砲隊鏡
砲隊鏡
オバルたちがバンザイ機で墓丘を後にして四時間半が経過。
墓丘に残された面々は、見張りの者を除けば、全員が吹きつける凍風を避けるように塹壕の底で身を屈めていた。見張り穴もそれは同じで、避難した当初は見栄を張るように穴から顔を覗かせ、周囲を見渡していたベコ連の年寄りたちも、今は完全に足を抱えてうずくまっている。そんな見張り穴の東の端に、小さな筒のような物が二本突き出ている。
見張りから戻ってきたジーボが、その筒に向かって声をかけた。
「何か、見えますか」
「いや、まだ何も……」
寒さで口元が痺れたような声が、見張り穴から返ってきた。声の主はマフポップ。
その横にジーボは滑り込んだ。
見張り穴の中では、毛布を引っ被ったマフポップが、三脚の上に乗せた砲隊鏡を覗き込んでいた。V字型をした双眼鏡のような砲隊鏡は、目袋のホジチが以前濠都の警邏隊駐屯地近くの廃物置場で拾ったものだ。もっとも、それはホジチ当人の弁で、実際はこっそり失敬してきたというのが本当らしい。水鳥猟をするホジチにとって、砲隊鏡は宝のようなもので、この火急の避難行にもわが身の分身のように帯同していた。
その砲隊鏡、レンズの入った二本の筒が見張りの穴から覗く様子は、泥の中から突き出た蟹の目にそっくり。凍風を避けて外を見張るには好都合で、マフポップは、ホジチ翁から渡された砲隊鏡で、湖宮のある東南東の方向を見張っていた。
接眼レンズから両の目を離すと、マフポップは耳に当てたヘッドフォンを手で押さえた。兇音の中にオバルからの通信音が聞こえたような気がしたのだ。
湖宮に向かったオバルと墓丘に残った人たちとの連絡は、マフポップが風車小屋から持ち出した電鍵通信の機材で行うことにした。
一式しかない機材を二つに分け、湖宮に向かうオバルが送信機を、墓丘側のマフポップが受信機を持つ。双方向の通信はできないが仕方ない。電鍵の信号符牒を知らないオバルのために、例の通信官の若者が、最低限必要な連絡事項の符牒を作成、オバルに手渡した。
受信は当初マフポップではなく、このバレイの通信官の若者が担当する予定だった。それが実際に墓丘上で送受信を行ってみると、通信官の若者では、混信する兇電で五分とヘッドフォンを耳に当てていられない。結局お鉢はマフポップに回ることになった。
バンザイ機が墓丘を飛び立つと、マフポップは受信機から引いたヘッドフォンを耳に当て、砲隊鏡を覗きこみながら、オバルからの送信を待つことに。
そしてオバルたちが出発して一時間半、八時ちょうどに通信が届く。
トンツー信号の内容は、「エンジン付きの荷船の借り出しに成功、これから墓丘に向けて出港する」というものだった。信号音は打ち合わせの通り、数秒の間を置いて三度、兇音の渦の中で繰り返された。
『船の借り出しに成功』の一報を聞いて、墓丘の一同は安堵の息をついた。
ところが、最初の通信から三時間が経過したのに、一向に次の連絡が入らない。ヘッドフォンは耳に付けたままなので、聞き漏らすことはないと思うが、余りに連絡が入らないので、マフポップを含め見張り穴の面々に不安の芽がもたげてきた。何か不測の事態でも起きたのではないか。エンジン付きの荷船なら、出航の準備を含め、四時間もあればここに戻ってこれるはず。水路を辿るのではなく、一面が湖と化したこの状態なら、セリ・マフブ山から真っ直ぐここを目指すことができるからだ。
バンザイ機が墓丘を飛び立ったのが六時半で、今は十一時。三時間前に湖宮を出発したとすれば、もう水平線に船影くらいは見えてもいいと思うのだが。レンズの中に見えるものといえば、流された火炎樹の幹が水鳥の巣のように寄り集まってできた塚と、水面に浮かぶ塵や浮氷ばかりだ。
もしかすると、昨夜のゴーダムの調査艇のように、スクリューに何か引っかけ、途中で運航不能にでもなったのだろうか。しかしそれならそれで、遅れると連絡の一つでも送ってきそうなものだが……。
