噂
噂
ベコス地区の有志が、洪水の危機を伝えようと窮民街を走り回っていた。
最初は誰もが、ドゥルー海が増水し、海門地峡を越えてドバス低地に流れ込んでくるなどという話を一笑に付した。戦争中の人心を惑わすデマのたぐいと考えた。しかしながら、そういう人たちも、西の空を見上げて、分厚い雲が遥か上空にまで噴き上がり、触手を伸ばすように周囲に広がろうとしている様を目にすると、いま何かが起きようとしているのを信じない訳にはいかなかった。
思ったよりも早く、洪水の危機は伝わっていった。
ただ残念ながら人々が口々にその情報を伝え噂し合うなかで、実際に少しでも高い所へ避難しようとした人は、ほとんどいなかった。一番の理由は、逃げるべき高台が周囲になかったこと。ベコ連の年寄りが言うように、洪水といっても、夏場の増水による緩やかな冠水の経験しかない人々に、海が決壊して起きる津波のような洪水というものが想像できなかったことが挙げられる。
ほとんどの人は、川が増水してくれば火炎樹に上ればいいと考えた。火炎樹は高さにして五階建てのビルに相当する。もし洪水が一般的な意味の洪水であれば、火炎樹に上れば問題ないはずだった。加えて人々の避難の足を止まらせたのが、今がまだ紛争の最中だったということにある。不用意に動き回って争いに巻き込まれたくないという、その意識が働いたのは当然のことだろう。
情報を耳にした人のほとんどは、不安を感じながらも、家にこもって事態の推移を見守る方を選んだ。少しでも高い場所へと避難を始めたのは、主に毎夏の洪水の度に川岸が抉られて家を失っている一部の河岸の人たちくらいで、その人たちにして実際に怖れたのは、海の決壊よりも、猛烈に湧き上っていく雲がもたらすであろう、雨による増水だった。それ以外で避難を始めた人といえば、争いによってすでに家を失ったり、追い出されたり、あるいは少ないながらも、身近に逃げるべき高台のあった人たちである。
ほとんど避難らしい避難が進まないなか、噂だけは低地帯全域に広がっていく。
その市井の人たちの間に伝わる洪水の情報を、二都の情報機関も掴んでいた。
バドゥーナ国の情報局も、バレイの電信館から送られてきた電鍵通信の情報で、ドゥルー海が異常に増水しているということを確認していた。ただ今のところ増水は、潮の干満と低気圧などの気象条件が重なって起きる異常潮位と大差ないという判断を下していた。それでも西方の空を見ても分かるように、ユルツ国のある北西方向で何らかの異変、おそらくは氷床の実験地で何か変事が発生したのだろうとは見ていた。だがそのことに関しては、ユルツ国やその周辺諸国との通信が猛烈な兇電で不通になっており、具体的な情報は何も入手できていなかった。
盤都バンダルバドゥン地下の移動政府の会議室でも、洪水の噂とユルツ国の異変の件が議題に上っていた。
統首のパパルボイが「どう思う、昼前ぐらいから広まっている、海門が決壊するという噂は……」と、居並ぶ面々に意見を求めた。
即座に若手の女性閣僚が手を挙げた。
「ゴーダム国が追い詰められて、こちらを混乱させるために流した情報に違いありません。きっと、地下に避難している一般市民を外に誘い出して叩こうという、作戦でしょう」
自信を持った話しぶりに、机を囲んだ年嵩の大臣たちも、「その可能性は大いにある」と一様に頷く。
「どちらにせよ、今やらなければならないのは、起きるかどうか分からない天変地異に惑わされることではなく、目の前の敵を確実に屈伏させることです。もう戦況は圧倒的にこちらに有利な状況、本日中には決着がつくでしょう。いま検討すべきは、隣国が講和を申し出てきた時、どういう条件を相手に呑ませるか、それを話し合うべきです」
勇ましい発言を受けて、パパルボイがさらに問う。
「しかし西の空で怪しげな妖光が目撃されている。噂が伝えるように、ユルツ国で何か変事が起きているようではないか。その証拠に、この三日間ユルツ国とは連絡が取れていない。こちらとしては、古代兵器の量子燃料をユルツ国に追加注文しようと考えていたのだ」
先の女性大臣に張り合うように、同期の男性大臣が申したてた。
「以前から、ゴーダム国が唱鉄隕石を加工して、スポット域の電波を妨害する装置を開発しているという噂がありました。きっとこちらとユルツ国との関係を断たせるために、通信を妨害しているに違いありません」
