父と息子
父と息子
外の空気を吸いに出たギャロッポに、秘書が駆け寄り評議員の非常呼集を伝える。
今回のファロスサイトの炉の暴走に端を発する天のスポットライトの出現と、その後の常軌を逸した異常事態に、ユルツの周辺国のみならず、ドルー海北岸の住人が、安全な地を求めて、次々とこの波崙台地に避難の足を向けている。結果、想定外に押し寄せる避難民の群れで、遷都先の避難所はパンク寸前、対応を誤れば、遷都先が大混乱に陥るのは必至の状態だった。その大挙押し寄せる避難民への対応をどうするか、それを早急に決めなければならない。その検討のための呼集である。
いま目の前でも、近在囲郷の住人、あるいは西の小国の住人たちが、宿泊棟を自分たちにも利用させるよう、政府職員と押し問答を繰り返している。
一触即発の緊迫した空気が、遷都先を覆い始めていた。
ただ宿泊棟の西の端に離れ小島のように位置する機械棟は、そんな騒然とした慌しさと緊迫感とは無縁に、ボイラーの奏でる単調な音だけが辺りを包んでいた。
夢うつつのなかで、ウィルタはボイラーの音を聞いていた。
耳鳴りのような音に混じって、誰かが自分の名を呼んでいるような気がする。ウィルタは目を開け、頭痛の残る頭を抱えながら辺りを見まわし、気づく。
横になっている自分の直ぐ隣、手を伸ばせば届きそうなところに、もう一人、大人の男性が身を横たえていることに。
その坊主頭の男性が、口を開いた。
「ここはドゥルー海沿いの高台、ユルツ国の遷都先とされた場所だ」
どこかで聞いたことがある声、そう思った時、遠い昔、雪の中を誰かに手を引かれて歩いていた時の記憶が蘇ってきた。
男は目を閉じたまま上を向いている。その横顔の中のくっきりとした唇は、淡く記憶の中に残っているものと同じだ。でも、やや段になった鼻は似ているようであり、違っているようでもある。ウィルタが恐る恐る聞いた。
「父さん……、なの」
「ああ、少し顔は変えたがな」
坊主頭の男は、そう言って口元を震わせた。
ウィルタは体を起こそうとしたが、その動きを押し止めるように男が言った。
「起きなくてもいい。このままで話そう」
ウィルタが起こしかけた体を横たえたのが気配で分かったのか、その男、ウィルタの父であるハンは、話を続けた。
「私はもう目が開かない、おそらく開けても見えないだろう。熱と光にやられたのだ。手足もほとんど感覚がない。だが視覚を失った分、耳は以前よりも良く聞こえるような気がする。今はおまえと話ができる、それで十分だ」
そして息を整えると「久しぶりだ、十年ぶりかな」と、しっかりとした声を出した。
上を向いて横たわる父を、ウィルタは不思議なものでも見るように見つめていた。具合が悪いのか、父は話しながら息を継ぐように声を止める。その間合いを埋めるようにウィルタが言った。
「正確には十年と三カ月、シーラさんの話ではだけどね」
「そうか」
当時のことを思い出しているのか、ハンのまぶたがピクピクと動く。
「シーラ……、彼女には迷惑をかけた。事故とお前の母さんの死で、私は生きる気力を失っていた。お前には悪かったが、私はとにかく一人になりたかった。そしてお前を誰かに預けようとした時、真っ先に思い浮かんだのが彼女だった。以前世話になった時、彼女が子供を育ててみたいと口にしていたのを思い出したのだ。それに私自身、彼女たち、シクンの人たちの暮らしに共感する部分があった。だから安心しておまえを彼女に預けた。そして国を離れた」
ハンは、しばし話すことを躊躇するような間を置くと、体の奥から搾り出すようにそのことを口にした。
「私の耳には、お前の母さん、彼女の最後の悲鳴が耳に残っている。これは死ぬまで消えることはないだろう」
喉の詰まるような声でそう告げると、後はもう淡々とした口調に戻って話を続けた。
