海門地峡
海門地峡
夜、十一時。
焚火は煙が薄く上がるだけになっていた。オバル、シャン、マフポップ、ベコ連、それに若衆組のジーボを入れたメンバーで、明暁どのようにしてここを脱出するかを話し合っていた。
話の最初に、餅耳のグランダが、ある人物を皆に紹介した。マカ国の官服を着た二十代の若者である。頬にあばたの残るこの若者は、天柱峡のドバス低地側に設置された検問所、そこに設置された電信館分室の職員だという。偶然にも彼がこの墓丘に流れ着いていた。
望日湾で異常潮位が認められて以降、検問所の分室に、バレイの電信館本局から、刻々とドゥルー海の増水の状況が伝えられていた。それを受電していたのが、この通信官員の若者になる。グランダが、若者に海門地峡崩壊の様子を話すよう求めた。
若者の説明する海門地峡の決壊とはこうだ。
すでに一昨日から、海門地峡の塩沼地帯は、増水したドゥルー海の海水で覆われるようになっていた。溢れた水は、ドバス低地側の断崖に滝となって流れ落ちる。が、断崖の上から落ちる水よりも、断崖途中の断層部分から噴き出す水の方が目立つ。それは地峡と亀甲台地の境界、天柱峡に海水が流れ込み始めた頃から、より顕著となる。
海門地峡の地下には、望日湾に隕石が墜落した時にできた岩の割れ目が無数に走っている。それに今は跡形もないが、一時期、地峡の街道沿いには、火炎樹の並木が植栽されていた。その火炎樹の晶化した根の生み出す間隙も、地峡の下には広がっている。
どうやら溢れた海水が、様々な場所から地下の断層や間隙に入り込み、ドバス低地側に噴き出しているものと思われた。この段階で、バレイの街なかは海水が洗い、住民は霊山である封冬山に避難を開始していた。
明けて翌暁、封冬山に避難した人々が目にしたのは、塩沼地帯の端々で大地が陥没を始める様子だった。地峡地下の砂礫や晶砂がドバス低地側に洗い出され、できた空洞に地上部が落ち込んでいるのだ。その陥没した塩湖地帯の上を、ドゥルー海の海水が渦を巻きながら流れ、ドバス低地側へと流れ落ちていく。
午前九時、バレイ本局からの通信が途絶えた。本局と断崖下の検問所を繋ぐ通信ケーブルが断線したのだ。すでに天柱峡は、壮大な放水路と化し、断崖下の検問所前方に、巨大な水の壁となって、なだれ落ちている。
怒濤の水が検問所の周囲を洗うようになるに及んで、検問所の所長も施設を閉鎖して職員を避難させることを決断。地峡の断崖から東三キロの高台に、検問所職員と民間人合わせて二百名が避難した。
避難先の高台からは、高さ二百メートル余りの地峡断崖、それも南北四十キロに渡って連なる巨大な断崖が一望にできる。地峡は長大な堰、瀑布と化していた。
また低地側に流れ落ちる瀑布のカーテンを突き破るようにして、水がアーチを描いて噴き出している。噴き出す海水が横一線に並んで見えるのは、水の噴出し口が、断崖を横に連なる軟質の地層に沿っているからで、その放水のアーチが見る間に数を増していく。
午後二時、地響きのような音が、天空から伝わってきた。
これは、バレイ郊外に聳える巨大な赤道柱が、地下の空洞に陥入した際の音だ。
ドゥルー海から溢れ出た海水の一部は、地峡地下の割れ目にも流れ込み、内部の土砂を洗い出しながら、あちこちに地下の空洞を生み出していた。その一つが、赤道柱の真下にあった。空洞は拡大を続ける。そしてそれがある一点を超えた時、巨大な赤道柱は、薄皮のような地表を押し崩して落下。亀甲大地の断崖に匹敵するほどの高さの巨大な赤道柱が、ほぼ垂直に地下の空洞に落下したのだ。
それは、まさに大地に鉄槌を打ち付ける形となった。
目撃者はいない。しかし地峡の一斉崩壊の引き金を引いたのは、間違いなくこの赤道柱落下の衝撃だった。
その轟音の直後、岩の高台に避難した人々の目の前で、海門地峡は、南端の天柱峡から北に向かって低地側に押し出されるようにして崩落を始めた。そして堰を切ったようにドゥルー海の海水が、ドバス低地に流れ込んだ。
塁京の都を押し流した決壊流の発生である。
分厚い水の壁が、断崖下のありとあらゆる物を呑み込み押し流していく。ほんの四半刻の間に、地峡の上部が崩落、地峡は堰の高さを一段低めた形で、ドゥルー海の水をドバス低地側に送り出すようになった。言葉では形容しがたいほどの怒濤の水の流れである。身を震わす振動と、水飛沫が、何もかもを包み込む。
その体を掴んで揺さぶる激しい振動に混じって、別の鳴動も聞こえてきた。
新たな不安が生じようとしていた。
若者は本局からの通信が途絶える直前、ある報告を受け取っていた。それは、封冬山に避難した人たちからの伝で、封冬山そのものが、じりじりとドバス低地側にずれ動いているという内容のものだった。地峡そのものが動いている……?
