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星草物語  作者: 東陣正則
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波崙台地


     波崙台地


 舞台はまたドルゥー海の北岸に戻る。

 氷床に接するユルツ連邦北部は、ユルツ国を初め、どこも嵐のような天気に見舞われていた。ダーナたちを乗せた双発機は、無事ドゥルー海沿いの波崙台地に到着した。

 ここは霜都ダリアファルから南方約百十キロに位置するドゥルー海に突き出た台地で、周辺の地下にかなりの量の褐炭が埋蔵されていることから、都の移転先の候補地の筆頭に挙げられた場所である。実際に十年前の惨事の後、都の機能を一部移転しかけた経緯がある。そのため当時建てられた施設が、今も台地の上に残っている。

 氷床上のファロスサイトは波崙台地の真北に位置し、大地を照らすスポットライトの境界は台地の北端にまで及んでいる。そのため波崙台地から北方を望むと、前方にカーテンのように光の壁が立ちはだかり、スポットライトの淡い照り返しが、波崙台地を夜にも関わらず白夜のように照らしている。その薄暮の丘に、ドゥルー海側から凍てついた強風が音をたてて吹きつけていた。

 双発機から降り立ったダーナたちは、凍風に身を煽られながら、立ち並ぶ建物の陰に走った。前方では別の飛行機から降りた一行が、警邏隊の隊員に守られるようにして中央の建物に向かっている。政府の要人たちだ。

 施設は、中央に管理棟らしい数棟の二階建ての建物、東側に資材置場用の倉庫群、西側に作業員のための宿泊棟が前後四列にずらりと並んでいる。管理棟が当面の臨時政府兼、避難対策センターとなり、宿泊棟と、資材の入っていない倉庫とが、避難民の収容所に使われる予定だ。都や都周辺の住民がここに到着し始めるのは、早くても明日の午後からになる。先陣は馬車に乗った人たちで、数も多くないが、その後に徒歩十七万の一般市民が控えている。早急に受け入れの体勢を整えておかなければ、大変な混乱が生じることになるだろう。

 施設東側の倉庫棟の前に、荷を満載した馬車が次々と横付けされていく。

 近くの駐屯地に保管してあった物資が搬送されてきたようだ。

 その倉庫への荷の搬入を指示する係官の拡声器を通した大声に、凍りついた倉庫の扉を押し開ける割れ鐘のような音、そして駄々をこねるように回りかけては止まる発動機の音が、吹きつける風の音に混じって辺りに鳴り響く。

 この施設東側の喧噪に対して、西側の生活棟は、まだ作業関係者が到着していないこともあり、これからの騒動を待つようにそっと佇んでいた。

 管理棟に駆け込んだダーナが、カギの束を手に出てきた。

 ハン博士を背負ったオバルと春香は、そのダーナに案内されて宿泊棟の奥に向う。

 建物の並びの角、海側の棟の前で、一行は足を止めた。入口の扉を塞ぐように庇の上からつららが垂れ下がり、大きなものは地面に達している。それを肘で叩き折ると、ダーナは錆の浮き上がった錠前に鍵を差し込んだ。と、鍵穴が氷で塞がって入らない。

 ダーナがドアを足で突き飛ばした。

 半開きになったドアに体をねじ込み中に押し入る。なかなか開かないはずで、扉の裏側にもつららが層になって貼り付いていた。ずっと締め切ってあったのだろう、建物の中はカビの臭いが鼻をつき、歩くと積もった埃にくっきりと足跡が残る。

 平屋の建物は、左側に通路、右側に間口の狭い扉が並んでいる。手近の扉を開けて中を覗くと、船室のような狭い部屋に、二段ベッドが四つずつ計ったように置かれていた。

 ダーナはオバルにカギを渡すと、一番奥の部屋を指さした。

「家族用の広い部屋をと思ったが、居心地のいい部屋は、お偉方が使うということだ。私はサイトの件を報告しに行かなければならん。医師はまだ到着していないそうだから、博士の手当てはそれを待ってからということになる。あとは適当にやってくれ」

 そう言い残してダーナがオバルに背を向けた時、ドタドタと大きな足音とともに、官服姿の男がドアを開けて入ってきた。

 だぶつき気味の官服を着た褐炭肌の男を見て、ダーナの視線が強ばった。

 顎の張った箱のような顔、その四角い顔の中心に寄り集まった目鼻口を、太く短い眉が文鎮のように上から押さえつけている。当人には悪いが、珍奇な顔といっていい。反対派を裏で支援している政敵の評議員、ギャロッポである。

