飛船
飛船
湖宮はグンバルディエルからクルドス分水路に入った地点で停止していた。
オバルはもっと先に進める方法はないかと、操作盤の計器を弄っていたが、操作方法を手動に変えても、分水路方向に進路を指示すると、航行不能の表示が出てしまう。操舵室の映像パネルに墓丘の映像を拡大して映すと、避難している人たちの足元が波で洗われている。いつまでも湖宮を動かすことに拘わっていることはできない。
ダーナが判断を下した。一旦ここを拠点として、救助の飛船を出すことにしたのだ。
そして半刻後。
ダーナは操舵室で画面を注視していた。
操舵室正面の映像パネル、スクリーンパネルに、墓丘に向かう二艘の飛船が大映しになる。飛船は、細身の船の両側に腕を張り出し、その先に浮き木を取り付けた、荷物搬送用の船で、通常の機船と機扇船の中間の船足を持っている。人なら一度に四十人は運ぶことができる。
いま飛船を操船しているのは、船頭のチョアンと操縦士のハガーの二人だが、倉庫には同型のエンジン付きの飛船がさらに三艘ある。墓丘に避難している者の中から飛船の操作ができそうな人物を最初の便で連れて帰り、五艘全てでピストン輸送をすれば、一往復一時間弱として、四時間あれば十分に墓丘に避難している人たちを回収できる。
さらにダーナは、墓丘の五百余名を回収した後、次の段階として、都や周辺の火炎樹の上に取り残されている人々の救出に当たろうと考えていた。ただその作業のためには、この場所からではいかにも距離がある。何とかもう少し先まで湖宮を進めたい。そのことはオバルも分かっていて、墓丘に向かう飛船を目で確認しながらも、せっせと指で盤面のキーを叩いていた。
目の前のモニター画面に、数字やグラフと同時に、周辺水域の水面下の立体画像が映し出される。元の火炎樹農園だったところやヨシの湿原は、水深十メートルの湖となっている。また湖宮がここに至るまで辿ってきたグンバルディエルの河の中心部は、水深六十メートル前後。深い所では百五十から二百メートルもある。川というよりも海であった頃の海底の谷の名残なのだ。
比べて、二つの都を分かつクルドス分水路の水深は平均十八メートル。所々にある深み、水深三十メートル以上のところが、航行可能域として緑に表示される。深さと合わせて、幅が三百七十メートル以上ないと航行可能と表示されない。分水路は航行可能な場所が、点のようにしか分布していなかった。
「難しいか」と、ダーナが指先で仮面をなぞった。
オバルがキーを叩きながら言った。
「普通の船なら、バラスト水の出し入れで船の吃水を上げ下げできる。これだけの船だ、浅くても航行できるような仕掛けがどこかにあるのではと思うが、いかんせん俺には、この船にスクリューがついているのかどうかも分からない。とにかく調べて何か方法がないか探すが、確約はできない」
「分かった、オバルは操舵法を調べるのに専念してくれ。それに下のブロックに入る方法もだ。ヴァーリの意識が戻らない限り、それを調べることができるのは、今のところこの操舵室だけだからな、よろしく頼む」
そう言い置くと、ダーナは身を翻して操舵室を出ていった。
建物の外に出てきたダーナを、春香とウィルタが待っていた。手に紙が握られている。ダーナは、子供たちに施設の見取り図の作成を頼んだ。併せて、中に入ることが可能な扉や入口のチェックもだ。救出した人たちの収容をどうするか、その方針を立てる際の参考にするのだ。ダーナの気持ちとしては、早く湖宮の内部に入り、スポットライトを消す手立てを探りたかった。しかし気だけ焦っても仕方がない。
いま優先してなすべきこと、被災者の救出だ。
ダーナは気合を入れるように、大きく息を吐くと、大股で歩き出した。
建造物はたくさんあるが、一見して入ることのできそうな入り口があるのは、中央の講堂と、講堂に向かって左側、波止場の横に並ぶ方形の倉庫群に限られる。ダーナは二人を連れて、すぐに広場を挟んだ向こう側の講堂に回った。
苔蒸した手すりの間の階段を上ると、入母屋型の屋根を被せた講堂が迫り上がってくる。正面の左右に大きく開け放たれた大扉を潜ると、飛行機が二機並べて駐機できそうな幅の回廊が、奥の天の座と呼ばれるホールに向かって伸びている。
