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星草物語  作者: 東陣正則
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低気圧


     低気圧


 到着した人たちの収容はベコ連の年寄りたちに任せて、ダーナは操舵室に戻った。ドバス低地全域の状況が気になっていた。

 今朝、飛行機でドバス低地に飛来した際、上空から眺めた限りでは、火炎樹の樹上や水面から顔を出した高台に、一定数の人が生き延びていた。操舵室の装置を使って、湖水上に出ている土地に洪水直前の人口分布を重ねれば、ある程度、避難した人々の集中している場所を特定することができる。それに盤都と濠都の二つの都にそれなりの数の人間が残っているのは、疑う余地のないことだ。

 しかし都の塁壁や建物の中で生き延びている人たちよりも、まずは墓丘のように、吹き曝しの場所に取り残されている人の救助が、優先されるべきだろう。

 操舵室のレーダーで水上に出ている土地を確認したら、その主要な地点に日没前までに飛行機を飛ばして、避難民の有無を確かめる。もしまとまった人がいるようであれば、今夜中にでも湖宮で救助に向かう。いつまでも小さな分水路の入り口で留まっているよりも、水深のあるグンバルディエルの本流に移動して、より多くの人を救助することだ。

 あとは操舵室の通信設備のチェック。操舵室には携帯用の小型の通信機ではなく、備え付けの通信設備、それも遠距離通信のできる通信設備があってしかるべき。それを使ってバレイの電信館と連絡を取れないか。現在の海門地峡の状況を知りたい。それに可能なら、ぜひユルツ国の避難先とも連絡を……。

 ダーナが操舵室に入り、考えていたことをオバルに切り出そうとした時、オバルが難しい顔をして振り向いた。指先がモニター画面の一つを指している。

「どうした?」

 画面をのぞき込むダーナに、オバルが言った。

「これは、ここを中心とした、半径一千キロの雲の状態だ」

 衛星通信の電波を中継している衛星が、気象データも送ってきているらしく、西はドゥルー海中東部、東はシフォン洋までを含むかなり広範な地域の雲の状態が、四角い画面に映し出されている。

 ダーナは技術復興院在籍時に気象映像を何度も見ている。その関係で、雲の状態を見れば、その地域がどういう気象下にあるのか大方想像がつく。いま目の前にある雲の状態でいえば、光の柱のある西北に向かうほど分厚い雲の層が広がっている。それは当たり前として、雲が途切れる東の地域でも、場所によっては前線や乱雲が群発的に発生している。通常では考えられないような雲の発生の仕方で、注目すべきは、ドバス低地の南東二百八十キロに渦巻き状の雲が発生していることだ。

 それに気づいたダーナが、すっと目を細めた。いまドゥルー海上に発生している分厚い雲の流れに較べて、小さな雲塊である。だが、くっきりとした渦と雲の濃さは、その渦巻き型の低気圧の強さが、並みではないことを示している。おそらく渦巻きの下では、猛烈な嵐が吹き荒れていることだろう。

 ダーナが探るような声で聞いた。

「この低気圧の動きは」

 オバルは、予想される天気図の時間経過を画面上に映し出した。渦巻き状の雲が、ネズミ花火のように蠢きながら、ドバス低地の中央を縦断していく。

「八時間後には、ドバス低地の南東部が暴風圏に入る」

 ダーナは操作盤に手を当てたまま、じっと画面を凝視していた。比較的乾燥した内陸に位置するユルツ国周辺では、ついぞ見たことのないような雲の渦である。

「こいつが来るというのか」

 ダーナが呻いた。

「この距離だと、そろそろ兆候が出始める頃だろう、風向きも変わり始めていると思う」

 ダーナは想像した。おそらくこの低気圧の暴風圏に入れば、風速五十メートルを超えるブリザードになる。いやもしかしたら暴風雨かもしれない。そんな嵐の中では、とても救助活動などできない。火炎樹の枝に上って何とか生き延びている者も、ひとたまりもなく吹き飛ばされてしまう。先程まで考えていた救助の予定など、全く用を成さなくなる。

