制御装置
制御装置
午後一時。
スポットライトの内側では、二つの太陽の日差しを合わせた炯烈な光が降り注いでいた。
大臣のズロボダは一時間おきに状況報告をと命じたが、実際には二時間おきとなる。
都とサイトの間を連絡用の飛行機が往復、その機によって、都の北部がエディウェラ川から溢れた水によって冠水を始め、政府が市民に緊急避難の決定を下したことが伝えられた。またユルツ国評議会令として、手段を選ばずに直ちに光の照射を停止させよとの通達が届けられた。
しかし政府の意向などとは関係なく、サイトの状況は厳しさを増していた。
質量転換炉を取り囲むドーナツ状の空間に溜まっていた水が、一気に嵩を増してきたのだ。ほんの二十分ほどで、水は管制室のある施設上部に到達。この勢いで増水が続くと、岩盤の中に埋め込まれた構造のサイトは、小一時間もしないうちに水没する。またサイト内は、どこもすでに耐え難い高温過湿の状態にある。空調が停止したなかで核力炉からの蒸気がサイトの窪地に立ちこめているのだから当然で、これに加えて、核力炉のある南東側のブロックは、この時点で、放射線量が人の立ち入りを拒む値を上回っていた。
しかしながら、まだ重機の入れない下部の隔壁に閉じ込められたスタッフが、ニ十名近くも残されている。状況を打開するために、回送便の飛行機で警邏隊の駐屯地から爆薬を搬送。その到着を持って、ようやくサイト下部に閉じ込められた人たちの救出作業が始まったところだ。
爆発の衝撃音が壁を通して伝わってくる。
下部の爆破作業と合わせて、頑強に作られた管制室を囲む通路の隔壁にも爆薬が仕掛けられる。ところが、この爆破作業で、炉に面した側の壁が部分崩落。ポッカリと空いた穴から、外部の高温の蒸気がどっと通路内に流れ込むようになった。
閉じ込められていた管制室のスタッフも、手の離れた者から順次退去。高温の蒸気にむせ返りながら、蒸気の下を潜り、通路から屋上への階段を上る。そこに下部のユニットから助け出されたスタッフも合流する。
懸案の燃料タンクの作業用通路への運び込みが終了した。
次々とスタッフが、飛行機の待つ離発着場へと向かう。
連絡に使えるのが館内の通信機だけのため、確認に手間取るが、この時点で、サイト内に残されたスタッフは、管制室の撤収作業に当たる十五名のみとなった。
この時、管制室では、管制室と第二管制室の機器をケーブルで繋ぐ作業が、電設班によって進められていた。ダーナが、その作業にあたる技官の肩を叩いて、「時間切れだ、引き上げろ」と強引に撤収を促す。頷きながらも作業を継続していた技官が、奥の第二管制室に「完了」と、声を投げる。
すぐに「撤収してくれ」と、声が返ってきた。
技官は一礼すると、管制室の入口に積み上げた土嚢代わりの機材を乗り越え、急くように通路に出て行った。外の通路は、もうほとんど水路状態である。
そして暗がりの管制室から人の気配が消えた。
ダーナが管制室の奥にポツンと明かりの灯った第二管制室に目を向ける。まだジャブハ統括部長以下数名のスタッフが残って作業を続行。魔鏡帳に向かって一心不乱にキーを叩いているのは、オバルとロンフィア。その後ろでは、車椅子のハン博士と、ジャブハ部長、それに技監二人にバッカンディー室長が、端末のようなものを手に何か話し合っている。
吹き込んできた蒸気が、フワリと準備室にいるダーナの髪を持ち上げた。
「水没する、退避だ!」
ダーナの呼び掛けに、操作盤に向かったままの格好で、ジャブハが手を上げた。
と同時に、髪に挿した電子ペンが振り落ちるのも厭わずキーを連打していたロンフィアが、白い指をピタリと止め、「できました!」と言って顔を上げた。
続いてオバルが「こちらもだ!」と体を起こすと、魔鏡帳の側面から小さなディスクを取り出し、ジャブハ部長に差し出した。
すぐさまジャブハが受け取ったディスクを操作盤に挿入、ディスク内のデータをモニター上に引き出す。画面に数字が雨垂れのように浮かび上がる。
その流れる数字を目で追いながら、「データを繋げ次第、始めます」とジャブハが手順を復唱、操作盤のキーを叩き始めた。
