消失
消失
東の地平線が明るさを増してくるにつれて、西の空から湧き出した黒々とした厚い乱雲が、渦を巻くようにして東の地平線に向かって動く様が露わになった。上から下まで何層もの雲が、離散集合を繰り返しつつ、地球の上を流れる気流に乗って移動する。その重層的な雲の下、広大な湖と化したドバス低地に、朝日が雲の切れ間からオレンジ色の輝きを投げ掛けるが、それもほんの一瞬で、日の光はすぐに分厚い雲に閉ざされ、凍風の吹きしぶる元の薄闇のような寒々とした世界が戻ってきた。
プロペラの大気を切り裂く爆音が、寝不足と寒さに拉がれた頭に響く。幸い防氷ヒーターは機能を回復、表面に付いた氷が融けて機体全体が濡れたように光る。側面のガラスの抜けた窓には、機体内壁の金属の薄板が剥がされ溶接された。どの程度の風圧に耐えられるか分からないが、もし空中で剥がれたとしても、飛び続けるしかない。十字泡壺の充電容量は残り十三パーセント。飛行時間にして五十五分、予備の液体燃料を使ったとしても、一時間弱だ。
当初、シャンは飛行機に搭乗するのを固辞するつもりだった。
しかし、ここに避難している人たちのなかで、湖宮で交渉に当たれる人物としてシャンが最適であるのは間違いない。湖宮に実際に足を運んだことがあり、かつ湖宮に肉親がいるのだ。おまけに避難している人々の中では、中立を保てる医師という立場にある。
シャンが心配しているのは、紛争勃発直後に診療所に来訪した、得体の知れない刺客の放った一言である。刺客の男は、「湖宮の秘密を知った者を生かしておくことはできない」と言った。その秘密という言葉の指す中身が、姉が言うところの、湖宮の地下に古代の文化が秘匿されているということなのか、奥の院に残された古代の自然環境なのか、それとも姉が幽閉されているということなのか、それは分からない。問題は、湖宮が情報を守るためには手段を選ばないという、そういう物の考え方をする場所だということだ。宗教という仮面の下に剣をぶら下げている。そういった施設が、刺客を差し向ける対象にした人物の要請に答えてくれるだろうか。
それでも救いはある。
シャンは刺客のことを、その場に居合わせた窮民街の人たちに、素性不明の連中だとしか話していない。それに湖宮の姉のメッセージについても、ドバス低地でそのことを知っているのは、シャンと春香とオバルの三人だけだ。墓丘に避難している人たちには、一言も漏らしてない。いざとなれば、シャンは自分の身柄は拘束されようとも、避難をしている人たちの救助を願い出るつもりだった。
それにシャン自身、湖宮の総意で自分への暗殺がなされたとは考えていなかった。暗殺はあくまでジュール個人の意図でなされたのではないか。だから直接湖宮に乗りこみ、ジュール以外の公師の誰かに会うことができれば、救助の要請は受け入れてもらえるのではと考えた。
気になるのは、自分が湖宮に拘束された場合の墓丘に残った病人や負傷者のことだが、それも今は、以前自分の助手をしていたトンチーがいる。施療助手だが、医師にしたいほどの優秀な人物である。それに自分の右手の状態を考えれば、自分が墓丘に残ったとしても大して役には立てない。いま自分の為すべきことは、湖宮へ赴き、是が非でも墓丘に取り残されている人たち、否、この低地のいたる所で寒さに震えながら救助を待ち望んでいる人たちの、救助を願い出ることだ。
気合いを入れるように手を握り締める。しかし力の入るのは左手だけで、右手は痛みとしびれで全く力が入らない。シャンは心の中で拳を握り締めた。
ガビ翁が、飛行機に乗り込んだシャンに近寄ると、耳打ちした。
「患者のことは心配せんでも、トンチーさんと我々で、できるだけのことはする。死の危機に瀕しているという意味では、この墓丘の全員が患者のようなものじゃ。その患者を助けると思って行ってくれ」
静かに顎を引き窓の外に目を向ける。塹壕の中でジトパカが背を丸めている。
シャンの視線に気づいたホジチが、「おまえさんが戻ってくる頃には、あいつの自慢の喉も復活しとるて、そうなるように仕向けておくよ」と、半ば作ったような笑顔を見せた。
「よろしく頼みます」
