羊背山
羊背山
反対派の三人と助け出された人質八名の一行は、反対派の仲間の待つ岩山を目ざし、黙々と氷原の行軍を続けていた。
その足取りが遅くなっていた。年配者が多いために、疲れの出てきたことがある。しかし一番の原因は、氷の表面が融け始めたために、足元が不確かになってきたことだ。
陽炎が立ち、立ち昇る湿気が靄となって視界を妨げ、羊背山手前の目標としていた岩山が霞んで見えなくなる。午前三時、氷上を歩き始めて八時間、頭上に天の照明が灯ってからでも四時間が経過している。
すでに衛星通信の無線機は、酷い兇音で使い物にならなくなっていた。スポット域までもが兇電の嵐に見舞われ、全く交信ができない。
ロズネは目視による岩山の確認が難しくなったと見て取ると、ザックの中から手の平サイズの箱形の機械を取り出した。磁気を用いた古代の位置測定機である。いったい磁気でどのように位置が特定できるのか不思議だが、ロズネはそのことを深くは考えなかった。古代の機械で構造や理論が分からないものなど腐るほどある。
通信機が兇電によって使えなくなることは、ある程度予想していたことで、そのことや雪で視界不良となることを踏まえ、ロズネはこの位置測定機を反対派の本部から借り出していた。あらかじめ目的地の緯度経度を入力しておけば、測定機の画面に自分たちのいる位置と進むべき方位が矢印で表示される。それに機械の側面から進むべき方向にレーザー光を飛ばすこともできた。
今までは目標の岩山が見えていたので、わざわざこの機械を使う必要はないと考えて、ザックに入れたままにしてあった。なにせ貴重な機械、反対派の本部からは、壊したら罰金ものだと、冗談交じりの脅しを掛けられていた。
この測定器、実際に使ってみると使い方は至極簡単、方位磁石のように針が揺れることもないし、目的地までの距離も指間単位で表示される。ロズネはその位置測定機で、靄に埋もれた羊背山の方位を確認しながら歩きだした。
気温は急速に上昇、すでにこの時期、この地では考えられない、氷点下を上回る温度になっている。零下数十度の世界で暮らしていると、零度でも暑いくらいに感じる。それでも、まだ零度を少し超えた程度。問題は沸き立つような湿気と、強烈な日差しだ。
遮るもののない氷原で強い日差しを浴びていると、気持ちを集中していないと、すぐに頭がのぼせてしまう。湿気でゴーグルが曇り、外すと強烈な日差しに目が開けていられない。照り返しの眩しさで目が痛みを覚え、日差しを受けて肌が焼ける。
この強い日射しを避けようと、脱いだ上着やセーターを頭上にかざす。
一方、列の最後尾を行くウィルタは、めまいがしそうなほどの湿気に、回復しかけていた胃の具合が悪化、吐き気がぶり返していた。
ウィルタが腹部を押さえているのを見て、ダフトホが大丈夫かと声をかける。その気遣いに、ウィルタは問題ないとばかりに手を振った。
ダフトホは、疲れの見える巻毛の年寄り夫婦を交互に背負って歩いていた。六十を過ぎた老夫婦には、歩くことよりも強い日差しと湿気が堪えるようだ。
気温と湿度は確実に上昇を続けている。湿度はもうほとんど飽和状態。出発時のロズネの説明では、明け方までに仲間の待つ岩山に到着できるという話だったが、このままでは、岩山への到着が大幅に遅れるのは、避けられそうにない。
午前四時、天の照明の点灯から五時間。歩き初めてから九時間が経過。
みな足取りがどんどん重くなってくる。吐く息も荒い。
唯一元気で気を吐いているのがピーナッツ目の小男だ。部屋に閉じ込められていた際、映像パネルで古代の映像ドラマ見ていたらしく、そのストーリーを筆ひげ相手に延々喋り続けている。ただ当初は話の相手をしていた筆ひげも、相槌を打つことを止め、一歩歩くごとに肩で大きく息をつくようになった。
息苦しいほどの湿気が辺りを覆っていた。
やがて巻毛の老夫婦が膝を着いてしまった。ロズネが駆け寄り励ますが、そのロズネ自身、足元がふらついている。
気力の糸が切れたのか、連鎖反応のように、残りのメンバーもその場にしゃがみこんでしまう。仕方なく休憩を入れることに。上空からの捜索隊を想定して用意した白い布を、一行の頭の上に広げて日差しを避ける。
目的の羊背山まであと五キロ、一時間半の行程である。ロズネは時計を見ながら、五分ほどすると腰を上げた。休み過ぎると立ち上がるのが億劫になる。ロズネに励まされて、残りの者も、重い体を引き上げるように立ち上がった。歩きたくなかったが、足元の濡れた氷原で、それも灼けつく日差しの下でじっとしているのも、苦痛以外の何ものでもなかった。とにかく早く羊背山とやらに到着して、日の当たらない場所で横になって休みたい。その思いだけで、みな重い腰を引き上げた。