 ギャロッポも、ここにダーナがいるとは思っていなかったのか、口ひげのような眉をクッと引き上げると、数歩後ろに下がった。

 そのギャロッポの四角い顔を一瞥、ダーナが肩をぶつけるように言った。

「おまえの仲間が連れ出した人質は、いま氷床の上だ。詳しいことはオバルに聞いてくれ」

そう言い捨てると、ダーナは音をたてて部屋から出て行った。

 ギャロッポは、豚虫を踏みつけた時のような不快な顔でドアを睨むと、直ぐに振り返ってオバルに歩み寄った。

「大丈夫だったか、救護センターで博士が到着したと聞いたもんでな。どうなのだ、体の状態は」

 喋りながらギャロッポが、部屋のなかベッドの上に目を走らせる。そしてハン博士の血の気の失せた顔を見て、表情を曇らせた。博士は意識不明の状態が続いている。

 オバルがギャロッポにこれまでの経過を、かいつまんで説明する。

 聞いて表情を曇らせるギャロッポの後ろで、隅のロッカーをかき回していた春香が嘆くような声をあげた。手に汚れたシーツが握られている。

「オバルさん、このボロボロのシーツを見て、それに毛布も枕も、何もないわ」

 困惑した顔でシーツの汚れをはたく少女を見て、ギャロッポが「あの娘は」とオバルに目配せする。

「あとでゆっくり話してやる。それより暖房用のストーブと毛布が手に入らないか。こんな部屋では博士が凍りつく」

「分かった、調達してきてやる。あと必要なものは」

 オバルではなく、すかさず春香が思いついたものを早口で並べ立てた。

「替えの乾いた服と下着をぜひ、それから、お湯の沸かせる道具と……」

 渡りに船とばかりに、春香が指を折りながら幾つかの医薬品の名を口にした。

「物資の調達なら任せてくれ」

 ギャロッポは素早くリクエストされた物を復唱すると、部屋を駆け出していった。

 そのドタドタと歩く後ろ姿を見て春香は気づいた。歩く時に随分大きな足音がしていると思ったら、ギャロッポという男性の履いている靴が、通常では考えられない大靴なのだ。大男が大靴を履いていても可笑しくないが、どちらかというと小柄なギャロッポが大靴を履くと、何だかコメディーの役者に見えてしまう。細身のくせに、体の上と下、頭と足がやたら大きい。

「誰なんですか、あの人」

「ダーナの政敵、遷都派評議員の代表の息子さ。遷都派は裏で反対派を支援している。今回の事態が反対派の工作の結果ともなれば、当然責任を追及される。それが気になってるんだ。だから現場にいたハン博士に、その辺りの事情を聞きに来たんだろう」

話しながらオバルは、博士の濡れた服を脱がせた。体のあちこちに鉄床島の水牢で受けた赤黒い痣が刻印のように残されている。額は熱いのに、手足はぞっとするほど冷たい。

 オバルが壁の配管に目を向けた。温水暖房の配管だが、継ぎ目には分厚く氷が巻きついている。ボイラー室に火が入らない限り、部屋は凍りついたままだ。

「入口の横に小型のコンロと燃料の缶が積んであった。あれを取ってくる。茶器用のコンロだろうが、とにかく何か燃やして部屋を暖めなければ」

 言うなり、オバルは部屋を飛び出していった。

 オバルを待つ間、春香は博士の体を拭くことにした。

 乾いたタオルで濡れた体を拭き清めながら、博士の顔を覗き込む。

 この人がウィルタの父親なのだ。ウィルタはもう会ったのだろうか。自分の覚えている父と同じくらいの歳に見える。同じ研究者という仕事をしているからか、顔は違うのに、なぜか似ているという気がする。この人は、自分の父と違う時代を過ごして、何を考え、何をやろうとしていたのだろう。

 タオルを持つ手を止め、春香が自分の父親に想いを馳せていると、オバルが勢い込んで戻ってきた。コンロに併せて、白灯を三つ手にぶら下げている。

 小さな窓しかない暗い部屋に白灯を灯していく。一つは天井の金具に吊るし、一つは二段ベッドの手すり、最後の一つは部屋の隅の小卓の上に……。

 オバルが白灯の明かりを頼りにコンロのノズルを外す。そして目詰まりを掃除しながら、先ほどのギャロッポという男のことを話し始めた。

「いいやつなんだが、人の顔色を伺い過ぎる癖があってな」

「気が小さいんですか」

「父親に叱られて育った結果らしい。首が細くて頭がでかい。おまけに人に気を遣ってヘコヘコしているので、振り子のギャロッポって仇名がある。同じ評議員の兄貴のほうは、逆にふんぞり返るタイプなんだが」

 春香が穴の開いたシーツで博士の体を覆う横で、コンロに赤い炎が立ち上がった。

 側面のレバーを押して内圧を高めるにつれて、炎が青白く尖っていく。コンロの火が安定したのを見て、ようやくオバルは人心地ついたようで、自分の体を拭き始めた。春香も一息入れるようにコンロの炎に手をかざし、そして部屋の中を見まわす。

 建物の一番端の部屋、角部屋だからか、二方向に窓がある。窓といっても換気と明かり取りのための小さな窓で、いかにも寝るためだけの作業員宿舎といった造りだ。

 立ち上がると、二重の窓の外に海が広がっていた。ドゥルー海だ。低い雲が這うように海の上をこちらに向かってくる。一方、上空の雲は水平線に向かって逃げるように遠ざかっていく。窓に寄ると、建物のすぐ際に地盛りがしてあった。

 防風用の堤だ。セヌフォ高原の西端に突き出た台地沿いの海岸は、海からの強風が吹きつける大波の名所として知られ、それ故に波崙台地と名づけられた。今もその強風が吹き荒び、不気味な軋み音をたてる窓枠の向こう、夕刻の暗い海の上では、波間に浮かぶ氷と氷がぶつかり合って、激しい波飛沫を弾け飛ばしている。

 いったい何が起ころうとしているのだろう。

 気負い込んで飛行機に忍び込み、ヴァーリさんの警告を伝えに来たけれど、結局自分は何の役にも立てなかった。ダーナさんは、管制室の映像パネルに映った黒い炉を指して、お前の時代にこれがあったかと聞いた。あんなものは見たことがない。新しい計画や発明というものは、十年や二十年も前から、その青写真や未来図が夢を込めて語られるものだけど、夜空に照明を灯すなどという計画は聞いたこともない。

