拝殿
拝殿
春香はシロタテガミの首にしがみ付いたまま目を閉じていた。
前の座席からシャンの呻き声が聞こえてくる。
チョアンの「やれやれ泳がなくて済んだようだな」という、気の抜けたような声を聞いて、春香は怖々と目を開けた。窓枠のすぐ外に水面が広がっている。
もし橇の軸が折れて右翼が接地していなければ、機体はそのままバウンドしながら湖宮を突き抜け、反対側の水面に突っ込んでいただろう。
バンザイ機は、貢朝船の荷を下ろす岸壁の縁に止まっていた。
操縦桿を握り締めたまま、前のめりにつっぷしていたオバルは、体を起こすと、バンザイ機の左翼が岸壁の外に食み出ているのを見て、冷や汗を拭うように額に手を当てた。シャンは三角巾で吊った右腕を押さえ、軽い呻き声を上げていたが、風防ガラスの欠けらを体に浴びただけで、とくにケガをした様子はなかった。
ガラスの抜けた窓から雹がバラバラと吹き込み、計器の上で豆を煎ったように跳ねる。
先ほど雹を降らせた雲が後ろから追いかけてきたようだ。
吹き込む雹に鼻先を叩かれたシロタテガミが、春香の足の間からムッと頭を上げると、窓の外に鼻先を向けて唸った。
「なに?」と、春香がシロタテガミに聞く。
「血の臭いがする」そう答えるや、シロタテガミは春香の膝を踏み台にして、金属板の抜けた窓からスルリと外に抜け出した。
前の座席のシャンが、安全ベルトを外しながら「どうした」と聞く。
「血の臭いがするって」
血という言葉に、大人たちは慌てて外に這い出した。
見回しても人の気配はない。四人の目の前に、車輪が雪を抉って作った轍の跡が、急カーブを描いて残っている。ちょうど轍の始まった地点、飛行機が着地した地点で、シロタテガミが腰を落とし、ピンと耳をたてて前方を睨みつけていた。
駆けつけた春香が、不安そうな顔で「どこ」と聞くと、シロタテガミは視線を外さず、前方に鼻先を向けた。シロタテガミの鼻面の示す方向に、経堂風の建物が三棟並んで建っている。ユカギルの経堂の数倍の高さがある。
春香が後ろから来た大人たちに伝えた。
「あの真ん中の建物だって」
「拝殿か?」
確かめるようにシャンが指さす前を、のっそりと立ち上がったシロタテガミが、拝殿に向かって歩き出した。相変わらず人の姿はない。墜落するように飛行機が着陸したのに、誰も人が姿を現わさないのが、不思議を通り越して不気味に思える。
辺りに気を配りながら、四人はシロタテガミに続いた。
水を吸った苔の上に、先に降ったものだろう拳大の雹が、野球のボールをばら撒いたように転がっている。その間を埋めるように、親指大の小ぶりの雹がバラバラと音をたてて落ちてくる。さすがに当たると痛いので、服を捲り頭の上にかざして歩く。
歩きながら視線を巡らすが、人の気配はなく、聞こえるのは雹が苔の上に跳ねる音だけだ。それでも何か分からないが、確実に異様な気配が前方の拝殿から漂い出ていた。
足のケガが痛むのか、シャンは左足を伸ばした状態で、引きずるようにして歩を進めている。そのシャンに合わせるように、ゆっくりと足を送りながら、オバルは首を左右に振って四方を見回した。船頭のチョアンは拝宮する僧を乗せて湖宮に来たことがある。三人の中では、オバルだけが初めて湖宮を見るのだ。
「おそらく」と前置きしたうえでシャンが、オバルに告げた。
「上空からの感じでは、今ここにある湖宮は、ラリン湖にあった時の四分の一程の大きさではないか」と。
チョアンも「そのくらいだろう」と頷く。
チョアンは貢朝船の入る湖宮の裏側も訪れたことがあり、施設の配置についてはシャンよりも詳しい。チョアンの話では、船で入宮する際に上陸する船着場が、バンザイ機の停止した後ろの場所で、いま歩いているのは、拝殿と講堂の間の広場になるとのこと。