 言葉を忘れたようにじっと画面を注視するダーナに、「どうした」とオバルが声をかけた。

「何でもない。神というのは酷いものだなと、そう思っただけだ」

 何かを振り払うように首を振ると、ダーナが聞いた。

「この操舵室の通信設備はどうなっている。もし周辺国との通信が可能なら、低気圧が近づいていることを知らせてやってくれ。もちろん盤都と濠都へもだ」

 それはオバルも考えていた。操舵室にも通信機器は装備されている。あの小さな通信機と同じ衛星通信のシステムだ。ところがそれは、ユルツ国を含めて、今この大陸の各地で使われている古代の衛星通信機とは通信の方式が根本的に違っているようで、それを調整して送受信ができるようにする技術は、オバルにはなかった。

 ダーナは天を仰いだ。

「分かった、後はもうとにかくその低気圧が来るまでに、やれることをやるまでだな」

 自分で自分を納得させるように言うと、ダーナは入ってきた時と同様、急ぎ足で操舵室を出ていった。

 操舵室から拝殿、そして広場へ。上空の雲はどんよりと西に流れている。心持ち大気が湿って暖かく感じるが、まだ嵐になるような兆候は感じられない。だがあの画像で見る限り、確実に低気圧は近づいているはずだ。

 倉庫に入っていた残り三艘の飛船を船揚げ場に運ぶ作業が行われていた。じき五艘の飛船によるピストン輸送が始まる。拡声器を通したジャーバラの声が、倉庫前の階段辺りで響いている。自力で湖宮に漕ぎ着けてきた人たちを、避難所の講堂に案内しているのだ。

 ジャーバラの快活で伸びやかな声を耳にしたダーナは、

「なかなかいい声だ、あの声だけでも、随分湖宮の上が明るくなる」

 小声で言って微笑むと、ダーナはそのまま講堂横を抜けて、後ろの鐘塔に足を向けた。なんとなく高い場所に上ってみたくなったのだ。

 息を切らせて螺旋階段を上り、望眺台に立つ。そして一面の海と化したドバス低地に視線を巡らせた。映像パネルというものは便利だが、あそこに映し出されたものは、あくまで機械で切り取った画像の一部にすぎない。現実というものは、音を耳で聞き、風を肌で受け、風景を自分の目で見て確認しないと、実感が湧かないものだ。

 手すりに沿って望眺台を回り、最後にその低気圧があるという南東方向に目を向けた。

 雲の流れる速さが、少し早く感じられるように思う。手前の雲で遮られて見えないが、水平線の彼方では、分厚い雲の渦がこちらに向かって近づいているのだ。どちらにせよ、あと八時間後には、ここも雲の渦の下に入る。

 猛烈な風が吹き荒れるだろう。そうなったら……、

 風に飛ぶ湿った大粒の雪が仮面に貼りつく。金属でできた仮面は、凍ると触れるのが憚られるほどに冷たくなる。もちろん内側には薄い樹脂製の膜が張ってあり、直接肌に冷気は届かない。だがその樹脂膜が、十年前に熱線を浴びて爛れた皮膚に摩れて痛む。

 ダーナは吹き付けてくる風と雪を右半身の生身の顔に受けながら、なぜか怒りが体の中に込み上げてくるのを感じていた。

 ダーナは水平線の彼方、巨大な低気圧のある方向を、怒りを込めた目で見すえた。

 指導者とは、常に風に抗って立たなければならない。風は時代の波でもあれば、異国との争いの場合もある。『風が強ければ強いほど、先頭に立って杭のように立ちはだかれ』と、亡くなった気性の激しい祖父は言った。

 ユルツ国での自分にとっての敵は、熱床が涸れてエネルギー危機に喘ぐ都の窮状だった。しかしそれは、見えない敵との闘いだったような気がする。時代の大きな流れは、褐炭を産する南部への遷都だった。それが古代の炉が発見されたことで一時棚上げとなり、人々はしがみつくように炉の復活に未来を預けた。