マフポップは自分が不安そうな顔をすると、それが他の人たちにも伝わると考え、我慢して、じっとセリ・マフブ山系方向の水平線を睨んでいた。ところが砲隊鏡のレンズを見つめ過ぎたせいで、頭痛が酷くなっていた。
薬瓶を取り出し中の錠剤を口に放り込む。頭痛用の鎮痛剤である。
春香が盤都からユルツ国に飛び立った時には瓶の縁まで入っていた錠剤が、すでに半分。頭痛を振り払うようにブルブルと頭を振ると、マフポップは頭痛と共に数日前から続くようになった胃痛に、顔を歪めた。
正午、バンザイ機が墓丘を飛び立ってから五時間半。
この間、何度雹が体を叩き、雪が吹きしぶったことか。みな凍えて声を出す気力もない。海からの凍風は、塹壕の中で身を縮めていても、骨の髄まで体を凍らせる。そしてなにより問題は水嵩だった。半刻ほど前から、それまで一進一退だった水面が急に上昇を始め、あれよという間に塹壕に水が浸入を始めた。追われるように塹壕から出て、墓丘の一番高いところで身を寄せ合い、吹きつける飛沫と風に耐える。
万が一、オバルたちが戻って来ないことを考え、ジャーバラに桝船で盤都に救援を要請しに行ってもらうことを、ベコ連の年寄りたちが真剣に検討し始めた。ただ盤都や濠都の方向に目を向けても、小船や馬頭船は見かけるものの、荷船などの中型の船は全く見当たらない。ほとんどの船は、沈むか流されてしまったのだ。だとしたら、たとえ盤都が救助の手を差し伸べてくれることになっても、墓丘からは簡単に脱出できない。
不安が募るなか、真綿で首を締めるように、じわじわと水位が上がり続ける。
とにかくなんでもいいから、早く救助の船に来てもらいたい。そう思ってマフポップは、頭痛と胃の痛みに耐えながら、祈るような気持ちで砲隊鏡を覗き込んだ。
そしてその頃、
湖宮は、時速三十キロの速さで、今は水面下となった大河グンバルディエルの流路を遡っていた。危機一髪で酸欠から助け出された後、オバルはすぐに湖宮という船の操舵法を調べた。それは何とも単純なものだった。基本的には、ファロスサイトの施設の各種装置類や、自動航法のできるバンザイ機と同じだ。
管制室のパネルに映し出された周辺地域の三次元映像に目的地を入力すれば、あとは湖宮が勝手に安全な水路を探りながら進んでいく。必要とあらば、ボタン一つで手動に戻すこともできる。全ては操作盤の前の小さなキーボード一つでやれることで、魔鏡帳を扱い馴れたオバルにとっては、取り立てて難しい作業ではなかった。一通り操舵法を確認すると、オバルは直ぐに湖宮を墓丘に向けて発進させた。
自分たちの帰りを待っている人たちのことを考えれば、一刻も早く墓丘に到着したい。ところが湖宮の運航の速さは、自動手動に限らず、時速三十キロ以上にはならなかった。浅い水域での航行は、それ以上のスピードでは安全航行に難ありと、機械が判断しているようだ。確かに、このような巨大な船が座礁したら、復元することは絶対にできない。こちらは目的地を指定するだけで、後は機械に任せることが一番確実かつ迅速に目的地に到着する方法と判断して、オバルは操舵室の計器と映像で不測の事態が起きないかと、そのことだけを監視することにした。
その計器を睨むオバルの横、椅子の上に、電鍵通信の送信機が置いてある。
朝八時の最初の送信以降、墓丘宛には何も連絡を入れていない。オバルもそのことを気にかけていた。ただ通信官の若者の作成してくれた信号音の符牒だけでは、湖宮で墓丘に向かっているという状況を上手く説明できない。
オバルは、墓丘の皆に悪いとは思いつつ、今は一刻も早く湖宮を墓丘に差し向けることに専念すべきと考え、墓丘への連絡は頭から外すことにした。
一方、ダーナは湖宮を動かすことが可能だと分かると、操船はオバルに任せて、講堂後ろの鐘塔に上がった。湖宮の全体像を把握するためだ。
ダーナは波崙台地の避難所から、遠路このドバスの地に駆けつけた。