その説明にシャンが、「左側に見えている広場中央の泉水に、古代の復元船は置かれていた」と続けた。
だが泉に水はなく、復元船の姿もない。先に機上から見えた船、カルデラ湖で船底を見せて浮いていた木造の船が、やはりその復元船だったのだろう。
シャンは今までに三度湖宮を訪れているが、それは今向かっている拝殿とは広場を挟んで反対側に位置する講堂で、シャンはその講堂の一室でジュールと面会している。春香がこっそり潜り込んだ奥の院と呼ばれるドーム状の建物は、更にその講堂の背後にある。
話しながらも、三人はしばしば後ろを振り向く。気になるのだ。しかしやはり人の気配はない。どちらを向いても、墓地のように静まり返っている。
シロタテガミが早く来いとばかりに、正面の拝殿に上がる階段の途中で振り返った。正面の経堂風の建物、湖宮で拝殿と呼ばれている建物は、湖宮を訪問する各地の僧が法悦する場所である。また拝殿の左右に翼を広げたように付随している建物が、座殿と呼ばれる信者が瞑想に耽る施設らしい。
拝殿の階段を上がる。脇の手すりには経を刻み込んだ経車が並び、上には細かな鳥獣木魚のガラス細工の貼り付けられた柱と壁が、叢林のように聳え立っている。その柱と天井の伽藍で囲われた奥に、拝殿本堂の扉が開け放たれた状態で覗いていた。
扉の前で四人が足を止めた。
シロタテガミの唸り声を春香が通訳する。
「この扉の向こうから、人の血の臭いが流れて来るって」
シロタテガミが鼻の上にしわを寄せて身構えた。シロタテガミに指摘されなくとも、人の鼻にも、それらしい臭いが感じられる。
オバルとシャンが顔を見合わせた。
懐から銃を取り出したオバルの前で、チョアンが観音開きの扉を両手で押し開く。
暗い。扉の隙間から入る光に、柱の立ち並んだ回廊のような空間が浮かび上がる。柱も壁も黒いガラスで覆われている。建物の外部が装飾過多ともいえる豪華さなのと比べて、建物の内部は色も装飾も排した簡素な作りだ。しかしそれ故に、重々しくも重厚な気が空間を支配している。
回廊の中に、奉納された聖樹の細長いタペストリーが、無数に天井から吊り下げられていた。手前のタペストリーが、入り口から流れ込んだ風によって、大きく撓むように揺らぐ。と生臭い臭いが四人の鼻孔に触れた。この先に何かある。
衣装部屋の衣装を掻き分けるようにタペストリーの間を抜け、奥へ。
やがてタペストリーの隙間から光が漏れ、回廊奥の広間が現れた。天井を覆う格子窓から、無数の光の糸が射し込んでいる。広間は回廊よりも一段低くなっている。
下に降りる階段の手すり越しに広間を覗きこんだ四人が、思わず息を止めた。
折り重なるようにして人が倒れている。
シャンが包帯を巻いた右腕をかざし、足を引きずりながら階段を駆け下りる。そして倒れた人に手を差し伸べようとして、手を止めた。すでにこと切れて時間が経過しているのか、屍臭が鼻をつく。見回すと、大人も年配者も子供も、男も女も、赤ん坊を抱えた女性までいる。祈りの最中に亡くなったのだろうか、両手を合わせたまま、突っ伏すように前のめりに倒れている人も。ざっと見渡しても百人を超えている。
遺体に目を釘づけにしながら、オバルが広間への階段を下りてきた。
春香が、オバルの腰を握り締めた。
血を吐いている人が多い。何が原因で亡くなったのかは分からないが、一瞬にして死に至ったような光景だ。遺体の数からすれば、一般に喧伝されている湖宮に住む聖職者と、その家族の全てが、ここに倒れているようだ。
春香は手で顔を覆った。
「なんてこと……」
手の施しようがないと判断して立ち上がったシャンが、オバルと顔を見合わせた。余りの凄惨さに表情が歪む。
その声を無くして立ち尽くす四人の傍らを、シロタテガミが平然と死体を踏みつけ、乗り越えていく。シロタテガミが向かう先、林立する木々のような柱でぐるりを囲まれた広間の正面に、太い二本の経柱が聳え、その経柱の間に祭壇が設けられていた。
