撤収
撤収
アイスバイクで羊背山を後にした人質と反対派のスタッフ一行は、また徒歩での行軍に戻っていた。この一時間ほどの間に、アイスバイクが次々と強風による転倒や、融水のプールに突っ込んだりして故障。動かなくなってしまったのだ。
そして昼も大きく回った午後四時、一行は、氷床上にひび割れの走る一帯に足を踏み入れた。単なるひびから、氷が口を開けてクレバス状になっているもの、割れた氷同士がぶつかり合って迫り上がっているものまで様々である。
その氷の割れ目に、氷床上に浮いた水が吸い込まれるように流れ込んでいた。
氷の割れ目を避けて進むが、避けても避けても割れ目が現れる。
問題は風で、気をつけていないと突然突風が吹きすさび、吹き倒されそうになる。
太陽を二つ合わせた暑さである。猛烈に熱せられた大気が上空に吹き上がり、そこに周辺から凍てついた冷気が怒涛の勢いで押し寄せてくる。
突風が吹くと、水の浮いた氷の上は、寄り代がないために、あっという間に体を運ばれてしまう。体を低くして両手両足を踏ん張り、強風が過ぎるのを待つしかないが、その屈んで耐えるずぶ濡れの人間を、強風の跳ね上げた水飛沫が容赦なく打ちすえる。
銀黒髪の婦人が風に押されて氷上を滑り、クレバスの縁まで流された。筋力の弱い女性の方が、踏ん張りが効かない。
行く手を塞ぐクレバスを迂回している時、今までにない猛烈な突風が吹きすさんだ。全員が糸を引くように氷の上を流される。とても人のことを構っている余裕などない。
突風が止んだ時、氷上には、流された人たちが点々と黒い塊となって散らばっていた。
クレバスの向こう側で、外れた眼鏡を探しているのはペコール。その手前で氷の突起にしがみつき、中腰のまま周囲を見渡しているのはロズネだ。
そのロズネの目が、クレバスの縁に鷲鼻の姿を捉えた。鷲鼻は二本の腕を伸ばして、クレバスの中に滑り落ちるのを必死に堪えていた。駆け寄りクレバスから引き上げる。
鷲鼻の腕を掴んだロズネに「誰か……」という、助けを求める声。前方の割れ目に、ナイフを握り締めた小さな手が見えた。
走り寄りクレバスの中を覗きこむ。ウィルタだ。奈落の底に落ちる寸前、クレバスの縁にナイフを突き立てたのだろう、右手一本でナイフにしがみ付いている。おまけにウィルタの下、伸ばした左腕には、バニアがしがみ付き、バニアの腰には巻毛の老夫までが……、
バニアが悲壮な顔で「早く!」と叫ぶ。
「大丈夫だ!」と声をかけざま、ロズネがウィルタの手を掴んだ。
とその瞬間、ウィルタの手が滑ってナイフから離れた。あっと思った直後、ウィルタの右腕は、節くれだったダフトホの大きな手で握り締められていた。
ロズネにダフトホ、遅れて手を差し伸べてきたペコールによって、ウィルタたち三人は、ゴボウ抜きに氷の上に引き上げられた。ロズネたちは放心状態のウィルタたちをその場に残し、ほかのメンバーを探しに氷床上に散った。
腰が抜けたように座り込んでしまった巻毛の老夫に、相方の老婦がよろけながら抱きつき、声にならない声を吐く。
その横では、バニアた呆然とした表情で氷の割れ目を見ている。
突風の後の吹き返しのような生暖かい風が肌を撫でるなか、ウィルタはナイフを手にしていた右腕を、反対の左手で押さえていた。筋肉が痙攣でもするようにブルブルと震えて止まらない。
百メートルほど先では、割れ目の底に向かって、ロズネとダフトホが何度も名前を呼んでいる。どうやら、羊背山で合流した仲間が、クレバスに落ちたらしい。
その連呼される声を背に、巻毛の老夫が連れ合いの老婦と並んでウィルタに這い寄り、ウィルタの手を拝むように握り締める。そのしわの寄った手を握り返しながら、ウィルタは奇妙な感覚が手の中に残っているのを感じていた。
自分の手首を掴んだと思ったロズネの手が、一瞬力を緩めたような感触があったのだ。
あれはなんだったのだろう……。
ウィルタはぼんやりと、ロズネが掴んだはずの自分の手首を見やった。
結局、割れ目に落ちたスタッフの男性は見つからなかった。クレバスに呑まれたのだ。
筆ひげの男も、膝を痛めたらしく足を引きずっている。
集まった一行にロズネが提案した。
水が浮き、クレバスが縦横に走る氷床を行軍するのは難しい。そこで一行を二手に分ける。老夫婦と怪我をした筆ひげの三人は、ダフトホと一緒に、前回休憩を取った岩場に戻り、残りの七名がこのまま行軍を続け、都に到着次第、岩場に戻ったメンバーに救助隊を寄越すのでどうかと。特に異論は出なかった。老夫婦が限界に来ているのは誰の目にも明らかだし、筆ひげも足を引きずらなければ歩けない自身の状態を見て、とても行軍を続けることは無理と観念したのか、残ることを受け入れた。