 波崙台地の褐炭の埋蔵量は、都のエネルギー需要量の四十年分である。それが尽きた時、都の人々に行く場所は残っていない。波崙台地の南側は断崖で、その先はドゥルー海だ。ユルツ国の人々は、波崙台地の褐炭を使ってしまえば、後は断崖の向こうに飛び込むしかない。なんとしても、その褐炭に手を付けずに生き残れる方法を見つけ出すのが、次の世代への自分たちの責務だと信じた。

 ユルツ国の人間が、曠野のシクンの民のように生きることができれば、未来を悲観する必要はないのかもしれない。しかしユルツ国の住人の九割を占める霜都の市民に、大地にへばりつくような生き方を望むのは、市民が牛に変身でもしない限り難しい。曠野の地であるがままに風を柳のように生きる生き方、あれはシクンの民が餅を食べることができないという、足枷があって初めてできることだ。

 修業僧にでもならない限り、一般の人間にあの生き方はできない。

 人は欲望の塊なのだ。そしてその欲望の先頭に立つのが政治家だ。欲望の夢を語りながら、前へ前へと突き進んでいく。その結果が、あの光のスポットライトであり、ドゥルー海の氾濫であり、近づきつつある猛烈な低気圧だ。

 それは、ある意味、人がこの星の営みにちょっかいを出したしっぺ返しでもある。

 巨人の足の下にある小判を取ろうとして、巨人の足にトゲを突き刺し、足を上げさせる。小判は取れたが、持ち上げた足で踏み潰されてしまう。子供の頃読んだ童話の主人公のようなものだ。星の営みは、人の営みとは掛け離れたところで存在する。星という巨人にトゲを刺しながら、何度も踏み潰されてきた。それを古代の連中も営々と繰り返したことだろう。

 しかしシクンのように生きられないなら、やはり抗い続けるしかない。欲望を充足させる小判を奪いながら、踏み潰されながら、それでも踏み留まって生きるしかない。たとえこの惑星と心中することになってもだ。

 風に煽られた雪が開いた目の瞳にぶつかり、世界が滲む。それでも閉じない。

 ダーナの耳に、拡声器で拡大されたジャーバラの声が届いた。

 振り返って、眼下、講堂の平たい三角の屋根越し、船揚げ場に目をやる。小船が一艘漕ぎ寄せていた。零れそうなほどに人を乗せている。手を伸ばして水を掻いている人も。一刻も早く陸に上がりたいという思いが、その必死の動作に滲み出ている。

 先に上陸した人たちが手を差し伸べて、後ろの人を助け上げる。

 人は抗っても生きなければならない、絶対に。


 双眼鏡をポケットから取り出すと、ダーナは二都の方向に目を向けた。洪水を生き延びた人たちが、様々な方法で湖宮を目指してやって来るのが目に入った。人によっては沈みかけたヨシ葺きの屋根にしがみついている。湖宮がこの場所に着いてから、ほぼ二時間。忽然と姿を現わした湖宮に救いを求めて、やって来ようとしているのだ。ここに来れば助かると信じて……。

 かなり距離はあるが、四角いものが見えた。双眼鏡の倍率を上げる。

 四角い台の上に人が群がるように乗っている。かなりの大きさの艀だ。火炎樹を燃やしているのか、乗っている人の輪の中から黒い煙が立ち昇っている。二百人は乗っている。艀は動力がないので、切り取った火炎樹の枝で、回りに寄せてくる氷を突き放しながら、少しずつこちらに進もうとしている。