シロタテガミは祭壇に足を掛けると、背後に吊るされた巨大な聖樹のタペストリーを見上げた。天井から床まで届きそうな壮麗なタペストリーである。
とシロタテガミが、ヒョイと祭壇に飛び上がった。そして壁面を塞ぐように垂らされた分厚いタペストリーの前で、頭を低くして唸った。
春香がオバルに伝えた。
「この後ろからも血が臭ってくるって」
祭壇に上がったオバルが、タペストリーの背後を覗き込む。壁とタペストリーの間に人が通れるほどの隙間が開いていた。その奥の壁に四角い穴、通路らしい。
後ろの三人に目配せをすると、オバルがタペストリーの背後に体を滑りこませた。
穴の縁に身を寄せ、半身の姿勢で中を覗き込む。
壁に空いた穴は、そのまま連結器のようなハッチを経て、通路となって奥に続いている。その先に下に下りる階段がある。
銃を構えたまま、オバルはゆっくりとハッチに向かって足を踏み入れた。ハッチから通路、そして下り階段へ。階段の先からも広間同様の臭いが漂ってくる。相変わらず動く者の気配はない。
階段を下り切ると、白々とした照明に照らされた通路に出た。倒れた灰白色の僧衣姿の人が一人、二人。体の下に、スープを流したように血が広がっている。
「僧衣の帯が藍色、公師だわ……」
指摘するシャンの声が緊張で震える。
「いったいどういうことなんで」
船頭のチョアンが、こちらも震える声で言って、通路の前後を見やった。
「誰かが、この人たちの命を奪ったんだ」
「いったい誰が……、ビアボア一家がですか」
「違う、ビアボア一家をこの世から消し去った者が、この血の海を作ったのよ」
怒りを抑えたシャンの言葉に、チョアンが益々訳が分からないと首を振った。
オバルは銃を握り直すと、遺体の転がる通路に用心深く歩を進めた。
石造りの拝殿とは異なる無機質な通路の床に、死体が点々と散らばっている。先ほどの広間の死体には子供が混じっていたが、こちらは大人だけだ。流れ出た血が、そのままの形で凝固しているのは、空調が効いて空気が乾燥しているからだろう。死臭とともに肺に入ってくる空気が、思いのほか乾いている。
遺体の額に残る鋭利な十字の傷跡を見て、シャンが「普通の銃ではないようね」と、声を詰まらせた。
同じ傷に目を落としながら「こんな玩具で勝負できるかな」と、オバルが右手に握り締めた銃を頬に当てた。回転式の弾倉に弾を一つ一つ手で装填する、手込め式の銃である。いざとなれば頼れるものはこれしかない。
通路を挟むように左右にドアが並び、天井には一定の間隔で明かりを発するパネルが組み込まれて、研かれた床を無機質に照らしている。オバルは通路に入ってすぐに理解した。ここはあの古代の施設、ファロスサイトと同じだと。
目の撃ち抜かれた死体があった。思わず春香はシャンの袖にしがみついた。
「犯人は、相当冷酷な野郎だな」
オバルが吐き捨てるように言った時、
「それは誉め言葉として受け取っておこう」と、やや甲高い男の声が通路に響き渡った。
オバルたち四人が首を振って通路を見回す。が人の気配はどこにもない。
笑い声が通路全体に反響、まとわり付くように体を包む。
「どうしたシャン、医者なら死体など見慣れているだろう、さっさと奥に進むがよい。私は突き当たりの部屋にいる。遠慮することはない、入り給まえ。湖宮はごらんのとおり船だ、たくさんの人が救えるぞ」
声の主が分かったのだろう、シャンが天井に向かって拳を振った。
「その声は、ジュールね。どういうこと、誰がこの人たちを……」
返事はなく、笑い声だけが返ってきた。
シャンが「ジュール」と口にしたことで、オバルも思い出したのだろう、
「ファロス計画の時に湖宮から遊学していた公師だな」