また氷上の行軍が始まる。
日差しがこれほど恨めしく感じられたのは、みなが皆、始めての経験だった。日の光とは、凍えた体を温めてくれる天の恵みであり、凍てつく夜に夢見る憧憬そのもの。それがほんの少し照度が強くなっただけで姿が一変。人が享受できる日差しの強さが、ほんの狭い範囲でしかないということに、みな初めて思い至っていた。
靄を掻き分けるような行軍になっていた。
だが頭上を見上げると、それほど靄っていない、靄で覆われているのは地表付近だけなのだ。せめて頭上百メートルまで靄があれば、この暑い日差しも遮られて歩きやすいのにと、つい愚痴を零したくなる。
歩きながらロズネは、これだけが命綱だなと、手の中の位置測定機を両手で撫でた。その手が濡れる。すでに衣類は靄を吸って濡れ雑巾。湿気を吸って重くなった衣服が体の動きを縛り、重石のように体を押さえつける。
不快な湿気と日差しに抗いながらひたすら歩く。
ロズネは百メートル歩いては、後ろに付いてくるメンバーに向かって、器械に表示される残りの距離を、声を張り上げ伝えていた。少しでも歩く励みになればと思ってだ。ただ声を張り上げようとして大きく息を吸い込むと、咳き込みそうになる。吸入をしながら歩いているようなものなのだ。
さらに、百メートル。今度も声を上げようとして、ロズネは出しかけた声を呑み込んだ。画面に表示された数値が可笑しい。極端に大きな数字を示したかと思うと、正常値に戻る。また、その逆の場合もある。故障だろうか……、
歩きながらロズネが首を捻っていると、後ろからペコールが早足で追い付いてきた。ロズネの様子を見て、何か不具合が起きたのではと思ったらしい。
そのペコールが、ロズネの手にした装置を覗き込むや、表情を固くした。
ペコールは技術復興院の出で、機械に素人のロズネよりは各種装置の扱いに慣れている。
すぐに装置の異常に気づいたペコールは、ロズネから位置測定機を取り上げると、機械の状態を確認。おそらくはと前置きした上で、極端な湿気のために機械の内部で結露が発生、回線がショートして機械が誤作動を起こしている可能性が高いと、問題を指摘した。
密封した容器の中で乾燥させればいいのだが、もちろん、そんな容器の持ち合せも、ましてや乾燥剤などという気の利いたものも、あるはずがない。乾いた苔一つ手に入る場所ではない。仕方なく応急処置として、ザックの中に残っていた乾いた布で装置を包み、これ以上水気を吸わないようにして、しばらく様子を見ることにする。
また念のために、ペコールが所持していた磁石と、位置測定機を比較する。と、それぞれの示す方位がずれていた。方位にして四十六度。どう判断して良いか分からない違いだ。判断を下しかねたまま、当面は磁石を頼りに進むことにする。
気温は上がり続けている。
しばらく歩いて、ロズネが位置測定機を包んだ布に触れると、すでにその布も湿気を吸って、じっとりとした触感に変わっていた。
ホワイトアウトのような靄の中、互いを見失わないように間合いを詰めて、一団となって進む。十五分歩いては軽く休憩を入れるリズムで歩くが、五分も歩くと息苦しくなってくる。暑さと湿気によって猛烈に体力を奪われていた。
休憩から歩き出して数分、突然ダフトホに背負われていた巻毛の老婦人が悲鳴を上げた。何事かと事情を聞くと、大事な物を落としたという。胸に吊るしていた葉刻七宝のロケットで、中に病気で亡くなった娘の写真を入れてある。ダフトホに背負われてうつらうつらしている間に、鎖から外れて落ちてしまったらしい。先程の休憩の時にはあったというから、この五分ほどの間に落としたということになる。
今なら見つかると言って、巻毛の老婦人はダフトホの背を下りると、靄の中をヨタヨタと歩きだした。慌ててロズネが腕を掴んで引き止める。
しかし、よほど大切な物らしく、老婦人はロズネの手を振り解いて歩こうとする。
二十メートルも離れれば、靄で姿が隠れてしまう。それに氷の表面が融けて足元はどこもビショビショ、どこを通ったか跡も残らない。おまけに音までが靄に吸い取られてぼやけて聞こえるのだ。そんななか、集団を離れて一人で歩き出せば、同じ場所に戻ってくるのは不可能だ。
代わりにダフトホが「俺が行ってこよう」と名乗りを上げたが、それをロズネが「一人で行動するのは危険だ」と両腕を広げて制する。ロズネの本音としては、老婆が一人いなくなるのは構わないが、スタッフが欠けては困るのだ。
駄々を捏ねるように歩き出そうとする老婦人を、ロズネは強引にその場にしゃがみ込ませた。そして落としたロケットは、都に戻ってから自分が捜しにくるからと説得を始めた。