 わたしが飛行機事故で植物人間になって、その後冷凍睡眠の棺に入れられるまでの、ほんの二十年ほどの間に、人類はいったいどれだけの新しい発明をして、新しい技術や製品を生み出したのだろう。わたしなんかは、天の照明を作り出した人たちからすれば、木の枝を擦って火を起こす原始人と同じようなものなのだろうか。

 春香は機械油でねとつく髪を頭の後ろでまとめると、窓から視線を外した。

 博士の寝ているベッドを振り返る。

 ちょうどその時、ドタドタと足音が鳴って、三段重ねに箱を抱えたギャロッポがドアを開けて入ってきた。息を切らせながら、ギャロッポがドアに向かって罵声を浴びせる。

「まったく、一番奥の建物のさらにどん詰まりじゃ、配給所との往復が大変だぜ」

 上の箱を取り上げ、オバルが注釈を入れた。

「ダーナが気をきかせてくれたのさ」

「なんで」

「分かるだろ、これから二十万近い連中がここに到着する。そうなれば、ここは足の踏み場もない修羅場になる。病人にとっては、一番奥の部屋が安静を保てる一等地ということなのさ」

「なるほど修羅場か、それはそうだな」

 率直に頷くと、ギャロッポが思いついたようにそのことを口にした。

「ハン博士がここにいるということは、外に知れないようにしておいた方がいいな。今でも市民のなかには、博士のことを良く思っていない連中が山ほどいる」

 それはオバルも考えていたことだ。しかし、ダーナは到着の際、受付でハン博士の名前をしっかりと名簿に記入していた。気がかりなことではある。

 ギャロッポは箱を置くと、「水は自分で」と言って、トンボ返しに部屋を出ていった。

 ドタドタという足音を耳で見送りながら、オバルが箱の中身をベッドの上に空ける。大人用の衣類だけでなく、少女用の服や特大サイズの物も混じっている。どうやら春香やオバルの服も調達してきてくれたようだ。

 三つある箱の一つに、中型のストーブと、鍋、燃料、コップ、それに救急医療用のキットが入っていた。春香がキットの中身を確かめようと蓋を開けると、突然、ガンガンと天井を金鎚で叩くような音が部屋中に鳴り渡った。音がどんどん酷くなってくる。

 何がと思って、明かり取りの窓から外を見ると、雹がバラバラと地面で跳ねていた。拳大のものも混じっている。あんなものが頭に直撃したら、ケガどころでは済まない。

 天のスポットライトの外側でこの状態なのだ、氷床上にいるウィルタは大丈夫だろうか。

 表情に陰を差す春香の眼差しの先、窓の外では、荒れた洋上を、早送りの映像のように雲がこちらに向かって流れ込んでいた。


 翌、午前六時。

 時間の感覚が怪しくなりかけていた。

 光の照射圏外にあるとはいえ、避難所のある波崙台地も、強烈な光の照り返しで薄暮の明るさに照らし出されている。おまけに天候がめまぐるしく入れ替わる。真昼のような日差しかと思えば、雲で光が遮られると、一瞬にして夕暮れ時の薄暗さに変化する。そして光の照射圏内に向かって吹き込む突風が、建物の周囲に積んであった資材を、枯葉を飛ばすように舞い上げ運び去る。

 偵察機からの報告によると、天のスポットライトを取り囲むように、ドーナツ状に気温が上昇、午前二時の段階で、氷点下を上回った地域が、光の照射圏外にも現れ始めた。まもなくまた夜が明ける。そして天のスポットライトが、本物の太陽の日差しと重なると、それこそ猛烈な日差しがこの地を焼き焦がすほどに照りつけるだろう。

 ダイバル氷床を初めとした北方の氷床群は、一面に氷が浮いて湖水帯と化し、溢れた融水は集まっり濁流となって、氷床南縁の丘陵地帯の町を呑み込みながら、ドゥルー海へと雪崩れ込んでいる。

 ダーナはサイトを離れる際、サイトの岩窟内でタンク車両一台分の燃料を爆発させる手はずを整えてきた。その燃料がつい一時間前に爆発。一トン爆弾を投下したのと同等の衝撃が、炉に何らかの影響を及ぼしたはずである。しかし偵察に向った飛行機が見たのは、水没したまま湖の中から空に向かって光の柱を放射し続ける、サイトの姿だった。

 霜都ダリアファルは、この時点で完全に奔流に呑まれた。

 一刻も早く炉を破壊するよう、連邦議会並びにユルツ国評議会は決定を下し、警邏隊内部にそのためのチームが組まれた。しかしながら、多量の燃料の爆発でも炉の稼動を停止させることはできなかった。もう一度爆破を試みるにしても、サイト周辺はとても飛行機が飛べる状態ではない。偵察に向かった飛行機も、あわや墜落という場面に遭遇している。氷床の氷が猛烈な早さで融解していることから、陸路サイトに接近することは更に難しく、仮にサイトに到達する手段が確保できたとしても、放射線が人を寄せ付けないレベルに高まっているのは間違いない。サイトはすでに人を寄せ付けることのない、不可侵の領域に変わっていた。

 残された方法として考えられるのは、バドゥーナ国に譲渡した古代兵器である。あの兵器なら、離れた地点からでも、炉を打ち抜ける可能性がある。しかしその量子砲を戦争中のバドゥーナ国からどうやって返還してもらうか。バドゥーナ国との通信は、光のスポットライトが出現して以降、不通になったままだ。それにやはりこの天候、量子砲を照準の域内に搬送設置すること自体が困難だろう。

