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星草物語  作者: 東陣正則
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覚醒


     覚醒


 午後も大きく回った時刻、板碑谷奥の岩場では、岩の割れ目を石積みで囲っただけの祠堂で、丞師が天啓を授かるための瞑想を続けていた。丞師が祠堂に入ってすでに丸二日。外ではインゴットとシーラがひざまずき、じっとその時を待っていた。小さな明かり取りの窓に付けた羅紗のような荒い布を通して、編み椅子に腰掛けた丞師の姿が見える。

「終わった、扉を開けてくれ」と、かすれた声がした。

 立ち上がった二人が、祠堂の扉を手前に引き開けると、中に仏像のように座した丞師の姿があった。小柄な体格の丞師は、すでに七十を過ぎた齢になる。

 水盤に足を浸した丞師が顔を上げた。

「随分、時間がかかりましたが、お体は」

 問う間でもなく、鬱血して黒ずんだ目の周りに、重い疲労が滲み出ている。

 疲れた声が返ってきた。

「体力も気力も尽くした、残っているのは丞師の抜け殻じゃよ」

 しかし言葉とは裏腹に、丞師の声には解放されたような安堵感が漂っていた。

「では……」

「ああ、今しがた下った、天啓がな。この地を去る時が来たようだ」

 シーラが丞師の足を水盤から引き上げ、乾いた布で拭き清める。

 足を委ねたまま、丞師は本当に疲れたという表情で肩の間に首を埋めた。

 シクン族は一定の周期で集落を移動させるが、その移転先となる新しい集落の位置と移転の時は、丞師と呼ばれる一族の占者が、天と地の啓示を受けて決定する。

 丞師はこのオーギュギア山脈の西の曠野に住まうシクン族の代表であり、天の啓示、天啓を授かることのできる唯一の占者とされる。

 天啓を得るための占事は、香苔を薫きこめた祠堂と呼ばれる狭い小屋で執り行なわれる。ただ占事の方法はそれぞれの丞師で異なる。今の丞師は、冷水に素足を曝し、寒さに凍てつくトランス状態のなかで、水に浮かぶ苔のバラツキから未来を読み取る。占事は体力を消耗する行為で、一年に数度の天啓を授かるのが限度だという。

 インゴットが丞師の肩に毛布を被せ、割れた唇に湯呑みの縁を寄せた。

 一口白湯を啜った丞師は、目を見開くと、おもむろに天啓を口にした。

「板碑谷に暮らす九世帯、四十五名のシクンの民は、明日をもってここから北東十七馬里の地にある、一族が莫庫谷と呼ぶ枯谷に移転する」

 それが天啓だった。

「やっと、移転先が決まったな」

 小さく微笑むと、丞師は一転ひび割れた口元を引き締め、それを口にした。

「もう一つ大事な天啓が下った。丞師にとって最後の占事となる、天啓じゃ」

「では、次代の丞師様が」

 インゴットの問いかけに、丞師が静かに顎を引く。

「決まった、これでようやく私も引退できる。そして女に戻れる。まあ戻ったところで、よぼよぼの老婆、女とも男ともつかぬ存在じゃが」

 丞師がクツクツと笑った。

 ひとしきり笑い終えると、丞師は、傍らにひざまずき、冷えた足を擦り続けるシーラの肩に手を置いた。七十一歳の丞師の視線の下に、四十三歳のシーラがいる。

 インゴットは、わきまえたように後ろに下がると、外に出て羅紗の布を下ろした。

 丞師がシーラに語りかける。

「お前も巫女の血を受け継ぐ者なら、大地の慟哭が聞こえるであろう。この後に来る災厄のな。お前は一族の掟を破った。何度もだ。ゆえに後継者の候補から外されてきた。

 それが天と地の霊は、お前以外の全ての候補を力不足と拒否した。平時は平時の占いで良い。しかし災厄を乗り切るには、気に猛けた、規範を乗り越えるほどの異占を断行できる者でないと駄目だ。そう言って天と地の霊は、お前を指名し続けた。

 できることなら、お前を指名したくはなかったが、天と地がお前を求めた」

 黙して足を擦り続けるシーラに語りかけつつ、丞師と呼ばれる老女は、自身の過去に思いを馳せた。丞師になって四十年近い。長く丞師をやってきたおかげで、元の名前がなかなか思い出せない。いったい自分の名は、何であったか……。

 今を去る三十八年前のこと。五歳の娘を持つ婦人が、一族の丞師に指名された。

 通常、丞師には女性、それも非婚の女性が任命される。ところがその時は、先代の急死によって急遽既婚の女性が任命された。正規の手続きを経た丞師が定まるまでの暫定的な仮の丞師として、十七のミトの代表の合意のもとに、選出と任命の儀式が行われた。

 その後適当な候補が現れなかった訳ではない。なのに四十年近くの長きにわたって、自分が丞師を続けることになった。凡庸な占術者で、かつ既婚者ではあったが、天と地が継続と命じ続けたからだ。

 その仮の丞師に任命された婦人ミルラには、一人の娘がいた。

 娘は幼くして母親から引き離され、養母となる婦人のいる別のミトに引き取られた。その母親ミルラから引き離された娘が、シーラである。

 巫女の資質とは、後天的なものではなく先天的なものだ。

 隔世遺伝という言葉があるが、占術あるいは霊能は、八世遺伝と呼ばれ、八世代のほぼ二百年の間隔を置いて才能が発現する。強すぎる遺伝子のため、遺伝子が薄まった時にちょうどよく現れるのだという。四百年前、シクン一族をオーギュギア山脈の北東斜面から山を越え、山脈西のこの地に導いたとされる伝説的な巫女がいたが、その巫女の家系は、その後、仮の丞師に任命されたミルラを除いて、丞師を出していない。その伝説の巫女のちょうど十六世代後の子孫が、シーラだった。