 都と湖宮の間だけでも、まだまだかなりの人が生き延びて助けを求めている。

 湖宮の東側に漕ぎ寄せた小船が見えた。上陸する場所を探して湖宮の側面を見上げている。凍風で喉をやられているのか、叫んでいるのに声が出ていないようだ。

 湖宮の外周はどこも十メートル前後の壁となっている。今のところ船を着けることのできる場所は、西側の船揚げ場の一カ所だけだ。

 ダーナは腰の無線機を取ると、送信ボタンを押してジトパカを呼び出した。

 張りのある声が返ってきた。

「ダーナだ、手すきの者を湖宮の外壁に立たせてくれ。自力でここを目指してくる者たちに、上陸できる場所がどこにあるか、伝えるんだ」

「オーケー、ボス」と、大きな声が返ってきた。

 ジトパカは無線機を使う時、声を張り上げる。無線を使うのが初めてなので、自分の声がどの程度の音量で相手に届くかが分からないらしい。そのため、遠くの者に呼び掛けるように大声を出す。ダーナがそのことを指摘しようとする前に、またジトパカの大きな声が無線から流れ出た。

「ダーナさんや、倉庫を調べて避難者に乾いた布を配布したい。それに炊き出し班を編成したいんだが、いいかね」

「任せる、よろしく頼む」

 ダーナもつられて、声を張り上げた。

 落ち込んでいると聞いていたが、翁も元気を取り戻したようだ。いや滅入りたい気分はあるだろう、だからこそ声を張り上げて、自分を鼓舞しているのかもしれない。低気圧の接近を知って気落ちしていたダーナも、ジトパカの潮風に掠れた大声を聞いているうちに、気力が回復してくるのを感じた。今は、できることをやるしかない。

 避難民への対応は、あの年寄りたちに任せておけばいい。問題はやはりいかに迅速にたくさんの人を回収するかだ。八時間、もし時間がそれだけしかないなら、その中で、一人でも多くの人を救助する。それが今やるべきことだ。

 ダーナは鐘塔の階段を走り下りた。


 命からがら湖宮に辿り着いた人たちが、次々と船揚げ場から上陸してくる。

 船揚げ場では、ベコ連の翁たちが、上陸した者たちの中から元気な者を見繕っては、次々に仕事を与えていた。同時に、船揚げ場の上陸地点に箱が置かれ、武器はここへと書いた板がたてかけられた。中にはすでに鳥撃ちの空気銃が一丁と、ナイフが三本入っている。

 様子を見にきたダーナが「素直に銃器の放棄に応じてくれそうか」と、箱の横に立っているホジチに聞いた。

「これが一番難しい仕事ですな。実はこの年代物の空気銃も、牛の解体用のナイフも、あっしのでさ。こうやって見本でも放り込んでおかないと、誰も供出してくれないような気がしましてね」

「後々のことを考えると、重要なことだ、よろしく頼む」

「了解でさ、ボス」

 どうやら、誰かがボスという言い方を流行らせたようだ。ダーナは苦笑しながらも、手を挙げてそれに答えた。

 タンカに乗せられた人を、トンチーが講堂に運びこむよう指図している。そのトンチーがダーナを見つけて走り寄ってきた。

「ダーナさんですね、講堂のなか、入り口脇の一角を救護所にするからと、シャン先生が伝えておいてくれと言ってました」

 この牧人服を着た中年の女性は、疲れた表情の中にも、ごく健康そうな輝きを目に湛えている。ダーナは安心して尋ねた。

「救助された人たちの状態はどうだ」

「寒さによる衰弱と、凍症にかかっている人が多いことです。墓丘の塹壕に避難していた人でこの状態だと、火炎樹の上で寒さに耐えていた人たちは、一刻を争うことになると思います」

「倉庫に貢朝品の医薬品があるはずだ」

「ええ、チェックしたいのですが、今は傷病人を運ぶので手一杯で……、時間が取れ次第、調べて講堂に運びます」

 手短に言って走り出そうとするトンチーを、ダーナが腕を取って引き止めた。

「シャンの状態はどうだ、熱があるようだったが」

「今は、自分の体どころじゃないっておっしゃってました。一応、細菌の感染を抑える薬を服用しているようですが、どこかで、ちゃんとした手当をしないと、右手がだめになってしまうかもしれません。しかし手術のできる人が……」

 シャンの元助手の婦人が、顔を曇らせた。トンチーはシャンの応急処置をしたので、患部の状態を知っている。ズタズタになった神経や血管、組織の修復は、こんな修羅場ではできない。しかし手当てが遅れて、細菌の感染が骨にでも及べば、手を切断しなければならなくなる怖れもある。

