浮氷
浮氷
水位は午前三時を頂点として、その後、少しずつ下がり始めた。とにかく水位が下がっている間は安心していられる。
午前四時半、夜明けまでもう一息の時刻に来ていた。
海からの凍風はどうしようもなく寒い。幾度となく雹が跳ね、雷光が瞬く。上空は厚い雲に覆われているようだ。雷鳴にも顔を上げる者はいない。誰もが頭から布を被り、ひたすら体を寄せ合って、石のように塹壕の中にうずくまっていた。動くものといえば、十五分交代の見張りと、時々操縦席から這い出してはバンザイ機の翼に貼り付いた氷を落とす、オバルとマフポップだけだ。春香の横、ジャーバラのいた場所には、いつの間にか、シロタテガミとブチ犬が入りこんでいた。
堪え難い忍耐の時間が過ぎていく。
午前五時、小さな明かりが墓丘に近づいてくるのを、見張りの若者が見つけた。
ジャーバラの乗った桝船だ。船頭のチョアンが掛け声を掛けながら櫓を漕いでいる。
見張りの青年の「娘が、帰ってきたぞーっ」という声に反応して、すぐに立ち上がることのできたのは、ほんの数人だった。関節が固まったようで、体がいうことを効かない。いやほとんどの人は、見張りの声も虚ろにしか聞こえていなかった。そんななか、一番元気なのはアヌィだったかもしれない。この少女はめっぽう寒さに強い。
アヌィに腕を引っ張られて、春香はようやく重石をつけたような腰を持ち上げた。患者たちの寝かされた塹壕で、シャン先生が立ち上がろうとするのが見えた。しかし先生は右手を塹壕の壁に添えたきり動かない。シャンは元々が都の育ち。吹きつける凍風に体が固まってしまったようだ。
春香は必死の思いで立ち上がると、見張りの若者数人と水際に向かった。
近づいてくる桝船の上に、ジャーバラと船頭のチョアン、それに火炎樹の枝と箱が数箱積んである。最後、チョアンが櫓を水中に差し込むようにして、船を岸辺に寄せた。
見張りの若者に支えられて船を下りたジャーバラが、何か話そうとする。
しかし口から言葉が出てこない。顔も口も固く強ばっている。
手で数回口元を擦り上げ、ようやくジャーバラの口から、「ちょっと……、無謀、だった……、みたい」と、切れ切れの声が零れた。
ぎこちない動作のジャーバラの後ろで、チョアンが積んである荷を指し、「塁壁の手前までいくのがやっとだったが、獲物はしっかり手に入れてきたぜ」と、首尾を報告する。
震えの止まらないジャーバラは、抱きかかえられるようにして塹壕の中へ連れて行かれた。ガビが懐から出した小瓶をジャーバラに勧める。
「あまり残っていないが、手っ取り早く体を暖めるには、酒が一番じゃて」
ジャーバラが酒の小瓶を呷る一方、船頭のチョアンは、疲れた表情を見せてはいるが、平然と見張り穴に戻ってきた。酒と麻苔にどっぷり浸かっていても、長年船頭を務めて、体が寒さに慣れているのだ。
ジトパカが「残りだ」と言って、チョアンに薬の入った小袋を渡した。
「薬が切れてきたら、また船を出すぜ」と、チョアンは不敵な笑みを浮かべると、ジトパカの後ろにいたガビに、二本指の手を突き出した。
ガビがチョアンの手に小銭を押し込む。どうやら賭けをしていたらしい。
チョアンが、他の翁たちからも小銭を徴収しているところに、若衆組の青年たちが、桝船に積んであった荷を担いで戻ってきた。水を吸った箱が三つと、火炎樹の枝が五束。
「もっと積んで来たかったが、あの船ではそれが限度、箱の中身は粒餅だ。それだけあれば、全員に温かい餅粥が回せるだろう」
悠然と言って、船頭のチョアンが集めた小銭をジャラジャラと嬉しそうに揺すった。
