兵器
兵器
この墓丘を照らした光、その眩しい光条を、この低地帯で最後まで目にしていたのは、盤都の展望塔にいた者たちだろう。
すでに古代兵器は、燃料カートリッジの最後の一本を残して打ち尽くし、十分過ぎるほどの被害を隣国に与えていた。
古代兵器は、大穴の開いた展望塔五階の部屋に、これ見よがしに設置されたままになっていた。ゴーダム国の甲機船による猛烈かつ集中的な榴弾砲の砲撃で、展望塔はすでに崩落の一歩手前。壁には砲弾の炸裂した穴がいくつも口を開け、古代兵器を最初に射出した時にはまだ大半が残っていた最上階、つまり春香がガヤフ大臣とラジンの会話を柱の陰で盗み聞きした展望フロアーも、今は一部を残して崩れ落ちて、兵器の周りに瓦礫の山となって積み重なっている。それでも一度砲弾の着弾した場所に別の砲弾は落ちないという指揮官のジンクスは当たったようだ。
勝利の女神は、バドゥーナ国に微笑んだ。もしもゴーダム国の榴弾が展望台に設置された古代兵器を早期に破壊していれば、バドゥーナ国に反撃の手段は残っていなかった。バドゥーナ国はユルツ国から譲り受けた古代兵器一つで勝負し勝った。
と、バドゥーナ国の高官たちは思っていた。
バドゥーナ国政府は、ゴーダム国が降伏宣言を出すのを待っていた。もしその宣言文が納得のいくものでなければ、最後の一矢を濠都ゴルのシンボル、経華塔に向けて放つ予定だ。戦争は幕引き前の奇妙な空白の時間にあり、勝負は決したとの安堵感が、バドゥーナ国の政府関係者に流れていた。確かにズタズタに切り裂かれた隣国の様子を見れば、それも納得のいくところだ。隣国の都に較べて、自国の都は、塁壁の内側の各所で黒煙が立ち上っているものの、町並みの半分は無傷で残されていたのだから。
ただ……、
かすかな振動が自国の都を覆っているのを、盤都の人たちは誰も気づいていなかった。
最初にその現象に目を留めたのは、町なかの大通りにいる巡回の警邏隊員である。往来の石畳の隙間から、クリームのような泥が溢れ出ている。続いて地下の避難所の壁でも同じ現象が現れた。壁の隙間のそこかしこから、融けたように泥が垂れ始めた。
それを見つけた者は、おかしな現象だとは思ったが、それでもまだ水飴のような泥に込められた意味には気づいていなかった。
やがて時間の経過と共に、ある現象が顕著となる。その筆頭が、町の経閣門寄りの町並みで、地盤が弛んできたのか、家がギシギシと音を立てて傾きだしたのだ。いつの間にか、周辺の道が泥水で埋め尽くされていた。報告を受けた地下の移動政府の重鎮たちも、ようやく何か異変が起きていることに気づき、現場に人を派遣する。
ちょうどその頃、情報局のラジンは展望塔の四階にいた。
怪現象発生の一報を受け、すぐに異変が起きているという都の西南西の一角に双眼鏡を向ける。拡大したレンズの中で、道に泥が溢れる様子が目に飛び込んできた。雪も泥に融け、まるで洪水の後のような有様になっている。
古代兵器担当の技官が、上の階から声をかけてきた。
「局長ですか、どうも変なことがあるのです、来てもらえますか」
ラジンは胸騒ぎを覚えつつ階段を駆け上がった。技官が、古代兵器の横に置いてある水準器を指していた。鉛直の重りをぶら下げた細いワイアーが、細かい振動とともに奇妙な唸り音をたてている。
「さっき、気づいたんですが、何でしょうか」
ラジンの顔にサッと影が差した。
ラジンは展望塔の最上階に上がると、大きく西に傾いた屋上から黒煙の棚引く盤都を見渡した。肉眼でも確認できたが、念のために双眼鏡を取り出して拡大。レンズの中に見えたのは、都の内外、至る所でクリーム状の泥が地面に滲み出している様子だった。家並みの一部は、柔らかくなった地盤のために傾いている。
「これは……」
呆然とするラジンに、屋上に配置された監視員、情報局の部下が声をかけた。
