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星草物語  作者: 東陣正則
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計算



     計算


 十二月十七日、明け方。

 避難民は、ピークを過ぎた後も、さみだれ式に途切れることなく避難所に到着していた。

 天の照明によって暖められた空気は、上昇して照明の圏外に噴き出し、やがて冷えて下降気流となって照射圏内に吹き下ろしてくる。遷都予定地の波崙台地に吹き込む風も、少しずつ氷点下の凍てつく風に生暖かい風が混じるようになり、それにつれて嵐のように乱れた気象状態が続くようになっていた。

 ダーナが雑務の合間に宿泊棟に足を運ぶ。一番端の二十八号棟もすでに避難民で満員になっていた。奥の四十号室へ。

 ハン博士とウィルタは二段ベッドの下の段、春香はベッドの縁に寄り掛かって、そして反対派のギャロップは壁際の床に寝転がって眠っている。春香とギャロップは外套を引っ掛けただけの姿だが、暖房が効いているので寒さの心配はない。オバル一人が起きて、窓際に寄せた机に向かってペンを握りしめていた。計算尺を動かしながら、紙に何やら細かい数字を書き込んでいる。

 ダーナは背を丸めたオバルの傍らに立つと、手にしていたポットを机の脇に置いた。

 顔を上げたオバルがダーナを見て目を丸くした。なんとダーナが、官服ではなくドレスを着ているのだ。

「さすが名門一族の令嬢だけはあるな」

 笑いを抑えるオバルを、ダーナが軽く睨み付けた。

「官服の予備が残っていなかったのだ。なかなか見ものだぞ、官服を脱いだ連中が私服で会議をする様子はな。一杯引っかけて騒いでいるようなものだ」

 会議の様子を笑い飛ばすと、ダーナは真面目な顔に戻って、「それより、ハン博士の容体はどうだ」と尋ねた。オバルが手にしたペンを投げ出すように机に置いた。

「相変わらずの昏睡状態。医師の話では、透析をしなければならないが、機材が到着していないということだ。息子のウィルタはさっき目を覚ましたが、頭痛が残っているようなので、沈痛剤を飲ませてもう一度眠らせた」

「息子?」

 ダーナがチラリと後ろのベッドに目をやった。そして眠っている少年を認めると、「そうか、助かったか」と、安堵の息をついた。

 どうやら人質の一部が遷都先に到着したことは、ダーナに伝わっていなかったらしい。手持ちのコップにポットの茶を注ぎながら、オバルがその話を持ち出した。

「聞いていなかったようだな。墜落した飛行機の翼に乗って、濁流下りをやったらしい。サイトから脱出した人質たちで、ここに辿りついたのは、今のところ五人だ」

 話しながら、オバルは、その後に続けようとした「俺の妹は……」という言葉を呑み込んだ。厳しい顔つきのダーナの横顔が見えたのだ。それにダーナを問いつめたとして、どうなるものでもない。

 ダーナは、オバルの話を「そうか」と受け止めると、「計算の結果は出たか」と改まったように尋ねた。

 オバルが廊下に目を向けた。開いたままの扉の外に、寝転がった子連れの親子が見える。

 通路にもびっしり人が溢れている。

 外の人たちを気にするように、オバルが声を落とした。

「危ない、正味危ないと思う」

「どのくらい持つ?」

 机に手を着き体を寄せてきたダーナに、オバルが重い口ぶりで説明する。

「今の状態が続くとして、五日。だが水の流入量は加速度的に増えているから、早ければその半分以下の二日」

「そんなに早くなのか」

 ダーナが右手の指先で小刻みに顔のマスクを掻いた。マスクの中の目が、机の上に置かれたメモの数字を、毒虫を見るような目で睨みつけている。

 オバルが数値の説明をしようとすると、それより先に、二人の会話が聞こえていたのだろう、ベッドの縁から顔を上げた春香が、「何が二日なんですか」と聞いてきた。

 オバルがダーナの顔を見た。話していいかどうかを確認する目だ。

「教えてやれ、シャンの所にいたんだからな」

 そう勧めると、ダーナは扉を閉めに入り口に戻った。

 机の脇の壁に色褪せたグラミオド大陸の地図が貼ってある。立ち上がったオバルが、春香に地図の所に来るようにと手招きをした。

 オバルが地図にペンを当てる。ユルツ連邦の邦主国、ユルツの繁都ダリアファルは、グラミオド大陸のほぼ中央に位置するコニーデ型の貴霜山の麓にある。「ここが、霜都」と、オバルがペン先で都の位置を示す二重丸を押えた。そしてそのままペンを、ユルツの北にある真っ白な氷床地帯に向けて移動させる。