ジャブハの操作するモニター画面を別の画面で追っていたハン博士が、「私は所定の位置で待つ、後は頼む」と、室長のバッカンディーに目配せをした。それを合図にバッカンディーが、手にしていたヘルメットを博士の頭に被せる。見ればハン博士は、宇宙服のようなごわごわの服を着込んでいる。耐熱服だ。
その着ぐるみ状態の博士の太い腕を取り、バッカンディーが車椅子から立ち上がらせる。
後ろではやはりオバルが、同じ耐熱服に袖を通そうとしている。ところがオバルの場合は、長身の体に合う耐熱服が無かったのだろう、二つの耐熱服を切り合わせ、途中で繋ぐ形で着込もうとしている。腰周りで二重になった耐熱服の重なり部分に、ロンフィアが配線のコードを乱暴に巻きつけていく。
「先に行く」とオバルに向かって手を挙げると、ハン博士は室長に体を預けるようにして、第二管制室を出ていった。
数分後、崩れた外壁の手前にいるハン博士とバッカンディーの所に、オバルが通信用のケーブルをリールから引き出しながら追いついてきた。
目の前を蒸気が舞い、足元では水が音を立てて通路に流れ込んでいる。博士を側面から支えていたバッカンディーは、生身の人間はこれが限界とばかりに、博士の腕をオバルに預け、吹き込む蒸気の下を身を屈めて管制室に戻っていった。
外壁の外側は、立ちこめる蒸気でほとんど視界はゼロ。何も見えない。
センサーに目を落とすと八十度。吸い込めば肺が焼けてしまう。耐熱服を着ていなければ、とても立っていられない温度だ。
オバルは片手に通信用のケーブルリール持ち、もう片方の手で博士の体を抱えると、外壁の外に設置された急拵えの足場に足を踏み出した。
足元を洗う水を掻き分け炉に向かいながら、オバルは、ハン博士が皆に説明した炉の停止させるための策を頭の中で浚っていた。
それは……、
質量転換炉の内部に設置された補助制御装置は、本来は外部の制御装置がトラブルを起こした際の、安全弁として機能するはずのものだ。それが外部からの指令を拒否して、炉独自の判断で稼動を継続させている。いくつかの理由が考えられるが、一つは、ファロスサイトが創建された当時に設定された臨界実験のプログラムが、今も管制室や炉内の制御装置内に残されており、今回の臨界実験のプログラムよりも優先権を持っているのではということだ。補助制御装置による自動制御を行うというプログラムである。
そのかつてのプログラムを探し出し、書き替えるなり、指示の取り消しを行わない限り、こちらからの指示に、炉の制御装置を従わせることはできない。ところが、この数時間必死になってそのプログラムを探すが、見つけ出すことはできなかった。
電気的な信号によって炉を停止させることができない以上、残された方法は、炉に物理的な損害を与えて機能を奪うことである。しかしこれは、それによって引き起こされる事態が予測不能なため、スタッフの避難が終了してからでなければ実施できない。ただし、唯一炉の光の放射角を変えることは試みられた。遙か上空、宇宙空間に光柱の反転照射装置があるなら、光柱の向きを僅かでも変えることができれば、光は反転装置から外れ、消えるはずである。試しに光柱の側面に反射用の鋼板を近づける。が光柱に触れた瞬間、鋼板は融けて崩れ落ちた。
不測の事態を引き起こさない形で炉の稼動を停止させるには、どうすれば良いのか。
妙案が浮かばないなか、車椅子に背を預け、愛用のトーカの画面に見入っていたハン博士が、「炉の反応を安全に停止させる一番確実な方法は、燃料の粒子パックを抜き取ることだ」と発言した。
怪訝な顔つきのジャブハ部長含め数人の技監に、博士は熱で擦れた声で続けた。
完全閉鎖系の質量転換炉は、人が中に出入りすることを想定して作られていない。解体する場合は別として、保守点検は炉内に備えつけられた専用の自動機械によって行われる。その自動機械を操作して炉の深部に潜り込ませ、燃料の粒子パックを引き抜く。
自動機械は本来なら管制室からの指令、つまり階下の制御装置からの指令で動くが、管制室からの命令が炉内の補助制御装置に拒否されている状況では、操作不能。それでも自動機械は炉の外殻部分にある。電気的な命令で動かすことができないなら、そこに人が潜り込んで機械を操作……、
ハン博士の話を遮るように、ジャブハが疑問をぶつけた。