不安を煽るように、無気味な鳴動が間欠的に大地の底から鳴り響く。
海門地峡は高さを低めたものの、巨大な堰としてドゥルー海の水を塞き止めている。しかし万が一その堰が完全に破れたとしたら。もし海門地峡が全面的に崩壊すれば、三キロほど離れているとはいえ、地峡直下の高台自体も、押し寄せる水に呑まれてしまう。
先程から検問所の所長を中心に、年配の職員たちが、地峡の全面崩壊の可能性と、それへの対応を話し合っている。高台に残って様子を見ようという者と、一刻も早くこの高台から脱出、離れた地点に移動すべきだという者に意見は割れている。だが移動するにしても船はない。移動するとしたら、ウォトの材にでもしがみついて濁流に乗り出すくらいしか手はない。
意を決したように、民間の男性が、高台の縁に流れてきた材を引き寄せ、それにしがみついて濁流に乗り出した。ところが、その姿はあっという間に逆巻く波に呑まれた。とても材にしがみついた程度で、安全な地までたどり着けるとは思えなかった。誰もが凍りついたように、男性の姿が消えた波間を見ていた。後に続こうとする者はいない。
一方で断崖から落ちる水の轟音は、刻々とその響きを強めている。
地峡が完全に崩壊、向こう側にある海水が押し寄せてきたら……。
海門地峡は、亀甲台地に近い天柱峡でこそ数キロの奥行きがあるが、その他の部分では、ほんの半キロほどの厚みしかないのだ。
まるで地峡が、薄い紙のように思えてくる。
若者は、高台の縁に立ち足元に目を向けた。
二十メートルほど下の岩の縁で、濁流に押されながらウォトの戸板だろう、四角い板が波と共に岩にぶつかっては離れ、またぶつかることを繰り返している。
誰も動こうとしないなか、通信官の若者は、不安を振り払うように足を踏み出した。
今にして思えば、なぜ自分があの一歩を踏み出すことができたか、不思議に思う。おそらくは、自分を小さなウォト材にしがみついてでも濁流に乗り出させたのは、本局からの通信が途切れる寸前にヘッドフォンから聞こえてきた、声だったかもしれない。相手方の通信官は、淡々と伝文を読み上げている。その声に混じって、同じ部屋にいるであろう別の女性通信官の「だめーっ、このままでは、地峡が崩れる!」という悲鳴のような声が伝わってきた。あの切迫感を孕んだ声、あの声が自分背を押したのだ。
若者は意を決してウォトの戸板に飛びつき、高台を離れた。そして濁流に揉まれるうちに意識を失い、日没直後、この小さな墓丘に流れ着いたのだった。
若者は、話の最後に、その後の地峡の状態は分からないが、自分の予測では、早晩地峡は再度崩落、最初の決壊流と同等の濁流が、この低地帯を席巻することになるのではと語った。若者の話を聞いていた見張り穴の面々は声を失った。
全員が全員、夕方の決壊流が、地峡そのもの、地峡全体が崩壊して発生したものだと思っていたのだ。それが再び巨大な決壊流がこの地を襲う可能性がある。もし新たな決壊流が発生したら、この墓丘など濁流に一呑みにされてしまうだろう。
呆然とした顔を互いに見合わせる。
次の決壊流がいつ起きるか、それは分からない。それでも、この墓丘よりも高い場所に移動しなければ命が危ないのは確かだ。しかしここから逃げ出す方法があるだろうか。
理想はドバス低地の外に出ることだが、それはまずもって不可能。バンザイ機は、大人四人を乗せて、救助を求めるための片道飛行をするのが限度だ。おそらく崩落を免れた都の一塁壁や建造物にしても、再度濁流の壁が押し寄せれば、持ちこたえることはできないだろう。この周辺で津波のような決壊流から逃れられる場所といえば、万越群島の中の岩山の幾つかだ。あの元珊瑚礁だった岩山の上なら、怒濤の流れを乗り越えられる。問題はどうやってそこへ行くかだ。
それも五百名余りの人間が。
あのゴーダム国の調査艇でもあれば話は別だが、あれにしても一度に運べる人間は百人程度。それ以前に、ゴーダム国の警邏隊が、窮民街の住人の避難を手助けしてくれる可能性は、限りなくゼロに近い。では小船ならどうか。ここから手漕ぎの馬頭船で万越群島の岩礁地帯に行くには、片道四時間はかかる。どんなにピストン輸送をしても、一日で避難できる人の数など高が知れている。もちろんそれでもやらないよりは益しだが、悔しいかな、その馬頭船でさえここには無いのだ。
やはり移動するためには、ある程度の人を乗せることのできる船が必要だ。
シャンと、ジトパカが同時に発言した。
「やはり湖宮しかない」
二人とも最初からそれを考えていたようで、湖宮という言葉を口にした後、互いの目を見て頷き合った。湖宮には、ちょうど貢朝船が入宮している。あのカルデラに囲まれた湖宮なら、夕刻の決壊流の影響など受けることなく、貢朝船は安泰なままにラリン湖に停泊しているはずだ。その貢朝船に救助を求める。
ところが、「残念だけど」と、情報通のグランダが遠慮がちに皆の話を遮った。
三日前、バドゥーナ国とゴーダム国が争いを始めた直後に、ラリン湖に停泊していた貢朝船は、予定を早めて河口の町へと出航した。経堂の僧官が話していたことだから間違いないだろうという。
「そんな……」