「全ては、都の人たちがファロスサイトと呼ばれる古代の施設に自分たちの未来を委ねたことから始まった。春香という娘が、ヴァーリの伝言として、十年前の事故がジュールの企みによって引き起こされたということを伝えてくれた。私もそうではないかと疑っていた。だがその企みに気づかなかったことを含めて、あの事故は、私、そして私たちの落ち度なのだ。全ては過去の技術を過信したことの報いだ。妻を含めて二百名以上の同僚が亡くなった。民間の人たちの死傷者は数え切れない。事故にいたる全ての責任は、現場の代表である私にある」
ウィルタが静かな声で問う。
「父さん、一つだけ教えて。事故の原因がぼくの悪戯だったっていうのは本当なの」
眉間にしわを寄せたハンは「そうか、知っていたか……」と言って、胸の上に置いた手を、揉み手をするように握り締めた。
「確かにそういうこともあった。しかしあの時、お前は二歳半。お前には何の責任もない。私が思いつきで、お前の目の虹彩を制御室の安全システムの同調キーに使ったのが間違いだった。核力炉を含めて、危険を伴うシステムには、何重もの安全策が施されている。お前が間違ってボタンを押したくらいで、どうこうなるものではない。基本的なシステムの欠陥に気づかなかった私たちの失策なのだ。間違っても自分を責めないでもらいたい」
「分かった、父さん、その話はもうよそう。それより母さんの話を聞きたい。シーラさんから少しは聞いているけど」
「何が聞きたい?」
ウィルタは父親の方に体を寄せると、少し甘えるような声を出した。
「えーっとね、好きな食物は?」
ハンが喉の奥で笑った。
「なんだそんなことか……」
ハンは妻の話や結婚してウィルタが生まれるまでのこと。そしてウィルタは、シーラと一緒に暮らしたシクンのミトでの日々、そして今回の旅のことを話した。一通り話を終えると、ウィルタが尋ねた。
「それで結局、父さんはどこにいたの?」
ハンは直ぐには答えず、ゴホンと痰のからんだような咳を一つつくと、「水があれば一口もらえるかな」と、息子に頼んだ。
ウィルタは水差からコップに水を移すと、そっと唇に触れるようにガラスのコップを傾けた。その時、父の頬が自分の手に触れる。大人の男性の硬い肌だった。父親はコップの水を含むように飲み下すと、もう十分だとばかりに首を左右に振った。
そしてまた話を始めた。
ハンは息子をシーラに預けると、半年ほど世界各地を放浪、その後大陸の東にあるチェムジュ半島の小さな岬の村に住みついた。戸数二十ほどの小さな漁村である。
ハンが懐かしそうに当時を回想する。
「そこは、ずーっと昔に、お前の母さんと一緒に来た場所だったんだ。今でもそこを初めて訪れた時のことを思い出す。海からの冷たい凍風が吹きつける浜だった。どんよりと淀んだように雲が垂れ下った夕暮れ間近の時間で、体の芯まで冷え切るような寒々とした光景が拡がっていた。ところが、お前の母さんは、そんなことはへっちゃらで、小さな入江を見つけると、靴を脱いで砂浜を走りだした。困ったもんだと思いながら、私も仕方なく彼女の後を追った。
そこは砂洲で外海の波が遮られ、入江になった場所だった。その鏡のような入江に彼女が足を入れる、すると彼女の足元で星が瞬く。さらに足を踏み入れる。すると青白い無数の星の瞬きが、波紋のように広がっては消える。夜光虫だ。ドゥルー海にも夜光虫はいるが、それとは比較にならないほどの瞬きで、彼女の姿が水面から青白く照らし出されるほどの明るさだった。
後で知ったことだが、あの周辺の夜光虫は、いつも光るという訳ではない。月に一度、新月の夜にだけ、それまでのひと月の間に体の中に蓄えた光を放つ。熱を持たない冷たい瞬きは、まるで夜空に瞬く星のような光だった。私もズボンの裾を捲り裸足になって、水の中に入った。自分の周りに波紋のように広がっては消える青白い星の瞬き、私はまるで自分が宇宙の中心にいるような気がした。彼女と私が手を繋いで入江の中を歩くと、二人の周りに星空を映したように無数の光が瞬く。私たちは宇宙の中を歩いている、本当にそう思った。