 オバルは地図の上の各ポイントを示しながら、その地点地点の標高を口にする。

 ドゥルー海北岸地域の標高は、氷床地帯が標高千ニ百メートル、セヌフォ高原が標高千三百、貴霜山の麓の霜都ダリアファルが四百五十、そしてこの波崙台地が標高六百前後。

 同様に、大陸をドゥルー海の東岸から東になぞる。

 ドゥルー海の東海岸に南北に連なる天来山脈と、竜尾山脈の間に挟まれた青苔平原が、平均で二百七十メートル、亀甲台地北部が平均六百から七百、それを繋ぐ海門地峡の湖沼地帯の騒鳴丘が二百十八、大陸の臍と言われるバレイの港町が二百二十、そして地峡の東に広がるドバス低地が、海抜ゼロから六メートル……、

 そしてつまり「これが一番のポイント」と言って、オバルは次の言葉に力点を置いた。

「この波崙台地の南に広がるドゥルー海の海面高が、標高二百十七メートルあるということなんだ」

 ゆっくりと指を大陸のほぼ中央を占めるドゥルー海に戻して止めた。背頭形と呼ばれる東西に人が顔を背け合ったような形の内海がそこにある。

 オバルが重しを置いた声で続けた。

「つまり、このドゥルー海が、海抜ゼロメートルのドバス低地に流れ出さないのは、天来山脈と亀甲台地の間を繋ぐ海門地峡が、ドゥルー海の水を塞き止める形になっているからだ。覚えているよね、あの馬車で走った海辺の道のことを」

 春香は旅をしている時に見た街道の風景を頭に思い浮かべた。

 青苔平原を抜けると景色がガラリと変わった。右手にドゥルー海、左手に塩湖の点在する沼地が続いていた。この世界に来て海を見るのが初めてだったこともあって、自分は水平線の広がる海の側ばかりを見ていた。だから塩湖の側の印象はほとんどない。塩湖の後ろに低い丘がだらだらと続いていたような気はするが……、

 思い返せば、その後バレイの町を出て、亀甲台地を南に見ながら天柱峡を抜けた時もそうだ。突然視界が開け、目の前に見渡す限りの大湿原が広がった。あの時自分は、ウィルタの父がいるかもしれない広大なドバス低地に目を奪われていた。

 でも今にして思えば、海面すれすれの地峡の後ろが断崖絶壁になっているのだから、ドゥルー海が相当高い位置にあるのは当り前だ。

 オバルの説明によると、海門地峡の東側は、二百メートルを越える断崖となってドバス低地側に落ち込んでいる。距離にして四十キロ弱の断崖絶壁が、天来・竜尾両山脈の南端と亀甲台地を繋いでいる。亀甲台地に隣接する天柱陵を除けば、この海門地峡の幅は平均で三百から五百メートル、薄皮一枚でドゥルー海が塞き止められている形だ。

 地峡の塩湖の点在する海岸が、ドゥルー海の海面高よりもほんの少しだけ高い。もちろんそれは、つい二日前までの話で、今は猛烈な勢いで北の氷床地帯の融けた水がドゥルー海に流れ込んでいる。この半日だけでも、この波崙台地下の海岸で潮位が四センチも上がった。当然、海門地峡の海岸でも水位の上昇が始まっているはずである。

 やっと事情が飲み込めてきた。春香が恐る恐るその事を口にした。

「じゃあこのままいけば、海の水が地峡を越えて……」

「そういうことだ。でも、それだけじゃ済まない可能性もある」

 オバルが指先で回していたペンを止めると、その先端で騒鳴丘を押さえた。

「水が土手を越えるだけならまだいい。しかしあの一帯は、脆い断層帯だ。望日湾は二千年前に隕石の衝突で出来た湾で、衝突の衝撃で出来た無数の断層が、海岸地帯の下に走っている。その一部が地中の水路となって、ドゥルー海の水をドバス低地側に流しているのではと、前々から言われてきた。低地側の河川が不自然に塩分を含んでいるのが、その証拠だ。その塩っ気のある水のために、ドバス低地で暮らす人々は、良質の湧水の出る砂洲に都を造営した。まあ、それはいいとして……、