呻くように天を見上げた皆の前で、シャンがパンと手を打った。
「では、あれはどうだ。湖宮の神殿広場の泉に浮かべてある復元船は。人類創世の太古、大地を押し流したという大洪水の際に、生きとし生ける者を助けたという船の復元船は。あの船なら、墓丘にいる全員が一度に乗り込める」
「しかしそんなものを貸してもらえるかな」
首をひねるジトパカに、シャンが気負い込んで拳を振った。
「曲がりなりにも人を救い導く宗教の聖地だ、救済を求める人の願いを無下にはすまい。嫌でもウンと言わせる。それに、もしあの船が駄目でも、湖宮の所有している荷船の一つくらいは貸してくれるだろう」
「それはそうだ」と、一瞬にして皆の声が明るくなった。
「よし、それじゃ、すぐにでも湖宮に飛行機を飛ばして、船を回して貰えるよう頼もう」
これで問題は解決したとばかりに嬉しそうに顔を綻ばせたベコ連の年寄りたちに、「それは、無理だ」と、オバルが慌てて首を振った。
「なぜ、あのバンザイ機は夜間でも飛べるのだろう」
オバルが事情を説明する。銃弾を受けて壊れたのは、窓だけではない。探査装置などを含め、いくつかの計器が操作不能になった。探査装置が使えない状態で上空が厚い雲に覆われた闇夜に飛行機を飛ばすなど、論外。不可能だ。
「飛行機を飛ばすのは、明朝、夜が明けてからだ」
オバルが明言した。
皆が顔を上げ、自分たちを取り巻く深い闇に目を向けた。白灯の細々とした明かりを除けば、辺りは全くの闇。おまけに風向きは、気紛れな風の神が団扇を扇ぐように、向きも強さも頻繁に変わる。ひっきりなしに霙もバラバラと落ちてくる。こんな天候で、目視での飛行しかできない飛行機が、それも素人同然の操縦術で飛べるはずがなかった。明日の朝までは、ただひたすら決壊流が襲って来ないよう祈るしかない。
体の芯まで凍りつくような風に、そこにいた全員がブルッと体を震わせた。
重苦しい空気が流れたのを見て、オバルが皆を励ますように言った。
「とにかく俺は、明朝すぐにでも飛行機が飛び立てるように機体を整備するから、湖宮の連中と交渉する人間は、彼らをどう説得するか考えておいてくれ。湖宮は一筋縄ではいかないところなのだろう」
その指摘に、今度はシャンが表情を固くした。
確かにそうなのだ。湖宮は秘密を知った自分に暗殺者を差し向けてきた。そんな湖宮が果たして救助の願いを聞き入れてくれるだろうか。
シャンは、今回の件では、自分は湖宮へ行かない方がいいだろうと心に決めていた。ところが、湖宮行きを固辞するシャンに、ベコ連の年寄りたちが、湖宮との交渉には湖宮に肉親のいるシャンに行ってもらうしかないと口を揃える。医者を必要としている連中を残して墓丘を離れるのは心苦しいだろうが、皆を救うためなのだからと、半ば強制するように言い寄った。実際のところ、湖宮を正式に訪問したことのある人間は、墓丘に避難している者の中ではシャンだけだ。
やはり自分が行くしかないのだろうか、そう思ってシャンが額を押さえた時、墓丘の南側から、見張りの青年と女の子の言い争うような声が聞こえてきた。どうしたのかと何人かの者が腰を上げて、見張り穴の外、声のした方を見やる。
声の主はジャーバラだった。見張りの青年とジャーバラが何やら言い合っている。
明朝の湖宮訪問についての話し合いは決着したとばかりに、一同がシャンに決意を促すよう視線を向けたので、シャンは頷くしかなかった。それを確認すると、余力のある者数人が見張り穴を出て、青年とジャーバラの元に向かった。
「どうしたんじゃ」
駆けつけたジトパカに、見張りをしていた青年が困惑顔で訳を説明。ジャーバラが、水面に突き出た火炎樹の枝を見たというのだ。見張りの青年が何もなかったと言っても、ジャーバラは確かに自分は見た、今ならロープを投げれば岸に引き寄せられると、頑として言い張る。それで口論になったのだ。
ジャーバラがジトパカに訴える。
「確かに見たのよ。あれは間違いなく火炎樹の枝だったわ。けば立った枝が水の上に突き出て、また直ぐに転がるような感じで見えなくなったの。きっと水の中で、火炎樹の幹が転がりながら流れてるんだわ」
自信満々で話すジャーバラに、見張りの青年も迷いが出てきたのか、救いを求めるように、集まってきたベコ連の年寄りたちや、見張りの仲間に視線を投げる。
その気の弱そうな青年に構わず、ジャーバラが大袈裟な身ぶりで、火炎樹の枝を見たという水面を指さした。
「さっきの金具を付けたロープを貸してよ。放り込んで引っ張れば、水の中の火炎樹を引っ張り上げることができる、絶対によ!」
もし見落としていたら自分の責任になると思ったのだろう、見張りの青年は、「分かったよ、俺がやる。じっとしていても寒いだけだからな」と、渋々塹壕の縁に置いてあったロープを取りに戻った。
その青年をオバルが呼び止めた。
「もし木を引っ掛けるのなら、あの金具じゃ小さすぎる、ちょっと待ってな」
バンザイ機に取って返したオバルが、工具箱からコレコレと言って、L字型の金具を取り出した。見張りの若者たちとベコ連の年寄りたちが見詰めるなか、青年が水面目掛けてL字型の金具を結んだロープを投げ入れる。