 生まれた当初、一族の誰もが、もしかしたらという目でシーラを見た。伝説の巫女の再来を期待したのだ。しかしシーラ当人に霊的能力の発露は見られなかった。一族の面々は、血がどこかで薄まったか変転したのだろうと噂した。

 ところが、それは違っていた。

 母親と引き離されたことを契機に、シーラにその能力が目覚めた。

 まずは人の死が見えるようになる。無邪気な幼女はそれを口にし、共同体の中で忌み嫌われていく。シーラを引き取った養母は、幼女の母親でもある丞師ミルラの手前、シーラの養育を放棄することもできず、かといって、通常の子供に与える愛情を注ぐこともできなかった。シーラの何者をも見透かすような目は、愛情の対象になり得なかった。

 養母の愛情を受けることもできず、共同体の中で疎まれて育った娘は、やがて自分の能力を抑える術を覚える。そうするしか生きていく術がなかったのだ。だがそれで周囲が自分を受け入れてくれた訳ではない。みな腫れ物に触れるように怖々と接しているというのが、本当のところだった。それでも少女は成長、大人の女性に近づいていく。

 大人の一歩手前まで成長した時、シーラは薬苔の交易市で一人の町の青年と出会う。

 そして恋。

 皮肉なことに、シーラにとっては、その青年が初めて自分を受け止めてくれた人物になる。もっとも、青年はシーラの能力を知らなかっただけなのだが……。

 曠野の民は町の人間との交わりを禁じている。シクン族にとって、他族との婚姻は禁忌である。それを犯しての恋。やがて子供を宿す。当時十六歳だったシーラは、ミトを出て出産するが、生まれてきた赤子は異形の子だった。怯懦した青年は遁走。生活の術のない娘は、子供を連れて養母のいるミトに戻るしかなかった。

 しかしミトはそれを許さず、タブーを犯した者としてシーラの追放を決定。ところが直後に子供は亡くなってしまう。その段階でシーラはほとんど錯乱状態に陥っていた。

 ただそれが幸いした。理性の外の人となることで、ミトで暮すことを許されたのだ。

 月日が流れる。

 シーラが精神の平衡を保てるようになった時、すでにシーラは巫女としての能力を失っていた。時が移り、六年ほどして、この世界では遅いが婚姻を結び、やがて出産。残念ながら、この出産でシーラは子供のできない体となった。続いて不幸にも、子供と夫を事故で失ってしまう。ただシーラが、そのことで心を取り乱すことはなかった。

 その頃である。シーラが曠野で遭難した都の青年を救ったのは。

 周囲は、またシーラが一族の禁忌を犯して恋に走るのではと心配したが、シーラもすでに二十代の半ばを過ぎた身。規範に外れることもなく、恙なくその闖入者をもてなし、町の世界に帰した。

 もうミトの誰もが、シーラから特別な能力は消え失せ、凡庸な婦人、薬苔作りの上手な、ありふれた未亡人になってしまったと信じるようになっていた。奇行も消え失せていた。

 さらに七年の後、シーラのところに町の子供が置き去りにされ、シーラがその子供を自身の養子として育てることを希望した時も、特に問題と見なさなかった。今まで彼女が被ってきた不幸や災厄、奇行を考えれば、その程度のことは許されても然るべきと、皆の目には映ったのだ。ささやかなルール違反、許容しうる逸脱と判断された。

 そして二年後、シーラのいるミトは、幸運にも町の近くに移転。預けられた子供は、多少の波風をミトの中にたてながらも、順調に育っていった。

 その少年がウィルタである。

 時は平凡に流れていく。

 ウィルタに成人の儀式が近づき、シーラの顔にしわが目立ち始める頃、シーラの母親である一族の丞師も、すでに七十を超えて老齢の域に入り、後継ぎを早急に決める必要がでてきた。そして丞師の後継者を決めるための天啓の儀式が行われるが、天は後継者を指名しなかった。候補者はいるのに、何度やっても誰も指名しない。

 その難航する後継者選びに、シーラの名が候補として取りざたされることはなかった。生得的に霊的能力を持ち合わせた女性は、能力の程度に関わらず、一度は候補に推されるものだが、既婚歴があり、異民族の子を育て、おまけに一族のタブーを破った経歴のあるシーラは、絶対に後継者の候補たりえなかった。

 むろんシーラ自身も、丞師の後継者になりたいとは思っていなかった。当然といえば当然のこと、今の丞師は自分を捨てた本人である。そして一族の規範によれば、丞師になるということは家族を捨てること、つまりウィルタと別れるということだからだ。今の丞師、母は、自分がもがき苦しんでいる時に何もしてくれなかった。会ってもくれなかった。その恨みが丞師という立場に対してあった。

 丞師は、十七あるミトを定期的に移動しながら占事を行う。その関係で、シーラも母親である丞師と顔を会わせ、時にシーラ自身がお世話をすることもある。今この時のようにだ。そんな時でも、何の感情も湧いてこなかった。

 シーラの心を察したように、丞師が話しかけてきた。

「恨んでいるだろう、この私を、そして丞師という立場を」

 シーラは顔を上げて丞師を見た。今まで正面から対峙して顔を合わせたことはない。

 丞師とは一族の聖者なのだ。七十を過ぎた顔には無数にしわが寄っている。

 そのしわの一部になったひび割れた唇が動く。

「私は凡庸な丞師だった。先代のお告げなしに、ミト長の合意によって選ばれた丞師だ。いずれ正式のお告げが下りて、この大役から解放され、普通の女に戻れると信じていた。解放されれば娘にも会えるし、一族の未来を背負う苦行のような占いからも解放される。任されてみて分かった。丞師とは一族を統べる者といえば聞こえがいいが、要は天に捧げられた生贄のようなもの。皆に代わって一族を代表して天に傅くのが仕事だ。そして全ての『私』を捨てることが強要される。

 私が才能溢れる巫女ならそれもいい、この仕事も楽しかったかもしれん。だが私は凡庸すぎた。才能のない人間が才能を要求される。絶対に失敗することの許されない才能をな。占いとは因果な仕事だ。失敗すれば、皆は天の気紛れを嘆き、中継役の占者に能力がなかったのだと、陰口をたたく。