幸いにも講堂内は空調が効いて暖かい。明るい照明に照らされたホールの中央には、晶化した巨大な火炎樹が聳え、その後方、ホール奥には、両側に部屋の並ぶ細い袖廊が二本並んでいる。シャンがジュールと面会したという部屋は、そのどれかだ。
ざっと覗いて外に出る。
ウィルタが、右隣の一回り小さな講堂を指さした。
「隣は鍵が掛かっていたけど、錆付いた錠だったから、壊せば開けられるんじゃないかな」
「よし、覗いてみよう」
言うなり、ダーナが右手の小さな講堂に向かって走り出した。
講堂の扉は閉まっていた。ただし鍵のサイズは大きいが、ウィルタの言うように、いつでも壊せそうな昔ながらの単純な海老錠である。側面にある填め殺しの窓から中を覗くと、埃が積もり、長く使っていなかった気配が漂っている。照明も付いていない。部屋の中につららが下がっていることからして、暖房も入っていないようだ。
それを確認すると、ダーナは中には入らず、次の建物に足を向けた。
ダーナはいくつか建物を見て回ると、念のために後方の奥の院のドームにも足を運んだ。
それは神殿などとは全く異なる異質な建物だった。
先の講堂などの入口は、いざとなれば力任せに叩き壊せそうな扉でできていた。それがドームだけは、入口らしき場所はあるが、扉は全く壁面と同質で、開閉装置らしい小さな操作盤が扉の横に付いているだけだ。
ドームの側面に走り寄った春香が、「ここ」と言って、苔の捲れたところを持ち上げた。ところが壁の窪みは、指一本分ほどのところでピタリと塞がっている。
脇から覗きこんだダーナが「どちらにせよ、このドームに関しては、ヴァーリに意識が戻ってからだな」と腕組みをしたまま言うと、さっと広場に向かって踵を返した。
その後ろを、春香とウィルタが嬉しそうに付いて歩く。春香が聞いた。
「ねっ、ダーナさん、次は何をするんですか」
すぐにダーナから返事が返ってきた。
「一晩凍えながら寒さを耐えていた人たちにとって、暖かい寝床の次に必要なものは何だ」
「温かい食事!」と、二人が声を揃えた。
「ここで、それがあるところは」
二人とも、ダーナのあとを小走りについて歩きながら、考え込んだ。殺風景なところである。見た限りでは、食堂のようなものがあるとも思えない。大体がどちらを向いても、生活感のない、ひやりとした空間だ。
「料理が湯気をたてて並んでいる場所があるはずないだろう。その材料のある場所だ」
「あの、倉庫……」と二人は声を上げ、講堂左の階段下に見える方形の屋根を指した。
「そうだ、数日前に貢朝船が入宮したとシャンが話していた。倉庫には、その際運び込まれた物資が入っているはずだ。収容した人たちにとって、まず必要になるのは水と食料。この湖宮に水と食料がどの程度あるか、それを確認する」
食料と聞いて、春香の腹がギューッと鳴った。明け方に餅粥を一杯食べただけで、もう十時間近く何も口にしていない。それはダーナとウィルタも同じだ。
「倉庫を覗いて、何か口に入るものがないか探そう。こんな空きっ腹では、いい仕事はできん」
二人の子供の歓声が、苔むした階段の上に響いた。
飛船が墓丘の人々に歓声で迎えられ、そして倉庫の中でダーナや春香たちが食料探しに走り回っている頃、オバルが操作盤と格闘する操舵室の隣、控え室では、シャンがヴァーリの肩の出血を止めるための布を取り替えていた。
シャンが自身の額を押さえる。手足の傷のせいでシャン自身も発熱していた。この間の疲れも影響しているかもしれない。目眩と軽い嘔吐感もある。
それでも心配なのは、やはり姉のヴァーリだ。致命傷ではないが、かなり出血をしている。生来体が丈夫でない姉にとっては、相当な負担になっているはずである。シャンは墓丘に向かう船頭のチョアンに、医薬品の入った箱を持ってきてくれるよう頼むのを忘れたことを悔やんでいた。
もっとも自分も無理ができないと思った。特に右手は包帯を取って傷口を確認してみないと分からないが、早く適切な処置をしておかないと、手を失うことにもなりかねない。ただ医薬品があったとしても、左手しか使えない状態では、細かい処置をすることはできない。ましてや手術など問題外。頭の痛いことだった。
包帯でぐるぐる巻きになった手を三角巾で吊るしたまま、シャンは嘆息した。今まで自分が病気やケガをすることなど、考えたこともなかった。
それに右手が使えない状態など……、
「湖宮、動いているの」