 天のスポットライトを消す手段に関しては、今のところ全くお手上げの状態だった。

 当面は、天の照明を消すことよりも、波崙台地に避難してくる市民への対応が急がれた。

 あと十時間もすれば、濁流と嵐が渦巻く混沌としたなかを、命からがら雪と氷と雨と泥に塗れながら、二十万人近い人々が避難してくる。気温が上昇しているとはいえ、波崙台地の遷都先には、障害物のない海から氷点下の凍風が吹きつけている。迅速に対応しないと、歩きづくめで疲労困憊した人々が凍死する恐れがある。それにユルツ国だけでなく連邦内の周辺地域からも、ここの施設を頼って人々がやって来る。その受け入れの準備もしなければならなかった。

 波崙台地の高台から北方を見渡すと、雲の切れ間を通して都に至る丘陵地帯が遠望できる。しかしそこはすでに、一面の濁流と泥寧と烈風の渦巻く、混沌とした世界に変貌していた。


 十二月十六日、深夜零時。

 天のスポットライトが灯ってから四十九時間。退避勧告発令から、三十一時間が経過。波崙台地の避難所には、夕刻から到着を始めた馬車の人たちに続いて、徒歩の人々も姿を見せるようになった。

 避難民は都の住所別に棟を割り振られた。今のところ、どの宿泊棟も、まだ五分の一程の埋まり具合である。しかし宿泊棟と倉庫だけで全ての都の住人を収容するのは不可能。風避けの石積みと、簡易テントの設営が人海戦術で始められた。

 凍風は相変わらずだが、宿泊棟では本格的にボイラーが始動、配管に温水が通じて、建物の中にさえいれば凍える状態は回避できるようになった。

 その宿泊棟の一番奥、第二十八棟のさらに一番奥の部屋で、春香はベッドの脇に吊るした点滴のバッグを付け替えながら、ハン博士の様子を見守っていた。オバルは隣のベッドで仮眠を取っている。つい先ほどまで、地下水を汲み上げるポンプの整備に狩り出されていたのだ。

 会議を終えたダーナが部屋に入って来た。仮面の残り半分の顔を見ると、目の下にくまができ、唇は白くガサガサに荒れている。

 疲れた表情のダーナが、オバルの足がはみ出たベッドの縁に腰を落とすと聞いた。

「博士の具合はどうだ」

 春香が首を振る。

「意識はまだ。さっきお医者さんが診て、点滴と利尿剤を処方してくれたんですけど」

 ベッド脇の小卓に置かれた紙片に、数値がメモしてある。体温や呼吸数など、バイタルサインの記録で、それは博士の体全体の機能が低下していることを示している。

 眉を曇らせたダーナに、春香が尋ねた。

「ダーナさん、さっきお医者さんが、ぺコール、ぺコールって言っていたんだけど、ぺコールってなんですか」

 首を傾げる春香にダーナが、「元は都で売られていた飲料の名だが」と、声を落とした。

 ぺコールとは、古代に流行していた濃い赤褐色の飲料を復元した飲み物で、習慣性があることから、今では古代の飲食物にかぶれた者を指す言葉として使われる。ただし、医療の世界では尿や薬液の色を示す用語。つまりこの場合は、ハン博士の尿がぺコール色をしていたということだ。昨年祖父を腎不全で亡くしているダーナにとって、そのペコール色の尿は記憶に新しく、博士の体が危ない状態にあるという重い事実を突きつける言葉でもあった。博士が意識を取り戻せば、炉を停止させる方法の相談に乗ってもらおうと、ダーナは考えていたのだが……。

 話し声で目が覚めたのか、オバルが体を起こした。そして足元のダーナに気づき、「そっちはどうだ、何か決まったのか」と声をかけた。

 重苦しい気分を振り払うように首を回すと、ダーナが言った。

「続々と避難民が到着している。それへの対応で、受付と救護センターは混乱の極みだ。もちろん政府もだが。抜本的な問題の解決には、やはり炉の活動を停止させるしかないが、それに関しては今の所、なすすべ無しの状態だ」

 ダーナは立ち上がると、眠っているハン博士の額に手を伸ばした。

 ヒヤリとした肌。無言でダーナが手を引く。

 その表情を固くしたダーナに冷めた苔茶を渡して、オバルが聞く。

「六茫星の燭甲熱の収容施設に関して、何か情報は入ってないか」

 隔離施設にいた患者とスタッフ合わせて二十七名の行方が、分からなくなっていた。サイトの撤収が始まる少し前、警邏隊六茫星駐屯地には、隔離施設のスタッフと患者全員を収監して、貴霜山麓の施設分室に搬送するようにとの命令が下されている。ところが六茫星駐屯地の隊員が、二キロほど離れた所にある隔離施設に出向いた時には、すでに施設に人の姿はなかった。本当に隊員が施設まで足を運んだかどうか疑問も残るが、どちらにせよ二十七名の行方が不明になっていた。

 霜都並びにユルツ国北部住民合わせて二十万を超える人たちの避難で、政府諸機関を始め警邏隊も指揮系統までがズタズタの状態にある。とても都から遠く離れた隔離施設の状況の把握まで、手が回らない状態だった。