塹壕と塹壕の間に掘られた浅い穴で、再び火がおこされる。火炎樹の枝に火が移り、沁みこんだ水分がジュルジュルと音をたてて弾ける。火の上に鍋をかけ、水面を漂っている氷を放り込む。もちろん海氷の中から川氷を選り分けたものだ。赤い炎がパチパチと音をたてて、塹壕のある墓丘の上を赤く照らしだす。火の音を聞いているだけでも、体が温まるような気分になれる。
ジャーバラは春香に首を凭れかけて眠ってしまった。
ジャーバラの様子を見にきたホロに、銭を数え終わったチョアンが、キセルを一服つけながら話しかけた。
「都のお嬢さんには、きつい往復だったろうな。それよりあんた、外套を貸したままで大丈夫なのかい」
ホロが腰に手を当て、揺するように背を伸ばした。
「おれは、立ちんぼの衛士上がり、寒さはお手のものさ。それに元々塵被りの出なんだ。この程度の寒さならどうということはない。ただし腹さえ空いてなければだがね」
多少やせ我慢の節はあるが、それでも面構えからして、ホロは寒さに強そうな風貌をしている。ほとんどの人が塹壕の中で石のように身を屈めているなかで、こうやって平然と外に出て来れるのだから。
そのホロが塹壕の中の人たちを心配げに見やった。ほとんどの人は、ジャーバラが帰ってきたことも、火をおこしていることにも気づいていない。
都の人間は、寒さに耐えることで精一杯。窮民街の人間は、寒さには慣れていても、体力がなく空腹だった。この墓丘に避難してきた人間で、寒さにも耐えられ、空腹でも動けるだけの体力を持った者は、ほんの一握りだ。
「腹さえくちければ、まだまだ持ちこたえられる」
言ってホロが回ってきた火酒入りの角杯をチョアンに渡す。その角杯の中に、チョアンが、小袋の粉末を一摘み振り落とした。
「麻苔か?」
「医療用だがね、こいつを酒に混ぜて飲めば、地獄の釜に茹でられたように体が熱くなる。あんたもやるかい」
「いや俺はいい。地獄の釜は癖になる。気持ち良さに何度も浸かっているうちに、釜から出られなくなって、本当に茹だっちまうんだ」
チョアンは杯の中身をクイッと喉に流し込むと、意外そうな表情を浮かべた。
「真面目だな、お前、衛士上がりだろう」
「ああ衛士仲間は、みんな麻苔をやっている。体の冷える仕事だからな。そして中毒で亡くなっていくんだ」
「程々にしとくことだ」と言って空杯を受け取ると、ホロはその場を離れた。
「ホドホドか……」
チョアンは左右の手に二本ずつ残った自分の指を眺めながら、そう呟いた。
ジャーバラと船頭が戻って十五分、焚火の上の鍋の氷は、まだ氷のままだ。これが融け、粒餅が放り込まれて餅粥ができるまでには、もうしばらく時間がかかる。粥ができるまでの待ち時間を潰すように、チョアンが見てきたことを、見張り穴の連中に伝えた。
チョアンの説明では、行きは追い風ということもあって、予定通り四十分で盤都の塁壁東端の進路塔に行き着いた。進路塔は瓦礫と化し、塁壁も崩れ残った部分が所々で水から顔を覗かせる状態で、闇の中をどう見透かしても、塁壁の内側に建物は見当たらない。代わってあったのは、水面を覆う多量の浮氷である。
崩れた塁壁沿いに船を漕ぎ進めるが、浮氷が動いているため、下手に乗り入れると、身動きが取れなくなる。やむなく浮氷の少ない都の東側に回り込む。
ところが、火炎樹地帯まで船を漕ぎ着けたところで、やはり浮氷で行く手を阻まれてしまった。結局都の中に入ることも都の人に会うこともできず引き返すことに。それでも墓丘に向けて方向転換した直後、水面を漂うゴミの中に食料の入った箱を見つけ、それを引き上げ墓丘に戻ってきた。
ざっと行程をさらうと、チョアンは、塁壁の残骸の間から見えた篝火や白灯の数からして、盤都の南部にはかなりの人が生き残っているのではないかと、希望的な観測で話を締めくくった。