「そう、私の姉と結婚した男よ」
シャンがそう言った時、前方突き当たりの部屋の扉が音もなく開き、笑い声が部屋の中から聞こえてきた。
銃を構えたオバルを先頭に、用心深く四人はその部屋に足を踏み入れた。管制室のように隙間なく計器が並び、操作盤上のパネルには、幾つもの映像が分割して映し出されている。いま通ってきた通路も、外の翼の折れたバンザイ機も、そしてどこから撮影しているのか、ドバス低地の全景までもが……。湖宮、この巨大な船の操舵室だった。
銃を突き出しながら、操舵室を進む。
と、正面のスクリーンパネルの手前、椅子に、公師の衣装をまとった男が腰掛けていた。
後ろ姿だがジュールだ。また天井から声が降ってきた。
「どうしたオバル、相変わらずのでかい図体だな」
第一次ファロス計画の際、オバルはサイトの事業地で、何度かジュールと顔を会わせ、挨拶程度だが話も交わしている。サイトのスタッフにジュールが生真面目な質問を繰り返していたのを、オバルも覚えている。
スクリーンパネルの映像が切り替わり、オバルの姿が大映しになった。
「ハハハハハ」
ジュールの哄笑が部屋の中に割れるように反響する。
ジュールが椅子を回して振り向いた。昔と変わらず端正な顔つきだが、目がギラギラと輝き、指先が苛つくように小刻みに腿の上の僧衣を掻いている。
オバルが怒りを抑えた声で問い糾した。
「ジュール、いったいどういうことだ、ここで何が起きた」
「見れば分かるだろう、皆に死んで貰ったのさ」
一瞬、ジュールが何を言ったのか分からず、シャンもオバルも、ジュールの言葉を頭の中で復唱した。そして貰ったという部分に、ギョッとして目を見開いた。
「なぜ」と、シャンが叫ぶ。
「ふん、なぜ……か、子供みたいな質問をするな、必要が無くなったからだ」
スクリーンパネルを背にしたジュールが、手にしていた端末のスイッチを押した。
パネルの画面が切り替わり、一面の湖となったドバス低地の画像を拡大していく。水面から突き出た岩山のようなものが見えてきた。盤都の崩れかけた塁壁だ。塁壁の上に人が群がるようにしゃがみこんでいる。
ジュールは首を捻って後ろの映像に視線を流すと、
「洪水の後の風景は空の上から十分見ただろう、同じ映像では退屈だろうから、こういう演出はどうだ」
さも愉快げに話すと、ジュールは右手に握りしめていた端末のキーを押した。
その瞬間、四分割されたパネルの右上の画面、雲に覆われたセリ・マフブ山系から、雲を突き破るようにしてオレンジ色の光がほとばしった。左下の画面に映し出された盤都の塁壁で、オレンジ色の光がポッと脹らむように輝く。直後、王冠状の巨大な水柱が湧き上がるように立ち上がった。水柱の崩れる波が、左上の画面に映し出された火炎樹にしがみつく人々をさらってゆく。
「ふむ、射程が少しずれたか、まあこういうこともある、余興だ、次は」
ジュールがまた手元の端末のキーを押そうとした時、「もう止めて、ジュール、あなたは狂っているわ」
かすれた声が、シャンやオバルのいる右手で上がった。
管制室の扉に寄り掛かるようにして、白い僧衣を血で染めたヴァーリが立っていた。額が血で真っ赤だ。
「止めて、あなたは狂ってる」
ヴァーリがもう一度叫ぶ。
ギッと音がしてジュールが椅子から立ち上がった。手前の台のために気づかなかったが、僧衣の裾が返り血を浴びたように赤黒く汚れている。
「おれが狂っているだと」
苛つくように言い捨てると、ジュールが鼻先で冷笑した。
「殺した人の数で人を狂人かどうか区別するのか。おれはここの住人に消えてもらった、百十九名全員にな。その俺を狂っていると言うなら、無差別に量子砲を撃ちまくり、何万という人を焼き殺したバドゥーナの連中はどうなる。みんな狂人さ。人は狂って人を殺すんじゃない、人は人であるからこそ人を殺そうとするのだ」
