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星草物語  作者: 東陣正則
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決壊流



     決壊流


 十二月十九日、午後四時五十分、津波のような決壊流がドバス低地を襲った。

 高さ十メートル前後の逆巻く水の壁が、あっという間にこの地のありとあらゆるものを呑み込み押し流していった。ベコス地区の住人たちが避難した高台の墓丘でも、氷混じりの濁流が、高台の際を這い昇るのようにして流れていった。

 数度に分かれて襲来した津波のような濁流の壁が過ぎると、辺りは見渡す限りの水面に変わっていた。いや、正確にはドゥルー海の水が流れこんでいるのだから、海面が広がっているというべきで、水面に浮かんだ無数のゴミと氷が、水面から突き出た火炎樹の幹にまとわり付くようにして、複雑な波紋を描きながら動いていた。

 上空を覆う雲に、辺りはすでに宵闇の暗さだが、二都の方向を眺めても、明かりらしい明かりは見えない。盤都は水路を掘り下げた土で周囲よりも二メートルほど嵩上げされており、町の中心迎賓館のある官庁街にいたっては、その倍以上の高さがある。そのため望遠鏡で眺めれば、盤都の官庁街が湖水堂のように水面に立ち並ぶ様が見えるのではと思ったが、残念ながら薄暮に加えて淡い霧が水面を覆っているため何も見えない。都はともかく、河岸のベコス地区にある診療所は、完全に水に押し流されてしまっただろう。

 半刻後、水はやや引いて墓丘の中程の高さで安定、墓丘の高い部分だけが水から顔を覗かせた状態である。水が中途にしか引かないということは、ドゥルー海から海水がドバス低地側に流れ込み続けているということだろうが、安定した水面を見ていると、墓丘を越えて水が押し寄せる危機は過ぎたように思える。

 五時半。

 本来の夜の闇が迫るなか、手の空いている人は、墓丘の縁に並んで水面に目を凝らしていた。時折、ウォトの板やヨシ船にしがみついた人、あるいは転覆した馬頭船の上に這い上がった人たちが流されてくる。その人たちを助けるのだ。ただ救助に使える道具といえば、ロープが数本あるだけなので、そうした人を見つけても、事は簡単ではない。それでも、浮氷の塊に邪魔されながらも、四十名近くの人を墓丘に引き上げた。盤都の市民もいれば、ゴーダム国の官服姿の者、牛飼い、物売り、大人も子供も様々である。

 日没が近づくにつれて寒さが襲ってきた。

 墓丘には、暖を取るための乾いたヨシの葉も、火炎樹の樹液も、石炭も何もない。否応なく墓標を燃やすことになる。

 ウォトの擬材で作られた墓標は、燃やすと異臭を放つ。それに墓標を燃やすことに抵抗がない訳ではなかったが、そんなことに拘わっている場合ではなかった。助け上げた人は、みな濡れそぼっているし、先に墓丘に避難していた人たちも、一様に海からの寒風に曝され凍えている。ここは風を遮るもののない吹き曝しの砂洲のような場所なのだ。

 吹きつけてくる海からの強い凍風に、誰もが身を寄せ合い、荷物を盾にして、少しでも風を防ごうとする。こんな凍風に何時間も身を曝していたら、間違いなく凍死してしまう。火を燃やすと同時に、風を遮るものを作らなければならなかった。

 幸い量子砲が刻んだ子供の背丈ほどの深さの溝が、墓丘の最上部を南北に走っている。その溝に交わるように東西方向に横溝を掘る。スコップが数丁、あとは鍋や墓標など、土を掘れる物なら何でも使って土を掘り、掻き出した土を海側に堤のように積み上げる。表面の凍った土を砕けば、その下は砂の多い土質で、ウォト製の墓標でも辛うじて掘り下げることは可能だ。埋葬してある人骨が出てきたが、見て見ぬふりをして脇に積み上げる。風避けの穴を掘るのが遅れれば、いずれ自分も死体となり骨となる。

 掘り上がった順に、体調の悪い者、年配者や幼児などが、次々と溝の中に身を寄せ合うように潜り込む。また東西に並ぶ塹壕の西側に、楕円形の浅い穴を掘り、そこで墓標を燃やして、見張りをする人たちの休憩所とする。この調子で掘り続ければ、小一時間後には、直接風に曝される状況からは抜け出せるだろう。

 風避けの塹壕を掘っている最中に、とっぷりと日が暮れた。

 墓標の焚火で湯が沸かされる。

 墓標には限りがあるので、節約して燃やさなければならない。全員が暖を取れるほどに燃やせば、焚火は半刻も持たない。そして墓標が燃え尽きた後に来るのは、寒さを耐えるだけの暗く長い夜だ。今の時期、風は夜半の方が強くなる。風が強くなれば、塹壕の中にも今以上に風が吹き込んでくる。それに明け方には気温は間違いなく氷点下を大幅に下回まわる。風があれば体感温度はさらに下がる。

 寒さに耐えられるだろうか。それにこのまま水が引かなければ、その後はいったいどうなるのか。それ以前に、もし最初の決壊流ほどではないにしても、墓丘を越えるような波が襲ってきたら……。

 不安の種は探せばいくらでも見つかる。ただ逆に、目の前の寒さが、その不安を忘れさせてくれた。寒さを我慢するのに精一杯で、先の事を考える余裕がなかった。

 とにかく、今この瞬間を生き延びなければならない。

 そう思って塹壕の溝を掘り終え、身を隠す場所が確保できると、今度は夜半の強風を想定して、塹壕をより深く掘り下げる作業が始まる。

 塹壕の壁面を抉り、身を押し込めて少しでも風を避けられるようにする。

 そうした作業の合間にも、見張りは続けられた。大きな波が来た時の用心と、流されている人を救助するためだ。もちろん使えそうなものが漂っていれば拾い上げる。しかし時間の経過とともに、助けを求める人の数はめっきり減ってきた。