ウィルタはダフトホと一緒にいたかったが、「元気のある者は少しでも先に進もう」とロズネに背中を叩かれ、仕方なく頷いた。
一行は二手に分かれた。
巻毛の老婦が、娘の写真の入ったロケットを頭上にかざし、ウィルタに手を振ってくれる。岩場に戻る四人と、先に進む七名を分かつように、大粒の雨が足元を叩き、やがて双方の姿を吹きしぶる雨の中に包み隠していった。
七名が都を目指して歩く。先頭はロズネとバニア、しんがりがウィルタとペコールである。ところが一時間ほど歩くと、一行は行く手を巨大な氷の割れ目に阻まれてしまった。割れ目は一本だけではない。入り組んだ割れ目が右に左に迷走するように走っている。悪いことは重なる。割れ目の迷路をどう乗り越えようかと逡巡するうちに、新しい割れ目が後方に口を開け、退路を絶たれてしまったのだ。
双眼鏡で確認すると、目の前の割れ目さえ越えてしまえば、前方に大きな割れ目はない。
だが、どこをどう抜ければ、檻のような割れ目の迷路を抜けられるのか。足踏みをするうちにも、氷にひびの入る嫌な音が、こちらと思えば、あちらでも鳴り響く。
おまけに、目の前のクレバスが口を広げ始めた。もうどう勢いを付けて走っても、飛び越えられる幅ではない。迂回するためには、割れ目に沿って右か左、どちらかに進まなければならないのが、どう目を凝らしても、割れ目は右にも左にも続いている。それにもし割れ目が途切れる場所があったとして、そこに向かって進んでいる間に、新しい割れ目ができる可能性もある。
鷲鼻がロズネを急かした。
「リーダー、早く出発しないと閉じ込められるぞ!」
「分ってる!」
言い返しながらも、ロズネは双眼鏡を目に押し当てたまま動こうとしない。
そうする間にも、眼前のクレバスに新たなひびが生じ、側面の氷が剥がれるようにクレバスの中に崩れ落ちていく。待ち切れないとばかりに、鷲鼻が右に向かって歩きだした。追従するようにピーナッツ目も立ち上がる。それでもロズネは動こうとしない。
呆れたペコールが、決断を促そうとロズネの肩を揺さぶった時、一人ポツンと離れて立っていたウィルタが、「そっちじゃ駄目だ」と、逆の方向を腕で示した。
一瞬立ち止まった鷲鼻とピーナッツ目だが、すぐに無視して歩きだす。
その二人にウィルタが請うように呼びかけた。
「そっちは、クレバスが右に曲がって行く手を塞いでしまう。行くんなら左、今なら一キロほど先で割れ目が閉じてる」
鷲鼻が怒りの形相で振り返った。
「ふざけるな、どうしてそんなことが分かる」
額を押さえつつウィルタが「本当にそうなんだから」と、すがるように叫んだ。
「ふん、悪たれ小僧に構ってられるか、行こう」
ウィルタを無視して鷲鼻が歩き始めると、迷っていたロズネも決心が付いたのだろう、「小僧行くぞ、死にたくなかったら付いてこい」と呼びかけ、荷物を担いで歩きだした。
心配そうに見ていた銀黒髪の婦人も、ウィルタの方を振り返りつつ、ロズネに続く。
ところが歩き出した皆に反し、ウィルタは完全に膝を着いて、うずくまってしまった。
ロズネが腹立たしげに後にいたバニアに首をしゃくった。
「おまえ、行ってあいつを引っ張ってこい、さっき助けて貰っただろう」
フンと鼻を鳴らすと、バニアが背中を押すロズネの手を打ち払った。
「何よ、捨てていけばいいって、いま言ったばかりじゃない」
「見殺しにする訳にはいかないだろう」
「よく言うわよ、クレバスに落ちて死ねばいいと思ってたくせに」
そう言い捨てると、バニアは不貞腐れたように後方に走って行った。そしてウィルタの側に近寄ると、手を突き出し、いらつく声をぶつけた。
「まったく……、さっさと立てよ」
ところが、ウィルタは両手で頭を抱え込んで動かない。
舌打ちすると、バニアは面倒そうにウィルタの腕に手を伸ばした。
そのバニアの手を掠めるように、ウィルタが横倒しに倒れた。そして倒れたウィルタの額から手拭いが外れ、赤く光る目が……。
魅入られたようにウィルタの左目を見つめるバニアの頭上に、飛行機の爆音が近づいてきた。
ウィルタたちの一行が、巨大なクレバスで立ち往生する少し前のこと。
ユルツ国政府は、夕刻の五時を待って天の照明が消えない場合は、南部波崙台地の遷都予定地に避難するよう、全市民に避難勧告を発令した。