シャンは座席のベルトを動く左手で握り締めた。
すでに操縦席にはオバル、副操縦席のシャンの後ろには、船頭のチョアンが座っている。湖宮に向かうのは、この三名。オバルはもちろん操縦士として、シャンは交渉役、そしてチョアンは借り出す船の専門家という分担である。四人乗りの飛行機だが、搭乗を三名に限ったのは、少しでも重量を軽くして飛行時間を稼ぐためである。その意味で、機内の余分な荷物は全て墓丘に残していくことにした。
ところが、オバルが離陸のための計器の最終チェックを行っている最中に、シロタテガミが開いたドアの隙間から機内に潜り込んだ。見張りの青年たちが引っ張り出そうとするが、歯を剥き出して唸り、とても連れ出せそうにない。
春香が通訳に入ると、シロタテガミが目を血走らせて唸った。
「こんな人だらけのところにいられるか。それに俺には臭う、この飛行機の行き着く先の血の臭いがな。連れて行け、オオカミは、こんな監獄のような砂洲ではなく、血の臭いこそが相応しい」
相談の結果、シロタテガミも連れて行くことにした。そしてシロタテガミを連れて行くなら、通訳として春香も連れて行こうということになり、結局定員どおりの四名で出発することに。シロタテガミと春香は合わせて大人一人という勘定である。
オバルが、バンザイ機の左右のプロペラを真上に向けた。
出力を増すにつれて、プロペラの回転数が上っていく。
吹き下ろす猛烈な風に、バンザイ機の離陸を見守っていた人たちが、慌てて塹壕の中に身を沈める。なぶり上げるような旋風に、帽子やショールが舞い上がる。
空気を切り裂くプロペラの回転音が平衡状態になったと思った時には、バンザイ機は接地面から機体をフワリと浮き上がらせていた。機体が軽いために、思いのほか簡単に浮き上がる。その機の尾翼の穴から、姿勢制御用の空気が吹き出ている。以前、春香は晶砂砂漠の砂掘職人の部落で、ヘリのおもちゃを見て、尾翼のプロペラが取れていると看破したが、実際には、あのヘリのおもちゃは、大気を噴射して姿勢を制御する形式のヘリだった。それはそれ、上昇しながらバンザイ機はプロペラの向きを徐々に前方に変えていく。併せて推力も前方に移動、機が前に進み出す。
波崙台地から塁京に赴く際に用いた、目標点を入力してのお手軽な自動航法は使えず、探査装置の表示も消えたままで、外を見ながら飛ぶしかない。救いは姿勢制御の機能が正常に作動していることだ。
それが分かった瞬間、オバルは心底ほっとした表情を見せた。姿勢制御を機械がやってくれるなら、後は操縦桿と推力を調整するだけ。難しい操作をする必要はない。
とにかく、薄暗い夜の帳を残したドバス低地の空に、機は舞い上がった。
飛行機は水に浮かぶ小島のような墓丘を後にすると、大きく右に旋回しながら、いったん元の場所に戻ってきた。小さな砂洲の上、引っ掻き傷を付けたような溝の中に、泥だんごを押し込めたように身を寄せあった人たちの頭が覗いている。何人かはエールを送るように手を振っている。
墓丘の上を過ぎると、機は一旦機首を濠都方向に向けた。両都の状態を把握するのだ。
濠都ゴルから盤都バンダルバドゥンへ。塁京二都の状況を確認したうえで、湖宮に救助を請うつもりだった。欲をいえば海門地峡も視察したかったが、とても残りの泡壺の容量でそれはできない。
ガラスの砕け散った窓には、応急措置として金属の薄板を填め込んである。しかし機が飛び立つや、溶接し切れていない隙間から風が吹き込んできた。それに金属板が風圧でバコバコと激しい音をたてて揺れる。ただそんなことは構っていられないとばかりに、全員がガラス窓から、あるいは金属板の隙間から外の光景に目を凝らした。
水没した低地帯が眼下に広がっている。
どこもかしこも水だ。雲の底を映して黒くたゆたい、その重くのっぺりとした水面に、ドゥルー海から流れこんだ流氷が、水の流れを示すように複雑な渦巻き模様を描いている。水面から箒の先のように突き出ているのは、火炎樹の樹冠だ。場所によっては決壊流で流された火炎樹が、ビーバーの巣のように固まって吹き寄せられている。