最初は手を離すタイミングが合わず、金具があさっての方向に飛んでしまうが、二度目からはしっかり前方で水飛沫が上がるようになる。しかし飛んだロープを手繰り寄せても、何の感触もない。水中の斜面を金具が引きずられる感触しか手に伝わってこない。
ジャーバラが小首を傾げ、「変ね、水に流されたのかな。水は右から左に流れているようだから、ねえ、もう少し左寄りに投げてみて」と、青年に注文をつけた。
「ほんとうに見たのか」とぼやきつつ、青年が再度金具を投げ入れる。
それでも手応えはない。「もう一度」と、ジャーバラに請われて、青年が「これが最後だぞ」と言いながら投げる体勢に入った。
と、それを横で眺めていた腕っ節の強そうな牧人の青年が、「俺ならもっと遠くまで飛ばせる」と言うなり、見張りの青年から金具とロープを引っ手操ると、そのまま音をたててロープを振り回し始めた。
唸るような音を残して、金具が飛んでいく。そして着水。
かなり前方で水しぶきが上がった。
ロープを手繰り寄せる牧人の青年が、手応えがあったのか、腕を数回しゃくるように動かす。そして……、水の中から上がってきたのは、墓標だった。
墓標が二本、ロープに絡むように岸辺に姿を見せた。
「なんだ、墓標じゃねえか」
最初に投げた青年が冷ややかに言うと、いつの間に集まってきたのか、後ろで見物していた連中が、「何も引っ掛からないより益しだ、それに墓標は燃やせる」と囃し立てた。
ムッとした最初の青年は、牧人の青年からロープを取り戻すと、名誉挽回とばかりに、今度は気合いを入れて金具を放り投げた。三十メートルは飛ぶ。が遠くに投げた割に何の手応えもない。墓標もゴミも何も引っ掛かってこない。
何度かそれを繰り返すうちに、見物していた見張り仲間の若者たちも、興味が出てきたのか、次は俺に投げさせろと前に進み出てきた。
気がつくと、青年たちによるロープ投げが始まっていた。
ロープも一本増え、交代でロープを投げる。すると五回に一回は墓標が引っ掛かる。どうやら、洪水の前に引き抜いた墓標の残りが、水底に立ち並んでいるらしい。やり始めると、釣りでもしているような気分である。墓標を引っ掛けるのであるから罰が当たりそうだが、それでも墓標は燃やせば暖を取ることのできる貴重な薪だ。みな期待を込め、そして場所を変えながら、交代でロープを投げる。
そうこうするうちに、今度は何が引っかかったのか、ロープが石に引っ掛かったようにピンと張って動かなくなった。いや、わずかに動くが、猛烈に重い。男たちが六人がかりで引く。あまり強く引くとロープが切れてしまいそうだが、そのままにする訳にもいかない。貴重なロープなのだ。
最後は切れることを覚悟で、綱引き競技のように力まかせに引っ張る。
少しずつロープが引かれ、最後にロープの先、水面に現われてきたものを見て、岸辺にどっと歓声が起きた。火炎樹の枝先が現れたのだ。それだけではない。枝に絡む形で小船らしきものが水面に顔を見せた。
周りで見ていたベコ連の年寄りたちまでが集って、ロープに手を伸ばしてきた。
塹壕の中で体を丸めていた人たちのなかにも、水辺の騒動に、塹壕の縁から顔を突き出し、様子を眺める者が出てきた。
皆で寄って集って引き上げると、それは火炎樹の樹冠の一部だった。細かい枝が泥にめり込んだために、引っ張ってもなかなか上がってこなかったのだ。枝自体は大した量ではないが、とにかく船。大収穫である。枝と共に船を引き揚げる。
続けられる水底の宝探しの歓声を背に、船頭のチョアンとベコ連の年寄りたちは、小船を調べた。小型の桝船で、傷もなく使える状態である。
ただこれを使って墓丘の五百名を万越群島の岩山に運ぶのは現実的ではない。
それでも船が一艚手元に来たということは、砂洲のような墓丘に閉じ込められた人たちにとっては、勇気を与えられることだった。
もっとも、良いことがそうそう続くはずもない。
午前零時、日付が変わると同時に風が強くなってきた。
合わせたように水嵩が上がってきた。海からの強風で、飛沫が墓丘の上まで跳ね上がり、塹壕や穴の中にいる人たちに降り注ぐ。その飛沫が凍りつき、服の表面が蝋を垂らしたようになってくる。波立つ水面から墓丘の一番上まで、高さにして二メートル足らず。南北にブーメラン型に伸びた墓丘の北側は、波に洗われ、気がつけば塹壕の底はもう水面と同じ高さだ。
バンザイ機に被せたシートが、風で煽られ飛ばされかけた。シートを掛けてない翼には、氷が層になって貼りついている。いつの間にか、尾翼の下に、シロタテガミとぶちの雌犬が体を丸めて入りこんでいた。
塹壕の中で体を丸めていた人たちが、時々立ち上がっては闇の中に目を凝らす。波しぶきが降りかかるような状況のなか、もし大波が被さってきたらという不安が、外を覗かないではおれなくしている。
この水位が上がったことによって、薪にしようと積んであった墓標や火炎樹の枝の一部が、波に攫われてしまった。もうとてもロープを投げて、水中に転がっているものを探すどころの話ではない。
そして半刻、水位の上昇は止まったようだが、風は相変わらずだ。
互いに身を寄せ合い、体を丸め、ひたすら時間の過ぎるのを待つ。
