなの」
「お手上げだ。完全に電源がストップした。非常灯もないのでは、何もできない」
シャンがなかなか火の付かないマッチを何度も擦る。右手が使えないので、もどかしそうだ。手を貸そうとオバルが立ち上がりかけた時、シャンの後方、通路に面した控え室から女性の声が漏れた。ヴァーリの声、シャンを呼んでいる。
暗闇のなか、シャンが控え室に引き返し、マッチを擦る。今度は一度で火が灯る。
長椅子に寝かされたヴァーリの姿が浮かび上がった。赤い火で照らし出された部屋を、ヴァーリが小首を傾げて見ていた。
やがて壁のフックに巻き付けた万国旗を見つけると、ヴァーリは「そうか、ここは操舵室の隣の部屋ね、私、ずっと寝ていたのかしら」と、線の細い声を出した。
ヴァーリの横に腰を落としたシャンが「たっぷりとね」と言って、姉の額に手を当てた。
「今は夜の七時過ぎ。姉さんが気を失ってから、ちょうど十二時間が過ぎたところ。さっき海門地峡が決壊して、ドバス低地が大洪水に見舞われたの。でも私たちは、二千人余りの人を救助したのよ。避難民の人たちは、中央の講堂に収容したわ。ダーナはそっち」
「そう……」
意識がぼんやりしているのか、ヴァーリはシャンの話を反芻するように首を揺らす。
気力が続かないのだろう、ヴァーリが目を閉じた。
オバルが管制室のドアを力まかせに押し開ける音が聞こえてきた。ほどなくオバルが控え室の入口から顔を覗かせ、「ご機嫌はいかがですか」と、ヴァーリに声をかけた。
目を開けたヴァーリが、不思議そうに唇を震わせた。
「なんだか、体が揺れているような気がするの」
マッチが燃え尽き暗闇となったなかで、シャンとオバルが笑った。
「それは湖宮が揺れているからですよ。ドゥルー海から流れ出た海水で流されているところですからね。決壊流が衝突してから、もう一時間近く経っています。このまま流され続ければ、もしかすると、ドバス低地の外、海に出てしまう可能性もあるでしょう」
「海……」と、唇を動かさずに声を漏らしたヴァーリに、「ヴァーリさんは、非常時の電源について何かご存じないですか」と、オバルが真顔で尋ねた。
シャンの灯したマッチの赤い炎に照らされ、ヴァーリが頭を左右に揺すった。
「非常時用の代替電源に切り替わらなかったんだとしたら、それは湖宮の発電システムそのものに、何か異常が起きたということね。でも壁の非常灯が付いていないのは、泡壺の電源が切れているからじゃないかしら。長く使ってなかった部屋のはずだから。操舵室の入口右の、非常用の赤い備品扉を開けてみて。泡壺じゃなくて、筒型のアイソトープ電池を使った棒灯が入っているはず……」
「そうか、それは気がつかなかった、すぐに探してみる」
ヴァーリの説明を聞いて、操舵室にとって返したオバルとは別に、シャンは驚きの目で姉を見つめた。機械オンチの姉の話ぶりに思えなかったのだ。
シャンの視線に気づいたヴァーリが、軽く眉を上下させた。
「少しは勉強したのよ、ここを理解しようと思って」
話しながらも息が乱れる。体調が思わしくないのだろう。
しばらくすると、操舵室からオバルが戻ってきた。
「だめだ、やはり壁の非常灯は電源切れらしい、使えるのはこの棒灯ぐらいだな」
オバルは棒灯を二度三度と確かめるように点滅させると、
「外の様子を見てきます。もし行けるようなら、講堂の様子も覗いてきますから」
そう言って勇んで祭壇裏の出口に向かう。が、ほどなく気落ちした顔で控え室に戻ってきた。拝殿の出入口がロックされて開かなかったのだ。ドアの横にはロックの解除バーが付いているのだが、それを切り替えても開かないという。
シャンが慰めるようにオバルに言った。
「外が危険な状態だと船が判断しているんじゃない」
「そこまで過保護じゃないだろう、ロック状態で電源が落ちたからじゃないかな」
オバルは棒灯を点灯した状態で机に置くと、布で包んだ細長い物をシャンに渡した。
「祭壇に置いてあったロウソクだ。これがあれば当座の明かりは確保できる」
布の包みを解くと、大人の腕ほどもある祭事用の香灯が転がり出た。
シャンがさっそくロウソクをテーブルに立て、マッチを擦る。火から火が生まれるようにロウソクに火が灯り、マッチの数倍はある炎が、真っすぐ天井に向かって伸びる。
