第二次決壊流
第二次決壊流
五時。ゴーダム国の調査艇が湖宮を離れて、すでに一時間半が経過した。
空の大半を雲が占めているので、外はもう夜の暗さだ。風が強まってきたのか、雪が上からではなく横から吹き付けてくる。
飛行機の着陸に備え、広場に火炎樹の篝火が並べられた。また湖宮の外周にも篝火が焚かれた。こちらは救助を求めて漕ぎ寄せる人たちへの目印である。
その篝火を風が音を立てて煽りたてる。
幸い雪は酷くないので、視界はまだ確保できる。
飛行機からの拡声器による呼びかけと、迫る宵闇に追い立てられるようにして、次々と救助を求める人々が湖宮に漕ぎ着け、船揚げ場から上陸していく。この周辺だけでも、思った以上に人は生き延びており、そのことからすれば、低地帯全域では、膨大な数の人が救いの手を待っていることになる。ただ嵐と洪水が迫るなか、この小回りのきかない巨大な船一艘でやれることは、どれほどもない。
飛船よりも大きな荷船を何とか倉庫から船揚げ場に引き出せないか、ダーナの呼びかけで、若衆組の有志が頭をひねっていた。荷船なら一度に二百人は人を乗せることができる。ここでの救助活動をいったん打ち切り、上流に向かった場合、湖宮を目指して漕ぎ寄せようとしている人たちを、どうしても拾い残してしまう。そうした人たちを救助するために、荷船をこの場所、もしくはもう少し都寄りの場所に置いていくことができないかと考えたのだ。幸い別の倉庫で、カバーを掛けられたままの重機が見つかり、その重機を使って、荷船を倉庫から引き出すことに。
その作業を横目に、ダーナは上陸してきた人たちと一緒に階段を上がり、避難所となっている講堂の中に入った。
回廊の手前左隅に、負傷者や病人が寝かされている。トンチーが、アヌィとベコス地区の婦人たちを指導して、患者を診ていた。倉庫からありったけの器を持ち出し、ぬるま湯に手足を浸けさせている。相当数の人が凍傷に罹っている。
慌ただしく人が行き交うなか、シャンの姿がない。春香を捕まえて聞くと、熱が九度近くまで上がったために、トンチーの判断で患者から隔離して休ませたという。ダーナはそれを聞くと、シャンのことにはそれ以上関わらず、講堂の奥へと進んだ。
回廊の奥、そしてホールは、もう八割方、人で埋まっていた。ほとんどの人が、みなぐったりと身を投げ出すように横になっている。
暖房が効いているせいか、講堂に入ると誰もが崩れるように眠り込んでしまう。死の不安から解放された安堵感と、暖房による体の弛緩である。そこかしこから眠りこける人たちのいびきが聞こえてくる。戦争をやっていた緊張感など、どこにもなかった。
当初はこのホールだけで三千人は軽く詰め込めると思っていたが、荷物があるために思ったほど収容できていない。それでも奥の小部屋や、いざとなれば暖房の入っていない他の建物も使えば、万単位の人の収容は可能だろう。
ホールの中をざっと検分すると、ダーナは入り口に取って返した。
講堂入り口に机と椅子が出され、ベコス地区の娘たちが座って、到着する人たちの名簿を作っていた。ダーナを見つけると、娘たちが「今の人で、ちょうど千八百人。この調子でいったら、一万人くらい直ぐですよね」と、明るい声で話しかけてきた。
笑みで答えながら、ダーナは軽く仮面を叩いた。
一万人、もちろんそうだろう、この調子で救助作業を続けることができれば……。
だが、じき日が落ちる。暗くなってしまえば、助けを求める者も、救助に向かう者も、互いの位置を確認し難くなる。おまけに天候はどんどん悪化している。講堂にいると感じられないが、もう外では、船を出すには難しい波が立ち始めている。
救助に向かう連中が遭難するのを避け、波が静まるのを待っている間に嵐になる。そうなれば、火炎樹の上にいる連中など、ゴミのように吹き飛ばされてしまう。さらには、決壊流が発生すれば、その吹き飛ばされた人たちを、巨大な波が洗いざらい押し流していく。跡形もなくだ。
ダーナは記入欄が一杯になった名簿を手に取ると、パラパラと捲った。名前以外にもあれこれと、書き込みがしてある。性別以外にも、出身地と、年令、血液型、病歴、それに職種まで書いてある。聞くと、「手数は掛かるが、記録しておけば後々役に立つ」と言って、シャンがメモするよう指示したのだという。
