表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星草物語  作者: 東陣正則
128/149

墓丘


     墓丘


 暗闇の中、水に浮かぶ笹舟のような砂洲で過ごす夜は、まだまだ長い。

 一時間で薪の束の三分の一が燃え尽きた。シャンが運び出した診療所の食料は、すでに一同の腹の中に納まっている。個人で荷物を抱えこんでいる人もいるが、この状況で燃料や食料の提供を請うのは酷な話だろう。無理に強いれば、先にジトパカが衣類の供出を呼びかけた時のように、気まずい雰囲気を作るだけになってしまう。平等に何かを提供するには、五百人という人間は大き過ぎる集団だった。

 病人や誰か濡れた人が助け上げられた時のことを考え、今ある薪の半分は残し、残り半分を少しずつ朝まで燃やすことにする。それに少しでも風を避けるために、塹壕をさらに一段掘り下げ、各自持てる衣類や布を使って、少しでも体温が奪われるのを防ぐ。

 ベコ連の年寄りたちと一緒に、押しくら饅頭をするように塹壕に潜りこんでいたジャーバラも、温かい餅粥と初めて口にした酒で、何とか震えが治まったようだ。

 そのジャーバラが、隣に座っている春香に決壊流が襲ってきた時の様子を話し始めた。

 

 洪水の起きた夕刻の四時五十分、ジャーバラは、あのガラス室にいた。

 砲声が止むのを待って、ピーノの様子を見に来たのだ。

 ガラス室は、あたり一面、ガラスの破片が飛び散り、足の踏み場もない有様だった。都の御神体の大木も、爆弾の直撃を受けて真っ二つに裂けていた。

 そのジャーバラが、ご神体の木の先、禽鳴舎の下に無傷のピーノを見つけた直後、地鳴りのような音が迎賓館を包んだ。何が起きているのか分からなかったが、用心のために、ジャーバラはホールに駆け込んだ。

 そしてその後のことを、ジャーバラは覚えていない。気がついた時には、ホロに抱きかかえられ、暗闇のなか朽ち木に乗って水の上を漂っていた。

 ジャーバラが意識を失っていた間のことは、園丁のホロが語った。

 地鳴りが起きた時、ホロは迎賓館の用務室にいた。ジャーバラとは逆に、ホロは外の様子を確かめようと、部屋を飛び出した。そして通路の先に、崩落した天井の破片を受けて倒れたジャーバラを発見したのだ。

 ジャーバラを抱き起こすホロに、「水がくるぞ」という声が聞こえた。崩れ落ちた壁の向こうに目を向けると、巨大な波が塁壁で塞き止められ、盛んに飛沫を上げている。濁流は正面の経閣門を押し破るようにして大通りに流れ込み、次々と両側の家並みを呑み込みながら押し寄せている。

 ただこの程度の水なら高台にある迎賓館は大丈夫と、ホロがそう思ったのもつかの間、建物が大きく揺れた。何がと思って気づく。目の前に広がる都の町並みが、右から左へとずれ動いているのだ。町の表側、官庁街が視界から外れ、見えるはずのない都の裏側の工場街が見えてくる。液状化兵器で盤都の地盤はドロドロのクリーム状態。そのクリームの上に乗った都の建物が、流れ込んだ決壊流に押されて、好き勝手な方向に横滑りを始めていたのだ。

 何が起きているのか皆目分からない。それでも迎賓館さえが安全な場所ではないということが感じ取れた。地震のように足元が動くことに関して、人は本能的に不安を感じるもの。それ以前に、壁や柱が猛烈な軋み音と共に崩落を始めている。このまま建物の中にいると押しつぶされてしまう。とにかく外へ。

 そう思ってホロは、ジャーバラを背負って通路を走った。

 ホールを抜け、ガラス室に戻ったところで、行く手を遮るように、怒涛の水が四方八方から流れ込んできた。割れた床の隙間からは、泥水が噴水のように噴き上がる。第二陣の決壊流の襲来だった。どこに逃げ……、と逡巡するホロの頭上で轟音が轟き、骨組みだけになったガラス室の向こうを、赤い火の塊が飛ぶ。警邏隊の本部に貯蔵してあった弾薬類に火が入ったのだ。あっという間、迎賓館が火に包まれた。