 心痛を目に滲ませたオバルに、ダーナが首を振った。

「すでに六茫星駐屯地の隊員たちは、全員がこちらの施設に引き揚げている。収容施設の二十七名は、自力で彼の地を抜け出すしかない。だが上手く氷床を脱出できたとして、この遷都先の波崙台地に到達するには、よほどの運がなければ無理だろう。氷床と波崙台地の間には、何本も濁流が流れている。都から脱出するのが遅れた人たちのかなりが、突然出現した濁流に呑まれたり、途中の岩山に取り残されたりしている。今、そういう連中をどう救出するかで、頭を悩ませているところだ。しかし妙案はない」

 自分の話が悲観的に過ぎると思ったのだろう、ダーナが「上手く氷床を抜け出しさえすれば、三日以内には姿を見せるだろう」と、訂正するように付け加えた。

 話を聞いたオバルはポットを小卓に戻した。ダーナの言う三日という数字が、絶望と同義に聞こえたのだ。この天候のなか、雨に打たれ、凍風と強烈な日差しになぶられながら、氷原からこの高台まで辿りつくのが、どれだけ困難なことか。

 オバルとしては、隔離施設に収監されていた妹の行方が、どうにも気がかりなのだ。

「そうか」と小さく答えると、オバルは話題を変えるように聞いた。

「それよりダーナ、ここの施設で避難民を全て収容できるのか。外を覗いたら、避難民の中には、ユルツ国以外の住民もかなり混じっている」

「考え始めたら切りがない。ドゥルー海を横断して大陸南部の平原にでも行けるなら別だが、この周辺で嵐と濁流から身を守れそうなところは幾つもない。それに道義的にも、避難してきた連中は全て受け入れるしかあるまい」

 ダーナがコップの中に残る茶を見つめながら、今後の見通しを説明する。

「避難民の到着は、今日の夕刻がピークだろう。仮設のテントを含めても、ここの施設でユルツ国の住人全てを収容するのは難しい。だが問題はスペースよりも食料だ。ユルツ国の二十一万人、それに周辺地域からの民も合わせて二十五万に近い人々に食料を配給するとなると、備蓄されていた量では、せいぜいもって一週間。なんせ一気に都の半分が濁流に流されたというから、備蓄してある食料も都に残したままだ。さっき警邏隊の一隊が、都西部の高台の施設に保存されている食料を回収しに行ったが、いったいどれだけの物が流されずに残っているやら」

「連邦外の国に救援は?」

「今やってる」と、今度は後ろから答えが返ってきた。

 ドアが開いて、小袋を手にしたギャロッポが入ってきた。ギャロッポは後ろ手に戸を閉めると、持参の袋を皆に差し出した。中に焼き餅が入っている。何のタレもつけていない素焼きの餅だが、温もりの残る餅が香ばしい匂いを漂わせている。

 配給だと言ってその餅を三人に配りながら、ギャロッポが話に割り込んできた。

「衛星通信が兇電で役に立たない、だから九機ある飛行機のうちの一機を使って、周辺の国々と連絡を取っている。まあ警邏隊が道楽でやっていた飛行機の復元が、役に立っている訳だ。報告によると、スポットライト周辺の地域は、どこも似たような状況らしい。人口の少ない国は小回りがきくからまだしも、西の氷床に挟まれたランドール国では、猛烈な洪水と嵐で、かなりの行方不明者が出ているらしい。とてもこちらが救援を頼める状況ではない。それよりも、今回の事態が収まったとして、周辺の国々からは膨大な補償を要求される。そちらの方が心配だな」

「それはこのユルツ国が残っていればの話だろう」

 オバルの皮肉めかした言葉に、「まあ、そうだが」と、ギャロッポが肩を聳やかした。

 ただそれはポーズだけで、すぐに口元を緩めると、「今度のことで、遷都派にも仕事が回ってきた、今度はこちらの時代だ」と、嬉しそうに言って、口の中に噛りかけの餅を押し込んだ。そしてオバルから渡された苔茶を飲み干すと、「後でまた来る」と言い残し、そそくさと部屋を出ていった。大靴の足音が乱れているのは、廊下に横になっている避難民の人たちを避けながら歩いているからだろう。

 ギャロッポの出ていった戸口を、春香があっけに取られたように見ていた。衣類を届けにきてくれた時の憂鬱な顔が、様変わりしたように明るい表情に変わっていたのだ。

 ダーナが春香に耳打ちした。

「第二次ファロス計画の推進派は遷都の反対派で、計画反対派は遷都の賛成派という色分けがある。サイト復興の反対派で、かつ遷都派の連中は、前回の計画の準備段階から含めて、十五年近く冷や水を飲まされてきた。だから内心では、今回の惨事が嬉しいんだ。推進派に代わって自分たちの時代が到来したと思っている。その手始めに、推進派の代表を吊るし上げようと、てぐすねを引いているのさ」

「攻守、入れ替わりという訳か」

 前回の惨事でも激しい尋問と吊るし上げにあったオバルが、現実に引き戻されたように口元をゆがめた。

「それより」と、ダーナが胸のポケットから一枚の紙切れを取り出した。

「頼み事がある。この計算をやっておいてくれないか、少し気になることがあってな」

 紙を受け取ったオバルが、メモ書きに目を走らせて表情を変えた。

 オバルの問い質しげな目には答えず、ダーナは春香の頭を軽く撫でると、「博士のことをよろしく頼む」と言って部屋を出ていった。


 十七日未明から、遷都先の波崙台地は猛烈な嵐となった。

 その吹きしぶる雨を縫うようにして避難民は途切れることなく到着している。都を襲った突発的な洪水のために、ほとんどの人は、荷物を持ち出す間もなく、着のみ着きのままの姿で、ずぶ濡れになって百キロ余りの道程を強行軍で歩いてきた疲労が、足がもつれ、倒れこみそうな姿勢に現れている。到着した人たちは、管理棟で支給品の衣類と毛布を受け取ると、後から入ってくる人たちに押されるようにして、割り当てられた宿泊棟や倉庫、あるいはテントへと散って行く。