 まあそれはいい、人の世の常だから……。

 結局、四十年の長きに渡って私が一族を率いてきた。大きな失態も無くだ。今にして思えば、それは自負してもいいことなのだろう。唯一の心残りは娘に苦労をかけたことだ。丞師は私心を捨てねばならぬ。だから娘がミトの中で忌み嫌われ、孤立しても、何もしてやれなかった。もちろんあの頃は、私自身、自分のことで手一杯だったということもある。やがて娘が一族の禁忌を犯して、裁かれ、赤子が亡くなって髪が白くなるほどに心を痛めていても、慰めの声一つ掛けてやることができなかった」

 話に耳を傾けていたシーラが、丁寧な口調で丞師の発言を受けた。

「それは、丞師である以上、仕方のないこと、心を痛める必要はないと思います」

「そう言ってもらえると救われる。だが恨んでくれていい。本当の悔いは、お前をこの重責ある丞師に指名するということだ。それが最大の悔いだ。

 お前に能力があるのは分かっている。子を亡くして以降、お前は能力を失って、普通の女になった。しかしそれが見せ掛けであることを私は知っている。そうすることが共同体のなかで生きていくのに都合が良いからだろう。お前が巫女の能力を失っていない証拠に、お前は遭難している町の人間を助けた。ミトから遠く離れた岩場でだ。偶然を装っていたが、お前が人に隠れて占事を行ったのを、私は知っている」

 シーラは羞かしげに俯くと、少しだけ頬を赤く染めた。

「まあ私もあまり人のことを言えた義理ではないが」

 丞師はゴホンと一つ嗄れた咳をつくと、昔を思い出すように言った。

「一族の未来を占う占事に、私も一度だけ私心を挟んだ。おまえの住まうミト・ソルガの移転先に、マトゥーム盆地の板碑谷を選んだことだ。おまえが町の子供を引き取った後、子供を育てることを考えて、町に近い場所を選んだ。もちろん、候補地がいくつかあって、そのどちらを選んでも問題がないという枠のなかでの優遇だった」

 シーラが意外そうな顔で丞師を見た。

「そうでしたか……」

「そのくらいの役得は許されてしかるべきだろう。お前に子供との楽しい思い出を作ってもらいたかった。ただ、そういうこととは別に、やはり迷った。そして悔いだ。お前を丞師に指名するということは……」

 丞師が深い溜め息とともに、羅紗の隙間から射し込む日の光に目を曝した。

「私の最後の願いは、丞師を引退して普通の女に戻り、お前に会うことだった。お前が受け入れてくれれば、母親として余生を送りたかった。しかし、お前を後継者に選ぶということは、お前が私心を持つことも、個人的に肉親に会うこともできなくなるということだ。丞師の交代は公の場で行われる。だから、お前を後継者に任命すれば、二人が親子として話をする機会は永遠に失われる」

 意を決したようにシーラが言い寄った。

「それでもですか。それでも、私を選ぶというのですか」

 重いまぶたを持ち上げ、丞師が目の前にひざまずく中年の女に視線を合わせた。

「そうだ、丞師になる以上、ウィルタとは別れなければならぬ。このミト・ソルガの面々との個人的な付き合いもだ。それが分かっているから辛いのだ。分かるか、お前に代わる人材がいれば、その者を選ぶ。天啓もそうだったし、私の判断でも、お前しかいないのだ。凡庸な占い師でも、四十年もやっていれば、それなりの洞察力はつく。

 お前の能力からすれば、この後、世界を揺るがす何かが起きるであろうことは、感じているはず。これは凡庸な占者でこなせる役ではない。それを背負うことのできる器の者が、やらざるを得ない仕事なのだ。お前が封印した能力を解き放ち、秘めたる才能を発揮すれば、なんとかこの後に来る難局を乗り切り、一族を生き延びさせることができる。そう思って私はお前を指名する」

 丞師の真摯な視線がシーラの心を打ち据える。

「受けてくれるか、我が娘よ」

 シーラはしばし無言で丞師を見つめ返した。丞師ではなく、自分の遠い記憶に残る母の顔がしわに埋もれて目の前にある。皮膚は弛み、しみで覆われても、目だけは昔のままだ。

 無数のしわを刻みつつ、母もどれだけの辛苦を越えてきたろう。

シーラは老女の顔に手を伸ばすと、その肌に触れた。子供の頃の母の顔に触れた記憶が蘇る。自分も柔らかな肌だったし、母の肌にもまだ張りがあった。その肌が、カサカサの乾いた苔のようになっている。時間とは残酷なものだ。

 母と娘として会うことの叶わなかった長い年月が残酷なのではない。今、母と娘として話すことのできるこの瞬間が、絶対に永遠にならないことが無情なのだ。骨を削るように時は失われていく。それは生きていることの本質でもある。

 シーラは何も言わず、両手で目の前のしわだらけの顔を包むように抱きしめた。

 しばらく後、祠堂から少し離れた場所で佇むインゴットの耳に、「お引き受けします、丞師様」というシーラの声が聞こえた。


 開通式に参加していたシクンの者は、日没前にはミトに戻ったが、ウィルタは夜に行われる夏送りの祭りを春香に見せようと、そのまま二人で町に残った。

 先に板碑谷に戻った面々に、ミト移転の天啓の下りたことが知らされた。ただ丞師の後継者については、十七ある全てのミト長に、内示が伝わるのを待って公表される。

 ミトの移動は、天啓が下ってのち一週間以内に行なわれる。

 ミトのメンバー全員に、数日中に板碑谷の仮住村を畳むことが告げられ、曠野に出ている男たちにも伝令が走った。また青年二名が、明日先発隊として、次のミト地へ向かうことが決定。ただミトの撤収といっても、それほどやるべきことはない。各世帯で行李二個程度の荷物を纏め、フェルトの敷物や椅子などの家具を毛長牛の背に縛り付ければ、それで出立は可能になる。