吐く息の熱さえもったいないような、忍耐の時間が過ぎていく。
元気を装っていたベコ連の年寄りたちも、膝を抱えて黙り込み、餅耳のグランダも、とうに編み物の手を止めている。
白灯だけが、吹きつける風の中で孤独な光芒を瞬かせていた。
と突然、塹壕から這い出した男が、よろけるように水辺に踏み込み、意味不明の言葉を叫び始めた。体温の低下によって錯乱状態に陥っている。
見張りの若者たちが、引きずるようにして塹壕に連れ戻した。
人の体内で熱を生み出しているのは、主に筋肉と肝臓。寒さで体が震えるのは、筋肉を震わせて自動的に体を温めようとするからだが、体を震わせるエネルギーには限りがある。筋肉の中に蓄えられたエネルギーが尽きれば、後は変温動物のように外気に熱を奪われ、体温は低下の一途をたどるしかない。そして動きが鈍り、意識が朦朧とし、瞳孔が開いたまま痛みにも反応しなくなって、人は昏睡状態へと陥っていくのだ。
おそらくは今、塹壕のなかでうずくまっている人の中にも、その昏睡状態に陥りかけた人が何人もいるだろう。けだし、医師のシャンにして、その人たちに対してやれることは無かった。いま必要なのは、とにかく体を温めること。それだけだ。
重苦しい空気に耐えられなくなったのか、見張り穴の中でジャーバラが声をあげた。
「ねえ、残っている火炎樹の枝を燃やしましょうよ。細かい枝だから、すぐに燃え尽きちゃうでしょうけど、でもわたし火が見たいわ」
顔を見合せたベコ連の年寄りたちに、誰からともなく賛同の声が上がる。
「そうだな、こんな暗がりの中で、それも耳元で波の音を聞かされていたら、気が狂ってしまう」
誰もが頷いている。朝までの長い時間を考えれば、燃える物は少しでも残しておきたい、それが、体が、いや心までが凍えてきて、そんなことは言っておれなくなってきた。たとえ火を焚いても、よほど火に体を寄せなければ暖は取れない。それでも火を、炎を見れば、凍えて萎えそうになる心を鼓舞することはできる。
数人が塹壕を這い出ると、墓丘の真ん中、塹壕と塹壕の間に浅い穴を堀り始めた。その穴に叩き折った火炎樹の枝を放りこみ、カンテラ用の油を使って火を付ける。濡れた火炎樹は着火しにくいが、樹脂を含んでいるので、一度火がつくと強い炎が音をたてて噴き上がる。火炎樹の枝が、海からの風に争う陸の神のように燃えだした。
強風が吹く度に、赤い火の粉が舞い上がり、風下の闇の中に飛び散っていく。
さっきまで不安そうに闇を見透かし、打ち寄せる波に聞き耳をたてていた人たちが、今度は立ち上がり火を見ては、安心した顔になって座るようになった。火は人類の一番身近な友、そのことが身に滲みてくる。
焚火の穴に近寄った人に、「火が見えなくなるぞ」と、周りの塹壕から文句が飛ぶ。
すぐさま「ばかやろう、枝を足しにきたんだ」と、怒鳴り声が返される。
弱い笑い声が起きた。
火が風に煽られ赤い粉が宙に舞う。
闇の中で、寒さと炎が互いの存在を誇示しあっている。
その風が止んだ。と静寂を突くように、ジャーバラが歌い始めた。
焚火に向かって歌っている。覚えたばかりの沸砂語の歌を、火に対してエールを送るように高らかに歌う。ジャーバラはまだ歌詞の意味を理解してしなかったが、奇しくもそれは、南部の平原で歌われる火祭りの歌だった。
ジャーバラにつられて、塹壕の端で身を寄せ合っていた牧人たちが、同じ歌を唱和。こちらはさすがに本家。喉を震わす響きのある声が、重唱となって闇の中を突き抜けていく。ひとしきり歌い終えると、ジャーバラが「あーっ、潮風で喉が枯れちゃうわね、お粗末様でした」と、あいさつした。
拍手代わりの手袋を叩く音がパラパラと起きる。ジャーバラの横に座っていたジトパカが、自慢の喉袋を膨らませると、コホンとこれ見よがしの大きな咳を一つついた。そして、「お耳汚しじゃが、わしも一曲歌おう。この地に都のできる前からアンユー族に伝わる、ヨシ刈りの歌じゃ」と、そう前置きをして歌い始めた。
単純な労働歌である。火炎樹の農園で働く人たちが歌う、労働歌の原型となった歌だ。周りのベコ帽を被った年寄りたちも一緒に歌い出す。短い節回しを続ける歌なので、しばらく聞いていると誰でも口ずさめる。
同じ節で『ヨシ刈りの唄』から、樹液を運ぶ『樽担ぎの唄』、工場の『鍋回しの唄』と続く。特に水路を掘削する『泥掘りの唄』には、この湿地帯が開発された当時、この地に売られてきたジンバたちの労苦が刻まれている。ジンバたちの哀歌である。誰かに自分の生殺与奪の権利が握られている、そのことに対する諦めと怒りが刻まれた歌、その歌の気分が、いま小さな砂洲の上で、いつ襲ってくるか分からない大波に怯え、凍えて体を丸めている自分たちの気分に当てはまるのだ。
自然の災害なら諦めるしかない。しかし今回の戦争にしろ洪水にしろ、それは自分たちとは相知らぬところで、他人の手によって生み出されたものだ。その災厄に自分たちがなぜ怯え、耐えなければならないのか。
それが人の世の常とはいえ、与えられた理不尽な運命に抗うことさえできない、甘んじるしかない自分への怒りが、歌に込められている。