老婦人に位置測定機を見せて、この機械は地球上のどんな場所も、指の幅程度の誤差で計測することができる。だから位置を記録しておけば、都に戻ってからでも間違いなくもう一度同じ場所に戻って来られる。今はとにかく都に帰還して体を休め、それからアイスバイクに乗って捜しに来るのが最良の方法だろうと。
ところが老婦人は納得できないと頑固に首を振る。老婦人としては、自分が娘の形見を落としてしまった事が許せないのだ。
見兼ねたように、銀黒髪の婦人が提案した。
「私たちはここで待っているから、誰か元気な人が位置測定機を持って、少し引き返してみればいいでしょう。その機械は通った経路を記憶しているはずだから、道を辿るのは簡単なはずよ」
技術院で事務を取っていたという銀黒髪の婦人は、機械に関して相応の知識があるようだ。確かに、都に帰還してからもう一度捜しにくるような面倒なことをせずに、装置でルートを辿れるというのなら、いま捜しに行く方が手っ取り早い。この五分ほどの間に失くしたというのであれば、それほど時間をかけずに捜し出せるだろう。それも老婆ではなく、元気な者が捜しに行けば、往復でも時間はかからない。その間、残りの者たちは休んでいれば良いのだ。疲れが出ている年配の者にとっては、ちょうどいい休憩タイムになる。
ところが婦人の提案に対して、ロズネがなかなか返事をしない。
焦れた鷲鼻が「機械を貸せ、俺が行って」と、ロズネから位置測定器を取り上げた。
「俺も元気だ、付き合うぜ」と、ピーナッツ目の小男が鷲鼻の手にした機械を覗き込む。
「だめだ、君たちはここにいてくれ、行くのは俺が……」
慌ててロズネが測定機を取り戻した時には、鷲鼻とピーナッツ目の二人は、画面のエラーらしき表示に気づいていた。
銀黒髪の婦人の提案はロズネも充分理解していた。しかし位置測定機は先程から頻繁にエラーの表示を出すようになっている。正確に歩いたルートを辿れるかどうかの確証が持てない。だからロズネとしては、自分が捜しに出て、一行から姿の見えない地点で時間を潰し、老婦人には残念ながら……と言うつもりにしていた。ただそれでも、できれば捜しに行かずに巻毛の老婦人を説得できないか、その理由を考えていた。
ロズネ自身、この異常な熱気と湿気で疲労が溜まって、余分な体力を使うことを惜しんだ。そのちょっとした迷いの隙を突かれた格好になった。
「その機械、壊れてるんじゃないか」
鷲鼻が疑り深そうな目をロズネに向けた。
ずばり指摘され思わず答えに窮したが、ロズネは気を張るように鷲鼻を見返すと、
「今し方、方位を確認しようとしたら、エラーが出てるんで、操作を誤ったかなと思ったところだ。なんせ、この機械を使うのは始めてなんでね」
スイッチの試し押しをしながら弁明するが、いかにも苦しい言い訳だった。
そのロズネの狼狽を見透かすように、鷲鼻が冷ややかな視線をぶつけた。
「嘘だろう、もうずいぶん前から、おまえさん、そっちの黒眼鏡と、機械を見ては何か相談をしていた。あの頃から調子が悪くなっていた、そうだろう」
決めつけたような鷲鼻の口ぶりに、心外だとばかりにロズネが睨み返す。だが言い返そうにも言葉が出てこない。
言葉に詰まったロズネに代わってペコールが事情を説明しようと前に出る。
その時、「おーい、こんなところに帽子が落ちているぞ」と、筆ひげの間の抜けた声が、少し離れたところで上がった。小用のため脇に逸れていたようだ。
十メートルほど離れた氷の褶曲の反対側で、筆ひげの男が毛糸の防寒帽を振っている。銀黒髪の女性が被っていたものだ。
「あら、いつ落としたのかしら」
愛敬のある声で言って頭に手を伸ばした銀黒髪の婦人と、ロズネとペコール、そして鷲鼻の四人が、直後、ギョッとして顔を見合わせた。
小用を済ませた筆ひげが、拾った帽子を振りながら嬉しそうな顔をして戻ってきた。
ところがロズネたちが自分を睨んでいるのを見て、列から離れたことがいけなかったかと、申し訳なさそうに頭をかく。だが問題はそこではない。しばらく前に落とした物を、今この場所で見つけたということ、それは一行が方向を失って歩いているということだ。
ペコールが、まさかという顔で、「磁石で方位は確認していたんだろ」と、ロズネに詰め寄る。鷲鼻も「どういうことだ」と、口を突っ込む。
しつこい鷲鼻にロズネが声を荒げた。
「機械の調子が悪いのは確かだ。だから、念のために磁石で方位を確認して歩いていた」
「ならどうして、一度通ったところに戻ってる」
「知るか、そんなこと!」
吐き捨てるように言ったロズネに、銀黒髪の婦人が恐る恐ると言った体で、「地磁気の局所的な異常のことをご存じですか」と問いかけた。
なにを唐突にという憮然とした顔のロズネに、婦人が冷静な口調で話を続ける。
その婦人の説明を聞いているうちに、ロズネだけでなく、ペコールや他の人たちの顔までが青ざめてきた。