 祭事の道具やシーラが保管してある薬苔の入ったカゴや瓶、あるいは水車などのミト共有の荷は、大振りの行李に収めて、共用の毛長牛の荷橇に積む。一番手間がかかるのは、窓枠や天井の梁に使うリウの編材など、次のミト地で小屋を作る際に必要な資材の荷造りだが、今回はミト・ソルガでの居留期間が八年と長かったために、窓枠以外は携行しないことになった。

 毛長牛に積む荷の準備を終えれば、あとは家の天井を落とすだけだ。土饅頭の家を大地に戻すのだ。数年もすれば、土饅頭のあった場所は、苔蒸した地面の窪みに戻る。ただ一カ所、集会所横の穴蔵だけが、入り口と天井を補強、非常時用の小屋として、この地に残される。そういった作業を含めても、出立の準備は半日もあれば済むことだった。

 新しいミト地は、板碑谷から丸三日の行程にある。明後日の午前をもって板碑谷を撤収。それまでの時間、ミトの一同は、この地での日々を大過なく過ごすようにとの、インゴットの令が伝えられた。

 明日は出立の準備で慌ただしくなる。今宵は、この地での最後の夜を惜しむべく、皆が各自の小屋に戻ろうと集会所を出ると、空にはアヴィルジーンの淡い光球が無数に浮かんでいた。シクンの民は、天空に昇るアヴィルジーンを、大地を創造した竜神の霊が、万物の源の天に戻って行く姿だと考えている。全ての魂は天に帰る。シクンにとって、生命とは大地から誕生したものではなく、天より降臨したものだ。

 ミトの一同は、頭上に輝く光にしばし手を合わせると、それぞれの土饅頭へと散っていった。やがてアヴィルジーンの群れが彼方に去り、空が星に満たされて、ミトの一同がユカギルの祭典の様子を話題に、最後の夜を過ごそうと苔茶に湯を注ぎ始めた頃、ウィルタがミトに帰ってきた。

 ウィルタの横には、春香を背負った長身の男が付き添っている。

 黒炭肌のオバルだ。そのオバルは、シーラの小屋の前で春香を下ろすと、軽く挨拶をしただけで町へと戻っていった。

 ミトの住人でウィルタたちに気づいたのはモルバだけだ。

 その詮索好きのモルバも、疲れた眠り姫を町の男が背負ってきたのだと見ると、声を掛けてこなかった。モルバに限らず、ミトの住人たちの気持ちは、もう完全にミトの撤収と移転先のことに奪われていた。

 

 ウィルタはオバルを谷の出口まで見送ると、小屋に戻るなり、シーラの元に駆け寄って、春香が気を失った時の様子を話しだした。

 紅潮した顔でまくし立てるウィルタに、シーラは自分が飲もうとしていた鎮静用の薬苔茶を差し出す。子供には少し強いかと思ったが、構わず飲ませた。

 しばらくすると、薬苔茶の成分が効いてきたのか、ウィルタは喋りながら寝息をたて始めた。引率をやって疲れたのか、ウィルタは窓際の椅子に座ったまま寝入ってしまう。そのウィルタをシーラは抱きかかえるようにして寝床に運ぶと、窓際の椅子に戻って、ウィルタに飲ませた薬苔茶を自分も口にした。

 顔には出ていないが、シーラ自身も気が昂っていた。

 一族の命運を託される丞師に任ぜられたのだ。まさかという想いである。丞師になるということは、ウィルタと別れるということだからだ。ミトの移転に、ウィルタの将来、丞師を引退する母のこと、心が戻ったらしい古代人の娘、そして自分の肩に伸しかかってくるであろう責務。いったい何をどう考えれば良いのか、頭の中が索然としていた。

 ミトの移転については明日ウィルタに話すとして、それよりも、自分が丞師になった後のウィルタの処遇をどうすれば良いのか、先にそれを考えなければならない。心を落ち着かせなければと、シーラは鎮静用の薬苔茶を立て続けに二杯飲み乾した。

 とにかく、時間がない。

 ミトの移転が終了すれば、すぐにでも曠野に散らばっている各ミトの長が招集され、丞師の継承式が行われる。それが済んでしまえば、自分は公の人であり、私的にウィルタと話すことはできなくなる。それに住む場所も別のミトになる。丞師は自分の出自のミトに住まないのが習わしだからだ。そうなれば当然、ウィルタを誰かに預けるしかない。

 しかし、シクンとして生きていくか、町の人として生きていくのか、ウィルタの将来を考慮した上で接してくれる者が、今のミトにいるだろうか。それにウィルタ自身が、どちらを選ぼうとしているのか……。

 考えがまとまらない。すでに時刻は十一の刻を回っている。

 気持ちを切り替えようと、シーラは隣の薬苔小屋に寝かせた春香の様子を見に立ち上がった。カンテラを持って仕切りの皮布をくぐる。乾燥途中の青臭い苔の匂いや、様々な薬苔の香りが混然となって、独特の臭気が鼻孔を刺激する。薬苔小屋の窓側、大人の膝ほどの高さに削り出された土台の上に、フェルトの毛布を敷いて春香は寝かされていた。シーラは、少女の横に椅子を引き寄せると、疲れたように腰を下した。

 ぼんやりと春香を見やる。少女は静かに寝息をたてていいたかと思うと、突然眉間にしわを寄せる。繰り返される表情の度に、春香の口からうわ言が漏れ、毛布の上の手が宙に伸びて、何かを探すように動く。夢を見ているのかもしれない。

 シーラは春香の手に自分の手を添えた。

 家の外から、ゴト、コトン、という水車の杵の音が聞こえてくる。今日は槌杵だ。

 当番の者が外し忘れたようだ。きっと移転のことで頭の中が一杯なのだろう。

 と槌杵の音に扉の軋む音が重なる。

 誰……と思うシーラの前に、仕切りの皮布を捲って、丞師が姿を見せた。ひび割れた手に、灯芯の炎をギリギリまで落とした小さなカンテラが握られている。丞師は寝床の端にカンテラを置くと、春香の頭の横に腰掛けた。