燃料を抜くことは誰もが考える。それにもし閉鎖系の炉の内部に入ることができるなら、極端な話、内部の機械を破壊することで炉を機能不全に陥らせることも可能だ。その内部への侵入方法がないために、電気的な指令で何とか操作できないかと、ひたすら試行錯誤を繰り返してきたのだ。
ハン博士が、説明が前後したことを詫びるように、ジャブハに言った。
「炉の内部に入る方法がある、もちろん一番外側の区画にすぎんが……」
まさかという表情を浮かべる統括ブースの面々に、博士が改めて話を進めた。
質量転換炉の側面二カ所に、粒子パックの搬入出し入れ用のハッチが設置されている。炉の外殻と内部を繋ぐ口は、この二カ所だけだ。そして言わずもがな、二か所のハッチは、前回のサイト1の時も、そして今回のサイト2でも、開ける方法が見出せていない。開かずの扉である。質量転換炉の調査が進まなかった最大の理由は、炉の内部に入ることができなかったということにある。チャクラチップに残された断片的な情報と、炉内に設置された各種のセンサーや映像でしか、炉の内部を窺い知ることができなかったのだ。
鋳型で抜いたような継ぎ目のない特殊な金属石で作られた炉は、分解の糸口さえ与えてくれなかった。無理に進入口を開けたり、分解しようとすれは、炉を破壊してしまう怖れがある。破損させてしまえば、復元して元の状態に戻すことが、この時代の技術で不可能なのは自明のこと。だからこそ、腫物に触るように質量転換炉は手つかずの状態に置かれた。
そして炉の構造や理論も曖昧なままに、管制室の制御機器に任す形で炉を稼動させることが可能と分かると、それを頼りに臨界実験に踏み切ることにした。とにかく動かしてみて、それから判断しよう。それがこのファロス計画を推し進めてきた人たちの取った方法だ。やってみてから考える。それが役に立つか、あるいは自分たちに使えそうなものなのかどうかを……。
推理小説を、途中を抜かせて結末を先に知ろうとするような愚かな行為、しかしそれをさせたのは、やはり、この時代の人が熱望し、かつ崇拝する古代技術の成果を早く目にしたいという想いだったろう。
炉を破壊することなく内部に入ろうとすれば、このハッチから入るしかない。
ハッチは炉の最外殻の間隙に繋がっている。質量転換炉は多重泡殻構造をしており、その最外殻の間隙には、人が入り込めるだけの空間がある。そして自動機械は、その最外殻に収容されている。もちろんハッチを開けさえすれば、そこから内部に爆薬などを入れて炉を爆破、破壊することもできる。だがそれを行えば、炉の中の乾壺に貯えられたエネルギーが一気に開放、あるいは粒子パックが猛烈な反応を起こして、想像もつかないエネルギーが炉の崩壊とともに放出される怖れがある。不測の事態を考慮すれば、やはり自動機械を動かし、炉の中心部に収められている燃料の粒子パックを抜き取るのが、最善の方法に違いない。
ハン博士は車椅子から身を乗り出すと、「ハッチが開く可能性はある」と断言した。
「ただハッチを開ける方法の説明の前に、確認しなければならないことがある」
ハン博士はそう言って、荒い息をつきながら、ある問題を指摘した。
それが、このサイト諸施設への通電が全て途切れた段階でも、管制室の電子機器や階下の情報処理室には、炉から電力が供給され続けている、それがなぜかということだ。管制室のモニター画面は基準画面のまま情報を映さなくなっている。だが電力の消費の程度からいって、機能が維持されているのは確かだ。なぜ質量転換炉は、管制室の制御系から独立して自立運行に入っているにも関わらず、管制室への電力の供給を断たずに、その機能を維持させているのか……。
問題を投げ掛けられたジャブハ部長を含めた五名の統括ブースの技監が、顔を見合わせた。博士が、時間がないとばかりに先を続ける。
「それは、炉が必要としている物が、管制室にあるということだ」
言うまでもなく、炉と管制室は電気的な信号をやりとりするケーブルで繋がっている。つまり炉と管制室の間でやりとりされるものは、どのようなものであれ電気的な信号、情報ということになる。それは取りも直さず、炉が必要としているものが情報という結論を導き出す。