足が凍えるのも忘れて、入江の中ではしゃいだ。そのため、二人とも申し合わせたようにその後、風邪をひいて寝込んでしまった。でも楽しい思い出だ。その地では、夜光虫を干して粉にしたものを袋に入れてお守りにする。今でも妻の買ってくれたお守りを、大切に首に吊るして持っているよ。
まあそんなことがあったからなのかな、妻のことを忘れようとして、結局、妻との思い出の地に足を運んでしまった。月に一度の夜光虫のことを除けば、ただの寒々とした海岸だが、それでも行ってみて分かった。あの時の自分には、その海岸が相応しいということに。何もない海からの身を切るような冷たい風だけが吹き寄せる賽の河原のような岬に佇み、灰色の海に目をやっている時だけ、彼女やお前、そして事故の事を忘れられた。
毎日ただ風を浴び続ける。
淡々と時が過ぎていった。
もちろん、お前のことを忘れた訳ではない。緊急の際には連絡を取れるようにと、通信のための機材だけは備えておいた。でもまだ事故のことを振り返ることも、お前に会いに行く気力も起きなかった。そうして岬の家でぼんやりとした日々を送るうちに、私はいつしか近所の漁師に誘われて、漁の手伝いをするようになった。
お前もこの後、人生を重ねれば分かるだろうが、心の治療には時間が必要なのだ。そして体の健康さも。人の心というものは不思議なもので、肉体を動かしていれば、それにつられて固まった心も解れてくる。
毎日が、岬の突端で風に吹かれるか、漁に出てひたすら網を引っぱるかの繰り返しだった。そうやって時間が過ぎていくうちに、私の心も少しは癒されてきたのだろう。ある日いつものように岬の突端で風に煽られていたら、妻の声が聞こえたような気がした。忘れかけていた妻の声が、風の中に聞こえたと感じたのだ。不思議と、もう苦しくはなかった。懐かしいくらいだった。そうして私は風に吹かれながら耳を澄ますようになった。自分の中で問答をしているだけに過ぎないのではと思うこともあったが、確かに声が聞こえると感じることもあった。
私は妻の声に謝り続けていた。その悔いを風はさらりと剥ぎ取る。そしてその下にまた悔いが現れ、風がまたそれを剥ぎ取る。そうやって私は少しずつ心を回復していった。そしてようやく亡くなった妻のために、自分が生きなければと思えるようになった時には、二年が過ぎていた。
私は古代の技術用語の専門家だ。その研究のために古代の科学史をひもとき、なぜ今の世界がかくあるのかを考えるようになった。
それはそれとして、言葉の専門家でしかない私が、氷の下に埋もれた謎のエネルギー発生装置の復活に関わるようになった。それはファロスサイトの情報を記録した特殊な言語に私が通じており、かつ私が科学技術用語の専門家であったがゆえの巡り合わせだ。
事業に参加した当初は、ファロスサイトと呼ばれる施設が何であるかということ、その解明の手伝いをしていれば良かった。それが他に代わる者がいないという立場ゆえに、復興計画の技術面の代表に祭り上げられてしまう。
私を含め同僚たちの知識では、あのファロスサイトと名づけた光の世紀の施設を理解することはできなかった。ただ調査分析を進めていくなかで、残された膨大なマニュアルに基づいて操作すれば、施設の核となる新式のエネルギー発生装置を稼働させることができるということが分かってきた。それを知った時、氷に埋もれかけたユルツの人々は、その誘惑に抗えなかった。エネルギーを打ち出の小槌のように生み出すであろう施設は、氷に埋もれ寒さに震える人々にとっては、まさにパンドラの箱だった。
そしてマニュアル通りに動かすということであれば、古代語兼、古代の科学技術用語の専門家である私は、最適の責任者だったろう。