 寝床の脇に、少女を見つめる二つの顔が並ぶ。親子は幼時よりも歳を経てからの方が相貌が似てくる。余分な肉や丸みが取れて、骨格がはっきりしてくるからだ。あごの形と、くっきりとした目鼻立ちは、まさしく母娘の血の繋がりを示している。

 春香の手を握るシーラに、丞師が話しかけた。

「不思議なものだ、この娘のことをインゴットから聞かされた時は、まさかと思った。急逝された先代の丞師の残した予言が当たったのだからな。先代の丞師は言われた。近い将来、シクンのご先祖様たる者が、この地を訪れるだろう。その方を連れて来るのは町人である。その者は、わしら一族に与えられた本来の仕事、この世界を見届ける役を果たすために現れると……」

 シクンの一族は、自らの民を語る時、自嘲気味に『傍観者』と呼ぶ。もっと直截な表現では『記録する者』とも言う。曠野に暮らしながら、ひたすら自分たちの生活の有様を変えることなく、流転する世界の流れと別の場所に自分たちを置く、その生き方を指してそう呼ぶ。石炭に依存する暮らしは、石炭が無くなればそれで終わり。地熱を汲み上げる場合も、火炎樹の樹液を使う場合でも、依存する資源が尽きた時に、その暮らしはピリオドを打つ。そして新しい暮らしを、また一から作り上げていかなければならない。

 世界を変え、かつ自分たちも変わりながら生きていく、そういう不断に変わり続ける暮らしの対極にあるのが、曠野の暮らしだ。ひたすら曠野に寄り添い、普遍不屈変わることなく生き永らえようとする生き方。曠野の尽きる日まで、ひたすら世界の変転を見届ける。それがシクンの民に定められた生き方だ。

『世界の変転の節目に、一人の少女があらわれる……』と。

 シーラが聞いた。

「丞師様は、この世界が変わってしまうと、お思いなんですか」

「分からん、それが世界全体の変化なのか、この周辺だけのことなのかは。ただ近い将来、この曠野に大きな変革の波が押し寄せてくるだろうことは、はっきりと見えておる。それはおまえも感じるであろう」

「ええ、なんとなく」

 そう答えるとシーラは軽く額に手を当て、「でも、ほかの地域が変わらずに曠野だけが変わるということは、有り得ないと思いますが」と、丞師の話に異を唱えた。

 ミトの住人が丞師に対して意見することはない。しかし丞師は、シーラの言葉を特に咎め立てもせず、受け流すように話を続けた。

「何かが起きようとしている。だが悲しいかな、それが数カ月の単位でなのか、人の一生の単位でなのか、そこまでは分からん」

「そうですね……」

 伏し目がちに相槌を打つシーラの前で、丞師は黒い髪の少女に視線を落とした。

 少女の口が僅かに動き、うわ言のような言葉が口からこぼれる。

「どちらにせよ、私たちは、今の暮らしを変えることなく続けていけば良い。曠野が無くなる日まで、シクンはシクンであれば良い」

 シーラは春香の手を摩り続けていた。そうすることで、心の痛みが和らぐのだといわんばかりに。そして思いを巡らせる。

 ウィルタはシクンであることを選ぶだろうか、そのことを……。

 ウィルタがシクンとして生きてくれることを自分は望んでいるだろうか。それが分からない。丞師となってウィルタと離れる、それならいっそ、ウィルタが町を選んで遠い世界に行ってくれた方が、気持ちは割り切れる。

 自分が何を望んでいるのかが分からない。他者の気持ちを占うことはできても、自分の心を占うのは難しい。占者が『公』となり『私』を捨てるのは、実は占いの必定でもある。私欲煩悩は占いの妨げとなる。私人では、己の感情や想いが妨げとなって、正確な判断が下せない。だからこそ占者は、煩悩から解き放たれた、解脱した『公』の者でなければならない。春香の髪を撫でるシーラに、娘の迷いを見透かしたように丞師が語りかけた。

「おまえの息子は、元の世界に返してやるがいい」

 シーラは、春香の髪に伸ばした手を止めると、考える間を取るように自分の手を見つめた。いつの間にか、細い指に血管が浮き出ていた。その指を一度、二度と曲げ伸ばすと、やや固い声で「母さんは、そう思うのですか」と聞き返した。

 シーラは丞師に対して、あえて『母さん』という言葉を使った。

 対して丞師たる母は、淡々とした声で答える。

「ただ生きていくだけなら、シクンでも生きていける。あの子は快活そうだし、人に好かれるいい人生を送れる素質を持っている。だが人は自分の夢や希望だけで生きていくことはできない。シクンの生活は歴史の外の生き方、何も変わらない、変えることを必要としない生き方だ。しかし、あの子は歴史の内側に生まれ落ちた子だ。彼がどう望もうと、彼は歴史の渦の中に入っていく。巻き込まれると言ってもいい。彼が望む望まないに関わらずだ。彼は決して歴史の傍観者でいることができない、それが彼の運命だ。彼にとっては、歴史を動かそうとする町人の世界が相応しい」

 母親の声に耳を傾けながら、シーラは意識の奥で、隣の部屋で寝ているウィルタの寝息に心をそばだててた。ユカギルの井戸に熱が戻った。それにあの子の祖母がミトを訪ねてきた。ウィルタがではなく、町がウィルタに近づいてきている、そんな印象があった。

 アヴィルジーンに手を出すといった、常人が思い付きもしないことをやってしまうという人格は、日々単調な暮らしを続ける曠野には不向きなものだ。ズヴェルを売り捌いて金を儲けるという商人的な才覚も、金銭をほとんど必要としない曠野の奥の生活には必要ない。町に近いゆえに、金に関わる暮らしが、冬の冷気のように、気がつかないうちにミトのかしこに入り込んでいる。しかし曠野の本来の暮らしは、忍耐を要求される単調で地味な暮らしだ。