ではそれはどのような情報か。それがこちらの管制室や情報処理室のデータバンクに内蔵されている情報などであるはずがない。そんなものは、とうの昔に、炉内の補助制御装置は引き出し済みのはずだからだ。炉が稼動を始める前には存在せず、それ以降に生じた新しい情報、率直に考えれば、それは外部から新たに入ってくる情報、時と状態によって刻々と変化する情報ということになる。
たとえば、あの炉の周りを満たしつつある水、炉が建設された時にあの水はなかった。この刻々と流れ込み上昇を続ける水は、炉にとっては全く想定外の現象のはず。その押し寄せる水を把握するための外部センサーを、あの炉は持っていない。
流れ込む水の量に限らない。気温も、照射される光の照度も、大気組成も、放射線量も、唱鉄隕石の放射する電磁波の変動に至るまで、センサーを持たない質量転換炉は、管制室の制御装置を通して手に入れるしかない。全ての外部情報は、情報処理室の演算装置に集約されたのち、管制室経由で炉の制御装置に転送される仕組みになっているからだ。
質量転換炉は、こちらが把握している様々な外部の情報を欲しがっている。
ハン博士はそう説明すると「その情報を餌にして炉をだます」と、熱で上気した顔に自信を浮かべて、その言葉を口にした。
もうもうとした蒸気の中、耐熱服を着たハン博士とオバルは、膝下まで水に浸かりながら、質量転換炉の側面に立っていた。管制室のある建物から、水が洗い始めた中空の足場を通って、ようやく炉の側面にたどり着いたところだ。管制室とほぼ同じ高さの上部ハッチが目の前にある。下部のハッチは、すでに水面下に没し、上部ハッチも下五分の一ほどが水で洗われる状態である。
オバルが管制室の操作盤に接続されているケーブルをたぐった。ケーブルは伸び切った状態で、そのケーブルの端に接続された端末は、博士の手の中にある。
端末の画面には数字が表示されている。「九十七、九十六、九十五……」、管制室の操作盤に第二管制室の操作盤が接続されるまでの時間だ。
ハン博士は、ジャブハ部長以下、統括ブースの技監に、炉を欺くための方法を説明した。
情報処理室の主制御装置には、サイトに設置されている各種のセンサーから、様々な情報が送られてくる。その一部に手を加えて作り直し、炉内の補助制御装置に流す。
改竄の目的は、一義的には、炉を取り囲むように流れ込んでいる水の水位が、減少に転じたように見せること。水がどんどん上昇を続けている状況下では、炉は外殻ハッチのロックを解除しない可能性がある。ハッチを開けさせるためには、嘘でもいいから水が減少し、水位がハッチよりも下に下がっていると錯覚してもらう必要がある。そのために、水位の情報と共に、塞がれた送水管のトンネルが開通、揚水所を流れる怒濤の水によって、水がトンネルから吸い出され始めたというデータも組み込ませる。
そして改竄の二義的な、否、最大の目的、それが炉に送る環境情報の中に、マスクマウスと呼ばれるプログラムを潜ませることだ。昔の言葉で言うところのウイルスである。ただこの時代、ウイルスという言葉は、余りに不吉なものとして使われない。
それはそれとして、マスクマウスは潜り込んだ相手の制御装置の中で、相手のプログラムを気づかれないように噛る。書き替えるのだ。ただし今回書き替えるのは、ただ一カ所。外殻ハッチの開閉装置のオン、オフの認識機構の一点である。炉が扱っているであろう膨大な情報の中のごくささやかな一点。大きくプログラムを変えようとすると、改変した場所を発見される確率が高くなる。
膨大な情報処理能力を持った制御装置である。プログラムの改変は、遅かれ早かれ発見され修復される。
ただ膨大な情報を扱う制御装置では、その膨大さ故に、ある程度の確率で情報に欠損や変異が起きている。プログラムの改変を、その程度のごく小さな細やかな変更に留める。そうすることで、変更を人為的作為的なものではなく、偶発性の変異と判断させ、修復のタイミングを遅らせる。もちろんそれにしても、秒単位のタイムラグの世界ではあるだろう。
そして、炉の制御機構が修復するまでの間、ロックがオンであるのに、オフと判断して、オンを反対のオフに切り替えてしまい、それを再度オンに戻すまでの間に、開閉装置を手動で動かす。