 墓丘の数カ所に、診療所から運んだ白灯が置いてある。

 水面を漂っている人は、明かりに気づけば声を上げるはずだが、闇を通して聞こえてくるのは、浮氷と浮氷がぶつかる音だけ。

 午後七時、夕刻の風は治まってきたが、それと入れ替わるように本格的に霧が出てきた。

 体が芯から冷えるような氷霧である。

 ベコス地区の若者たちが、常時四名ずつ墓丘の要所に立って、見張りを続ける。

 助け上げられた盤都の市民の話から、盤都の住宅街は、崩壊した塁壁の間から流れ込む濁流で、あれよと言う間に押し流されていったという。ゴーダム国の使った液状化の兵器によって、都の地盤は融けた状態にあったらしく、津波のような濁流に押されて、生クリームの上に飾られた菓子のように、クリームごと濁流に押し流された。残った建物は、液状化の程度の浅かった地区と、一部の塁壁や官庁街の大きな建物だけだという。

 いったいどれだけの人が濁流に呑まれ、どれだけの人が生き永らえたろう。

 霧が薄れ、盤都方向に視界が開けた。ポツンポツンと篝火らしきものが覗く。白灯の白い明かりもだ。崩れずに残った塁壁や建物の上に避難した人たちがいるようだ。

 墓丘の冠水の程度からみて、水位は元の川面から九メートルほどの高さで安定している。

 いくら逃げる高台や建物が近くにあったとしても、津波のような決壊流、それも氷点下に近い濁流に巻き込まれれば、まず生きて助からない。最初の決壊流の時点で、盤都の市民はまだ地下の避難所に隠れていただろうから、ほとんどの人は絶望ということになる。それは盤都よりも地盤が低い濠都でも同じだろう。

 では塁京以外の低地帯ではどうか。これはもう全く絶望的というしかない。決壊流を免れることのできる場所は限られる。そこに事前に逃げおおせた人が、どれだけいるか。それはこの墓丘を見ても想像がつく。今この低地帯を覆っている水の下に、何十万、いやおそらくは百万を超える人々が沈んでいるのだ。

 霧がさらに晴れてきた。二都の方向以外にも、点々と赤い炎が水面に浮かぶように並んでいる。火炎樹が燃えているのだ。耐水性の火炎樹は、生長すると樹高で二十メートルほどになる。樹の上に上りさえすれば洪水はやり過ごせる。しかし漂流していた人たちの話では、幾波か繰り返し襲ってきた決壊流の勢いで、かなりの火炎樹が薙ぎ倒され、水に沈んでしまったという。樹液をたっぷり含んだ火炎樹は水よりも重く、水面に浮かぶことはない。暗い水面の下には、火炎樹がごろごろと転がっているはずだ。

 それでも、水の流れの弱かった場所では、倒されずに残った火炎樹の樹冠が、叢林のように水の中から突き出ているらしい。そのような場所では、かなりの人が木の上に避難しているという。

 風が強さを増してきた。鼻水がつららとなって鼻の下に垂れさがり、じっとしていると、手と足から痺れるようにかじかんでくる。とにかく足を動かし、手を擦り合わせる。しゃがみこんだままじっとしていると、血行が悪くなって凍傷になりやすい。みな塹壕の中で、もぞもぞと手足を動かし、体を擦り続ける。

 思い出したように、闇の向こうから地鳴りのような音が伝わってくる。その度に、墓丘の上に緊張が走る。闇がこれほど恐ろしいのは、初めての経験だった。目の前に大波が押し寄せて来ているかもしれないのに、それが見えない。目を凝らしても何も見えない。

 上空に星明かりが覗いたかと思うと、すぐにそれが漆黒の闇に変わり、辺りが霧に包まれた次の瞬間には、海からの凍風がそれを吹き払う。その凍てつく風が、北西の生暖かい風と入れ替わるかと思えば、追いかけるように突然霙が音を立てて降り注ぐ。

 めまぐるしい天気の変化は、天の照明による気象の撹乱が、この地にも及びつつあるということなのか。風向きは、もうどちらからの風と言えないほどに、頻繁に変化するようになっていた。

 気象の変化に気を取られていたが、いつしか氷の流れる向きが変わっていた。それに先ほどよりも水位が上がっている。ドゥルー海から流れ出す海水の量が増えたのかと、見張りの若者たちが水面を見透かすが、特に波が押し寄せて来る気配はない。

 しかし不思議なことだ。ドバス低地をくまなく十メートル近い深さの水で埋め尽くす海水とは、途方もない量である。いくら海門地峡が決壊、ドゥルー海の水が流れ込んだとしても、水はどんどん東の大洋に流れ出て、待っていれば水位は下がるはず。事実、避難した人たちもそれを期待していた。

 実は、この水位が引かないことには理由があった。

 大河グンバルディエルが東の大洋に流れ出す口は、南と北から伸びる半島によって狭められて海峡のようになっている。歯間海峡と呼ばれる南北四キロメートルほどの海峡は、干潮時には砂洲が姿を見せる浅い海である。そこに海門地峡の決壊で膨大な量の土砂と重い火炎樹が流され、絡み合うようにして堰を形成、結果、ドバス低地全体を巨大な湖に変えていたのだ。ドゥルー海から海水が流れ出し続けていること、それに巨大な堰が形成されたことによって、水位が高いままに保持されていた。