その炎がユラッと揺れた。
「風だわ」
シャンが口にするのとほとんど同時に、部屋や通路に設置されたオレンジ色の非常灯が一斉に点灯。風は天井の通風口から吹き出す空調の風だった。
「なんだよ、人がせっかくロウソクを持ってきたのに」
「いいじゃない、電気が戻ったんだから、これなら待っていれば、天井の明かりも、じきに点灯するんじゃないかな」
「そうあってくれれば、万々歳だが」
期待を込めて言うと、オバルは、そそくさと操舵室に戻っていった。
操舵室でも一部電源が回復していた。ただ映像パネルを含め、ほとんどの機器には表示灯一つ付いていない。まだ非常時用の最低限の電力しか戻っていないようだ。
非常灯の薄暗い照明の下、唯一電源の回復していた卓上モニターのキーを、試しに叩いてみる。とにかく湖宮が、どこにいるかを知りたかった。ところが情報が取り出せない。センサー類が故障したのだろうか、データ無しの表示しか現れない。波の状態も、水深も方位も流速も気圧も、具体的な情報が何も出てこない。もちろん推進機関も機能を停止したままだ。
何度か試してオバルはあっさりと諦めた。ぶり返してきた眠気と疲れで、根気が続かないのだ。操作盤に両肘を着き、手に顎を乗せてぼんやりと視線を闇に漂わせる。
その見るとはなく視線を流していたオバルが、操作盤左上の小型の映像パネルに目を留めた。ぼんやりとではあるが、画面に何かが映し出されている。しばらく画面を注視していて分かった。それは操舵室の前方、湖宮前方の映像だった。
増感した画像だろうか、粒子が荒い。
思いついてモニター画面に接続してあるヘッドホンを耳に当てる。すると波と波がぶつかり、しぶきの雨となって砕け散る激しい水音が耳に飛び込んできた。
それを聴きながら、パネルの映像に意識と目を集中させる。
闇の底に、波涛と、右に左に吹き荒れる吹雪が辛うじて見て取れた。画像のフレームの手前に映っているのは、操舵室前方の野外祈祷所の柱だ。その柱を、しぶきが横殴りに洗い流していく。水面からかなりの高さにある柱を波が洗うということは、まだ想像を絶する波が逆巻いているということだ。
荒ぶる波の画像に見入るオバルに、後ろから声がかかった。
「推進機関も停止してしまったようだな」
操舵室の入口にダーナが立っていた。全身雪まみれ、張りついた雪で仮面も真っ白だ。
「どうやって、入口を……」
言いかけてオバルは、さっき自分がレバーのロックを解除していたのを思い出した。
ダーナもそのことに気づいたのだろう、仮面に付いた雪を拭いながら言った。
「講堂に非常用の電源が戻ったので、扉を開けて外に出てみた。吹雪は酷いが、何とか拝殿までやって来れそうなので思い切って走った。こちらの扉が閉鎖されていたら、もう一度雪の中を戻らなければならないところだった。どうやら扉が開いたのは、怪我の功名だったようだな」
「まったくだ、寝惚けてロックを解除したままにしていた」
オバルは苦笑いをすると「講堂の方はどうだ」と、すかさずダーナに問い直した。
「波に攫われずに建っている。今のところ講堂に関しては、被害らしい被害もない」
「波は問題なかったのか」
ダーナが、目を細め、小さな画面の中の波を覗き込んだ。
「この高感度の画像のように実際に目に見えるなら恐怖も湧く。しかし外で見えるのは、横なぐりに吹き付ける雪だけだ。波の音は酷いが、それ以外は暗くて何も見えん。心配したのは、拝殿が波に攫われて無くなっていることだったが……、雪の中、非常灯の明かりの先に、拝殿の屋根が見えた時は正直ほっとした」
話しながら頭を巡らしたダーナは、操舵室にも一部しか電源が戻っていないのが分かったのだろう、オバルに聞いた。
「動力機関はどうなっている。非常灯が点灯したということは、非常用の発電システムが作動し始めたということではないのか」
「おそらくストック電源に回路が繋がったということだろう。もし発電装置が稼働すれば、少なくとも操舵室の電源くらいは戻るだろうからな」
オバルは眠たげな顔で首を振ると、投げやりな口調で言った。
「湖宮は今、巨大な筏だよ。動力も推進機関も止まっている。それが故障なのか、緊急時に際しての一時的な停止なのか、いずれ回復するものなのか、こちらには何も分からん。座礁はしていないようだが、センサー類も機能していないので、どこをどう流されているのかも不明、完全にお手上げだ」