「違うわ、私はいつもあなたのそのレトリックを聞かされてきた。どうしてあなたがそうも人に対して冷淡になれるのか、ずーっと疑問に思ってた。だから調べたの。私は自分の夫のことを知りたくて、理解したくて、この湖宮の秘密を調べた。そして分かったの。あなたは、あなたが人を呪っているのは、あなたが自分を呪っているということなの。いえそれはまだ優しい見方だわ、あなたは自分の人生に拗ねている駄々っ子に過ぎないのよ」
「違う世界から来たおまえに、何が理解できる」
苛立ったジュールに、ヴァーリが請うように話しかける。
「できるわ、同じ人間ですもの。私、あなたのお父様の日記を読んだの。あなたの両親が、どういう風にあなたを育てたかを知りたかったから。そして解かった、あなたがなぜ世界を憎んでいるのかということが」
「言うな、聞きたくもないわ、あんな親の話」
「いいえあなたは、あの事と正面から向き合うべきなのよ、今からでも」
軽い金属を擦るような音がしたかと思うと、ヴァーリが前のめりに体を折り曲げた。
「姉さん」
シャンがヴァーリに走り寄る。倒れたヴァーリの胸から血が滲み出てきた。
「ふん、お喋りが」
冷然と光圧銃を懐に押し込むジュールに、オバルが猛然と突進する。と、ガタンと背後で大きな音がして、入り口の扉が閉まった。
ハッとしてオバルが後ろを向き、そして再び前を向いた時には、すでにジュールの姿はそこになかった。いや、姿はあった。ジュールの姿はパネルの映像の中に移っていた。
ジュールの甲高い笑い声が管制室の中に反響、スクリーンパネルに大映しになったジュールが手にした端末を押す。
「その部屋は気密室だ。部屋の中の空気を抜く。三十分でそこは真空になる。薄れていく大気の中で、人であることを懺悔するんだな」
映像の中のジュールが、笑いながら通路を去っていく。
「待て、ジュール」
オバルの声など聞く耳を持たないとばかりに、ジュールは端末に指を這わせて映像を消した。あとには、ただブルーマットの画面と、空気が吸い取られる微かな音が管制室の中に鳴り響くだけだった。
ジュールは、遺体の転がる管制室前の通路を、口笛を吹きながら歩いていた。通路からタペストリーの裏の穴を抜けて、拝殿の広間へ……、と口笛が止む。
祭壇の前で狛犬のように鎮座した動物が、ぎらつく目でジュールを睨みつけていた。
ジュールが、鼻をひくつかせた。
「ふん、しゃれた真似をする、番犬を置いていくとはな。だが番犬に、管制室の扉は開けられないぜ」
見下すように言うと、ジュールは懐から銃を取り出し、無造作に目の前の番犬に向けて引き金を引いた。しかしすでに十分にジュールの動きを観察していた老練なオオカミは、ジュールが引き金の指に力を入れる瞬間を見切ったように跳躍、ジュールの腕に牙を突き立てていた。ところが、腕などくれてやるとばかりに、ジュールは左腕を前に突き出すと、残った右腕でシロタテガミの体を力任せに殴りつけた。
鈍い音とともに肋の折れる音がして、シロタテガミの体が、ちぎれたジュールの左腕と共に、祭壇の向こうに投げ飛ばされる。配線の束が覗く腕から銃がこぼれ、階段を転がり落ちる。
「そんな似非腕など、お前にくれてやるわ」
鼻で笑うと、ジュールは踵を返して拝殿の外に向かった。その後ろを、口から血を垂らしながら、よたよたとシロタテガミが追いかける。
肘から先の無くなった左腕、その短い左腕を揺らしながら走る僧衣の男に、手負いのオオカミが腰砕けになりながら続く。どちらも血を流していた。
二つの生き物が、湖宮の建造物の間をよろけるように走る。その様子を上空から見ている者がいた。ダーナとウィルタだ。
飛行機の窓に顔を擦り付けるようにして、ウィルタが叫んだ。
「あれはシロタテガミだ、シロタテガミが人を追いかけてる」