 迷っている暇はなかった。ホロは手近にあった紐でジャーバラを自分の背中に括り付けると、水に浮かんでいた御神体の古木に乗り移った。

 迎賓館から必死の思いで脱出、水面を覆う油の層が、あちこちで炎を上げている。

 その炎と濁流を避けて漂ううちに、日が暮れた。気が付くと二人を乗せた朽ち木は、崩れ落ちた塁壁の間を抜けて都の外に流れ出ていた。

 どこか上陸できる地点はないかと闇に目を凝らしながら漂流を続ける。

 そして四時間、ようやくこの墓丘に流れ着いたのだった。

 ホロの話では、盤都でまとまった数の人が避難しているのは、崩れずに残った塁壁の一部と、基礎のしっかりとした大型の建物だけだろうという。いずれにせよ盤都が壊滅したことに違いはない。いや盤都だけでなく、濠都も濁流に呑まれたはずだ。

 休憩していた見張りの若者たちから手が挙がった。水が引かず、いつ大波が自分たちを押し流してしまうか分からない状況を考えると、一刻も早く高い場所に移る必要がある。その移動に使える船が盤都に残っているかどうか。

 若者の質問に、ホロが残念そうに首を振った。自分が漂流している間に見かけた船は、馬頭船が三隻だけ。おそらくは河岸に係留されていた警邏艇や荷船などの大型の船は、数度に渡る決壊流で全て流されてしまったと思われる。

 予想していた答えではあったが、若者たち、そして老人たちも押し黙った。

 話し終えたホロを労うように、鉄火鼻のガビが酒を勧める。しかし酒を嗜まないホロはそれを丁重に断った。疲れが出てきたのだろう、ホロが足を抱えたまま首を揺らせ始める。

 みな一様に体が冷えてきたようで、塹壕の中が静かになる。

 青年たちが交代で回す手回し式の発電機の音だけが耳につく。そのカリカリという音を打ち消すように、バンザイ機の窓に、剥がした機内の内壁を溶接する音が鳴り響く。十字泡壺の電力を使ったアーク溶接である。飛び散る火花が、呼吸でもするかのように墓丘の上に明と暗を作り出していく。


 時刻は十時半、

 塹壕の中で膝を抱え、うつらうつらしていた春香に、酒を口にして元気の出てきたジャーバラが、墓丘を一回りしてみたいと言いだした。

「寒くない?」

 心配気な春香に、ジャーバラは、いたって溌剌とした笑みを浮かべた。

「問題なしよ、防水服を着ていたおかげで、ほとんど濡れていないし、この服は見かけよりもずっと暖かいの」

 前のめりに話すジャーバラを見て春香は気づいた。どこかジャーバラの印象が違っていると思ったら、着ているものは相変わらずのピンク三昧なのに、髪留めのリボンや腕輪など、ゴテゴテと身に着けていたアクセサリーが綺麗さっぱり無くなっているのだ。

「何だかすっきりしちゃったわね、ジャーバラちゃんじゃないみたい」

 春香の指摘に、ジャーバラが顔を横に向け、右耳の下を指先で示した。そこに、春香からプレゼントされた黒い石のイヤリングが揺れている。

「今はこれだけ。さっ、案内して」

 ジャーバラが、やや強引に春香の手を引いた。

 塹壕から出るや、とたん凍えていた体が、まだ凍え足りないとばかりにギュッと絞り込まれる。筋肉が伸び縮みのするゴムからプラスチックに変わり、体全体が金属の鎧になったように重い。外に出たことを後悔するが、それでも春香はジャーバラの要望に答えて、墓丘の岸辺を時計まわりに歩きだした。

 足元に気を配りつつ、春香はジャーバラに盤都を抜け出して以降のことを説明する。車ごと川に落ちた後、シャン先生の診療所に拾われ、そこで先生のお手伝いをするようになったこと。鉄床島を訪れ、湖宮の秘密に遭遇し、そのせいで殺し屋に襲われ、さらには飛行機に忍び込んでユルツ国に渡り、またドバス低地に戻って来るまでのことをだ。

 話しながら、春香自身よくぞまあ短い間に色々な事が起きたものだと感心していた。いつものことながら、ほんの小さな選択一つで、自分の運命が全く違ったものになってしまうことに驚いていた。

 もし湖宮でこっそり奥の院に忍び込まなければ、その後、殺し屋に襲われることもなかっただろうし、ダーナさんに危機を伝えようと、飛行機に上がり込むこともなかった。乗り込んだ飛行機が、氷床上のサイトではなく、予定通り都の基地に戻っていたら、自分は今ごろ濁流に呑まれていたかもしれないのだ。