疲れと軽い目眩で気分の沈むシャンに、突然ヴァーリが話しかけてきた。
意識を失っていたヴァーリが、うっすらと目を開けていた。
「姉さん、気がついたの、どう気分は?」
ヴァーリは目を閉じると眉間にシワを寄せた。
「だめね、百人の小人が私の頭にロープを巻いて、コルセットを絞るように引っ張っているの」
そう話すと、ヴァーリが再び目を開け、目の前の妹に聞いた。
「あの人はどうなった」
シャンは直ぐには答えず、脈を診るためにヴァーリの手首を取ると、不安気な表情の姉を落ち着かせるように話しかけた。
「ジュールは私たちの番犬と争って、濁流に落ちたわ、それっきり」
「そう……」
消え入りそうな声で姉が答えた。そして少し間を置くと、
「夢の中でダーナの声が聞こえたの。まさか、ダーナもここにいるの?」
「ダーナは今この湖宮の施設を調べているところ。彼女は湖宮を伝説の方舟にしたいみたい。さっき飛船を出したから、じき被災者の人たちが到着することになるでしょう」
「わたしが、施設の案内を……」
起き上がろうとしたヴァーリだが、力が入らないのだろう直ぐに項垂れてしまう。
シャンが姉の額を濡れた布で拭きながら話しかけた。
「いいのよ、ダーナは放っておいても自分でやるわ。それよりユルツ国が今大変な状態らしいの。臨界実験が暴走したのよ。止める手だてをこの湖宮で見つけ出さなければって、さっきダーナが必死の形相で喚いてた。あの様子だと、きっと後で質問責めに遭うと思うわ。とにかく、姉さんは湖宮の関係者の最後の一人なんだから。いまは少しでも眠って、体力を回復しておいて」
ヴァーリが胸から吐き出すような長い息をついた。
「そう、臨界実験が……、でも不思議ね、こんな形で三人が揃うなんて」
不安なのだろう直ぐに何か喋ろうとする姉のヴァーリに、「とにかく容体が安定するまで、寝てて」と、シャンが懇願するように言う。
一瞬口を噤んだ姉だったが、それでも妹の右手に分厚く巻かれた包帯に気づいたのだろう、目を見開くと「どうしたの、その手」と、また口を開いた。
「削られたのよ、戦争は医者だからといって特別扱いしてくれないから」
「大変じゃない、手当はちゃんとしたの」
シャンが軽くヴァーリを睨んだ。脈を取るために握っていたヴァーリの右手を胸の上に戻すと、自分の額を姉の額に触れるほど近づけ、強い口調で言い聞かせた。
「姉さん、これは医者としての忠告。余計なことを考えずに寝ていなさい。ほら動物は自分のことが分かっているから、寝る時はひたすら眠っているでしょ」
シャンが部屋の隅を指さした。
そこに包帯を巻かれてうずくまった白毛のオオカミがいた。
首を曲げてそれを見たヴァーリは、自分よりも三つ年下の妹、シャンに視線を戻すと、
駄々を捏ねるような目で尋ねた。
「一つだけ教えて、私の小鳥は診療所に着いたの」
「大丈夫よ、姉さんのメッセージは、ちゃんと、あの女の子がユルツに届けてくれたわ。でも結果は、さっきも言った通り。残念ながら炉の停止は間に合わなかったみたい。それでも、やれることはやったの。結果は、姉さん言うところの神の思し召し。きっと神様もこれ以上の酷い罰を、私たちに与えたりはしないでしょう。だから姉さんはとにかく安心して眠って、そうしないと私がダーナの手伝いに行けないでしょ」
シャンの諭すような口ぶりに、ヴァーリが少女のようにコクンと頷いた。
「分かったわ。本当に子供の頃から、いつも私の方が、妹のあなたやダーナに叱られてばかりだったものね」
声を出す気力が失せたように、ヴァーリはゆっくりと目を閉じた。
午後三時。
操舵室のスクリーンパネルに、上空を雲に覆われた薄暗い水域が映っていた。その画面の中ほどに、避難民を乗せてこちらに向かってくる二艘の飛船と、砂洲で手を振っている人たちの画像が、枠を作って填め込まれている。外部の映像を映し出すカメラが湖宮の各所に設置されていることに気づいたオバルが、それを分割構成して、中央の映像パネルに挿入したのだ。墓丘を拡大した画像は、角度からして鐘塔の先端辺りに設置されているカメラのものだろう。
「急がないと駄目なようね」
いつの間に来たのか、シャンがオバルの後ろに来て画面を覗き込んでいた。画面の中、墓丘にいる人たちの足元が、波で大きく洗われている。管制室にいると分からないが、風が強まり、波が立っている。