年寄りたちに合わせて歌を口ずさみながら、春香はこの明るいテンポの労働歌が、その労働を強いられた人々の怒りの歌であることが分かってきた。歌うことそのものが、自己存在の悲痛な叫びなのだ。気がつくと、バンザイ機の下で丸まっていたシロタテガミまでが、遠吠えで歌に参加していた。
不思議なもので、声を出すと体が暖まる。曲を変え歌詞を変えながら歌は続いた。
そうして火炎樹の枝が燃え尽きる頃、歌も何とはなしに終わり、また闇のなか、ヒタヒタと砂洲を打つ波の音が戻ってきた。風は止んでいる。しかし水が引く気配はない。きっと海門地峡からは、怒濤のように海水が低地帯に流れ込んでいるのだ。
それでも歌を歌ったことで、少しだけ不安が和らいだような気になる。不安の気が、歌と共に体の外に出ていったようだ。
そしてささやかな問題が一つ。
声を張り上げて歌を歌った。それも塩辛い水しぶきを浴びながらである。喉がガラガラになっていた。ほとんどの人が水など持参していない。服にこびりついた氷を口に含んだ人は、その塩気にますます喉を枯らした。当たり前だが、墓丘を取り巻いている水は、ドゥルー海から流れ込んでいる海水なのだ。
また、ジャーバラ嬢が「そうだ」と声をあげた。
「今度は、何じゃな」と隣のジトパカが、合いの手を入れるように膨らんだ喉袋を叩く。
皆の注視するなか、ジャーバラが外套のポケットから、ガラスの小瓶を取り出した。
「ここに紅珊瑚のジャムがあるの。わたしの隣にいる春香ちゃんから貰ったものなんだけど、すっごく甘いジャムよ。わたし一人で嘗めると罰が当たりそうだから、みんなに回すわね。ちょこっとだけ嘗めて、次の人に回して」
ジャーバラは小瓶をカンテラの灯にかざすと、隣のジトパカに渡した。
「ほう、こりゃまた珍しい。前に食べたのは、もう忘れたくらいの昔じゃ」
凍えた口元を綻ばすと、小瓶を手にしたジトパカはヨイショと立ち上がり、「皆の衆」と自慢の太い声を張り上げた。
「今、このお嬢さんからいいものを提供してもらった。紅珊瑚のジャムじゃ。潮風で喉の嗄れた衆に回そう。喉を潤すためじゃから、一人につき指先にちょっとだけだぞ。甘いものを口に入れれば、それで唾液が出て喉は潤う。くれぐれも指先をズッポリ突っ込むなんてことはやらんでくれよ」
ジトパカが、ジャムを隣のガビ翁にまわす。
「やれやれ何人に回るものやら」とぼやきつつ、ガビが手本を見せるように、指先にほんの少しだけジャムをつけた。
しばらくすると、案の定「こら、おまえ、指先に付けすぎだ」と怒鳴る声。反発するように「おれの指は太いんだ」と、言い訳めいた声が返される。
結局ジャムの小瓶は、全体の三分の一ほどの人に回ったところで、内側がピカピカに磨き上げられた状態で、ジャーバラの元に帰ってきた。
空になった瓶を見て「よく、こんな物をポケットに入れていたわね」と、春香が感心したようにジャーバラを肘で突く。
「歌の練習を始めたから、喉飴の代わりに使おうと思ったの、役に立って良かったわ」
「今日のことサッチモのおじさんに教えてあげると喜ぶだろうな」
「何、そのサッチモのおじさんって?」
「うん、それは」と、春香が説明しようとした時、墓丘の右手の塹壕から、ワーッという悲鳴が上がった。どうやら掘り下げた塹壕の中に水がしみ込んできたらしい。
白灯を掲げると、いつの間にか海水が真綿で首を絞めるように墓丘の上に這い上がっていた。塹壕のすぐ目の前で水面が揺れている。
ジトパカが気を落ち着かせるように、喉袋を上から下へと撫で下ろした。
「いよいよかのお……」
しかし皆の心配や不安をよそに、水面はそれ以上、上がってこなかった。
代わりに風が強まり、波の飛沫が酷くなってきた。飛沫を被り続けている人は、みな服の上に氷の衣をまとったような状態になりつつある。
マフポップは何人かの若者と交代で、飛行機の翼に付着した氷を削り落とす作業を続けていた。一方、オバルは機体の外装の一部を外して、中の配線をいじっている。翼の下部に装備された探照灯が点灯しては消える。もし墓丘が完全に水に浸かるなら、オバルはその前に飛行機を飛ばすつもりにしていた。探照灯で下方を照らしながらの超低速の飛行なら、自分にもできるかもしれないと考えたのだ。一か八、闇のなか湖宮を目指す……。
シャンは、塹壕から塹壕へと移動しながら、皆の体調を診て回っていた。
残念ながら、この一時間で老齢の男性が四人、眠るように息を引き取った。それに診療所の療養棟で寝起きしていた腎肥病の男性が一人と、全身火傷の女性、足に外傷を負い出血の酷かった青年が、凍風に耐えられなかったのだろう、心臓の鼓動を止めた。
風が弱くなると同時に霧が出てきた。凍るような氷霧である。
朝までには、まだ時間がある。ただ朝まで耐えたからといって、それで助かるという保証はどこにもない。大波が来て自分たちが呑み込まれるかもしれないという緊張と不安が、生きる気力を蝕んでいた。
時々、ジトパカが「眠るなよーっ!」と、喉袋を膨らませて声を張り上げる。