 決壊流の発生から一時間弱、墓標が引き抜かれたために、墓丘はのっぺりとした本物の砂洲のようになってしまった。水面から顔を出しているのは、馬闘場ほどの広さである。

 ブーメランの内側を海に向けた格好の墓丘は、くの字型の中央がやや高く、端に行くほど低くなる。この時点で、くの字の中央は、水面から三メートルほどの高さにあり、その中央やや西寄りに、古代兵器の刻み付けた溝を利用する形で、風避けの塹壕が二十本ほど掘られ、五百名余りの人たちが寿司詰めの状態で座りこんでいた。

 みな少しでも体が凍えるのを防ごうと、ありったけの衣類や布で体を覆っている。

 一方バンザイ機は、塹壕の海寄りやや南側の斜面の岩の横に、機首を海からの風に向ける形で係留してある。オバルとマフポップは、バンザイ機を固定したロープを縛り直すと、孤島のようになった墓丘の周囲を回った。

 要所に置かれた白灯の明かりで、墓丘がぼんやりと闇の底に浮かび上がって見える。

 大波が来ればひとたまりもない砂洲としかいいようのない島だ。

 塹壕の西側に掘られた浅い楕円形の穴で、火を囲むようにして座り込んでいるのは、見張り番を買って出たベコス地区の若衆組の青年と、ベコ連の年寄りたち。その見張り用の塹壕に繋がる形で、やや幅広の塹壕が一本掘られ、負傷者はそこにまとめて寝かされている。シャンや春香たちはそこにいたが、助産婦のブリンプッティ婦人の姿がない。婦人は、避難を嫌がった両親と一緒に、河岸の窮民街に残ったそうだ。

 オバルとマフポップは、見張り用の穴に入った。

 穴の側面が階段状に掘り下げられている。足の長いオバルにとっては、段に腰掛けることで足を抱えて座らずにすむ。首を伸ばせば墓丘の周囲が見渡せる穴だ。風を避けるだけなら深い穴の方がいいが、見張りをするにはこの方が都合が良い。

 見張り穴の中央がさらに掘り下げられ、墓標を燃やす小さな火が、申し訳程度に炎を上げている。手の平ほどの小さな火なので、体を暖めることは出来ない。が、そこに火があるというだけで、暖まるような気にはなれる。

「ご苦労さん」

 ジトパカが、穴に入ってきたオバルとマフポップに、労いの言葉をかけた。

 ジトパカの隣、鉄火鼻のガビが、自慢の垂れ鼻をブルンと揺らすと、懐から小瓶を取り出した。酒である。ガビが回し飲み用の角杯に小瓶を傾け、オバルに手渡す。火酒と呼ばれる度の強い蒸留酒で、オバルは角杯の中身をクイッと喉に流し込んだ。酒が喉から胃に滑り落ちながら熱に変わって、体の中で燃え上がる。

「暖まります、貴重な酒を」

「なあに、大波が来て土左衛門になっちまえば、無駄になるでな」

 返された杯を、ガビは毛布を被って座り込んでいる若い男に押しつけた。

「ほら、おまえさんも一口飲め、横で歯をガチガチ鳴らされると煩いわい」

 酒を押しつけられた青年は、震える手で角杯を受け取った。毛布がはだけて、下のゴーダム国の警邏服が覗く。つい先ほど氷にしがみついて流されているところを引き上げられたばかりだ。

「こっちの浅い穴より、皆のいる塹壕の方が、風が当たらずに済むぞ」

 ジトパカの勧めに「いや……、ここでいいです」と、青年は口を濁した。

 しかし青年の激しい震えように、再度ジトパカが塹壕に移ることを勧めると、ガビが首を回すように垂れ鼻を揺すった。

「ここにいるのは、ほとんどが窮民街の住人と盤都の市民。警邏隊の制服姿じゃ、入って行き難いという事だろう。いいじゃないか、ここにいても」

「誰も悪いとは言ってないさ、凍えちまうと心配しているだけだよ」

 ジトパカが大声で言い返す。大声の度に、顎の下に垂れ下がった柔瘤が膨らんだり縮んだりする。

 そのジトパカとガビが、声を出していないと体が冷えるとばかりに大声でやりあっているところに、太鼓帽と呼ばれる筒形の帽子を被った青年が、見張りから戻ってきた。流れついた火炎樹の枝を一束小脇に抱えている。ベコス地区の若衆組のリーダー、ジーボである。枝の束を見張り穴の横に積み上げると、ジーボが翁たちの言い合いに割って入った。

「もう少し、見張りの穴を掘り下げましょうか、こんなに風が吹き込んで来るんじゃ、自慢の垂れ鼻が凍傷になって、かさぶたのように落ちてしまいますよ」

 ジトパカにガビ、それにベコ連の面々が、「これでいいさ!」と声を揃えた。

 餅耳のグランダが、男性陣の声に自慢のハスキーボイスを重ねる。

「風を避けるだけなら穴蔵のように掘ればいいけど、それじゃあ波がきたら、そのままあの世行き。死ぬのが惜しい歳じゃないけど、波に攫われるなら攫われるで、その瞬間を見ていたいの、分かる」