「ヴァーリさんの容体は?」
オバルが逆に聞き返した。
「出血が多かったから、少し血圧が下がっているけど、命に別状はないわ。私が横にいると喋ろうとするから、席を外したの。湖宮のどこかに、薬や医療用の資材があるといいんだけど」
後ろで足音がして、ダーナが大股で操舵室に入ってきた。
オバルの横にシャンがいるのを見て、ダーナが急くように問いかける。
「ヴァーリは、船の内部に入る方法を何か話したか」
シャンが首を振った。
「船の内部と奥の院のドームに入るための暗証コードは、ヴァーリがドームに幽閉された後に変更されたそうよ。自分の持っている情報では、役に立たないって」
ダーナが気落ちしたように脇の椅子に腰を落とした。ダーナは、ヴァーリが目覚めれば、湖宮の内部に入ることができると踏んでいたのだ。
しかし直ぐに気を取り直すと、手にした布袋を二人に差し出す。
「腹ごしらえだ。避難民が到着を始めたら、しばらくはゆっくり物を食べている暇などないだろうからな」
布袋の口から食み出す紐のような捻り餅を見て、オバルが口元を緩めた。
「ありがたい、しかし食べたら眠ってしまいそうだな、この数日ろくに眠っていない」
疲れた声を吐きながらも、オバルは布袋を受け取り、中から捻り餅と飛行水筒を取り出した。食べることよりも喉が乾いていたようで、水筒の栓を回すと、ラッパ飲みに水筒の栓に口をつけた。
口元から水を滴らせるオバルに、「後どのくらいで戻ってくる」とダーナが聞く。
「行きが三十分だったから、帰りの便は、客を目一杯乗せて四十分というところかな。一便に四十人乗せて、乗り降りの時間も入れて、やはり往復で一時間半、この後五艘全部でピストン輸送するとして、やはりまだ三時間はたっぷりかかる」
「間にあうかしら、水嵩が上がっているようだけど」
心配気なシャンに、ダーナが事も無げに言い切った。
「大丈夫、あれは風のせいだ、この二時間、水位は安定している」
「ならいいけど」
責任をダーナに預けるような口調で頷いたシャンが、紐状の捻り餅を口にして顔をほころばせた。
「この捻り餅、美味しいわね」
「湖宮への奉納品、下々が食べているのとは違う。厳選された材料を使っているんだろう」
なるほどと頷きつつ、シャンが食べかけの捻り餅を口元から離す。
「それはそうとダーナ、さっき、あなた、湖宮にユルツを救う手立てを探しに来たって言ってたけど、もし湖宮の内部に入れたとして、どうやってそれを見つけるわけ。ジュールはいなくなったし、姉は専門的なことは何も分からないと思うわ」
指摘されて、ダーナは仮面に掛かった髪をパシリと手で払った。
確かにそうなのだ。ギャロッポに要請されて遷都先を出発した時には、まずはジュールを捕まえて問い糾そうと考えていた。それが出来なければ、湖宮の公師を泣き落としてでも、何か良い策をと。それが、その道が閉ざされた。奈落に突き落とされた気分だ。
とにかく湖宮の内部に入ってみないことには、策も立てようがない。
まあ、不幸中の幸いは、オバルがいたことだが……。
黙ってしまったダーナの心の内を読んだのだろう、シャンが画面に熱い視線を送った。
「墓丘に救い上げた両都の人たちに、良い人材がいればいいけど」
見上げるスクリーンパネルのなかで、飛船は順調にこちらに向かってくる。
ダーナは気を取り直すように顔を上げると、オバルの背を叩いた。
「それはそうとオバル、湖宮の構造について何か新しいことは分かったか」
ダーナに言われるまでもなく、オバルはその作業を進めていた。湖宮に関する基礎的な情報が引き出せないかと、操舵盤の制御装置に向っていた。それが制御装置から引き出せたのは、操舵方法と付随する各種センサーの扱い方くらいで、全体の構造など基本的なことは何も解らない。この数時間、操舵室の機器を扱ってみての感想は、操舵室は単なる船の操船の機能しか持たされていないということだ。
おそらくは、湖宮という巨大な船を司る管制室が、どこか別の場所にある。船の動力機関や推進機関、電力や光伝ケーブルの配線網、あるいは内部の空調などの環境維持装置など、そういった諸機関全ての情報は、そこに集約されているのではないか。
「ここも中央の管制室に繋がっているはずだから、アクセスする方法さえ見つかれば、情報は引き出せると思うんだが……」