湖宮側面の階段で、四つ足の動物が逃げる人物に追いつき、もつれ合う。一歩間違えれば、十メートルはある下の水面に落ちてしまう。
そして単発機が大きく右に旋回して元の場所に戻ってきた時、水際に突き出た石の階段に人の姿はなかった。代わりに、水面で水飛沫が上がった。
ダーナの隣、操縦桿を握り締めた操縦士のハガーが、窓から下を覗いて声を上げる。
「広場の反対側に垂直離発着機が見えます、オバルの乗って行った機です」
「降りよう、バンザイ機の手前に着けてくれ」
三人の乗った単発機は、強まってきた風に煽られながらも一気に降下、バンザイ機の手前の石畳の上にぴたりと停止した。
側面のドアを開けて、ウィルタとダーナが飛行機の外に飛び下りる。
前方からシロタテガミが、足を引きずるようにして近づいてきた。そのシロタテガミが鼻先を建物の入り口に向けて足を折る。
ウィルタがシロタテガミに走り寄るなか、ダーナは右手の拝殿に向かって続く血の跡に目を向けていた。濡れた赤い血だ。
「野生の動物は簡単に死にはしない、それよりあの建物だ。嫌な予感がする」
左胸に吊るしたホルダーから短銃を引き抜くと、ダーナは機から降りてきたハガーに命じた。
「ハガーは、ここで待機。何か異変があったら直ぐに知らせてくれ、叫べば聞こえる」
ウィルタに「こい」と呼びかけると、ダーナは拝殿に向かって走りだした。
螺鈿細工の大扉から、タペストリーの簾を掻き分け、拝殿の広間へ。
ダーナは転がる死体の山に目を見張ったが、足を止めることなく階段を駆け下り、祭壇に歩み寄った。飛び散った血と、ちぎれたジュールの腕を一瞥、祭壇の前で顔を左右に振る。捲れたままのタペストリーの背後から、何かしら気配が伝わってくる。
躊躇なく連結通路から階段、そして通路へ。
奥で何か音がしている。
血を流して横たわる公師たちの間を抜けて、突き当たりの扉に張りつく。音はその扉からだ。耳を寄せると、向こう側で扉をぶつような音……。
「これっ」と、ウィルタがドアの横を示した。
手の平サイズの操作盤のパネルに、部屋の中の様子が映っていた。人、オバルだ。椅子を振りかざしてドアにぶつけようとしている。後ろの床にも人が倒れている。
ダーナは扉を足で蹴り上げると、「中にいるのか」と、腹を絞るような声を扉にぶつけた。
声が届いたのか、オバルが叫び返す。声はドアの向こう側からではなく、操作盤から聞こえてくる。悲痛な声だ。
「ダーナか、やばい。空気を抜かれている。ロックがかかって扉が開かない。何とかしてくれ、その操作盤で開閉できるはずだ。だめなら、ジュールのやつが持っている端末だ」
ダーナが操作盤に目を走らせた。映像の下半分が、数字や記号のキーになっている。
ダーナがパネルに向かって叫んだ。
「開けるナンバーは?」
「そんなもの知るか、俺もさっき来たばかりだ」
舌打ちしたダーナが、意を決して適当にキーに指を押し当てる。が、何の反応もない。指定の番号でなければ開かないのだろう。ダーナが横にいるウィルタに言った。
「水に落ちた男が端末を持っていたそうだ。落としているかもしれん、血の跡を辿って捜せ、十分だ、行け」
ウィルタがダッと外に向かって走り出した。
通路を走るウィルタの足音を背に、ダーナがもう一度、操作盤のキーを押す。しかし結果は同じで反応はない。ダーナは素早く通路全体を見渡すと、ドアの周辺、通路沿いの部屋を確かめに走った。しかしどの部屋にも、そして通路の壁面にも、ドアの開閉に繋がるようなものはない。
「くそう、どうすれば」と、ダーナが通路の壁をドンと蹴り上げる。
そしてもう一度力任せにドアを蹴ると、ダーナは、やおら腰のバンドに差してあった銃を引き抜き、管制室のドアに向かって発射した。ドアの下に潰れた銃弾がコトリと落ちる。沁みのような小さな跡が付いただけだ。