 言ってグランダが肩に届く餅耳を、毛糸の耳袋の上から手でしごき始めた。血行の悪い垂れ瘤は、四六時中揉んでいないと凍傷で落ちてしまう。

 一寸先は闇といった状況を楽しむような年寄りたちの言い草に、太鼓帽のジーボは「波に渫われるなんて、縁起でもないことを言わないでください。僕はまだ死にたくないですからね」と、やんわり言い返すと、オバルが体をずらせて作った隙間に腰を落とした。

 そのジーボに、オバルが水位を確かめる。

「心持ち上がっているようです」と、ジーボが声を落として状況を説明。その時、墓丘の北側で「明かりが近づいてくるぞ」という、見張りの若者の声が上がった。

 穴の中の全員が腰を上げ、声の方向を見やる。

 薄い霧に包まれた闇の中から、白灯とは違う華々しい電照の明かりが現れた。

 船だ。湿地帯ではあまり見かけない、吃水の高い廻船ほどの大きさの船で、船尾に湧水紋の赤い旗が翻っている。ゴーダム国が外洋調査に使っている調査艇だ。ただ様子がおかしい。波に合わせて船が不安定にフラフラと揺れる。

 見張り穴にいた船頭のチョアンが、舵、それにスクリューが止まっていると指摘。

 調査艇の上に人の姿が見えた。乗っているのは、服装からしてゴーダム国の水上警邏隊の連中で、機材の鉄の棒を水の中に突き立て、船を墓丘の岸辺に寄せようとしている。見ると墓丘の側でも、塹壕から立ち上がって手を振っている者がいる。濠都の官服を着ていることからして、自国の船が現れたので、救助を求めるつもりなのだろう。

 水の流れが変ったのか、ゴーダム国の調査艇が船腹を墓丘に寄せてきた。

 船首にいる隊員から、墓丘に向かってロープが弧を描く。

 風避けの塹壕から這い出た濠都の市民九人ほどが、掴んで引き寄せる。

 船底が水面下の墓丘の斜面に接地したらしく、船が大きく右に傾くが、反対側に碇を放りこみ、ロープを引っ張ってバランスを取る。

 ほどなく調査艇は、水際からやや離れたところに落ち着いた。

 舷側から垂らしたロープを伝って下に降りた隊員が、腰まで水に浸かりながら墓丘に向かってくる。その連中を見て、岸辺に集まっていた人たちの顔が曇った。

 隊員たちが銃を携えているのだ。船の上でも、上陸する連中を援護するように、数人の隊員が銃を構え、探照灯を岸に向けている。

 水を掻き分け、七名ほどの男たちが上陸してきた。

 銃を構えたまま左右に散開する隊員たちに、シャンが呼びかけた。

「指揮官はいるか、ここにいるのは、命からがら洪水を逃れて避難してきた民間人だ」

「誰だ、いま喋った者は、前に出てこい」

 隊員たちの中心にいた男が、居丈高な声で応じた。

 その部隊の責任者らしき男は、下顎の張った厳つい顔で、短く縮れた黒髪が頬の横で大きな揉みひげとなって、骨太の顔を左右から挟みこんでいる。暗がりでよく見えないが茶泥肌、肩の階級章からすると技術士官、曹長のようだ。

 シャンは壕から出ると、ロープを手に身を竦めている人たちを割って、その曹長の前に歩み出た。照明がシャンに向けられる。

 光を遮るように手の平をかざして、シャンが声を張り上げた。

「私は河岸のベコス地区で診療所を経営している医者だ」

「診療所だと」

 疑り深い目でシャンを睨み付けた曹長に、部下が脇から耳打ちする。目の前の女が何者か分かったのだろう、曹長が不愉快そうにがなりたてた。

「ふん、あのユルツの政治家の娘というやつか、引っ込んでろ」

 シャンのことなど無視、墓丘の上を見回す曹長に、塹壕をチェックしていた部下が手を上げた。

「バドゥーナの隊員はいないようです。ほとんどは窮民街の住人で、あとは盤都と濠都の市民、それに牧人の避難民が若干、混じっています」

 その報告に被さるように、砂洲の反対側から、別の部下の上ずった声が上がる。

「曹長、大変です、プ……プロペラ、飛行機があります」

 慌てて曹長が部下を従え、墓丘の南側に回る。そこにロープで岩に係留されたバンザイ機があった。

「誰だ、この飛行機に乗っていたやつを探せ」

 気色ばんで喚く曹長に、「探す必要はない、ここにいる」と、暗がりから声がかかった。墓丘を照らす照明の陰から、長身のオバルが姿を見せた。

 闇からヌッと顔を突き出した黒炭肌の大男に、一瞬曹長は身を仰け反らすが、直ぐに長身の男が民間人で、丸腰なのを見て取ると、「何者だ、お前は」と誰何した。

「ユルツ国の使者だ、今回の洪水の危機を伝えるために、はるばるユルツ国からやってきた。戦争で忙しかったようで、ほとんど耳を貸して貰えなかったが」

 ユルツと聞いたとたん、曹長は顔色を変えてオバルの腹に銃を突きつけた。そして「あの兵器のおかげで、濠都が焼け野原になったんだ」と、歯を剥き出しにして怒鳴りつけた。

 無抵抗を示すようにオバルが両手を上げた。

「気持ちは分かる。しかし、こっちだって泣きたいくらいだ。わざわざ洪水の危険を知らせに来たのに、機が故障、帰るに帰れなくなっちまったんだからな。こんな所にいたら、次の洪水でお陀仏になるのは目に見えている」