三時の段階で、氷床から流れ出る水で霜都の北部一帯が冠水、エディウェラ川沿いの住宅が濁流に洗われ始めた。今のところ、市民の大半は都周辺の丘陵地に避難して成り行きを見守っているが、この様子では光が消えたとしても、すぐに元の生活に戻ることはできない。そのことを見越して、丘陵地から遷都先に向かう人が出始めた。
政府の方針と都の現状が、サイトのスタッフをピストン輸送している飛行機の操縦士から、サイトのダーナに伝えられる。その当のサイトは、すでに周辺から流れ込む水によって管制室は水没。上昇を続ける水は、管制室のある建物の最上階に達している。
ダーナは管制棟の屋上に立っていた。
蒸気の靄を通して飛行機の爆音が伝わってくる。サイトの関係者を乗せた貨物機が、ダーナと数名を残して飛び立ったところだ。ものの半刻もすれば、岩盤の内側に埋め込まれていたサイトの諸施設は完全に水没、階段状に掘り下げられた氷の窪地にも、水が溢れるようになるだろう。
高温を維持している核力炉に水が流れ込んでいるため、水面が泡立ち蒸気が噴き上がる。その蒸気の靄を突き破るようにして、光の柱が天に向かって屹立する。
屋上に設置してある放射線の線量計が、耳障りなブザー音を鳴らし続けている。それを気にも留めず、ダーナは蒸気を巻き込んだ風になぶられながら、質量転換炉のある方向を振り返った。ハン博士が炉の内部に潜り込んでから、かれこれ一時間余り。しかし上空に向かって伸びる光の柱にも、炉そのものにも、何ら変化はない。
あの時、ダーナは耐熱服を着込むハン博士に「八時間」と告げた。炉の外部に設置した燃料を爆破させるまでの時間である。博士は無言で頷いた。
そのハン博士が、耐熱服の中に魔鏡帳と合わせて大きな包みを押し込むのを見て、ダーナはとっさに博士の手を押さえた。ところが博士は静かにダーナの手を振り解くと、何事もなかったかのように包みを耐熱服にねじ込み、言った。
「タンク一つ分の燃料を爆破した程度では、質量転換炉の外殻に損傷を与えることはできないだろう。それに自動機械の調整が難しいようなら、次の手が必要になる」
決意を秘めたように言って、ハン博士は耐熱服の膨らみを上から押さえた。爆薬である。最後はそれを炉内で爆発させようというのだ。
「このことは誰にも言うな」
ハン博士は、約束だぞと射竦めるようにダーナの灰色の瞳を睨んだ。
「一度炉の内部に入ったら、出てくるのは難しい、捨てて行ってくれ」
最後、博士はそう言い残すと、室長のバッカンディーに肩を支えられるようにして管制室を出ていった。それをダーナは何も言わずに見送った。
午後五時。
政府との連絡用の飛行機が、断線している通信回線が間もなく復旧するとの報を伝えた。それを受けて、ダーナが通信機のスイッチを入れる。
とたん耳をつんざく着信音が鳴り響いた。
通話機を取ったダーナの耳に、ズロボダの喚くような声が飛び込んできた。
それを受け流し、ダーナは現状を報告、畳み掛けるように施設爆破の許可を求めた。
ズロボダは口にしかけた声を呑み込むと、「少し待つように」と言って、通話機から口を離した。ズロボダとしては、そこまでサイトが追い込まれているとは考えていなかったのだ。回線が繋がったままの通話機から、「大変な予算を注ぎ込んで、最後は爆破か」という、バハリ統首の男優りの罵声が聞こえる。それをズロボダが「施設も水没する直前で、光の照射を止めるにはそれしか方法がないようで」と宥めるように言い聞かせている。
数分後、統首のバハリが直接通話機に出た。
「爆破は四時間後、政府関係者が全て遷都先に移ってからだ」
怒りを抑えた統首の声がダーナの耳に届いた。ダーナは「了解しました」と短く答えると、通信機の接続プラグを引き抜いた。この状況下、交信できなくなったことなど、どうにでも言い訳できる。
室長のバッカンディーが、起爆装置と接続ケーブル一式を担いで階段から上がってきた。その後ろに、オバルと、小型の制御機器を手にしたジャブハが続く。
起爆装置を防水ケースに納めるバッカンディーの横で、ジャブハが炉に指令を届けることができないかと、また制御装置の端末のキーを叩きだした。オバルは傍らの線量計に目を落とすなり、顔を歪めてダーナに×印を送った。
そのオバルに視線を合わせることなく、ダーナは作業を進めるバッカンディーに歩み寄ると、「爆破は八時間後にしてくれ」と、指示を下した。
防水ケースを手にしたバッカンディーが怪訝な顔でダーナを見る。
「そんな後でいいのですか」
「かまわん、八……、いや二十四時間後にしてくれ」