「では、明け方見えたあの光は何よ」
詰問するような女性大臣に、男性大臣が気色ばんで言い返す。
「自然の状態でも、空が明るく見えることはある。不安に駆られやすい輩は、そういうものを見てすぐに妄想に陥る、そこを付け込まれるんだ」
「なんですその言い方は、私が怯えているとでもいうのですか」
バンと机を叩いて立ち上がった女性大臣の手を、隣に座っていた国土保全省のマタバッキが押さえた。
会議は町のちょうど中央にある地下の臨時官舎で行われていた。広さはほんの十畳ほど、低い天井に声が硬く反響する。国務大臣のガヤフは、いつものように個々の発言には口を挟まず、皆の発言を精査しつつ、議論の落としどころを考えていた。
この数日、地下から地下への移動を続けていたガヤフは、久しぶりに外の空気を吸おうと崩壊した建物の間から地上に出た。そして雲の切れ間に出現した西の空の異変を目撃した。自然の光ではない妙に白っぽい輝きだった。
十年前にユルツ国で起きた事故の際も、一瞬だが西の空が真っ白に輝いた。今回もユルツ国で何か起きたのかもしれない。だがその事と洪水の話とが、うまく繋がらなかった。コップに水を注ぎ過ぎれば溢れる、それは当たり前だ。しかしコップとドゥルー海では、規模が違いすぎる。
昔はこの地でも、冬の飲料水は上流から流れてくる氷を融かして作った。グンバルディエルの水が塩分を含んでいるからで、濠都のように真水の湧く場所以外では、良質の飲料水を得るためには、それが必要不可欠の作業だった。それが近年、川の水の塩っ気が酷くなってきたとの、もっぱらの話だ。噂では、海門地峡からドゥルー海の海水が漏れ出ているからだというのだが、グンバルディエルの流れが変わって、岩塩地帯を通るようになったからだとも言われている。
その説が本当かどうかはさておき、子供時代、ガヤフは、氷を融かす作業の手伝いをやらされた。上流から流れてくる真水の凍った氷だが、鍋一杯の氷を融かすのに、どれだけのヨシを燃やさなければならないことか。氷を融かすというのは、意外なほどに熱を必要とするものだ。それが今回の噂では、強烈な光がユルツ国北部の氷床を融かし、融けた水がドゥルー海を溢れさせようとしているという。余りに途方もない話だった。
ドゥルー海は周囲を陸に囲まれた内海とはいえ、この低地帯の二百倍近い広さがある。内陸にあっても大洋なのだ。その広大な大洋を溢れさせる、そんなことが光を当てた程度のことで引き起こせるとは到底思えなかった。
それに……、と、ガヤフは思う。
万に一つ、その可能性があったとして、洪水に対する最善の策はなんだろう。ここは地平線の果てまでヨシの広がる大湿地帯だ。ほとんどは海抜数メートルの平坦な土地である。どこに盤都十八万、いやバドゥーナ国五十五万の住人の逃げる場所があるというのか。一部の高台や下流の岩島地帯に避難させたとしても、避難時にゴーダム国の攻撃に曝される怖れがある。まだ講和がなされていない状況では、格好の標的にされるだろう。ゴーダム国だけではない、異国の避難民や窮民たちから攻撃を受ける怖れもだ。今回の騒乱に乗じて、我が国もゴーダム国同様、相手国の仕業に見せかけて、避難民の居住区や窮民街を意図的に攻撃している。そのことにもう連中は気づいているはずだ。その報復の怖れも加味して考えなければならない。
もう一歩で相手を組み伏せることのできる戦況を考えても、都の中に留まっているのが、最善の策であることは明らかだ。
もし実際に洪水がこの低地を襲ったにせよ、都を囲う堅牢な塁壁は、高さにして火炎樹の樹幹とまでは行かないが、十メートルを超える。それに盤都は、周りの土地よりも、二〜三メートル高く土盛りをして造営されている。濠都がほとんど土盛りをせずに造営されたのに対して、盤都はその名の通り、確固とした土台の上に立っているのだ。この三十年の間に起きたどのような洪水でも、塁壁の内側に水が入ってくることはなかった。地下の避難壕から地上へ避難する程度であれば、それは洪水が発生してからでも十分間に合う。
腕組みして考えこんでいるガヤフに、統首のボン・パパルボイが聞く。
「黙っているが、ガヤフの考えはどうなのだ」
粗方意見は出尽くし、誰かがそれをまとめなければならない。それをやるのは統首のはずなのだがと、そう思いながらガヤフは口を開いた。