オバルが済まなさそうに頭の螺髪を掻いた。
「分かった、時間の許す限り探ってみてくれ」
話している間に、飛船はもう墓丘と湖宮の中程まで戻っていた。
「一番の問題は、起きるとして、いつ海門地峡の大規模な崩壊が起きるかだが……」
言って思案気にダーナが、仮面の左頬を爪先でコツコツと叩く。
「墓丘の連中の回収に三時間、それから周辺の火炎樹の上に避難している者や、都の塁壁に残っている人たちの回収を始めるとして、ここから都までは、快速艇の飛船でも片道五十分はかかる。もし大規模な海門地峡の崩壊が起きて大波が押し寄せてきたら、救助に向かった連中自体が波に巻き込まれてしまう」
気になっていたのだろうダーナがそのことを口にした。
「それは問題ないと思う、これを見てくれ」
オバルが正面のスクリーンパネルの下に並ぶモニター画面の一つを示した。そこに半径四百キロの水域と陸が映し出されている。歯間海峡からドゥルー海の東端までを含む広汎な地域だ。
視線を寄せるダーナの前で、オバルは画面の中の海門地峡にポイントを移動し、キーを打って拡大、さらに横のダイヤルを回した。増幅処理だ。
海門地峡を起点にして、東のドバス低地に波形が扇状に広がり、その波形の断面図が下にグラフとして表示される。海門地峡からドバス低地に入った地点で激しく振幅する波形が、地峡を離れるに従って急激に静まり、後はほとんど平坦なラインとなって、ドバス低地全域に広がっていくのが、よく分かる。
オバルが波形を指でなぞりながら説明する。
「波の振幅をマークしていれば、地峡全体の崩壊も捉えることができる。地峡が崩壊すれば、増幅処理した波形が跳ね上がるからな。それ以前に、危険な波が発生すれば直ぐ分かるように、三メートル以上の波が地峡周辺で発生したら、警報が鳴るように計器を調整してある。ここから海門地峡までは距離にして二百十キロ。崩落による津波のような波がここに到達するには、おそらく昨日の決壊流を参考にして、三時間はかかるだろう。決壊が始まれば、救援活動をしている連中に無線で連絡、すぐに引き上げさせれば、救助の連中が決壊流の巻き添えを食うのは避けられるはずだ。
携帯用の無線機が、そこの入り口横の備品入れに入っていたから……」
言ってオバルが、足元の箱を目で示した。
箱の中に小型の通信機らしきものが十セットほど入っていた。
「使えるのか」と、ダーナが驚いたように箱を覗き込む。
「ユルツ国で使っているものよりも小型だが、衛星通信用のモバイルだ。兇電を拾わない優れもの。ただし、この部屋の中からは使えない。この部屋はあのサイトの管制室と同じで、電波を通さないように作られているらしい」
横から覗きこんだシャンが、何かを思い出して頷いた。診療所にやってきた殺し屋の遺体を部屋の外に運び出す際、シャンは念のために彼らの服を調べた。身元の分かるようなものは入っていなかったが、小型の通信機のような物が入っていた。それが、この箱の中の通信機とそっくりだった。
オバルが使い方をダーナに説明する。基本的にはこの湖宮の中で使用するための物のようで、それぞれの通信機の上部に、三桁の数字が刻印されている。連絡を入れたい通信機の番号をテンキーで押して、発信のボタンを押せば、それで目的の通信機に繋がって双方向通信ができるという、なんともお手軽な通信機だった。
「交信範囲は確認していないが、衛星経由の電波なら、このドバス低地のどこにいても通信可能だろう」
オバルの説明を聞いて、ダーナが大きく首を縦に振った。
「安心した、救助にあたる飛船との連絡をどうするかが、懸案だったんだ」
「それより、決壊流が押し寄せてきたら、この湖宮だって只で済まないんじゃない」
シャンの不安を、オバルが小さく指を振って否定した。
「湖宮なら、少々の波は持ち堪えられる。舷側の高さが水面から十メートルもあるからな。まあ二千年前の巨大隕石によって起こされたような大津波なら話は別だろうが、心配しなくても、ドバス低地は水深十メートルの浅い湖で、海洋じゃない。津波が起きることはない。それよりも猛烈な決壊流で流されて、万越群島の岩山にでも激突する方が怖い」
「もし衝突したら……」
「その場合は、神のみぞ知る結果となるだろう」
重々しく言って、ダーナが画面上を生き物のように動く波形を凝視した。