窮民街で診療と共に公衆衛生の普及活動をやっている姉らしい思いつきだなと、ダーナは頷いた。受付の少女が、収容者の大まかな内訳を教えてくれた。バドゥーナ国の市民が百四十名、ゴーダム国の市民が百二十名、牧人百八十名、北部系移民三百八十名、南部系移民四百九十名、牧人の避難民八十名その他百二十名だった。思ったよりも都の連中が逃れてきているというのが、正直な感想だ。
ダーナは自分の名前を名簿に記すと、「頑張ってくれ」と娘たちを激励して、講堂の外に出た。ちょうど階段の下から、ゴーダム国の調査艇に乗船していた警邏隊の一団が上がってくるところだった。
揉みひげの曹長が、まるでホテルのボーイを使うように、ホジチ翁に案内をさせている。もっとも、塁京の前身の宿郷時代に宿の提灯持ちをやっていたというホジチは、愛想笑いを浮かべながら、卒なく隊員たちを引率。制服たちの後ろに、民間人の一団がぞろぞろと付き従っている。救助した濠都の住人だろう。三十人くらいか。
揉みひげの曹長は、ダーナを無視するように、講堂の入り口を潜っていった。
ダーナは苦笑しつつ「あの一行は全く別の項目でまとめておかなければ」と呟いた。
そして講堂から外に出た時、ダーナの腰の通信機が鳴った。
受信のスイッチを押すと「すぐ、操舵室へ」という、オバルの緊迫した声が飛び込んできた。
ダーナが走り込んだ操舵室では、オバルが吸いつくような目で画面を見ながら、キーを叩いていた。隣ではマフポップが携帯用の無線機を手に、救助に出ている飛船に至急引き返すようにと呼びかけている。
ダーナに気づいたオバルが「すまん」と、画面から目を離すことなく言った。
「どうした」と聞くダーナの目の前、操舵室前面のスクリーンパネルには、ドバス低地全域の模式図が大映しになっている。
「説明する……、今、波の画像を重ねる」
オバルが目を皿のようにしてキーを打つ。
ドバス低地は、ざっくりその形を捉えると、湖宮と似た形、西の海門地峡と東の歯間海峡を両端とする瓢箪型をしている。塁京の二都が瓢箪の狭まった中心のやや西、湖宮のあるカルデラ山系が、それより少し離れた南東に位置する。そして瓢箪の東端、ドバス低地の海への出口は、南と北の双方から伸びる半島で挟まれた、南北四キロほどの狭い海峡になっている。
この歯間海峡と呼ばれる海峡は、ドバス低地が内湾であった当時、湾と外海を繋ぐ湾口であった場所にある。そのため今も海峡という名で呼ばれているが、現在では干潮時に砂洲が露出する浅い海で、そこに決壊流によって押し出された大量の土砂と火炎樹が堆積、出口を塞いで、ドバス低地を宏大な湖に変えていた。
いまスクリーンパネルに映し出された巨大な湖のなかで、赤い点の輝いているのが、現在の湖宮の位置。元の河川の水路図が淡い水色で表示されているので、塁京二都の位置はマークがなくとも分かる。湖宮の現在位置は、グンバルディエルからクルドス分水路に入ってすぐの地点、広大な瓢箪型の湖の中では、湖宮の赤い点は二都のすぐ隣になる。
「よし」と言って、オバルが実行のキーを押した。
ドバス低地の瓢箪を左右に分割するように、上下に伸びる扇形の白いラインが現れた。瓢箪型の左四分の一辺りにある白いラインが、じわじわと滲むように右に動いている。次のキーを押すと、海門地峡と湖宮がラインで結ばれ、その基線上にオレンジ色のグラフが現れた。オレンジのラインは、微妙な振幅を見せながら海門から右へと続き、縦の白いラインと交差する地点で、ストンと下に落ちる。そして、その後は偏平なラインとなって湖宮のある位置に繋がる。
ダーナが怒鳴った。
「まどろっこしい、早く説明しろ」
「悪かった、気づくのが遅れた。決壊流だ!」
一瞬ダーナは絶句、直ぐに白いラインに視線を貼り付けた。
「扇形の白いラインは、ドバス低地に広がっていく決壊流の先端部分、オレンジのラインは水深だ」
オバルが、ポイントを白とオレンジのラインの交点に移動、キーを押した。ポイントの横に数字が表示される。十五とある。決壊流の先端部分で十五メートルの水深があるということだ。