 水が溢れ出す前に、上手く放水路でも作って増水した水をドバス低地側に流すことができればいいが、一歩違えれば、逆に地峡崩壊の呼び水になってしまう可能性もある。確率は低いと思うが、地峡全体が一気に崩壊してしまうこともだ。そして、もし海門地峡の一斉崩壊が起きれば、東のドバス低地全域を、想像を絶する洪水が襲うだろう。そのきっかけになるやもしれないドゥルー海の水の溢れ出すリミットが、早ければあと二日ということなんだ」

 事の重大性が見えてきた。ダムの決壊ではない、内海ではあっても海が決壊するかもしれないのだ。

「そんな、そんなこと、決壊を止めることはできないの」

 オバルはお手上げとばかりに、小さく諸手を上げた。

「一番にやらなければならないことは、分かり切ったことだが、あの天上の照明を消すことだ。しかし残念だが、ダーナが仕掛けたタンク一台分の燃料の爆発でも、炉の稼動を止めることはできなかった。いまサイト周辺は猛烈な嵐で、空からも陸からも近づくことができない。全くお手上げの状態だ」

 春香が肩を震わせた。

「それじゃ、光を止められないのなら、せめてドバス低地の人たちに事を伝えて、避難してもらわなきゃ」

「それが、兇電放射が異常に強くて、衛星通信が使えない。地上波の電波ももちろん駄目。あらゆる周波数域で猛烈な兇電が飛び交っている。雪氷が融けて、埋もれていた唱鉄隕石が露出したのかもしれない」

「そんな……」

 話を聞いていたダーナが、思案げに口を挟んだ。

「だからといって放っておく訳にもいかん。通信が駄目なら、誰かが直接足を運んで、知らせるしかあるまい」

「行くなら飛行機を使うしかないだろう」と、壁際から声がかかった。

 ギャロッポが寝転がったまま、片肘をついた格好で三人を見ていた。

「それしかないか」と、ぼんやりとした声で言って、オバルがペンを机に置いた。

 机の天板が傾いているのか、ペンがコロコロと転がりだす。それをダーナが手の平で押さえ、頭の中を整理するように話を持ち出した。

「警邏隊の保有している飛行機九機のうち、一機は雹の嵐に突っ込んで墜落した。要人の移動と非常時用に待機しているのが、それぞれ一機。残り六機の内の二機は整備中で、いま現在動かせるのは四機。それが都に取り残された人の救出で、フル回転している。とても東の戦争をやっている連中のために貸し出すことは無理だ」

「それじゃ、どうしろと……」

 声を荒げるオバルに、ダーナがペン先で仮面をコツコツと叩いた。

「私は今回の計画の失敗で懲罰会議に掛けられる予定の身だ。そんな私から飛行機を貸してくれという要求は出せない。だが勝手に奪って使うというのなら、仕方がない。日中は無理だろうが、今日の夜半に避難民到着の最後のピークが来る。やるならそのさなか、深夜のスタッフが交代する時だろう。非常時用の機は、待機状態で何時でも飛ばせる状態に整備してあるから、乗り込みさえすれば飛ばすことはできるはずだ」

 オバルが思い当たったように手を打った。

「非常時用の一機というのは、あのへんてこな、バンザイ機か」

「そうだ、電動式の双発機だが、軽量なので航続距離は五千キロ超ある。動力源の十字泡壺の充填率は九四パーセント、バドゥーナ国と波崙台地との往復も十分可能だ」

 予め調べてあったのだろう、ダーナは細かい数字をさらりと並べ立てた。

「しかし、誰が操縦する、警邏隊の操縦士で頼めるやつがいるのか」

「問題は、それなんだが……」

 思案する振りをしながら、ダーナはポットと一緒に持参した防水袋から、一台の魔鏡帳を取り出した。

「それは!」と、オバルが耳を塞ぎたくなるような大声を出した。

 突然の大声に顔をしかめつつ、ダーナが「返却だ」と魔鏡帳をオバルに差し出した。

 四カ月前のこと、オバルは、ユカギルの町にいたところを情報局の隊員たちによって身柄を拘束された。その際、愛用のトーカも押収されている。今回オバルは、ダーナから翻訳分析班の作業を手伝うよう指示された際、真っ先に自身のトーカを返却するよう注文をつけた。映像中継の作業を進める際にもだ。

 ところが、そのトーカがなかなか返却されない。ダーナをせっついても、情報局の担当者が不明でという曖昧な返事が返ってくるだけで、一向に埒が明かない。そして炉の暴走と都の水没。オバル自身は、もう愛用のトーカは戻ってこないものと諦めていた。