オバルも視線を画面に移すと「ほんとうにな」と、何かを願うように呟いた。
その三人がパネル画像の中の波形を注視しているところに、春香が飛び込んできた。
「ダーナさんですか。飛船が見えました、受け入れはどうしますか」
波止場で何かあったら知らせるようにと、ダーナは春香に言い渡しておいた。
ダーナに報告しながら、春香は正面のスクリーンパネルに大映しになっている飛船に目を止めた。飛船に乗っている避難民の人たちが、眼前に近づいてくる湖宮をまじろぎもせずに見ている。
ダーナが箱の中の通信機を一つ取り上げ、「分かった、そちらに向かおうと思っていたところだ」と言って、スイッチを入れた通信機を春香にポイと投げて寄越した。そして自分も別の一つを手にすると、春香に渡した通信機の番号を手早く押す。
が春香の手の中の通信機が鳴らない。首を捻るダーナに、オバルが指摘した。
「言っただろ、この施設内は電波を通さないようにできている」
「しかしこの通信機から電波が出ているなら、通信機から通信機に直接電波が飛ぶだろう」
オバルが肩を竦めながら首を振った。
「衛星に発信する電波と、中継用の衛星から相手に向かって発信される電波は、周波数が変えてある、当然だろ」
なるほどとダーナが頷く。とその時、ダーナの手にした通信機が、着信を告げるブザーを鳴らした。驚いたダーナが、通信機を落としそうになる。
持ち直して受信用のスイッチを押すと、春香の声が飛び込んできた。
「ダーナさん、設定モードを、館内通話にすれば電波を受けられますよ」
どうやら電波を通さない操舵室から外部に通信を行うために、操舵室の中に通信機と衛星を中継する中継用の送受信機が設置されていたようだ。
「さすがは、モバイル世紀の申し子だな」とダーナが感心したように笑みを零した。
そして箱の中の通信機を四個ほど鷲掴みにすると、「これから波止場に向かう、聞こえるか、どーぞ」と、再度通信機に向かって呼びかけた。
春香が握り締めた通信機に向かって「了解、ボス」と返した。
逆ヨの字型の波止場の岸壁に、船を陸揚げするための斜面がある。その船揚げ場の斜面で、ダーナたちは近づいてくる船を見守っていた。接岸用の岸壁が高すぎるため、船揚げ場の斜面に直接、船を乗り入れさせることにしたのだ。
シャンは微熱が続いていたが、ケガの右手を三角巾で吊るし、使える左腕で杖代わりの棒をついて斜面に立っていた。自分が墓丘への避難を呼び掛けたのだ。洪水と凍風に耐えて生き延びた人たちを、何としてもここで迎えたかった。
波に揺られながら近づいてくる飛船を見ながら、シャンが仮面の妹に声をかけた。
「これから到着する人たちの大半は、中立の立場のベコス地区の住人で、諍いの恐れはない。でもその後、火炎樹の上に取り残された人たちや、都の住人まで助けるとなると、問題が起きることを心しておかなければならないわよ」
シャンに言われなくとも、ダーナもそのことは気に留めていた。二都の連中は、昨日まで殺し合いをやっていたのだ。それに塁壁の内側の住人と外側の住人、窮民街の住人と新たな避難民、南の牧人と北の民、様々な対立が今回の戦争で一気に深刻化している。救出された後に、湖宮の上で対立がぶり返すことは大いに有りうることだ。
同じ歳の姉の助言に、ダーナが率直に考えていたことを口にした。
「頭の痛い問題だ。この緊急時、とてもそこまでは対応しきれない。とにかく当面は、意見の異なる連中も同居させるしかない。それより問題は、避難民全体の主導権を誰に取らせるかだ。両都以外の者に取らせた方がいいのは分かっているが、それに適役の人物がいるかどうか、できれば中立の立場の者がいい」
「私は無理よ、私は北寄りの医者ということで、牧人たちに疎まれているから」
シャンが予防線を張るように言った。
「分かっている、それにその体だ、無理はできないだろう。姉さんは医業に専念してくれ。おそらく腐るほど治療を必要とする連中が乗り込んで来るだろうからな」
そう言って黙りこんだダーナの向こう水際では、春香とウィルタが旗を振って、波止場に入ろうとする船に合図を送っている。
ダーナが口を開いた。
「まあ、こういう時は考え過ぎても上手く行かないものだ。要はこの湖宮に誰が上陸して来るかで、自ずと決まることになる。どの道、誰が主導権を取ろうが揉め事は起きる。それはその都度、起きてから対処するしかない」