「局長、まるで雪融けの後みたいですが」
答えず、ラジンは部下が抱えていた三脚付きの双眼鏡を奪い取ると、一面が泥の海と化した場所にレンズを向けた。通常の双眼鏡の三倍の倍率である。現場に到着した調査員の足が、融けた泥の中にズブズブとのめり込んでいくのが、はっきりと見て取れる。馬車も半分ほど泥に沈み込んでいる。まるで底無しの沼に填まったようだ。
ラジンの脳裏に、ある北方の国が所有している古代の機械のことが浮かんだ。
超音波で凍土を融かし液状化する装置である。元々は軟弱な地盤の土木工事をする際に使われた機械だったらしいが、その小型の物は自国の技術院も所有しており、ラジンは模擬実験を見学させてもらったことがある。技術院の機械は、半径数メートル程の凍土を融解する能力しか持ち合わせていない。だが……、
考えを巡らせるうちに、ラジンは、自分が盤都に戻った直後に部下から提出された、ある報告書のことを思い出した。
四カ月前、ユルツ国の技術復興院で起きた泡壺の盗難騒ぎである。この時代の感覚からすれば、桁外れの電力を蓄電できる牛角泡壺。その盗まれた二個の牛角泡壺のうち、行方が分からなくなっていた一つを、ゴーダム国が入手したらしいという報告だった。
ゴーダム国が、何の目的で破格の蓄電容量を持つ牛角泡壺を入手したのか、用途は何か、早急に調査する必要があった。しかしあの時期、情報部は火炎樹の母種獲得に全精力を傾注、とてもその余裕はなかった。そのため牛角泡壺の件は検討課題として先送りにされ、そのまま棚上げになっていた。
今にして思えば、牛角泡壺が兵器そのものではないために、問題を軽く見てしまったきらいがある。泡壺とは要は電源、エネルギー源である。つまりゴーダム国には、それを用いて駆動させる何らかの装置があるということだ。一京単位の電力を用いる装置が……。
ラジンは目の前に展開している事態が何であるかを理解した。
想像でしかない。しかし、おそらくゴーダム国は、液状化の装置、それも極めて能力の高い液状化の装置を保有、それを兵器として使おうとしているのだ。盤都を泥に埋めてしまうために。
双眼鏡のなかで、家並みの一部が波打ち始めた。
「おのれ……」
怒りが込み上げてくるとともに、なぜ戦局がこの状態になるまでゴーダム国が液状化の装置を使わずに温存していたのかという、疑問が湧いてきた。それは……。
おそらく、こちらが量子砲の燃料を使い果たし、攻撃できなくなるのを待っていたのだ。液状化装置の存在が知れた場合、まず最初に量子砲の攻撃を受けるのは、装置を設置した場所になる。だから最後の一手を奪われないために、ぎりぎりまでその使用を待った。
ラジンは、部下の足元に置かれた通話機を引ったくると、情報局の本部を呼び出した。
「大地の液状化はゴーダム国の仕業だ。都周辺のどこかに、超音波を発生させる装置が設置されている、探せ!」
「局長、装置って、どのような?」
「知るか、とにかく液状化している地域のどこかにある、見付けて破壊するんだ」
怒鳴り上げると、ラジンは瓦礫の間から階下を覗き込んだ。量子砲を囲んで技官たちが、本部から戻ってきた技官長に、慌てた表情で説明をしている。
「技官長、これを見てください。展望塔の傾斜が酷くなっています。このままいけば建物が倒壊、兵器を他の場所に移さなければ……」
水準器を覗くまでもなく、壁が嫌らしい軋み音をたてている。
技官長が総統のガンボジに兵器移動の了解を取ろうと、通話機を取り上げる。
それを見たラジンが、上から拳を振って指示を飛ばす。
「移動する必要はない。液状化を誘発しているのは、ゴーダム国の兵器だ。ありかが分かり次第、破壊する。とにかく傾きに合わせて量子砲の台を調整し続けろ。いつでも最後の一発を撃てる態勢にしておくのだ」