機は直ぐに濠都ゴルの上空にさしかかった。途切れ途切れに塁壁が水から顔を覗かせる以外は、ほとんど何も残っていない。生き残っている人がいるのだろう、小さな船や、ありあわせの備材で作った筏のような物が、幾つか水面に波紋を描いている。
機首を盤都バンダルバドゥン方向へ。元のクルドス分水路に面した北側の塁壁は、ほとんど消失。対して南部側の塁壁は、まだ塁壁が部分繋がった状態で残されている。
煙が幾筋か立ち昇っているが、人影はない。
「寒さを避けるために、塁壁内部の通路に避難しているのだろう」
シャンの指摘に頷きつつ、ゆっくりと旋回、盤都の上空を横切る。迎賓館も展望塔も政府官舎も、影も形もない。倒壊して完全に崩れ去ったようだ。
あっという間に盤都の上を通り過ぎた。
水流のせいだろう、盤都の東側に大量の流氷やゴミが吹き寄せられていた。
離陸してから、この間四分。
シャンの指示の元、オバルはバンザイ機の機首を東南東に向けた。
本来なら眼下に果てしなく火炎樹の農園が広がっているはずだが、いま見えるのは、黒い水面に所々箒のように突き出た火炎樹の樹冠だけだ。その樹冠の付け根に身を寄せ合った人たちが、飛行機に向かって手を振る。しかし、それに応える暇はない。
もういいだろうとばかりに、オバルが機を加速させながら高度を上げた。
前方、高度八百から九百メートルくらいの高さに、分厚い雲の底が連なっている。べったりと雲が空を塞ぎ、どんよりとした薄暗い夕刻のような世界だ。
視界は概ね良好。巨大な湖と化したドバス低地の海への出口は、南と北から伸びる二本の細長い半島によって挟まれ、海峡となっている。おぼろに見て取れたのは、その歯間海峡を繋ぐボギアン洲が、巨大な堰となって海水を塞き止め、ドバス低地を湖に変えている様だ。そのシフォン洋の水平線を望むボギアン洲の右手前、南東約百二十キロの地点に、セリ・マフブ山系はある。低く垂れ込めた雲で、山系の上半分が雲に隠れた状態は、まるで湖と雲を繋ぐ巨大な柱に見える。
春香がシャンと一緒に訪れた時は、快速の機扇船で片道五時間かかった。それが飛行機だと、ほんの十分弱。しかしオバルは真剣な眼差しで計器を眺めていた。気象の状態や着陸地点を探して旋回している間に、五分や十分はすぐに経ってしまう。特に問題はその山系に着いてからだ。湖宮の建物の配置などは、シャンから説明を受けて頭の中に入れてある。バンザイ機は滑走路を必要としないが、それでも着陸のためには、ある程度の広さの平らな地面が必要になる。
シャンの話からして、オバルは講堂前の広場を着陸地点に想定していた。気がかりなのは霧だ。湖宮は霧の壺という異名を持つ。探査装置が使えない今、もし霧が出ていた場合、湖の中の小さな点のような湖宮をどうやって見つければ良いのか、策が思い浮かばない。
ただ霧がそれほど濃くなく、湖宮さえ目視できれば、着陸を強行するつもりだった。
陸上が無理なら、岸に近い水面に不時着すればいい。この機は軽いために、胴体自体が浮子となって直ぐには沈まない。不時着のことも考えて、四人は服の上から備え付けの救命胴衣を着用していた。水の上に着水することになった場合、飛行機から脱出して岸まで泳がなければならない。噂では、ラリン湖の水は決して凍ることのない水で、周辺地域よりも温かいという。
どちらにせよ泳ぐようにならないことを祈るばかりだが、それも含めて、やはり実際のことは、カルデラの内側に入ってみなければ分からない。
操縦竿を握り締めたオバルが、張り詰めた顔で前方を睨み付けていたのに対し、後部座席の春香は、金属板の隙間から見える空からの眺めに見入っていた。
春香の足元、前の座席との間には、シロタテガミが入りこんでいる。そのため春香は、シロタテガミの首を抱きかかえる格好になっていた。動物の毛の仄かな温もりが伝わってくると、なんだか緊張感が薄れる。それに空からの景色は絶景だ。
前の二回のフライトでは、とても景色を楽しむ余裕などなかった。
飛行機を移動の手段として当たり前に使っていた春香の時代、雲の上から大地を俯瞰して眺めることは日常茶飯のことだった。でも今は違う。この時代この状況で、この高さから世界を見下ろす、それは凄く新鮮な体験だ。盤都迎賓館の展望台からでも望むことのできなかったドバス低地の全貌が、眼下に広がっているのだから。