「戦闘員は別にして、一般の民間人にとって一番安全なのはここ、都に留まることでしょう。いま必要なのは、一刻も早く隣国を屈伏させ、講和をまとめることです。それに万が一の洪水に対しては、塁壁の破損箇所を補修する。上手くいけば、洪水が低地帯に群がる二百万を越える避難民を、一気に洗い流してくれるはず。これは災厄と考えず、天佑と捉えるべきではと思いますが」
会議室の中の全員が賛同の眼差しをガヤフに向けた。
そこに、隣国に潜入させている情報部員から連絡が入った。濠都でも、いま地下の司令室で、要人たち、それもトップスリーが膝を突き合わせて、重要な会議を開いているという。どのタイミングで講和を持ち出そうか検討しているのではというのだ。
「では、後はその会議の結果を待つだけだな」
嬉しそうに口笛を鳴らしたパパルボイに、警邏隊総統のガンボジが釘を刺した。
「統首、ご用心のほどを。ニーカングの丘に設営された敵の榴弾砲陣地は奪回しましたが、都の周囲には、まだゴーダムの移動迫撃砲の部隊が残っています。それに水路上にいる甲機船も、砲の照準をこちらに合わせた状態。ゴーダム国のこと、講和を持ち出す前に、集中的に残った砲弾を撃ち込んでくるかもしれません。少しでもいい条件で講和を結ぼうとしてです。相手はこちらの量子砲さえ破壊すれば、まだ自分たちにも戦況を覆す余力が残っていると考えているはず、気は緩めないことです」
その言葉が終わらないうちに、部屋が大きく揺れた。
天井から、一抱えもある煉瓦の塊が、パパルボイの目の前に落ちてきた。悲鳴を上げてボン・パパルボイが椅子ごと後ろにひっくり返る。その上を向いた統首の顔に、崩れ落ちてきた煉瓦の欠けらが直撃。若手の閣僚に助け起こされたパパルボイの鼻から、糸を引くように血が垂れる。
ボタボタと落ちる血を袖で拭いながら、パパルボイが顔を真っ赤にして叫んだ。
「すぐにでも講和を申し出たくなるように、ありったけの量子砲を撃ち込んでやれ。いや、別に講和など結ばなくても、完全に隣国を焼き尽くしてもいいのだ。撃てるだけ撃って、完膚なきまで叩きのめしてやる。そうだ私も引き金を引いてやる。あいつらの頭上に天のいかずちを落としてやるぞ」
ヒステリックな叫びがゴーダムの甲機船に聞こえたかのように、榴弾が近くに着弾。天井がたわみ、壁の柱が悲鳴のような軋み音をたてる。
「避難してください」
入り口にいた幕僚の緊迫した呼びかけに、部屋の中に残っていた閣僚たちが、慌てて出口に走る。その尻に火のついたように逃げ出す同僚を横目に、ガヤフは椅子に腰を落としたまま、脇に控えるラジンに質した。
「ずいぶん正確に砲撃してくるな」
ラジンが柱の沈み込んできた天井を見上げながら、抑えた声で答えた。
「こちらにも、向こうの手の者が忍びこんでいるからでしょう」
「そうか、なら急いで引き上げた方が良さそうだな」
「次の移動政府の場所に案内します」
前に立って歩き出そうとしたラジンに、ガヤフが小声で命じた。
「いいか、量子砲の燃料カートリッジを一本抜いておけ。あの様子では、本当にボンが全弾撃ち尽くしてしまいそうだ」
「統首にあの吹き曝しの展望塔に上る勇気がお有りになるとは思えませんが」
「分かっとる、しかし砲手は命令されれば全て撃ち尽くす。銃の弾の最後の一発は残しておくものだ、そう昔の兵法の教科書に書いてあった」
「心得ました」
また部屋全体が大きく揺れ、今度こそ天井の梁が音をたてて裂け、天井の底が一気に沈み込む。二人は、ほかの大臣の後を追うように、地下の小部屋を飛び出した。
午後三時。
シャンたちは川沿いのベコス地区を離れた。ベコス地区の北東半馬里にある火炎樹農園に囲まれた高台に避難することにしたのだ。
そこは昔から原住民のアンユー族の墓所として使われてきた丘で、中央で折れ曲がったブーメラン型をしている。墓所ということもあって、この場所は火炎樹農園の開発を免れることになった。その後、川沿いに住み着いた避難民も、この丘に遺体を埋葬するようになり、今では周辺窮民街の共同墓地として利用されている。
牧人たちは墓石を立てるような墓を作らないが、熱井戸に依存する町人や、火炎樹栽培に従事する民は、遺体を埋めた場所に簡単なモニュメントをたてる。多くはウォト樹脂製の擬木に彫刻を施した細長い板で、今では丘全体が、斜面までを含めて墓標の板で埋め尽くされ、針山のようになっていた。