ドルー海上を飛びつつ、眼下の海面に浮かぶ氷が一斉に地峡方向に流れていくのを見て、すでに海門地峡が決壊、ドバス低地が洪水に見舞われていることは予想していた。しかし、まさかこのように水没した湖のような状態になっているとは。
いやそれよりも、信じられなかったのは、湖宮が島ではなく水上を移動する船であったことだ。おまけに、湖宮の住人は全て殺害され、犯人のジュールは、水に沈んで行方知れず。自分は、天のスポットライトを消すカギが湖宮にあるのではと、一縷の望みをかけて、遷都先の混乱を抜け出してきたのだ。それが……。
この状態で、どうやってそのカギを探し出せば良いのか。
ダーナの脳裏に、自身がドバス低地に赴くに至った経緯がよぎった。
オバルと春香がバンザイ機で遷都先を離れた後も、波崙台地の遷都先には避難民が到着し続けた。天変地異ともいえる異常な現象に、ユルツ国以外の住人が安全な地を求めて、光の照射圏外にある波崙台地を目指した結果である。あっという間に遷都先は避難民で膨れ上がった。遷都先の施設周辺の空き地が、次々とテントで埋め尽くされていく。
集まってきたドルー海北岸の住人は、誰もが、今回の異常事態の原因が、目の前にそびえる天の光にあり、連邦の盟主たるユルツ国が進めていたファロス計画に起因していることを知っている。十年前の惨事に続いて、また今回もかという厳しい目でユルツ国を見る。当然のこと、ユルツ国に救済と補償を求め、被害者として避難所でもユルツ国市民と同じ待遇を要求してきた。
しかし遷都先の施設は限られ、配給の物資も自国民に対してさえ不足している状態である。他国の被災者に対して責任は感じても、ない袖は振れない。やがて避難してきた連邦住民の不満が、ユルツ国の政府関係者に、そして市民に向けられるようになった。
遷都先は大混乱に陥る。
騒然とした状況のなか、ファロス計画の責任者、大臣のズロボダは、家族を伴い密かに遷都先から脱出しようとしたところを、他国からの避難民に囲まれ撲殺された。バハリ統首に続いて補佐官のダーナの父も、前回の惨事で被災し何の補償もなされなかった他国の労働者グループによって、吊るし上げのうえ、ドルー海側の斜面から海に突き落とされた。そのとばっちりを受ける形で、反対派の中心人物の一人、ギャロップの兄も重傷を負ってしまう。
このままでは遷都先の政府は瓦解、暴徒の波に呑まれる。そう見て取った警邏隊の総監が、政府の実権を簒奪、力での平定に乗り出した。閣僚を含め、政府要人の身柄を拘束すると同時に、他国からの避難民も、ユルツ国民と同等に処遇すると宣言した。
これで一旦は暴徒も振り上げた拳を下ろした。
が、今後のことを考えれば予断を許さない状況であることに変りはない。天のスポットライトは益々その輝きを強め、気象の擾乱による嵐は、次々とドゥルー海北岸の人々を破滅の縁に追いやろうとしている。それに、他国の民を同等に扱うとなれば、それが呼び水となって、更なる遷都先への人の流入は招くのは明らかだ。そして繰り返すが、脹らむ避難民の数に対して配給可能な物資は限られる。
緊急時の、それも様々な立場、意見、出自の人々が混在するなかでの方策は難しい。
警邏隊の総監が執った策は、他国の避難民の懐柔には功を奏したが、自分たちの居場所や配給物資が奪われることを恐れるユルツ国民に、警邏隊に対する反目を強めさせた。そしてお定まりのように、警邏隊の内部が政策の方針をめぐって分裂する。
警察機能が混乱すれば、そこにあるのは弱肉強食の地獄絵である。ユルツ国民と避難してきた他国民の間、それに他国民同士でも、その力関係によって、配給物資の奪い合いが始まる。遷都先は益々その混迷の度を深めることに。
この危機的な状況のなか、ファロス計画の関係者は、倉庫の奥の一室に閉じ込められていた。トイレに行くときも見張りがつく。そのトイレから出てきたダーナを、銃を手にした警邏隊員が呼び止め、廊下奥の別室に連行する。