意味も分からず、ただ書かれてあることを実行する。その結果が二度の事故だ。たとえ事故に誰かの作為的な意図が働いていたとしても、盲目的に物事を実行しようとしたこと、それ自体が罪なのだ。そして今は分かる。大きすぎる炎は、我が身をも焼き焦がしてしまうものなのだということがな。
話が少しずれてしまったな。
だがこれは誰かに話しておきたいことだ、私の懺悔でもある、聞いてくれ。
私はあの事故の責任を取らなければならない。
事故で亡くなった人や、あるいは生涯消えることのない傷を負った人たちに、どうやったら償いができるか、それを私はずっと考えてきた。
私が国に戻って司法の裁きに服するのは簡単なことだ。だが今のユルツ国では、私は無条件に有罪となり、全ての責任を負わされて投獄されてしまう。そして事故の原因の究明は、うやむやにされてしまうだろう。そうすることで責任を免れたいと考えている政治家たちが、たくさんいるからだ。それは私にとっては不本意なことだ。だから私は、私が身を隠していることが、逆に事故を風化させない方法だと考えた。
これは弁解のように聞こえるかもしれない。しかしだ、多くの死者を出したあの装置が何であり、何の目的で、そこにあったのか、それがなぜ事故に至ったのか、そのことの究明をやれるのは、事故から生き残ったメンバーの中では私だけだ。それをやってからなら、あの装置の本来の姿を解明し、二度と事故に繋がらないようにしてからなら、私は喜んで罪に服そうと思った。
そして、自身の魔鏡帳に取り込んでおいたファロスサイトの膨大な情報を、もう一度調べ始めた。
だが、あのサイトの核となる質量転換炉については、分からないことが多過ぎた。乾壺に貯えた電気エネルギーで、物質の原子核を素粒子に解体。その素粒子から反粒子を作り、対消滅させてエネルギーを発生させる。多様な素粒子に対応する反粒子の生成方法しかり、エネルギーの圧縮貯蔵を担う乾壺そのものしかり、何をとっても謎だらけの装置だった。
理論は分からない。それでも入口と出口だけで見れば、乾壺にひたすら電力を溜めて、スイッチを押せば、蛇口から光が出てくる。構造やシステムを知らなくても、ガソリンを入れてアクセルを踏めばタイヤが回転して車が動くようなものだ。
構造も理論も未解明、施設が作られた本来の目的も含めてだ。
結局、あの事故を解明するということは、あの装置が作られた時代そのものを調べるということだった。
それから、事故を引き起こした原因……。
当初は私もおまえの悪戯がきっかけで事故が引き起こされたと思い込んでいた。しかし、当時のことを細かくチェックしていく中で、お前の悪戯は、あの装置の安全システムが機能しなかったことの、カモフラージュではなかったかと考えるようになった。これはもう当時の記録のほとんどが、爆発事故の際に消滅しているので調べようがない。それでも当時お前が勝手に弄った幾つかのスイッチやレバーだけなら、あの事故は絶対に起こり得なかったはずなのだ。
どうしてそう考えるか。
安全システムを司る制御装置の稼動キーは、ウィルタの義眼の虹彩の模様でしか解除できない。そのロックが解除されていた。
わたしはお前の虹彩模様をガラス基盤に複製して使っていた。鍵は私が肌身離さず身につけていた。それ以外でロックを解除するとしたら、それはウィルタ当人の目を使うしかない。だからこそお前が悪戯を起こし得たとも考えられるが、解除のためには、識別アイのレンズを六秒間見ていなければならない。幼少で落ち着きのなかったおまえに、レンズを六秒見続けるというのは不可能だろう。誰かが私の持つ鍵を盗んだか、お前の目から第二の鍵を作ってロックを解除し、システムを改造したに違いない。
その考えに至って、私はあの計画に関わっていた全ての人間をもう一度洗い直すことにした。そうして浮かび上がったのが、湖宮の公師職で当時特別研究生としてユルツ国の技術復興院に在籍し、ファロス計画に参加していた男、ジュールだった。