口にこそ出さなかったが、丸一日の猶予があれば、貴霜山側の高台に避難している市民全てが、エディウェラ川を渡って波崙台地に向かう街道に出られると、ダーナは考えた。
水の沸騰する音が、蒸気の壁を通して周囲の水面を波打たせるように伝わってくる。炉が完全に水に没したようだ。ダーナは手すりも何もない建物の縁に沿って歩いた。水面はもうほとんど建物の屋上と同じ高さになっている。施設の上を天蓋のように取り囲む岩盤の庇からは、無数の水の簾が水面や建物の上へとなだれ落ちている。ムッとした熱風に顔面のマスクを煽られながら、ダーナは蒸気を突き抜けて聳える光の柱を凝視した。
ダーナの腕をオバルが引いた。
「水没するぞ、それに線量計が振り切れてる。様子を見るなら発着場だ。あそこなら、いざという時すぐに脱出できる」
呼びかけるオバルの靴を水が洗う。
「不安なら、先に行け」
ダーナは屋上に溢れ始めた水など気にせず、腕組みをしたまま光の柱の伸びる先を睨んだ。サイトの上空、上昇気流に吸い寄せられるように雲が厚く層を成して集まり、その雲の中心を光の柱が貫いている。稲光が光の柱に絡みつくように縦に横にと走り、その閃光がダーナの金属の仮面に反射して眩しく輝く。
オバルが怒ったように声を張り上げた。
「広報部長、危険です、退避願います」
一瞬、ダーナが気取られたようにオバルを見た。
十年前の惨事の際、最後まで現場に残って、避難する一般見学者の誘導に当たっていたダーナを、オバルが強引に飛行機に押し込んだ。それが施設から避難する最後の機だったからだ。いや飛行機はまだあったが、後の機では脱出が遅れる、そうオバルは判断した。
ところが重量が超過したことにより、飛行機は失速して墜落。強運な女性と操縦士の二人を残して全員が死亡。その生き残った女性も顔に大火傷を負った。それがダーナだ。
一方、ダーナの乗った機を見送る間もなく、死を覚悟してサイトの最後の写真を撮りに施設内に戻ったオバルは、偶然にもハン博士のいる管制室に入ったことによって、一命を取り留めた。
ダーナがくぐもった声に怒気を孕ませた。
「同じことを繰り返そうと言うのか」
「同じにはならない」
「なぜ」
熱風に煽られてダーナの仮面が外れ、ただれた皮膚が露わになる。
オバルが何か言おうとした時、発電機の横に置いた館内通信の通話機が、着信音を響かせた。通話機を取り上げたダーナに、待機している操縦士の声が飛び込んできた。
「総監、急いでください。上空は猛烈な雷と乱気流で、出発しないと危険です。それに周辺が水びたしで、これ以上水が溜まると離陸できなくなる恐れがあります」
「分かった離陸できる態勢で待て、もし十五分以内に私が行かなければ、離陸を許可する」
「了解」と、すぐに返事が返ってきた。
「まさか、ダーナ、君はここに残るつもりか」
ダーナは答えず、もう一度腕組みをしたまま光の柱を睨んだ。
そのダーナの前方、泡立つ水面に浮かび上がってきたものがある。
オバルもそれに気づいた。
「人が浮いている、あれは!」
と言うなり、オバルは上着を脱ぎ捨てると、水面目がけて飛び込んだ。魔鏡帳を操作していたジャブハも、水飛沫を跳ね上げながら駆け寄ってくる。
数分後、ハン博士を抱きかかえるようにして、オバルが建物の屋上に泳ぎついた。
オバルの腕の中で、ハン博士が薄目を開けた。
口元を震わせている博士を見て、ダーナが耳を寄せる。
「ダーナよ、残念ながら、炉を止めることは、でき…なんだ。力不足、だ。爆薬は…、炉内、保守、ロボットに…」
そこまで話して、博士はガックリと首を垂れた。
オバルが博士を抱き起こしながら、どうするという目でダーナを見る。
ダーナが大きく腕をサイトの外に向けた。
「博士を飛行機へ、バッカンディーは資料の鞄を、ジャブハは炉にもう一度停止信号を流せ。それでダメなら起爆装置を作動させて、撤収する」
オバルは「了解」と短く返すと、博士を背中に担ぎ上げた。
ダーナが「行け」と命じた。オバルは無言で頷くと、屋上後方の岩盤を抜ける階段に足を向けた。上から渓流の岩場のように水が飛沫を上げて流れ落ちてくる。
ジャブハが最後の信号を炉に流す。反応はない。
ダーナは後ろから手を伸ばすと、端末の蓋を押し下げた。ここまでという意思表示だ。
しかしジャブハの指はまだ端末のキーの上にある。ジャブハが鬼のような形相で靄の向こうに聳え立つ光柱を見ていた。ダーナが声をかけた。
「ここまでやれば、お前の娘も理解してくれるだろう」