ギョッして通話機を取り落としそうになった技官長が、慌てて「了解」と敬礼。
ラジンは階下に向かって「急げ!」と一喝すると、立ち上がって展望塔の最上階から眼下の街並みを見やった。水盤に雨粒が落ちて波紋を広げるように、噴き出した泥が、あるところでは単独に、あるところでは幾つも重なり合いながら広がりつつある。液状化の酷い場所では、すでに上に乗っている建物が、泥に呑まれるように沈み込んでいる。
地下の政府本部から緊急の呼び出しが入った。
ガヤフの慌てた声が耳に飛び込んできた。なんとゴーダム国から、降伏の受理ではなく、逆にこちらに降伏を勧める一報が届いたというのだ。
ラジンは、敵の秘匿していた液状化兵器のことを手短に説明した。
このままでは盤都は泥に沈むしかない。ゴーダム国側に降伏の受理を打電、講和を結びたいと相手に伝え、液状化の装置の使用をいったん停止するよう要請。そして講和の手続きで時間を稼ぐ間に、敵の装置を探し出し、残してある量子砲の一発で破壊する。それが上手く行けば、最後の最後にこちらが笑うことができるでしょう、と。
二人の会話を、ガヤフを取り囲んだ統首や他の閣僚も聞いていた。
全員が言葉を失くして互いの顔を見やる。みな自国の勝利を確信していたのだ。ゴーダム国がこのような一発逆転の秘策を用意していたなど、夢にも思っていなかった。
閣僚たちのいる地下の部屋が、不気味な揺れに包まれる。
立場が逆転したこの期に及んでは、勝利するためには、ラジンの提案以外に妙案は思いつかない。とにかく降伏を受理して時間を稼ぐのだ。
だがたとえ素直に降伏を受理したとして、ゴーダム国が直ぐに液状化の装置を停止させることはないだろう。こちらが古代兵器を使って濠都を壊滅的に破壊したように、盤都を破壊するに違いない。完膚なきまでにこちらを叩きのめし、跡形もなく泥に埋没させてから、講和条件の話し合いを始める。絶対に相手に反撃されないようにするためだ。自分が相手の立場なら、やはりそうする。
しかしとにかく今は、相手の兵器がどこにあるか、それを探らなければならない。
ラジンは屋上にいた監視要員の四人に、手がかりになるものがないか探せと指示すると、部下たちが食い入るような視線を都の内外に向けるのをよそに、自身は額縁ほどの広さになってしまった屋上の中央に腰を落とした。そして目を閉じる。
ゴーダム国側としても、切り札である液状化の装置を、簡単に発見される場所に設置はすまい。漫然と探しても見つかる可能性は低い。隠されたものを探す最良の方法は、推論することだ。相手がその物を隠すであろう場所を、論理的に導き出すのだ。
以前見た液状化の装置とは、中心となる超音波の発生装置と、超音波を受けとめ反射増幅させる衛星のような小型の装置から構成されていた。本体の周りに複数の小型の衛星装置を配置、波の干渉作用を利用して特定の地点の液状化を進める。設置の仕方によっては、本体と衛星を繋ぐラインの外側を液状化することもできる。つまり液状化の中心に本体があるとは限らない。そのことを踏まえた上で現場の状況を洗う。
いま現在、液状化は都の内と外で同時に進行している。ゴーダム国としては、泥に埋めたいのは敵国の都であるから、火炎樹の林まで泥に埋める必要はない。双眼鏡で見た限り、液状化の範囲は都の外数キロの場所でも起きている。これだけの広さで液状化が進行しているということは、発生源を特定され難くするために、意図的に発生地域を広げているということも考えうる。つまり発生源は、発見されやすい場所にあるということだ。極端な話、都の内側に装置が仕掛けられていることも……、
いやそれよりも可能性としては、相手国の兵器など絶対にないと、こちらが思い込んでいる場所が危ない。そういう場所とは……、
屋上がさらに傾いた。ラジンは双眼鏡を手にする。