物陰からギャロッポが姿を見せた。
評議員は全員、警邏隊の拘束下にある。自由に動けるのは、ごく一部、警邏隊関連の仕事を任されている者だけだ。それで言えば、褐炭事業の専門家のギャロップは、警邏隊の燃料部門に組み入れられたのだろう。こき使われている様子が、そのくたびれた表情から読み取れる。もっともダーナ自身も、目が落ち窪み、やつれた果てた顔をしている。
ギャロッポが辺りの様子を窺いながら、手にしたカギをダーナに押し付けた。
「新しい任務だ」
「裁判を受ける身の私に、何を」
訝るダーナに、ギャロップが急くように説明する。
カギは、飛行機のキー。つまり今すぐドバス低地の湖宮に飛んで、質量転換炉の稼動を止める手だてを見つけてきてくれというのだ。このままでは早晩、遷都先は阿鼻叫喚の地に変わる。辛うじて暴動を押さえ込んでいる警邏隊でさえ、内部では意見が四分五裂、隊の中には倉庫の食料を強奪して、スポットライトから遠く離れた地に移動しようという動きも出ている。避難してきた人たちを見捨ててだ。
今や遷都先は無法地帯といってもよい。
つまるところ、全ての問題の根幹は、あの天のスポットライトにある。あの光を消さない限り、この地に平安はない。もし天の照明を消す手立てがあるとしたら、それは湖宮しかない。だから、ダーナに、その手立てを湖宮で見つけてきて欲しいというのだ。
もちろん、一刻も早くだ。
ダーナが不思議そうに聞いた。
「よくぞ警邏隊の頑固頭が、戦犯のような私に仕事を依頼するつもりになったな」
ギャロッポがダーナの声を手で遮ると、首を振った。
「違う、これはオレの一存だ。正式な手続きを踏んでいたのでは間に合わない。それにこのまま行けば、お前を初め、計画の中心にいた連中は、暴徒や、責任を追及する都の連中を宥めるための生贄にされる。少なくとも今の総監は、その腹づもりだ」
ダーナが、仮面の下から、鋭利な視線をギャロッポに当てた。
警邏隊が政府の実権を掌握して丸二日。幽閉状態に置かれたファロス計画の主たる関係者は、全く情報から隔離された状態にある。ダーナは知らなかったが、すでにファロス計画の関係者は、全員が有罪の確定を受けていた。欠席裁判である。
それは警邏隊総監の一存だったという。
警邏隊の名があれば、国民を御すのはまだ可能。しかし流れ込む他国の連中、それもファロス計画の巻き添えで難民と化した連中を宥め治めるのは、至難の技だ。武力をもってすれば逆に怒りを助長する。そこでこちらも惨事の責任を痛感、自ら血を流す様子を演出して、反発する相手を懐柔しようというのだ。それを計画に関わった重鎮たちの処刑で行うつもりだ。全うな政治家ならあり得ない乱暴な人心操作だった。
ダーナが怒りの表情のあと、苦悶に顔を歪めた。
「この依頼を受ければ、私が遷都先を逃げ出す形になる」
「ああ、お前がいなくなれば、お前の一族に責が及ぶだろう。それは分かっている。しかし、いいか、ユルツ国の住人だけじゃない、この地の全ての住人の命運がかかってるんだ。このままいけば、物資の奪い合いで殺し合うか、光で焼き殺されるか、洪水でドルー海に押し流されるか、そのどれかだ。この地で踏み留まり生き残るには、あのスポットライト、質量転換炉を停めるしかない。そして今のところ、その可能性は湖宮にしかない。それは亡くなる前に、博士が遺言のように強く言い残した。俺もそう思う。そしてだ。湖宮に足を運んでその仕事をやれるのは、お前しかいない。湖宮に親族がいて、質量転換炉にも精通し、更には交渉力も兼ね備えた人物がな」
「しかし、炉を停める術といっても、私は技術面に関しては素人だ」
「ジャブハにも一緒に行ってもらおうと思ったが、悔しいかな行方知れずだ。分かるだろう、俺に事をやり遂げる手腕があれば、俺が行く。しかし知識があろうが無かろうが、これはどう見てもお前の仕事なんだ。頼む」