 その避難民に混じって、大きな荷を抱えた二人連れが到着した。ダフトホとバニアだ。ダフトホは両腕に年配の男女を抱え、バニアは男の子を乗せた背負い子を担いでいる。

 全身を引きずるようにして、二人は混雑する受付に入ってきた。

 さすがにダフトホも疲れたと見え、肩で息を付きながら、体の両側に抱えた年寄り夫妻を床に下した。横ではバニアが、ウィルタを縛りつけた背負い子ごと、体を柱に預ける。

 ダフトホは息を整えると、良くやったなとばかりにバニアの手を握りしめた。そしてここで待つようにと言って、係の人と交渉するために、人ごみを割って入った。

 バニアは最後の力を振り絞るように背負い子を床に下ろすと、ガックリと膝を折って、その場にへたりこんだ。それでも目だけはギラギラと輝いていた。

 宿泊棟と宿泊棟を結ぶ吹き抜けの連結通路には、人が折り重なるように倒れている。その中には、何とか遷都先まで辿り着いたものの、精根尽き果て息を引き取った人も混じっている。救護スタッフは、病人や負傷者の世話に忙殺され、亡くなった人にまで手が回らない。遺体は通路に運び出すのが精一杯で、積み上げられた遺体が海からの強風に乗って吹きつける雨に曝されている。

 生きた人は、ボロ布の塊になっても白い呼気を吐いている。心臓という小さなエンジンを動かしている。それが、死体は静かに雨に打たれているだけだ。

 その様子を見ているうちに、バニアの中に、今まで感じていなかった震えが湧き上がってきた。南からの凍風に体が冷えてきたということもある。が、生き延びることに必死で忘れていた氷上での光景が、脳裏に蘇っていた。

 もう、丸一日以上も前のこと。

 ロズネたち七名のグループは、機上からのダーナの指摘で、何とか目の前の巨大なクレバスを迂回することに成功した。ただその後もクレバスは断続的に現れ、まずはスタッフの一人、ペコールが足を滑らせクレバスに吸い込まれた。鷲鼻の男は増水したプールで水に流され姿を消した。気温が三十度を越え、雨もそれほど冷たくない。それでも氷上に溜まった融水は凍てつくような冷水で、深いところでは腰まで浸かりながらの行軍になる。体が冷え、体力と気力と、生きるための運を奪われた者が、ちょっとした深みや流れで足を滑らせるたびに、集団から剥がされるように消えていく。ピーナッツ目の男も、いつの間にか姿が見えなくなった。

 ウィルタを背負っていたバニアは、大人たちから離されないように気をつけていたが、どしゃぶりの叩きつける雨のなか、突然現れた氷の割れ目で列から引き離され、おまけに嵩を増してくる融水に、水の中の浅瀬に取り残されてしまった。

 自分を取り巻く冷水の下には、氷の割れた深みが走っている。うかつに動くことはできない。しかし膝の上まで水に浸かった状態では、いずれ体が凍えて、動こうにも動けなくなる。悪いことには足元の氷が揺らぎだした。自分の乗っている氷が、割れて浮き氷になったらしい。雨で濡れるくらいは我慢できる。足から体が冷えてくることもだ。けれども全身が氷水に投げ出されては、とても持ちこたえることはできない。そうでなくても下半身はすでに痺れて感覚が無くなっているのだ。

 そこにまた強風が波をけたてて荒び始めた。

 揺らぐ足元に気を取られていたバニアは、風に煽られてバランスを崩し、冷水に倒れ込んだ。全身が水に浸かって思わず水を呑む。必死に起き上がろうとするが、足元の氷が揺れているので、すぐにまた倒れて顔面から水に突っ込んでしまう。

 水に浸かったことも、もちろん泳いだこともないバニアは、幼児が浅い水たまりでも溺れるようにパニックに陥っていた。何度か水を呑み、むせ返って……、そして気を失いかけた時、バニアは自分の腕が引き上げられるのを感じた。

 そのまま意識が遠のき、気がついた時には、バニアは氷の上を漂う白い板切れの上に、ウィルタと共に寝かされていた。

 板切れには、行軍の途中で別れたダフトホたち四人が乗っていた。筆ひげの男性の説明で、自分の乗っている物が、ちぎれた飛行機の翼の一部であることを知る。上空の乱気流で墜落した飛行機の残骸だろうという。

 話を聞くと、ダフトホたちは、岩場で救助を待つつもりにしていたが、小さな岩場は融け出す水によって、すぐに冷水の中の孤島になってしまった。身を隠す場所もない岩の小島に、容赦なく雨と風が打ちつける。このままでは、救助されるまでに、体力のない年配の二人はまいってしまう。何か良い手はないかと思っている時に、飛行機の残骸らしきものが水の上を漂いながら流れてきた。