「次の洪水だと!」

 ギョッとして目を剥く曹長に、オバルが厳しい視線を闇の中に向けた。

「隠しても仕方がない。おそらく明け方までには、先のよりも大きな波がここを襲う。船が故障しているのなら、早く直して、この水域から立ち去るのが賢明だろう」

 半ば脅すような言い草に、曹長の後ろに控えていた部下が気の張った声を返した。

「我々は都と共にある、市民を救ける義務があるんだ、逃げる訳にはいかない」

「そうだ」という追随の声に混じって、曹長を呼ぶ声。塹壕を検分していた部下だ。

「当方の隊員がいます。肩の紋章は第十七中隊!」

 先のずぶ濡れの青年隊員が、揉みひげの曹長の前に引き出されてきた。背中に銃を突きつけられ、蒼白な顔で震える青年に、曹長が声を叩きつけた。

「何をやっていた、なぜ直ぐに顔を出さない」

「も、申し訳ありません、士官殿。自分は足を負傷していたもので」

 消え入りそうな声で答える青年の襟首を、揉みひげの曹長が掴んで引き寄せた。

「分かったぞ、お前、脱走組だな。十七中隊は光の矢で全滅したはず。生き残っているとすれば、部隊を離れていたからだ」

 有無を言わさず首を締め上げると、曹長は部下の面前に青年を突き倒した。

「連れて行け、あとで懲罰会議にかけてやる」

 引き摺られるようにして青年が、船に連行される。それを墓丘の一番高い場所に立ち、蔑むように眺める曹長に、岸辺から船に残った隊員の一人が駆け上がってきた。全身ずぶ濡れの様子からして、水に入って船底を調べていたのだろう。

「報告します曹長どの。船体に異常はなく、スクリューに火炎樹の枝が絡まっていただけ。これより取り除きにかかります。それから塁壁上に信号あり、救助を求めています」

「分かった、船の修理ができ次第向かうと、こちらからも伝えろ」

 命令を下すと、揉みひげの曹長は、部下が持っていた連発銃を掴み取った。そして振り向き、銃口をオバルの背後にあるバンザイ機に向ける。探照灯の明かりから外れたバンザイ機は、黒いシルエットを墓丘の陰に沈めている。

 そのシルエットの中心目がけて、連発銃の短い連続音が鳴り響く。

 塹壕に潜り込んでいた人たちが、這いつくばるように身を屈めるなか、曹長が銃を左右に振り動かす。銃弾が機体に打ち込まれる際の、瓶の栓を抜くような連続音に続いて、風防ガラスの砕ける派手な音が墓丘の上に響き渡る。と、弾槽の弾を撃ち尽くしたのか、唐突に音が消え、闇の中に硝煙の匂いと曹長の荒い鼻息が残った。

 曹長がオバルの足元に唾を吐き捨て言った。

「フン、洪水を知らせに来ただと、命を取らなかっただけ、ありがたく思え」

 掴み掛からんばかりの形相で最後オバルに一瞥をくれると、揉み髭の曹長は銃を部下に押しつけ、船のある岸辺へと戻っていった。

 その部下と共に戻ってきた曹長に、官服の男性を初め濠都の住人数名が駆け寄る。船へ乗せてくれるよう頼むのだろう。ところが懇願する住人たちを突き飛ばすと、曹長は腕を振って部下に作業を早く終えるよう命じた。

 結局、濠都の市民が調査艇に乗船することはなかった。粘って曹長に詰め寄っていた官服の男は、銃の台座で腹を突かれて、その場にしゃがみこんでしまった。

 絡まったゴミを取り終え調査艇のエンジンが始動、船尾から波が立ち始めた。


 ゴーダム国の調査艇が岸を離れていく。

 巻き添えを恐れて塹壕の中に身を屈めていた人たちが、恐る恐る顔を覗かせ、墓丘から離れていく船の明かりを見やる。その手前、調査艇の去った水辺では、十名ほどの濠都の市民が、憮然とした面持ちで立ち尽くしていた。

 シャンが心底呆れたといった顔で、首を振った。

「全く、同じ濠都の市民だろうに、連れて行ったのは懲罰会議にかける隊員一人か」

「警邏隊は住人のためにあるんじゃない、あいつらが興味あるのは軍服を着た連中だけさ」

 言うなり垂れ鼻を紅潮させたガビが、派手に手鼻を塹壕の外に飛ばした。

 銃を持った連中が去り塹壕の並びから緊張が抜ける一方、墓丘の海側、バンザイ機の前では、オバルが虫食いのように穴の空いた機の側面を、悲痛な面持ちで見ていた。

「エンジンは?」

 話しかけてきたジトパカに、オバルが答えない。

 マフポップが、オバルに代わって説明した。

「エンジンじゃなくて、この機はモーターだそうです。動くかどうかは……、もし壊れていたら、ここでの修理は無理でしょう」

 しばし頭を抱えていたオバルだが、それでも気を取り直すと、割れたガラスの散らばる機内に潜り込んだ。そして携帯用の棒灯を照らして、被弾した箇所を調べ始めた。

 前面の風防ガラスは割れずに残ったものの、側面の窓は粉々に砕け散った。通常の飛行機よりも大きな窓で、それがスッポリと抜けた分、機内が剥き出しになったように見える。うまくプロペラが回ったとして、こんな状態で飛行ができるものか。いやそれ以前に、自動航法装置が壊れていないか……。

 塹壕から出て様子を覗きに来た春香が、心配そうにオバルの顔色を窺う。

 ユルツ国からドバス低地に飛んで来る間、春香は防寒用の飛行服を着ていなかった。あの時の寒さは半端ではなかった。機の破損状況を調べるオバルの歪んだ口元を見て、春香は声をかけずにその場を離れた。残念だが、自分に手伝えることはなかった。