「その手術は、おまえでもできるのか」

 ダーナが真剣な表情でトンチーの目を見た。視線を外すことなくトンチーはダーナを見返すと「誰もいないなら、私がやります。しかし期待はしないで下さい」

 心に決めてあるような口ぶりだった。

「わかった、よろしく頼む。誰かが強引に引導を渡さない限り、シャンは自分よりも患者を優先するだろうからな」

 ダーナは引き止めたことを詫びるように、トンチーに小さく礼をした。

 倉庫の方に走り去るトンチーと入れ違いに、講堂脇の階段を駆け下りてきたジャーバラが、声高にダーナを呼び止めた。自分を探していたのだろう、息が切れている。

「なんだ」

「さっき、上流から流されて来たという牧人のグループが上陸。その人たちの話では、南西部の高台に、一万人近い沸砂系の人たちが取り残されているそうです。足が水に浸かりそうな状態だそうで……。おそらく、門京の螢火杭の周辺でキャンプを張っていた避難民の人たちだと、思うんですけど」

「ここからの距離は」

「直線で七十キロ、ランフール川沿いの高台です」

 とっさに、船揚げ場に入ってきた小船に目がいく。その後ろにはさらに、五〜六艘のヨシ船が沈みかけながらも岸壁に漕ぎ寄せようとしている。

 おそらく湖宮の見える範囲で、移動する船や筏や艀を持った人たちが、一斉にここを目指している。その人たちを見捨てて、湖宮を牧人たちのいる高台に向かわせることはできない。一方で救出が遅れれば、嵐に巻き込まれて全員が風と波に呑まれるだろう。高台に取り残されているという一万人を助けるためには、どこかでここでの救助に見切りをつけ、そちらに向かわなければならない。しかし……、

 眉の間にしわを寄せて考えこんだダーナは、ジャーバラが何か物言いたげな表情をしているのに気づいた。

「なにか腹案があるのか」

 ジャーバラが待ってましたとばかりに、体の後ろに回していた拡声器を取り出した。

「これが使えないかと思うんだけど」

 つまり飛行機を飛ばして、空の上から拡声器で、高台に取り残されている人たちに呼び掛ければどうかというのだ。直ぐに湖宮をその人たちの所に向かわせることができなくても、半日後でもいいから、救助されるということが分かっていれば、それが支えとなって高台の人たちも持ちこたえることができるのではないか。そうジャーバラは自分の考えを説明した。

「その通りだ」

 ダーナは同意を示すようにジャーバラの腕を、しかと握り締めた。

 そしてジャーバラの茶色い瞳を見つめながら考えた。牧人たちに、湖宮という巨大な船のことを、どう言葉で説明すれば良いのかということを……。いや、下手に説明しようとしない方がいいのかもしれない。飛行機を飛ばして救助の意志を伝えにきた、そのことだけでも、波に浚われる不安に戦いている人たちからすれば、救いになるだろう。飛行機で高台に向かう意義はある。

 暴風の圏内に入るまで、あと八時間。湖宮でここから高台に行くのに二時間とすれば、ここに留まれるのは六時間。だがあと三時間もしないうちに、ドバス低地は夜になる。空を覆った雲からして、どこも全くの闇に閉ざされる。そんな条件下で、いったいどれほどのことができるというのか。

 頭の中が否定的になりかける。その気持ちを振り払うように、ダーナが頭をブルブルと振るわせた。今は考えることよりも、実行することの方が大切だ。

 返事を待ってじっと自分を見つめるジャーバラに、ダーナはきっぱりと言った。

「分かった、操縦士のハガーは、いま船を操船している。今度帰ってきたら、一緒に飛行機で飛べ。高台に取り残されている人たちに、六時間後には必ずそちらに救助に向かうと、そう伝えるんだ」