 だが……、もしウィルタを町に返したら、二度とウィルタと会う機会はないだろう。

 丞師となって話を交わすことができなくても、曠野にシクンの一族として生きている限り、ウィルタの姿を見ることはできる。

「返してやりなさい」

 母の言葉とは別に、頭の中で声が聞こえたような気がする。

 気がつくと、母の顔が近くにあった。母の手が自分の肩に置かれていた。

「もしウィルタが曠野での暮らしを望んだら……」

 だだを捏ねる娘のように、シーラが首を振った。

「変転する世界を記述したものを、人は歴史と呼ぶ。変わらないものは、歴史の狭間から抜け落ちていく。変わることを希求する心、古代で進歩という言葉で呼ばれた心、それが歴史を作り動かしていく。お前があの子に曠野で暮らすことを望むのは、悪いことではない。だが歴史は、お前の望みよりも強い。お前がそれで良くとも、いずれ養母たるお前の気持ちと歴史を動かしていく力の狭間で、あの子は苦しむことになる。そうなった時、お前自身が苦しむ。それに、お前には、お前の仕事が待っている」

 息を止めたような空白のあと、シーラの口から長いため息が漏れた。

「たとえどんなに勝れた巫女であろうとも、未来に起きることを具体的に予測することはできない。その時の気分で、こちらよりもあちらの道の方がいいと判断するのが関の山。あとはこの世界、宇宙を動かしている力に任せるしかない。それが命あるものの生き方だ。縁があれば巡り合うだろう。お前と私が、今こうやって話を交わしているように」

 丞師の言葉にシーラは頷いた。そして定まっていなかった視線を、目の前の少女に戻した。少女の手が動いている。何かを求め、探しているような手つき……。

「この娘は、どうしましょう。この子も町に戻すべきなのでしょうか」

「娘の未来は娘自身が決めるだろう。私たちに付いて来たいと言えば、連れて行けば良い。ウィルタと共に居たいと言うなら、居させてあげれば良い」

 丞師は杖を持つ手に力をこめると、寝床の脇から腰を上げた。

「そろそろ祠堂に戻る。細かいことだが、移転する前に占っておくべき事が、いくつか残っているからな」

「ええ、分かっています、ありがとうございます、丞師様」

 シーラには、母、丞師が、自分のことを案じて、わざわざ出向いてくれたのが分かっていた。私的な話が禁じられている母にとって、深夜人目を憚りながら小屋を訪れる、これが娘に対してできる最大限の気遣いなのだろう。

 シーラは、椅子から立ち上がりかけた母の手を取った。その時、シーラを媒介として、春香と丞師の手が一本の鎖のように繋がり、微かだが春香の気が丞師に伝わる。

「まるで私に孫娘ができたようだよ」

 微笑むように丞師が目を細めた。

 ゆっくりと闇の中を祠堂に戻っていく母を見届けると、シーラは再び小屋の中に戻り、春香の寝床の脇に腰を下ろした。炎の小さくなった油灯に油を注ぐ。星の位置からすれば、日付が変わって一刻は経っている。

 相変わらず春香は、手で虚空を掴み、苦しげに口を開けて声を発しようとしている。

 つい四時間ほど前、町から戻ってくるや、ウィルタは酷く興奮した口振りで、春香が叫び声を上げたことを告げた。叫ぶということは、心に感情が宿ったということだ。だとすれば、春香は生きた人形から、心を持った人間に戻る大きなハードルを越えたのかもしれない。

 その当の春香は、ウィルタが鎮静用の薬苔茶を飲んで眠った直後、いったん意識を回復した。カッと見開かれた瞳は、今までの虚ろな目ではなく、光を宿した黒々とした目だった。心が戻った、そうなのだろう。ところが目の輝きとは裏腹に、顔は真っ青で、唇はわなわなと震えていた。それを見たシーラは、春香の口に薬苔茶を含ませた。

 薬苔茶が効いたのか、ウィルタ同様、春香もすぐに眠りに落ちた。

 日付は替わったが、春香は意味の分からないうわ言をこぼし、手で虚空を探るような仕草を続けている。と、シーラが見つめる目の前で、春香の口から「か…あ…さん…」という、苦しそうな声がこぼれた。意味不明のうわごとのような言葉の中で、初めてしっかりと聞き取れる言葉だった。

「か…あ…さん…」という言葉を、春香は、途切れ途切れに何度も繰り返している。

 幼児が母親を求めているようにも見える。

 とっさにシーラは、春香の手を両手で包むように握り締めると、「母さんはここにいるから、安心してお休みなさい」と、優しく言いきかせた。声が耳に届いたのか、それとも手の温もりに安心したのか、春香はシーラの手を握り締めたまま、再び寝息をたて始めた。

 しばらくは、春香の手が救いを求めるようにシーラの手を握り返していたが、やがてその手の力も弱まり、見守るシーラの眼差しの下で、春香の手は柔らかな肉塊に変わった。

 寝入ったようだ。

 隣の部屋で寝息を立てているウィルタを一瞥すると、シーラは家の外に出た。

 相変わらず星が瞬いている。星と星の間を繋ぐように、アヴィルジーンのぼんやりした光球が、天空に向かって昇り続けている。これほど連続してアヴィルジーンの光化が続くのは、数百年に一度あるかないかのことだろう。

 何かの前ぶれなのだろうか……。

 灯された無数の明かりで闇から浮き上がったユカギルの町から、夜風に乗って人のざわめきが流れてくる。夜を徹して宴が続けられている……。

 シーラは靴下を脱いで素足になると、家の前の平たい板碑石の上に足を揃えた。人は未

来を見ようとする時、なぜか儀式を行う。何かを媒介として、未来を心に呼び込むのだ。媒介とするものは、絵入りのカードでも、水面に浮かんだゴミでも、炙った骨にできるひび割れの形でも、何でもよい。何を媒介とするかは占者で異なる。シーラは母親と同じく、足を冷やすことによって占事が浮かぶ体質だった。