 そのトーカが目の前にある。

 久しぶりに目にする自身のトーカを愛おしそうに撫でると、オバルは上蓋を開いて中の状態に目を走らせた。外見上は問題ない。直ぐさま横にあった匣電に繋ぎ、電源を入れる。

 画面が立ち上がるのを待つように顔を上げたオバルに、ダーナが、ばつが悪そうに話しだした。ダーナの言うには、このトーカは、オバルが連行される前からサイトに運び込まれていたという。それをオバルの要請にも関わらず引き渡さなかったのは、管制室のスタッフのある人物の強い要望があったからだ。そのスタッフは、トーカを返却するのは、オバルの仕事ぶりを見てからにすべきだと、ダーナに強く進言した。

 オバルが、意外そうに言った。

「なぜだ、俺は翻訳分析班の仕事も、映像の中継も、手を抜かずにちゃんとやったぞ」

「済んだことだから怒るなよ」と、ダーナは前置きすると、事の次第を打ち明けた。

 そのダーナに進言した人物というのは、ジャブハである。

 実はジャブハも、トーカおたくだった。

 そのジャブハが、事前にオバルのトーカをチェックしていて、あることを発見した。オバルがトーカを使った電子ゲームに填まっていたということに気づいたのだ。使用履歴を見れば歴然で、オバルは、ほとんど毎日それで遊んでいる。

 下手に渡すと、仕事そっちのけでゲームをして遊ぶ恐れがあります。だから……と、ダーナに入れ知恵したのだ。

 オバルが眉をカッと吊り上げた。

「ジャブハのやつがそう言ったのか。くそうあの野郎、実直そうな顔のくせして、裏でコソコソ検閲の真似をしていやがったか」

「そういきり立つな。ジャブハは統括ブースの長、人事面にも気を配るのが仕事だ。それに、あの混乱のなか、ちゃんと忘れずにトーカを持ち出してくれたんだからな」

 人ごとのように話すダーナを、オバルは黒炭肌のなかの白い目で睨みつけた。

「分かった、しかし、もし中の情報が消えてたりしたら、ただじゃおかないからな」

 声を荒げて喋りつつ、オバルの指は、もうダーナそっちのけで、トーカのキーを叩いていた。ファイルの一覧を引き出し、それをスクロール。ジャブハがチェックしたと聞いて、中の情報がどうなっているか気になったのだ。

 引き出されてくる情報に心あらずのオバルに、ダーナが尋ねた。

「ところで一つ聞きたいんだが、オバルは、電子ゲームの中では何が得意だったんだ」

 オバルが気もそぞろに返事を返す。

「おれか、おれはな……、飛……」

 言いかけてオバルが、ギョッとしたように背を起こした。そして脇から同じ画面を覗き込んでいるダーナを、まさかという目で見やった。ダーナの意図を察したのだ。今になってトーカを返却してきた、その狙いを……。

 肩夫長屋で荷役の仕事を続けていた当時、オバルが填まっていたゲームとは、飛行ゲームである。トーカの映像パネルはノートサイズと小さい。それでも大空を飛ぶシミュレーションゲームは、先の見えない肉体労働を続けるオバルにとっては、溜まった鬱屈感を晴らす絶好の娯楽だった。オバルが信じられないとばかりに首を振った。

「おい、冗談だろう、この俺に操縦しろってか」

 眼を剥くオバルに、ダーナが平然と言って聞かせる。

「そういうことだ。正規の警邏隊の操縦士に頼める仕事ではないしな。しかし、あの完全自動操縦の可能なバンザイ機なら、オバルでも飛ばすことができるだろう」

 バンザイ機は、満都時代の双発機とは異なり、コンピューター制御によって全自動で飛ばすことのできる古代のハイテク機である。ダーナは、オバルの横から手を伸ばすと、素早くキーを操作した。画面上のファイル一覧にバンザイ機の項が浮かびあがる。

「トーカに、バンザイ機の操縦マニュアルをコピーしておいた。おそらくは、ゲームの中に出てくる戦闘機まがいの機よりも、扱いは簡単なはずだ」

 まるでもう決定したといわんばかりの口ぶりに、オバルが顔色を変えて何か言い返そうとするが、機を制してダーナが続ける。

「分かってる、ゲームで飛行機を飛ばすのと、現物の飛行機を飛ばすのとでは訳が違うというのは。それは百も承知だ。現実の飛行では、飛行条件を左右する不確定な要素が無数にあるからな。しかし、飛行ゲームで五万点という高得点を叩き出している手だれのゲーマーなら、予期せぬ条件にも十分対応できるだろう。どうだ、塁京までのフライト、チャレンジし甲斐のある、本物のゲームだと思うが」