ギャロッポがダーナの手を引き寄せると、その手にヴィット家の紋章の入った議員証のバッジを押しつけた。暴徒に襲われて亡くなったダーナの父から回収したものだ。
「親父さんの、弔いと思って行ってくれ」
ダーナはギャロッポの手引きで、警邏隊の警備を抜け出し機上の人となった。
後ろ髪を引かれる想いでドバス低地へ。
しかし希望の光を捜して赴いたそこは、波崙台地同様の混沌とした世界に変わり果てていた。何もかもが水没した世界である。
それでも幸運なことに、水上を移動する湖宮に遭遇。目的の地に足を下ろすことができた。しかし、そこで愕然とする。湖宮の関係者が全て亡くなっていたのだ。おまけにジュールは水に落ちて行方不明。あと頼るは姉だが、その姉は、肩を撃たれ、流血による血圧の低下と低酸素状態に置かれた後遺症でか、呼吸はしているものの意識が回復しない。まるで地図を奪われ、砂漠に放り出されたようなものだ。唯一、湖宮を調べるための手がかりは、姉が撃たれて意識を失うまでにシャンに言い残した言葉だ。
それは、管制室に向かう通路と拝殿のホールに倒れていた人たちが、湖宮に暮らしている人たちの全てであるということ。ほかにも三十名ほどの外部の人間が、湖宮の南端の作部宮と呼ばれる場所で働いていたが、その連中も全員施設に閉じこめられたままラリン湖に沈められた。湖宮は地上部と地下の二つのブロックに分かれ、地上部のいくつかの建物を除けば、全ての施設の扉には、扉を開けるための暗証コードが設定されている。そのコードは生体認証と……、
シャンの話では、そこまで言ってヴァーリは意識を失ったという。
ダーナは肩で息を突いた。後は、自分の手で調べろということか。
そう自分に言い聞かせると、ダーナは鐘塔から眼下に広がる宗教の聖地に目を向けた。
鐘塔は四階建てのビルほどの高さがあり、螺旋階段を上りつめた最上部の望眺台から、湖宮という動く島がぐるりと一望にできる。
上から目にする湖宮は、中央のくびれた瓢箪型をしている。くびれのやや前寄りに円形の広場があり、古代の復元船はその広場の泉水に置かれていたという。眼下、鐘塔の真下には、講堂と呼ばれる大小の神殿風の建物が四棟並び、前方には円形の広場を挟んで、死体の横たわっていた拝殿が、両脇に瞑想のための座殿を従え建っている。オバルのいる操舵室は、拝殿から前方に伸びる、柱も窓もない方形の構造物の中にあるようだ。その先には、評所と呼ばれる野外祭礼所の施設が軒を列ね、また広場の左方には鳥居状の柱列が、右方には貢朝船関係の施設と貢朝品を納める倉庫などが立ち並んでいる。
振り返って鐘塔から後ろを眺める。瓢箪の後部だ。こちらには、眼下の講堂がすっぽりと中に収まりそうな円形のドームが三棟、三角状に配置されている。春香が右手前のドームを指して、自分が入り込んだのはあれだろうと伝えた。春香が前にヴァーリから聞いた話では、ドーム状の奥の院の向こう側に、ここに暮らしていた人たちの寝生区があるということだったが、今は、いくつかの箱形の建物と柱の並びが見えるだけで、それらしきものは何もない。
鐘塔の壁に開いた窓から、ウィルタが奥の院のドーム後方に覗く水面を指した。水面が白くクリーム状に泡立っている。ドームのある側に推進機関があるということは、やはり操舵室のある側が、湖宮の舳先ということだろう。
湖宮の広さが以前の四分の一くらいになっていると、シャンが感想を口にしていた。おそらく湖宮という船は、水上を移動できる推進機関の上に、宗教施設を乗せた構造になっていたのだ。そしてジュールは、ラリン湖を出て湖宮を移動させるに当たって、余分な施設を切り捨て、湖の底に沈めた。
今見ている施設の並びのどこかに、中に入る入口があるはず。なんとしてもそれを見つけ、こじ開け、足を踏み入れて、あのスポットライトを消す手がかりを見つけなければ。
悲壮な想いを仮面の裏側に押し込め、ダーナは湖宮を凝視した。