このブーメラン型の墓丘にも、量子砲の光の嘗めた跡が残っていた。深さ幅とも一メートルほどに抉られた溝である。ここの泥には、上流から流れてきたガラス質の晶砂が含まれる。そのため高温の量子砲の照射を受けた砂泥が、溶けて飴のように固まっていた。
墓所を切り裂く溝を見て、避難してきたベコス地区の住民が怒りの声を上げた。
「くそったれ、バドゥーナのやつら、墓を何だと思ってやがる。あいつらの先祖だってここに眠っているんだろうが」
「罰が当たるぜ、墓を裂くなんてよ」
避難してきた一行は、担いできた荷を肩や背から下ろすと、西の方角に目を向けた。高台になっているために見通しはいい。目の前に火炎樹の樹冠が草原のように広がり、その向こうに、クルドス分水路と、水路を挟んで黒煙を上げる二つの都が、低く棚引く鈍色の雲の下に横たわっている。
盤都迎賓館横の展望塔に設置された古代兵器は、昼過ぎの一撃を最後に、その後光の矢を放っていない。ゴーダム国の榴弾砲や油弾の着弾も止んだままで、さらには銃声も絶え、周辺一帯が何かを待つように不気味に静まり返っていた。その動きを止めたドバス低地の遥か上空に、西北の方角から、分厚い雲が触手を広げるようにじわりと張り出し、その天に蓋をするような雲の中で、雷光が遠い花火のように瞬く。
まさに暗い影が、この低地帯を覆おうとしていた。
午後四時。
オバルはどうしても動けない負傷者を、バンザイ機に乗せて墓丘に運んだ。ユルツ国へ戻る便や、それ以外の突発的な事態が起きた時の事を考えて、十字泡壺の電力はできるだけ節約したいところだが、この時点で泡壺の電力残量は、ユルツへの帰りの便に必要な電力を大きく下まわっていた。
ブーメラン型の墓丘は、陸上競技場を三面合わせた程の広さがある。
その墓丘に、ベコス地区の住人を中心に、四百名ほどの人間が避難していた。洪水がすぐに来ると勘違いして、荷物らしい荷物を持たずに来た連中が、このまま夜をここで過ごすと聞いて、急いでもう一度家に取って返す場面も見られた。
これから起こるかもしれない事を考えれば、実際に避難した人の数は余りにも少ない。ただそれも致し方のないことだろう。
窮民街の暮らしというのは、死と隣合わせの生活である。病気で死ぬのも、飢えて死ぬのも、弾に当たって死ぬのも、凍えて死ぬのも、そして洪水で死ぬのも、全て死ということでは同じだ。そして餅の一切れの有無が飢餓に繋がる生活をしてきた人々にとって、大地を揺るがすような大災害というものは、実感として捉え難いものだった。
墓丘の上に避難して来た人たちを眺めながら、オバルは、洪水の発生する可能性を、もっと違う形で伝えることができなかったかと後悔していた。起きるかもしれないという曖昧な表現ではなく、はっきり起きると断定して話すべきだったのではと……。
人を動かす時には、時として嘘も必要である。闇雲に不安を煽る必要はないが、危機が伝わらなければ意味がない。
上空に広がる分厚い雲の足の一本が、自分たちの頭上に触手を伸ばし、墓丘の周辺が、一足早く夕暮れ時のように暗くなる。ただどういう具合か、先程から風はパタリと止み、寒さは感じない。もう患者を運ぶのはこれで終わりとばかりに、オバルはバンザイ機を墓丘の東斜面に突き出た岩の脇に移動させた。伸縮翼である主翼が半分ほど機体に収納され、機がデフォルメした玩具のように見える。
風で煽られないように機をロープで固定するオバルの顔に、日が射した。
傾きかけた夕日ではない。幾重にも重なった分厚い触手のような雲がたまたま途切れ、北西の方角から眩しい白い光が射し込んできたのだ。手を翳して光の射してくる方角を見やると、北西方向、遥か先に、手鏡でも置いたようにチカチカと光る一点がある。
周りにいたベコ連の年寄りたちも、腰を上げてその眩しい光源に目を向けた。
静止衛星軌道から地上を照らす光が、直接この低地を照らすはずがない。光のスポットライトの下で、湧き上がる雲が高層に達し、雲の間で反射を繰り返しながら、この東の低地に一筋の光条を投げかけたのだろう。
その一筋の光は、低地帯をほんの数分、何かを探るようにさまようと、厚い雲の層に阻まれて隠れた。そして一足早い宵闇のような暗さが、ドバス低地を覆った。
次話「兵器」