 口の中で一族のマントラを唱えながら、凍てついた石から、足の裏を通して大地の霊気を吸い上げる。長らく封印してきた自分の儀式、懐かしい感覚だ。

 足の裏に心を集中。足の感覚が凍るような冷たさで失われていくとともに、別の感覚が足の付け根から這い上がり、体の中に満ちてくる。その感覚が頭の先まで到達し、全身を包んだ時、天啓は下る。シーラは、その感覚が肩のあたりまで達したのを確かめると、石盤から足を下ろした。結論は見えた。

 ウィルタのことについては、母との会話のなかで道が見えたように思う。むろん自分がそれを納得できるかどうかは別にしてである。それとは別に、春香の処遇について分からない部分があった。だから、そのことを占事で覗いてみた。それに世継ぎを任じられたことで、自分の巫女としての能力を、久しぶりに確かめてみたいという思いもあった。

 シーラは考えがまとまったことに安堵すると、靴下を履き小屋に戻った。

 扉の皮布を閉ざしつつ後方に目を向けると、すでに夜空にアヴィルジーンの光はなく、無数の星々が深夜の大地を照らすように瞬いていた。


 夜が明ける。

 春香の傍らでシーラは椅子に腰掛けたまま眠っていた。朝日が窓際の石に当たって反射してシーラの顔を淡いオレンジ色に照らし出す。まぶたを閉じたまま、ぼんやりと目覚めの階段を上がる。水車の杵を搗く音が、しだいに明瞭な音に変わり、その音に、カチャ、カチャ、という音が混じる。誰かが小川で食器を洗っている。ウィルタだろうか。

 シーラはゆっくりと目を開けた。

 毛布を引き寄せたまま壁に寄りかかっていた。どうやら久しぶりの占行の後、春香を見守りながら眠ってしまったようだ。

 柔らかな朝日が、自分の手と、寝床の上の小さな手に当たっている。

 自分よりも二回りほど小さな手が、ピクリと動いたような気がして、シーラは顔を上げた。すると眠っていると思った少女が、目を開け、つややかな黒い瞳で自分を見つめ返す。

 春香の唇がかすかに動いた。

「わたし…、ずっと…、夢…、見て…、る…、おもっ…、て…、た…」

 ぶつぶつと途切れ途切れではあるが、聞こえてくるのは、ごく普通の少女の声だ。

 言葉を探すように、春香がゆっくりと言葉を並べる。

「棺…、外…、誰か…、覗く…、男の、子…、自分…、氷河…、つれて、いく…」

「町、いっぱい…、蒸気、まるで、雲…、演説、祭り、食事…」

「いつも…、夢、見て、る…、夢を、見て、る…、そう、おもっ、て…、た…」

 小さな囁くような声、でも紛れもなく少女は言葉を発している。

 そこに扉を開けて、ウィルタが手拭いで手を拭きながら走り込んできた。

「シーラさん、ナムから聞いた、ミトが移転するって」

 勢い込んで喋るウィルタは、シーラが春香の口元に顔を寄せているのを見て、寝台の脇に駆け寄った。ウィルタにも、たどたどしい春香の声が聞こえた。

「春香ちゃんが、喋ってる……の」

 シーラが「静かに」と、ウィルタの唇に指を押し当てた。

 小さな声ではあるが春香の口から声が漏れ出ている。頭の中に浮かぶ言葉を口に出しながら、一つ一つ言葉を確かめているような、そんな喋り方だ。

 声は続いている。

「人、話す、よく、聞こえ、ない…、氷、さわる…、冷たく、ない…」

「湯気、熱く、ない…、痛み、匂い、味…、みんな、ぼん、やり…」

「喋り、たい…、でも、声が、でない…」

「わたし、だれ…、思い、だす、したい…、でも、思い、だせ、ない…」

「だから、わたし、みんな、夢…、そう、思って…、た…」

 言葉を口にしながら、春香はシーラに握られている手を、ゆっくりと自分の胸に引き寄せた。話す声が少しずつ大きくなってくる。

「それが…、あの、光の、玉…、わたし、思い、だす…」

「わたし、飛行機、乗って、た…、夜、飛行機…、みんな、寝る…」

「わたし、眠れ、ない…、窓、ブラ、インド…、開け、外…、みる、外…、星、たく、さん…、わたし、見と、れる…、でも、星…、大きく、なる…、とても、大、きく、なる…、それ、光の…、シャボン…、みたい…」