前回の惨事でジャブハの家族はズタズタに引き裂かれた。下の娘は亡くなり、上の娘は父親を蛇蝎のごとく嫌うようになった。別れた妻など、夫を人生の汚点としか考えていない。ジャブハは思う。十年前、自分は家族を養うために、生活の保障される国の仕事、サイトの仕事についた。そして技術者として上官の指示に従い働いた。その一介の職員に過ぎなかった自分のどこに、惨事への責任があるのか。未だ自分が責任を問われることが、納得できないでいる。しかし自分の関わった事業が次女の命を奪ったのは事実だ。
自分は凡庸な技術者に過ぎない。その凡庸な技術者にできる償いとは何だろう。
特に亡くなった娘に対しての償いとは……。
技術者の問いと答えは現場にしかない。その想いで自分は今回の計画に参加した。
「死が償いになるなどと考えるなよ、嫌われ、呪われ続けるのも償いだ」
「ですかね……」
気が抜けたように、ジャブハの指がキーから離れた。
「行こう」ダーナがジャブハの肩を叩いた。労いの意を込めてだ。
ダーナは評価していた。今回の計画の要職を忍耐強く引き受けてくれた実直な部下を。
バッカンディーから起爆装置のスイッチを受け取ると、ダーナは迷いの片鱗も見せず赤いスイッチを右に捻って押し下げた。そして防水ケースの蓋を被せた。
バッカンディー、そしてジャブハと共に階段に向かう。屋上はすでに水面の一部と化している。水が流れ落ちてくる階段に足をかけると、ダーナは最後、立ちこめる蒸気に一瞥をくれた。その中に古代の炉があるはずだった。
ダーナたち三人が、飛行機の発着場に向かって走る。
サイト周辺の氷原も一面プールと化していた。水面が雲の底を映し、その水に映った雲を蹴散らすように、風が小波をたてて右に左に走り抜ける。吹き荒れる突風で、サイト周辺を囲っていた金網がズタズタに折れ曲がり、検問所付近では黒煙が噴き上がっている。飛行機の燃料庫に雷が落ちたようだ。
折れた金網の支柱の間を抜け、飛沫を飛ばして走るダーナの前方で、双発機が離陸を催促するようにプロペラの回転を上げた。六人乗りの双発機、オバルやウィルタをバドゥーナの都バンダルバドゥンから、サイト2に運んだ機だ。
雷光が閃き、同時に叩き付けるような音がして、照明用の鉄塔に雷が落ちた。
烈光に目が眩む。竦んだように立ち止まった三人に、双発機の側面のドアが開いて、大きな腕と小さな腕が手を振る。オバルと春香だ。春香は先発の機に乗らずに、オバルを待っていたらしい。
揺るがすような雷鳴が辺りを包みこむ。よろけながら走る三人に、双発機が近づいてきた。最後、回り込むように胴体を三人に向けた双発機の入り口から、オバルの長い腕が、ダーナ、ジャブハ、バッカンディーの三人の腕を掴んで、次々と機内に引き上げる。すでに、ハン博士は後部座席にベルトで固定されていた。
オバルが扉を閉めるのを待つのももどかしく、操縦士のハガーが、出力レバーをゆっくりと押し倒していく。春香が潜り込んだ貨物機の機長だ。
プロペラの爆音とエンジンの振動音が体を揺さぶる。双発機には雪面の離着陸用にスキーを履かせた車輪を取り付けてあるが、水の浮いた氷上を走ることは想定外。すでに車輪は完全に水に浸かっている。
強風が吹き荒んでいるため、翼がギシギシと揺れ、機が氷上を横滑りに流れる。強風に逆らうように機首を風上に向け、エンジンの回転数を上げて加速しようとするが、目まぐるしく風向きが変わり、機体が右に左になぶられて、一向に離陸のための気速が得られない。おまけに親指大の雹が、嫌がらせでもするようにバラバラと機体や風防ガラスを打ちすえる。
操縦士のハガーが「推力が上がらない」と悲壮な声を吐いたその時、辺りが白く輝き、激しい衝撃が辺りを包んだ。落雷だ。壊れたフェンスが弾かれたように宙に浮く。
操縦席の後ろから、オバルがハガーの耳元に向かって叫んだ。
「サイトの窪地はどうだ」
「何だと?」
「機材搬入用の坂だ、あれが使えないか」
氷床を階段状に掘り出したサイトの窪地には、一カ所、氷床上と岩盤面を繋ぐ斜度十五度の坂がある。機材の搬入や重機の移動のための通路だが、長さにして百五十メートル。その坂を滑り下りて推力を得ようというのだ。
オバルの提案に、ハガーが機首を光の柱に向けた。ねじくれた金網の間を抜ける。
サイトの窪地に流れ込む水に乗って、スピードが増していく。
ハガーが前方を凝視したまま声を張り上げた。
「もし無理だったら」
「でかい鍋の熱湯に突っ込むだけだ」
オバルが怒鳴り返した。光柱の周りでは雷鳴が束になって轟き、大気を騒がせている。声を張り上げなければ、爆音と雷鳴で何も聞き取れない。