 気落ちして春香が壕に戻る。とその直後、墓丘の西手で、見張りに立っていた青年の「艀だぞーっ!」という、掛け声のような声が上がった。

 何だろうと、また塹壕から皆が顔を覗かせる。

 水面にポツリと小さな明かりが揺れている。船にしては小さい。

 やがて鈴なりに人が乗った筏が見えてきた。四十人はいる。人の重みで押された筏は、水面から顔を出すか出さないかの状態だ。筏から岸辺まで六十メートルほど。板切れで水を掻いて墓丘に近づこうとしているが、手前に浮かんでいる氷が邪魔して前に進めない。それどころか、浮氷に押されて、墓丘から離れていこうとしている。

 見張りの青年たちが、ロープを繋ぎ合わせて投げるが、届かない。ロープに付けた重石の金具が、筏の手前で空しく水しぶきを上げるだけだ。

 若衆組のジーボに、ガビのしわがれ声が飛んだ。

「もっと細い紐でやれ。届きさえすれば、太いロープを結んで、手繰って引き寄せられる」

 塹壕から出てきた男が、ジーボに「これを」と、糸巻きを渡した。仕掛け漁に使うテグスだ。ジーボがそれに馬具の金具を結び付ける。

 その間にも、筏の上では、もう待てないとばかりに氷水に飛び込もうとして、周りの人に押さえられる者が出てくる。

 焦る気持ちを抑えながら金具を握り締めると、ジーボは気合いを入れて腕を振り切った。

 そのジーボが金具を離そうとした瞬間、ガビが「四十五度」と叫んだ。

 その声で、逆にジーボが金具を離すタイミングが遅れ、金具の描く放物線が予想よりも低いラインに。手前に落ちる、と誰もが思った時、金具は筏手前に浮いた氷の上に落下、大きく滑るように跳ねて、そのまま筏の上、しがみ付いた人と人の間に飛び込んだ。

「おう!」と、見守っていた連中から歓声が上がる。

 投げた勢いで前のめりに両手を着いたジーボに、筏の連中が釣り糸を手繰り寄せる姿が見えた。すぐに釣り糸の端に結んだロープが、ズルズルと引きずられるように動きだす。

 塹壕の中から拍手が起きた。

「届いたかーっ!」というジトパカの大きな声に、沸砂語だろう「引いてくれーっ!」という、合唱のような声が返される。

 すぐさま他の見張りの青年たちも加わって、ロープ引きが始まった。強く引くと筏がバランスを崩してひっくり返る。慌てず少しずつ着実にだ。

 周りの浮氷を押し分け、筏が墓丘との距離をゆっくりと詰めていく。

 ゴーダム国の警邏艇を怖れて塹壕の中で身を小さくしていた人たちも、水際に出て、他の人たちと一緒に事の成り行きを心配そうに見守る。みな祈るような目だ。

 筏と墓丘の間が残り三十メートルほどになり、筏の行く手を阻むように漂っていた大きな浮氷も、うまく避けることができた。

 あともう一息、と岸辺にいた面々が思った直後、うねりのような波が浮氷と筏を揺らして通り過ぎた。筏が大きく右に傾ぎ、筏の横で水しぶきが上がる。人が落ちた。

 その人が落ちたことでバランスを崩した筏が、今度は逆側に傾き、慌てて反対側に寄ろうとする人のせいで、縒りを戻すように一気に反転。乗っていた人たち全員が水の中に投げ出された。

 その際、灯りのカンテラも水に呑まれ、辺りが一瞬にして闇に落ちる。

 それをバンザイ機の操縦席から見ていたオバルは、大型の棒灯を手に岸辺に直行、明かりを筏の浮いていた辺りに向けた。飛沫と、人の頭と、何かを掴もうとするように宙を掻く手が、水面に見え隠れする。

 多くの人が筏にしがみつくよりも、泳いで岸を目指そうとした。

 ところが悲しいかな、筏に乗っていたのは遊牧の民、普段水に縁のない彼らは、水に落ちてパニックに陥ってしまう。水を吸った服に手足の自由を奪われ、慌てて水を呑み、次々と溺れて水に沈んでいく。

 そしてそれを助ける手段を、砂洲で見守る人たちは持っていなかった。

 結局、助かったのは半数。

 ほんの三十メートルほどの距離が、命の壁となって立ちはだかった。

 何とか墓丘に辿り着いた人も、皆ずぶ濡れである。すぐに体を暖めなければ、急激な体温の低下で心臓が停止してしまう。すでに何人かは岸についた段階で意識を失っていた。

 シャンを初め、心得のある者が水を吐かせ、心臓マッサージを施す。残しておいた墓標や火炎樹の枝など、ありったけの燃えるものを焚火に放り込み、濡れた人たちを火に当たらせる。が、いかんせん火が弱い。濡れた衣服は凍風で見る見る凍りつき、みなガチガチと歯を鳴らして激しい胴震いを起こす。

 暖を取るための火が足りない、それに濡れた衣服を替えなければ……。

 ジトパカが余った衣服があれば出してくれと呼びかけるが、みな視線を下に向け、塹壕の中に身を沈めてしまう。答える者はいない。

 だいたいが、窮民街の住人が余分な衣類など持っているはずがない。それにこの天候、この状況で、衣服や毛布は命の次に大切な物だ。着れるだけの物を着込み、まとえるだけの物をまとっていても、寒さは容赦なく体を凍えさせていく。おまけに、いつまでこの状態が続くか分からないのだ。衣服の提供を頼まれて良と言えるはずもなかった。