春香の座る側からは、洪水によってできた広大な湖の遙か先に、ドバス低地北縁の波のような丘陵の連なりと、後方のドレ・ベベル山系の釣鐘状の峻峰が望める。視線を手前に落とせば、左に見える白っぽい島々は、鉄床島のある万越群島だろう。こうやって見ると、かなり広範な地域に、頂上の平らな島が点在している。
その万越群島の風景に気を取られているうちに、セリ・マフブ山が近づいてきた。
オバルが機首をやや右に向け、山肌を左に見ながら飛ぶ。カルデラの内側から流れ出ているスブア川を探している。
プロペラの回転軸を少しずつ立てて前方への推力を落とす。スブア川の流れるスブア峡谷が現れた。山系に雲が被さっているため、峡谷がまるで山肌に空いた洞窟に見える。躊躇なくオバルは、機首を峡谷の中に差し向けた。
増水のせいか、眼下のスブア川の水の流れは、ほとんど止まったように見える。それよりも、峡谷の上を雲が塞いでいるために、日没のように暗い。その暗い屹立する峡谷の岸壁の間を、バンザイ機が機体を右に左にドリフトさせながら突き進む。ヘリコプターと一般機の合の子のようなバンザイ機でなければ、とてもこんな峡谷を通り抜ける芸当はできないだろう。それでもオバルは噛りつくように操縦竿を握り締めていた。
不安が頭上の雲とともに、重圧としてオバルの肩に伸しかかり始めていた。
カルデラの内側が霧に覆われているかもしれないということは、想定の範囲内だ。しかし、霧がこの峡谷に流れ込む可能性までは、考えていなかった。
峡谷の岸壁にぶつからないように飛ぶのは、今が限度。もし霧で視界が遮られたら、その瞬間に機は岩壁に激突してしまう。前方に霧が見えたら直ぐに機を上昇させ、カルデラの上に出るしかない。だがそれは雲の中に入るということだ。レーダーの使えない状態で雲の中に入る、それは飛行経験のないオバルには想像も付かないことだ。好天ならいざ知らず、この悪天候のなかを、素人同然の自分がどこまで飛行機を使いこなすことができるか、そのことを考え、オバルは奥歯を噛み締めた。
緊張で肩に力の入ったオバルに、シャンが忘れていたとばかりに、「峡谷の出口前に、アーチ型の岩の門がある」と叫んだ。
「見えている、もう目の前だ」と言い返すや、オバルは機首を下げた。
岩山のアーチが淡い霧に浮かび上がる。
この状態ではアーチの中を潜り抜けるしかない。
「行くぞ!」とオバルが気合を入れるように宣言した時には、爆音が霧の渦を巻き込みながら、アーチの下を潜り抜けていた。
臨検門と呼ばれる岩の塔を抜けると、スブア峡谷は最後右にカーブを描いて湖に繋がる。
操縦悍を傾け、機を右に旋回、岸壁の屏風を飛行機の腹で擦るようにして抜ける。
と、前方を霧が完全に塞いでいる。
「まっすぐ進め、ラリン湖だ」
「だめだ、霧で何も見えない」
叫び返しながら、オバルは機を減速、ホバリングの状態に持っていく。しかし慣性のまま機体が流れる。自動航法の機器が正常ならば、指定した位置での飛行が可能だろうが、姿勢制御はできても位置の指定ができない。機体はあっという間に霧の中へ。
目測で上昇。とにかく峡谷の上に出るのだ。
すぐ右に霧を通して断崖の壁面が見えた。翼が接触すればその瞬間、機は失墜する。
信じて上へ。直後、機体にかかる抵抗が消え、バンザイ機は霧を抜けた。
目の前に広々とした湖面が広がっていた。
分厚い雲がカルデラ山系の上を塞いでいた。一部雲の薄くなった場所があるのか、淡い光が、ぼんやりとラリン湖右手奥の湖面を照らしている。スブア峡谷の出口を塞いでいたのは、湖の霧ではなく雲、北西の風に押されて動く雲が、カルデラの山肌に衝突して下に落ち込むように流れ、峡谷の出口に入り込んでいたのだ。
とにかく霧が出ていないことに安堵の胸を撫で下ろす。
湖宮のある島は、スブア峡谷の出口から左手前方にある。
機首をカルデラの左斜面に向けながら、オバルが体を前面の風防ガラスにくっつけるようにして「湖宮はどこだ」と叫んだ。
「どこだといって、ほら、左前方に」