「とつ、ぜん…、マスク、おどる…、となり、母、さん…、手、にぎ…、ゆれ…、激、しい…、母、さん…、顔、見え、ない…、なに、も、見れ…、ない…」

「ま、暗…」

「気が、つく…、こげる…、熱い…、まぶ、た…、開か、ない…でも、開ける…」

「赤い、火の、粉…、まるで、赤い…、粉、雪…」

「闇の、底…、お花、畑…、ちがう…」

「荷物、服…、それに…、バラ、バラ…、ちぎれた、ヒトの…、体…」

「わたし、気が、つく…、自分の、手、握る…、それ、なに…」

「なに…、握る、わから、ない…、よく、見え、ない」

「わたし、首、もた、げ…、それ、見る…、首…、もた、げ…」

 喋りながら、春香はベットの上で首を持ち上げ、自分の小さな手を睨んだ。

「この、手…、この、手、に…、母、さん、の…」

 そこまで話すと、春香は体を小刻みに震わせ、声を詰まらせた。

 シーラは春香の手を押し下げると、やさしく労わるように話しかけた。

「いいのよ春香ちゃん、無理に思い出さなくても。いま薬を持って来てあげるから、それを飲んで、もう一度お休みなさい」

 立ち上がったシーラの服を、春香の手が握り締めていた。

「眠り、たく、ない…、眠る、わたし…、闇の、なか…、帰る…」

「夢の、なか、死体…、お花、畑‥、わたし…、眠り、たく、ない…」

「お願い…、わたし…、眠らさ、ないで…」

 すがるような春香を見て、シーラは春香の手を握り返した。

「分かったわ春香ちゃん。それじゃ、起きて何か体の温まるものでも飲みましょう」

シーラは春香の背を起こすと、体を回して寝床の端に腰掛けさせた。

 ウィルタが外の竈からスープを運ぶ。

「熱々だから、気をつけて」と、ウィルタが春香の手にさじを握らせる。

 ところが春香はスープの湯気に視線を注いだまま、体を固めて動かない。ウィルタが介添えの手を差し伸べようとすると、先にさじが春香の指の間から落ちてしまった。

 そして止める間もなく、春香の手の平が金属製の器にピタリと添えられた。

「器は熱い……」と言いかけたウィルタが、思わず言葉を呑み込んだ。鬼の棲むような春香の形相に気押されたのだ。眉を吊り上げ、食い入るようにスープを睨み付けている。

 春香の細い指が小刻みに震え、器の中のスープがさざ波のように波立つ。

 慌ててシーラが体を寄せ、抱きしめるように春香の手を器から剥がす。

 ところが落ち着かせるようとするシーラの想いとは逆に、春香は血の気の失せた唇を激しく震わせると、シーラを突き飛ばした。

 そして頭を前後に大きく揺さぶるや、喉の奥から声を絞り出した。

「この、スープ、熱、い…、飛び、上が、る、くらい…、熱い…」

 息継ぎでもするように肩を上下させると、春香がさらに声をたばしらせる。

「夢、じゃ、ない…、この、スープ、この、小屋、あの、氷河…、人も…、犬も…、蒸気も…、みんな、みんな、夢、じゃ、ない…」

「じゃあ…、わたし…、わたしは、だれ…、どう、して、ここに…、どう、して…」

「もし、今、見てる、世界…、本当、なら…、あの、事故、あれは、何…、あれは、夢‥、母さんの、死体…、あれも、夢…」

「違う…、あれ、本当…、わたしの、手の、なか…、母さんの、手…、感じ、残ってる…、わたしの、手の、なか…、千切、れた…、母さんの、手が…」

「あれ、は…、夢、なん、かじゃ…、ない…」

 声を詰まらせ赤くなった手の平をカッと睨みつけると、春香が座っている椅子の足がガタガタと音をたてるほどに震え始めた。

 シーラが抱き寄せようとするが、反発するように春香は叫び声を上げる。

 喉を締め付けるように叫び続ける……。

 ミトの面々が、何が起きたのかと、シーラの小屋を覗きに来た。シーラは、それを押し返すと「冷凍睡眠の後遺症が出たようなの」と説明して、強引に引き取らせた。

 もう半月も前のこと、棺から蘇ったばかりの少女を診て、レイ先生は言った。

「肉体の蘇生は上手くいったようね、でも感情や記憶の蘇生は、まだこれから。心が蘇るかどうかは、現状では偶然に頼るしかない。それに生涯心が戻らない可能性も高い。万に一つの幸運を得たとしても、長期の冷凍睡眠による体内成分の異常が、心に障害を引き起こすことも大いに有りうる。覚悟が必要ですよ」と。

 体は無事に蘇生した。しかし心を押し固めていた氷が融けてみれば、中にあったのは平常心を失った少女の心だった。これは体内成分の問題ではない。

 ただ「今は……」と、シーラは思う。

 叫びたいだけ叫ばせ、泣きたいだけ泣かせるのが一番ではないか。叩くこぶしの握力が失われ、唇が切れ、息が途切れ、声が出なくなるまで泣かせることだ。かつて自分が精神に異常を来すほどに追いつめられた時も、今にして思えば、そうするのが一番の回復への近道だった。シーラは、春香を泣かせるだけ泣かせることにした。


 交代で春香の様子を見守りながら、シーラとウィルタは、水車小屋の解体と薬苔の荷造りを行った。そうして荷が梱包され、外に運び出されて小屋の中がガランとなった夕刻、春香の叫び声は止んだ。プツンと糸が切れたように泣き止んだ。

 春香は放心したように宙を見つめていた。その呆けたような春香に、シーラは睡眠用の薬湯を飲ませた。これで明日の朝までは眠り続けるだろう。

 夕食後、ウィルタはタタンに会いに行くといって町に出かけたが、一時間ほどして帰ってきた。タタンが経堂の呼び出し受けて留守、会えなかったのだ。

 そのショボンとした顔のウィルタが帽子を被っていない。

 出かける時、ウィルタは必ず帽子を被る。時には家の中でも被っている。幼児が自分のよだれや手垢の染み込んだ手拭いを離さないのと似ているので、「あなたの頭から帽子が取れた時が、成人式かしら」と、シーラはいつもからかってきた。

 その大切な帽子を被っていない。

 不思議に思ってシーラが「帽子は?」と聞くと、ウィルタが「ああ……」と、弱々しい声を吐いた。表情が、とてもそれどころじゃないといっている。

 ミトの移転、それも曠野の奥への移転が、ウィルタにショックを与えているのは明らかだ。その肩をすぼめたウィルタを見て、シーラは自身の丞師継承の話を呑み込んだ。ウィルタに丞師継承の件を告げることは、すでに丞師とミト長から了解を得ている。しかし思い詰めたようなウィルタを見て、どう話せばいいか迷ってしまったのだ。

 逡巡するシーラに、「もう始まってるよ」というモルバの声が、小屋の外から掛かった。集会所で出立の打ち合わせがあるのを、すっかり忘れていた。

 慌てて立ち上がるシーラの後ろで、「明日の朝一番で、もう一度タタンに会いに行ってくる」と、ウィルタが力のない声を吐いた。



第十四話「ファロス計画」・・・・第十九話「旅立ち」・・・・

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