話し終えたチョアンに、ガビが取っておきの烽火酒を差し出す。火酒が胃に火を灯すなら、烽火酒は胃を燃え上がらせる。先ほどの麻苔の粉末と烽火酒で、チョアンの体が一気に火照り始めた。その目眩のするような火照りが、チョアンの脳裏に焼きついた光景を忘れさせてくれる。口にはしなかったが、チョアンが目にしたものは他にもあった。
火炎樹地帯の手前で引き返し、元の分水路上に戻ると、前方に浮氷の群れが現れた。
その浮氷に近づき、チョアンは櫓を動かす手を止めた。浮氷と思ったものが、なんと流れ着いた人と家畜の死体だったのだ。白灯の小さな明かりでは、遠くまで見通せない。しかし闇の底を帯のように続いている。服装からして南部の牧人たち。おそらくは門京でキャンプを張っていた避難民の連中が、洪水によって流されてきたのだ。長年川の上で仕事をやってきたチョアンにとって、溺死体は見慣れたものだが、それでも、いま目の前にあるのは聞きしに勝る数だ。
闇のなか、白灯を掲げて死体の群れから抜け出そうと、船を進める。それが漕いでも漕いでも途切れることなく死体が現れる。分厚い綿入れの服を着込んでいるせいか、一様に沈むことなく浮いている。背中を上にして浮いている死体はいい。仰向けに浮いた死体の顔が明かりに照らされると、さすがのチョアンも目を背けた。
脳裏に張り付いた凄絶な光景を振り払うように、チョアンは麻苔の小袋を取り出し、烽火酒と共に呷った。そしてキセルを何服か吸い込み、気分が落ち着いてきた頃、辺りに餅粥の匂いが漂い始めた。湯気の立つ鍋に固形の味素が放り込まれる。
味素の胃壁をくすぐる匂いに、塹壕の中で石と化した人たちが、もぞもぞと体を動かす。
一人二人と塹壕の上に頭をもたげる者も出てきた。
ジトパカが、皆を元気づけようとばかりに、塩気で擦れた声を張り上げた。
「皆の衆、たくさんの人が死んだろう。それでもわしらは生きとる。生き残った者は、死んだ人たちの分も生きなきゃならん。そのためには、まずは食べることだ。さあ餅粥を回せ、朝までもう一息じゃ、これを食べて何としても生き延びるんだ」
次々と餅粥が塹壕の中に回される。
立ち昇る湯気を見ているだけで、元気が湧いてくる。生きることと食べることが一本の太いラインで直結している。鼻をすする音と、汁を飲み込む音、それに所々で話し声も。
そうして皆が温かいものを腹に流し込んでいる時、砂洲の北側、トイレ用の穴付近で、ギャッと女性の悲鳴が上がった。
見張り役の青年数人が、白灯をかざして駆け付ける。
水位が下がったお陰で、北側の墓丘が姿を見せていた。その砂洲の手前で、初老の女性が、腰が抜けたように座り込んでいた。駆けつけた青年たちも、自分たちの差し出す白灯の照らす水面を見て、立ち竦むように足を止めた。北側に伸びる墓丘の内側に、吹き溜まりのように人と家畜の死体が打ち寄せられていたのだ。
一度下流に流されたものが、水の流れか風向きのせいで、ブーメラン型の墓丘の内側に吹き溜められたらしい。ちぎれたヨシの葉が、人と家畜に関係なく纏わりついている。波で翻弄されたのか、手足を絡め、折り重なるように人と家畜が交じり合い、それがそのままの形で海からの凍風に曝され、凍り始めていた。
自分たちも一歩違えばこうなっていたのだし、もしこの後、再度、決壊流が押し寄せて来れば、間違いなくこの死体に仲間入りをすることになる。
青年たちは、気押されたように死体に背を向けると、腰を抜かした女性の腕を取って塹壕の方に引き返そうとした。
その青年たちを、様子を見に来たジトパカが叱り飛ばした。