そう言いかけたシャンが言葉に詰まらせた。島影がない。いや湖宮のある辺りに浮いているものがある。だがそれは明らかに島とは違う。
「左前方、水面に何か浮かんでいる、あれに向かって飛んで!」
シャンが声を張り上げた。言われなくともオバルは水面に浮いたゴミに機首を向けていた。すぐにそのゴミのようなものが近づいてくる。
凛とした波一つない湖面を、バンザイ機がさざ波をたてて通り過ぎる。機は大きく右に迂回、ゴミの浮かんでいる場所に戻ってきた。どこにも湖宮はない。
プロペラを立て、ホバリング状態で眼下を見つめる。雑多なゴミに混じって、中型の船が腹を見せて浮かんでいた。拝殿前の泉にあった、ご神体の船だ。ほかにも小型の船や荷箱など、様々な物が撒き散らしたように漂っている。
絶句しているシャンに、オバルが声を張り上げた。
「念のため、カルデラの内壁に沿って湖内を一周する。岸沿いに何かないか、見てくれ。飛ぶのは一度だ。何も見つからなければ、カルデラから外に出る。泡壺の電力を無駄にはできない」
そう叫ぶと、オバルは機首をカルデラ内壁の切り立った岩肌に向けた。
擂り鉢の内側に沿って右に旋回、時計回りに飛ぶ。オバル以外の三人も、必死で眼下に眼を凝らす。しかし見えるのは、静まりかえった湖面と、切り立った岩肌だけだ。雲に切れ目ができたのか、新たに光が二筋差し込んで、ガラスのような湖面に鋭く反射する。
カルデラ内を半分ほど回りかけた所で、オバルが機首を頭上にできた雲の薄い部分に向けた。
上方に傾いた機体のなかでシャンが叫んだ。
「どうする」
「カルデラの外を探す」
「外?」
操縦悍を引き、出力を高めながら、オバルが喚いた。
「分からないか、水の上にあったものが無くなったと言うのなら、そしてそれが湖に沈んだのでないなら、どこか他の場所に移動したということだ。移動するのなら、何も湖の中にいる必要はない、水路はあるんだから外に出るだろう」
「湖宮が……、まさか」
「そうとしか考えられない、湖宮は浮き島、いやもしかしたら巨大な船なのかもしれん」
「そんな」
「それにもう泡壺の電力が少ない。不時着するにしても、カルデラの内側の切り立った崖ではどうしようもない、カルデラの外側の斜面なら、まだ何とかなる」
泡壺の蓄電量を示すランプが、赤を点滅していた。
つい今しがたオバルは気づいた。このバンザイ機に装備されている発電機は、泡壺の電力の残量がある一定値を下回ると、自動的に稼動を始め、電気を泡壺に補充し始める。つまり泡壺の電力が尽きた時が、飛行の終了ということ。オバルは泡壺の蓄電量が尽きてから発電機が作動、八分間の飛行が可能だと考えていたが、それが違っていた。予定よりも飛行時間は八分短い。いや、昨夜墓丘で燃料の半分を燃やした。それに当初の予定よりも乗員が増えて重量が……、
シャンがオバルの長い腕を叩いた。
「任せる、やってくれ」
機体が雲と雲の割れ目、雲の峡谷を上昇する。あっという間に高度は千八百メートル。雲の切れ間のやや下方に、真っ白なセリ・マフブ山系の雪嶺が覗く。それを越えると、すぐに機首を下方向へ。雲の中、カルデラの南斜面に沿って高度を下げていく。高度八百で、低地全体を押し包みながら移動する雲の底に出た。
カルデラの外斜面を右に見ながらバンザイ機を飛ばす。
カルデラの周辺も一面の湖。所々で灰色のぼんやりとした柱が、水面と雲を繋ぐように立ち上がっている。雨か霙か雹か雪か……、何かが降っている。所々ドゥルー海から流れ出た流氷が、吹き溜まりのように集まり、水の流れの形そのままに複雑な模様を描く。その紋様によって、左前方カルデラの西に、大きな流れがあるのが分かった。オールベ河の流路だ。春香が腰を浮かせて、前方に腕を伸ばした。
「見て、かなり先だけど、水面に何か大きなものが浮かんでいる」
シャンも気づいたのか「あれは!」と、窓に顔を張り付けた。
すでにオバルの目もそれを捉えていた。
楕円形の島のようなものの上に、建物や柱らしきものが立ち並んでいる。
湖宮だ。間違いない。