グニャリと折れ曲がった鉄柵の向こうに、階段状に掘り下げられた氷床と、その下の岩盤が姿を見せた。周り中の水が蒸気の下に向かって流れ込んでいる。
突風が吹いて手前の蒸気が一部吹き払われ、湖水のような水面が垣間見えた。
「行くぞっ!」
ハガーの声が機内に反響、「行け!」と、ダーナが応じた。
双発機はガクンと一揺れすると、加速をつけたまま資材搬入用の通路に突っ込んだ。とたん双発機は水の流れる斜面を滑り出す。スキーのジャンプ台から滑り落ちるようなものだ。ただし搬入路は左右の幅が十五メートル。翼長十メートルの双発機では、機体が少しぶれれば、翼の先端が両側の氷の壁を削ってしまう。風が舞っているなかでの斜面の滑降、ハガーが必死でバランスを調整しながら機体を滑らせる。
あっという間に、眼前に岩盤のゴツゴツした露面が迫ってきた。
オバルが「離陸だーっ!」と叫ぶ。
重なるように、ハガーが「まだっ!」と返す。
皆が思わず息を呑むなか、ハガーがゆっくりと操縦竿を引いた。
橇付きの車輪が岩盤の上を流れる水を掬うように浮き上がるや、機首がぐんと上を向き、機は一気に上空へ。と、すぐさま眼前に光の柱が立ちはだかる。
衝突して弾け飛ぶ、そう思って皆が目を閉じた瞬間、機は翼を傾け、横向きに光柱の表面を掠めながら、その場を擦り抜けた。
荒い息をつきながら「心臓がいくつあっても足りない」とぼやくと、オバルが浮いていた腰を座席に落とした。
逆方向に光の柱を睨みつつ、ハガーは機体を大きく右に旋回、高度を一気に三百まで引き上げた。光の柱がゆっくりと後方に離れていく。
それを風防ガラスに映った光の影で確認しながら、ハガーが言った。
「安心するな、辺りじゅうネズミのように雷が走っている。一時間前に、強風と雹に叩かれて一機落ちた」
助手席のダーナが後方を目視しながら言った。口元が笑っている。
「大丈夫、お前を含めて、ここに乗っている者は悪運の強い者ばかりだ。いつも生き残る疫病神もいる」
「幸運の女神に愛されていると言って貰いたいな」
オバルがすかさず訂正。擂り鉢型のサイトが後方の風景に絞り込まれていくなか、ハガーが気合いを入れ直すように声を張り上げた。
「視界を確保するために、雲の下を飛びます」
「任せる」
そう返したダーナの眼前を、雷光が真横に走る。
気流が安定しているといっても上空と較べての話で、雲の下でも風は吹き荒れている。
双発機は、高度六百メートル前後の低空を、南南東に向かって飛ぶ。頭上にびっしりと雲の底を背負っての飛行で、ビッグウエーブに乗ったように上下動を繰り返す。
光の柱が後方の雲に隠れた。
すでに空の八割は雲に覆われている。それでも雲のない空間に出ると、灼けつくような日差しが上空から降り注ぎ、それが機体の翼に反射すると、烈光に目を焼かれる。時刻は五時前、中天に二つの太陽が並んでいた正午前後に較べれば、日差しは格段に弱くなっているはずだが、想像以上にきつい日差しが、雲の間を押し広げるように射し込んでいる。その強い日差しが、湿気を孕んだ大気に乱反射、どちらを向いても白っぽく霞んで見える。周りに広がっているのが雲か氷原なのか、まるで分からない。高度計がなければ機体を地面に叩きつけてしまいそうだ。
日差しと雨が入り乱れ、さらには光源が頭上と西寄りの二カ所にあるため、次々と虹が現れては消える。上空から見るため、虹が丸く円を描いて見える。
雨と霰と突風と雲と強烈な日差し、そして激しい乱高下の繰り返し。
分厚い雲の隙間を擦り抜けると、靄も雲もない開けた場所に出た。
風防ガラスを磨硝子から透明なガラスに交換したように、前方の雲海が鮮やかに立ち現れた。地上の濡れた氷原が、暗い雲底をきりりと映す。スポットライトの外部から流れ込む冷たい大気の中に出たのだ。見通しが良くなったことで、頭上七〜八千メートルにまで達する、もの凄い雲の壁が一望となる。
その雲の壁を巻くように飛ぶ。
おそらく、光の降り注ぐ地域を外から眺めれば、巨大な雲の湧き上がる様が目にできるだろう。大きな火災が起きた際に、上昇気流で雲が形成されて雨が降る。あるいは暖められた大洋上の上昇気流で、巨大な積乱雲が形成される。それと同じ現象が起きていた。
膨大な光のエネルギーが、氷を水へ、水を水蒸気へと変える。温められた湿気を孕んだ大気は、熱エネルギーの一部を運動エネルギーに変えながら、周囲に拡散していく。
普段なら分厚い防寒服を着ていても凍えそうなくらいに寒い機内が、今は濡れた服のままでも問題ない。
厚い雲に阻まれ飛行機の高度が三百メートルにまで下がった。