階下から「これ以上建物が傾くと機械の保持が難しくなります」と、技官長の切迫した声が屋上のラジンに向かって飛ぶ。
「もう少し我慢しろ」
怒鳴り返して、ラジンはツッと顔を上げた。
自分たちは、古代の量子砲を、砲弾を受けて崩れかけた穴の中に設置した。それはそこが濠都を撃つのに好適であったからだが、加えて警邏隊によくある験担ぎで、一度砲弾が落ちたところには、まず砲弾が落ちないというジンクスを買ったのだ。
それで考えれば……、
ラジンは双眼鏡を手にすると、量子砲で最初に攻撃したニーカングの丘に焦点を合わせた。盤都塁壁から西北西半馬里にある小さな丘は、液状化のやや外側に位置する。昨日、ゴーダム国から奪還した後、再度ゴーダム国の手に落ちることがないよう、今では特別に盤都騎走隊の分隊が駐屯して防備を固めている。
幾重にも囲まれた鉄条網の内側に、バドゥーナ側の騎走隊の旗と隊員の姿が見える。その歩哨にレンズを合わせたラジンは、すぐに双眼鏡から目を離し、屋上の右端にいる監視員の元に走った。そこに、あのビアボアの部屋から接収した古代の望遠鏡がある。装飾が施された美術品の望遠鏡だが、古代の機械で性能は飛び抜けている。ラジンは、その望遠鏡のレンズを陣地跡の歩哨に向けた。焦点を合わせながら拡大、歩哨の口元が大映しになる。歩哨が口を動かしている。歌を歌っているようだ。
あの口の動き、発声方法は……、ラジンが思わず声を上擦らせた。
「あの兵士は、牧人だ!」
ラジンが階下に向かって叫んだ。
「量子砲の照準を、都塁壁三号出櫓から西南西、ニーカングの丘に合わせろ!」
その時、展望塔の最上階が大きく揺れた。
展望塔自体が右に十度ほど一気に傾き、ラジンが覗いていた螺鈿細工の望遠鏡が、床の割れ目に倒れ込んで鈍い音をたてた。ほとんど同時に、階下で悲痛な声が上がった。
量子砲の上に崩れた瓦礫が落下、操作パネルを直撃したのだ。
さらには機械自体も床に倒れ、機械の先端、射出部分が砕け散る。
ラジンの足元、穴の下に、茫然自失と立ち尽くす技官と技官長の姿があった。
しかし、ひるむことなくラジンは、通話機で警邏隊本部を呼び出す。警邏隊を差し向け、陣地跡に設置されているであろう液状化の装置を破壊するのだ。液状化の装置さえ破壊すれば、まだ逆転の可能性はある。
ところが、すぐに繋がるはずの直通の番号が、なかなか繋がらない。いらいらしながら番号を押し続けるラジンの耳に奇妙な音が聞こえた。
無数の銅鑼を打ち鳴らしているような音だ。
傾いた屋上の上を、部下の一人が、這うようににじり寄ってきた。
「局長、もう駄目です、塔が倒れます」
悲壮な顔の部下に「聞こえるか、この音が」と、ラジンが宙に視線を振る。
言われて部下の男も気づいたのだろう、不思議そうに辺りを見まわす。
「何の音でしょう、雲の上から聞こえてくるような気がしますが」
音は途切れなく続いている。大気を揺さぶるような重い音だ。
ラジンが西方に目を止めた。張り出してきた雲の下で、夕刻の大地は一足先に夜の闇に変わっている。部下の男が暗視用の双眼鏡を差し出すが、「音はもっと遠くからだ」と、ラジンはそれを跳ね退けると、足元の割れ目に填り込んだ古代の望遠鏡を、力任せに引き起こした。三脚ごと回転させて、レンズの先端を西に向ける。
大口径のレンズがズームしながら焦点を合わせるのを待ちかねるように、側面の映像パネルを起動、暗視装置のスイッチを入れる。この望遠鏡は最大四千倍まで画像の拡大が可能で、おまけに大気で明瞭さを欠いた画像を補正して映し出す。
映像パネルの中にそれが見えてきた。
水路の水が膨らむように溢れ、塁堤を越えて火炎樹の林に流れ込んでいる。浮氷のように回りながら押し流されていく入植村のヨシ小屋もある。
そして、後方に白く泡立つ水の壁が迫っていた。