機首をその方向に向ける。とその時、機体がぐらりと揺れた。突風と思った瞬間、機体は煽られ、更にガンガンと激しい音をたてて、雹の塊が機体にぶつかり始めた。回転するプロペラに雹の衝突する音が凄まじい。拳大の雹だ。砕け弾き飛ばされた雹が、上空から降り注ぐ雹と一緒になって、機体の側面や窓を激しく撃ち叩く。
そして突風で機体が煽られ、機首が風に正体した瞬間、ビシっと音がして、オバルの目の前、風防ガラスにひびが入った。
「くそっ」
舌打ちをしながら、オバルが雹の檻から抜け出すべく機体の向きを変えようと、操縦桿を傾ける。と今度は、右のモーターが不機嫌な音をたて始めた。見ると配電ラインに異状を示すランプが点滅している。もちろん点検する余裕などない。とにかくこの雹の檻から抜け出すことが先だ。オバルは出力の調整レバーを最大に押し込んだ。
速度を上げた機体と上空から落ちてくる雹が激しくぶつかり合う。衝撃で機体がガガガガと激しい振動で揺さぶられる。まるでドリルで穴でも空けているようだ。
その衝撃が突然消え、プロペラの回転音だけが耳に戻ってきた。叩き付ける雹の雨を抜けたのだ。
機の前方数キロのところに、湖宮が浮かんでいた。
泡壺の容量は、まだ飛行が五分可能なだけ残っている。オバルは詰めていた息を吐くと、機の設定を着陸モードに切り替えた。ところが、上に向きを変えるはずのプロペラが動かない。機はまっすぐに飛び続け、あっと言う間に湖宮の上空を飛び去った。
「どうした、オバル」
シャンの横で、オバルが悲壮な顔で、着陸モードのスイッチを二度、三度と動かす。しかしプロペラは前方に向いたまま。見ると制御システムに赤いランプが点灯している。
残り時間はあと四分。オバルは機を大きく旋回させながら唸った。
「ホバリングができない……」
オバルが操縦システムの主電源を切った。システムを再起動すれば、不具合が元に戻るということはある。ところが今度は、主電源のスイッチが入らなくなった。
隣の席のシャンが、ドアに腕を打ちつけた。
「あと三分、駄目よ、手動で着陸するしかないわ」
「あーっ、プロペラの回転する音が変わった!」
春香が後ろの座席で声を上擦らせた。見るとプロペラの回転が遅くなっている。
オバルは「クソーッ」と舌打ちすると、声を絞った。
「腰のベルトを確認。プロペラ停止後、滑空状態で湖宮に突っ込む。ただし水の上に着水する可能性がある、いつでもベルトを外せる心構えをっ!」
「滑空したまま、降りるのか」
答えずオバルは「目を閉じて!」と叫ぶと、ひびの入った風防ガラスに非常時用の工具を打ち当てた。その瞬間、突風とともに粉々に砕けたガラスの破片が機内になだれ込んだ。
吹き込む風で、溶接した金属板が後方に剥がれ飛ぶ。
オバルは航空眼鏡を手で押さえると、機の前方に横たわる湖宮に視線を集中、機首を縦長の湖宮に直交させるや、一気に高度を落とした。
モーターは停止したが、プロペラは風の力で回り続ける。その回転がどんどん遅くなってくる。
湖宮が近づいてくるにつれ、立ち並ぶ施設が視界の中にズームアップ。
シャンが身を乗り出し、「右端の建物と建物の間に広場がある」と叫ぶ。淡雪のような細かな髪が、猛烈な風に、針のように後ろに逆立ち、引き伸ばされる。
「どれだ!」と、オバルが前方に首を突き出す。実は魔鏡帳にのめり込んでいたオバルは、視力が良くない。シャンほどには細部が見えないのだ。
高度はどんどん落ちてもう百四十メートル、前方三百メートルのところに湖宮がある。
霙が後から追いかけるように叩き付けてきた。
「いかん、降下の角度が大きすぎる、しかし……」
もう湖宮は目の前。着陸するには距離が近すぎる。だが一旦通り過ぎれば、旋回して戻ってくることは不可能、このまま降りるしかない。
「突っ込む!」
そう叫ぶオバルの声を吹き消すように、拝殿の柱列が近づき、視界を掠めた。
斜めに突っ込んだ機体が、オバルがめいっぱい機首を持ち上げたために、上を向いた形で地面に突入、機体の下で物が削れるような派手な音がして、機体が二度三度と、バウンド。バキッと何かが折れる音がして、機体が右に傾く。
直後、右翼が地面に接触、機体はその右翼を支点にして右に弧を描いて回転、最後頭から地面に突っ込むようにして停止した。
次話「拝殿」