「下着の一枚でもいいのだ」というジトパカの呼び掛けに、数名がそっと手を上げ、抱え込んでいた荷物から、周りを気を遣うように虎の子の衣類を差し出す。

 わずかな衣類を受け取りながら、ジトパカが、視線を逸らせた人たちに、申し訳なさそうに呼びかけた。

「悪い、みな気を遣わせたな。余分な服を持っていないのは、百も承知なんだ。しかし、人が凍えて死ぬのを見過ごすこともできんじゃろう」

 一言詫びを入れると、ジトパカは塹壕を離れて、火の焚かれている見張り穴に戻った。濡れた牧人たちに席を譲った若衆組の青年たちが、隣に新しい塹壕を掘り始めていた。次にまた誰かが流れ着くことを考え、今度はもう少し大きな穴を掘ることにしたようだ。

 穴を掘る掛け声が、闇に吸い込まれていく。

 焚火の穴では、凍える牧人たちに、ガビがなけなしの酒を振るまう。

 危機は迫っていた。何人かは鼓動が戻らない。早急に体を暖めない限り、生き延びることは難しい。シャンが思い立って、飛行機のオバルの元に走った。

 少量ながらもバンザイ機に燃料が積み込まれているのを、シャンは知っている。

 診療所から墓丘に避難する際、重症者を運ぶために三度バンザイ機に飛んでもらった。その際シャンは、この機が後どのくらいの時間飛行ができるかを尋ねた。オバルの説明では、あと一時間と少し。ただ「それに」と、オバルは付け加えた。このバンザイ機には、小型の発電機が装備されている。万一、十字泡壺の電力が尽きた時には、緊急時の暖房用に積み込まれた精油を燃料に、自動的に発電機が稼働、追加で八分間の飛行を継続することができると……。

 シャンは、その燃料を命が危ない人たちの暖を取るために、分けてもらおうと考えた。

 ところがオバルが、その要請を「無理だ、できない」と、即座に断った。

「なぜ、いま体を暖めないと、あの中の何人かは確実に死ぬことになるのよ」

 厳しい表情で迫るシャンに、オバルが体の前で大きく手を交差させた。

「分かっている。医者の君としては、助けなければならない命が優先するだろう。しかし、この飛行機の燃料は、患者を運ぶために三往復して、十字泡壺の電力と、非常用の燃料を合わせても、あと一時間の飛行しかできないんだ」

「では四分飛ぶ量を提供して」

 一歩も後に引かないとばかりに食い下がるシャンに、オバルが拝むように言い聞かせる。

「聞いてくれ、シャン。明日の朝まで何とか寒さを凌いだら、次はここを脱出する方法を探さなければならない。この墓丘を出て、暖の取れるところに移動しなければ、どのみち明日の夜には全員が凍死することになる。ここを離陸して避難場所を探し、移動の手段を見つけて、またここに戻ってくる。そのためには一時間の飛行時間は余りに短い、短か過ぎるくらいだ。申し訳ないが他の手段を探してくれ」

「では見殺しにしろというの」

「君は医者だ、なんとか別の策を考えてくれ、頼む」

 悲痛な声でシャンの要求を撥ね付けると、オバルはクルリと背を向けた。

「分かった、もう頼まない」

 腹に据えかねたようなシャンの声に、オバルが済まなさそうに「ああ、そうしてくれ」と小さく言い足した。

 シャンは半分怒り、半分は同情する想いでバンザイ機の側を離れた。明日以降の事を考えれば確かにオバルの言うとおりなのだ。しかしその明日が、いったい何人に訪れるというのか。

 シャンが暗澹とした顔で凍えた牧人たちの元に戻ると、ジトパカとガビが、若衆組の若者たちに「何でもいい、燃える物を掻き集めてこい」と、檄を飛ばしていた。

 悲壮な形相のガビの横で、目袋のホジチが、抱え込んでいた袋から何やら取り出す。集会所の祠に安置していたコフク様だ。ホジチがベコス地区のご神体を手に「これを燃すのはなあ」と、悲しげに眉を傾ける。

 聞き咎めた餅耳のグランダが「絶対に駄目よ!」と、ホジチの腕を上から押さえた。

「じゃが、人の命が……」と、ホジチが言いかけた時、また「人が流れてきたぞーっ」と、岸辺で声が上がった。

「年寄りと子供だ!」と、声が続く。

 岸に駆け付けると、先程の筏よりも岸に近いところを、裂けたような木が漂っていた。太い幹と、そこから四方に伸びる枝。その枝にしがみ付くように、長身の男が立っている。足元にも一人。枝を抱えるようにしゃがみこんでいるのは子供だ。

 すぐにロープが投げられ、受け取ったロープを長身の男が木の枝に結ぶ。

 見張り役の若者たち全員で、それを引く。

 ところが岸から少し離れたところで、どうロープを引いても、木が動かなくなった。枝が水中の斜面に引っ掛かっているらしい。ただ枝の張り具合から見て、幹が回転して上に乗っている人が水に投げ出される恐れはなさそうだ。