しかし眠って、そのままそっと凍り付くように息を引き取る方が、波に呑まれて苦しみながら死ぬよりも、よほど楽なのではと思えてくる。塹壕から顔を上げる人もほとんどいない。春香もとにかく体を丸め、外気に触れるところは塞げるだけ塞いで、必死に寒さに耐えていた。手や足の指は動かしていないと、すぐに感覚が無くなってしまう。頭巾の隙間から時々周囲を見まわすが、衣類の塊のようになってしまって誰も動かない。鼻をすする音と、咳と、老人たちのしわぶきが聞こえるくらいだ。霧が辺りを覆い、冷気が体に貼りついてどうにも離れない。
ジャーバラの体がガクンと揺れ、春香の肩に体重がかかった。
見るとジャーバラの首が完全に垂れている。
頭巾がずれて剥き出しになった髪は、凍った箒のようだ。町の暮らししか経験のないジャーバラにとって、この凍風を耐えるのは至難の技だろう。春香がジャーバラの体を揺すると、頭巾から食み出た髪が凍ったままバサバサと揺れる。
隣でうつらうつらしていたガビも気づいたらしく、そんなことじゃ駄目だとばかりに、ジャーバラの肩を掴むと、気を送るようにエイッと力を込めた。
「う……ん」と、ジャーバラが首を起こした。
「ジャーバラちゃん、眠っちゃだめだって」
薄目を開けたままトロンと眠りそうになるジャーバラの肩を、春香が揺さぶった。
「煩いな、もう……、バカ親父」
地声でそう漏らすと、ジャーバラは、つと目を開けた。
そして意外そうな目で春香を見た。
「眠ってた、の……わたし?」
「うん」と、春香が頷く。
目が覚めると同時に、寒さが襲ってきたのか、歯の根が音をたてて震える。しかしジャーバラは気力で口元を引き絞ると、鉄火鼻の翁、ガビの耳元に顔を寄せた。震えながらも目を輝かせて翁に話しかける。ガビが、それを隣のジトパカに中継。
ジトパカがジャーバラを見て「反対はせんが、皆がなんと言うかな、自分で話してみるかい」と、手揉むみをしながら言うと、違うとばかりにジャーバラが首を揺すった。
それでジトパカも気づいたのか、「そうじゃな、これは、本人の口からではなく、誰かほかの人物が話した方がいい提案じゃろうて」と喉袋をひと撫ですると、掛け声と共に立ち上がった。そして六十の歳を過ぎたとは思えないと滔々とした声を響かせた。
アンユー族伝統の船上影絵の語り部を長く担ってきたジトパカの技、壁も屋根も何もない水上で、あたかも部屋の中で物語を語るように声を響かせる。
ジトパカの太く柔らかい声が、塹壕の上を包む。
「皆や、ちょいと相談があるで、こっちに耳を傾けてほしい。相変わらず寒いでな、顔は上げんでいい。わしらは、たまさか幸か不幸か、この小さな丘の上で一緒になった。半分以上はベコス地区の連中じゃが、ほかにも両都の人間もおれば、北の移民に、牧人の避難民、雑多な人間の集まりじゃ。その五百人余りの者が、何とか生き延びようと策を練っておる。一応明日の朝、夜明けを待って飛行機を飛ばし、湖宮に救援を求めに行く予定だ。夜が明けんと飛行機が飛ばせんのでな。じゃが見てのとおり、水はもうそこまで迫っておる。朝までここにじっとしていて大丈夫か、不安も大きい。朝までに何かやれることがあれば、やってみた方がいいのかもしれん。
そこでじゃ、このお嬢さんから提案があった。
この娘さん、名前をジャーバラさんと言うそうじゃが、彼女はバドゥーナの大臣の娘さんだそうだ。
ジャーバラさんが言うには、さっき引き上げた桝船を貸してもらえれば、自分が盤都に行って、官庁街の倉庫から何か食べ物を取って来る。それに都の人たちに会うことができれば、エンジン付きの船を借り出す交渉もしてくるというんじゃ。まあ、これはもし借り出せるような船が残っていればの話じゃろうが。幸いというか、この墓丘にも盤都の住人が二十名ほど流れ着いておる。その人たちの救助のためといえば、船を貸して貰える可能性はあるということだ。
もし明日、飛行機で湖宮に行って船を借りられなければ、わしらはここから動くことができん。その時のためにも、盤都に救いを求めることができるかどうか、その可能性を探っておくことは、やっておいて損はないと思う。それに船が駄目でも、食料だけでも調達してきてもらえれば、大助かりじゃからな」
「という提案なんじゃが……」と、ジトパカが皆の反応を窺うように問いかける。
ところがジトパカの呼びかけにも、塹壕の中の人たちは、俯いたまま何も答えない。反応がないので、話が聞こえていたのかどうかも分からない。ジトパカが喉の袋を膨らませながら、「どうじゃろう皆の衆、異論がないなら、娘さんにお願いしようと思うが」と、再度問いかけた。
ジャーバラが立ち上がって話を繋げた。
「わたしが、そのジャーバラです。正直に言うと、盤都に行くことの目的の半分は、盤都の様子を確かめたいということなの。でも残りの半分は、漂流しているところを助けてもらったお礼がしたいということ。あっ、でも女の子のやることだから、あまり成果は期待しないで欲しいんだけど」
ジャーバラが大きく鼻を啜ったところに、塹壕の一つから若い男の声が飛んだ。
「その娘が嘘をついて都に戻ろうとしているなどとは思わない。でもだ、朝までの間、船が無くなるのは考えもんだろう。いざという時にどうする」