「何で引き返す。吹き寄せられているのは死体だけじゃない、燃える物も混じっとる。なぜそれを拾わん。夜明けまでには、まだ時間がある。夜が明けても上空は厚い雲だ。霙や雪だってまだまだ降る。気温が上がる保証なんかどこにもない。体を暖める物は、どんな小さなものだって拾わにゃならん」
塩分で嗄れたガラガラ声で一喝すると、ジトパカは若者の手から白灯を取り上げ、「来い!」と怒鳴って、絡まりあった死体の方にずかずかと歩み寄った。
そして「ほらそこに火炎樹の枝が転がっておる、ボサッとしとらんで、拾うんだ!」と若者の尻を叩く。促されて若者が、足元に転がる枝を掴んで引っ張る。
凍り始めた枝が、ジャリッと音をたてて剥がれ、枝の上に乗っていたうつぶせの死体がぐるりと回転、捻れた顔の中に白目が覗く。
「ギャッ!」と、若者が手にした枝を放り投げた。
やれやれと首を振りながら、ジトパカはしゃがんで死体の顔を下に向けた。そして尻餅を着いた若者や、後ろで様子を窺っている若衆組の青年たちに呼びかけた。
今度は怒鳴り声ではなく抑えた声でだ。
「ほら、突っ立っとっても、体が冷えるだけじゃろうが。体を動かして拾う拾う。わしらは仏さんたちの分まで、生きなきゃならん。遠慮せんでいいぞ。死体が身に着けている物で、着られそうな物があれば脱がせて持ってこい。ザックがあれば、食料や油瓶が入っていないか確かめるんだ」
まるで追剥ぎ、禿げ鷹、いや墓場荒らしである。
最初は呆然としていた若者たちも、明かりを手に、恐る恐る死体の山に足を踏み入れ、燃えそうな物や食料を集め始めた。死体に混じって相当量の火炎樹の小枝が転がっている。
さすがに死体から衣類を剥ぎ取る者はいなかったが、ザックの中の衣類や燃えそうな物は、どんどん墓丘の中央に運ばれ、火の周りに並べられた。炙って乾かすのだ。水位は少しずつではあるが下がり続けている。水の下から現れる死体とゴミの中から、燃える物や衣類が取り出されては、塹壕の縁に積まれた。どんな仕事も要は慣れだ。気がつけば、物を捜す者と、運ぶ者、手分けをして作業を進めるようになっていた。
そして数人が束になって、新たに見つかった枡船をゴミの間から引き出そうとした時。
耳を聾する激しい音が墓丘を包んだ。
それが何であるか、最初は分からなかった。落雷が落ちたのかとも思った。雷鳴は間欠的に頭上から聞こえていたからだ。だが、それとも違う。
打ち寄せた死体やゴミの中で、青年が二人呻いていた。
一人は体を丸めたまま手で顔を押さえ、もう一人は両腕を大きく広げて声にならない声を上げている。その青年の両足が膝から下で無くなっている。側に若衆組の仲間が寄り添っているが、そんなことは目に入らない様子で、足の無くなった青年は手をブルブルと震わせながら、擦れた声で叫び続ける。
駆けつけた大人たちは、直ぐに事情を理解した。
土竜だった。盤都が避難民の流入を阻止しようと埋設した土竜弾が、濁流で流され、死体と共に流れ着いていたのだ。近くにいた者の話では、死体の下にあった火炎樹の枝を引き出そうとして、爆発が起きたらしい。直接触れたり、踏みつけたのではなさそうだが、それでも若者が二人、酷いケガを負ったことは確かだ。
駆けつけたシャンは、足を失くした青年が致命傷でないと見るや、体を丸めた青年を診るために屈みこんだ。内臓をやられていると命に関わると考えたのだ。が傷は腹ではなく、両手で押えた顔面らしい。
後ろから墓標と外套で作った即席の担架を、ジーボたちが運んできた。
そしてその時、次の爆発が起きた。
耳が塞がり意識が飛んで、世界が停止する。