「ドバス低地は、いま平均で九メートル前後の深さに冠水している。その冠水した湖の上を決壊流はおおよそ六メートルの高さ、時速三十五キロのスピードで東に進んでいる。
海門地峡が決壊したのは、およそ……」
「細かい話はあとだ、決壊流がここに到達するまでの時間は!」
ダーナの細い指が、神経を病んだ患者のように小刻みに仮面の頬を叩く。
オバルが、操作盤の上に散らかる紙片の一つを取り上げた。
「今のスピードでいけば、八十分後、しかしおそらくは波のスピードが遅れることを考慮して、九十分辺りだ」
「一時間半か……」
奥歯を噛むように呟くと、ダーナは視線を画面上の白い線に戻した。紙の上に落とした水滴が滲むように、じわじわと一定の調子で右へ右へと動いている。
海門地峡がその基部から徐々に東にスライド、一気に押し出されるようにして崩壊したのは、約四時間前のことになる。それは、ちょうどオバルが、海門地峡の東側の波をマークして、波の振幅が一定値を越えると警報が鳴るように設定した直後のことだった。オバルはほっと一息ついて、そして当人は意識していなかったが、ほんの十分ほど居眠りをした。無理もない、この数日ろくに寝ておらず、不慣れな飛行機を飛ばし、その修理まで行い、なんとか湖宮に上陸した後は、時間に追われるように操舵方法を調べて始動させ、ようやく自動航法に任せればよいというところまで漕ぎ着けたところだったのだ。
オバルがうたた寝をしたその時、海門地峡は、その基部から一斉崩壊を起した。
不運だったのは、設定した警報音が音として外に聞こえなかったことだ。頭から首元にずり落ちたヘッドフォンの中で、それは鳴っていた。そして激しい波が生じたのは地峡の決壊の一時で、その後ドゥルー海の海水は、崩れ去った地峡を、ほとんど波も立てず滑らかにドバス低地に流れ込むようになった。
残念なことに、オバルが波の振幅をマークしたのは、海門地峡の東側のごく狭い範囲だった。そのため、居眠りからオバルが覚めた時には、すでに決壊流の先端に当たる波の壁は、マークした地点の外に移っていた。そして目覚めた後、オバルは次の仕事として、湖宮を水深の浅い場所でも航行させる手段がないか、それを探ることに集中していた。
また建物の外にいる人たちも、地鳴りのような音と共に始まった決壊流に気づくことはなかった。天候のせいである。雪が吹き付け、雹が地面を叩き、風が白波を立て始めた状況で、二百キロも離れた地点の音など気づくはずもない。
結局、決壊流が迫っていることに気づいたのは、ハガーとジャーバラだった。高台に避難している牧人にメッセージを伝えた後、機を大きく旋回させている時に、西方に白い波の壁が動いているのを発見、すぐに操舵室で無線を担当しているマフポップに連絡、マフポップがオバルにそのことを指摘したのだ。
海門地峡から流れ込む膨大な海水が、水の壁となって突き進んでいる。夕刻の決壊流が河川の流路に誘導されるような歪な押し寄せ方だったのに対して、今回はそれほど水の壁が乱れていない。水の壁は時間の経過と共に、着実に低くなってはいるが、いま湖宮の停止している場所が、ひょうたん型をしているドバス低地のほぼ中央、そして水路上であることからして、かなりの流速の水が湖宮を襲うことになる。
直接水が湖宮の上を洗うような危険はないにしても、押し流され、水面下の地形によっては転覆、あるいは岩山などに激突する可能性もある。
マフポップはダーナの指示を待たず、救助に当たっている飛船に、帰還するよう呼びかけていた。
ダーナは腰の通信機を取り上げると、船揚げ場にいるジトパカを呼び出した。そして、決壊流が近づいていることを説明する。ところが吹き付ける風で声が聞き難いのか、ジトパカが何度も聞き返してくる。業を煮やしたダーナは「そちらに向かう」と声を張り上げると、椅子を蹴倒すようにして立ち上がった。
そのダーナに、通信機を耳に当てたまま、マフポップが伝える。
「出ている船、四艘のうち、三艘に連絡が取れました、二艘があと二十分ほどで、百五十人ほどの人を乗せた艀を曳航して帰還します。あと一艘は、今ちょうど波止場に入ったところ。最後の一艘は連絡が取れません」