桝船が一艘あったからといって、その船で助かることのできるのは、いいとこ五人か六人が関の山。皆それは分かっている。だが小さくとも手元に船があるということが、この闇の底でいつ押し寄せて来るかもしれない波の不安に耐える時、間違いなく心の支えになる。五百人中、五人しか助からなくとも、その五人に自分がなれる可能性はあるのだ。それが、船が無くなってしまえば、五という数字はゼロになってしまう。
若い男は、その心の支えが、今この墓丘には必要だと言いたかったのだろう。
「我慢おし!」
「そうさ、歌でも歌って帰りを待つさ」
ジトパカが、話をまとめるように声を響かせた。
「若い衆や、おまえさんの言っていることは良く分かる。じゃがな、一緒に墓丘に辿り着いた仲間だ。なんとか全員が助かる道を探ろう。その可能性があるならな」
鉄火鼻のガビが手を上げた。
「他にも意見があるようだ」と、ジトパカがガビを指名。
ガビ翁が墓丘全体に聞こえるようにと、しわがれた声を張り上げた。
「食料もいいが、ぜひ酒を調達してきてくれ。気の弱い孫は、気付けの酒がないと、とても耐えられそうになさそうだからな」
先に発言した若い男は、どうやらガビの孫だったようだ。その孫が怒鳴った。
「酒が飲みたいのは爺ちゃんの方だろ。とにかく元気の元になるような物なら、俺は何でも歓迎する。さっさと出発してくれ」
「そうだ、議論しているよりも早く出発しろ。大臣の娘さんがいる幸運を生かさない手はない。俺は歌の上手いやつは嘘をつかないと思う」
はきはきとした物言いは、若衆組のリーダー、ジーボだ。賛同を示すように、手袋を打ち付ける音がパラパラと鳴った。
塹壕の中に目を向ければ、びっしり団子を詰め込んだように頭だけが並ぶ。
ジトパカは、その俯いたままの頭に向かって「皆の衆、納得してもらえたかな」と一声声を掛けると、喉袋を大きく膨らませて呼びかけた。
「成功の陰には失敗がある、要はそれをやる価値があるかどうかじゃろう。わしはこの娘さんに一働きしてもらいたいと思っとる」
「わたしも!」と、春香が手を挙げた。
どうしても反対だという者は現れなかった。水はもう目の前まで迫っている。小さな船を使って生き残るためにできることとして、盤都に行って船を借り出す交渉を行い、当座の食料を調達するというのは、悪い案ではない。そして、ジャーバラ以外にその役を担える人物がいないというのは、誰もが納得のいくことだった。
すぐに桝船が岸に運ばれた。
ただ実際にジャーバラに盤都に行ってもらうとして、問題は誰が船を漕ぐかということだ。ベコ連の年寄りたちの目が、塹壕の隅で背を丸めて酒を嘗めていた船頭のチョアンに集まる。船頭仲間で墓丘に避難したのは、唯一チョアンだけだ。
ところがジトパカが頼んでも、チョアンは手に残された二本のカニ指を振って、重い腰を上げようとしない。
一面に氷の浮いた暗闇の水域を往復するのだ。それはやはり素人ではなく、船頭経験のある者の仕事だ。それではと、ジトパカが懐から火酒を一瓶取り出し、チョアンの鼻先で音を立てて振る。酒びたりのチョアンのこと、何はおいても飛びついてくるはず、そう思って翁たちが注視するも、意外やチョアンは首を縦に振らない。
半眼のまま指を振って断ろうとする……。
そのチョアンの指が小刻みに震えているのに気づいた目袋のホジチが、ジトパカに耳打ちした。頷いたジトパカが、チョアンにホジチ翁からの伝言をささやく。
面を上げたチョアンが、ようやく震える二本の指をオーケーとばかりに丸めた。
実はチョアンに麻苔の禁断症状が出ていたのだ。指の震えはその兆候で、気づいたホジチが、もし船を出すなら、シャンに麻酔に使う医療用の麻苔を分けて貰えるよう交渉してやると、提案したのだ。
チョアンが頷いたことで、ホジチとジトパカは、シャンのいる塹壕に這い寄った。いい顔はしなかったが、シャンは今回だけということで了承した。
シャンから渡された医薬用の麻苔をチョアンが服用、数分後にはチョアンのカニ指から震えは消え、丸めていた背中も別人のようにシャキッと伸びた。
タイミングを合わせたように霧が晴れ、闇の底に視界が開けた。盤都方向に赤い灯が並んでいる。きっと生き延びた人たちが、暖を取るために焚火をしているのだ。
桝船の上に立って櫓を握るチョアンの見立てでは、水の流れ次第だが、今の風向きなら行きが四十分で、帰りが一時間弱といったところだと告げた。
水垢取りに使う鍋を手に、ジャーバラが桝船に乗り込む。そのジャーバラが身長の倍もありそうな外套を着ている。園丁のホロが自分の外套を着せたのだ。
数分後、ジャーバラと船頭のチョアンを乗せた小船が、音もなく岸から離れた。
桝船の上の白灯の明かりが、闇の中に滑り出していく。
春香が手を振りながら、言い忘れたことを伝える。
「さっきジャムを嘗めそびれた人もいるの、倉庫にあったら忘れずに持って来てねーっ」
返事の代わりに桝船の白灯が左右に揺れた。
それを墓丘の縁に立って手を振るのは見張り穴の二十名余り。その後ろの塹壕から頭だけを出して、離れて行く船を見つめている者が数名。残りの人たちは、ただじっと穴の中で貝のようにうずくまりながら、事の成り行きを音として聞いていた。実際に見てはいなくとも、心の目は二人を乗せた小船を見送っていた。
次話「浮氷」