 ジャーバラの顔がパッと明るくなった。

「高台の場所は分かるな」

「もちろん、ここの生まれですから」

「そうだ、誰か牧人を一人乗せていけ。牧人語の呼び掛けを聞けば、それだけでも受け取る側は、勇気づけられるはずだ」

 ジャーバラが、にっこりと笑みを浮かべた。

「任せて下さい、わたし、沸砂語なら少し話せます」

 意外そうに自分を見るダーナに、ジャーバラが明かした。

「いずれ必要になるだろうからって、父にむりやり勉強させられたんです」

「いい親父さんだ、先見の明だ」

 その言葉に、ジャーバラは目を伏せながら頷いた。その仕草を、ダーナはちょうどオバルから掛かってきた無線に気を取られて気づかなかった。

 実は、ジャーバラの父、国務大臣のガヤフは、最初の決壊流の襲来で溺死している。ジャーバラは、その父の遺体を、園丁のホロと古木に乗って漂っている時に目撃した。

 たくさんの死体に混じって父の体が浮いていた。すぐに古木の上に引き上げようと思ったが、父の横に寄り沿うように浮いている女性の遺体を見て気持ちが揺れた。それは父の秘書をしていた女性だった。ジャーバラの母が十一年前に亡くなって以来、その女性が父を支えてくれていたことをジャーバラは知っている。父は自分のことを考えて再婚しなかった。

 父の遺体を古木に引き上げるのはいい、だが同時に秘書の女性もとなると、思いは複雑だ。それに、いつ更なる洪水が襲ってくるやも知れないなか、辛うじて水に浮いている木の上に、遺体を引き上げてどうなるという思いもあった。

 父の遺体を見ていたのは、ほんの三十秒くらいだったろうか。園丁のホロは、父には気づいていないようで、遺体の群れの間にできた水路へと、必死になって古木の先を向けようとしている。

 ジャーバラは決心した。父を秘書の女性とそこに居させてあげることにしたのだ。そして、闇の底、波間に漂いながら遠ざかっていく父に惜別した。

 ジャーバラが身に着けていた飾り物を全て水に投じたのは、その直後だ。

 一時間後、ジャーバラは春香のいる墓丘に引き上げられた。その後、寒さに震えながらも自分は妙に興奮した状態にあった。普段なら、自分はあんな風に人前で歌を歌ったりはしない。とにかく今は何かをやっていなければ、気持ちが壊れてしまいそうだった。それをジャーバラの本来的な性格から来るものだと皆に思わせたのは、ジャーバラが年頃の娘に較べて受けてきた、政治家になるための教育だったかもしれない。少なくともジャーバラは、その時、自分をそう分析していた。


 ジャーバラを乗せた飛行機はすぐに出発することになった。

 飛船を操船できる人物が見つかったので、操縦士のハガーは船を下りて、そのまま飛行機の整備に当たっていたのだ。ダーナはそれを知ると、ジャーバラに課題を与えた。

 高台へ飛ぶ前に、まずこの周辺をフライトして、湖宮に乗船したい人は、あと四時間以内、日没後二時間までに、自力でここに来ること。湖宮は翌朝まで一旦、ほかの地域の人たちの救出に向かい、明朝またここに戻ってくる。そのことを伝えるようにとだ。また、高台の人々への伝言が済み次第、日没前の視界の利く間に、グンバルディエル本流沿いで、生き残っている人の集積している場所がないか、一通り確認してくるようにと。

 現実には、そこまで飛行を続ける余裕はないだろう。しかし、もし低気圧が予定のコースを変えた場合は、夜を撤して救出活動が行える。その時のことを考えての情報収集である。だがその夜間の救出作業も、湖宮の航行域を考えると、残念ながらグンバルディエル本流周辺以外は、救出活動から除外するしかない。

「そりゃなかなか大役だな」

 操縦士のハガーが声をかけると、ジャーバラが真面目な顔で横にいとダーナに聞いた。

「拡声器の電源の予備はあるんですか」

「飛行機の中に匣電の予備がある、それにこれは喉の充電用だ」

 ダーナはポケットから飴を取り出すと、それをジャーバラのポケットに押し込んだ。



次話「調査艇」

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