前回のサイト1の計画の際、質量転換炉の構造の調査が進まないのに業を煮やしたハンは、何とか内部に入る方法がないかと策を案じた。ハッチの開閉装置そのものが故障をしているのか、それとも、それを司る情報処理室の制御装置や、あるいは炉内の補助制御装置に異常があるのか、それを調べるために考えていた方法の一つが、このマスクマウスを使う方法だった。結局、炉本体にはプログラムを含め、人為的な改変を加えないという上からの通達で、それを行わないままに、サイト1は惨事によって消失してしまった。
その時に作ったマスクマウス、春香の時代でいう電脳ウイルスが、自分の魔鏡帳の中に生きていた。いや保存されていた。それが目覚める時がやってきたのだ。
ダーナが自分の魔鏡帳をここに運んでおいてくれたことが幸いした。
「二、一、ゼロ」
その瞬間、本来の環境情報は第二管制室の操作盤に入り、そこで捏造データに入れ替わって、炉の補助制御装置に送られ始める。マスクマウスを忍び込ませたデータがだ。
予定では、水は三十秒でハッチの口を下回る。その五秒後、マウスがプログラムに噛みつく。偽造データの送付は一分と二十秒。もっと長く作りたかったが、限られた時間ではそれが限界だった。ハッチを開け、炉の内側に侵入するための時間は、五十五秒。
外殻ハッチが完全に水没してしまえば、いくらハッチのロックが解除されたとしても、水圧のために開けることができない。水位の上昇、データの作成、ハッチに至る足場の組み立て、すべての条件を考え、これがぎりぎりのタイミングだった。
端末の画像に写し出された数字が三十を数える。秒読みのなか、オバルの体の胴回りが熱くなってきた。繋いだ耐熱服の隙間から熱気が入り込んでいる。だが問題はヘルメットの曇りだ。端末の数値がぼやける。あと七秒。
あと五秒でロックが外れる。
オバルは思う。外れてほしい。ネズミは嫌いだが、今回は別だ。なんとしてでも噛りついてほしい。
「三、二、……」オバルは、曇ってぼやけた数値に目を釘づけにしたまま、ハッチの開閉ハンドルを握り締めた手に力を込めた。
「ゼロ」
ハンドルに力を込める。重い。ロックが解除されていないのか。
しかし……、奥歯を噛み締め渾身の力を絞る。その瞬間、円形のハンドルが僅かに動いた。ヘルメットのぼやけた先で、ハン博士もハンドルに手を掛けている。
博士がヘルメットの中で何か叫ぶ。数字だ。残り、四十秒。
偽造データが途切れる五十五秒後、炉に送られるデータは、本来の環境データに切り替わる。炉の制御装置が首を傾げてしばらく考え込んでくれればいいが、如何せん、一秒に兆を遥かに超える演算能力を持つ制御装置。すぐに騙されたことを察知して回路を調べ、ハッチのことにも気づくだろう。何としても予定の時間内に、これを開けて中に入り込まねば。そう思って腕に力を込める。
ハンドルがぐっと動いた。すぐに満身に力を込めてハッチを手前に引く。五センチほど開く、さらに五センチ。開いた隙間から水がハッチの内側に流れ込む。
ヘルメットの向こうから、「あと十秒」と、博士の掠れた声が聞こえた。
四十センチ、そこまで開くと扉が軽くなった。
「四秒、入れる」と、その声と同時に、オバルの曇ったヘルメットの向こうで、博士がハッチの中に体を倒し入れるのが見えた。
オバルもそれに続こうとハッチの開口部に体を寄せ、ヘルメットごと体を中に差し入れる。ところが、それが思いのほか強い力で押し返された。
「私だけで、充分だ」と、博士の声が頭の中に聞こえたと思った瞬間、オバルの目の前で、ハッチの分厚い扉が動いて、吸い付くように閉じた。
ヘルメットの向こうに、閉ざされたハッチが立ちはだかっていた。
最初、誰が炉の内部に潜り込むかという話になった時、一人はハン博士と直ぐに決まった。体の状態が気遣われるが、炉の内部のこと、そして保守点検用の自動機械に関する知識を持っていたのが、ハン博士だけだったのだ。狭い外殻前の足場を考慮してあと一人。ハッチを回す力のある者ということで、オバルが選ばれた。ただ、今考えてみると、ハン博士は最初から自分だけが中に入るつもりだったのだろう。
「アチチチ……」
ハッチの前で呆然としていたオバルが、飛び上がるように背筋を伸ばした。胴体を縛ったコードが下にずれ、隙間から高温の蒸気が入りこんでいた。