頭の中で鳴る耳鳴りのような音が、揺れるようにして遠ざかり、少しずつ感覚が体に戻ってくる。ゆっくりと目を開け、首を回す。爆発の衝撃で白灯やカンテラが弾き飛ばされ、消えている。暗闇のなか、足元に転がる人と家畜の死体の区別もつかない。
そこにいた全員が動きを止めて、周りの様子を窺っていた。
誰かが手持ちのマッチを擦ると、倒れていたのはベコ連の翁と、シャンだった。
爆発の瞬間、シャンは衝撃を右半身に受け、意識が飛んだ。
シャン自身は、頭と右腿の辺りに何かが触れたように感じたが、それも瞬間的なことで、シャンの意識はそのまま暗闇の中に吸い込まれた。
そして……、
シャンに意識が戻った時には、土竜の爆発から一時間が経過していた。
シャンは塹壕の中で患者たちと並んで寝かされていた。自分を心配そうに見つめる春香の顔が目の前にあった。
体を動かそうとすると、後頭部と右足に痛みが走る。右手もだ。
「しばらくは動かないで下さい、ということです」
春香の言葉に「なぜ」とそう言いかけて、シャンは自分が土竜の爆発に巻き込まれたのだということに思い当たった。
「先生のすぐ横で、爆発が起きたの」
春香の話では、ケガをした青年たちを運ぶのに邪魔になりそうな子牛の死体をどかそうとして、爆発が起きたという。子牛を持ち上げようとしていたベコ連の年寄りは、腰を折り曲げたその真下で爆発が起きたために、爆発の衝撃を直接体全体に受けて即死だった。ただその翁が盾になったおかげで、シャン自身は、すぐ横で爆発が起きた割に、軽傷で済んだらしい。らしいというのは、手当をした人から、春香はまだ詳しいことを聞いていなかったからだ。
「手当……、誰が?」
「私です、お気づきになりましたか」
春香の後ろから、歳は三十過ぎの牧人服の女性が顔を覗かせた。一瞬間があって、シャンが「トンチーか」と、驚いたように目を見開いた。
牧人服の女性がゆったりと頷く。丸顔色白の肌に、淡い茶髪、草原のような薄緑色の目の小柄な女性である。本名は別にあるのだが、いつも頬をピンク色に染めているのが、豚虫を思わせることから、豚虫をもじって愛称のトンチーで呼ばれている。
トンチーは、昨年までシャンの診療所で助手を務めていた女性で、施療助手、春香の時代で言うところの看護師兼、診療技師にあたる。シャンは患者の出自や身分に関係なく医療を行ないたいと考え、民族間の軋轢の少ないベコス地区に診療所を構えた。またそれに合わせて、施療助手に亀甲台地出身のトンチーを雇った。ところが牧人会の施療院は、自分たちの患者をシャンの診療所に取られると考えたようで、以後シャンの診療所と牧人会の施療院の間で何かと諍いが起きるようになる。そのことを気にかけたトンチーが、自分からシャンの診療所を去ったのだ。二年前のことである。
「しかし、どうしてここに……」
不思議そうな顔をしているシャンに、トンチーが軽く微笑んだ。
「ここに着いたのは、半刻ほど前、水の上を漂っていて爆発の音が聞こえました」
土竜弾の爆発があった直後のこと、六名の牧人を乗せた筏が墓丘に流れ着いた。
火炎樹の上に避難していたグループが、ゴミを寄せ集めて筏を作り、万越群島の岩山を目指して漕ぎ出したのだが、途中で筏がばらけ、やっとの思いでこの墓丘に漕ぎ寄せたのだという。
話すトンチーがシャンの右手を取ると、顔を曇らせた。包帯でぐるぐる巻きにされた手は、中に添え木が当てられているのか、指は動かない。
そのことにシャンも気づいたようで、「患部の状態は」と聞く。
視線を外すと、一呼吸置いてトンチーが元の雇主に説明した。