 春香の話に耳を傾けながら、ジャーバラも似たような思いを抱いていた。

 盤都の民間人は、政府の指示で指定された地下の避難所に避難していた。ところが、急作りの狭い避難所、それも換気の不十分な部屋にたくさんの人が押し込められたせいで、息苦しさで失神する者が出てくる。水や食料の配給もなく、病人や怪我人も手当てもされずに放置されたまま。誰かが文句を言わなければと思うが、皆じっと我慢しているだけで何もしようとしない。

 見兼ねてジャーバラは、自分が上の人に掛け合ってくると、地下の臨時政府に出向くことにした。都の評議委員に立候補するのは来年の七月だが、交渉力を実践で磨いておくのも悪くないと考えたのだ。それに閉所恐怖症の自分としては、それを口実に、外の風に当たりたいということもあった。

 状況からして、政府のお偉方のいる場所に小娘が簡単に出入りできる可能性は低い。しかしそこは国務大臣の父に急用があるという口実で、強引にでも突破しようと考えていた。

 ところが地下通路で繋がっているはずの臨時政府のある場所は、瓦礫の山に変わっていた。近くにいた警備の女性に尋ねると、地下庁舎は敵国に場所を特定されないよう、随時移動を繰り返している。場所は極秘事項。民間人は、おとなしく地下の避難壕に入っていなさいと、ピシャリと追い返されてしまう。父親の名前を出す暇もなかった。

 戦争中で、かつ自分が小娘であるとはいえ、その対応に腹を立てたジャーバラは、自力で移動政府の場所を探してみようと、避難所には戻らず地上に出た。

 黄甍の美しい都は無残な姿に変わり果てていた。

 怒りと悲しみで体が震えるが、堪えて足を踏み出す。

 と瓦礫の間に転がっているおもちゃのピーノが目に入った。その瞬間、ジャーバラの脳裏にガラス室のピーノのことが浮かんだ。

 ガラス室のピーノ、あれは生前母が弾いていたものを、父が都に寄贈したものだ。物心付いて、父からそれを知らされた時は憤慨したが、今では緑に囲まれた禽鳴舎が母のピーノには相応しいと思うようになった。そして個人としては特別に許可をもらい、母に会うつもりでピーノを弾きに行くようになった。

 ゴーダム国の榴弾や油弾が都の中に打ち込まれるようになって、もう五日。政府の諸施設に取り囲まれるようにして建っている迎賓館、おまけにガラス室だ。何事もなく残っているとは思えなかったが、無性に母の形見のピーノがどうなっているかを確かめたくなった。無謀だとは思いつつ、ジャーバラは迎賓館に足を伸ばすことにした。

 幸い砲撃は止んでいたので、崩れた家並みの間を縫うように官庁街へ走る。そして傾いた禽鳴舎の下にピーノを……。

 決壊流に襲われたのはその直後だ。

 園丁のホロが自分を見つけてくれなければ、自分は洪水の中で溺れ死んでいた。

 ほんのちょっとした決定が、人の運命を変えてしまう。そして自分の運命が変わるということは、人の運命も変えてしまうということだ。ホロと自分の乗った朽ち木がなければ、おそらくこの墓丘に避難していた人たちの幾ばくかは、凍えて命を落としていたはず。

春香が沈黙を破るように言った。

「ジャーバラちゃんが枯れ木と一緒に流れ着いたおかげで、牧人さんたちが濡れた体を乾かせたの。それに、私たちも温かい物を口にすることができた。ジャーバラちゃんは幸運の女神だわ」

 ジャーバラは思う。朽ち木にしがみ付いたまま塁壁にでも引っ掛かってそこに上陸するのと、この窮民街の人たちのいる墓丘に上陸するのとで、どちらが正解だったろう。比較できる問題ではない。でも朽ち木の漂着を喜んでくれる人がいるということでは、やはりこの砂洲のような墓丘に上陸、いや拾い上げてもらって良かったのだ。

 墓丘の四隅に置かれた白灯が、ここに人が取り残されていることを主張するように、闇の底で小さな明かりを瞬かせている。

 ジャーバラが足踏みをしながら言った。

「なんだか闇夜に浮かぶ船といった感じね、大波一つで簡単に沈んでしまいそう」

「うん、大波もそうだけど、水位がこれ以上、上がって来なければいいんだけど」

 水の打ち寄せるヒタヒタという音が、暗闇のなかで耳につく。その重苦しい水音を押し退けるように、砂洲の右端では、相変わらずバンザイ機を修理する音が鳴っている。その煩い音がなぜか嬉しい。