 オバルは大きく息を吸うと、正面からダーナの仮面の顔を見すえた。

「お前、人に仕事を押しつける天才だな」

「仕方ない、総監とはそういう役どころだ。引き受けてくれるか」

「断ったら、トーカを没収するというんじゃないだろうな」

 睨みつけるオバルに、ダーナが笑って目を逸らした。

 その時、後ろで二人のやり取りを聞いていた春香が声を上げた。

「オバルさんが飛ばすの、じゃあ、わたしを乗せて。シャン先生のところが心配なの。ぜひ私も。あっ、でもウィルタと、ウィルタのお父さんのこともあるから……」

 昏睡状態で眠り続ける博士に目を向けた春香に、オバルが首を振った。

「春香ちゃん、君はウィルタと博士の側にいてくれ、曲がりなりにも行き先は戦争の真っただ中だ。あえて危険の中に飛び込む必要はない」

「でも……」

 苦しげな表情の春香の肩に手が置かれた。

「いいよ、お嬢さんも行ってきな。博士とウィルタ君の面倒は俺が見よう。俺はこう見えても細かい世話は得意なんだ」

 春香の後ろに毛布を抱えたギャロッポが立っていた。

「それがいいだろう」と言い添えると、ダーナは壁の地図、ドバスの地に目を移した。

「私が行くわけにもいかないし、行くなら、オバル以外に向こうの事情が分かっている者がいた方がいい。バドゥーナの都、盤都も状況によっては飛行機で降りられない可能性がある。最初からシャンの診療所に行くのが正解かもしれん。あそこに情報を流せば、窮民街の連中を通じて、情報はあっという間に低地全域に伝わるだろう」

「そうよ、知らせるならシャン先生のところだわ」

 春香が硬い表情のままにそう言った。


 天のスポットライトが点灯してほぼ丸四日、夜の九時。

 聴聞の開始が延びたのを理由に、ダーナが、またハン博士の容体を見にきた。

 ところが二八号棟の一番奥の部屋の扉は開いたままで、部屋の前の通路も部屋の中も、ぎっしりと避難民で埋まっている。一瞬建物を間違えたのかと思ったが、棟も部屋の番号も合っている。部屋の前で座りこんでいた連中が、仮面のダーナに気づくと「中にいた連中は、出て行ったぜ」と、建物の外に首を振った。

 続けて「お尋ね者にゃ、ぬくぬくとした部屋は似合わねえ」と、蔑むような声が飛ぶ。

 周りの連中がダーナにきつい視線を向けた。

 ユルツ国の市民は、今回のファロス計画の責任者が誰であるか知っている。先の言葉は、ハン博士に向けられた言葉であると同時に、ダーナへの言葉でもある。ダーナがまだ政府の要職にあるので、直接侮蔑の言葉を投げつけないだけのことだ。

 奥歯を噛み締めたダーナの肘を誰かが引いた。振り返ると、ギャロッポの秘書の青年が立っていた。青年がこちらへとばかりに建物の出口を示す。青年に付いて建物の外に出るダーナの背を、幾つもの非難がましい視線が追っていた。

 外にはずらりとテントが張られ、そこも人で埋まっている。ユルツの官製のテント以外にも、雑多なテントが並んでいる。当初政府は、この遷都先に避難してくる人の数を二十万弱と推定していた。それが逃げ場を失った周辺諸地域の人々も逃れてきたため、すでに避難民の数は二十七万人に膨れ上がっている。おそらくあと三、四万人は増えるだろう。

 この周辺諸国の人々までが大挙して避難してきたおかげで、遷都先の避難所では大変な混乱が生じようとしていた。準備していた配給の衣料品があっという間に底を着いたのだ。それにテント場の割り振りで、あちこちで諍いが起きていた。

 警邏隊は取り残された人々の救出や、物資の補給に手を取られて、遷都先の警備にまで手が回らない。一部の施設を除けば、避難所は警察機能が失われた状態で、それも諍いの多発に輪をかけていた。早急に対策を取らないと、混乱がさらにエスカレートするのは明らか。今も、ユルツ国の避難民と、隣国の囲郷の住人が互いを罵倒しあっている。

 その荒んだ言い合いに眉をひそめながら、ギャロッポの秘書の青年は、ダーナを宿泊練の西の端、機械棟へと案内した。

 そこに施設全体に温水を供給するボイラー室がある。ハン博士は、そのボイラー室の二階、休憩室の床に、息子のウィルタと共に寝かされていた。

 三時間ほど前のこと、ハン博士が二八号棟にいるということが一般の人に知れ、一部の連中が騒ぎだした。部屋の扉に物をぶつける者も出てきた。それを見たギャロッポが、騒ぎが大きくならないうちにと、博士を人目に付かないボイラー室に移したのだ。