 迷ったが、それしか方法がなかった。

 漂う翼に乗り移り、岩場から脱出することにしたのだ。

 辺り一面、浅い湖と化した氷床の上を、翼に乗って雨や風を避けることのできる場所を探して移動する。翼の一部を剥がして櫂代わり、水の浮いた氷原の上を漕ぎ進むが、翼はなかなかこちらの気望どおりには進んでくれない。風が吹けば、あらぬ方向に流されるし、ひたすら円を描いて回り続けることもある。

 半日以上さまようように冷水の上を漂ったあと、融水の流れに乗ったのか、翼が一気に動きだした。最初はそれを喜んでいたが、流れはどんどん速くなり、やがて丘陵地帯をドゥルー海に向けて駆け下る奔流に乗り入れてしまう。

 揉まれるようにして濁流を下る。その際に足を怪我していた筆ひげの男性が振り落とされた。痛みで踏ん張りきれなかったのだ。

 あとはもう誰もが、自分が流れに呑まれないよう、翼にしがみついているので精一杯だった。とても翼を岸に寄せる余裕などなかった。

 必死で耐えること数時間、翼は都のあった場所からかなり下ったところで岸に流れついた。それが遷都先の波崙台地から三十キロほど北の地点、天のスポットライトからちょうど抜け出た辺りだ。結局、流されたのは筆ひげの男性だけで、翼の上には巻毛の老夫婦と、ダフトホとウィルタとバニアの五人が残っていた。

 見上げると、丘の斜面に波崙台地を目指す人たちが列をなしている。

 ダフトホが疲労の激しい巻毛の老夫婦を両腕で抱え、バニアが背負い子にウィルタを乗せて、遷都先に避難する人たちに合流する。

 バニアは前を行くダフトホの足元を見ながら、ひたすら足を動かした。考える余裕などなかった。ただ必死で足を持ち上げては前に運ぶ。こんなことで負けてたまるかという、意地のようなものだけで歩いた。十年前の惨事の時は、全ては一瞬の出来事だった。何が起きたのか分からないまま、恐いと思う暇もなく全身に火傷を負った。ところが今回は違う。死があちこちから手を伸ばして自分の背中を掴もうとしている、そんな恐怖があった。

 ボロ布のようになりながら、避難先に辿り着く。

 バニアは思う。泥まみれになりながらでも、自分は生き永らえた。不思議なものだ。誰かが自分を生かそうとしているのだろうか。

 肩を抱え、震えながら、氷上でのことを思い出していたバニアに、「どうした、寒いだか」と声が掛かる。毛布を抱えたダフトホが目の前に立っていた。

「おまえの親父さんは、サイトを脱出、いま宿泊棟の六号棟にいるそうだ」

 それを聞いて、バニアが小さく首を縦に振った。

 ダフトホは、少女の目にまだ輝きがあるのを見て取ると、励ますように肩を揺さぶった。

「体力が残っているか、なら受付で配給品の服を一式もらって、その男の子を二十八号棟の四十号室に運ぶだ」

 言われてバニアは、気を失ったまま横になっているウィルタに目を向けた。

「年寄りの二人は俺が運ぶ。俺はもう回復した。俺は山人の出で、理屈の世界は分からねえ。だが生きる上で大切なのは、強え体と、強い心だ。おまえには、それがある。その男の子を運んで余力があるなら、ここに戻ってこい。ここにいれば仕事がある。人助けのな」

 言ってダフトホが豪快に笑い上げた。つられてバニアもニッと笑う。惨事の後遺症の痩せた細い歯が口元から覗いた。

 ダフトホは老夫婦を一まとめにして担ぎ上げると、配給所の受付に向かった。後ろにウィルタを背負ったバニアが続く。連結通路の間を抜ける横殴りの雨粒が、まともに顔にぶつかる。突然荒び始めた雨に抗うように配給所に入る。どうせずぶ濡れなのだ、自分の服など後で貰えばいい。

 バニアは受付でウィルタの服とタオルを受け取ると、背負子のウィルタと共に宿泊棟に向かった。疲れで目が霞み、体がよろける。

 それでもバニアは何となく浮き浮きした気分になっていた。自分は生かされていると感じるのだ。生かし生かされる、その輪の中に自分がいる。

 一番端の宿泊棟の入口を潜る。入ってすぐのホールは、座り込んだ人たちで溢れていた。

 その人たちを避けながら、言われた一番奥の部屋へ。

 机に向かっていたオバルが、ドアを開けたずぶ濡れの少女に気づいて顔を上げた。

「何か用、この部屋は病人がいるから……」

 そう言いかけて、オバルは直ぐにその少女が誰であるか気づいた。反対派の広告塔に利用されていたバニアのことは、オバルもよく知るところだ。

「君は、ジャブハさんの娘さんじゃないか」

 バニアもオバルのことは知っている。無言で部屋の中に入ると、クルリと後ろを向いた。

 背負い子の上に、首をうな垂れた少年がいる。

「ウィルタ、ウィルタか!」

 オバルはバニアの元に駆け寄ると、背負い子の上のウィルタを抱き下ろした。背中を押さえ付けていた重石のような少年がいなくなったことで、バニアはフーッと大きく息を吐いた。そして縮こまった背を伸ばすと、ウィルタを抱えたオバルに伝えた。

「その子、気を失ってるけど、命に別状はないと思う」

「そうか、飛行機の上から見た反対派の一行が到着したんだな」

 言ってオバルが、意識のないウィルタをベッドに寝かせる。そしてウィルタの上に毛布を広げようとした時、外に出ていた春香が戻ってきた。手拭いを手にした春香が、ベッドに目を向けるなり「ウィルターっ!」と叫んだ。