 ジャーバラと春香は、墓丘を一周りすると、最後にオバルのいる垂直離発着機の側に来て足を止めた。春香が機体の上にいる長身のオバルを紹介する。

「あの背の高い男性が、わたしをここに連れて来てくれたオバルさん。十年前のユルツ国の復興計画で……」

 声が聞こえたのか、機によじ上っていたオバルが振り向き、「ネジ屋の息子で借金持ち、趣味は魔鏡帳」と続けた。

 飛行眼鏡を掛けたうえに、防寒用の布をずっぽりと頭に巻きつけたオバルは、肌が黒いこともあって表情が分からない。まるで白い歯だけで挨拶をしているようだ。

 春香がオバルを見上げて聞いた。

「うまく塞がりそう」

「空の上で凍死したくないからな、是が非でも塞ぐさ」

 オバルが手にした端子を金属板の縁に近づけた。火花が散り、眩しい光がオバルと機体を照らし出す。とにかく側面とはいえ、座席が直接風に曝される状態で飛行機など飛ばせるものではない。

 溶接の眩しい光に照らされて、飛行機の後ろの座席に人の頭が見えた。防寒頭巾が妙に盛り上がっているのは、その下にヘッドフォンを付けているからだ。

「あれが、シャン先生の助手のマフポップさん、通称をマグ」

 バンザイ機には、診療所の風車小屋に置いてあった電鍵通信の機材が持ち込まれた。その機材を使って、マフポップは外部と交信が取れないか試していた。

 マフポップがヘッドフォンをずらせたのを見て、春香がジャーバラを紹介する。

 珍しく素直に顔を上げたマフポップだが、「マリア熱の薬をどうも」と言って手を挙げるや、すぐにまたヘッドフォンを耳に当てて機材の方に向き直った。

 挨拶しようとして何か言いかけたジャーバラが、肩を竦めた。

「忙しいみたいね」

「いつものことなの。人が苦手なタイプっていうのかな。それに、関心のあることをやっていると、他のことは目に入らなくなるタイプみたい」

 その説明で、マフポップのことが理解できたのか、ジャーバラは視線を次のターゲットに移した。目が墓丘の塹壕に向けられている。案内の春香よりも先に、ジャーバラは飛行機の側を離れると、スタスタとその塹壕に歩を進めた。

 気ぜわしげなジャーバラの後ろ姿を見ながら、春香は苦笑した。

 ジャーバラは何か目標ができれば、それに一直線に走り出すタイプだ。さっきから見ていると、ジャーバラの目標は、墓丘に避難してきた人たちの状況を把握することのようだ。塹壕の全体が良く見える場所に立つと、指を折って何か数え始めた。

 ジャーバラの指が止まるのを待って、春香が尋ねた。

「何を数えていたの?」

「うん、ちょっとね、頭の中の整理よ」

 聞くと、ここに避難している人を分類していたのだという。ジャーバラの口から数字がすらすらと出てきた。避難民の総数は約五百三十名プラスマイナス十、ただし幼児を除いてだ。そのうち負傷者で横になっている者が三十名前後。ちゃんと荷物を持って出たような人は二百名で、あとは着の身着のままの人たち。出自は、河岸の窮民街の住人が六割、牧人系の避難民が三割、北部系の避難民とそれぞれの都の市民で一割……。

 春香もシャン先生も、避難している人の数をまだ正確には数えていなかった。春香が驚いた目でジャーバラを見ると、違うのよとばかりに、ジャーバラが鼻先で指を振った。

 ジャーバラが言うには、政治の世界では、人を説得するための技術として、数字が重用されるのだそうな。発言に数字を填め込めば、いかにも言葉が真実味を持って聞く側に伝わる。そんなこともあって、政治家になる勉強をしているジャーバラは、情報を数字として把握する癖が付いていた。大ざっぱな傾向さえ掴んでしまえば、あとはその枠内で、でっち上げでもいいから具体的な数字を出す。それが相手を説得する技ということらしい。