そのダーナの横で、春香は同じように湖宮を眺めながら、小学三年生の時に学校から社会見学でタンカーを見に行った時のことを思い出していた。
三十万トン級の原油タンカーの上には、サッカーのできそうな、だだっ広い空間が広がっていた。広さだけでいえば、そのタンカーをさらに数倍大きくしたような感じだ。違うのは、積み荷の石油を下ろしたタンカーの甲板が、水面から二十メートルの高さにあったのと比べて、湖宮の舷側は、その半分の高さだということ。もっとも、タンカーの甲板面は平べったいが、湖宮はこんもりとした丘である。その丘の上に宗教施設が立ち並んでいることからすれば、講堂前の広場などは、水面から相当な高さになる。
「下に降りて、作業に入る」
鐘塔の上を吹き抜ける冷たい風に、ダーナの声が乗る。
塔の真下で船頭のチョアンがカニ指の手を振っていた。
ダーナの指示で拝殿の中、死体の片付けに取りかかる。
ダーナは当初、死体を水上に投棄しようとしたが、さすがにそれは止め、貢朝船の荷を保管している倉庫に収納することにした。手間ではあるが、暖房の効いた拝殿に置いておくことはできない。倉庫の中なら直ぐに凍りつく。
傷のせいだろう熱の出たシャンは、操舵室の隣の部屋でヴァーリの付き添いを兼ねて休養することになった。そのため死体の収容作業は、それ以外のメンバーで行うことに。愉快な作業ではないが、墓丘の人たちを収容して事態が落ち着くまでの間、無用な混乱を避けるためにも、これはぜひやっておかなければならないことだった。
その作業の終わったのが、オールベ河からグンバルディエル本流に入った辺りになる。
湖宮の船底、水に隠れた部分が、どの程度の深さに達しているか分からないが、三次元の航路図を見ると、湖宮は河川の一番深いところを辿って進んでいる。洪水によって冠水しただけの水深十メートル未満の深さでは、航行に支障があるのだろう。
遺体の収容に続いて、床に残った血糊を拭き取る。これはウィルタと春香が行う。
その間に、ダーナとチョアン、ハガーの三人は、倉庫に収納してある荷船を引き出しにかかった。この湖宮という巨大な船が砂洲のような墓丘に近づくことは絶対に無理、どうしても墓丘から湖宮まで人を運ぶ運搬用の船が必要だった。
湖宮の進行方向に向かって講堂の右側、湖宮の瓢箪の括れの部分に、ヨの字型の波止場、港がある。そこに、船の接岸できる岸壁とは別に、船を引き上げるための斜面、船揚げ場が設けられていた。
当初はその船揚げ場に倉庫の荷船を運ぼうとしたが、荷船では大き過ぎて、どうあがいても三人では動かせない。そのため、荷船よりも小さい飛船と呼ばれる細身のエンジン付きの船に方針を転換。最後は血糊の掃除を終えたウィルタと春香も加わり、飛船の移動を進める。そして、もう少しで飛船が船揚げ場にという時、湖宮が停止した。グンバルディエル本流からクルドス分水路に入って少し進んだ辺りである。どうやらここから先は水深が浅すぎて危険と、船の航法装置が判断したらしい。
その頃、マフポップたちのいる墓丘は騒然とした事態に陥っていた。
水位が上がって、墓丘の一番高い所でも波が洗うようになったのだ。もう座っていることができない。立ち上がって、少しでも水に浸かる部分を少なくするのが、精一杯のやれることだが、凍てつく波が足に打ち寄せる。
腰から下が痺れ、それがどんどん体の上へ上へと這い上がってくる。
無言で耐える人もいる、歌を歌う人も少数ながらいる。しかしほとんどの人は、モア教の教義にある、救済の経文を唱えていた。目を閉じ、ひたすら経文を唱え続ける。そうしないと、とても気力が続きそうになかった。
マフポップも経文の一節を呟きながら、砲隊鏡で、ある方角をじっと見つめていた。祈りの気持ちを込めて、砲隊鏡のレンズの中の『そのもの』を見つめる。
マフポップが最初、水平線に島影のような物を見つけたのは、もう一時間も前のことになる。セリ・マフブ山系の方角から何も現れないので、何となく砲隊鏡を左右に動かし、水平線の彼方を探っている時に、それがレンズの中に飛び込んできた。