 煤けた部屋は狭く薄暗いが、ボイラーの熱気で汗ばむほどに暖かい。

 結果的には、早い段階で、博士を宿泊棟から連れ出せて良かったのだろう。それにボイラー室のスタッフは、全員が褐炭事業を展開するギャロッポの父親に雇われた者たちで、博士の身の安全を考えれば、ギャロッポの意見の通るこの場所は最適といえた。その証拠に、ギャロッポの秘書が通るだけでも、ボイラーの釜に石炭をくべていた労夫たちが、作業の手を止め挨拶をしてくれる。

 反対派のギャロッポがハン博士の身柄に気を遣っている、そのことが不思議に思えるが、ギャロッポ個人が、ハン博士の亡くなった妻に世話になったということらしい。

 ダーナがボイラー室の梯子のような階段を昇ると、天井の低い休憩室の床に、博士とウィルタが並んで寝かされていた。二人の横では、ギャロッポが胡座をかいたまま書類片手にメモを取っていた。

 ダーナに気づくや、ギャロッポが開口一番、「二人は?」と聞いた。

 ダーナが目で外を示した。

「例のバンザイ機に潜り込んだ、人気の無くなるのを待って、飛び立つ予定だ」

「そうか」

「博士は?」

「時々、うわごとで、奥さんの名を呼んでる」

 心配げに話すギャロッポの額に、大きなばん創膏が貼り付いていた。ハン博士に投げつけられた石を、博士を庇って自分の額に受けてしまったのだ。ギャロッポが、額のばん創膏を手で押さえながら零した。

「こんなことになるなら、もっとしゃかりきに、サイトの復興計画に反対するんだったな。俺の中にも、どこかで夢のエネルギーが成功するのを期待している部分があったのかもしれん」

 オバルの残したメモに目を走らせていたダーナが、「あれでも十分妨害された。どのみち結果は同じだったろうが」と、皮肉とも自嘲ともいえない口ぶりで言い返した。

「くたびれ儲けというやつか」

「それより、やっと遷都派に出番が回ってきたというのに、こんな所で油を売っていていいのか」

「ああ……」と、ギャロッポが生返事を返した。

 昨夕から、第二次ファロス計画の混乱と不首尾に関する聴聞が開始された。

 そして今日、バッカンディーが、今回の事故に、反対派の妨害が大きな影響を与えたと、証拠の写真を提出して訴えた。証言の骨子は、反対派が脱出口付近に残した爆発物によるサイトの損傷と混乱がなければ、まだ炉の暴走を食い止める手立てはあったという内容である。なんとバッカンディーは、議会が内々にサイトの業務を査定するために送り込んだ査察官だった。もっともそれは表向きの顔で、実際には今回の計画が失敗に帰した場合、その原因を反対派に負わせようとバハリが送り込んだ、工作員というのが真相だ。

 ギャロッポの情報に寄れば、人質救出班は断じて爆発物を持参していない。おそらくバッカンディーは人質の救出をあえて見逃し、その救出口に意図的に爆薬を仕掛けたのだ。

 ファロス計画が不首尾に終えても、実権を遷都派に渡さないための、バハリ一派が仕掛けた巧妙な策略だった。

 聴聞の様子を思い出したのだろう、ギャロッポが腹立たしげに、手にした書類を引き裂いた。

「くそう、填められた!」

 ダーナは聴聞に提出する書類を用意するため、直にそのバッカンディーの発言は聞いていない。要旨を速記の担当者から聞いただけだ。それでも、サイトの現場の代表である自分でさえが、全く与り知らないことだった。

「全く、バハリも、お前の親父も汚すぎるぞ」

 怒りがぶり返してきたのか、ギャロッポが口から泡を飛ばして話しだした。

 つまりこのバッカンディーの証言には、さらに隠された含みがあった。

 聴聞の後、遷都派の幹部に対して、バハリの筋から、ある画像が届けられた。それはサイトから持ち出された監視映像の情報チップをチェックしていて見つかったもので、忍び込んだ反対派のスタッフが爆発物らしき大きな荷物を運び込んでいる画像だ。合成画像である可能性が高いが、それを国民が合成と信じるかどうかは、また別問題。