前方に低い山系があるはずなので、慎重に視界を確保しながら飛行を続ける。
外部から流れ込んだ凍てつく重い大気の層に突入、靄が晴れて氷原がくっきりと見渡せる。氷床は一面の湖水に変わり、そこに二方向から差し込む光が照り映え、眼下が光のカーペットに変わる。狭い室内ならいざ知らず、広大な屋外で光源が二つあるというのは、なんとも奇妙な感覚だ。風が吹き、水がさざ波をたてて移動していくなか、氷の割れ目に周囲の水が鍋の底が抜けたように落ち込み、その鍋の底で水が逆巻く。あの水が氷の底を流れ、いずれ氷床の途切れる貴霜山の麓で溢れ出るのだ。
窓に顔を寄せ、食い入るように眼下を見つめていた春香が声を上げた。
巨大なクレバスの縁で、立ち止まってこちらを見上げている一団を見つけたのだ。
氷上ではロズネたちの一行が、双発機の爆音に気づいて上空を見上げた。一行はすぐにそれがサイトの双発機だと理解した。立ち止まって頭上を見上げるロズネたちの上を、双発機が八の字を描いて旋回。クレバス沿いを右へ、そして引き返すと、今度は逆の方向へ。
ペコールが「降りる場所を探しているのかな」と、期待を込めて言うと、
「まさか」と、ロズネが直ぐさま否定、「こんな氷の割れ目だらけのところに降りるはずがないだろう」と、腹立たしげに言い返す。
「じゃあ、何のためだ」言い寄る鷲鼻に、「大方、俺たちが四苦八苦しているのを、議会に報告するためだろうよ」と、ロズネが皮肉たっぷりに吐き捨てた。
クレバスに沿ってどちらに進めばいいのか、その決断ができない自分に、ロズネ自身、苛だっていた。その八つ当たりでもするようなロズネの声を掻き消し、いったん遠ざかった機が戻ってきた。
「返ってきたわ」と、銀黒髪の婦人が声を弾ませる。
双発機は、もう一度何かを確かめるように上空を大きく旋回すると、ロズネたちの頭上を掠めて飛んだ。その際、窓から何かがロズネたち目がけて投げ捨てられた。
ペコールが駆け寄り拾い上げると、それは布で包むように縛ったもの。解くと中から銃が出てきた。
ペコールが声をあげた。銃を包んでいた布に何か書かれている。
布の中央、左右に引かれた線の下に×印、その×印から左上に向かって太い矢印が引かれている。下には方位を印す十字と、『波崙台地を目指せ』という言葉が、ダーナのサインと共に、なぐり書きで書き込まれていた。
遠ざかった爆音が、また近づいてきた。
双発機がゆっくりと一行の上を旋回。窓から身を乗り出すようにして、人が顔を突き出した。顔の左半分が強い日差しを受けて、ギラリと光る。
「ダーナだ」と、ペコールが叫んだ。
こちらに向かって何か呼び掛けているようだが、爆音に打ち消されて聞き取れない。一行が見上げるなか、双発機はそのまま雲の底を南に向かって飛び去って行った。
ダーナが投げて寄越した地図を広げる。明らかに横線はクレバス、×印は一行のいる場所だろう。そう考えると、左上に向けて記された太い矢印は、そちら側にクレバスを渡れる場所があるということに違いない。皆が顔を見合わせた。
「ダーナは何て言ったんだ」
「俺には一キロと叫んでいたように聞こえたが……」
「左に一キロ進めば、クレバスが渡れるということか」
「それ以外に考えようがないだろう」
「そういやさっき、坊主も一キロと言ってたな」
皆が振り向いた先に、倒れたウィルタに付き添うように、バニアがしゃがみこんでいた。
「信じていいのか」というペコールの問いかけに、「争う相手に銃は寄越さないだろう」と、ロズネが手の中の銃を見ながら言う。銃の柄に特徴ある家紋が刻まれている。霜都の人間なら誰もが知っている、ユルツ国を創設したブィット家の家紋だ。
銃からクレバスの割れ目に目を移す。とても一キロ先までは見通せない。だがわざわざ自分たちの頭上を旋回して、通れない道を教えるとも思えなかった。
決断するように「行こう」と、ロズネが皆に呼びかけた。
がその時にはもう、鷲鼻を初め、ピーナッツ目と銀黒髪の婦人も、左に向かって歩き出していた。ロズネが苦笑いしながら後に続く。
しんがりを務めるペコールが後ろを見ると、バニアがウィルタを背負おうとしていた。「なんだ、お前が担ぐのか」
バニアは冷ややかな目をペコールに向けると、
「人のことを心配する余裕があるなら、クレバスを渡れる場所を探しな」
刺々しい口調で言って、ほかの人には手を出させないとばかりにウィルタを担ぎ上げた。
ロズネたちを追いかけ、ペコールとバニアが歩きだす。
ウィルタを背負い一歩一歩氷を踏みしめ歩くバニアの脳裏に、飛行機から身を乗り出し叫んでいた仮面の顔が焼きついていた。