慌てて背中を押さえたオバルの目の前で、手すりに引っ掛けてあった端末が点滅。
侵入に失敗した場合は、端末に猫の絵文字を入力する予定になっている。その場合は、再度捏造データの送信が試みられる。オバルは端末の音声通信のスイッチを押すと、ヘルメットを僅かにずらし、隙間から喚いた。
「博士は中に入ったが、俺は取り残された。これから帰還する」
連絡を待っていたように「分かった、そのまま屋上に向かってくれ、こちらも全員屋上に退避する」と、ダーナの声が返ってきた。
もっともオバルは、ダーナの返事を最後まで聞いていなかった。ヘルメットの隙間から猛烈な熱気が侵入してきたのだ。耐熱服の継ぎ目、胴回りも、もう耐え難い熱さだ。
オバルは端末を放り出すと、背中を押さえながら、腰の高さまで達した水を掻き分け、管制室のある建物へと急いだ。
オバルが外壁の内側の通路にほうほうの体で辿り着いた頃、質量転換炉のハッチの内側では、ハン博士が荒い息をついていた。
炉の外殻第一層の間隙は闇の中にあった。重苦しい耳鳴りのようなうなりが、楕円形の不定形な洞窟状の空間に充満している。ハン博士が乱れた息を整え、棒灯にスイッチを入れると、目の前に、炉の外殻内側の壁面が浮かび上がった。
その瞬間、ハン博士は思わず息を呑んだ。
有機体に似た質感の壁に金属石の塊が埋め込まれたような、デコボコとした壁面が目に飛び込んできたのだ。まるで生物の細胞の表面をどんどん拡大して、脂質の平原に糖質やタンパクの塊が埋もれているような、そんな表面だ。管制室のモニターでいつも目にしていた炉内の映像とは、あまりにも印象が違う。見える範囲、どちらの方向に棒灯の明かりを差し向けても、同じ質感の壁が続いている。
興奮を抑え、耐熱服に取り付けられた環境モニターの表示計に目を落とす。温度は四度。大気組成も炉外と同じだ。音波は低周波にピークが来ている。電磁波、放射線ともに、ごく微量しかキャッチされない。
四度……、なぜ四度だろうと思う。
人は有機物の化学反応の塊のような存在ゆえに、体温を三十度半ば保っている。人は有機物の動く化学反応炉といってもいい。生命である人にとっての快適温度があるように、質量転換炉にとっての快適温度というものがあるのだろうか。
ハン博士は、動きの制約される耐熱服を脱ぐと、懐から防水布に包まれた四角い包みを取り出した。愛用の魔鏡帳である。
魔鏡帳の画面に炉の構造図を呼び出す。炉の内部は、生物の細胞のように隔壁によって仕切られている。機械的な殻状構造ではなく、有機的に分岐した泡殻構造である。
人が中腰で歩ける空間は、ハッチから十メートル弱で、その先は匍匐前進をしなければならないような穴が四方に分岐する。その分岐した穴も、三次元の構造図で確認した限りでは、人が入り込めるのはせいぜい数メートルがやっと。その間隙のなか、外殻のハッチから右に六〜七メートルほど進んだ辺りの壁面に、炉内の保全管理を行う自動機械の収納ユニットが並んでいるはずだ。少なくとも構造図ではそうなっている。
棒灯で穴の右奥を照らすと、博士は横になって、にじるように奥へ進んだ。
移動しながらも、博士は映像パネルに呼び出した設計図と、自分が目にしている現実のギャップに少なからずたじろいでいた。人の体の解剖図をいくら眺めても、現物の内臓を想像することは不可能だろう。それと同じことで、模式図はあくまでも模式図、それがこの炉の内部にも当てはまる。実際に目にする外殻の間隙は、まるで巨大な生物の内臓にでも入りこんだようにしか見えない。
その印象は、自動機械の収納されている壁面を捜し当てて更に強まる。壁面を棒灯で照らすと、蛸壺のような窪みが無数に並んでいた。一見して穴に蛹か何かが埋もれているように見える。と、その蛹の一つが蕾の開くように裂け、中から棒灯の照明に誘われるようにして、キラキラと光る何かが出てきた。
銀色の編目状のものが被さった親指ほどの透明な結晶体である。編目の一部は、そのまま下に伸びて、蜘蛛の足のように関節で折れ曲がる足となっている。
イメージとしては、一応生物の範疇に入る。だが全くの生き物であるかというと、それも……。編み目模様を良く見ると、電子基盤の回路図に似ている。