 この画像を闇に葬る代わりに、反対派も政府の文書館から盗み出した推進派の利権関係の文書、それの公開を控えるようにと、バハリ側から交渉を持ちかけてきたのだ。

「この様子だと、他にも反対派を貶める罠を仕込んでいるに違いない」

 ギャロッポが苦りきった顔で吐き捨てた。

 捲土重来を期すファロス計画の反対派、遷都派としては、返り討ちに遭った気分だろう。しかし、この裏取引のことに関しても、ダーナは全くカヤの外に置かれていた。まあ、バハリ女史と父が、いかにもやりそうなことではある。政治家として、ファロス計画が失敗に帰しても、絶対に実権を他の連中に譲らないための工作なのだ。

 ただこの話を聞いて、なるほどと思った。自分は今回の計画の采配を、総監として、ほとんど何の制約もなく揮わせてもらった。だから実力以上の権限を与えてもらったと感謝していた。しかしそれは裏を返せば、バハリ女史と父が、サイトの復活事業が成功しようが失敗しようが、どちらに転んでも大丈夫なよう、万全の手を打ってあったからなのだ。父はいつも信条のように口にしている。政治家は権力を握ることが全てだと。国や国民のためにやることなど、後からいくらでも付いてくる。政治とはスポーツと同じで、勝たなければ意味はない。勝って権力を手中にしなければ、と。

 ダーナが、政治家として命運を掛けて取り組んだファロス計画も、父やバハリ女史にとっては、政争のコマの一つに過ぎなかったということだ。

 ダーナは口元に苦いものがこみ上げてくる気がしていた。

 その歪んだ笑みを見たギャロッポが、鋭い目でダーナに迫った。

「おい、まさかお前も、この謀略に噛んでたのか」

「まさか、いま知ったことだ、私にそこまでの手腕はない」

「そうか……」

 うんざりしたとばかりに、ギャロッポがため息をついた。そして手にしていた書類を封筒の中に放り込むと、真面目な顔になってダーナに話しかけた。

「なあダーナ、話しは代わるが、俺とオバル、そしてお前は、技術復興院の同窓だ。それも、三人とも落ちこぼれという意味でな……」

 ダーナが鼻を鳴らした。

「フン、落ちこぼれというやつは、自分をそう呼ぶ段階で自分に負けている者のことだ。私は自分が落ちこぼれだなどとは、露ほども思っていない」

 ダーナが学生時代に戻ったように、気の張った声を上げた。

 ダーナ、オバル、ギャロッポの三人は技術復興院の同期生である。二年在籍して、その後中退という意味でも同窓。成績が悪かったというのではない。今のユルツ国を救うためには、技術よりも政治の方が重要だと、政経院に転進したのが二人。それがダーナとギャロッポだ。ただし、ダーナは自分の意志で、ギャロッポは父親の命令でだ。

 対してオバルは、例の警邏隊の仕事を無許可で受けたことによる除籍で、その後のオバルの紆余曲折の人生は、サイトの第一発見者となったことを含め、都の多くの人が知るところだ。そしてギャロッポはギャロッポで、遷都派の父親の活動を補佐するなかで、ダーナと全く逆の立場、反対派の活動家の中心人物となっていった。

 三人とも現在、三十八歳。それぞれが傾きかけた国の中で自分の未来を思い描いていた時代から、二十年近くが過ぎていた。オバルは妹の借金を背負い、職を点々とする人生を送っている。かたや、顔の半分を失ったダーナは、命を賭けた計画に見放されつつある。そしてギャロッポはといえば、遷都派の父の後を兄と共に継ぐ道が開けようとしていたが、ギャロッポ自身は政府内の派閥争いを目の当たりにして、自分が政治の世界に向いていなかったことを痛感しているところだった。

 ギャロッポがしみじみとした声で心情を吐露する。

「三人の中で一番自分の道を歩んでいるのは、ダーナ、お前だろうな。お前は政治家に向いている。きっとファロス計画の失敗など意に介さず、すぐに次の目標を見つけて走り出すだろう。前回の惨事の後、リベンジを図るために、すぐに第二次復興計画を立ち上げたようにな」

 ダーナが意外そうな目で昔の級友を見た。疲れた表情の中年の男がそこにいた。

 ギャロッポは政治家よりも芸術家に向いたタイプだと、ダーナは見ている。

 ギャロッポはナイーブで理想家、実務の世界には向いていない。

 よくあることだが、政治の世界に理想家タイプの人間が足を踏み入れることがある。しかし、政治とは理想を語りながら、その実、裏声で、その理想がいかに不可能であるかを民に語りかけなければならない。二つの顔を使い分けるしたたかさが求められる世界、実際には商取引に近い世界だ。理想家の人間が生きていくには、政治の世界とは余りに傷つきやすい世界だった。