「どこに出ている船だ」
「盤都東、火炎樹地帯に残されている人たちを救助に行った船で、十分ほど前に、エンジンが不調という連絡を入れてきました」
「送信を続けろ」
言うなりダーナが、紙の上で計算をしているオバルに怒鳴った。
「オバル、画面を外の映像に切り替えてくれ」
正面のスクリーンパネルに、波止場の様子が映し出された。
船揚げ場は、次々と到着する小船や筏でごった返していた。風と波が高くなり、風向きによっては、風に押し返され、湖宮の外縁から波止場になかなか入れない。小型の船には、湖宮の外壁にぶつかって転覆してしまうものもある。水に投げ出されて波間に揺れる人を、ちょうど帰還してきた飛船の連中が引き上げようとしていた。
ダーナは、もう一度、船揚げ場のジトパカを呼び出すと、決壊流が九十分後に襲来すること、二十分後に百五十名の人を乗せた艀が着くことを伝えた。今度はジトパカの声が小さい。慣れない機械に、マイクの位置が口からずれている。
ダーナがそのことを指摘、急くように指示を飛ばす。
「艀の百五十名を収容したら、飛船を引き上げて倉庫に収納。あと一時間で、講堂の外での作業は、いったん終了。波止場で乗陸補助をやる者以外は、全員講堂内に避難。マグから腰の通信機に、波の接近に関する情報を逐一伝える。決壊流の到来二十分前には、湖宮の外縁で見張りをしている者も引き揚げさせてくれ」
息継ぎでもするように緊迫した声を途切らせたダーナに、スクリーンパネルの側面に並んだ小画像が目に留まった。湖宮各所の画像だ。外は、もう完全な闇。その暗闇に灯された篝火が、風で激しく煽られ、零れた明かりで水面に白波が立っているのが分かる。
船揚げ場の画像に目を戻し、ダーナが聞く。
「四艘目から、連絡は」
「駄目です。応答がありません」
「この天候では、照明弾を撃っても、よほど近くにいない限り気がつかないか」
とっさに良い対応策が浮かばない。焦る気持ちを誤魔化すように手近なペンをカツカツと仮面に打ちつけるが、そのペンが手から滑って足元に落ちる。イラつきながらペンを拾い上げたダーナが、ふと視線を隣のマフポップに向けて、その顔が蒼白なことに気づいた。肌に脂汗が浮いている。
「マグと言ったな、お前、顔色が悪いぞ!」
「大丈夫です、いつもの頭痛……、あ、通信が繋がりました」
マフポップが通信機を耳に押し当てながら、小さく安堵の息を漏らした。
ところが最後の飛船は、エンジンは回復したものの、吹きしぶる風と雪で進路を見失っているという。オバルがすぐにレーダーで位置を確認。湖宮から西、五キロのところに、それらしき影が見つかる。
マフポップが声を強めて呼びかけた。
「今、そちらの位置を確認した。湖宮から西北西五キロの位置だ。風と波がある。船首を二十度東に向けて。針路を外れたらすぐに連絡を入れる。とにかく急いで帰還を」
「了解」という声に、マイクを嘗める風の音が被さる。
急速に風が強まっていた。
百五十人の人を乗せた艀が、飛船で曳航されて波止場に入ってきた。ロープを陸側にも渡し、ウインチで強引に船揚げ場に引き寄せる。ところが艀が引き裂かれるように半解、乗っていた人が水に投げ出されてしまう。
決壊流の襲来を聞いた焦りも手伝ってか、騒然とした雰囲気のなか、水に落ちた人を助け上げる作業が続く。その最中にジャーバラを乗せた飛行機が帰ってきた。燃料切れ寸前の帰還だった。直ぐに機体の収納作業に入る。
間断なく強風が吹き付けるようになっていた。低気圧の縁に掛かりつつある。
湖宮を目指してやってくる小船などが、点々と波間に覗く。しかし波に翻弄されてほとんど近づけない。やもすると風に押されて湖宮から離れてしまう。
決壊流が到達するまで、あと四十分。気象状態を映すパネル映像の中で、渦巻き状の雲の端がドバス低地に覆い被さろうとしていた。
席を外して船揚げ場の様子を目で確認してきたダーナが、操舵室に戻ってきた。外套にびっしりと雪が張りついている。
オバルが画像を切り替え、正面のスクリーンパネルに波止場の様子を映す。艀に乗っていた百五十名の収容が、もう一息で終わるところだ。岸壁や船揚げ場横の階段に横たわる人たちを立ち上がらせ、講堂に連れていく作業が続けられている。その間にも馬頭船が一艘、波に翻弄されながら波止場に入ってきた。