ところがジュールは、聖職者以外立ち入ることの出来ない湖宮に戻っている。一般人の私には会うことも調べにいくこともできない。これには時間が必要だった。
その準備をする間、わたしはあの古代の炉に繋がるであろう、前世紀の謎の調査も開始した。こちらはもっと困難なことだった。この二千年の間、幾多の専門家が挑戦して解くことのできなかった謎だからだ。
古代と今をつなぐ謎の一番の疑問は、太陽からの輻射熱の減少、隕石の衝突、そして緑の消失、低温のマントル流の出現等、これらの現象がいったいどう組み合わさって今の世界が造り出されたのかということだ。
氷河期のように何万年もかけて冷えるのなら分かる。しかし地球はこの二千年、いや実際には前の世紀が終わってからの百年で一気に冷えた。緑の消失直後の寒冷化は大気中に吹き上げられた塵によって太陽が遮られたからで、それは塵が地上に落ちる数十年後に、地球が一旦暖かさを取り戻しかけたことからも推測できる。ところがその後、地球は急速に寒冷化の道を辿った。それはどうみても自然の摂理に反したことだ。一般には、太陽からの輻射熱が急激に減ったことを理由にしているが、それだけではどうにも理解できないことが色々とある。いま降り注ぐ太陽の輻射熱からすれば、大地はもっと暖かくなければならない。
手がかりもないままに六年が過ぎた。
あせりが出てきたが、わたしは何か考えるためのヒントが得られないかと、シフォン洋の先にある氷亜大陸に行ってみることにした。海鳥漁の船に同乗させてもらったのだ。
チェムジュ半島にいた頃、漁師から聞かされた話がある。東の大洋に突き出た氷亜大陸、そこに近づくと声が聞こえる。声に導かれて氷亜大陸に近づいた仲間が、今までに何十人と遭難の憂き目に遭っている。そのせいで、漁師たちは海鳥漁を行う拝夏群島よりも東の海には、船を乗り出さない、と。
都を離れチェムジュ半島に辿り着いた当時、私は毎日海からの風に吹かれながら、水平線の彼方にあるであろう、白い氷に閉ざされた氷亜大陸の方向を遠望していた。そして確かに何か声を聞いたと思える瞬間を経験していた。だから、それを確認してみたいと思った。もっと近くでその声を聞いてみたいと思ったのだ。
これは科学者の直感といえるかもしれない。未知のもの、漁師の話すような魔女や海の魔物の類ではない何かが、そこにあると思った。そうして海鳥漁の船からさらに遭難船を探す船に乗り換え、氷亜大陸を取り囲んでいる棚氷に近づいたが、残念ながら流氷に行く手を阻まれて、途中で引き返さなければならなかった。だが収穫もあった。
確かに『声』を、頭の中に直接語り掛けてくるような『声』を、聞いたのだ」
そこまで話して息が切れたのか、ハンは呼吸を整えるように胸を押さえた。
そして体をウィルタの方に傾けると、言った。
「ウィルタよ、父さんはもう長くない。もし機会があるなら、ぜひあの氷に閉ざされた氷亜大陸に行って、『声』の正体を確かめてくれ。これは父親というより、一人の研究者としての頼みだ」
疲れてきたのだろう、ハンは大きく口を開けて息をした。
「氷亜大陸に向けた旅から戻った頃だ。ユルツ国がサイト2の封印を解いたという噂を耳にした。ファロス計画を再開するための予備調査が始まるということだった。それを聞いて、私は急いで、あの事故が故意の事故であったのかどうか、つまりジュールの企みによって事故が起きたのかどうかを調べることにした。もし故意の事故であり、ジュールに明白にあの施設を破壊する動機があったとしたら、また何か策謀を巡らすかもしれないと考えたのだ。