両手をバンザイして見せたオバルに、ダーナは腕組みをして唸った。
「しばらくは、船の機能が回復してくれるのを、見守るしかないということか」
「制御装置内の情報を呼び出すことができないのでは、やれることは無いに等しい。船の構造も何も知らないで、下手に弄ってどうなるもんでもないしな」
処置なしとばかりに大あくびをついたオバルが、話題を変えるようにダーナに聞いた。
「収容した連中たちは?」
「最初の波の衝撃で船がかなり傾斜したので、引っくり返ってケガをした者が何名かいるが、後はおおむね大丈夫。同じ運命を共にしている人間が二千人いるということは、存外心強いものだ。それに最初の猛烈な揺れを除けば、後はもうゆったりとした揺りかごのような揺れで、それに非常灯の明かりと暖房が戻ったのが大きい。外が猛烈な波と吹雪だというのは分かっているから、ほとんどの連中は横になって眠っている」
「なるほど、薄暗い室内に暖かい暖房、それに適度の揺れ、眠るには最適の環境だ」
喋りつつオバルは、もう一度大あくびをついた。丸二日ろくに眠っていない。
あくびを連発しながら「隣の部屋は覗いたか」と聞く。
「いや、まだだ」
「ヴァーリに意識が戻った、もう大丈夫そうだ」
「そうか」と、椅子から立ち上がったダーナに、オバルがくたびれた声を吐いた。
「俺も今のうちに一眠りする、当分やれそうなことは何もない。もし必要があったら起こしてくれ」
言うなりオバルは、椅子に引っかけてあった上着を掴むと、ごろりと床に転がった。そして次の瞬間には鼾をかいていた。
ダーナも我慢していたあくびを一つつくと、モニターの画面に一瞥をくれ、そのまま操舵室から通路に出た。
通路左側の控え室から話し声が漏れている。ヴァーリとシャンの声だ。
ダーナは、ドアの前で立ち止まって聞き耳を立てた。
患者のことが気になるのだろう、シャンが講堂に戻るというのを、ヴァーリがもうしばらくここにいてくれと頼んでいる。誰もいなくなると、あの人が現れるような気がして怖いというのだ。シャンが怒って、そんな子供みたいなことを言わないでよと叱っている。
ダーナは軽く微笑んだ。昔から姉のヴァーリは、妹のシャンに甘えることが多かった。厳しすぎるダーナには甘えられず、当たりの柔らかいシャンに甘えるのだ。
ダーナは軽くドアを叩くと、二人の姉のいる部屋に入った。
振り向いたシャンが、やれやれといった顔でダーナに零した。
「ダーナ、いいところに来たわ。この甘えん坊を叱ってやってよ。私は患者がいるから向こうに戻らないといけないって言うのに、姉さんったら、ズボンの端を握って離そうとしないのよ」
確かにヴァーリの手が、すがるようにシャンの服を握っている。
ヴァーリが言い訳がましく言った。
「だって、向こうには牧人会の施療師がいるって話じゃない。それにシャンは熱があるんでしょう、ちゃんと休養しないと駄目よ」
「だからそれは……」
母親が娘を諭すように、シャンがヴァーリに言い含める。それを懐かしい風景でも見るように眺めていたダーナは、部屋の中に長椅子がもう一つあるのを見て取ると、シャンの肩に手を置き、部屋の外を指した。
「ここには私が残るから、シャンは講堂に戻るといい。この数日ろくに眠っていないので、私もいささか疲れた。講堂に戻ったら、私は少し寝ると、ベコ連の翁か、例の子供たちに伝えておいてくれ。あの子たちは元気だ。非常灯の下でワイワイ言いながら、倉庫から運び出した荷の整理をやっている。それから、ああ……、あのマグという助手の男、彼が血を吐いて倒れた。胃を悪くしているようだな。向こうに行ったら、診てやってくれ」
「マグが……」
心配げにドアの外に目を向けたシャンを見て、ヴァーリが諦めたようにシャンの服を離した。その手をシャンは元気づけるように握り締めると、
「何かあったらすぐに飛んでくるから、私はいつだって、姉さんの味方よ」
安心させるようにそう言い聞かせると、シャンはダーナの方を向いて「何かあったら、その元気な子供の誰かを連絡に寄越すわ」と言い置き、部屋を後にした。
次話「ジュール」