マフポップが通信機を握りしめたまま、最後の飛船に呼びかけを続ける。また応答が途絶えたらしい。画面上では、船の針路が北にずれている。
モニターを覗きこんだオバルが言った。
「通信に頼るな。こことの距離はあと七百メートル。照明弾を船に向かって撃とう。その方が確実だ」
「照明弾は?」
振り返ったマフポップに、ダーナが操舵室の外に腕を振る。
「飛行機の中だ。ハガーにやらせる。マグは船への呼びかけを続けろ」
ダーナが機体の収容作業をしている操縦士のハガーを呼び出した。通信機は飛行機を飛ばす際に渡したままだ。画像上で、倉庫から出てきた操縦士のハガーが、腰の通信機を手に取るのが見えた。通信機から波止場の騒然とした音が伝わってくる。
ダーナが、画面の船影を見ながら、ハガーに状況を説明。
「飛船が一艘、針路を失っている。照明弾を湖宮の舳先で撃ってくれ。五分おき、四発あるはずだ。急いでくれ、波が来るまで三十分を切った」
「了解、五分後には最初の一発を撃てると思います」
力強い声が返ってきた。
画面の波止場では、転覆した馬頭船が波に洗われている。岸壁周辺に漂う艀の部材を引っかけたらしい。
岸壁横の篝火が強風で吹き消され、照明がカンテラだけに。いかにも暗い。船の外縁や飛行機用に灯した篝火も、雪まじりの強風に煽られて次々と消えていく。
ダーナはジトパカを呼び出すと、船の燃料用に出してある軽油を、波止場の左、外壁沿いの倉庫に撒いて、火を放てと指示した。作業の照明と、飛船の帰還場所の目印としてだ。
すぐに油が撒かれ火が放たれる。
風が北西から吹きつけているために、火の粉が講堂方向に流れるが、そんなことなど構っていられない。建物に火がついたとしても、あと二十分もすれば、怒涛の波しぶきが消してくれる。
湖宮の先端近くから、照明弾が放たれた。その光が湖宮の斜め上空で煌々とした光を放ちながら、闇の底に落ちていく。
「あっ、船が針路をこちらに向けました」
「あと二十二分」
「照明弾、四分間隔にしろ」
「了解」
すぐに次の照明弾が放たれる。
最後の弾を発射し終わったハガーから連絡が入った。
「見えました船です」
「よし、後は、船揚げ場で待機」
船揚げ場手前の階段を、水から引き上げられた連中が、抱きかかえられるようにして講堂への階段を上がっていく。その船揚げ場の先に、波に翻弄される飛船が見えた。船の上に二十人ほどの人。女や子供の姿もある。
風は湖宮に向かって吹きつけているのだが、水流に押されて、飛船が波止場を行き過ぎてしまう。湖宮外壁に沿って必死に戻ろうとするが、白波をたてて逆巻く波で、波止場の入口にたどりつけない。
「だめだ、あと二十分、このままでは間に合わない」
オバルが悲壮な声を上げた。
画面上では、決壊流の先端が刻々と近づいている。
ダーナが通信機を腰のベルトに差し込み、胸元から銃を取り出した。
「ダーナ、何を!」
「オバル、波が到着する十分前になったら、一分刻みで時間を知らせろ。波の到着五分前になったら、銃を使ってでも作業を中断、全員を講堂に避難させる」
「しかし」
「あの状況で、作業をやっている連中が、船を見捨てて避難するはずがない」
激した声でそう言い放つと、ダーナはマフポップの背中を叩いた。
「マグ、おまえも来い、もう通信は必要ない。船をうまく船揚げ場に突っ込ませたら、子供を抱えて講堂に走れ」
二人はオバルを残し、外に向かって飛び出した。
残り十四分。
その頃波止場では、操縦士のハガーが、重機のリフトに樹油の入ったタンクを積んで倉庫から出てきた。ハガーの後ろにはチョアンの姿。タンクの蓋は取られている。
ジトパカが「どうする気だ」と拳を振る。
「このままでは、波に邪魔されて船が波止場に入れない」
「だから」
「拡声器を構えてろ、上手く行ったら、船に全速力で波止場に突っ込ませるんだ」
そう叫ぶと、ハガーはタンクを乗せた重機を、湖宮の縁に猛然と走らせた。そしてその勢いを借りて、タンクごと重機を逆巻く波の中に突き落とした。