ただ最大倍率に拡大した暗視画像は、いくら補正をかけても粒子が荒く、画像がぼやけて、いまひとつ判然としない。後ろから部下の男が顔を寄せてきた。
「何ですか、それは」
「死神だよ」
小さく吐き捨てたラジンは、視線を映像パネルから外すと、肉眼で迫り来るものを見すえた。分水路方向では、押し寄せる水の壁の前触れか、水位の上昇で幣舎橋の橋桁が激しく水に洗われている。まだ遥か先だが、それは大地に寝そべる鋭い刃物のように、あらゆるものを薙ぎ払いながり前へ前へと突き進んでいる。
ラジンが力の抜けたような声を吐いた。
「窮民たちの流言蜚語も当たることがあるんだな。津波……、いや決壊流と言った方がいいか。おそらく海門地峡が崩落、ドゥルー海の水がこの低地に流れ込んだんだ」
説明を聞いた瞬間、部下の顔色が変わった。
構わずラジンは、もう一度パネルの映像を見やると、
「周りの風景からして、土石流の高さは、十メートル弱といったところか」
濁流が次々と河川敷の家を呑み込む様子が、映像パネルの中に映し出されている。都とラヴィス郡の中間辺りだ。数万の馬の大群が押し寄せてくるような地響きにも似た音は、すでに体に感じる振動に変わっている。
屋上に配置された他の監視員たちも、何事かと辺りを見回している。
「局長、皆に知らせないと」と、部下の一人が膝頭を震わせながら通信機を手にする。
しかし気が動転しているのか、手が震えて通信機を取り落とす。すぐに拾い上げてスイッチを入れようとするが、指先が震えてキーが上手く押せない。
パネルの画像を睨みつけていたラジンが、淡々とした声で言った。
「時速六十キロとして、ここまであと二十五分……」
別の監視員が叫び声を上げ、下の階でも悲鳴が上がる。
「局長、どうすれば……」
泣きそうな顔の部下に「見物でもするか」と、ラジンが他人事のように言った。
「はっ、いま、なんと?」
口唇を震わせるに部下に、ラジンが断じた。
「今さら、警報を鳴らしてどうする。この低地全体が濁流に呑まれようとしてるんだ。じき津波のような濁流がこの都にも到達する。あの勢いでは都の塁壁も持たない。都のなかに濁流がなだれ込む。逃げるには遅すぎるし、逃げる場所もない」
「しかし……」
「いいから、座れ」
ラジンは無理やり部下の男を自分の横に座らせた。傾いた展望塔の一番上、屋上の西の突端である。この低地全体を一望にできる場所だ。
薄暗がりの大地に一筋の白い帯となって迫る濁流よりも、沸き立つような地鳴りに体が身震いする。ほかの部下は、下の階に連絡に走ったようだ。
腕組みをして前方を眺めるラジンが「絶景だな」と、膝を打った。
「はあ……」と、部下が間の抜けた声で受ける。
火炎樹も、川岸の窮民街も、艀も船も、煙を吹き上げるタンクも、何もかもを押し倒し、呑み込みながら、泡立つ水の壁は着実に近づいてくる。
ラジンが部下の男に聞いた。
「お前は、なぜ情報局に入った」
「私ですか、官職ならなんでも良かったです。家族を養わなければなりませんから」
「そうか、家族か……」
「部長は、家族がおありではないのですか」
ラジンは答えず「お前の家族は、どの避難所にいる」と、聞き返した。
「はい、妻と息子が南六区の地下の避難所に」
「そうか、行きたければ、部所を離れることを許可する」
濁流の壁は刻々と近づいている。盤都最南部の南六区は、ここからだと六キロはある。
腰を浮かしかけた部下は、闇の底に迫る白い帯を見やると、「局長がここにおられるなら、自分もここに」と言って、観念したように腰を落とした。
放心したような顔で前方を見やる部下に、ラジンが独り言のように話しかけた。
「倒壊を免れれば助かるかもしれん、塔だからな。しかし地盤が泥水のようになっていることからすれば、期待は薄いだろう」