その結晶体を腹に抱え込んだ蜘蛛のような物体は、ゆっくりと細長い足枝を壁面の窪みを探るように這わせながら移動、間隙の横穴へと潜り込んでいった。
いったい今自分が目にしたものは、機械なのか、それとも生物なのか。
この炉内の保全を司る自動機械は、自分が知っているような金属でできた機械仕掛けの装置ではない。あえていえば、それは有機体の機械というべきか。結晶体が制御装置で、細長い足枝が移動と作業を行うための行動器だろう。もっとも機械というものは、ある特定の目的に照準を合わせて作られる物だから、そういう意味では、この有機体の装置も機械と言って良いのかもしれない。
壁面の窪みには、有機体の自動機械を収納した蛹が幾つも埋もれている。さまざまなサイズがある様子は、卵鳥の腹腔に各成長段階の卵が収まっている様子を彷彿とさせる。この炉は自分の体を保全管理する整備士を自分で育てているのか……。
何とも不思議な気がする。
元々、質量転換炉は、外見からしても、通常の機械のイメージとかけ離れたものだ。
実際に内側に入ってみて、その印象が強まる。炉自体が一つの生き物のように思えてくる。意志決定を司る制御装置を持ち、情報を伝えるケーブル網を持ち、それを稼動させるための動力を生み出す炉心という胃や腸も兼ね備えている。乾壺はエネルギーを蓄える脂肪層とでもいったところか。もし質量転換炉が剥き出しの内臓のような外観ではなく、動物のような柔らかな体皮や体毛に包まれ、かつ移動の手段を備えていたら、生き物に見えたことだろう。
人が作る機械は、生命を模倣する。
機械や道具の歴史は、素材と機能の多様化の歴史でもあった。石や青銅製の道具から始まり、無数の素材と部品を組み合わせて作られる自動ロボットまで、その多様性は無限に広がり続けた。光の世紀最晩年の機械を見れば、有機素材と金属の融合したもの、あるいは、生命そのものに機械の部品を組み入れたものまで、ほとんどありとあらゆるものが生み出され、実際に使用されていた。光の世紀とは、機械と生命の垣根が取り払われようとする時代だった。
何かを為すという意味においては、機械も生命も本質的に変わりはない。違いは、それが自律的に為されるかどうかということだ。
その自律性の元となる制御についても、一から十まで人が操作しなければならないものは減り、プログラムされてはいるものの、一定の目的を遂行するために機械が自らを制御するものから、多様な環境条件に対応しつつ目的を遂行しようとする、正に生命と言えるような機械までが出現した時代だった。自らが目的を生み出すということを除けば、生命と機械、あるいは生命と道具の境界が曖昧になった時代、それが光の世紀だ。
機械が生命を模倣するのは、それだけ生命が高度な機械だからだ。究極は自らが目的を生みだし、自身の構造を変えながら目的を遂行する機械だろう。
この質量転換炉も、その入り口に立った機械といえるだろうか。
生命も機械も時間の経過とともに必ず劣化する。生きているということは、その劣化を自身で修復する能力を持っているということだ。機械の自立性は、自身の存在を維持する機能を持ち合わせているかどうかということに掛かってくる。炉の泡殻状の間隙を移動しながら保全修復を行う有機体の自動機械は、まさにこの炉の自立性を裏づけるものだ。
ハン博士は、自動機械の蛹を収納した壁面に手を近づけた。
と、保全修復装置の入った蛹室の周囲がぐっと狭まり、蛹を包み込むように覆い被さった。まだ手が触れていないのに……。
人の体からは微弱な電磁波が発生している、それを感知しているのかもしれない。まるで未熟な修復装置の幼胎に触れないでくれとでも、言っているかのようだ。
ハン博士は不思議な感慨を覚えていた。
質量転換炉、たとえこれが古代人の手によって作られた高度なエネルギー発生装置、機械であるとしても、これは明らかに意志を持った生命に等しい存在だ。
ハン博士は嘆息すると共に、体が冷えてきたことに気づいた。
炉の内側に侵入した時の興奮が冷めてきたのだろうか。そう思いながら何気なく自分が脱いだ耐熱服のセンサーパネルを見て、あることに気づいた。外殻内の酸素濃度が、最初に数値を確かめた時よりも低くなっている。
侵入者に気づいて、その対策に酸素を抜いている?