 洗ったばかりの手拭いが床に落ちるのも構わずベッドに駆け寄ると、春香はウィルタの顔に両手を伸ばした。ウィルタは目を閉じている。

「大丈夫、気を失っているだけだ」

 そのオバルの声など耳に入らないようで、春香はウィルタの手を握りしめると、一心に顔を覗き込む。ウィルタの姿を見るのは、盤都の迎賓館から逃げだし、車ごと川に転落して以来だ。実際には一カ月余りしか経っていないが、何年かぶりの邂逅のように思える。

 食い入るような春香の眼差しに、オバルが苦笑いした。

「博士の横に寝かせようか。気がついた時にびっくりするぜ」

 半分冗談で言ってから、オバルはバニアのことを思い出し、春香の腕を引いた。

「そうだ、春香に紹介しておくよ。こちらが今回の計画の中心人物の一人、ジャブハ部長の娘さんのバニアだ。彼女も人質になっていて、やっといま氷床を抜け出し、ここに辿りついたところだ」

 顔を上げた春香が挨拶しようと立ち上がると、「挨拶はいい、急いでるから」とぶっきらぼうに答えて、バニアが抱えていた衣類を春香に押しつけた。

「これが着替え。その子、酷い頭痛と発熱に襲われて倒れたの」

 一方的に言うと、バニアはクルリと背を向け、後ろを見ずに部屋を出た。

 ぐったりと横たわる人たちの間を擦り抜けながら、バニアは唇を噛みしめた。

 それに、急に濡れた自分の服が気になり始めた。体も冷えてきた。

 バニアは思う。男の子だけなら良かったのに。別にあの男の子がハン博士の息子かどうかなんて、そんなことはどうでもよかった。でも部屋の中に入ってきた女の子を見て、たくし上げた腕の綺麗なしみ一つない肌が目に入るや、それ以上あの部屋にいる気力が失せた。別にそんなことは気にしなくてもと、人は言うだろう。しかしそれは傷のない顔をした、きれいな腕の、きれいな肌を持った連中だから言えることだ。

 なぜか無性に腹が立つ。ダフトホの言葉で少し元気が出てきたところだったから、余計に腹が立つのかもしれない。世の中に対しても、自分に対しても。

 吹き返しの生暖かい風が、サイトの方角から吹きつけてくる。

 バニアは上着を脱いで、思い切り腕をたくし上げた。立てていた衿も下ろす。その格好で受付の配給係の前に立ち、服のサイズを記入した申し込み用紙を差し出す。受付の係員は、サイズと共に、念のためにその人物の体形や体格も確認する。身長が低くても極端に太っている人などもいるからだ。

 配給係の女性は、事務的に顔を上げるや、バニアを見て慌てて視線を手元に戻した。大きく開いた胸元にも、剥き出しの腕にも、そして顔面から首筋にかけても、溶けて引きつったような皮膚が露わになっていた。係の女性はバニアの体から視線を逸らせたまま、配給の衣服が置いてある後ろの部屋に飛び込んだ。

 係の者が小声でやり取りをする様子が、奥から漏れ伝わってくる。バニアにとってはもう慣れっこになったこと、この十年ずっと繰り返されてきたことだ。

 数分後、係の女性が、指先まで隠れそうなダボダボのセーターを抱えて戻ってきた。ご丁寧にショールと首元に巻くスカーフまでつけてある。

 何か言ってやろうと身構えていたバニアは、何だかバカバカしくなって、無言でそれを受け取ると、プイと大股で受付を離れた。こんなことで苛々している自分に腹が立つ。

 その何もかも蹴飛ばしてやりたい気持ちで配給所を出たところで、人とぶつかった。

 尻餅を着いた自分の目の前に手が差し出される。

 反射的に、バニアはその手を払い退けていた。

 ところが、払ったはずの柔らかい手が、バニアの腕を掴んでヒョイと体を引き上げる。普段ならそんなことはないのだが、無性に腹が立っていたバニアは、その差し伸べられた手の人物を思い切り睨み付けた。

 そして息を呑む。仮面の顔がすぐ目の前にあったのだ。

「慌てるとケガをするぞ」

 仮面の顔が優しく声を掛けてきた。

 一瞬目を伏せ、言葉を探すようにしていたバニアは、キッと顔を上げると、仮面の女性に向かって叫ぶように言葉を投げつけた。

「どうして、仮面をつけるのよ、どうして」

 とっさに視線を上に向けたダーナが、笑みを浮かべてバニアを見返す。

「そうだな、素顔は一番大切な人のために取ってある、それでいいかな」

 納得できない顔でダーナを見上げると、バニアはダーナの手を振り切り通路を走り去った。後ろで係の者が済まなさそうな顔をしているのを見て、ダーナが肩を竦めた。バニアと係のやり取りの一部始終を、ダーナは見ていたのだ。

「同情されるとよけい傷つく、あれは自分で乗り越えるしかないことなんだ」

 ダーナはサイズを書いた紙を係の女性に手渡すと、あっけらかんとした声で言った。

「私にも服をくれ、こんな湿気の多い環境で、冬用の毛の下着なんか着られたもんじゃない。夏用のを頼む、よく乾いたものなら何でもいいぞ」

 恐縮している係の前で、ダーナは声を上げて笑った。



次話「計算」

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