「はったりよ、はったり」

 謙遜するジャーバラに、「よく、荷物の有る無しなんかが、分かるわね」と、春香が目を丸くしていると、ジャーバラがタネを明かしてくれた。

「長くこの地に住んでいれば、衣類のシルエットや姿勢だけでも、民族やどこの住人か分かるものよ。それに荷物の有る無しは、毛布を使っているかどうかでチェックね。この寒さで、避難する時に毛布を持って出ない人はいないもの」

 感心している春香に、ジャーバラが声を重くして続けた。

「でも、情勢はかなり厳しそう。全員が暖を取れるほどの薪はないし、この吹き曝しじゃ、明日の朝には凍えて亡くなる人が、かなり出るわね。移動しようにも船はないし……、食料はまだ残ってるの」

 春香が首を振った。

「さっきの餅粥で、診療所から運んできたのは全部、あとは個人が持っているのを提供してもらえればいいんだけど」

 悲観気に眉を傾け、ジトパカが呼びかけた衣類供出の件を口にした。

 さもありなんと、ジャーバラが嘆息する。

 歩きながら話す二人の後ろで、塹壕から女性が這い出してきた。トイレだろう。

 ところがその女性は、塹壕を出て直ぐのところで用を足した。離れた場所に掘ったトイレ用の穴まで行く気力がなかったみたいだ。

 年配の男性が、土盛りで囲ったトイレ用の穴から出てきた。その男性が、春香とジャーバラに気づいて立ち止まると、「凍えるぞ」と、自身も身震いしながら声を上げた。

 その時だ。巻き上げるような凍風が、男性の頭から、ウサギの耳のような長い耳当て付きの防寒帽を奪い取る。帽子が風に乗って、跳ねるように春香の前へ。反射的に手を伸ばして受け止める。まるで逃げるウサギを待ち伏せして捕まえた格好だった。

 春香から帽子を受け取った男性は、もう絶対に逃がさないとばかりに、ウサギ帽を深々と頭に押し込むと、そそくさと塹壕の中に体を落とし込んだ。

 人に言われるまでもなく、塹壕の外にいたおかげで体が凍てついてきた。

 それにまぶたが裂けるように痛い。

 塹壕の縁で足踏みをしながら「明日の朝までに、凍えちゃう?」と春香が聞くと、ジャーバラは、石のようにうずくまる人たちに視線を落として頷いた。

「そう思うわ。このままだと、四分の一はね」

 話が聞こえていたのか、足元の塹壕で冷えた鼻をしごき上げていたガビが後を続けた。

「たとえ朝まで生き延びたとしても、そこまでで体力と気力を使い果たし、昼にはさらに四分の一が亡くなるじゃろう」

「そんな……」

 絶望的な声を上げた春香に、ガビの隣、気付けの一杯を傾けていたホジチが、空元気な声を張り上げた。

「そうならないためにも、何もすることがない人間は、風避けのある穴の中に入った入った。人が抜けて隙間があると寒いわい、ここが空いとるぞ」

「寒い寒いって、男は情けないわね」

 グランダが嘆くように叱りつける。見るとグランダは、手袋を填めたまま、器用に指を動かし編み物をしている。指編みだ。

「俺たち男は、お嬢のように脂肪の蓄えがないんだよ」

 グチるように言い返すホジチに、グランダが声を荒げた。

「脂肪の蓄えがあったのは若い頃だけで、今はスリム。これは着膨れ。男どもは酒に頼りすぎなのよ。酒が温めるのは腹の中だけでしょ」

 アルコールは皮膚表面の血管を広げるため、結果として体から熱が奪われ、体が冷える。そんなことは百も承知だが、寒さに抗うため、気を奮い立たすためには、やはり酒が一番。年上のグランダにやりこめられながらも、ホジチは杯を呷った。

 寒さに抗う年寄りたちの言い合いを耳に、春香は見張り穴に体を沈めた。そして自分の横の隙間をジャーバラに勧めた。

 ところがジャーバラは首を振ると、「わたしは、まだ大丈夫。もう一度、都の方角を見てくるわ」と、岸辺の方に歩いていった。

 ジャーバラが岸辺に足を運んでほどなく、海からの風が霧を吹き払い、夜の底に視界が開けた。都の方向に小さな灯りが点々と見え隠れしている。栄華を誇った光溢れる都とは較べようもない乏しい明かりだ。その闇に押しつぶされそうな明かりに目を凝らしつつ、ジャーバラは、彼の地にいるであろう、いや、いたであろう父のことを想った。



次話「海門地峡」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