ダーナの政治家らしい腰の座った口ぶりに、シャンが微笑んだ。
「揉め事の仲裁は、あなたの得意分野よね。私は全権を委任しておくわ」
シャンの言葉は、言外にイニシアチブを取るのはあなたじゃないのというニュアンスを含んでいる。ダーナはそれには答えず、船から投げられたロープを子供たちが引くのを手伝いに、船揚げ場の斜面を下りていった。
三時ちょうど、先陣を切って、チョアンの乗る飛船が、無事に墓丘から避難民の第一陣を乗せて帰着した。
これから続々と湖宮に上陸してくる避難民の暫定的なリーダーとして、ダーナはベコス地区の年寄りたちを考えていた。この低地帯生え抜きの面々で、かつ貧民層のご老体となれば、敵も少なく反発も起き難いはず。だから最初の便で、その年寄り、特にベコ連の代表格の垂れ瘤の四翁を連れて来るようにと、船頭と操縦士に頼んでおいた。とりわけ喉袋の翁はだ。シャンから聞いた限りにおいて、墓丘に避難している人物の中では、その喉袋のジトパカ翁が人の束ね役として最適と感じた。
ただ個人にリーダーを任せると負担が大きい。かつ不満や反発を生みやすい。そういう意味では、年寄りたち数人による共同指導体制にするのが無難だろう。その喉に垂れ瘤のある翁は、土竜の件で気落ちしているというが、話通りの人物であれば、責任ある仕事を任せれば、逆に立ち直って発奮するはずだ。
あとは船のエンジンを扱える者がいれば、その者を優先的にピックアップ。また昨夜の経緯を聞いて、バドゥーナ国の国務大臣の子息だという元気のいい娘も連れて来るようにと言っておいた。ダーナはその娘も使えると考えた。
子供のすることは角が立ち難い。それが敵対する相手方の子供であってもだ。女の子であれば尚更である。それにこの寒さに凍える状況下、子供が元気に走り回っているだけでも、人は元気づけられる。
指令は垂れ瘤の四翁が、実行部隊はベコス地区の若衆組の青年たちが、そしてその間を伝令役としてマスコットの女の子が走り回る。そういう当面の人材配置をダーナは考えていた。
オバルからダーナの胸ポケットの通信機に連絡が入った。小船が一艘こちらに向かっているという。乗っている人は八名、服装からして北部系の避難民だろうという。
通信機のスイッチを切りながらダーナは思った。こちらから救出に向かうだけでなく、水上を移動する手だてのつく者たちは、向こうからこちらにやってくる。その中には、盤都の者も、濠都の者もいるに違いない。先に湖宮に上陸し、湖宮に身内がいる自分が表に立つことは、ある意味自然な成り行きである。だが自分は、濠都を焼き払った兵器を提供した国の中心にいた人物。おまけにこの洪水の危機を引き起こした原因を作った計画の責任者だ。そのことからすれば、自分は表に出ないようにするのが賢明だろう。
やるべきことの方向性だけを翁たちに伝えて、あとは任せる。
それから、死体の転がっていた祭壇のある拝殿は封鎖、避難民は最も広い講堂に一括して収容。この船が古代科学の塊のような船であることは、しばらくは伏せておく。あくまでも聖地、神の座としての船を装うのだ。神の膝の上では、いがみ合いも起こし難いはずだ。
まだまだ整理しておかなければならない問題はある。だがもう避難民たちは上陸を始めている。あとはその都度、頭を捻るしかない。
患者を積んできたのか、衣服を繋げたタンカに乗せられた人が降ろされた。傍らにはシャンの元助手のトンチーが付き添っている。シャンは講堂に運ぶよう階段の上を指すと、足を引きずりながらタンカの後ろに続いた。
疲れた表情のなかにも安堵の表情を浮かべた人たちが、次々と湖宮に下り立つ。少し遅れて、操縦士のハガーの操船する船も帰着。一晩を必死で寒さと闘っていた人々は、ほとんどが船揚げ場に上陸すると、気が抜けたように座り込んでしまう。
上陸した人の中から、春香が特徴のある垂れ瘤の四翁と、少女二人を案内して、ダーナの方に向かってきた。ダーナには、どちらがシャンの助手の少女であるか直ぐに分かった。ダーナの方から歩み寄ると、烏のように黒光りする目を持った少女の手を握り締めた。
「おまえの先生は、患者と共に上の講堂に上がったところだ。助手が必要だろう、行ってあげなさい」
ダーナは、アヌィをシャンのいる講堂に案内するよう、春香に目で合図した。