その段階で、私はすでに湖宮に拝宮できる僧位を取得していた。もっとも、拝宮団に参加もしくは貢朝船に乗船するには、地域の宗教会に属していなければならない。そんな時、ちょうど、裏家業の一味が湖宮を調べているという噂を聞いた。仲間に引き込める僧を探しているともだ。わたしは躊躇せずに、海賊まがいの裏稼業の一味、ビアボア一家の一員になることにした。上手くいけば連中のルートを使って、湖宮に入り込めるのではと踏んだのだ。
そしてビアボア一家が貢朝船を乗っ取って湖宮を襲う計画を立てているのを知る。ビアボアたちは、湖宮を宝の秘匿場所と考えていたようだが、違う目で湖宮を見ると、あそこが果たして宗教の聖地なのか、疑問が湧いてくる。しかし残念ながら、私はビアボアに正体を暴かれ殺されそうになった。そして、その後の事は、お前の知る通りだ」
ウィルタは体を起こして父親の横に座ると、目の前にある大きな手を握った。右手の親指の爪の真ん中に、縞状の黒い内出血の跡が残っている。
どこかでそっくりの爪を……、そう思ってウィルタは顔を上げると、父親に尋ねた。
「ねっ、父さん、長杭の町の大通りで、托鉢をやってなかった、それも茶色い眼帯を右目に付けて。眼帯もそうだけど、托鉢の椀を握る爪に黒い縞があったので覚えてるんだ」
春香とオバルが銭床の店から出てくるのを待つ間、ウィルタは情報集めにと、道端の物売りと話をしていた。そこに托鉢の眼帯の僧が通りかかった。周囲の店から出てきた人たちは、托鉢の僧に喜捨を渡して手を合わせているのに、ウィルタは何も渡すものがなくて下を向いてしまった。するとその眼帯の僧は、ウィルタの前に立つと、托鉢の椀から餅を取り出し、ウィルタの手にそれを乗せたのだ。
眼帯よりも、椀を握る僧の爪に黒い縞があったことが、なぜか印象に残っていた。
ハンは鬱血し黒ずんだまぶたをピクピクと動かすと、記憶の底をまさぐった。そして、そのことを思い出したのだろう口元を緩めた。
「ははは、あれは息子だったか。なら、もっと餅を奮発すれば良かったな」
口元を緩めて笑うと、ハンは思い付いたようにそのことを口にした。
「そうそう女の子で思い出した。さっきまでそこに女の子が座っていたんだが、夢うつつに聞こえてくる女の子の声が、あの岬で聞いた声に良く似ていたように思う」
ウィルタは小さな二つの手で父親の手を握りしめると、話しかけた。
「その子がさっき話をした一緒に旅をしてきた女の子なんだ。氷河の中で冷凍睡眠の棺に入って眠っていたのを、ぼくが見つけたんだ。いま飛行機でドバス低地に向かっている。そうだよ、思い出した。彼女も前に何か『声』が聞こえるって、言ってたことがある」
ウィルタの言葉に、ハンが微かに頷く。
「ウィルタよ、友を得たな。人生は巡り合い、世界も、歴史も、どこかで巡り合い、重なり合って、繋がっているのだろう。その女の子も、もしかしたら大きな巡り合いの渦の中にいるのかもしれん」
吊るした白灯の明かりが暗くなってきた。匣電の電気が切れかかっている。薄暗くなってきた部屋で、ハンの彫りの深い顔がシルエットに変わる。
記憶の中の端正な唇が動いた。
「さあて、良く喋った。最後に息子とこんなにお喋りができるとは思ってもみなかった。頭の中で声がする。これは岬の声じゃない、お前の母さん、ルシアの声だ。呼んでるよ、後は皆に任せて、こちらに来なさいとね」
そういい終えると、ハンは「そろそろ行くとするよ」と言って、ゆっくりと息を吸った。息を吸いながら、自分の手の中の小さな手を握り返した。
最後、その手が動きを止めた瞬間、ハンの口元が微かに微笑んだように見えた。
時間が止まったような数秒が過ぎる。そしてハンの手がウィルタの手を滑り落ちた。
休憩室に上がる階段に座って書類に書き込みをしていたギャロッポの秘書に、「父さん、待って、父さん」というウィルタの声が聞こえた。
慌てて階段を駆け上がり、扉を開けた秘書の目に、ハン博士の体を必死になって揺さぶるウィルタの姿が見えた。
次話「バンザイ機」