二千年前に地球に降り注いだ隕石のなかに、極端に磁性の強いものがある。希少な隕石のため事例は少ないが、この強磁性体の隕石が落ちている場所では、磁気異常の現象が現れる。それが方位磁石を頼りに旅をする人を惑わすことがあるので、地図には磁気異常のポイントが明記される。それはこの時代の者なら誰もが知っていることだ。ところが、地図に記された場所以外でも、時に磁気異常が発生。多くは川沿いで、強磁性体の隕石が他所から流れてきた場合などに、それは引き起こされる。
さらに、その河川沿いの磁気異常の特殊な事例として、氷床の底を流れる川の場合がある。余りに希なケースであるため、つい忘れてしまうが、氷床下に川が流れている場合でも、理屈としては同じ現象が起きる。
その自然の引き起こす気紛れな悪戯としか言いようのない事が、数年前に起きた。銀黒髪の婦人の従兄弟は、そのことが原因で遭難しかかったという。
考えられないことではない。反対派の仲間が破壊した揚水所は、氷床の底を流れる川が露出した場所になる。氷床下の川の流路は、未調査が当たり前。いま自分たちが足を踏みしている氷の下に、川が流れていても可笑しくないのだ。
ロズネの顔が歪んだ。もしそうだとすれば、自分たちが全くあらぬ方向に歩いていた可能性が出てくる。
ホワイトアウトのように頭の中が真っ白になる。
靄で四方八方何も見えず、方向も位置も目的地からの距離も、何も知ることができない。歩いた距離で考えれば、羊背山までは、まだ確実に五〜六キロはある。信号弾はあるが、この濃密な靄では使いようがない。
目を閉じ唸るように考えながら、ロズネはザックの中に突っ込んでいた通信機のことを思い出した。この近接した距離なら、兇音混じりでも通信が可能かもしれないと思ったのだ。すぐに通信機を取り出す。が、じっとりと濡れた触感の通信機は、スイッチを入れたとたんに嫌な音が鳴って電源が切れた。
頭を抱えたロズネを、鷲鼻がここぞとばかりに責めたてる。
「だいたい君たち反対派は、サイトの危機管理対策が十分でないことを計画反対の論拠としていただろう。それが何だ、自分たちだって、いざという時の対応ができてないじゃないか」
「想定外の事態を引き起こした張本人は、サイトだ!」
ロズネが開き直ったように言い返すが、構わず鷲鼻が言い寄る。
「問題はこの後どうするかだ。無闇に歩き回っても仕方ない。仲間が待機しているという岩山が見えるところまで、誰かスタッフを一人先に行かせるべきじゃないか」
「しかし、そのスタッフが、どうやって残りの者と連絡を取る」
追い詰められた表情のロズネの耳元で、今度はピーナッツ目の小男が喚く。
「俺は、サイトに閉じこめられたままでも不都合はなかった。朝から晩まで、古代の映像ドラマを見放題だったからな」
「だったら、どうしてこの人たちに付いてきたの。サイトに残っていれば良かったじゃない。今からでも施設に戻ったら」
きつい調子で銀黒髪の婦人がやり込めるが、ピーナッツ目は婦人を無視、「ここにいて、もっと靄が深くなったらどうする」と、ロズネを急きたてた。
「そうだ、ますます身動きできなくなるぞ」と、筆ひげも同調。
一行から責められ押し黙ってしまったロズネの横で、何か思いついたのだろう、ペコールがパンと濡れた手を打ち鳴らした。
「リーダー、ここで待つことにしよう。確か、臨界実験での炉の稼動は、六時間を予定していた。計画通りなら、じき点灯からその時間になる。実験が終了すれば、この人工の照明も消え。そうなれば気温が下がって靄も晴れるはずだ」
ハッとしたようにロズネが顔を上げた。
暑さと湿気でボーッとすると、意外と簡単なことを忘れてしまう。それに天の照明があまりに想像を超えた出来事だったので、照明が消える可能性のあることを忘れていた。
「なら、外套を着る準備をしておかなくちゃ」と、銀黒髪の婦人が声を弾ませる。
ペコールが腕の時計を鷲鼻の鼻先に突き出し、「これは防水の時計、あと四十分ほどで、その六時間です」と、宣言するように言った。
照明が消えることを期待して、四十分間をここで待つことにした。
ところが、そのおかげで、また巻毛の老婦人が、娘の遺影の入ったロケットを捜しにいくと言いだした。ただホワイトアウトの状態は、さらにその度合いを増している。誰が捜しに行こうと迷うのは必至だ。スタッフだけでなく皆に説得されて、巻毛の老婦人は気が抜けたようにがっくりと腰を落とした。
たとえ天の照明が消え靄が晴れたとしても、位置測定機が使えなくなった今では、元のルートを辿ることは困難だ。おまけに天の照明が消えて夜の闇が戻ってきたら、それこそ見つけ出すのは不可能。気落ちした老婦人を老夫が慰める。