春香は「了解、ボス」と元気に返事をすると、アヌィを連れて足早にその場を離れた。
そのアヌィの後ろに、垂れ瘤の三人の翁と、紅一点のグランダがいた。
ダーナは、四人に、これまでの経緯と今の段階で分かっている湖宮の施設の概要を手短に説明、今後の避難民の受け入れについて自分の考えを述べた。お願いしたい役割もである。おおむね四人は頷いたが、最年長の鉄火鼻のガビが注文を付けた。
「仕切り役をわしらがやるというのは、それでいいが、しかし、いざという時には、お前さんに出てきて欲しい。窮民街の連中だけなら、わしらで何とかなると思うが、都のお偉いさんや、銃を降りかざすような輩が乗り込んできた日には、わしらではとても対応しきれんと思うでな」
ダーナは一瞬目を閉じたが、「分かった、いざというときは私が矢表に立とう」と、はっきり約束した。
「とにかく、ここに逃れてきた人たちは無条件に受け入れる。ただし武器の持ち入れだけは許さない。曲がりなりにも、殺し合いをしていた当事者たちが同席することになるのだからな。もし銃器の放棄に従わない者は、湖宮への入宮を拒否。どうしてもという輩がいたら、ここの公師がそれを入宮のただ一つの条件にしていると伝えよう」
ダーナのその話を聞いて、四人が辺りをきょろきょろと見まわす。
グランダが、潮風で掠れていつも以上にハスキーになった声で、「そういえば、湖宮の方々は」と聞いた。
ダーナは軽く額を掻くと、「うむ、事情があってな、湖宮の関係者は全員、地下の祈祷所にいらっしゃる。地下で今回の災厄が無事過ぎ去ることを、祈っているということだ」
言って四人に目配せを送ると、「上陸した人たちには、そう説明してくれ。詳細は時宜を見て明らかにする」と、やや苦しげな声を吐いた。
四人も何か事情があるのだろうと察して、それ以上は追求しなかった。
ダーナは真剣な眼差しで三翁とグランダを見やると、「もし銃の放棄に従わない者、聖者の言に異を唱える者がいたら、私を呼んでくれ、対応する」と、繰り返した。
ダーナの決意に、四人は互いに顔を見合わせると、ダーナに向かって包手の礼を取り、「分かった、お引き受けしよう」と、深々と腰を折った。その声が何ともハモる。
声が上手く重なり合ったことを嬉しそうにしている四人の年寄りたちの後ろで、ジャーバラが「わたしは、不平不満の緩衝役かな」と、愉快そう体を揺すった。
子供としてはやや老成した感のあるジャーバラに、ダーナは「呑込みの早いお嬢さんだな。そういう訳だ。可愛いお嬢さんが武器を渡してとお願いすれば、むくつけき男たちも反対しないだろう。それに緩衝役だけではない、皆を元気づけるのも大切な仕事だ。大役だが、よろしく頼む」
大人に対するようにダーナが包手の礼をジャーバラに返すと、三翁とグランダが笑って言った。
「この娘さんなら大丈夫じゃよ、わしらよりも上手くやるよ」
「そんな、あんまり期待しないでよ、わたし、プレッシャーに弱いんだから」
言葉で尻込みしつつ体は前のめり。目を輝かせたジャーバラが「手始めは、何からやればいいの」と、嬉しそうに聞く。
「手始めはこれだな」と、ダーナが手にしていた布袋から何やら取り出した。拡声器、トランスメガホンである。飛行機の上から地上に向かって呼び掛けることがあるかもしれないと、わざわざユルツの遷都先から持参したものだ。
「使ったことはあるか」
ジャーバラも、それから翁たちも首を振る。
「長丁場になる可能性も大いにある。声を張り上げていたのでは、とても持たない。使い方は簡単、こう」
そうダーナが説明しようとするや、ジャーバラが拡声器に手を伸ばし、スイッチを入れて「アーッ」と声を出した。さらに声を出しながら、脇に付いているダイヤルを回す。
「アーッ」という声が、ダイアルの回転に合わせて大きくなったり小さくなったりする。側面のダイヤルは音量調節の摘みだ。下船したまま座りこんでいた連中が、突然の音に何事かとこちらに顔を向ける。
ジャーバラは、そのまま船揚げ場に拡声器を向けて、「ようこそ湖宮へ。すぐに避難所に案内しますから、今しばらく、そこでお待ちください」と、発生練習のように声を出すと、ダーナの方を向いて「こんな感じかな」と、にっこり微笑んだ。
ダーナが指でVサインを作った。
翁とグランダが「これだと年寄りは楽ができそうだな」と、手を叩いて笑った。
次話「低気圧」