「意識を失ったのは、爆発の衝撃で倒れた際に頭を打ったからのようです。頭部に特に外傷はありませんでした。実際の傷は右足大腿部と右手になります。爆発で弾き飛ばされた物を受けて出来た傷でしょう。右足上部は擦傷で皮膚が幅五センチ、長さ二十センチほど浅く抉れ、火炎樹の枝の破片がいくつも突き刺さっていました。ただそれよりも、問題は右手ですが……」
「右手がどうなのだ」
「付け根が大きく抉られていました。創傷で筋肉、腱、神経ともに断裂しているようです。私のできる範囲で処置はしておきました。洗浄と抗菌剤の塗布と……」
説明を受けるシャンが、据えた光を目に浮かべた。今後の処置次第では、右手が使えなくなると感じたのだ。分厚く包帯を巻かれた手を、歯がみをするように睨みつける。
が、それもほんの一瞬のことで、シャンは気を取り直すように顔を上げると、「両足を取られた青年と、顔をケガした青年は?」と、土竜でケガをした青年の状態を質した。
トンチーが二人の状態を説明。応急処置は施したが、トンチーの見立てでは、二人とも早急に外科的な処置が必要だという。
それを聞いて、シャンは自身の右手にもう一度視線を落とした。
指先さえも動かない右手は、使い用のない手だった。
「気になさらないでください。あの二人の青年は、意外とあっけからんとしていましたから、それよりも……」
声を低めたトンチーが、塹壕の外に座り込んでいる翁のジトパカに目を向けた。皆に背を向け、肩を落して座り込んでいる。シャンは悟った。青年たちを叱責し、打ち寄せられたゴミや死体から燃える物を集めさせたのは、ジトパカなのだ。その結果、仲間の翁が亡くなり、若者二人は一生残るであろう傷を受けた。そして、シャンも……。
ジトパカは自分の呼びかけを悔いているのだ。
「先生は横になっていて下さい。傷からして熱が出る可能性もあります」
「ああ分かっている。それより今は何時だ」
横にいた春香が「五時四十五分です」と、小声で告げる。
「立てるかな」と言うと、シャンは使える左手に力を入れて、塹壕から立ちあがった。その顔が歪む。手の傷よりも足の傷が痛む。突き刺さった木の破片が肉の中で暴れている。
春香が手を添えようとすると、「ありがとう、しかし今はいい。ここにいなさい」と言って春香を下がらせると、シャンは一人で塹壕を出て、ジトパカの所に足を引きずりながら歩いていった。それを春香は塹壕の中から見ていた。
シャンはジトパカの隣に右足を伸ばした状態で腰を落とした。
話しかけるシャンに翁は困ったように首を振るが、それでもシャンに元気な方の左腕を差し出されると、項垂れたまま見張り穴に戻ってきた。
ジトパカが見張り穴に腰を沈めるのを見届けると、シャンは自分たちを取り囲む世界に目を向けた。日の出まで、あと半刻。空一面に広がる重苦しい雲の下、東の水平線と雲の間の僅かな隙間に、仄かに濃紺の紫が混じりかけている。
墓丘の東側の斜面では、バンザイ機の離陸の準備が行われていた。機体の表面にびっしりと貼り付いた氷を、マフポップが削ぎ落としている。それとは別に、翼のモーター部分がシートで覆われ、中にかき集めたカンテラが明かりを付けた状態で置かれている。少しでも暖めて、凍結を防ごうとしているのだ。それとは別に、ヒーターの調子が悪いらしく、オバルは操縦席の中に潜り込んで配線を調整している。
塹壕の間に掘られた焚火の穴では、まだ小さいながらも炎が立ち上がっている。何とか朝まで火は持ちそうだ。
包帯を巻かれたグローブのような右手に痛みが走る。目をやると包帯に赤い染みが浮き出ている。出血が止まっていない。
シャンはもう一度、東の空に目を向けた。
つい数秒前よりも、ほんの少し夜の闇が薄くなったように思う。
夜は明けるだろうか。いや、必ず明けさせてみせる、必ず……。
次話「消失」