その老夫に、ウィルタが小声で話しかけた。
頷きながらウィルタの話を聞いていた老夫は、ウィルタが話し終えると、ロズネに相談してみると言って立ち上がった。
老婦に代わって、ウィルタがロケットを捜しに行くと申し出たのだ。ただ何のあてもなく靄の中を歩けば、迷って同じ場所に戻って来られなくなる。そこでセーターの糸を解し、その糸を命綱にして捜しに行くことを提案した。巻毛の老夫から、その申し出を聞かされ、ロズネもそれで老婦人の気が休まるならと、首を縦に振った。
ウィルタがセーターの端糸を解し、先端を老婦人に手渡す。端糸ごとしがみつくようにウィルタの小さな手を握り締め、老婦人がよろしくお願いしますと何度も頭を下げる。
「きっと、見つかるから」と、老いた婦人を元気づけるウィルタの背に、老夫が自身のセーターを脱いで回しかけた。糸が足りなくなったら、このセーターの糸も解して使ってくれというのだ。
見ていたダフトホが、老夫をとがめた。
「だめだめ。ご老体。そのセーターは自分で持ってろ。寒くなった時に困るだ。使うなら俺のセーター、俺は寒さにゃ滅法強え。それに俺の特大のセーターは、普通のセーターの五倍は糸を使ってる」
ダフトホが自分のセーターをウィルタの背に巻きつける。その石苔模様のセーターを首元で結び直すウィルタに、ロズネが強い口調で言い聞かせた。
「いいか坊主、靄が晴れたら直ぐに出発だ。合図はダフトホに叫ばせるから、声が聞こえたら走って戻ってこい、分かったな」
形だけ頷いたウィルタは、老婦人に「おばあちゃん、ちゃんと糸を持っていてね」と声を掛けると、糸を解しながらゆっくりと靄の中に歩きだした。
「解した糸は、回収しなくてもいいだやーっ!」
ダフトホが景気をつけるように大声を上げる。
その霧を吹き飛ばす地響きのような声に、「フン、セーターを解して、どれだけの距離が捜せる、見つかる訳がないだろう」と、鷲鼻が馬鹿にしたように唾を飛ばした。
その鷲鼻の罵りを気にするでもなく、ダフトホは靄に埋もれていくウィルタの背に向け声を張り上げる。
「おーい、見つかっただかやーっ!」
「まだまだ、これからだよ」
もう声が靄に反響して、ふやけた音に変わっている。
その音が靄で反響するのを楽しむように、ダフトホは「見つかっただかやーっ!」と呼びかけ続ける。それに答えるウィルタの声が、どんどん小さくなっていった。
光柱が立ち上がって、間もなく六時間。
サイトの室内に照明が戻った。配電ルートの関係上、褐炭発電ユニットの電力を管制室のある建物に振り向けるには、相応の手間と時間が必要となる。そのため応急の措置として、ジャブハの指示で別の方法が取られた。
先にサイト内の温度管理は大気の循環、つまり空冷で行われていると述べたが、正確には、空冷は八割。では残りの二割は何か。春香の時代に普及していた太陽光発電は、光のエネルギーを電気に変換する半導体を用いていた。その半導体の中に、赤外線領域のみを利用するタイプのものがある。赤外線つまり熱線である。熱を電気に変換するのだが、これは見方を変えれば熱を吸収するということだ。
サイトでは構造上、大気の循環による温度管理に適さない場所に、この赤外線利用の熱電変換素子が配備され、赤外線の変換によって生み出された電力が、そのまま冷却システムの電力に用いられるシステムになっている。この電力を管制室に給電できるよう配電ルートに手が加えられた。
明るくなったサイトの管制室では、スタッフ一同が、息を詰めて正面のスクリーンパネルに映し出された質量転換炉を注視していた。
春香からヴァーリの警告を伝え聞いた後、ダーナは直ちに炉の停止を命じた。
用意されていた緊急停止のプログラムが発令。しかしその命令は、全く炉に受け入れられなかった。仕方なく、六時間稼動後に自動停止という設定プログラムを書き替えることに。ところが作業を始めてすぐに、自動停止を数時間早めるだけでも、膨大なプログラムの手直しが必要であり、それを完了する頃には、当初の試験稼動の停止時刻を大幅に超過してしまうことが判明した。
当然ではあるが、そのまま当初の稼動停止時間を待つことに。
プログラムの終了時刻まで、秒読みの段階に入った。
画面上の時間表示が一桁になり、ゼロを切り、そのまま秒を刻み始める。
一分、二分……。質量転換炉の上面から立ち上る光柱に変化はない。眩しい光芒を天に向かって伸ばし、世界は真昼のままだ。
管制室のスタッフの喉元に、抑えていた嫌な予感が込み上げてくる。
ダーナが命じた。
「緊急停止のプログラムを、もう一度、入力しろ」
ジャブハが操作盤のキーを打つ。指令自体は、設定したものを呼び出すだけでよい。
すぐにジャブハから「準備できました」と、返答。