「これだと爆薬程度で壊れるドアではないな、ええいどうすればいいのだ」
歯噛みをすると、今度は天井の照明に向かって銃を発射した。照明のパネルにひびが走り、次の瞬間、横長のパネルが粉々に砕け落ちる。銃弾のめり込んだ配線の束が、チチチチと猛烈な速さで点滅を繰り返し、その光が通路の壁に眩しく反射する。
しかし、扉にも、扉の操作盤にも変化はない。
「配線をショートさせることもできないのか」
ダーナが空いた片手で髪を掻き回した。
呻くダーナの元に、ウィルタが息を切らせて戻ってきた。
「どうだった」
勢い込んで聞くダーナに、ウィルタはゼエゼエと荒い息を吐きながら首を振った。
ダーナが悔しそうに扉を叩いた。
「ええい、他に方法はないのか」
パネルのマイクを通して、苦しそうなオバルの声が漏れる。
「ダーナ早くしてくれ、もうだめだ、限界……だ……」
「ばかもの、そのでかい鼻の穴でしっかり酸素を吸い込め」
しかしそれに対する返答は返ってこなかった。パネルの中の映像に、前のめりに倒れ込むオバルが映っていた。
「どうすれば……、ええい、時間をくれ」
拳を握り締め、銃尻をガンと扉に打ちつけるダーナの横で、ウィルタが天井を見上げた。
「ダーナさん、ぼくを肩車して」
「何のために」
「早く!」
ウィルタの真剣な表情に、ダーナはエイッとばかりにウィルタを担ぎ上げた。
ダーナの肩の上に立ち上がると、ウィルタは明滅している天井のケーブルの後ろに手を捩じ込んだ。そして折畳み式のナイフ開いて刃を口に銜え、太い束になった配線を両手で掴むや、ダーナの肩から飛び下りた。
天井から引き出された配線の束にウィルタが片手でぶら下がる。ウィルタはナイフを口から手に持ち替えると、体重をかけて一気に子供の手首ほどもある配線を切断。その瞬間、通路が目映い光に充たされる。
懐から航空眼鏡を取り出したダーナが、手探りにウィルタにそれを押し付けた。
「これを使え、眩しくては何もできないだろう」
航空眼鏡を受け取ると、ウィルタはダーナの手を誘導、垂れ下がった配線の束を握らせ、「この角度でしっかり握っていて」と叫んだ。
ダーナが目を閉じたまま、それを保持。ウィルタが首に吊るしていたメダルを引き出した。タタンから渡された光りを紡ぐ紡光メダルだ。それを配線の切断面からほとばしる光の束の前に差し出すや、一気に二枚の円盤を回転。とたん光の束は絞り込まれて一本の光条となり、ドアに当たって激しく輝く。さらに円盤を回し、光条を細い絹糸のように絞り込むと、ウィルタはメダルをゆっくりと動かした。
光条が扉と壁の接点を上から下になぞるように移動する。
光の跡が白熱した線となって残る。その線が扉の下に届く直前、何かが外れたような音がして、扉がほんの少しずれ動いた。と同時に、キュィィーッという大気の吸い込まれる激しい音が、耳の穴を抉るように鳴り響く。
通路の空気が壁と扉の隙間から管制室の中に吸い込まれ、ドアの手前にいたウィルタとダーナの髪が、逆立つようにドアの隙間に向かってなびく。
数秒後、風が治まり通路に静寂が戻った。
ウィルタが、気が抜けたように床に座りこんだ。ダーナはダーナで、壁に寄りかかかり、薄目をあけたまま大きく息をつく。
垂れ下がったチューブから放出される光が、息を引き取るように弱くなり、やがて火を吹き消すように、通路の照明が消えた。
ダーナが、ずれた仮面の位置を調整しながら言った。
「あの天の照明といい、光というものは恐ろしいものだな。人を滅ぼすこともあれば助けることもある」
壁と操舵室の扉の間に、数ミリほどの隙間が開いていた。仄かに風の流れ込む扉に向かって、ダーナが声をかけた。
「生きているか」
扉の向こうから「ああ、なんとか」と、オバルの弱々しい声が返ってきた。
次話「砲隊鏡」