唖然とする人々の前で樹油は水面に広がる。と嘘のようにその一角の白波が消え、波が緩やかなうねりに変わる。粘性のある樹油の原液が、逆巻く波を押さえている。重機から飛び降りたハガーが岸壁の縁で、手を挙げたのが見えた。
ジトパカが我に返るや、拡声器に向かって叫ぶ。
「急げ、全速力で波止場に突っ込め、波が迫ってる」
「突っ込め!」という怒号が、風に逆らうように何度も響く。
岸壁で皆が見守るなか、船が必死にこちらに向かってくる。
あとは時間との勝負、流されていた飛船が、ようやく、ねっとりとした波のうねりの端に船首を乗り入れた。みな船べりにしがみついている。
「あと八分」、オバルの声がダーナの腰の無線機から漏れた。
ダーナは息を切らせて、船揚げ場手前の階段を駆け下りた。まだ船は湖宮の外壁、波止場の入口に取り付いたところだ。
ダーナは胸のポケットを押さえた。ダーナは決心していた。七分を切って船が波止場の入口に入っていない場合は、全員を引き揚げさせるつもりだった。
その七分を切った。
不気味な音が辺りの空気を震わせ始めていた。波が迫っている。
ダーナが皆の背後から時間切れと叫ぼうとした時、歓声が起きた。飛船が湖宮の外壁を曲がり、波止場の内側に姿を見せたのだ。
「やった!」とマフポップが叫んだ。
耳元で「六分」という声が聞こえた。
飛船は息を切らせるように船揚げ場の斜面を目指して、波を掻き分けてくる。ダーナは銃を胸元に戻すと、それを見守った。時として祈るしかない場合もある。
吹きつける風と雪のなか、足元から世界を揺るがすような音が辺りを揺るがし始めた。その音がみるみる大きくなる。
オバルの残り「五分」という声と、物が裂けるような音を立てて、飛船が船揚げ場の斜面に乗り上げるのが同時だった。
ダーナが叫んだ。
「五分で波が来る。荷物など気にするな。とにかく講堂に向けて走れ」
船から這い出すように人が下りる。足元のおぼつかない人たちを、十人ほど残っていた若者や翁たちが、背負い、抱きかかえ、あるいは引きずるようにして、講堂へと走る。
ダーナは最後、船頭のチョアンが船から下りるのを見届けると、「急げ!」と叫んで、自分も走り出した。もう体が震えるほどの空気の振動が頭上を巻っている。
船揚げ場から講堂までは、階段やスロープを合わせて百メートル余り、あとは運が自分に残っていることを信じるほかない。
船頭のチョアンと操縦士のハガーが並んで走っていた。
チョアンが足をもつれさせてつまずく。それをハガーが引っ張り起こす。
顔を歪め荒い息を吐くチョアンに、「運動不足じゃねえのか」とハガーが檄を飛ばす。
「違う、ヤク切れだ!」
怒鳴り返すチョアンの指が激しく震える。必死の思いで立ち上がって走り出したチョアンが、前を行くハガーに叫んだ。
「波が来るのと、俺たちが講堂に飛び込むのと、どっちが早いか賭けよう」
「全財産をすってもいいから、講堂に賭ける」
「残念、俺もそっちだ、残りの指を全部くれてやってもな」
走りながらチョアンは左右二本ずつになった自分の指に目を走らせた。顔が苦しげに歪む。とうに体力の限界を超していた。
ダーナの耳に「残り二分、死ぬなよ」というオバルの声が聞こえた。
走る勢いで、通信機がベルトから外れて後方に転がっていく。
前を行くチョアンが、振り向きざまダーナに向かって何か言ったようだが、もう地響きのような重い音で何も聞き取れない。
波の先触れなのだろうか、足元がゆったりと傾き始めた。
ようやく階段の先に講堂が見えた。到着した人たちが、それぞれ中から引っ張られるようにして扉の内側に姿を消す。人ひとりが入れる隙間を残して開けられた扉の内側から、トンチーたちが急げと手を振る。
先にチョアンが、そしてハガーが、転がるようにその隙間に飛び込んだ。
ダーナも必死の思いで走り、ドアの隙間にたどりつく。後ろを振り向くと、白い波濤らしきものが見えた。しかしそれを確かめる間もなく、ダーナは腕を引っ張られ、中に引きずり込まれた。そしてダーナが入るのを待っていたように、扉が両側から閉ざされる。
直後、体を突き飛ばすような衝撃が、湖宮を、そして講堂に避難した人々を襲った。
次話「停止」