 気弱になったギャロッポを叱責するように、ダーナが強い口調で言った。

「お前のようなやつに国の舵取りを任せたら、付いていく国民が迷惑するわ」

「本当だ、せっかくこれから本番という時に、腰が引けているんだから、情けない話だ」

 ギャロッポが火の粉を払うように、話題を自分のことからオバルのことに移した。

「なあ、ダーナ、昔からの知人として言うが、オバルのことを許してやれ」

「何を許せというんだ」

「前回の惨事の時、あいつがお前を脱出の機に押し込んだことだ」

「そのことか」

「お前は自分が職務を全うせずに、民間人を残したまま脱出の機に乗る羽目になったことを怒っている。だが、あいつにしてみれば、上司のお前を先に置いて逃げ出す訳にはいかなった。それに、お前に惚れていたところもある」

 ダーナがギャロッポにカミソリのような視線を向ける。気づいたギャロッポが天井を見上げた。ギャロッポの耳を、ダーナの二十年来の厳しい口調が打つ。

「情によって動く、それがオバルの一番許せないところだ。あの時、飛行機に乗せるべきは、私ではなく民間人だった。その甘さが自分の人生を見誤らせていることを、あいつは全然分かっていない」

 そう吐き捨てると、もうこの話は打ち切りだとばかりに、ダーナはオバルの残したメモをポケットにねじ込み、立ち上がった。

 その時、闇の中にかすかな爆音と人の叫び声が聞こえた。

 窓に顔を向けたギャロッポが、ぼそりと言った。

「発ったようだな」

「ああ、そのようだ」

 ダーナは、相槌を打つと「そろそろ会議の時間だ」と言って、眠気を払うように手の平に拳を打ち付けた。

「まだ会議をやっているのか」

 驚いて顔を上げたギャロッポを、ダーナが鼻先で笑った。

「夜も薄暮の明るさ、一日中働けと言われているようなものだ。警邏隊の駐屯地にデポしてある、サイト関連の資材の撤収についてだ」

「そうか、おまえはサイトの現場の最高責任者だったな」

 納得したようにギャロッポは頷くと、静かに寝息をたてている博士とウィルタの二人を見やった。そして手の中の書類を鞄に押し込むと、ダーナに続いて腰を上げた。

「燃料省の役人が準備した褐炭増産関連の資料に目を通していたら、目眩がしてきた。俺も、ちょっと外の風に当って来よう。雨は上がってるんだろう」

 休憩室前の階段を下りながら、ダーナが忠告する。

「役人は前例主義だ、囚われると前に進まなくなるぞ」

「分ってる、しかしな……」

 都が創建されて千四百年、その間に制定された法律が六万。微に入り細に入り決め事がある。それは国家としての歴史であり知恵袋でもあるが、同時に新しい事を為す際の足枷でもある。この国で行政家とは、複雑に絡み合った利害関係と法の網を解すのが仕事となる。ところが往々にして、網の目は、よりこんがらがってしまう。

 すでにユルツ国は国家としての制度疲労に陥っていた。そして遷都は古都に覆い被さった古い衣を一新する最高の機会なのだが、官僚は新しい遷都の場に古い制度を引き連れて行こうとしていた。前回の遷都が頓挫した最大の理由がそれだ。

 ギャロッポは、役人の作った褐炭増産事業の業者選定の基準に関わってくる法律の多さと、実際に選定を行う際の手順の煩雑さに嘆息した。評議員でありかつ褐炭事業連合の当事者として、ギャロッポは褐炭増産の緊急動議を提出する準備を進めている。だがいかんせん、それを実現することが、この緊急時でも思いのほか面倒な作業であることに、頭を抱えていたのだ。この国の上に伸しかかっている法を、すべて白紙に戻すことができれば、どれだけすっきりすることか……。

 ギャロッポの苦悩を見透かしたように、ダーナが言い放つ。

「ばっさりと、古い慣例を断ち切ってやることだ」

「身内からも外部からも、怒濤の反対意見が出てくる」

「自分以外はみな敵だと思えば、反対意見など気にもならんさ」

「それは、ブィット家の伝統か」

「ハハハ、私の性格だ」

 ボイラー室の扉からダーナの笑い声が外に移り、ギャロッポがそれに続く。

 二人の姿が消えたボイラー室の休憩室では、ボイラーに空気の送り込まれるゴーゴーという音が、地鳴りのように響いていた。



次話「父と息子」

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