「入力しろ」
キーを打つ。しかし変化はない。こちらからの指令が届いていないのか。
「もう一度やってみろ」
すぐに「再入力完了」の声。
その言葉が、虚しい余韻を管制室に響かせる。
どうしますかとばかりに、ジャブハがふり返ってダーナを見る。その目が管制室隣の予備室のドアに向けられる。体調の悪化したハン博士は、看護士付き添いの下、予備室で横になっている。博士に意見を仰いではというのだ。
ダーナは、先ほど博士が血の気の失せた顔で倒れたのを見ている。ジャブハに向かって首を振ると、「お前の判断に任せる」と、決断を促すように背中を叩いた。
ジャブハが緊張した面持ちで操作卓に手を置くと、モニターの画面に向き直った。
通常の発電施設であれば、物理的な手段で稼動を停止させることができる。だが質量転換炉は密閉された装置で、今のところその制御は、管制室からの電気信号によってしか行うことができない。それも厳密に言えば、管制室というよりも、情報処理室の演算装置に組み込まれた制御回路と言った方が正しい。
だから情報処理室の電源を落とせば、炉は制御機能を失って停止する。しかしながら、それは停止は停止でも、自動航法で空を飛ぶ飛行機の制御装置の電源を切るのと同じで、行き着く先は失墜である。大地の上にあっても、巨大かつ複雑なエネルギー発生装置というものは、空を飛ぶ精密機械のようなもの。その停止には、細心の注意と複雑多岐に渡る手順が必要となる。スイッチ一つという訳にはいかないのだ。
停止作業というのもまた制御、そしてサイトほどの巨大かつ複雑な施設を制御し、司るのは、やはり情報処理室の演算装置しかなかった。どだい人が計算機片手に操作できるような世界ではない。
質量転換炉は稼動を止めることなく、再度送られた緊急停止の命令を無視して、光を上空に送り続けている。なぜ炉に管制室からの指令が届かないのか、それとも届いてはいるが、炉がその指令を受け入れないのか。考えられることは……。
質量転換炉の内部には、予備の制御装置が装備されている。それは外部の制御装置本体にトラブルが発生した時のことを考え、自力で代替制御ができるようにと設置されたものだ。サイト内に残された資料の中には、そう記されている。つまり、管制室下の制御装置本体からの指令を拒否して炉が稼動を続けているということは、補助制御装置の指令が制御装置本体の指令よりも優先される状態になっているということ。見方を代えれば、質量転換炉が自力運行に入っていると解釈することもできる。
なぜそうなってしまったのか。
そもそも制御機能の優先順位は、外部の制御装置にあるはずで、いわば管制室の制御装置が母親で、炉内の制御装置は子供のようなものだ。その母親からの命令を、子供が拒絶、勝手に自分の考えで走り回っている。
もしかして、二つの制御装置の関係を逆転させたということが、古代人の娘の伝える、ジュールの罠ということになるのか。なら、どうにかして、その指揮権を取り戻さなければならない。
ジャブハは、眉間に皺を寄せて考えていた。
ハン博士に意見を仰ぐことが難しい状況では、統括部長の自分が判断を下さなければならない。一介の電気技師に過ぎない、この自分が……。
ジャブハは軽く身震いをすると、意を決したようにブースの同僚たちに呼びかけた。
「見ていても仕方がない、どんな形でもいい、炉内の補助制御装置に対して、こちらの指令で届くものがあるかどうか、それを調べてくれ」
指揮系統の順位をまずは確認することだ。
ジャブハの指示で、炉内の制御システムを司る補助制御装置に向けて、様々な形の司令を送り、反応が確かめられる。
その作業をしている最中、都の評議会本部からダーナに連絡が入った。
大臣のズロボダからだ。都の随所で雪や氷が融け出している、天の照明が強過ぎるので弱くしろ。それに照明を何時に消すのか、その正確な時間を教えろという。
準備ができ次第照明は消しますと言って、ダーナは大臣がまだ何か話そうとしているのを、いま手が離せないと言って強引に断ち切った。
指先が食い込みそうなほどに通信機を握り締めたダーナの前では、ジャブハがブースの同僚と悲壮な顔を突き合わせている。管制室、否、階下の制御装置本体からの命令は、一切が受け付けを拒否された。ジャブハが同僚に檄を飛ばす。
「炉に緊急事態発生の信号を送ってみろ。炉内の制御装置に炉を停止する必要があると、判断させるんだ」
直ちに、サイトに異常事態が発生、施設が機能停止に陥っているとの情報が作成され、転送指示のキーを叩いて炉内に情報を送付。電流による司令は、ほぼ光の速さで回線の中を伝わる。キーを打った瞬間には、情報は炉内の補助制御装置に届いたはずだ。
スタッフ全員が、固唾を呑んで炉の反応を見守る。