 とにかくもう一度、全員で力任せに引く。

 その引き上げ作業の音を、春香は凍えた牧人の女性をマッサージしながら聞いていた。

 火炎樹は樹脂を含んで重いために水に沈む。それなのに木が浮いている。おまけに、その木の上に長身の男性と子供が乗っているという。

 聞こえてくる若者たちの声に、春香の脳裏をある予感が過ぎった。

 春香はマッサージを若衆組の女性にバトンタッチすると、外の様子を見に塹壕を這い出した。果たして……、

 水面に立往生している木を見て「ジャーバラちゃんだ」と、春香が目を輝かせた。

 声が届いたのか、木の上の女の子が、春香の方に顔を向ける。暗くてはっきりしないが、頭巾から食み出たネズミの耳のような髪型は、間違いなくジャーバラのそれだ。

 春香は水際まで走ると、もう一度その名前を呼んだ。

 ぼんぼり髪の少女が、木にしがみついた格好で小さく手を振った。長身の男性が、支えるようにしてジャーバラを立ち上がらせる。園丁のホロだ。

 いつそこに来たのだろう、後からオバルが感嘆したように口笛を吹いた。

「あの木は……」

 そう呟くと、オバルは後ろの焚火の穴を振り返った。ずぶ濡れになった牧人たちが囲んでいるのは、墓標が燃え尽き、心細げな白煙を立ち昇らせる焚き火の残骸だ。みな死人のようにぐったりしている。

 それを見て取ると、オバルは墓丘の反対側、バンザイ機に走った。

 銃撃の穴をハンマーで叩いて整形していたマフポップが、「どうでした」と聞く。

「お土産持参の、お客様だ」

「おみやげ?」

「盤都の迎賓館のガラス室に、立派な木があるだろう、おそらくはアレだ」

 ガラス室の中にあったあの太い朽ち木である。引き裂かれたようになっているのは、砲弾の直撃でも受けたのかもしれない。

 道具箱を引っかき回して、ゴム製のチューブを取り出すと、オバルはそれを非常時用の燃料タンクに突っ込み、中の精油を機上用の尿瓶に移した。

 墓丘の反対側から歓声が聞こえてくる。ジャーバラが、木に渡したロープにゴンドラのようにぶら下がりながら、岸にたどり着いたのだ。

 春香が駆け寄り飛びつく。凍えているのか、ジャーバラは口を震わすだけで声が出ない。かじかんだ手を春香に差し出すのがやっとだ。

 一方、朽木の上のホロは、寒さで曲がった背筋を強引に伸ばすと、陸側に合図を送り、ロープを幹の根元に結び直した。根元側から引っ張れば、少なくとも逆よりは引き上げやすいだろうと考えたのだ。

 ジトパカの号令の元、出せるだけの手がロープを掴んで引っ張る。すると水面に顔を出していた木が、園丁のホロを乗せたまま向きを変え始めた。

 数分後、岸辺に姿を見せた太い幹の上から、園丁のホロがヒョイと地面に下り立つ。もっとも機敏に見えたのはそこまで、後は腰砕けに砂の上に倒れた。

 若衆組の青年たちが「木を引き上げるぞーっ!」と、声を合わせる。

 一斉にロープに手が伸び、掛け声と共に引っ張る。

 やがて大木を半分に断ち割ったような巨木の一部が、水の中から姿を見せた。

 引き上げて分かったのは、枯れ木は幹の内側が抉れ、空洞になっているということだ。しかしそれは、簡単な道具しか持ち合わせていない墓丘の人たちにとっては好都合。木はすぐに割られ、枝が切り取られて、風避けの塹壕に運ばれた。若枝は別として、親木の幹はほとんどが朽木で、おまけにガラス室から流れ出てまだほんの数時間のため、木の表面以外は水を吸っていない。それが、オバルの差し出した尿瓶一杯分の燃料を付け火に、塹壕の中で燃え上がった。

 断ち割った樹肌が、勢いよく爆ぜるように大きな炎を立ち昇らせる。水に落ちて濡れたまま寒さに震えていた牧人たちが、炎を囲むようにして体を暖める。ジャーバラに園丁のホロ、それに先に避難していた人たちも、交代で火に体を寄せる。

 暖を取る人たちの間から手を伸ばして、長ギセルに焚火の火を貰い受けるホジチに、グランダがそれ見たことかと肘をぶつけた。

「見なさい、急いでコフク様を燃やさないで、良かったでしょ」

 ホジチが、抱え込んでいた布袋を拝むように上下させる。

 薪の束を運んできたジーボが、「コフク様が、ダイフク様を呼んでくれたようなもんですね」と、嬉しそうに布袋に手を合わせた。

 体を暖める人の横から、空腹を抱えた人たちが鍋を火にかざす。体を暖めるには、外からよりも内側からの方が早い。湯を沸かすのだ。新しく掘った幅広の塹壕の中でも火が起こされ、大鍋を据えて湯が炊かれる。そこに診療所から持参した粒餅が放り込まれる。

 シャンもベコ連の年寄りたちも、ここが正念場と考えていた。この夜を乗り切らなくては、明日はない。

 湯気のたつ餅粥を器に盛り、順に回して遅い夕食とする。総勢で五百名近い人がいるので、一人当たりは器の半分にも満たない。それでも着のみ着のままで逃げ出し、寒さと空腹に震えていた人にとっては、恵みの夕食。牧人たちも生渇きながら服が乾き始めると、自分たちの風避けの塹壕を掘り始めた。

 朽ち木の大半は、ものの半刻で薪の山に代わった。かなりの量である。ただ五百人という集団が暖を取るには、とても十分とはいえない。それに新たに人が流れ着く可能性も考えれば、節約して燃やさなければならない。

 暖を取り、遅い夕食を腹の中に流し込んで、みな当座をなんとか生き永らえたことに、ほっとした表情で塹壕の中に座りこむ。話し声もちらほらと聞こえる。時間を見ると、まだ夜の九時を少し回ったばかりだ。



次話「墓丘」

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