それはセリ・マフブ山系の方角から六十度左の方角にあった。
どんよりと雲が垂れ込めるなか、万越群島の岩山のどれかを視野に入れたのかと思ったが、どこか違うような気がする。万越群島はもう若干、西寄りになるからだ。
何だろうと、目一杯、砲隊鏡の倍率を拡大するが、霧や雪で大気が湿気をはらみ、かつレンズに塩気がこびりついて、中の物が鮮明に見えない。巨大なゴミの塊が漂っているようでもあるし、薄っぺらい台地が浮いているようにも見える。ただそれがかなり大きなものであるということは感じられた。
そして何度もレンズの枠内に『そのもの』を捉えているうちに、それがごくゆっくりとではあるが動いているということに気づいた。マフポップは、オバルたちが、湖宮にある荷船か、もしくは方船を借りて帰ってくるものだとばかり思っていた。しかし、人が二百人は乗れる荷船でも、絶対にあのような平べったい形に見えるはずがない。最初に考えたのは、河口に下ったという貢朝船が、今回の洪水にあたって、塁京の人たちを救助しようと引き返して来たのではないかということだ。ただ貢朝船なら帆柱がなければならないし、それにやはりあの形が……。
やがて『そのもの』が、点々と並ぶ万越群島の島影を横切るように移動し始めた時、マフポップは、レンズの中のものの余り大きさに愕然とした。そして、その巨大な浮遊物が、万越群島の手前、グンバルディエルの流路を移動しているのだということに気づいた。
マフポップもあることに思い至っていた。
ただマフポップとしては、それが余りに突拍子のないことなので、はっきりと確証が持てるまでは、自分自身信じる気になれなかった。
目を皿のようにして、移動する巨大な『そのもの』を見つめ続ける。
まだぼんやりとしたシルエットに過ぎないが、移動する『そのもの』の上に、建物のような形が見分けられる。柱列らしきものも並んでいる。マフポップ自身は、湖宮を訪れたことはない。だが、そこがどういう場所であるかは知っている。知識の中の拝殿や講堂や拝門の様子と、砲隊鏡の中に見えている『そのもの』のシルエットが、合致するのだ。
砲隊鏡の接眼レンズを持つ手が震えた。モア教の聖地が、塁京の惨状を知って救いの手を差し伸べに来た。本当だろうか。聖地そのものが、自ら……。
マフポップは生まれて初めて、体の奥底から突き上げてくる畏敬の念で、体が震えるのを感じた。ただそのことを周りの人たちに知らせるのは、思い留まった。
余りに想像を超えたことで、間違っていた時の反動が怖かった。
それでもマフポップ自身、もう砲隊鏡から目を離すことができなくなっていた。足元を洗う波も気にならないほど、砲隊鏡のレンズに顔に押しつけ、三脚の足を手で握り締めたまま、レンズの中の『そのもの』を見つめ続ける。
無意識に、祈りの言葉が口をついて出てくる。
そうするうちに、マフポップがセリ・マフブ山系とは別の方向に砲隊鏡を向けていることを不審に思った者が、水平線上に浮かぶ平らな影に気づき騒ぎになる。
と同時に、雹が激しく降り出し、波が膝下までを洗う事態に。
波に抗うように墓丘の上の人々が、水平線上に浮かぶ小さな影に目を向ける。
距離はある。それでも、平たい丘の上に拝殿らしきものが立ち並んでいる様子が、辛うじて肉眼でも見て取れる。
墓丘の上の誰もが思った。被災して助けを求める人々に、湖宮が救いの手を差し伸べに来たのだと。ただ一抹の不安はある。湖宮が助けに来たのは都の人々であって、自分たちではないのでは、ということだ。都には辻々に経堂や読経所、祈祷所があり、都の人たちは、日々読経と礼拝を欠かさない。比べて窮民街には、読経所すらほとんどなく、ヨシ小屋の壁に経文の赤い札を貼って、それを拝むのが関の山なのだ。
それでも期せずして祈りの言葉が皆の口から上った。
次話「飛船」