ラジンは情報官らしく落ち着いた声でそう話すと、ポケットからガラスの小瓶を取り出し、部下の手に握らせた。
「使いたければ、使え。もしもの時、苦しまずに済む」
瓶の中にピンク色の小さな粒が入っている。
部下が、まさかという目で、その粒を見やった。
「これは、百乗粒丸ではないですか」
「そうだ、古代ではアクセルと呼ばれていたらしいが……」
かつて古代に、麻薬の効果を倍増させる幻覚強化剤なるものがあった。そのなかの最右翼が、いま部下が手にしている小瓶の中の粒剤、仁丹ほどのピンク色の薬だ。
強化剤であるから、通常は他の麻薬と併せて服用するが、別の用法もある。百乗粒丸だけを複数粒、服用するのだ。百乗粒丸は、それ自体が幻覚作用を持っており、一定量、つまり一粒以上服用すると、粒丸同士が薬効を強め合って、強力な幻覚作用を示すようになる。その効果は、二粒飲めば効果が四倍、三粒飲めば八倍、四粒なら十六倍という風に加速度的に強まる。
五粒飲めば、臨死状態に見るという光り輝く黄金のお花畑に人の意識をいざなう。人の体は死にいたる最後の瞬間、痛みや恐怖から意識を守るために、意識自体が肉体から切り放されて、悦楽と安らぎの境地に置かれる。その光の花園に意識を連れ込むのだ。
そして十粒口に放り込めば、光の花畑を散策しながら、そのまま意識を天の高みへと連れ去ってしまう。そうこの薬は、古代に安楽死の薬として使われた薬だった。
服用した者は、夢心地のまま天に召される。この薬に頼れば、人は平穏な死を迎えることができる。ただそれは服用した当人の心の内にであって、他人から見た場合、百乗粒丸による死は、かなりえぐいものとなる。百乗粒丸を服用すると、猛烈な勢いで体内の水分が排泄され、人は生きながらミイラと化すのだ。
一度服用すると、あまりの心地良さに、薬を手放すことができなくなる。そして服用する粒は確実に増え続ける。服用する粒数が多いほど悦楽の度合いが強いのだ。そして、自分で自分の死に対面することがないということもあり、中毒状態に陥った者は、まず間違いなく悦楽のなか死に至ってしまう。
一説には、百乗粒丸は人口増に手を焼く国家が開発したもので、密かに国内に流通させたところ、人口の抑制どころか、一気に人口が減少に転じてしまい、慌ててその使用を取り締まることになったという。流行すると国を滅ぼしかねない悪魔の薬なのだ。
この百乗粒丸という古代の麻薬、この合成麻薬が、つい四十年ほど前から大陸各所に出回るようになった。古代の遺跡から掘り出されたものが、裏商人たちのルートに乗せられて出回っているというのが、もっぱらの噂だった。
怖いものでも見るような手つきでピンク色の粒剤を見つめるラジンの部下が、「しかし、局長が、なぜこの薬を」と聞く。
訝しげな部下に、ラジンがあっさりと明かした。
「別に使っていた訳じゃない、俺はその百乗粒丸の流通ルートを追っていたんだ」
「部長がですか」
「そうだ、そのために俺は情報局に入った」
ラジンは部下に聞こえないほどの小さな声で、もう一度「そう、そのためにだ」と繰り返した。
三十五年前のこと、丹薬売りをしていたラジンの両親が、家にピンク色の綺麗な薬を持ち帰った。いま出回っている百乗粒丸よりも効力の強い大粒の百乗粒丸である。金に困った親が、裏商人から百乗粒丸の運び屋を引き受けたのだ。
ところが、その薬をラジンの妹が誤って口に入れてしまう。
百乗粒丸は、優しげなピンク色をしているだけでなく、蜜のような匂いも特徴として併せ持つ。三歳の幼児としては、つい手が伸びてしまったのだろう。
両親が気づいた時には、薬の成分は妹の体に回り、妹は穏やかな眠りについていた。どんなに揺さぶろうが叩こうが、目を覚まさなかった。そして眠りながら、猛烈に発汗と下痢を続けた。そして四日後には、妹はカラカラのミイラになってしまった。両親は気が狂ったように泣き叫んでいた。唯一の救いは、妹の顔が穏やかな仏のような顔をしていたことだ。妹は、三歳にして即身仏となった。