ところが、情報を転送すると、転送済の表示が操作盤のモニターに浮かび上がるはずなのに、何も表示されない。指令書はそのままそこに映っている。今度は、ジャブハ自身が、転送指令のキーを押す。と指令書は一瞬にして消え、画面がブルーマットの基準面に変化、あとは、どこを操作してもモニター画面には何も表示されなくなってしまった。
「くそ、受け取り拒否か」
ジャブハのその一言で、重苦しい空気が管制室の中を支配した。
しかし、更にそれを上塗りする事態が発生する。
情報ブースのロンフィアが、長い髪を振り乱しながら統括ブースに走り寄ると、手にしたチャートを差し出した。ジャブハが問う前に、ロンフィアが早口で捲し立てた。
「天に灯った照明の照度が少しずつ強くなっています。照射量がこの六時間でコンマ三パーセント増加。それに照射圏が、毎分半メートルの速さで外部に向かって拡大。それに」
「それに、なんだ」
「核力炉ブロックの放射線量が増加を……」
靄のなか、氷上でロズネが時計に目を落とした。
上空に照明が灯ってから、すでに六時間と十五分が過ぎた。しかし相変わらず辺りは靄に包まれた状態で、気温もまた少し上がったようだ。
みな暑さと湿気に耐えるようにうずくまっている。足元が濡れているので腰を落とすことができないのが辛い。一人元気で喋っていたピーナッツ目も、口を噤んでしまった。
鷲鼻の男がロズネを見て腕の時計を示すが、ロズネは首を振って恨めしそうに上空を見上げた。
横にいるペコールが「どうしますか」と、ロズネに問う。
「あと五分待って変化がないようだったら、出発しよう」
「しかし、方角が……」
ロズネが手元の磁石を指で押さえた。磁石の針の方向が安定しない。きっと銀黒髪の婦人の言うように、氷の底を川が流れ、強磁性体の隕石が転がっているのだ。方角が分からないのでは進みようがない。
「もう少し、様子を見るか」
ロズネが立ち込めた靄に恨めしげな目を向け、「小僧はどうした」とペコールに聞く。
「ロケットを捜しに行ったきりです」
巻毛の老婦人は、セーターの端糸を握り締めたまま、ウィルタの消えた方向をじっと見ている。ダフトホの呼び掛けにウィルタの声が返って来なくなって、かなり経つ。
辿る糸を見失っているのだろうか。ダフトホは呼びかけを続けているが、氷の上にダラリと伸びた糸が、悪い予感をかきたてる。
返事がないのを見て、鷲鼻が憎々しげに頬をひくつかせた。
「ロケットを捜すなんざ口先だけ、今頃、糸を放り投げて、とんずらしてるさ」
相変わらずの口汚い罵りだが、最初は鷲鼻の発言に頷いていた筆ひげも、もう相槌を打たなくなっていた。ウィルタのことよりも、靄がこのまま晴れずに、ここを動くことができなかったらという、その不安の方が気になるのだ。
巻毛の老夫婦だけが、靄の底に伸びた糸を、救いを求めるような目で見つめていた。
ダフトホが立ち上がって、今一度とばかりに、腹の底から声を出して呼びかける。二度、三度。霧を吹き払うほどの大声が、靄をかき回すように反響するが、相変わらず返事は返ってこない。
「ムダムダ、いなくなって清々する。見てると殴りたくなるからな」
苛々が募るのか鷲鼻がまた毒づく。
銀黒髪の婦人が、まとわりつく靄を手拭いで掃いながら、ロズネに提案した。
「リーダーさん、確かあなた、信号弾を持っていたわね。あの少年、迷ってるんじゃないかしら、信号弾を上げて、合図をしてあげれば」
「あんな小僧のために、貴重な信号弾を使う馬鹿がどこにいる」
足元の水を蹴り上げた鷲鼻に、銀黒髪の婦人がやんわりと言い返す。
「あら私が言いたいのは、あの少年に合図するためだけじゃなくてよ。近くに反対派の仲間や、もしかして、都の警邏隊の人たちが捜索に来ているかもしれないから、その人たちに、こちらからも合図を送る必要があると思ったの」
「そんなことよりも、この暑さをどうにかしてくれ、俺は髪の毛がないから、この日差しじゃ脳味噌が湯立っちまう」
ヒステリックな声を張り上げたのは、立ったまま休んでいたピーナッツ目だ。
そのピーナッツ目が頭に翳した手の平を裏返すと、「おっ、風か?」と、首を振った。その様子に他のメンバーも顔を上げる。
言われれば、濡れた体に微かに空気の流れを感じる。
それに、ゆっくりとだが靄が動いている。
風……、そう思った瞬間、全員が立ち上がっていた。
頭上の靄が巻き上がるように動き始めていた。明らかに体に感じる風だ。
風が吹けば靄の吹き払われる可能性は高い。
一行には分からなかったが、強烈な日差しが雪や氷の大地を照らすなか、氷床一帯で大きな動きが起きていた。スポットライトの内側で温められた大気が上昇、大気の底にできた穴を埋めるように、周辺から冷たい大気が流れ込むようになったのだ。