歩きながら「あの顔……」と、バニアが呟く。
止んでいた雨が降り出し、バニアのケロイドの皮膚の起伏をなぞるように流れた。
雲の中に突っ込んだ機が激しく揺れる。
「さっきの人たちは?」
春香が身を乗り出して、前の座席のオバルに尋ねた。
「サイトから逃げ出した人質と、あとはそれを手引きした反対派の連中だろう。気がつかなかったか、ウィルタが倒れていた。それにジャブハさんの娘さんもいたな」
「ウィルタが?」と春香が反応するのと同時に、ジャブハも「娘が?」と声を上げる。
慌てて春香とジャブハが窓から後方を望むが、すでに視界はべったりと雲に塞がれ、眼下のクレバスどころか氷床さえも見えない。
前の座席からダーナが口を挟んだ。
「サイトに閉じ込められていた反対派とその家族は、十四名。眼下に見えた人の数からして、おそらくは分散して、別々のルートを辿って都に向かっているんだ」
そう言った後、ダーナは声に出さずに呟いた。
「あのクレバスは越えられるとして、今の状態が続けば、この後も次々と新しい氷の割れ目が発生する。氷床帯の縁まで、まだ優に二百キロ。彼らの脱出行は、かなり難しいものになるだろうな」
ダーナの呟き通り、クレバスの縁を辿る七名の前途には、これまでにも増して困難が立ちはだかろうとしていた。
ダーナたちを乗せた双発機は、人質たちの頭上を掠めるように飛び去った後、乱雲に翻弄されながらも、半刻後には氷床の上空を抜け、貴霜山の麓に入った。眼下には氷床から流れ出た融水が、怒涛の流れとなって霜都の中央部を突っ切っていた。あまりの光景に、みな声をなくし、無言のまま眼下を見つめる。
道という道は水路と化し、地盤の低い地域では、家の屋根までが水没している。町並みがそのままの状態で見えているのは、貴霜山の裾野に繋がる高台の一角だけで、エディウェラ川の川沿いにある警邏隊本部は、すでに泥流に沈んでいた。
「どうされますか、総監」
操縦士のハガーがダーナに指示を仰いだ。
「見ていても仕方ない、波崙台地の遷都先に飛んでくれ」
「分かりました、二十分ほどで到着します」
「任せる」
力を込めて言うと、ダーナはもう窓の外を見ることもなく目を閉じた。
その一方で、オバルとジャブハ、春香、それに後部座席の後ろに身を押し込めていたバッカンディーは、外の光景に強張った視線を貼りつけていた。
サイトから離れるに連れて雲は減り、見通しが良くなってきた。やがて飛行機の乱高下も治まり、雲の隙間から差し込む強い日差しが、絹のカーテンでも垂らしたように幾重にも重なる様子が見えてきた。日差しが眼下の大地に複雑な斑模様を描きながら、一斉に雲の流れとともにサイトに向かって移動していく。何か雲の流れていく先に、大気を吸いこむ化物でもいるかのようだ。
光が照射されている範囲で考えれば、あと数分でその光の圏外に出るはずである。
そして前方がなんとなく薄暗いと思った次の瞬間、双発機は夕刻の薄暮の世界に飛び出していた。
あまりにも明る過ぎる世界にいたために、まるで夜の世界に飛び込んだように思える。
それでも目が慣れてくるに従い、ドゥルー海の上に棚引く絹雲に夕日が淡いオレンジ色を投げかける、ありふれた夕刻の景色が見えてきた。これほど太陽の光が優しく感じられたことはなかった。
オバルとジャブハは、機が光の檻から抜け出したことで、天のスポットライトの全貌が見えないかと後方を振り返った。しかし光柱の反射点が余りに高い位置にあるのと、低層から高層にかけて幾重にも雲が張り出していること、さらにはスポットライトの内側からの照り返しなどが障害となって、全体像は掴めなかった。理屈からしても、もっと光の放射から離れた場所でないと全体を見通すことはできない。今の状態は、ダニが高層ビルの壁に張りついて、ビルを見上げているようなものだった。
炉の稼働により光柱が出現してから十八時間。再び夜がやってきた。
天のスポットライトが照らす地域はじわじわとその範囲を広げ、現在、直径一千二十五キロの円内が、その人工の光の照射圏にある。スポットライトは、その範囲と共に照度も着実に強めている。膨大な量のエネルギーが、サイトを中心とした氷床上に降り注ぎ、その結果として、貴霜山北方の氷床から湧き上がった上昇気流は、物凄い勢いで拡散、周辺の地域へと、そのエネルギーをまき散らしている。
あちらこちらで群雲が湧き、雷鳴が轟き、突風が吹きすさぶ。やがてグラミオド大陸の中北部は、天地創造のごとき様相を呈し始めた。
次話「ドバス低地」