両親は百乗粒丸を所持した罪で極刑に処され、ラジンは一人になった。
百乗粒丸がラジンから家族を奪った。ラジンは誓った。必ずや、この麻薬の出所を明らかにし、世界から百乗粒丸を追放すると。
ラジンは大人になると迷わず情報局に入った。個人でやる調査など高が知れている、情報局の組織を利用しようと考えたのだ。そして二十五年が過ぎる。
物の流れの追求は、川の源流を突き止める作業に似ている。様々な支流に惑わされながらも、つい八カ月前のこと、ラジンはついに百乗粒丸の源を突き止めた。
突き止めて分かったのは、思いもよらぬ事実だった。百乗粒丸が古代の遺跡から掘り出されているなど、とんでもない。百乗粒丸は紛れもなく今この時代の人間が製造している丹薬だということだ。そしてその製造と販売を担っていたのが、様々な良薬で知られるユルツ国、製薬業を国の産業の柱と位置づける北の大国だった。
百乗粒丸とは、ユルツ国が国直営で行っている闇のビジネスだった。
自分としては、ユルツ国の闇を公にして、ユルツ国に謝罪させ、百乗粒丸を世界から消し去りたかった。それが亡くなった妹へのせめてもの供養だと考えた。
しかし妹の死から三十五年。自分を取り巻く状況は変わっている。自分の置かれた立場もだ。百乗粒丸の情報は、国を背負った諜報活動の結果入手できたもので、断じて一情報局員の所有物ではない。国のもの、否、国民のものである。その情報の利用は、最大限国民に利益が還元されるものでなければならない。
ゴーダム国との生き残りを賭けた紛争に突入しつつあるバドゥーナ国にとって、百乗粒丸の情報は、バドゥーナ国から古代兵器を譲渡させる切り札となるもので、この情報の扱い如何では、バドゥーナ国五十万の国民の命運が分かれるかもしれない。個人的な私情を挟む余地などどこにもなかった。
そして百乗粒丸の情報は国と国の交渉事の道具となり、結果、百乗粒丸の闇は闇のままに置かれて、その見返りとしてバドゥーナ国は強力な兵器を手にした。
それで良かったのだろうかと、今になって思う。
たどり着いた情報を手に、一人ユルツ国に挑戦する事もできたのではないか……。
ラジンの回想を断ち切るように、地鳴りのような音が辺り一面に響いた。ラジンは、ハットと顔を上げた。先ほどよりも、かなり水の壁が近づいている。
隣に目をやると、部下が小瓶を握り締めたまま唸っていた。
「飲んで効くまでに、二十秒ほど時間がかかるぞ」
そう部下に声を掛けると、ラジンは立ち上がり腕組みをして迫り来る水の壁を睨んだ。
二千年前の災厄の際、人心の崩壊した混乱のなか、人類の滅亡を確信した人々の多くが、この薬で命を断ったという。天上の光に包まれながらの死、それも一つの選択肢だろう。だが俺は断じて薬など飲まない。
氷混じりの濁流に呑まれて溺れ死ぬかもしれないが、それでも死の瞬間まで、俺はこの世界を見届ける。なぜなら、それが亡くなった妹への責務だからだ。
あの日あの時、自分は良い匂いのするピンク色の丸薬を、妹に勧めた。ピンクの粒を栄養剤の丸薬だと思ったのだ。しかし……、
うめき声を漏らしたラジンに、薬瓶を握り締めた部下が顔を上げた。
「部長、どうされました……」
そのあとのラジンの言葉は、近づく雷鳴のような濁流の轟きに掻き消されて、部下には聞き取れなかった。
直後、傾きの度合いを強めた展望塔の最上階は、底が抜けるように崩落。
しばらく後、土石流と言うべき怒涛の流れが、塁壁を乗り越え、逆巻きながら都の中の家々を押し潰して跳ね上がる。そして、半壊しながらも斜塔となって聳える展望塔を、水飛沫の渦の中に呑み込んでいった。
次話「決壊流」