さらにもう一つ、靄で見え難かったが、上昇を始めた湿気を孕んだ大気が、上空で冷やされて次々と雲に変わり始めていた。靄を含んだ風なので見通しは悪い。それでも、このまま風が吹き続ければ靄が晴れる公算は高い。
と予想よりも早くそれが現実のものとなった。
周辺からの風は、均等に流れ込むのではない。舌のように四方八方から暖かい大気の下に潜り込んでくる。その舌の一つが、一行のいる場所に届いた。その瞬間、澄んだ冷たい空気の流れの彼方に視界は開け、氷床とその先にある岩山が姿を見せる。
「あれだ!」とロズネが、氷点下の冷気に胴震いをしながら叫んだ。
かなり距離はあるが、目的の羊背山だ。風は動いている。
左右の靄の壁に挟まれた見通しのいい空間が、みるみる右手に動いていく。
「急がないと、また靄で見えなくなる」
「大丈夫、この風なら靄で隠れても、また現れる」
「とにかく出発だ!」
声を張って号令をかけると、ロズネはもう歩き出していた。
そのロズネに、ダフトホが「まだ、坊主が帰ってきていない」と、後方を指さす。
間髪を入れず「捨てていけ」と、鷲鼻が吐き捨てる。
「しかし……」
「構うことなんかない、あいつは、逃げ出したんだ」
鷲鼻の尖った声を押し返すように、ダフトホが声を張り上げた。
「おーい、行くぞーっ。聞こえてるなら、返事しろや。おーい、行くぞーっ」
「おばあちゃん、そんな紐を捨てて出発しよう」
ペコールが糸を握り締めた老婦人に手を差し伸べ、立ち上がらせようとした時、垂れた糸とは別の方向から人影が現れた。こめかみを押さえ、よろけながらこちらに向かって来る。ウィルタだ。
「こらーっ、急げ、出発するぞっ」
ロズネがウィルタの姿を認めて怒鳴りつけた。
筆ひげとピーナッツ目などは、もうかなり先を歩いている。
とにかく目標が見えている間に、少しでも岩場に近づかなければならない。岩山までの距離をあと半分に詰めれば、たとえ靄に覆われても信号弾が使えるだろう。
老婦人を背負って歩き出したダフトホに、よろけるようにしてウィルタが追い付いてきた。額から左目にかけて手拭いを巻き付けている。そのウィルタが、懐から葉刻紋のロケットを取り出すと、ダフトホの背中にしがみ付いている老婦人に差し出した。
「なんと、あったのかい」
「運が良かった、ぎりぎり糸の届くところで見つかったんだ」
老婦人が頬ずりをするように、ロケットを抱きしめた。
先を急ぐロズネが、最後尾のダフトホに向かって「急げ!」と、腕を振りまわす。
「分かってる。おらあ、歩くのは速えーっ、安心するだ」
底割れするような大声で言い返したダフトホが、「どうしただ、坊主」と、ウィルタの顔を覗き込む。足元をふらつかせているウィルタが気になったのだ。
「うん、ちょっと氷で足を滑らせて額を打ったんだ、でも大丈夫」
「そうか、ならいいが、とにかく良かった。あとは、頑張って歩こうや」
頭に巻き付けた手拭いを手で押さえ、ウィルタは体全体で頷いた。
十分後、一行は再び靄に包まれたが、やがて靄は流れ、また冷たい風の空間が戻ってきた。それからは、生暖かい靄と冷たい乾いた大気が、交互に一行の周囲を過ぎるようになった。慌てなくても、待っていれば見通しの良い乾いた風が吹いてくる。靄の間は休み、乾いた冷たい風の間は目標に向かって足を動かす。
結局、信号弾を使うことなく、サイトを脱出した人質と反対派のスタッフ計十一名は、無事、羊背山の岩山に到着した。岩山では反対派の仲間の一人が、食事とアイスバイクの準備をして待っていた。
待機していた仲間の男は、靄で視界が閉ざされ、通信機も用を為さず、連絡が取れないので心配していたという。
到着した岩山の周囲を、靄と冷たい風がバトンタッチを繰り返しながら流れていく。ただ冷たい風といっても、氷点下七〜八度。その風が止むと、気温は一気に十度を超える。黒々とした岩山全体が、照り付ける光の熱を吸収して周囲の大気を温めているのだ。
岩穴の奥は風が通らず蒸し暑いので、みな岩棚の下に転がりこんだ。
気が張っていたとはいえ、九時間余りも氷の上を歩き続けて体はクタクタである。用意してある食事を腹に入れ、とにかく仮眠を取ることに。みな崩れるように倒れこんだ。
救出した八名が横になったのを見て、ロズネたちスタッフの四人は、アイスバイクの準備を始めた。岩陰にアイスバイクが四台駐機してある。荷橇をつけて人質を分乗させる手筈だ。通信機が用をなさず、サイトや都の状況を掴めないのが気になるが、とにかく仮眠の後、予定どおりアイスバイクで氷床を抜け出すことに。
順調に行けば、明日の午後には氷床を脱出して都に戻ることができる。
仮眠をむさぼる一行の上で、雷鳴が轟きだしていた。
次話「暴走」