まさか……、
ハン博士はもう一度、閉ざされた外殻の隙間を棒灯で照らすと、奥に入り込めそうな場所を探した。二往復する。だがやはり、自分がこれ以上奥に入れる隙間はない。博士としては、自動機械の制御装置に魔鏡帳を接続、プログラムを書き変えて、粒子パックを取り出す作業をさせようと考えていた。しかし有機体の自動機械では手の出しようがない。
棒灯を消し、魔鏡帳の電源を切ると、博士は暗闇の中で胡坐をかいて座った。そして目を閉じた。炉が稼動を続けている低周波の振動が体に伝わってくる。
完全に密閉された空間であるから、自分がここで生きていることができるのは、それほど長くはないだろう。
しばらくの間、ハン博士は炉を止める方法が何か残されていなか、そのことを考えていた。しかし炉の低周波の振動を全身に感じているうちに、想いは炉の事から、子供の頃読んだ本の内容に移っていた。
それは宇宙船の話だ。暗黒の宇宙を旅するパイロットの話……。
何億光年の彼方にある星に向かう際、一番問題となるのは、宇宙船の推進機関を何にするかということだ。話に登場する宇宙船は、光子を後方に放出して推力を得る船だった。宇宙空間を移動しながら、希薄な星間物質を取り込み、物質を光のエネルギーに変えてひたすら遠い星へ星へと旅を続ける。
推進力を得るために、大量の光を如何にして発生させるか、その方法については何も書かれていなかった。それでも、ただひたすら突き動かされるようにして遠い未知の世界を目指すパイロットの心情だけは、強烈に印象に残っている。
故郷の星に別れを告げて、ただ遠い星へ星へと。
子供の自分からすれば、それは空想を楽しむための物語だった。
それが今回実際に質量転換炉から光が放出されているのを目の当りにすると、この古代の炉は、単なるエネルギー発生装置というよりも、推進装置と考えるのが的を得ているのではと思えてくる。辻褄は合う。宇宙空間での使用を前提とすれば、冷却水も燃焼のための酸素も必要としないエネルギー発生装置は、理に叶っている。物質の質量そのものをエネルギーに変換できるなら、希薄な星間物質を燃料として宇宙空間の旅を続けることができる。作り出した光で植物を栽培して食料を作りだし、不要なエネルギーを後方に吐き出して推進力とする。
物質の質量をエネルギーに転換しながら、新たな天地を求めて旅をする宇宙船。
酸素濃度がまた少し下がった。低酸素状態は人の脳に妄想を抱かせやすいと、技術院の精神科の施療師が話していたのを思い出す。
脱いだ耐熱服の前面についている計器を確かめる。周辺の温度は相変わらずの四度。
外殻第一層の温度と炉心の温度は異なる。炉心では、いま百万兆度という猛烈な温度のなか、質量がエネルギーに転換する反応が起きている。ところがほんの数十メートル離れた外殻のこの間隙は、四度だ。熱を封じ込めるために、どのような技術が使われているのか。磁力だろうか、熱で熱を御しているのか、それとも熱を伝えることのない虚空間でも使っているのか……、いやそもそも、本当に炉心はそのような高温の状態にあるのか。古代の文献をひもとくと、低温状態での核力炉も、実用のほとんど一歩手前であったという。
博士の脳の中に、また一つ妄想が浮かび上がる。
このファロスサイトが建造された時期は、正確には特定できていない。
可能不可能の問題を外した上で、もしこれが隕石群の衝突後の時代に作られたものであるとしたら……。
隕石群が降り注ぎ、荒廃した大地の上で、人々は更なる大地の寒冷化という試練に直面していた。急速に寒冷化する地球にあって、生き残った人々は何を望んだろう。それは間違いなく、温かな日差しだ。人は昔のように温かな日差しが天に戻ってくることを望んだ。その望み、願いが、こんな擬似太陽のような物を作らせた。夜に照明を灯させた。いや夜ではない、点灯は昼間であったはずだ。弱くなった太陽の光を補助する装置として、擬似太陽は使われる予定だったろうから。
いや、それはそういう見方ができるというだけだ。
もしこの機械が宇宙船の推進装置として働くなら、そしてそれを大地に据え付けたことに意味があるのだとしたら、人々はもっと本質的な問題解決を目指したのかもしれない。巨大な推進装置を地球の大地に据え付ける。それによって地球自体をほんの少しだけ動かす、太陽の方向にだ。そうすれば地球の寒冷化の問題は簡単に解決する。
まさかと思う。
低酸素状態と暗黒の低周波が、疲れた科学史家の脳に妄想を見させているのだ。
しかし、とも思う。その妄想こそが、人類の文明を生み出し、人類の歴史を作ってきた。暖かな夜を夢見る心が、火を手中にさせ、鳥のように空を飛ぶ夢が飛行機を生み出し、人の分身を夢見る心が人型の自動機械を作り上げた。
ハンは凍える手をポケットに突っ込んだ。マッチが入っていた。
マッチを擦る。小さな炎だ。だが何と魅力的なものだろう。全ての科学は、この赤い炎を人類が手に入れたことから始まったに違いない。
炎が人類に妄想を抱かせたのだ……。
次話「撤収」